2008年5月19日 (月)

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(4)~2008/5/14~

最後のまとめの所の話を致しますけれど、これまで、横田めぐみさんの事件が明らかになってから11年の間、運動に携わって参りました。最初は本当にささやかな運動でございました。そもそも、やるときに、私は、決して積極的な立場でやっていたわけではない。

やはり、今司会をやっている真鍋もそうですが、私ども政治活動を職としていたものでして、社会運動をやるのはどこれだけ大変かということは、多少は身にしみてわかっているつもりでございます。
やるとなれば、お金の問題、人の問題というのがでてくる。どれくらいの支持を受けられるだろうかということが、当然あるわけでして、それを、本当に越えられるのかという思いでこの運動に関わりました。

私自身の感想から言いますと、この運動ほど、やりやすい運動はなかった。
これは、増元さん家族の方もおられるので、こういう言い方をすると大変、非常に失礼な言い方になるかもしれませんが、これだけ多くの方々が、関心を持ってくださるとは正直最初は思っていませんでした。

やはり、これは日本という国は、捨てたものではないというのが私の感想でございまして、それが次第に大きくなったことによって、9.17を迎えることができたんだと思っております。
唯、これは、誰が悪いという話でもなくて、私自身の反省を込めて申し上げれば、あの時、9.17に5人が帰ってきた、それがある意味自分取っても、甘えとか、おごりとかそういうものが出てしまったのではないかということでございます。
運動がほっぱらかしにしていても動いていくものだというような気持ちが無かったかと言うことでございます。

そのあと、特定失踪者問題調査会を作ったわけでですが、ご家族の皆さんには--今日も何人もお見えでいらっしゃいますけれど--大変いろいろ御協力を頂いて参りました。そして「よくやってくださる」というふうに、ご家族の皆さんは言ってくださるんですけれど、我々自身が、そのことに甘えているのではないか。現実問題として、その中でだだひとりとして取り返すことができないような状況でいるわけでございまして、私どもは、やはりそれに対して痛切にその責任を感じなければいけないのではないかというふうに思います。

私自身、<平成18年中に拉致問題を解決する>と言いました。これはもちろん私一人で解決すると言う意味ではなくて、解決するのは、みんなの力でで解決するものですが、しかし、それに携わっているものとして、それが実現できなければ、その責任を取ると言いました。結果的にそれは、実現できなかったわけでございまして、その責任を必ず取らなければいけないと思いますが、現在敵前逃亡するわけにいきませんので、その道筋(拉致解決の道筋)を最低限付けるところまでしてからと思っておりますが、ともかく、今、改めて我々はこの運動がなんなのか、何のためにやっているのかというのを、そしてどうしなければいけないのかということを、本当に考えなければならない時に来てると思います。

5/6のメールニュースを流すまで、私自身も、いろんな事を考えまして、いろんな事を悩んで参りました。
しかしここでやらざるをえないだろうと。これから先、どういうような動きになってくるかわかりませんが、やはりこれから先、様々な動きをしていかなければいけないだろうと思っている次第でございます。
この「いくつかの試み」と書いてあるのは、それ自体はそれほど大きな事ではないのですが、それは、現実問題として事態を動かすための動きを更に本格的にやっていく必要があると確信を致しております。

最近あちこちで、言っていることなんですが、この国というのは、これまで何千年もの間、あるいは何万年もの間になるかもしれませんが、今生きている一億二千万より遥かに多くの方々が、生まれて死んで、生まれて死んでと言うことを、続けて参りました。この地には、又これから先、我々の子孫が生まれて死んで、又生まれて死んでというのを繰り返していくのだろうと思います。
だから、今、生きている我々は、日本人の中では、そのほんの一部にしかすぎない。
でも、我々の先輩も、次の世代も、何一つも、ことばを発することはできません。
選挙でもちろん投票することもできないし、「昔から見れば、こういう風に思っている」だとか「未来の人間からすれば、こうしてもらいたい」とかそんなことを言うことは、一切できないわけでありまして、ならば、今生きている我々がしなければならないことと言うのは、少なくとも、過去この国を作ってきてくれた先人に対して、恥ずかしくない国作りをして、そして次の世代に恥ずかしくない国を渡していくと言うことであろうと思います。

そのために我々は、何らかの犠牲を払わざるを得ない。

これまで何十年もの間、隠し続けられてきた拉致問題をこじ開けるということは、我々自身が、場合によっては、我々は見なければよかったというものを見ることになるかもしれません。

ほったらかしておいて「いやそんなもの中々難しい問題」、「憲法改正しないと無理です」とか、そういうことを言って、そして時が過ぎてしまう。みんなご家族も、被害者も死んでしまってから、盛大な慰霊祭でもやって、そしてその後(北朝鮮人権問題)啓発週間は続くんでしょうから、「こんなこと、繰り返さないようにしましょう」とか、美辞麗句を並べたてるのは簡単ではあります。でも、それは、我々には、許されないと思います。

これから先、私も、もっと、そう言う意味では、あちこち、ぶつかることを言いながら、やって参りたいと思います。ともかく帰ってくれば・・何とかなるという思いでございまして御協力を御願いしまして私の話を終わります。

|

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(3)~2008/5/14~

『救出運動の姿』と言うことでありますが、9.17の前、つまり今から5年半前ですね、北朝鮮が拉致を認める前は、これは、まだ北朝鮮は拉致していないと言っている人が、朝鮮総連だけではなくて、日本国内、日本人でもいました。今日本で実は北朝鮮は拉致をしていなかったと言う人は一人もいないわけでございまして、それは、あとはどうやって取り返すかという問題です。取り返さなくて良いと言っている人もいないわけでありまして、本音はどうかわかりませんが、ともかくヤマタクさんだって誰だって、拉致被害者を救出するためには(北朝鮮と)話し合いが必要だと言い方をしているわけで、そこは、国民的コンセンサスができているのではないかと。あとは、基本的な方法論の違いの問題だと言うようなことでございます。

ですから、そう言う中で、一体我々がなんで9.17で拉致被害者を5人を取り返すことができたのか?
あの時、私が救う会の事務局長の立場で、ともかく北朝鮮に圧力をかけて、そして政府を動かして、取り返させるという方針でございました。だから、田中均さん、そして現在の福田総理、あるいは小泉総理のやっていた日朝国交正常化優先の動きには反対だったわけですけれども、しかし、じゃぁ、我々がそういうふうにしようとしていた<強行一辺倒>のやり方でやっていて、拉致被害者が帰ってきたか、北朝鮮が拉致を認めたかというと、そうではなかったと思います。

これはもう正直にやはりあの時に、一方に【絶対に拉致は許さないという意思】があり、そしてその一方で、【まぁ多少棚上げしても、国交正常化をやりたい。しかし、国交正常化をやるためには、拉致問題のなんだかの進展がなければいけない】というふうに思っていた人たちが平行して--全く結果的ですが--平行して動いたからこそ、あの9.17で金正日が拉致を認めることになった。

我々の動きがなければ、もう拉致を認めずに国交正常化が進んでいったでしょう。
そして逆にあの田中均さんたちの動きがなければ、今でも北朝鮮は拉致を認めていなかったかもしれないと思います。

ですから、これから先、今方向性が少なくとも、<拉致はどうでもいい、被害者は死んでいてもかまわない>と言うものでない限り、我々は、できるだけ多用な方法をやっていくと言うことが必要だろうと思います。

この拉致問題に関心を持っている人でも、保守系の人もいれば、左派的な方々もおられる。法律家の会の先生方でも、九条の会とかですね、そう言う種類のどちらかと言えば左よりの団体に所属している方もおられますし、しかし、そう言うものは、最終的方向では同じであると言うことで、それぞれの立場でやっていくことによって、大きな果実が得られるのではないかと思っています。また一つの考え方だけでやっていけば、その間違いを何も修正することはできません。
やはり私を含めて様々な間違い、試行錯誤を、繰り返さざるを得ない。その中でやっていくわけでございまして、だからいろんな立場の人が、いろんな意見を自由に意見が言えると言うこと我々は最大限活用していく必要があるのではないかと思います。

そして、人権問題の視点から言いますと、日本人の拉致被害者だけを取り返すと言うことは、絶対に無理な話です。
こないだみたいに極一部だけを取り返すと言うことであれば、場合によっては、金で買い取るということもあるでしょう。そういうことも全くないとは言えません。

全ての拉致被害者、日本人だけ取り返してくると言うことはできないわけでありまして、逆に言えば、日本人の拉致被害者全てを取り戻すことができるという事は、他の国の拉致被害者も帰ってこれるようになるわけですし、そして強制収容所の中で苦しんでいる人も解放することができるようになる時であると私は、思う次第でございます。

だから拉致問題というのは、今北朝鮮の人権問題に取り組んでいる様々なNGOと協力しながらその実現を図っていく。我々自身もそう言う問題に関心を持っていく必要があろうと思ています。

今後のこと。実は5/6のメールを出した後、いろんな事を感じられた方があったようですが、正直言って現在の救う会に不満を持っている方も、少なくない。そう言う方からすれば、新たな組織を作るべきという気持ちを持っている方もいることは、事実でございます。しかし、さっき申し上げたとおり、運動を敢えて分裂させる必要はないと思っております。第二救う会的組織とか調査会の支部というのは作るべきではないと思います。

唯、5/6のニュースでも書きましたが、政府と共催でやる大集会--今、私は嫌われていて呼ばれる事はないようでございますし--しかしその集会をやる場所は、特定失踪者のご家族もたくさんいる地域もあるわけでございまして、このままでいくと、未認定被害者、特定失踪者の問題が運動の中から消されてしまう可能性があると思います。

そう言う事が無いようにするために、緩やかなネットワークを作って行くべきではないかとと思います。
それは、趣旨に賛同する団体、各地の全国協議会に入ってる救う会でも、ブルーリボンの会でも何でも、そういう拉致問題に取り組んでいる団体同士で、お互いに情報の共有、意見交換等々をするための組織を作っていけないだろうかと思っています。

これは、上下関係もなく、我々が例えば、『こうしなさい』と言うわけでもなく上下関係はなく、横の繋がりで情報の共有を、少なくとも認識が異なるというのはできるだけ避けるための組織ができないだろうかと思います。
もちろん調査会のやっていることに『我々反対だ』と言ってもらって全くかまわない。

集会につきましては、我々は、基本的に今まで、ほとんどやって参りませんで「しおかぜの集い」ぐらいだったんですけれど、これから先、調査活動支障がない範囲ということになりますが、敢えて小規模な集会を各地で開けないだろうかと思っています。今まで集会を開いたことがないような場所で、それについて知っている方が少ないようなところで、人数も少なくても、場合によっては、ほんとうにやってみたら数人しかこなかったということでも、それでもかまわないと思います。少しでも多くの方に知っていただく、そしてその方々から、直接「自分はこう思っているんだ」と言うご意見を聞きながら、こちらもお答えしていく、あるいは、それのよって我々のやっていることも直していくというような集会ができないだろうかと考えています。

我々今まで各地で『特定失踪者のご家族との懇談会』をやって参りましたけれど、それと合わせるような形で、できないだろうかと考えています。

それから1年ちょっと前、我々政府から出る予定であった600万の予算をけっ飛ばしてしまったわけですが、政府と一体化しないと言うためには、やはり自力で持久戦ができるだけの力をなんとか作らなければいけないと思っておりまして、これも、新たな財政機関、その強化をしていかなければならないと思っております。

|

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(2)~2008/5/14~

今私は、薄々、まだ具体的にこういう事があると申し上げるところまでいかないのですが、あくまでそうじゃないかと思っているというレベルなんですけれども、この問題は戦後体制だけでなく、戦前の問題が必ず何か入っています。
そのひとつは、おそらく、敗戦後の<残留日本人>の問題があるんではないかと思います。いろんな形で北朝鮮残った残留した日本人が相当の数いると言われています。平壌だけで1000人ぐらいの方が残ったと言われておりまして、これは中国残留孤児と同じような形で残った子供もいたでしょうし、大人でたとえば配偶者が朝鮮出身の方でそのまま残ったとか、いろんなケースがあったと思います。その人たちが、何らかの形で(拉致)に関わった可能性があると思います。拉致をした人を管理する仕事とか、あるいは、そう言う方々が「ここにこういう人間がいるよ」と教える役割をしたかもしれません。

こないだ蓮池透さんが書いたものをみましたら、その中に蓮池薫さんが、北朝鮮に連れて行かれてから日本に帰るのを諦めるまで、どのくらいかかったかということが書いてありましたが、「1年」と書いてありました。帰ってくるまで24年のうちの最初の「1年」で諦めてしまったと書いてありました。
蓮池透さんが書いたものには、全く同意できない部分も結構あるんですが、あれは本当のことだろうと思います。

おそらく精神状態からいって、あのように無理矢理連れて行かれて、そこでとんでもない状況のおかれるわけですから、その時もし、自分の精神の平静を保とうと思ったらば、自分がそこにいることを合理化する以外に方法はないだろうと思います。私もおそらく北朝鮮に連れて行かれても同じだったのではないかと思います。

そうすると、そこで北朝鮮側は「日本は戦前とんでもないひどいことをしたんだ。だからおまえたちはその罪の償いをするんだ」というふうに教育したはずです。それは八尾恵さんなどの本の中にも似たようなことが出て参ります。

そしてそう言う中で、拉致された人たちが、どう言う風に考えたかといえば、いつまで経っても日本から取り返しに来てくれるわけでもなんでもない、そしてその一方で北朝鮮側から『日本は昔ひどいことをしたんだ』と教えられる。その国の中で生きのびていくためには、やはりそれを認めるしか方法がない。実際日本から助けに来ないわけですから、結局日本に対する憎しみ、祖国に対する憎しみを持った状態でいる。そうしたらその人たちが、やがて何をするかという事は、ある程度想像できるのではないかと思います。

やがて拉致問題が全てわかったとき、こういう話が全部出てくるだろうと思います。我々はその時一体どのように相対しなければいけないのか?その人たちに「一体今まで何をしてくれたんだ?助けに来てくれたのか?」と言われて、我々一体どう答えるのでしょう?
「憲法の制約があったから、行けなかった」と答えるのか、「戦争を起こしてはいけないと思ったから行けなかった」と、答えるのか?どういうことばを使ってもおそらくそれを繕うことはできないだろうと思います。

そう言う状態だった事を、ある程度は少なくともこの国の中枢にいた方は、何十年も前からわかっていたはずです。
1970年代後半からの久米さんから始まる政府認定者の拉致より遥か以前から北朝鮮が拉致をしていたと言うことは、おそらく警察官僚とか、もっと上の人たちは知っていたはずでございまして、それを表に出してこなかった。表には出してこなかった事で一つものを隠してしまったなら、次の事も又隠さなければならない。現場で一生懸命動いている警察の方が「これはおかしい」と思っても、それを「いやそれは、自分でいなくなったんだよ」といって隠してしまう。そう言うことが続いてきて、いつのまにかそういう隠蔽のキャリーオーバーが起きてしまったのではないかと言うことでございます。

昭和17年の6月、ミッドウエイの戦いで日本海軍は、壊滅的な打撃を受けるわけでございますが、あの時それは、全て隠されてしまった。陸軍も知らなかったし、天皇陛下にも伝えなかったというような状態の中で、次の作戦は全部間違っていくわけです。そしてそれまでは、比較的戦果の報告というのは、比較的もちろん損害も含めて正確にやっていたそうですが、そのあとは、全部いわゆる大本営発表と言われるものになってしまって、結果的には、ああ言う敗戦をむかえるわけでございまして。
今このこと(隠蔽された拉致問題)をこじ開けるのは大変なことでもあり、そしてまた恐ろしいことなんですが、今やってしまわなければ、もっともっとまたコチコチになってしまうと言うことでございます。

それを今やってるのが政府であれば、その政府と一体化するということは、これを完全に蓋をしてしまう事に手を貸すことになります。絶対にそれは、許してはならないと思います。

そういうことで、やっていくためには、我々は『建設的な緊張関係』というものを持って行く必要があるだろうと。
(一部聞き取れず)・・・になります。

そして私何回も言っておりますが「北朝鮮自身が、拉致問題の解決にむけて具体的な行動を取るように求めていく」というこの方針は、これはもうおそらく日本国民の大多数の方は、まさかこんなことは政府が考えていないだろうと思っていると思いますが、これが残念ながら現実です。ここをとにかく変えさせなければいけません。
(北朝鮮が自主的に拉致か解決への行動を取るようなことはあり得ない。話し合いで北朝鮮の態度を変えさせることはできないということ)

政府の責任として国民を救出すると、これを断言してもらわなければ、この問題絶対解決をしない。

そしてそれをやるということは、実際に使うかどうかは別として、いざとなれば武力を使ってでもという覚悟を持つということです。覚悟だけ持って使わなくて済むというのが一番良いのですが。その覚悟は少なくともしなければならない。

少なくとも、情報の収集ですとかそう言うことに対して、自衛隊がその役割を果たすという事は、国家として当たり前の話でありまして、こんなこと憲法以前の問題でございます。

保守派の方々で日本の憲法が変わらない限り何もできないと言う方がありますが、だったら憲法改正まで拉致被害者に待ていてくれというのか?
この国の憲法は拉致被害者を取り返してはいけないと書いてあるのか?
そんなことはないです。
明日かあさって、それはできる問題であって、そういうふうにしなけれいけないと思います。
そしてこれはお役所の段階では絶対にできません。
これは、政治の決断の問題です。決断さえしてくれれば、今の福田総理だって十分にそれはできます。
安倍さんは決断できなかったと私は思っております。
みんな多くの人が期待したわけですけれど、時間的に間に合わなかったのかどうかわかりませんが、時間的に間に合わなかったのかどうかわかりませんが、少なくとも任期中にその決断はできなかったということであろうと、私は思っております。

政治がその決断をしなければならないということを思っております。

|

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(1)~2008/5/14~

2008年5月14日、東京市ヶ谷 UIゼンセン会館にて行われた、特定失踪者問題調査会緊急集会における、荒木和博特定失踪者問題調査会代表の提言を、数回に分けてご紹介します。
当日の録音から、テキスト化しました。
是非、お読みいただき、今後の拉致解決運動の指針を見いだす参考にしていただきたいと思います。

――――――――――――――――――――――――――――――――
司会:真鍋専務理事
みなさんこんばんは。
緊急の集会にこのように多数集まり頂きまして誠にありがとうございます。
本日は、戦略情報研究所の集会ではなく特定失踪者問題調査会の主催の講演と、皆さんとの議論の場にしたいと思っておりますので御協力願い申しします。
本日のテーマは、お手元の紙(資料)にありますように書いてあるとおり、「今後の拉致被害者救出運動に関して」のと題して、特定失踪者問題調査会の荒木より報告、提言をさせていただきたいと思っています。

司会者から今日の主旨を簡単に、申し上げます。
みなさんもお気づきのように、今日拉致被害者救出運動は、明らかに暗礁に暗礁に乗り上げていると思います。
この要因というのは大きく二つあると思います。ひとつは、あの北朝鮮のあのしぶとい政権の存在でございます。二つめは、我々自身の問題、日本の国内の問題だろうと思っております。

本日の集会は、この二点目、「我々日本国内の運動の問題について」荒木より提言をさせていただきたいと思います。この講演の目的は、拉致被害者救出運動の目的、方法論というものを明確にして、この拉致被害者救出運動が暗礁の状態を脱却したいという強い想いから、こうしたテーマで報告させていただきたいと思います。

本日の進め方ですけれども、最初に三十分荒木より報告・提言をさせていただきたいと思います。
そのあと30分ほど司会者の特権として、私の方から厳しい質問を荒木にぶつけていきたいと思います。
残りの30分程度を、どうかご自由に参加者の皆さんから、質問、ご意見を頂きたいと思っております。
限られた時間ですけれども、フルに活用していただいて、今後の新たなる救出運動皆様方の御協力を宜しくお願いしたいと思います。

それでは、早速ですけれども、荒木より報告をさせていただきます。

【荒木和博氏の提言】

 

恐縮でございますが、坐ったまま報告をさせていただきます。

今日はお忙しい中皆様多数お集まりいただきまして、ありがとうございます。またインターネットを通じまして全国の皆様方、ご覧頂いていると思いますが、大変ありがとうございます。今日、こないだのしおかぜの集いを別にすれば、こういった形の調査会として集会をやるのは、初めてのことでございます。それも急に呼びかけを致しまして大変お忙しい中、ご迷惑をおかけしました。

今回、事の発端は、五月六日に出しました調査会ニュースに私が書いたものからスタートになりますが、調査会ができましてから五年、五年半ちかく私ども、やって参りまして、まぁともかく、運動が分裂したという事にになってはもともこもないというふうに思って参りました。ですから少なくとも他の組織に対して内政干渉的なことをすることは慎もうということでやって参りましたし、基本的にはこれからもそのことは、変わることはないんですけれど、今救出運動全体が、大きな曲がり角にきているのではないかと、危機感を最近富みに感じております。

今方向性、(細かいこと、多少の間違いはあとでどうにでもなると思いますが)大きな方向性が違ってしまえば、行き着くところは違うところに着いてしまうわけでございまして我々としては、それは、絶対に止めなければいけない。

もちろん我々にも間違いはたくさんあると思いますが、方向性を少しでも正しい方向に持っていく努力をしていかなければいけないとの思いで、考えました次第でございます。
お手元にお配りしました私のレジメ「今後の拉致被害者救出運動に関して」をご説明しながら話をさせていただきたいと思います。インターネットでご覧になっている方は、このレジメをお渡しできないのですが、先ほど私のブログにこのレジメをそのまま掲載してありますので、ネットでご覧の方は、こちらのブロクと合わせてご覧いただければ幸いでございます。
荒木和博BLOG

これからお話することは、現在救う会全国協議会で方針として出しているものと、ずばり違う部分がかなりございます。我々は、基本的に私達の考え方に全て合わせてくれと言うつもりは、全くございませんで、様々な意見が当然あって良いだろうと。そして最終的に、到達点が同じであれば良いであろうというのが前提でございますが、いくつか問題となるところはあるかもしれません。それも含めてお話しをさせていただきます。

書いてあるとおり、この見解自体は特定失踪者問題調査会荒木の個人的な意見という、非常に中途半端な言い方になりますが、組織的な問題等々に関しましては、30日に我々の理事会をやる予定にしておりますので、それまでに整理をして進めていきたいと思います。

目標日本人拉致被害者の救出ということが究極的な目標であることは間違いありません。ただし、それに至るためには、必要不可欠であるのは、北朝鮮が民主化、自由化されると言うこと無くして日本人拉致被害者全ての救出というのは、絶対になし得ないと思っております。

後ほどお話しを致しますが、やはり我々の特定失踪者リスト470名以外にも、拉致をされている全く身寄りのない方で連れて行かれている方、これは北朝鮮の体制が変わらない限り救出すことはできない方々でございまして、そこまで、我々はもちろん責任を持っているわけですから、それは、北朝鮮の自由化、民主化と表裏一体と言うことでございます。

もう一つ、拉致事件の本質というものですが、拉致事件は、私は二つの側面があると思っております。ひとつは、言うまでもなく国家主権の侵害であり、これは言葉を換えれば、北朝鮮から仕掛けられている戦争でございまして、それに我々が如何に対処するかという問題がひとつ。そしてもう一つは、独裁国家北朝鮮の中で起きている重大な様々な人権侵害その中の一つでもあると言うことであります。
この二つであるという認識を、政府、国会、そして国民が共有しなければならないと私は思います。

「拉致はテロだ」というスローガンでこの間、やって参りました。それが間違いだとは思いません。
それは、テロと言うことを軸にして、9.11以降、テロに対する戦いとして、アメリカと共に歩調を合わせてやっていくためには、そのことばというのは、効果を表したものだと思っておりますが、しかし、この問題の本質的な部分というのは、やはり主権侵害と人権侵害、この二つであろうと、私は思っております。

そして政府に対する姿勢の問題、これが一番重要な問題でございまして、そこにも書いておりますが、政府と一体化するという方針は、私は間違いだと思います。

社会運動が、国家権力と一体化するというのはあり得ない。あってはならない事であって、それをやってしまえば、御用団体以外のなにものでもないというふうに思います。

ただし、私は別に反政府団体をやっているわけでございませんで--政府に方はそう見られるかもしれませんが--自分でそういうことをやっているつもりはありませんので、実際、我々様々な政府機関の方々と現実の救出に関わる問題でいろんな形で、協力をとってやっております。それは、こういう場でお話しできないこことも含めて、それはやっております。

勿論政府の中で、この問題を何とかしようと思っている人が何人もいることは私もよく存じておりますし、メールのやり取りですけれども、「私は命をかけて拉致被害者を救出する」と言ってくれた政府の方もおられます。そう言う思いの方は、事実少なくないと思っていますが、唯やはりこの問題が何十年もの間解決されてこなかった理由の一番大きなものというのは、何と言っても、<国家権力が、これを隠蔽してきた>と言うことにあります。

そこをひっくり返さない限り、この問題の最終的解決はございません。

|

2008年5月10日 (土)

4.27国民大集会にて 飯塚耕一郎さんのことば 

【飯塚耕一郎さんのことば】
  ※ 田口八重子さんの長男 一歳の時に母を奪われた。

みなさんこんにちは。
田口八重子の息子である飯塚耕一郎ございます。

本日は、お休みの日にも関わらずみなさん来ていただきまして、誠にありがとうございました。

わたしからお伝えしたいのは、二点ほどありまして、先ほど議員の方たちの話を聞いていたんですが、去年の集会とおっしゃっていることは、変わらないのではないかと思うんですね。というのは、去年に比べて、確かに政府のモジベーションという部分では確かに大きくなったのかもしれませんが、本質的には、変わっていないというふうに正直感じてしまった部分は、否めないと思います。
この1年で何が変わったかと言えば、ここにいる家族のみなさん全員が一つ年を取った、年月、これが過ぎたわけです。

先ほど櫻井さんからテロは継続中であり・・とおっしゃっていましたが、

テロというのは、犯罪ではないんですか?
犯罪が現在進行形で続いているんじゃないんですか?
それに対して、日本政府として、その犯行に対して、「経済制裁」ということだけでいいのか、それだけをすることが果たして、正しいんでしょうか?
【追加の制裁】というのをちゃんと考えて実行していただかないといけないと私は思っています。(拍手)

単純に犯行が続いているというだけで、北朝鮮という国の中で又1年を我々の家族が過ごしています。そのことを受け止めて「追加の経済制裁」というのを本気で考えていただきたいと思います。

いつも、この問題に対して御協力、ご理解いただきまして、ありがとうございます。
ただ、やはり残念ながら若い世代の方々には、届いていない部分があるかと思います。
先日私よりちょっと下の年の方に、この問題についてお話しをする機会がありました。
その時に、その方か言った反応は、「あ、拉致の人ね」という軽い一言だったんですよね。
それは誰が悪いと言うことではないんですけど、ただ、拉致という犯罪が、行われていて基本的人権が損なわれていると、そこをちゃんと考えていただきたいというふうに私は思っています。
ですので、皆さんに置かれましても、若い方とかにお伝えしていただけれな~と思っています
どうもありがとうございます。(拍手)

|

横田早紀江さんのコスモロジー

継続連載中ですが、上記リンクで、高世さんの文章を読んでください。

早紀江さんのコスモロジー - 高世仁の「諸悪莫作」日記
早紀江さんのコスモロジー2 - 高世仁の「諸悪莫作」日記

あの9.17の日、早紀江さんが使ったことば、「使命」。

家族も、救出することを「使命」としてこの6年必死で闘ってきました。

一体日本の政治家や外務省に、拉致解決を真に「使命」として肝に銘じて闘っている人がどれだけいるでしょうか?

必死さや、崇高な心根を感じられる人が、少ないから、結果が得られないのではないかと思うのです。

もっと、もっと使命感を持って、この問題に立ち向かって欲しい。
そうでなければ、日本の未来は開けないという危機感を政府関係者に持って欲しいと思います。

|

2008年5月 7日 (水)

青木直人の仁義なき大放談 4月15日号

青木直人の仁義なき大放談 4月15日号

チャンネル桜での青木直人さんのお話を映像から文字おこしました。
少し、気になる内容を含みます。
youtube動画へ

※調査会ニュースの下記の記事が、これに関係しないことを願っています。
参考調査会ニュースから:【※8月24日(日)開催の「北朝鮮拉致問題を考える国民の集いイン富山」(富山県拉致議連・救う会主催)へは調査会からの参加はなくなりました。】

青木直人の仁義なき大放談 4月15日号 

こんばんは。
桜プロジェクトの火曜日のキャスターを務めております、青木直人と申します。
私今回初めてと言うことで、ふらふらとお話しをさせていただければと思っております。

最近実は、北朝鮮の日本人拉致問題について、国民の間の関心が比較的非常に冷えている。運動が中々盛り上がらないというような現象がございまして。

それだけではなくて、アメリカと北朝鮮の関係改善の動きが加速することによって、日本でも福田内閣を中心に周辺のヤマタクさんとか加藤紘一さんとか、明らかに北朝鮮との正常化をもう一度模索していこうという動きが出てきていると。
蓮池さんのお兄さんの蓮池透さんも、<自分は北朝鮮に行って、要するに北朝鮮の関係者と話し合いたい>と言うような発言が出ておりまして、あきらかにこれまでの北朝鮮に対する制裁という方向ではなくて、話し合い--実際話し合いと言っても非常に効果、可能性がないんですけれども--、そうしたある種の欺瞞的な形の関係改善の動きが出てきている。

大きな流れの中で、アメリカと北朝鮮との関係改善、それと六者協議に参加している韓国・ロシア・中国という関係各国のデタントというか、話し合いの方向に日本が引きずり込まれていくという大きな流れが実は出てきているのではないかと。

そう言う中で気になっていますのは、日本の拉致問題についてこれまで熱心にやっておられた救う会の関係者の中から、特定失踪者問題調査会、荒木さんたちがやっておられる、いわゆる政府から認定されていない、北朝鮮に拉致された可能性の高い方々と、距離を置こうと、共闘を拒否するような動きが残念ながら出ているという現実がございます。

拉致問題というのは、政府が認定した家族の方だけの問題ではなくて、今現在認定されいなけれども北朝鮮に拉致された可能性の高い方、そういう人を含めて、全て日本人犠牲者なんですけれども、現実の運動の中で、そういう原点が忘れられて、福田政権のある種の前のめりに対して、救援団体が引っ張られていくという残念な動きがあるように思います。

私が何故この事を言うかと言いますと、支援団体がこういう形で個別に分断されていくと言うことは、確実に運動にとってプラスにならないばかりか、非常に大きく運動の中に災いをもたらすだろうと考えているからです。

これまで拉致問題が日本人の琴線=心の中にある何事かに触れたのは、家族会を中心とした方々の国民に対する訴え、それも単に自分の家族が帰ってくればいいと言う肉親エゴの運動ではなく、拉致されたあらゆる人たちを取り戻すんだと、解放していくというおおやけなるものに対するメッセージ、これがあったからこそ家族会の運動は国民的支援を受けてきたんだろうと私は思います。

そうしたこれまで11年間の家族会が手にしてきた国民との確かな信頼がここに来て再び揺らぎはじめているというのか、外から見るとみえにくくなってきているという気がしています。

こういう形の動きは、残念ですけれども、今後も確実に強まるであろうと、私は見ています。
それは、結局のところ、北朝鮮の政権を倒さないかぎり、あらゆる日本以外の世界各国の拉致された、あるいは、北朝鮮の抑圧された人たちを解放することはできないんですけれども、現実にあの政権がアメリカや中国という国によってバックアップされている以上は、条件闘争として、とりあえず何人かの日本人でも取り返すべきだという、括弧付きの現実的運動方針が出る可能性が、極めて高いというのが今の拉致問題を巡る日本の状況ではないでしょうか?

しかしながら、日本人にとってですね拉致問題というのは、この10年間の日本の社会の変化を生み出した最大の要因の一つであろうと思います。
よく言われるように日本が保守化したというのは、実はそうではない。
むしろ我々に戦後の日本のあり方を根底的に問うたのは、横田早紀江さんたちを中心とした人たちが、何故平和な日本で娘さんが拉致されなければならなかったのか?彼女が拉致されたと言うことを警察はじめ関係機関が知っていたにもかかわらず、これを封印してきた。更にマスコミも、この事実を勇気を持って報道せずに北朝鮮を正式名称で呼ぶと、あるいは、朝鮮総連の無法に対して沈黙するという、そういった戦後の構造があった。
更に、政治家も北朝鮮に対して勇気を持って何かを語るというよりも、常に利権がらみで北朝鮮外交が語られてきた。外務省の無責任さ。自国民を救済しようという外務省のそう言う姿勢も拉致問題においてはみられなかった。
そういう戦後の日本が抱えたさまざまな問題を家族会の皆さんが私達に突きつけて、私達もそこで何事かに気づいて、このままの日本ではいけないという、自己認識に達したと。

そういう、戦後の日本の世直しというか、日本再生の最先端にたって、問題を告発し続けてきた家族会の方が、ここに来て周辺の政治環境の変化にどう正しく対応するのか?
つまり自分たちの家族だけよければいいのか、あるいはいまだ認定されない特定失踪者のご家族と連帯を広げて、国民にアピールしていくのか、非常にぎりぎりの段階に来ているのではないかと私は思います。

結論的に言えば、諸外国の不当な日本に対する圧迫、不正義の強要、これに対して反撃するためには、やはり明治維新の主導者たちが、攘夷のために倒幕戦を闘ったという原点にかえって、私たち自信も世直しをすることによって新しい対外政策、外向的な展開を図っていくべきではないだろうかというようなことを、最近の米朝関係改善の流れの中で、私は感じています。

これからこの問題は確実に現実的にテーマになってくると思いますので・・桜も含めておおいに関心を持って行っていただきたいと思います。

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(5)

 扉の向こう 特定失踪者を追う第5部  
 
私たちが、これまでの連載で取り上げた兵庫県関連の特定失踪者たちは、失跡後の消息が皆無だった。まるで扉が閉ざされたかのように。
 扉の向こうには何があるのか。全国の特定失踪者約五百人の中には、わずかだが、消息が判明した人もいる。
 拉致被害者ではなく、国内にいると分かった人が二十四人。国内での死亡確認が二人。そして、北朝鮮による日本人拉致被害者と政府に認定されたのは一人。
 第5部では、扉の向こうで、思いがけない事態に遭遇していた失踪者の家族を全国に訪ねる。次回は北海道へ。(企画報道班)

(1)同姓同名事件記事の犯人は誰? 


失踪者の顔写真が並ぶ特定失踪者問題調査会のポスター。「広く情報を集め、拉致ではない事案をつぶす必要がある」としている

 夏の日の午後、A子さんは自宅から失踪(しっそう)した。十数年前のことだ。親しかった年配の主婦に電話し「おばさん、これから家を出るわ」と、夫との別居を宣言した。少なくとも、その時点では自らの意思で姿を隠したとみられる。

 同じ日、A子さんから、インターネットのメールを受け取った女友達もいる。自らの異性関係を相談する内容だった。夫の浮気も相談を受けていた。以後、連絡は絶えたが、女友達は「男性と幸せに暮らせればいい」と思った。出奔の約半年後、女友達の元に刑事が訪れた。「A子さんが事件に巻き込まれた恐れがある」と告げられ、驚いた。

 A子さんの捜索願を出したのは郷里の両親だ。警察は事件とみて捜査したが、ようとして行方は知れなかった。

 二〇〇二年九月、北朝鮮が日本人の拉致を認めたことから、両親は疑念を抱く。娘は拉致されたのではないか―。

 両親は特定失踪者問題調査会に相談し、A子さんを「特定失踪者」に登録してもらった。「北朝鮮による拉致の可能性を否定できない失踪者」との位置づけだ。

▲▽

 A子さんの名前を、私たちは、思いがけない新聞記事の中に見つけた。

 全国の地方紙のデータベースを検索し、探し当てた記事の見出しは〈当たり屋 共犯の女逮捕〉だった。男と組んで、わざと車に接触し、運転者に金品を要求したとして逮捕された女は、A子さんと同姓同名。年齢も同じ。もしも同一人物ならば、拉致の可能性は薄まる。何よりも、行方を捜す手がかりになる。

 私たちは、生年月日の照合を試みた。女を逮捕した警察署は確認を拒んだ。家族の依頼ならば、警察も応じるのではないかと、A子さんの両親への連絡を考えた。しかし、迷った。それが本人であれ、別人であれ、両親を混乱させるだけではないだろうか。

 結局、両親に連絡せずに済んだ。問い合わせていた裁判所から返事があった。「元被告の生年月日は言えないが、A子さんのとは違う」

 つまり、別人だった。



 私たちが、これまでの連載で取り上げた兵庫県関連の特定失踪者たちは、失跡後の消息が皆無だった。まるで扉が閉ざされたかのように。

 扉の向こうには何があるのか。全国の特定失踪者約五百人の中には、わずかだが、消息が判明した人もいる。

 拉致被害者ではなく、国内にいると分かった人が二十四人。国内での死亡確認が二人。そして、北朝鮮による日本人拉致被害者と政府に認定されたのは一人。

 第5部では、扉の向こうで、思いがけない事態に遭遇していた失踪者の家族を全国に訪ねる。次回は北海道へ。




(1)同姓同名  事件記事の犯人は誰?(2008/04/27)

(2)図工教諭  プール当番 帰りに何が(2008/04/28)

(3)李恩恵  疑念生じた工作員の供述(2008/04/29)

(4)時効  殺人判明も刑事罰問えず(2008/04/30)

(5)反論  家族の行方捜すのは当然(2008/05/01)

(6)日本海  片方のサンダルが路地に(2008/05/02)

(7)三つの情報  埋もれた事件たぐり確信(2008/05/03)

(8)支援の輪  情報集まり拉致認定へ(2008/05/04)

(9)470人  疑惑濃淡で線引きできぬ(2008/05/05)

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(4)

神戸新聞の独自取材、特集記事をご紹介します。
連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。
足跡が消えた日 特定失踪者を追う第4部 目次

(1)大山まで車内に旅程記録残して
         
失踪した広田公一さん  広田さんの車が放置されていた南光河原駐車場=鳥取県大山町  

 〈午前9時半 尼崎出発、12時牛窓、喫茶もみじ午後3時着、午後3時半発 大山着午後6時20分〉

 一九八四年七月二十一日は、夏休み最初の土曜だった。尼崎市の西武庫団地に住んでいた広田公一さん=当時(30)=は、自家用車で鳥取県・大山へ向かった。そして、消息を絶った。車だけが登山口に近い南光河原駐車場で見つかり、車内に旅程の記録を書いたメモがあったという。

 私たちは昨年十一月、約三百二十キロに及ぶ、このメモのルートをたどってみた。

 海沿いにペンションが並ぶ岡山県瀬戸内市牛窓町。穏やかな海に島影が映る。

 広田さんが、海水浴客で込む町にわざわざ足を延ばしたのは、観光のためか、ほかに目的があったのか。私たちに答えを探すすべはなかった。

▲▽

 広田さんは西脇市出身。立命館大を卒業後、日本自動車連盟(JAF)に就職し、経理担当だった。「週末に大山へ行く」と、電話で聞いていた二歳上の姉、勅子(のりこ)さんは登山をすると解釈した。

 失踪(しっそう)直後、広田さんの家族もメモのルートをたどった。二〇〇三年以降、広田さんの親族の依頼を受け、特定失踪者問題調査会の常任理事岡田和典さん(58)も調べ直した。

 岡山県総社市の国道180号沿いで「喫茶もみじ」を見つけたのは家族だった。そのとき、広田さんの写真を見た常連客が「大山までの道を聞かれた。女性と一緒だった」と証言したという。だが、確実な情報とは言い難い。一人旅だったのか、同行者がいたのか、謎は残る。

 もみじは二〇〇〇年に閉店していた。私たちは元経営者の女性(67)に会えた。かつては大山へ向かう観光バスが店に寄ったが、山陽道などの開通で客が激減したという。広田さんのことは予想通り「知らない」と首を振った。警察が調べに来たこともないという。

 長いドライブの末、南光河原駐車場に着いた。

 大山は雪雲の中だった。広田さんが訪れた七月下旬は登山者が最も多い季節だが、晩秋の夕刻に観光客の姿はなかった。赤い登山届ポストだけが目についた。当時、広田さんの届けは出ていなかった。

 失踪した日の登山者は約二千五百人、駐車場に約三十台の車が止まっていたという。だが、目撃情報はなかった。

 北朝鮮に拉致された可能性を否定できないとして、家族が調査会に届け出た特定失踪者。一九八〇―九〇年代を中心とする時期の失踪者たちは、消息を絶った日がはっきりとしている。そこで、ふっつりと足跡が消える。謎だけを残して。

(企画報道班)(2008/03/01)

――――――――――――――――――――――――――――――――
バックナンバー
(1)大山まで車内に旅程記録残して(2008/03/01)

(2)警察犬「山で遭難」の確証もなく(2008/03/02)

(3)やぶの中「なぜ」の答え定まらず(2008/03/03)

(4)入社式就職に悩み募らせた2人(2008/03/04)

(5)女児の声自宅に相次いだ不審電話(2008/03/05)

(6)派遣労働自立にもがく息子の姿(2008/03/07)

(7)母娘の名を言うのもつらい(2008/03/08)

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(3)

神戸新聞の独自取材、特集記事をご紹介します。

連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。

蒸発の理由 特定失踪者を追う第3部 
  第三部目次
 第三部は、拉致の可能性を否定できないとし「特定失踪者」に挙がった四人の失跡と、家族のその後を紹介する。取材を通して、私たちは四人の家族の共通した思いに気付くことになる。(企画報道班)
(1)その日高度成長期に消えた4人
      
 尾崎隆生さん  古川文夫さん   島脇文内さん  萩本喜彦さん
 
尾崎隆生さんは一九三三年、京都府宮津市の出身。左手の指が曲がらない。舞鶴市の運送会社で運転手をしていたときの事故の後遺症だ。失職し、専門学校で経理を学んだ後、神戸へ。ネクタイを扱う会社に就職した。

 住み込みで働く職場は、国鉄(当時)三ノ宮駅の北側にあった。勤めて二年になる六〇年十一月二日、「遊びに行ってきます」と、趣味だったカメラを手に出かけた。

 その後の行方は分からない。失踪(しっそう)時、二十七歳。

 おとなしい性格の古川文夫さんは、よく行ったスナックでも口数が少なかった。

 母の故郷の山形県新堀村(現・酒田市)で一九五一年、双子の兄として生まれた。尼崎市下坂部で育ち、市立小田北中学を卒業後、建築業の父の下で大工の見習いをした。

 七〇年二月ごろ、北陸へ遊びに行くと、家を出た。数日後「三日ほどで帰る」と電話があった。さらに、愛用のカメラの質札が、なぜか自宅に郵送されてきた。

 そして、消息は途絶えた。失踪時、十八歳。

 島脇文内(ぶんない)さんは、神戸市垂水区中道にあった日本エヤーブレーキ(現ナブテスコ)の独身寮住まいだった。一九五〇年、淡路島の出身。神戸へ出て県立兵庫工業高校を卒業し、同社に就職した。

 同市西区の西神工場の製造ラインで、自動扉や建設機械など油圧機器を作った。電気の配線は熟練の技が要求されるが、島脇さんは先輩に教わって黙々と仕事をこなした。

 七四年一月二十二日、寮を出たまま出社しなかった。失踪時、二十三歳。

 萩本喜彦さんは、高砂市中島に建てた新居に、社宅から引っ越したばかりだった。一九四〇年、同市出身。妻と子ども三人とともに暮らす家で七五年四月五日、新築祝いの会を持つことになっていた。

 勤め先は、近くの神戸製鋼所高砂工場。機械設備の保全が仕事で、若手のリーダー的存在だった。祝宴の前日は、午後十時十五分からの夜勤にあたっていた。

 「行ってくるわ」。四日午後九時五十分ごろ、いつものように自転車で自宅を出た。

 しかし、工場に姿を見せなかった。失踪時、三十五歳。

                  ◇

 高度成長期の終わりに流行した言葉がある。

 「人間蒸発」。一九七四年の警察白書は〈『蒸発』といわれる動機原因不明のもの(家出人)が約九千人〉とした。テレビ局はこぞって人探しの番組を放映し、「お父さん…」と呼びかける子どもの姿が茶の間の涙を誘った。四人も、そんな時代に蒸発した。
――――――――――――――――――――――――――――――――
バックナンバー

(1)その日高度成長期に消えた4人(2008/02/13)

(2)過疎高齢の姉墓に名前刻む(2008/02/14)

(3)宣告拉致疑い 家族に温度差(2008/02/15)

(4)海外赴任プラント輸出担う技術者(2008/02/16)

(5)一本道友人の死にも連絡なく(2008/02/17)

(6)家族赤ん坊も一児の父親に(2008/02/18)

(7)道程職場の友人と語り合う(2008/02/19)

(8)夢の終わり工場閉鎖、仕事に愚痴(2008/02/20)

(9)震災実家に連絡なしなぜ(2008/02/21)

(10)希望生存可能性「拉致」に託し(2008/02/22)

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(2)

神戸新聞の丁寧な独自取材です。
連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。

オキナワの青年 特定失踪者を追う第2部 

 
一九六五年の年明け早々、仲村克巳(かつみ)さんは那覇港から神戸行きの船に乗り込んだ。当時、二十一歳。内地での就職に反対する家族には内証だったから、見送る人はいなかった。故郷・沖縄は米軍の統治下にあり、パスポートを手にしての旅立ちだった。

 就職先は尼崎市にあった製鉄所。一月十二日、市役所に転入届を提出した。

 父、亀永(きえい)さんは、寮住まいの克巳さんにすぐ手紙を送った。既に亡き亀永さんに確かめようもないが、長男の“家出”をよほど心配したのか、続けざまに〈葉書(はがき)着き次第返事を送って下(くだ)さい〉と二信目を書いた。「RYUKYU」と読み取れるスタンプの日付は「65・2・5」だった。

 父の便りはこう続く。

 〈家族中皆元気です。例年の様(よう)に旧正月を祝ってほっとした所です〉



 沖縄には二度、正月がやってくる。沖縄の年中行事は旧暦(陰暦)で日が決まる。正月は、新暦の一月一日にも祝うが、旧正月も大切にする。

 克巳さんは沖縄本島中部、中城(なかぐすく)村の農家に生まれた。克巳さんがいたころ、新暦の元日は、冷え込みで甘みを増したサトウキビの収穫繁忙期。五歳下の妹、栄子さん(59)によれば「ニーニー(兄)は頑張りすぎなぐらい働いた」。祝いごとの余裕はなかった。

 旧正月の思い出は、ある。「うちは貧乏だったし、大したお祝いはしなかったけど、お年玉とごちそうがうれしかった」と栄子さん。豚の三枚肉や結び昆布、大根の煮物を仏壇にお供えし、新年の幸せを先祖に祈る。お下がりを家族でいただく。あいさつ回りをし、お年玉をもらう―。肉は当時、まだ貴重だった。

 もう一つ、印象的な旧正月の風景があった。どの家も日の丸の旗を門に立てた。中城村でもこぞって掲げた。資料によれば、一九五〇年代、日本への復帰運動として沖縄の革新勢力が日の丸を広めた。日の丸は、不戦を誓う日本国憲法の象徴だった、という。

 亀永さんがはがきを送った直後の六五年二月七日、ベトナム戦争を戦う米軍は、北爆を開始する。発着する戦闘機のごう音が、基地と化した島“オキナワ”に響いた。



 尼崎で就職した克巳さんだが、その後、職を転々とする。そして、四年後の六九年夏、西宮市内の下宿に「神戸へ行く」とメモを残し、消息を絶つ。

 二〇