2008年11月19日 (水)

しおかぜを救おうキャンペーン第二弾



拉致関連の本を、アマゾンで買いましょう。

特定失踪者問題調査会にお願いしてアマゾン・アソシエイト(アフィリエイト)のIDを取得してもらいました。調査会のIDは、shiokazekanpa-22 です。
下で紹介している本のアマゾンIDはすべて調査会のshiokazekanpa-22にしてあります。このリンクをたどってアマゾンで本を購入されると数パーセント(条件によって異なります。最大7%)の紹介料が調査会にアマゾンから支払われます。「ちりも積もれば」の言葉もあります。

積み重なれば、多少のカンパになります。無理矢理、本を購入される必要はありません(そんなことするくらいなら、直接カンパした方がいいですよ・笑)。読みたい本があって購入される場合は、こちらのリンクを使っていただければ、自動的に調査会へのカンパも出来るということです。もちろん特定失踪者問題調査会の本の紹介ページ

http://www.chosa-kai.jp/book.html

↑でも、調査会ID付きでアマゾンにリンクされてますから、そちらからでも構いません。また、ここで紹介されている本は拉致や北朝鮮関連の本だけですが、それ以外の一般の小説やDVDなどを購入される場合でも、いったんここのリンクをたどってアマゾンに入っていただいて購入すれば、調査会への紹介料が発生します。従って本を購入される場合は、調査会やこの記事のリンクからアマゾンへ訪問して下さい。
また、ご自分でブログやサイトを運営されている方は、恐らく多くの方が独自にアマゾン・アソシエイトをやっていらっしゃると思いますが、拉致問題や北朝鮮関連の本を紹介する際には、調査会のID(shiokazekanpa-22)をお使いいただければ幸いです。北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」がピンチの今、ぜひご協力ください。

*左サイドの本の紹介欄でも調査会のIDを使用しています。


手にしおかぜ支援BLOG

http://siokaze.trycomp.info/

|

2008年11月 4日 (火)

しおかぜを救おう!キャンペーン

北朝鮮向けラジオ放送 資金難


北朝鮮に拉致されたままの被害者などに家族からのメッセージを伝えるために続けられてきたラジオの短波放送が、金融危機などに伴う資金難のため放送時間の短縮を検討していることがわかりました。

「しおかぜ」と呼ばれるこの放送は、北朝鮮に拉致された可能性のある行方不明者の調査をしている「特定失踪者問題調査会」が3年前から続けているもので、拉致されたままの被害者や北朝鮮に渡ったまま行方がわからくなくなった人たちに向けて家族からのメッセージなどを伝えています。放送にかかる費用は、主に放送の趣旨に賛同した個人からの寄付などで賄われていますが、調査会によりますと、寄付金は年々減少し金融危機が表面化したことし9月以降の落ち込みが特に著しいということです。このため調査会は、現在1日2回、30分ずつ行われている放送について、早ければ来月にも1日1回に短縮することを検討しています。調査会では「『しおかぜ』は北朝鮮に向けた数少ないラジオ放送で、拉致被害者の人たちも聞いている可能性があるが、このままでは存続自体も難しくなる」などとして放送を維持するための寄付を呼びかけています。

――――――――――――――――――――――――――――――――

~ しおかぜカンパに協力を  ~

【郵便局】
郵便振替口座 00160-9-583587
加入者名 特定失踪者問題調査会
【銀行】
三菱東京UFJ銀行 鷹の台支店 普通預金3810752
口座名義 特定失踪者問題調査会専務理事 真鍋貞樹

|

2008年5月19日 (月)

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(4)~2008/5/14~

最後のまとめの所の話を致しますけれど、これまで、横田めぐみさんの事件が明らかになってから11年の間、運動に携わって参りました。最初は本当にささやかな運動でございました。そもそも、やるときに、私は、決して積極的な立場でやっていたわけではない。

やはり、今司会をやっている真鍋もそうですが、私ども政治活動を職としていたものでして、社会運動をやるのはどこれだけ大変かということは、多少は身にしみてわかっているつもりでございます。
やるとなれば、お金の問題、人の問題というのがでてくる。どれくらいの支持を受けられるだろうかということが、当然あるわけでして、それを、本当に越えられるのかという思いでこの運動に関わりました。

私自身の感想から言いますと、この運動ほど、やりやすい運動はなかった。
これは、増元さん家族の方もおられるので、こういう言い方をすると大変、非常に失礼な言い方になるかもしれませんが、これだけ多くの方々が、関心を持ってくださるとは正直最初は思っていませんでした。

やはり、これは日本という国は、捨てたものではないというのが私の感想でございまして、それが次第に大きくなったことによって、9.17を迎えることができたんだと思っております。
唯、これは、誰が悪いという話でもなくて、私自身の反省を込めて申し上げれば、あの時、9.17に5人が帰ってきた、それがある意味自分取っても、甘えとか、おごりとかそういうものが出てしまったのではないかということでございます。
運動がほっぱらかしにしていても動いていくものだというような気持ちが無かったかと言うことでございます。

そのあと、特定失踪者問題調査会を作ったわけでですが、ご家族の皆さんには--今日も何人もお見えでいらっしゃいますけれど--大変いろいろ御協力を頂いて参りました。そして「よくやってくださる」というふうに、ご家族の皆さんは言ってくださるんですけれど、我々自身が、そのことに甘えているのではないか。現実問題として、その中でだだひとりとして取り返すことができないような状況でいるわけでございまして、私どもは、やはりそれに対して痛切にその責任を感じなければいけないのではないかというふうに思います。

私自身、<平成18年中に拉致問題を解決する>と言いました。これはもちろん私一人で解決すると言う意味ではなくて、解決するのは、みんなの力でで解決するものですが、しかし、それに携わっているものとして、それが実現できなければ、その責任を取ると言いました。結果的にそれは、実現できなかったわけでございまして、その責任を必ず取らなければいけないと思いますが、現在敵前逃亡するわけにいきませんので、その道筋(拉致解決の道筋)を最低限付けるところまでしてからと思っておりますが、ともかく、今、改めて我々はこの運動がなんなのか、何のためにやっているのかというのを、そしてどうしなければいけないのかということを、本当に考えなければならない時に来てると思います。

5/6のメールニュースを流すまで、私自身も、いろんな事を考えまして、いろんな事を悩んで参りました。
しかしここでやらざるをえないだろうと。これから先、どういうような動きになってくるかわかりませんが、やはりこれから先、様々な動きをしていかなければいけないだろうと思っている次第でございます。
この「いくつかの試み」と書いてあるのは、それ自体はそれほど大きな事ではないのですが、それは、現実問題として事態を動かすための動きを更に本格的にやっていく必要があると確信を致しております。

最近あちこちで、言っていることなんですが、この国というのは、これまで何千年もの間、あるいは何万年もの間になるかもしれませんが、今生きている一億二千万より遥かに多くの方々が、生まれて死んで、生まれて死んでと言うことを、続けて参りました。この地には、又これから先、我々の子孫が生まれて死んで、又生まれて死んでというのを繰り返していくのだろうと思います。
だから、今、生きている我々は、日本人の中では、そのほんの一部にしかすぎない。
でも、我々の先輩も、次の世代も、何一つも、ことばを発することはできません。
選挙でもちろん投票することもできないし、「昔から見れば、こういう風に思っている」だとか「未来の人間からすれば、こうしてもらいたい」とかそんなことを言うことは、一切できないわけでありまして、ならば、今生きている我々がしなければならないことと言うのは、少なくとも、過去この国を作ってきてくれた先人に対して、恥ずかしくない国作りをして、そして次の世代に恥ずかしくない国を渡していくと言うことであろうと思います。

そのために我々は、何らかの犠牲を払わざるを得ない。

これまで何十年もの間、隠し続けられてきた拉致問題をこじ開けるということは、我々自身が、場合によっては、我々は見なければよかったというものを見ることになるかもしれません。

ほったらかしておいて「いやそんなもの中々難しい問題」、「憲法改正しないと無理です」とか、そういうことを言って、そして時が過ぎてしまう。みんなご家族も、被害者も死んでしまってから、盛大な慰霊祭でもやって、そしてその後(北朝鮮人権問題)啓発週間は続くんでしょうから、「こんなこと、繰り返さないようにしましょう」とか、美辞麗句を並べたてるのは簡単ではあります。でも、それは、我々には、許されないと思います。

これから先、私も、もっと、そう言う意味では、あちこち、ぶつかることを言いながら、やって参りたいと思います。ともかく帰ってくれば・・何とかなるという思いでございまして御協力を御願いしまして私の話を終わります。

|

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(3)~2008/5/14~

『救出運動の姿』と言うことでありますが、9.17の前、つまり今から5年半前ですね、北朝鮮が拉致を認める前は、これは、まだ北朝鮮は拉致していないと言っている人が、朝鮮総連だけではなくて、日本国内、日本人でもいました。今日本で実は北朝鮮は拉致をしていなかったと言う人は一人もいないわけでございまして、それは、あとはどうやって取り返すかという問題です。取り返さなくて良いと言っている人もいないわけでありまして、本音はどうかわかりませんが、ともかくヤマタクさんだって誰だって、拉致被害者を救出するためには(北朝鮮と)話し合いが必要だと言い方をしているわけで、そこは、国民的コンセンサスができているのではないかと。あとは、基本的な方法論の違いの問題だと言うようなことでございます。

ですから、そう言う中で、一体我々がなんで9.17で拉致被害者を5人を取り返すことができたのか?
あの時、私が救う会の事務局長の立場で、ともかく北朝鮮に圧力をかけて、そして政府を動かして、取り返させるという方針でございました。だから、田中均さん、そして現在の福田総理、あるいは小泉総理のやっていた日朝国交正常化優先の動きには反対だったわけですけれども、しかし、じゃぁ、我々がそういうふうにしようとしていた<強行一辺倒>のやり方でやっていて、拉致被害者が帰ってきたか、北朝鮮が拉致を認めたかというと、そうではなかったと思います。

これはもう正直にやはりあの時に、一方に【絶対に拉致は許さないという意思】があり、そしてその一方で、【まぁ多少棚上げしても、国交正常化をやりたい。しかし、国交正常化をやるためには、拉致問題のなんだかの進展がなければいけない】というふうに思っていた人たちが平行して--全く結果的ですが--平行して動いたからこそ、あの9.17で金正日が拉致を認めることになった。

我々の動きがなければ、もう拉致を認めずに国交正常化が進んでいったでしょう。
そして逆にあの田中均さんたちの動きがなければ、今でも北朝鮮は拉致を認めていなかったかもしれないと思います。

ですから、これから先、今方向性が少なくとも、<拉致はどうでもいい、被害者は死んでいてもかまわない>と言うものでない限り、我々は、できるだけ多用な方法をやっていくと言うことが必要だろうと思います。

この拉致問題に関心を持っている人でも、保守系の人もいれば、左派的な方々もおられる。法律家の会の先生方でも、九条の会とかですね、そう言う種類のどちらかと言えば左よりの団体に所属している方もおられますし、しかし、そう言うものは、最終的方向では同じであると言うことで、それぞれの立場でやっていくことによって、大きな果実が得られるのではないかと思っています。また一つの考え方だけでやっていけば、その間違いを何も修正することはできません。
やはり私を含めて様々な間違い、試行錯誤を、繰り返さざるを得ない。その中でやっていくわけでございまして、だからいろんな立場の人が、いろんな意見を自由に意見が言えると言うこと我々は最大限活用していく必要があるのではないかと思います。

そして、人権問題の視点から言いますと、日本人の拉致被害者だけを取り返すと言うことは、絶対に無理な話です。
こないだみたいに極一部だけを取り返すと言うことであれば、場合によっては、金で買い取るということもあるでしょう。そういうことも全くないとは言えません。

全ての拉致被害者、日本人だけ取り返してくると言うことはできないわけでありまして、逆に言えば、日本人の拉致被害者全てを取り戻すことができるという事は、他の国の拉致被害者も帰ってこれるようになるわけですし、そして強制収容所の中で苦しんでいる人も解放することができるようになる時であると私は、思う次第でございます。

だから拉致問題というのは、今北朝鮮の人権問題に取り組んでいる様々なNGOと協力しながらその実現を図っていく。我々自身もそう言う問題に関心を持っていく必要があろうと思ています。

今後のこと。実は5/6のメールを出した後、いろんな事を感じられた方があったようですが、正直言って現在の救う会に不満を持っている方も、少なくない。そう言う方からすれば、新たな組織を作るべきという気持ちを持っている方もいることは、事実でございます。しかし、さっき申し上げたとおり、運動を敢えて分裂させる必要はないと思っております。第二救う会的組織とか調査会の支部というのは作るべきではないと思います。

唯、5/6のニュースでも書きましたが、政府と共催でやる大集会--今、私は嫌われていて呼ばれる事はないようでございますし--しかしその集会をやる場所は、特定失踪者のご家族もたくさんいる地域もあるわけでございまして、このままでいくと、未認定被害者、特定失踪者の問題が運動の中から消されてしまう可能性があると思います。

そう言う事が無いようにするために、緩やかなネットワークを作って行くべきではないかとと思います。
それは、趣旨に賛同する団体、各地の全国協議会に入ってる救う会でも、ブルーリボンの会でも何でも、そういう拉致問題に取り組んでいる団体同士で、お互いに情報の共有、意見交換等々をするための組織を作っていけないだろうかと思っています。

これは、上下関係もなく、我々が例えば、『こうしなさい』と言うわけでもなく上下関係はなく、横の繋がりで情報の共有を、少なくとも認識が異なるというのはできるだけ避けるための組織ができないだろうかと思います。
もちろん調査会のやっていることに『我々反対だ』と言ってもらって全くかまわない。

集会につきましては、我々は、基本的に今まで、ほとんどやって参りませんで「しおかぜの集い」ぐらいだったんですけれど、これから先、調査活動支障がない範囲ということになりますが、敢えて小規模な集会を各地で開けないだろうかと思っています。今まで集会を開いたことがないような場所で、それについて知っている方が少ないようなところで、人数も少なくても、場合によっては、ほんとうにやってみたら数人しかこなかったということでも、それでもかまわないと思います。少しでも多くの方に知っていただく、そしてその方々から、直接「自分はこう思っているんだ」と言うご意見を聞きながら、こちらもお答えしていく、あるいは、それのよって我々のやっていることも直していくというような集会ができないだろうかと考えています。

我々今まで各地で『特定失踪者のご家族との懇談会』をやって参りましたけれど、それと合わせるような形で、できないだろうかと考えています。

それから1年ちょっと前、我々政府から出る予定であった600万の予算をけっ飛ばしてしまったわけですが、政府と一体化しないと言うためには、やはり自力で持久戦ができるだけの力をなんとか作らなければいけないと思っておりまして、これも、新たな財政機関、その強化をしていかなければならないと思っております。

|

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(2)~2008/5/14~

今私は、薄々、まだ具体的にこういう事があると申し上げるところまでいかないのですが、あくまでそうじゃないかと思っているというレベルなんですけれども、この問題は戦後体制だけでなく、戦前の問題が必ず何か入っています。
そのひとつは、おそらく、敗戦後の<残留日本人>の問題があるんではないかと思います。いろんな形で北朝鮮残った残留した日本人が相当の数いると言われています。平壌だけで1000人ぐらいの方が残ったと言われておりまして、これは中国残留孤児と同じような形で残った子供もいたでしょうし、大人でたとえば配偶者が朝鮮出身の方でそのまま残ったとか、いろんなケースがあったと思います。その人たちが、何らかの形で(拉致)に関わった可能性があると思います。拉致をした人を管理する仕事とか、あるいは、そう言う方々が「ここにこういう人間がいるよ」と教える役割をしたかもしれません。

こないだ蓮池透さんが書いたものをみましたら、その中に蓮池薫さんが、北朝鮮に連れて行かれてから日本に帰るのを諦めるまで、どのくらいかかったかということが書いてありましたが、「1年」と書いてありました。帰ってくるまで24年のうちの最初の「1年」で諦めてしまったと書いてありました。
蓮池透さんが書いたものには、全く同意できない部分も結構あるんですが、あれは本当のことだろうと思います。

おそらく精神状態からいって、あのように無理矢理連れて行かれて、そこでとんでもない状況のおかれるわけですから、その時もし、自分の精神の平静を保とうと思ったらば、自分がそこにいることを合理化する以外に方法はないだろうと思います。私もおそらく北朝鮮に連れて行かれても同じだったのではないかと思います。

そうすると、そこで北朝鮮側は「日本は戦前とんでもないひどいことをしたんだ。だからおまえたちはその罪の償いをするんだ」というふうに教育したはずです。それは八尾恵さんなどの本の中にも似たようなことが出て参ります。

そしてそう言う中で、拉致された人たちが、どう言う風に考えたかといえば、いつまで経っても日本から取り返しに来てくれるわけでもなんでもない、そしてその一方で北朝鮮側から『日本は昔ひどいことをしたんだ』と教えられる。その国の中で生きのびていくためには、やはりそれを認めるしか方法がない。実際日本から助けに来ないわけですから、結局日本に対する憎しみ、祖国に対する憎しみを持った状態でいる。そうしたらその人たちが、やがて何をするかという事は、ある程度想像できるのではないかと思います。

やがて拉致問題が全てわかったとき、こういう話が全部出てくるだろうと思います。我々はその時一体どのように相対しなければいけないのか?その人たちに「一体今まで何をしてくれたんだ?助けに来てくれたのか?」と言われて、我々一体どう答えるのでしょう?
「憲法の制約があったから、行けなかった」と答えるのか、「戦争を起こしてはいけないと思ったから行けなかった」と、答えるのか?どういうことばを使ってもおそらくそれを繕うことはできないだろうと思います。

そう言う状態だった事を、ある程度は少なくともこの国の中枢にいた方は、何十年も前からわかっていたはずです。
1970年代後半からの久米さんから始まる政府認定者の拉致より遥か以前から北朝鮮が拉致をしていたと言うことは、おそらく警察官僚とか、もっと上の人たちは知っていたはずでございまして、それを表に出してこなかった。表には出してこなかった事で一つものを隠してしまったなら、次の事も又隠さなければならない。現場で一生懸命動いている警察の方が「これはおかしい」と思っても、それを「いやそれは、自分でいなくなったんだよ」といって隠してしまう。そう言うことが続いてきて、いつのまにかそういう隠蔽のキャリーオーバーが起きてしまったのではないかと言うことでございます。

昭和17年の6月、ミッドウエイの戦いで日本海軍は、壊滅的な打撃を受けるわけでございますが、あの時それは、全て隠されてしまった。陸軍も知らなかったし、天皇陛下にも伝えなかったというような状態の中で、次の作戦は全部間違っていくわけです。そしてそれまでは、比較的戦果の報告というのは、比較的もちろん損害も含めて正確にやっていたそうですが、そのあとは、全部いわゆる大本営発表と言われるものになってしまって、結果的には、ああ言う敗戦をむかえるわけでございまして。
今このこと(隠蔽された拉致問題)をこじ開けるのは大変なことでもあり、そしてまた恐ろしいことなんですが、今やってしまわなければ、もっともっとまたコチコチになってしまうと言うことでございます。

それを今やってるのが政府であれば、その政府と一体化するということは、これを完全に蓋をしてしまう事に手を貸すことになります。絶対にそれは、許してはならないと思います。

そういうことで、やっていくためには、我々は『建設的な緊張関係』というものを持って行く必要があるだろうと。
(一部聞き取れず)・・・になります。

そして私何回も言っておりますが「北朝鮮自身が、拉致問題の解決にむけて具体的な行動を取るように求めていく」というこの方針は、これはもうおそらく日本国民の大多数の方は、まさかこんなことは政府が考えていないだろうと思っていると思いますが、これが残念ながら現実です。ここをとにかく変えさせなければいけません。
(北朝鮮が自主的に拉致か解決への行動を取るようなことはあり得ない。話し合いで北朝鮮の態度を変えさせることはできないということ)

政府の責任として国民を救出すると、これを断言してもらわなければ、この問題絶対解決をしない。

そしてそれをやるということは、実際に使うかどうかは別として、いざとなれば武力を使ってでもという覚悟を持つということです。覚悟だけ持って使わなくて済むというのが一番良いのですが。その覚悟は少なくともしなければならない。

少なくとも、情報の収集ですとかそう言うことに対して、自衛隊がその役割を果たすという事は、国家として当たり前の話でありまして、こんなこと憲法以前の問題でございます。

保守派の方々で日本の憲法が変わらない限り何もできないと言う方がありますが、だったら憲法改正まで拉致被害者に待ていてくれというのか?
この国の憲法は拉致被害者を取り返してはいけないと書いてあるのか?
そんなことはないです。
明日かあさって、それはできる問題であって、そういうふうにしなけれいけないと思います。
そしてこれはお役所の段階では絶対にできません。
これは、政治の決断の問題です。決断さえしてくれれば、今の福田総理だって十分にそれはできます。
安倍さんは決断できなかったと私は思っております。
みんな多くの人が期待したわけですけれど、時間的に間に合わなかったのかどうかわかりませんが、時間的に間に合わなかったのかどうかわかりませんが、少なくとも任期中にその決断はできなかったということであろうと、私は思っております。

政治がその決断をしなければならないということを思っております。

|

特定失踪者問題調査会緊急集会 荒木和博氏 拉致解決への提言(1)~2008/5/14~

2008年5月14日、東京市ヶ谷 UIゼンセン会館にて行われた、特定失踪者問題調査会緊急集会における、荒木和博特定失踪者問題調査会代表の提言を、数回に分けてご紹介します。
当日の録音から、テキスト化しました。
是非、お読みいただき、今後の拉致解決運動の指針を見いだす参考にしていただきたいと思います。

――――――――――――――――――――――――――――――――
司会:真鍋専務理事
みなさんこんばんは。
緊急の集会にこのように多数集まり頂きまして誠にありがとうございます。
本日は、戦略情報研究所の集会ではなく特定失踪者問題調査会の主催の講演と、皆さんとの議論の場にしたいと思っておりますので御協力願い申しします。
本日のテーマは、お手元の紙(資料)にありますように書いてあるとおり、「今後の拉致被害者救出運動に関して」のと題して、特定失踪者問題調査会の荒木より報告、提言をさせていただきたいと思っています。

司会者から今日の主旨を簡単に、申し上げます。
みなさんもお気づきのように、今日拉致被害者救出運動は、明らかに暗礁に暗礁に乗り上げていると思います。
この要因というのは大きく二つあると思います。ひとつは、あの北朝鮮のあのしぶとい政権の存在でございます。二つめは、我々自身の問題、日本の国内の問題だろうと思っております。

本日の集会は、この二点目、「我々日本国内の運動の問題について」荒木より提言をさせていただきたいと思います。この講演の目的は、拉致被害者救出運動の目的、方法論というものを明確にして、この拉致被害者救出運動が暗礁の状態を脱却したいという強い想いから、こうしたテーマで報告させていただきたいと思います。

本日の進め方ですけれども、最初に三十分荒木より報告・提言をさせていただきたいと思います。
そのあと30分ほど司会者の特権として、私の方から厳しい質問を荒木にぶつけていきたいと思います。
残りの30分程度を、どうかご自由に参加者の皆さんから、質問、ご意見を頂きたいと思っております。
限られた時間ですけれども、フルに活用していただいて、今後の新たなる救出運動皆様方の御協力を宜しくお願いしたいと思います。

それでは、早速ですけれども、荒木より報告をさせていただきます。

【荒木和博氏の提言】

 

恐縮でございますが、坐ったまま報告をさせていただきます。

今日はお忙しい中皆様多数お集まりいただきまして、ありがとうございます。またインターネットを通じまして全国の皆様方、ご覧頂いていると思いますが、大変ありがとうございます。今日、こないだのしおかぜの集いを別にすれば、こういった形の調査会として集会をやるのは、初めてのことでございます。それも急に呼びかけを致しまして大変お忙しい中、ご迷惑をおかけしました。

今回、事の発端は、五月六日に出しました調査会ニュースに私が書いたものからスタートになりますが、調査会ができましてから五年、五年半ちかく私ども、やって参りまして、まぁともかく、運動が分裂したという事にになってはもともこもないというふうに思って参りました。ですから少なくとも他の組織に対して内政干渉的なことをすることは慎もうということでやって参りましたし、基本的にはこれからもそのことは、変わることはないんですけれど、今救出運動全体が、大きな曲がり角にきているのではないかと、危機感を最近富みに感じております。

今方向性、(細かいこと、多少の間違いはあとでどうにでもなると思いますが)大きな方向性が違ってしまえば、行き着くところは違うところに着いてしまうわけでございまして我々としては、それは、絶対に止めなければいけない。

もちろん我々にも間違いはたくさんあると思いますが、方向性を少しでも正しい方向に持っていく努力をしていかなければいけないとの思いで、考えました次第でございます。
お手元にお配りしました私のレジメ「今後の拉致被害者救出運動に関して」をご説明しながら話をさせていただきたいと思います。インターネットでご覧になっている方は、このレジメをお渡しできないのですが、先ほど私のブログにこのレジメをそのまま掲載してありますので、ネットでご覧の方は、こちらのブロクと合わせてご覧いただければ幸いでございます。
荒木和博BLOG

これからお話することは、現在救う会全国協議会で方針として出しているものと、ずばり違う部分がかなりございます。我々は、基本的に私達の考え方に全て合わせてくれと言うつもりは、全くございませんで、様々な意見が当然あって良いだろうと。そして最終的に、到達点が同じであれば良いであろうというのが前提でございますが、いくつか問題となるところはあるかもしれません。それも含めてお話しをさせていただきます。

書いてあるとおり、この見解自体は特定失踪者問題調査会荒木の個人的な意見という、非常に中途半端な言い方になりますが、組織的な問題等々に関しましては、30日に我々の理事会をやる予定にしておりますので、それまでに整理をして進めていきたいと思います。

目標日本人拉致被害者の救出ということが究極的な目標であることは間違いありません。ただし、それに至るためには、必要不可欠であるのは、北朝鮮が民主化、自由化されると言うこと無くして日本人拉致被害者全ての救出というのは、絶対になし得ないと思っております。

後ほどお話しを致しますが、やはり我々の特定失踪者リスト470名以外にも、拉致をされている全く身寄りのない方で連れて行かれている方、これは北朝鮮の体制が変わらない限り救出すことはできない方々でございまして、そこまで、我々はもちろん責任を持っているわけですから、それは、北朝鮮の自由化、民主化と表裏一体と言うことでございます。

もう一つ、拉致事件の本質というものですが、拉致事件は、私は二つの側面があると思っております。ひとつは、言うまでもなく国家主権の侵害であり、これは言葉を換えれば、北朝鮮から仕掛けられている戦争でございまして、それに我々が如何に対処するかという問題がひとつ。そしてもう一つは、独裁国家北朝鮮の中で起きている重大な様々な人権侵害その中の一つでもあると言うことであります。
この二つであるという認識を、政府、国会、そして国民が共有しなければならないと私は思います。

「拉致はテロだ」というスローガンでこの間、やって参りました。それが間違いだとは思いません。
それは、テロと言うことを軸にして、9.11以降、テロに対する戦いとして、アメリカと共に歩調を合わせてやっていくためには、そのことばというのは、効果を表したものだと思っておりますが、しかし、この問題の本質的な部分というのは、やはり主権侵害と人権侵害、この二つであろうと、私は思っております。

そして政府に対する姿勢の問題、これが一番重要な問題でございまして、そこにも書いておりますが、政府と一体化するという方針は、私は間違いだと思います。

社会運動が、国家権力と一体化するというのはあり得ない。あってはならない事であって、それをやってしまえば、御用団体以外のなにものでもないというふうに思います。

ただし、私は別に反政府団体をやっているわけでございませんで--政府に方はそう見られるかもしれませんが--自分でそういうことをやっているつもりはありませんので、実際、我々様々な政府機関の方々と現実の救出に関わる問題でいろんな形で、協力をとってやっております。それは、こういう場でお話しできないこことも含めて、それはやっております。

勿論政府の中で、この問題を何とかしようと思っている人が何人もいることは私もよく存じておりますし、メールのやり取りですけれども、「私は命をかけて拉致被害者を救出する」と言ってくれた政府の方もおられます。そう言う思いの方は、事実少なくないと思っていますが、唯やはりこの問題が何十年もの間解決されてこなかった理由の一番大きなものというのは、何と言っても、<国家権力が、これを隠蔽してきた>と言うことにあります。

そこをひっくり返さない限り、この問題の最終的解決はございません。

|

2008年5月10日 (土)

4.27国民大集会にて 飯塚耕一郎さんのことば 

【飯塚耕一郎さんのことば】
  ※ 田口八重子さんの長男 一歳の時に母を奪われた。

みなさんこんにちは。
田口八重子の息子である飯塚耕一郎ございます。

本日は、お休みの日にも関わらずみなさん来ていただきまして、誠にありがとうございました。

わたしからお伝えしたいのは、二点ほどありまして、先ほど議員の方たちの話を聞いていたんですが、去年の集会とおっしゃっていることは、変わらないのではないかと思うんですね。というのは、去年に比べて、確かに政府のモジベーションという部分では確かに大きくなったのかもしれませんが、本質的には、変わっていないというふうに正直感じてしまった部分は、否めないと思います。
この1年で何が変わったかと言えば、ここにいる家族のみなさん全員が一つ年を取った、年月、これが過ぎたわけです。

先ほど櫻井さんからテロは継続中であり・・とおっしゃっていましたが、

テロというのは、犯罪ではないんですか?
犯罪が現在進行形で続いているんじゃないんですか?
それに対して、日本政府として、その犯行に対して、「経済制裁」ということだけでいいのか、それだけをすることが果たして、正しいんでしょうか?
【追加の制裁】というのをちゃんと考えて実行していただかないといけないと私は思っています。(拍手)

単純に犯行が続いているというだけで、北朝鮮という国の中で又1年を我々の家族が過ごしています。そのことを受け止めて「追加の経済制裁」というのを本気で考えていただきたいと思います。

いつも、この問題に対して御協力、ご理解いただきまして、ありがとうございます。
ただ、やはり残念ながら若い世代の方々には、届いていない部分があるかと思います。
先日私よりちょっと下の年の方に、この問題についてお話しをする機会がありました。
その時に、その方か言った反応は、「あ、拉致の人ね」という軽い一言だったんですよね。
それは誰が悪いと言うことではないんですけど、ただ、拉致という犯罪が、行われていて基本的人権が損なわれていると、そこをちゃんと考えていただきたいというふうに私は思っています。
ですので、皆さんに置かれましても、若い方とかにお伝えしていただけれな~と思っています
どうもありがとうございます。(拍手)

|

横田早紀江さんのコスモロジー

継続連載中ですが、上記リンクで、高世さんの文章を読んでください。

早紀江さんのコスモロジー - 高世仁の「諸悪莫作」日記
早紀江さんのコスモロジー2 - 高世仁の「諸悪莫作」日記

あの9.17の日、早紀江さんが使ったことば、「使命」。

家族も、救出することを「使命」としてこの6年必死で闘ってきました。

一体日本の政治家や外務省に、拉致解決を真に「使命」として肝に銘じて闘っている人がどれだけいるでしょうか?

必死さや、崇高な心根を感じられる人が、少ないから、結果が得られないのではないかと思うのです。

もっと、もっと使命感を持って、この問題に立ち向かって欲しい。
そうでなければ、日本の未来は開けないという危機感を政府関係者に持って欲しいと思います。

|

2008年5月 7日 (水)

青木直人の仁義なき大放談 4月15日号

青木直人の仁義なき大放談 4月15日号

チャンネル桜での青木直人さんのお話を映像から文字おこしました。
少し、気になる内容を含みます。
youtube動画へ

※調査会ニュースの下記の記事が、これに関係しないことを願っています。
参考調査会ニュースから:【※8月24日(日)開催の「北朝鮮拉致問題を考える国民の集いイン富山」(富山県拉致議連・救う会主催)へは調査会からの参加はなくなりました。】

青木直人の仁義なき大放談 4月15日号 

こんばんは。
桜プロジェクトの火曜日のキャスターを務めております、青木直人と申します。
私今回初めてと言うことで、ふらふらとお話しをさせていただければと思っております。

最近実は、北朝鮮の日本人拉致問題について、国民の間の関心が比較的非常に冷えている。運動が中々盛り上がらないというような現象がございまして。

それだけではなくて、アメリカと北朝鮮の関係改善の動きが加速することによって、日本でも福田内閣を中心に周辺のヤマタクさんとか加藤紘一さんとか、明らかに北朝鮮との正常化をもう一度模索していこうという動きが出てきていると。
蓮池さんのお兄さんの蓮池透さんも、<自分は北朝鮮に行って、要するに北朝鮮の関係者と話し合いたい>と言うような発言が出ておりまして、あきらかにこれまでの北朝鮮に対する制裁という方向ではなくて、話し合い--実際話し合いと言っても非常に効果、可能性がないんですけれども--、そうしたある種の欺瞞的な形の関係改善の動きが出てきている。

大きな流れの中で、アメリカと北朝鮮との関係改善、それと六者協議に参加している韓国・ロシア・中国という関係各国のデタントというか、話し合いの方向に日本が引きずり込まれていくという大きな流れが実は出てきているのではないかと。

そう言う中で気になっていますのは、日本の拉致問題についてこれまで熱心にやっておられた救う会の関係者の中から、特定失踪者問題調査会、荒木さんたちがやっておられる、いわゆる政府から認定されていない、北朝鮮に拉致された可能性の高い方々と、距離を置こうと、共闘を拒否するような動きが残念ながら出ているという現実がございます。

拉致問題というのは、政府が認定した家族の方だけの問題ではなくて、今現在認定されいなけれども北朝鮮に拉致された可能性の高い方、そういう人を含めて、全て日本人犠牲者なんですけれども、現実の運動の中で、そういう原点が忘れられて、福田政権のある種の前のめりに対して、救援団体が引っ張られていくという残念な動きがあるように思います。

私が何故この事を言うかと言いますと、支援団体がこういう形で個別に分断されていくと言うことは、確実に運動にとってプラスにならないばかりか、非常に大きく運動の中に災いをもたらすだろうと考えているからです。

これまで拉致問題が日本人の琴線=心の中にある何事かに触れたのは、家族会を中心とした方々の国民に対する訴え、それも単に自分の家族が帰ってくればいいと言う肉親エゴの運動ではなく、拉致されたあらゆる人たちを取り戻すんだと、解放していくというおおやけなるものに対するメッセージ、これがあったからこそ家族会の運動は国民的支援を受けてきたんだろうと私は思います。

そうしたこれまで11年間の家族会が手にしてきた国民との確かな信頼がここに来て再び揺らぎはじめているというのか、外から見るとみえにくくなってきているという気がしています。

こういう形の動きは、残念ですけれども、今後も確実に強まるであろうと、私は見ています。
それは、結局のところ、北朝鮮の政権を倒さないかぎり、あらゆる日本以外の世界各国の拉致された、あるいは、北朝鮮の抑圧された人たちを解放することはできないんですけれども、現実にあの政権がアメリカや中国という国によってバックアップされている以上は、条件闘争として、とりあえず何人かの日本人でも取り返すべきだという、括弧付きの現実的運動方針が出る可能性が、極めて高いというのが今の拉致問題を巡る日本の状況ではないでしょうか?

しかしながら、日本人にとってですね拉致問題というのは、この10年間の日本の社会の変化を生み出した最大の要因の一つであろうと思います。
よく言われるように日本が保守化したというのは、実はそうではない。
むしろ我々に戦後の日本のあり方を根底的に問うたのは、横田早紀江さんたちを中心とした人たちが、何故平和な日本で娘さんが拉致されなければならなかったのか?彼女が拉致されたと言うことを警察はじめ関係機関が知っていたにもかかわらず、これを封印してきた。更にマスコミも、この事実を勇気を持って報道せずに北朝鮮を正式名称で呼ぶと、あるいは、朝鮮総連の無法に対して沈黙するという、そういった戦後の構造があった。
更に、政治家も北朝鮮に対して勇気を持って何かを語るというよりも、常に利権がらみで北朝鮮外交が語られてきた。外務省の無責任さ。自国民を救済しようという外務省のそう言う姿勢も拉致問題においてはみられなかった。
そういう戦後の日本が抱えたさまざまな問題を家族会の皆さんが私達に突きつけて、私達もそこで何事かに気づいて、このままの日本ではいけないという、自己認識に達したと。

そういう、戦後の日本の世直しというか、日本再生の最先端にたって、問題を告発し続けてきた家族会の方が、ここに来て周辺の政治環境の変化にどう正しく対応するのか?
つまり自分たちの家族だけよければいいのか、あるいはいまだ認定されない特定失踪者のご家族と連帯を広げて、国民にアピールしていくのか、非常にぎりぎりの段階に来ているのではないかと私は思います。

結論的に言えば、諸外国の不当な日本に対する圧迫、不正義の強要、これに対して反撃するためには、やはり明治維新の主導者たちが、攘夷のために倒幕戦を闘ったという原点にかえって、私たち自信も世直しをすることによって新しい対外政策、外向的な展開を図っていくべきではないだろうかというようなことを、最近の米朝関係改善の流れの中で、私は感じています。

これからこの問題は確実に現実的にテーマになってくると思いますので・・桜も含めておおいに関心を持って行っていただきたいと思います。

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(5)

 扉の向こう 特定失踪者を追う第5部  
 
私たちが、これまでの連載で取り上げた兵庫県関連の特定失踪者たちは、失跡後の消息が皆無だった。まるで扉が閉ざされたかのように。
 扉の向こうには何があるのか。全国の特定失踪者約五百人の中には、わずかだが、消息が判明した人もいる。
 拉致被害者ではなく、国内にいると分かった人が二十四人。国内での死亡確認が二人。そして、北朝鮮による日本人拉致被害者と政府に認定されたのは一人。
 第5部では、扉の向こうで、思いがけない事態に遭遇していた失踪者の家族を全国に訪ねる。次回は北海道へ。(企画報道班)

(1)同姓同名事件記事の犯人は誰? 


失踪者の顔写真が並ぶ特定失踪者問題調査会のポスター。「広く情報を集め、拉致ではない事案をつぶす必要がある」としている

 夏の日の午後、A子さんは自宅から失踪(しっそう)した。十数年前のことだ。親しかった年配の主婦に電話し「おばさん、これから家を出るわ」と、夫との別居を宣言した。少なくとも、その時点では自らの意思で姿を隠したとみられる。

 同じ日、A子さんから、インターネットのメールを受け取った女友達もいる。自らの異性関係を相談する内容だった。夫の浮気も相談を受けていた。以後、連絡は絶えたが、女友達は「男性と幸せに暮らせればいい」と思った。出奔の約半年後、女友達の元に刑事が訪れた。「A子さんが事件に巻き込まれた恐れがある」と告げられ、驚いた。

 A子さんの捜索願を出したのは郷里の両親だ。警察は事件とみて捜査したが、ようとして行方は知れなかった。

 二〇〇二年九月、北朝鮮が日本人の拉致を認めたことから、両親は疑念を抱く。娘は拉致されたのではないか―。

 両親は特定失踪者問題調査会に相談し、A子さんを「特定失踪者」に登録してもらった。「北朝鮮による拉致の可能性を否定できない失踪者」との位置づけだ。

▲▽

 A子さんの名前を、私たちは、思いがけない新聞記事の中に見つけた。

 全国の地方紙のデータベースを検索し、探し当てた記事の見出しは〈当たり屋 共犯の女逮捕〉だった。男と組んで、わざと車に接触し、運転者に金品を要求したとして逮捕された女は、A子さんと同姓同名。年齢も同じ。もしも同一人物ならば、拉致の可能性は薄まる。何よりも、行方を捜す手がかりになる。

 私たちは、生年月日の照合を試みた。女を逮捕した警察署は確認を拒んだ。家族の依頼ならば、警察も応じるのではないかと、A子さんの両親への連絡を考えた。しかし、迷った。それが本人であれ、別人であれ、両親を混乱させるだけではないだろうか。

 結局、両親に連絡せずに済んだ。問い合わせていた裁判所から返事があった。「元被告の生年月日は言えないが、A子さんのとは違う」

 つまり、別人だった。



 私たちが、これまでの連載で取り上げた兵庫県関連の特定失踪者たちは、失跡後の消息が皆無だった。まるで扉が閉ざされたかのように。

 扉の向こうには何があるのか。全国の特定失踪者約五百人の中には、わずかだが、消息が判明した人もいる。

 拉致被害者ではなく、国内にいると分かった人が二十四人。国内での死亡確認が二人。そして、北朝鮮による日本人拉致被害者と政府に認定されたのは一人。

 第5部では、扉の向こうで、思いがけない事態に遭遇していた失踪者の家族を全国に訪ねる。次回は北海道へ。




(1)同姓同名  事件記事の犯人は誰?(2008/04/27)

(2)図工教諭  プール当番 帰りに何が(2008/04/28)

(3)李恩恵  疑念生じた工作員の供述(2008/04/29)

(4)時効  殺人判明も刑事罰問えず(2008/04/30)

(5)反論  家族の行方捜すのは当然(2008/05/01)

(6)日本海  片方のサンダルが路地に(2008/05/02)

(7)三つの情報  埋もれた事件たぐり確信(2008/05/03)

(8)支援の輪  情報集まり拉致認定へ(2008/05/04)

(9)470人  疑惑濃淡で線引きできぬ(2008/05/05)

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(4)

神戸新聞の独自取材、特集記事をご紹介します。
連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。
足跡が消えた日 特定失踪者を追う第4部 目次

(1)大山まで車内に旅程記録残して
         
失踪した広田公一さん  広田さんの車が放置されていた南光河原駐車場=鳥取県大山町  

 〈午前9時半 尼崎出発、12時牛窓、喫茶もみじ午後3時着、午後3時半発 大山着午後6時20分〉

 一九八四年七月二十一日は、夏休み最初の土曜だった。尼崎市の西武庫団地に住んでいた広田公一さん=当時(30)=は、自家用車で鳥取県・大山へ向かった。そして、消息を絶った。車だけが登山口に近い南光河原駐車場で見つかり、車内に旅程の記録を書いたメモがあったという。

 私たちは昨年十一月、約三百二十キロに及ぶ、このメモのルートをたどってみた。

 海沿いにペンションが並ぶ岡山県瀬戸内市牛窓町。穏やかな海に島影が映る。

 広田さんが、海水浴客で込む町にわざわざ足を延ばしたのは、観光のためか、ほかに目的があったのか。私たちに答えを探すすべはなかった。

▲▽

 広田さんは西脇市出身。立命館大を卒業後、日本自動車連盟(JAF)に就職し、経理担当だった。「週末に大山へ行く」と、電話で聞いていた二歳上の姉、勅子(のりこ)さんは登山をすると解釈した。

 失踪(しっそう)直後、広田さんの家族もメモのルートをたどった。二〇〇三年以降、広田さんの親族の依頼を受け、特定失踪者問題調査会の常任理事岡田和典さん(58)も調べ直した。

 岡山県総社市の国道180号沿いで「喫茶もみじ」を見つけたのは家族だった。そのとき、広田さんの写真を見た常連客が「大山までの道を聞かれた。女性と一緒だった」と証言したという。だが、確実な情報とは言い難い。一人旅だったのか、同行者がいたのか、謎は残る。

 もみじは二〇〇〇年に閉店していた。私たちは元経営者の女性(67)に会えた。かつては大山へ向かう観光バスが店に寄ったが、山陽道などの開通で客が激減したという。広田さんのことは予想通り「知らない」と首を振った。警察が調べに来たこともないという。

 長いドライブの末、南光河原駐車場に着いた。

 大山は雪雲の中だった。広田さんが訪れた七月下旬は登山者が最も多い季節だが、晩秋の夕刻に観光客の姿はなかった。赤い登山届ポストだけが目についた。当時、広田さんの届けは出ていなかった。

 失踪した日の登山者は約二千五百人、駐車場に約三十台の車が止まっていたという。だが、目撃情報はなかった。

 北朝鮮に拉致された可能性を否定できないとして、家族が調査会に届け出た特定失踪者。一九八〇―九〇年代を中心とする時期の失踪者たちは、消息を絶った日がはっきりとしている。そこで、ふっつりと足跡が消える。謎だけを残して。

(企画報道班)(2008/03/01)

――――――――――――――――――――――――――――――――
バックナンバー
(1)大山まで車内に旅程記録残して(2008/03/01)

(2)警察犬「山で遭難」の確証もなく(2008/03/02)

(3)やぶの中「なぜ」の答え定まらず(2008/03/03)

(4)入社式就職に悩み募らせた2人(2008/03/04)

(5)女児の声自宅に相次いだ不審電話(2008/03/05)

(6)派遣労働自立にもがく息子の姿(2008/03/07)

(7)母娘の名を言うのもつらい(2008/03/08)

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(3)

神戸新聞の独自取材、特集記事をご紹介します。

連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。

蒸発の理由 特定失踪者を追う第3部 
  第三部目次
 第三部は、拉致の可能性を否定できないとし「特定失踪者」に挙がった四人の失跡と、家族のその後を紹介する。取材を通して、私たちは四人の家族の共通した思いに気付くことになる。(企画報道班)
(1)その日高度成長期に消えた4人
      
 尾崎隆生さん  古川文夫さん   島脇文内さん  萩本喜彦さん
 
尾崎隆生さんは一九三三年、京都府宮津市の出身。左手の指が曲がらない。舞鶴市の運送会社で運転手をしていたときの事故の後遺症だ。失職し、専門学校で経理を学んだ後、神戸へ。ネクタイを扱う会社に就職した。

 住み込みで働く職場は、国鉄(当時)三ノ宮駅の北側にあった。勤めて二年になる六〇年十一月二日、「遊びに行ってきます」と、趣味だったカメラを手に出かけた。

 その後の行方は分からない。失踪(しっそう)時、二十七歳。

 おとなしい性格の古川文夫さんは、よく行ったスナックでも口数が少なかった。

 母の故郷の山形県新堀村(現・酒田市)で一九五一年、双子の兄として生まれた。尼崎市下坂部で育ち、市立小田北中学を卒業後、建築業の父の下で大工の見習いをした。

 七〇年二月ごろ、北陸へ遊びに行くと、家を出た。数日後「三日ほどで帰る」と電話があった。さらに、愛用のカメラの質札が、なぜか自宅に郵送されてきた。

 そして、消息は途絶えた。失踪時、十八歳。

 島脇文内(ぶんない)さんは、神戸市垂水区中道にあった日本エヤーブレーキ(現ナブテスコ)の独身寮住まいだった。一九五〇年、淡路島の出身。神戸へ出て県立兵庫工業高校を卒業し、同社に就職した。

 同市西区の西神工場の製造ラインで、自動扉や建設機械など油圧機器を作った。電気の配線は熟練の技が要求されるが、島脇さんは先輩に教わって黙々と仕事をこなした。

 七四年一月二十二日、寮を出たまま出社しなかった。失踪時、二十三歳。

 萩本喜彦さんは、高砂市中島に建てた新居に、社宅から引っ越したばかりだった。一九四〇年、同市出身。妻と子ども三人とともに暮らす家で七五年四月五日、新築祝いの会を持つことになっていた。

 勤め先は、近くの神戸製鋼所高砂工場。機械設備の保全が仕事で、若手のリーダー的存在だった。祝宴の前日は、午後十時十五分からの夜勤にあたっていた。

 「行ってくるわ」。四日午後九時五十分ごろ、いつものように自転車で自宅を出た。

 しかし、工場に姿を見せなかった。失踪時、三十五歳。

                  ◇

 高度成長期の終わりに流行した言葉がある。

 「人間蒸発」。一九七四年の警察白書は〈『蒸発』といわれる動機原因不明のもの(家出人)が約九千人〉とした。テレビ局はこぞって人探しの番組を放映し、「お父さん…」と呼びかける子どもの姿が茶の間の涙を誘った。四人も、そんな時代に蒸発した。
――――――――――――――――――――――――――――――――
バックナンバー

(1)その日高度成長期に消えた4人(2008/02/13)

(2)過疎高齢の姉墓に名前刻む(2008/02/14)

(3)宣告拉致疑い 家族に温度差(2008/02/15)

(4)海外赴任プラント輸出担う技術者(2008/02/16)

(5)一本道友人の死にも連絡なく(2008/02/17)

(6)家族赤ん坊も一児の父親に(2008/02/18)

(7)道程職場の友人と語り合う(2008/02/19)

(8)夢の終わり工場閉鎖、仕事に愚痴(2008/02/20)

(9)震災実家に連絡なしなぜ(2008/02/21)

(10)希望生存可能性「拉致」に託し(2008/02/22)

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(2)

神戸新聞の丁寧な独自取材です。
連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。

オキナワの青年 特定失踪者を追う第2部 

 
一九六五年の年明け早々、仲村克巳(かつみ)さんは那覇港から神戸行きの船に乗り込んだ。当時、二十一歳。内地での就職に反対する家族には内証だったから、見送る人はいなかった。故郷・沖縄は米軍の統治下にあり、パスポートを手にしての旅立ちだった。

 就職先は尼崎市にあった製鉄所。一月十二日、市役所に転入届を提出した。

 父、亀永(きえい)さんは、寮住まいの克巳さんにすぐ手紙を送った。既に亡き亀永さんに確かめようもないが、長男の“家出”をよほど心配したのか、続けざまに〈葉書(はがき)着き次第返事を送って下(くだ)さい〉と二信目を書いた。「RYUKYU」と読み取れるスタンプの日付は「65・2・5」だった。

 父の便りはこう続く。

 〈家族中皆元気です。例年の様(よう)に旧正月を祝ってほっとした所です〉



 沖縄には二度、正月がやってくる。沖縄の年中行事は旧暦(陰暦)で日が決まる。正月は、新暦の一月一日にも祝うが、旧正月も大切にする。

 克巳さんは沖縄本島中部、中城(なかぐすく)村の農家に生まれた。克巳さんがいたころ、新暦の元日は、冷え込みで甘みを増したサトウキビの収穫繁忙期。五歳下の妹、栄子さん(59)によれば「ニーニー(兄)は頑張りすぎなぐらい働いた」。祝いごとの余裕はなかった。

 旧正月の思い出は、ある。「うちは貧乏だったし、大したお祝いはしなかったけど、お年玉とごちそうがうれしかった」と栄子さん。豚の三枚肉や結び昆布、大根の煮物を仏壇にお供えし、新年の幸せを先祖に祈る。お下がりを家族でいただく。あいさつ回りをし、お年玉をもらう―。肉は当時、まだ貴重だった。

 もう一つ、印象的な旧正月の風景があった。どの家も日の丸の旗を門に立てた。中城村でもこぞって掲げた。資料によれば、一九五〇年代、日本への復帰運動として沖縄の革新勢力が日の丸を広めた。日の丸は、不戦を誓う日本国憲法の象徴だった、という。

 亀永さんがはがきを送った直後の六五年二月七日、ベトナム戦争を戦う米軍は、北爆を開始する。発着する戦闘機のごう音が、基地と化した島“オキナワ”に響いた。



 尼崎で就職した克巳さんだが、その後、職を転々とする。そして、四年後の六九年夏、西宮市内の下宿に「神戸へ行く」とメモを残し、消息を絶つ。

 二〇〇三年、克巳さんは、妹の和子さん(61)らの申し立てで、北朝鮮に拉致された可能性を否定できない「特定失踪(しっそう)者」の一人に挙げられた。



(企画報道班)(2008/01/01)

――――――――――――――――――――――――――――――――
 キンモクセイが香る秋から約三カ月、私たちは仲村克巳さんの取材を続けている。名前を知る人さえ数少ない。四十年の歳月を経た街で、迷宮を歩くように無名の青年の足跡を探した。それは「戦後」をたどる旅にもなった。
 第二部は、私たちが知り得た克巳さんの人となりを伝える。消息につながる読者の情報提供にも期待しながら。
(1)旧正月 職求めて孤独な旅立ち(2008/01/01)

(2)故郷 農地狭く移民最多の村(2008/01/03)

(3)労組 頑張っても希望がない(2008/01/04)

(4)出稼ぎ 母親思いの長男の選択(2008/01/05)

(5)製鋼課 大量採用、次々と離職(2008/01/06)

(6)寮 写真に高度成長の面影(2008/01/07)

(7)岐路 帰郷せず転職繰り返す(2008/01/08)

(8)牛乳販売 街並み一変 手がかりなく(2008/01/09)

(9)パスポート 拉致の決め手にならず(2008/01/10)

(10)先送り 前世紀のつけ悲しみ深く(2008/01/11)

|

特定失踪者を取りあげた記事の紹介(1)

神戸新聞の記事です。

昨年末からの特集記事ですが、まとまっているので順次ご紹介します。

連載記事ですので一回目だけを掲示します。

※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。

足元の迷宮 特定失踪者を追う -第1部 日本人拉致事件の陰で

写真:初冬の弁天浜。写真中央付近の砂浜に、かばんと靴が置かれていた=豊岡市竹野町竹野

1. 足 跡 … 娘が自殺?壊れた日常 (2007/12/12)
娘が自殺?壊れた日常

初冬の弁天浜。写真中央付近の砂浜に、かばんと靴が置かれていた=豊岡市竹野町竹野
 砂浜の足跡は、波打ち際に沿って行きつ戻りつしていた。海へと続くものもあった。

 「その光景を、忘れられないんです」。秋田嶺子(れいこ)さん(73)が涙ぐむ。夫の正一郎さん(75)とともに初冬の海に駆け付けてから丸二十二年になる。

 一九八五年十二月五日、豊岡市竹野町の弁天浜。たそがれてゆく小さな浜で、二人は立ち尽くした。眼前の海ではダイバーも出動し、海上保安庁や県警、漁協が、まな娘の捜索をしていた。

 ◆

 記憶に残るニュースが多い年だった。

 「ロス疑惑」と呼ばれた銃撃事件、悪徳ペーパー商法の豊田商事事件、そして、犠牲者五百二十人を出した日航機墜落事故。阪神タイガースが日本一に輝き、神戸ではスポーツの祭典「ユニバーシアード」に世界の若人が集った。

 当時、秋田家は川西市湯山台にあった。三月に長女が結婚。保険会社に勤める正一郎さんは徳島市に単身赴任中で、嶺子さんは二女の美輪さんと二人暮らしだった。

 美輪さんは神戸松蔭女子学院大学の四年生、二十一歳。もの静かで、しっかりした末娘を嶺子さんは頼りにしていた。大学を卒業する春には川西を引き払い、親子三人そろって徳島で暮らすことが決まっていた。

 平凡な、だから幸せな、一年が過ぎようとしていた。一本の電話があるまで。

 「秋田美輪さんは、おたくのお嬢さんですか」

 城崎署(現・豊岡北署)から川西の自宅への連絡は十二月五日の午前八時ごろだった。「美輪さんの靴とかばんが、浜辺で見つかりました」

 嶺子さんは、話がのみ込めなかった。娘は神戸の友人の下宿に泊まっているはずなのに―。しかし、美輪さんは、友人を訪ねていなかった。

 急ぎ徳島から戻った正一郎さんと、嶺子さんは列車に飛び乗った。そこから先、動転した嶺子さんの記憶はあいまいだ。

 美輪さんが見つからないまま捜索は打ち切られた。目撃情報も皆無だった。新聞に「女子大生が入水(じゅすい)自殺?」との見出しで記事が載った。正一郎さんも、嶺子さんも、娘が自殺したとは信じられなかった。

 未解決のまま置き去りにされていた「失踪(しっそう)」が、二十一世紀の幕開けとともに注目された。

 二〇〇二年九月、日朝首脳会談。北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記が日本人十三人の拉致を認めた。「もっと拉致被害者はいる」との疑いが強まり、前世紀の不可解な失踪の再検証を家族たちが求めた。民間の「特定失踪者問題調査会」が受け皿となり、拉致の可能性を否定できない「特定失踪者」を受け付けた。その数は全国で約四百七十人に上る。

 「北朝鮮による拉致としか思えない。政府は一刻も早く拉致被害者に認定を」。正一郎さんも、美輪さんを特定失踪者に登録した。

■   □

 特定失踪者の公表が始まって来年一月で五年。

 大半のケースが、拉致の確証も、拉致でない確証も、得られていない。再び忘れられようとしている特定失踪者のうち、兵庫県関係者の足跡を、私たちはたどろうとしている。なぜ、私たちの街は、この人たちを見失ったまま歳月を重ねたのだろう。そんな疑問を胸に抱きながら。
―――――――――――――――――――――――――――――――

1. 足 跡 … 娘が自殺?壊れた日常 (2007/12/12)

2. 親 友 … 電話を残し娘は消えた (2007/12/13)

3. 捜 索 … 澄んだ海に遺留品なく (2007/12/14)

4. 陰 膳 … 心の整理 今もつかず (2007/12/15)

5. 突破口 … 北朝鮮への疑念噴出 (2007/12/16)

6. 発 掘 … 身寄りない2人どこへ (2007/12/17)

7. 接 線 … 工作員上陸 過去何度も (2007/12/18)

8. 急行券 … 偽装と推理 疑い深める (2007/12/19)

9. 家出人 … もう切り捨てられない (2007/12/20)

兵庫県関連の特定失踪者一覧  

兵庫県関連の特定失踪者が、まとめられていますので、是非ご覧下さい。

|

2008年5月 3日 (土)

4.27国民大集会にて 市川龍子さんのことば 

 【 市川龍子さんのことば】
  ※市川修一さんのお姉さま

みなさん、こんにちは。市川修一の義理の姉の市川龍子です。
桜も、葉桜になりました。我が家にも国道沿いに一本の桜の木があります。見事な桜を毎年毎年見せてくれますが、その桜を見ながらですね・・歌が好きなので、ちょっと聞いてください。

 風に舞う 花の吹雪に君思う 我が家の桜も待ちに待ちたり

毎年毎年我が家の桜も、待っております。葉桜になりました。
何年待てばいいんでしょうか?

日本の綺麗な桜を見せずして、北朝鮮で死なせてなるものかと思っております。(拍手)
どうしても、日本に・・・
(一部拍手で聞き取れず)

親も92才になりまして、何時旅立つのかと思うと、胸が張り裂けるようです。
なんとしても、両親の胸に修一を抱かせてやりたいと・・いろんな話をさせてやりたいと思っております。

どうぞ・・国会議員の先生---もういらっしゃいませんが---、(会場苦笑と拍手)
私達の代表です。本当に、国家主権が侵されていることに、腹を、もっともっと立てていただきたいと思います。

(拍手で、聞き取れず)

|

2008年5月 2日 (金)

4.27国民大集会にて 有本嘉代子さんのことば

 ◆【有本嘉代子さんのことば】  

  ヨーロッパから拉致された、有本恵子さんのお母様

・・・・・(最初聞き取れず)本当に、長いことかかっていますが、娘が拉致されてからちょうど25年になります。そしてこの運動を始めたのが20年前です。
本当にこんなに長くかかるとは、その時は思いませんでしたけれども、それから、どなたかが・・おっしゃったように、10回以上の会を持って、そのつどみなさまが私達のために足を運んでくださる、これがいっつも、この力で私達が動けたんだなと言う気持ちをいつも持っています。
だから、この問題は、日本の国の問題なんですね。だから、めぐみさんとか、有本恵子という一人一人の個人の問題ではなく、国がどうしてもこれは、解決しなければならないという問題ですので、(拍手)・・・・
応援してくださる方がね、「これは、あなた方たまたまに連れて行かれたんですよ、それが私の娘だったかわかりません」 とおっしゃってくださる方があるんです。私達、本当に、そう言う問題なんです、本当に支援してください って(一部不明)

やはりこれは日本人だからそういうこと言ってくださるのだと、私など古い人間ですから、いつもそう思って、日本人は素晴らしいといつも思っておりますので、この皆様方に助けいただいて、いつまで続けられるかわかりませんが、年齢的には(一部聞き取れず)。今後頑張っていって、全部の人を取り返すように、皆様にお願いします。(拍手)

|

ブッシュ大統領のメッセージ

アメリカにおける北朝鮮人権週間への、ブッシュ大統領のメッセージ

Below is the President's statement on North Korea Freedom Week -FYI
Suzanne
THE WHITE HOUSE

Office of the Press Secretary
___________________________________________________________

For Immediate Release April 30, 2008


STATEMENT BY THE PRESIDENT

Laura and I send greetings to all those observing North Korea Freedom Week. I am deeply concerned about the grave human rights conditions in North Korea , especially the denial of universal freedoms of speech, press, religion, assembly, and association, and restrictions on freedom of movement and workers’ rights. I have met in the Oval Office with some of the brave individuals who have escaped from that country. I am deeply concerned by the stories of divided families, harsh conditions, and suffering. The United States stands with the North Korean people in their call for freedom. We believe it is every person’s basic right to live in freedom and dignity. We will continue to support the North Korean people as they strive to achieve the rights and freedoms to which they are entitled as human beings. We look forward to the moment when we can celebrate the blessings of liberty with the North Korean people.

――――――――――――――――――――――――――――――――
過去二回行われた日本における北朝鮮人権問題啓発週間に、日本の総理大臣がメッセージを発したことはなかった。

人権に対する国家の姿勢が問われるのではないでしょうか?
日本には拉致問題があるのです。
その意味でも、日本政府はもっともっと北朝鮮の人権問題に発言していくべきだと思います。

  ブッシュ “北の自由を勝ち取るための闘争を支援”

      北朝鮮自由週間に合わせた大統領声明

      アメリカのジョージ・ブッシュ大統領が30日、‘北朝鮮自由週間’を迎えて“アメリカは自由を唱える北朝鮮の人民の側につく”と明らかにした。

      ブッシュ大統領はこの日、異例の‘大統領声明’を発表し、“私たちは自由と尊厳の中で暮らすことが、全ての人の基本的権利だと信じている”と述べ、“北朝鮮の住民が人間としての固有の権利と自由を得るために闘争することに対し、支援し続ける”と述べた。

      また、“私たちはいつか、北朝鮮の住民が自由の祝福を享受する日を祝う瞬間を待ちこがれている”と付け加えた。

      ブッシュ大統領はローラ夫人と共に、北朝鮮自由週間を記念する全ての人に挨拶を送ると述べ、“私は北朝鮮の重大な人権侵害状況、特に人類普遍の表現と言論の自由、宗教と集会、結社の自由を否定して、居住以前の自由と勤労者の権利を規制する状況を深く憂慮している”と強調した。

      また、”ホワイトハウスの執務室で勇敢な脱北者たちに会った”と言い、“脱北者の離散家族の話と彼らの厳しい状況、苦痛について深刻に憂慮している”とブッシュ大統領は述べた。

      26日からワシントンD.C.で‘第6回北朝鮮自由週間’の行事が始まり、29日午前にはアメリカ議会前の公園で、アメリカ国内の北朝鮮人権団体や在米韓国人100人余りが参加した、脱北者強制送還反対集会が開かれた。

      この日の集会で参加者たちは、中国政府が中国国内の脱北者を検挙して北朝鮮に強制送還していることを批判し、中国政府に脱北者を難民として認めることと、脱北者が第3国に行くことを保障するよう要請した。

|

早紀江さん作詞の曲発売へ

 「コスモスのように」 めぐみは生きている 横田早紀江さん初作詞のCD発売へ

拉致被害者の横田めぐみさん=拉致当時(13)=の母、早紀江さんが作詞した「コスモスのように」のCDジャケット 拉致被害者の横田めぐみさん=拉致当時(13)=の母、早紀江さん(72)が初めて作詞した歌が10日、CDとしてライフ・ミュージック社(東京)から発売される。タイトルは「コスモスのように」。「強いコスモスのように、めぐみが必ず生きているという思い」(早紀江さん)が詞に込められている。

 早紀江さんの詞に、曲を付けたシンガー・ソングライターの岩渕まことさんが3月にレコーディング。優しいメロディーで希望に満ちた作品に仕上がった。

 詞は、早紀江さんが新潟市の自宅の庭で育てたコスモスが太く、大きくなりすぎ、めぐみさんと「コスモスらしくない」と大笑いした思い出がベースとなったという。

 「遠い空の向こうにいる めぐみちゃん あなたも お母さんが育てた あのコスモスのように 地に足をふんばって生きているのねきっと しっかりと頭を揚げて生きているのねきっと」(詞の一部)

 早紀江さんは「どの家族も、被害者が元気でいると信じている気持ちを聞いていただければ」と話している。

 CDには早紀江さんによる詞の朗読も収録した。1枚1050円(税込み)。

――――――――――――――――――――――――――――――――
早紀江さんが作詞した曲がCDとして発売されます。
可憐なコスモスが、大きく元気に育ったことを二人で笑ったあの時(30年以上前)の楽しかった家族の想いで。
くじかれそうになる想いを、繰り返し気力と信念で立て直し、希望を失わず必死で闘っている家族の願いを、日本中で支えて行かなければならないと思います。

|

中川昭一氏挨拶(2008/4/27)

4月27日国民大集会 日比谷にて

【櫻井よしこさん 司会】  
次ぎに自民党拉致問題対策特命委員長としてこの拉致問題に長く関わってくださいました、拉致議連会長代行でもいらっしゃいます、中川昭一さんをご紹介したいと思います。
昨年、中川会長代行はこの場で、日本版テロ国家指定法を、作ることを約束してくださいました。
その後、民主党側と話を続けまして、北朝鮮人権法の改正案を通してくださいました。
この改正案が成立したことによりまして、国際社会が例えば、北朝鮮をテロ支援国家からはずすようなことをしたとしても、日本では、まだ拉致が解決されていないないということをきちんとした理由として、法律に基づいて、北朝鮮対する制裁、そして拉致問題解決の要求を突きつけ続けることができるような、法的基盤ができました。

中川昭一さん、お願いいたします。(拍手)

 【中川昭一氏挨拶】 
本当に日曜日の午後にも関わりませず、大勢の皆様方、そしてお一人お一人が大変真剣にこの会に参加していただいておりますことを、私も心から力強く、また改めて強い責任を政治家として感じているところでございます。

今年もこういう大会を開かなければならないと言うことは、大変残念なことであります。
しかし、こうやって大勢の皆様、国民の皆様の支援があってこそ、この問題の解決があるという事も事実でございます。

家族会のお一人お一人は、毎日大変、大変・・一日千秋の想いで、家族との日本での生活の回復を望み、そのために毎日大変な・・全国を飛び回っているわけでございます。
昨日もテレビで拝見いたしましたけれども、アメリカに対しての要求の署名活動、みなさんが真剣にやっておられます。

さて、「最初の5人が帰ってきて、もう五年も六年も経ったんだから、それよりも、日朝の交渉を早くやったほうが先ではないか」とか、「六カ国協議の中で日本だけが、この問題を最優先にしているとバスに乗り遅れるぞ」というような議論がありますが、これは文字通り、相手の望むところになるわけですから、絶対にこれは阻止をして行かなくては、(拍手)

戦前、日本が、ドイツイタリアと三国軍事同盟を結びました。その時に、米内光政という海軍のトップが、「バスに乗り遅れるな」(というような)やっぱり、七十数年前、同じような議論があったわけですが、米内光正は、「おんぼろバスならば、乗り遅れた方が良い、乗らない方が良い」(拍手)と主張しました。
我々も、間違った方向に行くとんでもないバスには、私どもはこの拉致問題解決という目標がなくしては、何も乗り遅れる方が、乗らなくても、私は、日本のため、国民のためにはそう言う選択の方が、正しいのではないかと思います。(拍手)

さきほど民主党代表がおっしゃいましたけれども、よく「対話と圧力」と言うことばを使いますが、私は、このことばは嫌いであります。
「圧力と交渉」、いや「圧力と要求」、それなくしては、(拍手)・・・・(聞き取れず)

今、町村官房長官もご出席いただき、制裁法の延長を、我々自民党からも要求をして延長していただきましたけれど、効果があります。
でも事態は進展しておりませんから、更に効果をお上げるためにはやはり、制裁の強化、貿易の全面的、実質的な禁止、あるいは、このことを、諸外国同じようにしようと働きかける、こんなようなことが必要なのではないかと、思います。

国民の皆様の良識とそしてそれに、答えるべく、国家の主権を守る、国民の生命と安全を守るという国家の役割を果たしていくために我々与党も、政府と一体となって、また与党だけでなくて今日は各党きておりますけれど、全力を挙げて、議会の場で努力することを改めて本日お誓いを申し上げて、私の挨拶とさせていただきます。

|

2008年5月 1日 (木)

荒木和博特定失踪者問題調査会代表挨拶(2008/4/27)

【櫻井よしこさん 司会】
熱血漢の荒木和博さんにご登場いただきましょう。(拍手)
調査会の代表である荒木さん、どうぞ新しい情報、そして新しい戦略をお聞かせいただきたいと思います。ありがとうございます。(拍手)

【荒木和博特定失踪者問題調査会代表】  
ご紹介いただきました荒木でございます。
最近北朝鮮政府のみならず、日本政府にも嫌われてしまっているようでございますけれど・・ (笑)
今、官房長官が退席されたのは、べつに私がしゃべるからでは、ないとは思いますが、(笑い)普段から、嫌われることばかり言っていますので、急に変えても、おかしくなるんではないかということで、多少は、辛口の話もしなければいけないと思います。

先ほど、官房長官の話を聞いていて、様々なことをやっておられると言うことについては、もちろん十分に私も、理解をいたしております。

フランスの新聞に拉致の問題が出たというのが出ておりましたけれど、これもまぁ、政府が努力をされて、そして救う会、家族会の方々がバックアップされたからできたことで、このようなことを進められると言うことは、私ももちろん、大変評価をさせていただくことでございます。

ただ、やはりお話を聞いていて、 一番ど真ん中が、欠けているのではないかということを、感じざるを得ない。 (拍手)

今、この外にですね、外のロビーを出て、階段を降りたところに、北朝鮮の工作員が侵入するための水中スクーターの1/1の模型をを展示してございます。去年の12月の我々が自衛隊の広報センターでやりました「しおかぜの集い」にあわせて、作成したものでございますけれども、お帰りの際に、是非これをご覧になっていただきたいと思います。

相手が、こういうものを使って上陸してきて、そして日本国内で好き勝手なことをやっていく連中でございます。 こういう相手に対して、戦い無くして、話し合いで拉致が解決できると、そういうふうに思うのであれば、  それは、ある意味、国民に対する、裏切りであるとしか私は、思えない。 (拍手)

私ども、政府の関係各機関のかたとは、必要なところでは--正直言ってあまり表には言えませんが--それはもう、解決できれば、我々なんでもやります。我々の嫌いな人の所に行って、靴をなめたって、土下座でも何でもします。それで解決できるならばいいのですが、大変こういう場で、失礼な事を申し上げますが、運動というのは、全部丸ごと、同じようにしたら、運動の力というものは、無くなるものだと申し上げざるを得ない。
これは拉致の運動を始める前から、私自身が、政治活動を15年間やってまいりまして感じたことでございます。

我々調査会の中だって、意見は様々別れております。私と専務理事の真鍋だって、もう30年ぐらい、ケンカばかりしております。でも、それをやることによって、お互いがチェックされ、そして間違っているところは直すことができるんです。

それぞれ、違う運動家がやらなければいけないのは、お互いに足らないところを補い、もちろん協力するところは協力するという、是々非々の姿勢を貫くことではないだろうかと思います。

それがなければ、逆に我々今やっていて思いますけれど、単に、「ご一緒にやっていこう」ということだけであれば、それは政府の中で、本当に一生懸命やりたいと思っている人たちの動きを逆に、止めることになるのではないかという、懸念でございます。

前の安倍政権の時が、正にそうでございました。安倍さんになったからいいだろうと、もう大丈夫だろう、安倍さんと一緒にやればいいと思ったことで、一年間、--それが、全てがもちろんムダとは言いませんけれど--時間を費やしてしまったこともあったのではないかと・・

必要なことは、先ほど、○○さんがおっしゃいましたけれど 「決断」 でございます。
その決断というのは、政治と、ここにいる各党の先生方による決断で、政治が決めなくてはいけない。

官僚機構が、どんなことをやったって、この問題の解決は、絶対にできません。(拍手)
全ては、政治決断 。
そして、その政治を動かすのは、今日、こうやってゴールデンウィークの最中、お越し頂きましたみなさんの声です。
その声によって政治家を動かしてきたからこそ、この11年間、ともかく他の国に比べれば、他の国、韓国に比べても、この拉致問題は、日本に於いては大きくなり進展はしてきたと言うことであろうと思います。これからも必要なのは、そういう事であろうと思います。

そして、やはりどんな手を使っても取り返すという努力を我々は、していかなくてはいけません。
 
我々、今北朝鮮に向けて短波放送を出しております。
周波数にあわせて、むこう側から妨害電波をだしてる。妨害電波が出てくるまでのスパンがだいたい5日間か6日間です。その妨害電波が出たら、こちらは(妨害電波にあわせて)周波数を変える。変えるとまた5日ぐらいして、むこうからそれにあわせて妨害電波を送ってくる。これをずっと今続けています。
しかしそれをやっていくことによって、相手の力量が、どのくらいあるのか、相手の状況が、どういうことなのか、それがわかってきます。

少なくても、むこうが妨害してくると言うことは、それだけ、むこうが嫌がってると言うことでございまして、ともかく何でも良いから、できることを、しかも相手の中につっこんで引っかき回すようなことをですね、やっていかなければいけない。

最終的には、どんなことをやったところで、あの体制を変えない限りは、この問題は、絶対に解決しない。 
 (大きな拍手)

(そうなったときには)、日本人の拉致被害者だけでなく、今日お見えの韓国人の拉致被害者、あるいは、強制収容所の中で今にも死にそうになっている方々、そして一般の国民を含めて、救うことができるというふうに確信を致します。

そう言うふうに政府をもっていくのは、・・・今日ここにお見えの皆様の、お力でございます。

私どもも、ともかく最後まで全力を尽くして参ります。
御協力を御願いしてご挨拶とさせて頂きます。
(拍手)
――――――――――――――――――――――――――――――――
相変わらずの、荒木節♪ですね。

ところで、私の素朴な疑問ですが、どうして、今回は、<特定失踪者問題>調査会と紹介しなかったのでしょう?気にしすぎでしょうか?

|

2008年1月28日 (月)

冬の薔薇

  

  


庭のブルーローズが、この寒さにもかかわらず、一輪二輪と、霜柱の朝、冷たい風に負けずに咲いています。
寒く厳しいであろう北朝鮮での幽閉生活の中で、希望を失わずに待っていてくれるめぐみさんのことを思います。

早紀江さんは、以前集会で「30年も戻らない事には、必ず意味があると思っています。きっと使命があるのだと信じています」と強くおっしゃっていました。

冬の薔薇は健気に、静かに、傷つきながらも、咲いています。凜と天を見あげ、日の光を一杯に浴びようと懸命に咲いています。

たくさんの花を付ける5月の華やかさに比べれば、花も小さく、少し貧相ですが、それでも薔薇は薔薇。気品を感じさせる高い香りが、私を和ませてくれます。

どんなことがあっても、諦めてはいけないと、強い意志を私に与えてくれる冬の薔薇。

拉致被害者は必ず待ってます。
どんなに政府が動かなくても、私達の意志が強ければ、願いが結束すれば必ず救うことができると信じさせてくれる冬の薔薇。

その姿は、まるで早紀江さんの信じる姿に似て、待っているめぐみさんの耐えている姿に重なるのです。

普通の市民には、結局想いを重ねることしかできないのかもしれません。
活動家のように、集会にいくことも中々できないものです。
けれども、願いは一緒に持つことができます。

昨日見学した 東京国際キルトフェスティバル では、たくさんの救いたい願いを持つ日本女性にお会いしました。

展示されていたブルーリボンキルトには、<Dear Megumi>と刺繍が施され、さりげなく開場で、家族の再会を願うメッセージを伝えていました。

キャシー中島さんは、「必ず生きていると私は信じています」とおっしゃってくださいました。

冬の薔薇に、その想いを重ねて、私は祈ります。

全員返してください と。

|

2007年12月17日 (月)

youyube動画(テスト)

北朝鮮人権問題啓発週間のイベント

|

2007年12月15日 (土)

真鍋貞樹 調査会専務理事講演(3)

古川了子さんを救出する千葉集会in市原
07.11.17 市原市辰巳公民館にて

『真鍋貞樹 特定失踪者問題調査会専務理事の講演 その3』

では、これから先はかなり推測も含まれているので、ちょっと私も気をつけながら申し上げますが、木村かおるさんは北朝鮮でタイ人の女性だけではなく、他の関係も日本語を教えていたと、1割ほど推測しています。
大韓航空機の金賢姫の告白本を丹念に読むと、小さく載っているんです。
それは何かと言うと金賢姫は田口八重子さんに、日本語を教わっているわけじゃないんですよ。
田口八重子さんに日本人女性の生活習慣・仕草・会話などを教わっていて、日本語は他の日本人に教わっているのです。
その本に書いてあるんです。
その他の日本人とは誰かというと「1960年代に来た日本人」て書いてあるんです。
当時帰国事業と言うのがありました。
その帰国事業で北朝鮮に行った日本人と書いてあるんです。
木村かおるさんの失踪は1960年ですね。
金賢姫がその人に日本語を教わった時には、その日本人女性は中年だったという事です。
彼女が教わっていたのは1980年の前半くらいかな?
木村さんは20歳の時の失踪だから、40歳くらいの時に金賢姫に日本語を教えたのではないか?という事になります。これはかなり推測ですけど。

金賢姫は日本語をどこで教わったか?と言うと、平壌外国語大学で教わっていたのです。
その教わっていた先生が日本人だったという事です。
金賢姫が大学を中退して工作員に再教育されていくわけですけども、別れ際のやり取りがこの本に書いてあるんですけども、「この先生はとても私を誉めてくれた」と書いてあります。
「とても素晴らしい成績で、成績が良くて一生懸命頑張った」と。そして別れ際に『お元気で』って言ってくれました」と。
「大学を出て行くとき、最後まで見送ってくれた先生です」と書いてあるんです。

タイ人の女性が同じように言うんです。日本語の先生が、「お元気で~」って、「お元気ですか~」って言いながら部屋に入ってきたと。
タイ人の女性も2ヶ月ほど、木村かおるさんに日本語を教わったんですけど、とっても優しい先生で毎日のようにキャンディをくれていたとのことです。
このキャンディがポイントなんです。
授業の時には「お元気ですか?ご飯はちゃんと食べていますか?よく眠れましたか?」と非常に優しく接してくれたとのことです。

その話を木村かおるさんのお姉さんに伝えると「彼女は子供の頃からキャンディが大好きで、看護婦になっても患者さんとか、おじいちゃんや子供を見るたびにキャンディを配り歩いてた」と言う話をされました。
で、「お元気ですか?」というふうにしょっちゅう言っていた。
タイ人女性に、私が「先生の歩き方はどうですか?」と言うふうに言ったら、再現いたしますと、手を膝の上に乗せてこういう感じで歩いていくんです。(真鍋氏その場で歩く仕草を真似てみせる)

こういう感じで歩いて内股で来て「お元気ですか?」というふうに。
これは、木村かおるさんの人物像と全く一致するのです。
そういう木村かおるさんだったんです。

それで話はだんだん飛びますけど、一連の事は金賢姫とは実はアノーチャさんと、アノーチャさんと言うのは、ジェンキンスさんが見たというタイ人の拉致被害者ですね。
アノーチャさんはどこで拉致されたか?と言うとマカオですね。
金賢姫もマカオなんです。
同じホテルです。
アノーチャさんが働いていたホテルに、金賢姫は泊まっているんです。

アノーチャさんと一緒に拉致された孔さんと友達だったのが、さっき言った韓国の女優の崔銀姫さんが北朝鮮で知り合って、と言う話からつながって言ったという事ですね。
そうするとアノーチャさんがジェンキンスさんと曽我さんで、そしてめぐみちゃんでと繋がります。
そして、めぐみちゃんを見たのが安明進で、安明進が見たのが古川さんという事です。
ちょっと風が吹けば桶屋が儲かるみたいですけど、こういうふうに丹念に一つ一つを追いかけていけば、関係性が明らかになっていくというふうに見ています。まだ点線の部分が多いんですが。

こういった作業を日々コツコツとやっていると、個別の古川了子さんの事件や特定失踪者と言われている人の名前が出てくるわけですよね。
古川了子さんのみならず、安明進が見たという加藤久美子さんと言う女性もいますし、名前の分からない安明進に日本語を教えた日本人と言う人もいるわけです。
アヒル歩きの女性と言っている。
安明進に特定失踪者の写真を見てもらったけど安明進はどの女性も違っているといっていました。
足が悪くて何かこういう感じで歩いていたという先生で、顔は良く覚えているんだけど名前とかはもちろん判らないけれども、日本人だという事は間違いない。

安明進は一杯そういう証言をしています。
まだ他にも出てくる可能性がいくつかあるんですけど、今日はこれくらいに留めておきます。
もちろん日本の警察当局もこうした作業をやっているはずなんですけど、外務省もやっているはずなんですけど、まぁ、ため息で終わっています。

それで時間もないので今後のことに移ります。
今後のことで一番の超短期的なお話は米朝ですね。
北朝鮮とアメリカの急接近と言う姿をどういうふうにみるべきか?という事がとても重要だと思います。
我々と言うか私も個人的にびっくりです。
あれほど敵対していた米朝が180度変わって、いまやパートナーとなっています。
この転換点はどうしてか?という事なんです。
おそらく皆さんの認識では、アメリカ裏切ったな、と思われていると思うんですけど、私はそう見ていません。
裏切るも何も、「そんなの関係ない」です。

一番のポイントはですね。
これはあくまでも私の意見ですから、異論・反論・オブジェクションが皆さんにもあると思います。
議論と言うか、いろいろ意見交換をしたいわけですが、このややこしい東アジアの地形。
中国、ロシアが大きく、日本が大きく、アメリカがスーパービックと。
この中に韓国も今やベスト10に入っているくらいの経済大国ですね。
ここに、北朝鮮という小さな何ともえげつない親分によって、2000万人の人民が苦しめられている体制の国があり、「古典的李王朝時代の封建制的、専制的、全体主義国家」です。
この状況の中で、核は作るわ拉致はするわ麻薬は作るわ偽札は作るわ、片やイラン・イラクと核兵器の交換をしたり、悪さばっかりしているという事から、アメリカはテロ支援国国家という事になりました。
で、今テロ支援国国家指定を来月中か再来月には解除しようとするのはどうしてですか?

この謎を解く一つの鍵は誰も分かってないですけど、分かっているのはアメリカのブッシュさんとライスとヒル位という数人しかわからないでしょう。
アメリカも非常に複雑な国で、与党野党もあるし、右もあれば左もいるし、と言う中で非常に大きな政策転換をしているのです。
しかし、実は政策転換でも何でもないという事です。
元々だったんです。

それはどういう意味か?
皆さんに「北朝鮮にとって最も怖い国はどこでしょう?」と質問をしたらどう皆さんはお答えします?
アメリカだと思われる方?
北朝鮮にとって最も嫌な国、最もこんちきしょうと思う国、最もプレッシャーを感じる国です。
北朝鮮がプレッシャーを感じる国です。
日本のおおよその人は、ずっとアメリカが北朝鮮を敵対視しているから、アメリカにプレッシャーを感じているんだろうと思いがちです。
中国なんです。
北朝鮮にとって歴史的に、朝鮮の歴史から始まって今日に至るまで最もプレッシャーを受けるのは中国なんです。
中国からのプレッシャーを止めるためにはどうすればいいですか?
(会場より「アメリカを」の声)そう。
単純でしょう?

だからここは北朝鮮がアメリカと手を握ると言う意味は、中国を押さえるための北朝鮮としての最大の武器になるということです。
朝鮮半島以下、北、南、日本、そして台湾と言う地政学的な、業界用語で「ヘゲモニー(hegemony)」と言うんですけどね。
覇権とも言いますけどね。
ヘゲモニーをキープするために、米国がここを確保するという事は非常に重要です。
米朝のお互いのメリットが最大に一致するんです。
この最大のメリットをどこが一番嫌がります?
中国が一番嫌がるのです。
この構造は昔から変わらない。
政策転換でも何でもないんです。

うちの代表の荒木とも、この辺の見解は違っていますからね。
荒木の意見も良く聞いてください。
荒木との認識の違いは、アメリカにとって北朝鮮は全く価値が無い地域かどうかです。
米国は北朝鮮のことはどうでもいいと思っているから、拉致問題なんかもどうでも良いんだ考えているという見解を荒木は言っていました。
で、私と議論になっています。
今でも解決されていません。

確かにアメリカは北のことなんかはどうでも良いと思っているんです。
政策的に地政学的には重要だけども、石油が出るわけでもないし、ビジネスパートナーとしてもそんなもの、1万対1くらいのものです。
しかし、地政学的なものと、何よりも日本へのプレッシャーとしてここを押さえると言うのは、囲碁をやってらっしゃる方はお分かりと思いますが、日本を押さえるために朝鮮半島を押さえているんです。

もう一つの構造として皆さんが、私も含めて誤解する事は、日本にとってもっともプレッシャーを感じる国はどこですか?
日本が最もプレッシャーを感じる国。
いろんな意味で。
中国?北朝鮮ですか?韓国ですか?ロシア?アメリカ?

私の意見はアメリカです。
何故、アメリカが第二次世界大戦を起こしたか?
何故、日本を中途半端な自立国にさせましたか?
米国の東アジア戦略は、如何に日本と言うものをアメリカの傘下に置くか、という事です。
要するに日本に自由にさせたくないという事なんです。
この極東アジアの地域で。

だから日本にとっての最大のプレッシャーはアメリカなんです。
アメリカのプレッシャーから独立しようとすると叩かれる。
だから安倍政権を最も嫌ったのは、中国でも韓国でも北朝鮮でもない。
ここです。(アメリカの文字を差し示す)
自立したら困るんです、アメリカは。
だから日米同盟の意味はお互いに守りあうという事じゃないでしょ?ご存知の通り。
要するに日米同盟の意味はアメリカの威信の元に日本を置くということであり、国際政治的なパワー・ポリティクスの問題であるわけですね。

これには異論・オブジェクションいろいろ皆さんあると思いますけど、こういうような構造で見たらアメリカと北朝鮮が手を結ぶと言うのは、今日何の不思議もありません。
むしろ遅かった。
遅かったと言うのには、中国の歴史があります。
アメリカが朝鮮半島に出張っていくことには、中国は、小平以前にそんな事をやったら許されないわけですね。
中国はいまや資本主義国家以上に資本主義ですから、金が全てですよね。
お金が全ての国になっているから、今ここで北がへんてこな事をされると、それこそ株価が下がると言う世界です。
共産主義国家でなんで株価が下がる事を心配するのか?と言うと、みんな株・株・株なんですよ、中国は。
古典的・19世紀的資本主義ですよね?
だからここで何かあったら困るから、アメリカと北が手を握って、北朝鮮がそこそこ大人しくするならええやないか、という事で妥協が成立したという事です。

ここで問題になっているのは、アメリカのテロ支援国家指定解除問題ですね。
テロ支援国家解除する要件と言うのは皆さんご存知ですね?
核廃棄がひとつ。
もうひとつがよど号、それから拉致。
で、今福田さんが(アメリカに)行って家族会のメンバーが行って拉致もリンクしてくれと言ってるんですね。
テロ支援解除に要件として拉致問題も入れてくれと言っています。
これはよど号も含めてなんですけど、これはもう完全にアメリカの方の空気は「関係ない」っていう状況なんです。

よど号が非常に微妙なんです。
よど号と言うのがあるからテロ支援国家ではないんです。
よど号の事件は1970年ですから、はるか前の事件でテロ支援の要件でも何でもないんです。
ただよど号の関係者が日本赤軍・連合赤軍などを通じて、中東などでテロ行為のリンケージを持っている。
偽札のリンケージを持っている。

田中義三と言うのがカンボジアで捕まりましたけど、何をやっていたか?と言うと偽札のロンダリングですよね。
そういうことからテロ支援国家のひとつの条件として加わったんのですけども、まぁ微妙な問題です。

よど号がどうなるかと言うのが、今後のテロ支援国家の解除の問題とリンクします。
早い話が北朝鮮がよど号の関係者、奥さんや子供を含めて全員日本に帰国させる。
これで米国はテロ支援国家の指定解除をする。
で何を言うかと言うと、北朝鮮は、「よど号は勝手に来た」と言うのです。
で、有本さんとか松木さんとか石岡さんの事件も、「あれはよど号の人間が勝手に拉致した」、「後は知らん」、「そんなの関係ない」で終わっちゃう。

と言うような状況で、ここからがポイントなんですけど、よど号が帰って来たら日本の高村さんも言ってますが「一定の進展」だから日朝国交正常化へという話に走るでしょう?
それに対して救う会・家族会はとりあえず駄目だといいます。
で、私はそれに対してちょっと異論があるんです。
これは何故と言うと、よど号を帰すことによって松木さん、有本さん、石岡さんのみならず、さっきいろんな絵を描きましたね?
リンケージが明らかになってくるんです。
拉致のリンケージが。

だから私としてはよど号を早く返してもらいたい。
帰して早くゲロって欲しい。
そうすることによって特定失踪者の様々な情報が得られるかも知れない。
だからそれは小さな進展である。
ホンの一部の進展である。
だからすぐに日朝国交正常化せよ、って言うんじゃないんですよ。
早いところよど号を返してもらって、皆でよってたかって、少しでも何かこの特定失踪者の情報を得たいという気持ちが、私にはあるんです。

今のままで流れますと、進展の定義を巡って大きな食い違いが生まれて来ます。
要するに一部の拉致被害者の方が帰って来るとかした場合ですね。
それはそれでハッピーな事です。
5人でも10人でも帰って来られれば、それはそれでハッピーです。
しかし問題は、それでおしまいにされてしまう可能性が大きいという事です。

ハッピーな世界とアンハッピーな世界が明確に分かれてしまうわけですね。
アンハッピーな世界の人たちとは、この特定失踪者と言われる人たちのことです。
そこを置き去りにしないで欲しいという事を最後の最後まで言っていかなくてはいけないんです。
でも、だからハッピーな人が帰ってきてはいけない、とは言えません。
よど号なり何なりが帰ってくる、5人なりが帰ってくると、それは帰るな、という事は絶対に言えない。

5年前の蓮池さん、曽我さん、地村さんの時は、部分的に帰ってきて、「ハイこれでおしまいですよ、日本政府もおしまいにしましょうね」と、これで小泉さんも手を打ったわけですね。
しかし、あにはからんやと言う世界が生まれました。
だから、また同じ問題が起こるのです。
その時に、やはり日本人は賢くならにゃいかんと思います。

5人10人帰ってきましたのでおしまいだね、という事にはならないと思わないといけません。
帰って来る人に対して、帰るな、と言うことは無いはずです。

私としては、こういう事を、期待と言うより想像するのも嫌ですけど、繰り返していくより解決の方向性は無いのではないかと思っています。
一人でも二人でも三人でも5人でも、少しずつでもいいからとにかく返せと。
とにかく全員帰して来たら、日朝国交正常化OKと。
1兆円でも2兆円でも3兆円でもどんどんODAやればいいじゃないかと、いう事です。

そうすると怒られるかもしれませんけど、ODAって誰のためにやるんですか?
北朝鮮へのODA。
ODAをやるのは日本のためです。
日本の企業のためという事では無いですよ。
朝鮮半島は極東アジアの物流の重要な拠点ですよね?
鉄道、道路、港湾、船その他、ここがぶっちぎれているため、迂回していかなければならない。
100年後の構想には、ここに鉄道を全部敷くとかですね。
超エクスプレスとか、計画いろいろありますよね?
今、アジアハイウェイとか言って、ずっとインドシナ半島まで行って結ぼうとかいう計画がありますよね。
世界中に物流なり人の流れなりをつくろうとしているときに、日本だけがそのルートから残される可能性がある。
朝鮮半島に早いとこそういうルートを作るという事は、長期的に見て日本の利益になる。

ただし、があるのですね。
短期的には利権が発生するのです。
ここがODAの難しいところ。
ODAと言うのは本当に麻薬と言うか、悪にもなるし善にもなるんですけど、悪の方を置いておいて、善の方で見ると長期的に朝鮮半島に対してODAを投資して、鉄道だ、道路だ、港湾だ、情報だ、インターネットだと整備することによって、長期的な日本の利益になる。
しかし短期的にはいろいろ、キックバックだとか何だとか、議員の利権だとか、いやらしいことがあるから困っちゃうんですけど。

こうした認識をしたところで、私としては日朝国交正常化といっても、今の体制で日朝国交正常化をするのは嫌です。
嫌いです。
絶対駄目です。
北朝鮮が普通の民主的な国に生まれ変わった後に「日朝国交“完全”正常化」するといった方が正解ですね。

日朝国交正常化、正常化といいますけども、これには「まやかし」があるのはご理解いただけますよね?
政府が言う日朝国交正常化と言うのは、大使館を置くか置かないかだけです。
よく言われるんですよ。
「早いところ正常化すれば真鍋は自由に調査して来られるから良いじゃないか」と。
馬鹿言いなさんな、と思います。

大使館を置くだけで、真鍋がのこのこ行ってあの国で「特定失踪者知りませんか?工作員知りませんか?」ってやっていたら、すぐにお山行きって言う世界です。
お山っていうのは、強制収容所ですね。
日朝国交正常化の意味は大使館要員を交換する、と言うだけのことです。

日朝国交正常化しなくったって、今は経済制裁があるから行きませんけど、行こうと思えば行けたわけですよ、北朝鮮に。
しょっちゅう日本人が行っていたし、しょっちゅう北朝鮮からも日本にビジネスで来ていたんです。
在日の人も行ったり来たりしていたんです、制限はあるけれども。
だから何も変わらないです。
ただ、大使館を置くか置かないかと言うことです。

完全な意味での日朝国交正常化への道のりと言うのはまだまだいろんな事をやらなきゃいけない、考えなきゃいけない、というふうに思っております。

ちょっと長すぎましたか?
宜しいですか?
まぁそんなところで・・・(拍手)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このエントリーのテキストは、真鍋氏ご本人の手による加筆・修正を頂いた上で公開をしております。

|

真鍋貞樹 調査会専務理事講演(2)

『真鍋貞樹 特定失踪者問題調査会専務理事の講演 その2』

ちょっと話が飛んじゃいましたけど。
千葉の方で非常に注目しているのが実は鵜沢幹雄さんと言う方の御宿の事件です。
ほとんど報道されないし、関心も呼んでいただけない残念な失踪ケースなんですけど、場所と言い失踪の経過と言い、非常に怪しいケースです。
まず場所なんですけども、御宿と言う場所は皆さんご存知の通り風光明媚なリゾートタウンですね。
実はという事でこの近くに北朝鮮の隠れ家があるんです。
これはあえて言うとインターネットで出ちゃうと拙いんで、固有名詞は言いませんけども、何ヶ所か在るんです。

この何ヶ所かあるところにこの辺(=千葉と東京の境目辺りを指し示す)で拉致した人を隠して、何日か隠した後、船が来ますよね?
日本海なりどこなり、その船とミーティングするために一時期隠しておく。
で、船が来たところまで車で運んでいく。全国に一杯そういう隠れ家があるわけですよ。
隠れ家の一つが曖昧にしておきますけどこの近くにあるという事です。
あんまり言うと、証拠出せと言われると証拠を出せないから、それこそ行政訴訟されたら負けちゃう可能性があるんですけど、有名な事件があるわけです。
そういう場所がすぐ近くにあるんです。

それから皆さんは拉致と言うのは日本海側で船で運ばれるという認識を持たれていると思うんですけど、私はそれを全然同意できないというふうに思っております。
その根拠はですね。
どうやって運ばれたのか?と言うとこの東京湾からです。
千葉港だ横浜港だというのには、北朝鮮の貨物船、一杯入って来ています。
万景号も入って来ていたんですよ。
一杯しょっちゅう入ってきた訳です。

今は経済制裁でストップしていますけど、要するに日本全国の国際港、千葉港・横浜港・東京港もそうですけど、神戸・函館・小樽というような国際的なところに解放されている港には、ほとんど全て北朝鮮の貨物船が入港している。
工作船じゃなくて貨物船が入っています。
その貨物船は人を運ぶのに便利です。
この辺で隠されていた人を、船が入ってきたら車で運んでいって小型船に乗せるわけです。
そしてその貨物船に乗せてそのまんま北朝鮮に行く。
簡単でしょ?

簡単でしょ?って、あまり大きな声で言っちゃ・・・私もこの活動を長くやっていると言葉がだんだん粗くなってきています。指摘してください、だんだん言葉が粗くなってきますので。
これは推測じゃありません。
実例があるんです。
この実例が1978年に香港で起こった有名な事件ですけど、韓国の女優さんで美人女優で有名だった崔銀姫さんと言うんですけど、この方がどうやって拉致されたか?という事なんです。詳しく話し出すとまた長くなっちゃうんですけども。
映画の仲間からお誘いがあって香港に行きました。
韓国から香港へ。
そこで中国人の映画仲間と言われている人たちと出会い、食事をし、ドライブに行こうと誘われました。
ドライブに行った先で数人の男性に車に押し込められました。
そしてその車のまま香港の港に行きました。
香港の港から小さなボートに乗せられました。
その次に大きな船に乗せ換えられました。
さらに、高速船に乗り換えました。
そして北朝鮮の南浦の港でまた小さな船に乗り換えられました。
という事で、船を4回乗り換えているんです。
最初香港から小さなボートで沖合いに出て、北朝鮮の貨物船に乗せられました。
そして運ばれました。
と言う仕組みです。

ちなみにこの仲間だったと思っていた中国人と名乗る映画仲間が、みな北朝鮮のスパイだったんです。
で、そこにはですね。
親子連れも入っていたんですけども、スパイの親子連れ。
意味分かります?
親子で来ていたらスパイだなんて普通想定しないでしょう?

「全員でお食事行きましょう、美味しいところありますよ、行きましょう、ドライブ行きましょう、私たちも一緒に行きますから」と親子も一緒に乗るんですよ。
で、本当に拉致する現場まで連れて行って、その親子はバイバ~イ、と言う予定だったのが、その親子も一緒に連れて行かれちゃったんですよね。証拠隠滅のために。
と言う事件が1978年香港で起こっています。
という事から、丁度1978年だから了子さんの5年後ですね。
地村さんたちと同じですね。

方法論としてはみな同じだと思っているんです。
めぐみちゃんのように乱暴に袋を被せて車に乗せて運ぶみたいなケースももちろんあるんですけども、やっぱり大人を拉致しようと言う場合は言葉巧みに「元気?」とか言ってですね。
「どうしてる?お茶でも飲まない?」というような形で、おそらく一人じゃないかもしれないですね。
複数の人間が、「私の友達」とか言って紹介すると、「今度はこういう楽しい集いがあるんだけど、顔を出してみない?」と言う感じで。
「楽しかったわね」という感じで、「じゃあ友達が車で来ているから、それに乗って帰りましょうね」と言うような形で乗ったら最後、そのまんま。

と言うような方法論の方が一般的だったんじゃないか?と思っているんです。
おそらくはその貨物船なり何なりが来るタイミングまで、そういう隠れ家と言うところに監禁されて、然るべき時に運ばれて、と言うことだと思っています。
だから決して拉致されるポイントやルートと言うのは日本海側だけじゃなくて、房総半島・伊豆半島も含めて考えておかなければいけないんじゃないか?と思っています。

後もう一つ、東京湾が危ないと仰ってらっしゃる方が、元NHKのワシントン支局長の手島龍一さんと言う方です。その方が書いた「ウルトラ・ダラー」という、偽札を北朝鮮が作っていると言う話の本で、冒頭に出て来ているのが日本人の印刷工の拉致という事ですね。
先ほど私がお話したとおりです。
東京湾には北朝鮮の貨物船と言う工作船が入って来ていたとかれています。
そこから優秀な印刷工の関係者を何人か拉致していきました、っていう記述が最初にあるわけですね。

手島さんにお会いしたときに、手島さんに「これは小説です」というふうに書かれているんですけど、手島さんに「本当ですか?」とお聞きしましたら「小説というふうにしている」と答えられました。
「有力な情報提供者から聞いた話なんだ」と話されました。
だから手島さんご本人も東京湾が非常に危ない場所であると認識していると、言っておられました。
先ほど言いました江藤健一さんの失踪の時期とか、そのウルトラ・ダラーに書かれている印刷工拉致の時期・場所が一致しているわけです。
手島さんに「江藤さん入ってますか?」と言う話をお聞きしたら、「それは勘弁してください」と。
「個別の事は勘弁してください」と言われましたけど、非常にそういう事も考えられると言うのが、東京湾という事になるわけであります。

千葉の拉致と言うのは、繰り返しますけど千葉県内の事件だけという事ではなくて、他の事件との係わり合いもある可能性は否定できないと言うふうに思っていますので、私としては千葉県に都合20回は来て、房総半島は2~3周した記憶があるんです。
中村議員とも一緒に旅をして私の夕食の分まで彼が食べて帰ったこともあるんですけど。
それくらい千葉には何度も足を運んでいるんですけども、残念ながら決め手が無い。

だから当時のことで何か、あれこんな事があったけれどもなんだろう?と言うようなちょっとした事でも結構なんです。了子さんなり何なり、もしご記憶ありましたら言って頂きたいんです。
一般的にそうなんですけど、いろんな話をしている内に「あぁそういえば」と出てくるんです。
ただ聞いてそうか、という事で終わってしまうとそれっきりになっちゃうんですね。
だから本当にどんなに些細なことでも結構ですので、何かありましたらお申し出頂ければと思います。

それでは今度はちょっと難しい拉致の複雑な状況について少しお話を進めたいと思います。
私たちも10年拉致の問題についてずっと追いかけている内にですね。
マスコミの皆さんとか政府の皆さんとか、我々民間団体も含めてだんだん研究・調査と言うのが蓄積されて来ました。
まだまだ一部なんですが。
全容解明のホンの入り口しか、実は分かっていないんですけど、その入り口の中でもかなり分かってきた事があります。

それは、救う会のチラシの最新号です。
これ、元ネタは小学館のSAPIOと言うところに掲載された、恵谷治さんと言う私たちの大先輩で、一生懸命御協力いただいている、私たちの調査会の役員もして頂いている方が書いた関係図なんですけども、これもまだまだ一部なんですけども。
これがどんな関係図か?と言いますと、渡辺秀子さんとその子供さんの高敬美さんと高剛君の、この事件からスタートしてどういうふうな関係に、北朝鮮の工作活動と拉致が行われてきたか?と言う図です。

ちょっとややこしいんで申し訳ないんですけど、渡辺秀子・高姉弟の事件についてはご存知でしょうか?大丈夫でしょうか?
これを話すとまた1時間かかっちゃうんですけど、簡単に申し上げますとユニバーストレイディングという昔、工作会社がありましてですね、北朝鮮の。
そこに勤めていた高大基と言いますけども、この人物の奥さんが渡辺秀子さん、日本人です。
この二人は結婚して二人の子供を作りました。
一緒に高大基と渡辺秀子さんの親子4人は、日本中を旅しています。
これが一つのポイントなんですけどね。

さっきも申し上げましたけど、崔銀姫さんのときも親子連れが出て来たといいましたよね?
それと同じように、夫婦親子で移動していると誰も疑わないんです。
渡辺秀子さんはそんなこと全然知らないですよ。
うちのお父ちゃんは仕事で日本全国を回っていて、温泉行って美味しいものばっかり食べてと。
ビジネスだから、と言う形で一緒について行ったわけですね。

で、あるときユニバーストレイディング社の中で大きな問題が起こって、高大基は北朝鮮に呼び返されました。
元々高大基は在日の人だったんですけど、問題発覚のため本国に帰れという事で突然帰りました。
それで渡辺秀子さんに、別れようという事で手切れ金を渡して、彼は北朝鮮へ帰って行きました。
渡辺秀子さんは突然の事だったので、手切れ金を貰ったって子供二人小さいのを抱えて、しかも突然。
まぁ渡辺秀子さんは夫を好きだったわけですよ。
好きな人が突然いなくなっちゃったので、これは一体どういうわけか?という事でユニバーストレイディングの関係者の人に「うちの夫はどうしたんだろう?どうしたんだろう?」と言っている内に、渡辺秀子さんは証拠隠滅のために殺されたというふうに、されています。
されていると言うだけです。

犯人である在日の木下陽子という女性が殺害を命じて、秋田県と山形県の県境に遊佐海岸と言うところがあるんですけど、そこに死体を埋めたとされているんですけれど、当時警察が一生懸命その遺体を捜したけれども、今日に至るまで発見されていないという事です。
渡辺秀子さんはそういうふうに殺害されたという事になって、残ったお子さん二人はどうなったか?と言うと木下陽子の部下たちによって北朝鮮に船で運ばれていったと言う事件です。

この事件からスタートしていって、ユニバーストレイディングと言う会社がどういう会社かと判明してきたんですが、明確によど号の関係者と密接につながりを持った会社だという事です。
よど号の関係者はその後いろいろな拉致事件を起こしていきます。
そしてユニバーストレイディング社に関わった人物たちが、それぞれの拉致事件を起こしていくと言うふうになって来たわけです。

これが大雑把な関係図です。今日はせっかくですからもっと細かくお話をしてみたいと思います。
古川了子さんとのつながりはどういう事か?ということで。
風が吹けば桶屋が儲かる式の話ではあるんですが、せっかくですからこの関係図をもう少し詳しくお話をしていきたいと思います。
ようやく分かりつつあるんですけど、まだまだ点と線がわずかにつながる程度で、それを証明するだけの強いものとか、これだという事が言えない段階なんですけど、分かっている範囲でお話をしたいと思います。それで我々は推測・想定・仮説と言うものをして、それを証明していく作業をしているという事を、ご説明したいと思っています。

非常にややこしい話になるんで、大丈夫でしょうか?というより、こっちが大丈夫かな?
まずどこからスタートするかと今考えていたんですが、木村かおるさんという方からはじめます。
秋田の日赤病院で看護婦さんをしていた方の消息が分かりました。
ご記憶があるでしょうか?
タイ人のホステスさんたちが拉致されて、北朝鮮に運ばれた時に、日本語を教わりました。
その日本語を教えてくれた女性が木村かおるさんであるという事が分かったんですね。
これは千葉では報道されましたか?
報道されてない?
全然ない?
はい、そうですよね。
今こんな状況なんです。
一生懸命やっても扱いが小さいものですから。

どういう関係でというとややこしいですね。
タイ人の女性たちが10人、1982年から83年、北朝鮮に連れて行かれました。
バンコクから。
これは何のためかと言うとですね。
北朝鮮に安山館というレストランがあるんです。

これは皆さんが北朝鮮へ行って平壌に行ったら必ず冷麺を食べる店ですね。
ここにはしょっちゅう日本人の観光客も行っていますけども、この安山館にレストランのクラブがあるんですね。
クラブで働かせるためにタイ人女性を必要としたために無理やり騙して連れて行ったという。
「日本に行こう」と、行った先が平壌だったという事ですね。
安山館というのは誰が作ったか?と言うと金正日が作るようにと命令して出来たというレストランです。
だから何も単純なレストランでは決して無いわけですね。
いろんな意味で、表向きは外国人の接待をお手伝いするためにという事だったんですけども、そういう裏があるというレストランに入っていた。

ここには日本人ビジネスマンも行くわけですよ。
客層が日本人なんです。
当時の話ですがね。
その日本人の接待のためだから日本語を勉強しなさいということで、ある招待所で日本語を教わるわけですけども、その先生が木村かおるさんであると、いう事が分かったんです。

安山館はですね。
金正日が作れと言いましたけど、自分が金を出した訳じゃないです。
誰が出したか?
これがあまり馴染みが無いんですけど、日隆商事と言います。
これは日本の有楽町にあった会社で、貿易会社です。
社長は在日の方だったんですけども、非常に一生懸命、日朝貿易を真面目に取り組んでいました。
工作機関でも何でもないですよ。
これは日隆商事の関係者の名誉のために私言っているんですけど、日隆商事そのものは、まともな会社だとご理解してください。

でも騙されたんです。
このおっさんに(金正日の名を指し示す)、結局のところは。
この日隆商事が安山館を経営していました。
これは日本(日隆商事を指し示す)、これは平壌(安山館を指し示す)です。
有名な金正日の料理人・藤本さんと言う方がいるでしょう?
この人も安山館で働いていたんです。
日隆商事が金正日の命令で、命令というか依頼で誰か寿司職人いないか?という事になり、いますよという事で推薦したのが藤本さん。
藤本さんはこの安山館で働いていて、タイ人女性とも一緒に仕事をしていた。

日隆商事は確かにまともな会社だったんですけども、ここにやっぱり怪しい人がいるわけです。
怪しい人は誰か?と言うと一人は金世鎬(キム・セホ)と言う人物。
金世鎬と言うのは北朝鮮の工作員で久米裕さんという三鷹市役所の警備員をしていた方を拉致した犯人で、指名手配を日本の警察がしていますね。
この人物は日隆商事がビジネスとして日本に呼んでいた人です。
呼ぶといっても1人だけではなくて、10人くらいビジネスだって言って呼ぶわけですが、その中のひとりとして金世鎬が入っていました。
金世鎬は日隆商事の招待状で日本に来て、何をしていたか?と言うと、日本中を回っていたそうです。
海岸を。

日隆商事の社員の人は「金世鎬先生は一体何をしているんでしょうね?」と疑問に思ったそうです。
たまに帝国ホテルに泊まるときに、金世鎬を見つけたときに「金世鎬先生、お元気ですか?」と聞いたら、「疲れた、疲れた」と言って、「今日は日本の地方へ行った」といっていたそうです。
とても工作員と言うような雰囲気はなくて、本当に哀れな感じで、命令で拉致をせざるを得ないような役回りをさせられていたんだろうな、という感じです。

高大基の関係から渡辺さんと敬美ちゃん親子に殺害もしくは拉致と言う事件に発展していきます。
で、重要なのは高大基さん、さっき言いましたように親子で日本を旅していました。
この先はまだ未確認ですけど特定失踪者と呼ばれている人と関係性が生まれてきてくる。
まだここはクエスチョンになっているんですけど、全国を回った先々に特定失踪者の方とつながるポイントが出て来ています。

と言うような感じで、ややこしい関係なんですけれども、それぞれ縦なり、個別の存在しているんですけど、ある人物とか何かを通して横ではつながっているわけです。
だから拉致と言うのは北朝鮮から縦の指令で来ていて、それぞれ縦で行われるわけですけど、指令された所は横で何らかの形でつながっている。
事件そのものはバラバラで行っていく。
と言う非常に複雑な関係性になっているという事ですね。

・・・その3に続く・・・

|

真鍋貞樹 調査会専務理事講演(1)

古川了子さんを救出する千葉集会in市原
07.11.17 市原市辰巳公民館にて

『真鍋貞樹 特定失踪者問題調査会専務理事の講演 その1』

~~千葉における拉致問題とこれからの道のり~~

(司会者より講師の真鍋さんは本日が誕生日と紹介されたのを受けて)ありがとうございますです。
あんまり嬉しくなくて、51歳になります。
よろしくお願いします。
見た目は若いんですが、頭の方が・・・・・・・(聞き取れず)

今日はお休みのところお集まりいただきまして本当にありがとうございます。
こうした20人30人くらいの方々と、じっくりお話をする機会と言うのは私たちとても大切だと思っております。
よく大きな1000人とか2000人の会場ですと聞きっぱなしみたいな形になって終わると思うんですけど、こういうところでフランクにお話をさせていただいて、また皆さんからいろんなご質問を受けたいと思っております。
その方が皆さんのご理解も深まると思いますし。
私たちの調査活動と言うのは、いろんな事をやっているんですけど、国民の皆様の支援とかご協力がなければ進まない話ですので、ぜひご理解を深めていただくと同時にご支援とご協力をお願いできればと思っています。
よろしくお願いします。

今日のお話は「千葉における拉致問題とこれからの道のり」という事ですので、まず最初は千葉県の状況につきましてお話をして、そして今いろいろ調べている中で拉致問題についての深~い深い闇とか謎とか、そういった話をさせていただきたいと思います。
そしてこれからの道のりという事なんですが、長期的な展望のお話は不可能です。
勝手に想像して勝手にこうなるという事の話はもちろん出来るんですけども、多分外れると思います。
ですから直近の、これからどうなると言うくらいの短期的な展望みたいのをお話する中で、どうしたらいいんだろう?と言うお話をさせて頂きたいと思いますのでよろしくお願いします。

最初に肝心要の古川さんの失踪についての情報なんですけども、残念ながら安明進さんの目撃証言以降ほとんど出る事はありません。
私たちも他に520人の方の失踪の調査をしている中で、現在、この方は拉致されたんだなぁと言うことで、何らかの情報が得られている方が35人という状況です。
35人の中も、情報が一杯ある人もあれば、残念ながらほとんどないという方もあります。
古川さんについては安明進さんが重大な証言をして頂いたにも関わらず、その後をフォローできるだけの情報が集まっていないのが本当に悔しくて仕方が無いと言うところです。

安明進さんが見るくらいのところに居たわけですから、早々簡単に情報が漏れるようなところにはいらっしゃらないわけですね。
そこがまたこの問題の難しさなんですけれども、とにかく今私たちは北朝鮮から逃げて来られている、いわゆる脱北者の方々に出来る限り接触をしています。
「日本人を見た事はないか?古川さんを見た事はないか?」遠山さん、今日お姉さん来られてますけど、「遠山さんを見た事はないか?」っていうような活動を、ぽつぽつとやっているという事であります。
その中で必ず古川さんにつながる情報を得られるだろうと、期待をしながら頑張っています。

千葉の拉致と言いますと、ここが非常に微妙な問題なんですけども、パネルには千葉県内の北朝鮮の拉致被害者となっているんですが、ここのところ非常に微妙でして「拉致かどうか分からない方々」というのが正しい事です。
明確に拉致であるというふうに私たち民間レベルで認識しているのは、当然古川了子さん。
それから北朝鮮から写真が出てきました加瀬テル子さん。
このお二人についてはまず間違いなく北朝鮮に拉致されたのだろうという事が言えるわけですが、他の方々についてはまだまだ曖昧、微妙です。

実はここに乗せられない方々、いわゆる非公開の方々がいらっしゃるわけですが、多くはプライバシーの問題があって申し上げられないんですが、すぐそこで発見された事例があります。
いわゆる失踪者の方で非公開の方で、私が調査をしていて無事にこの市原市で発見されたと言う人がいます。
プライバシーがあるのでそれ以上は申し上げられないんですけども、それはそれで私としては非常に良かったなと思います。
ご家族もホッとされていました。30年近く失踪されていたんです。
ご本人とこの市原でお会いしましてね。
「一体どうされたんですか?」という事になりますと、やはりヤクザさんに追われて家族に迷惑をかけられないので、日本全国逃げ回って、そのうちに家族にも連絡が取れなくなったと、ずるずると来てしまったと。
いうことでした。すぐにご家族にも連絡をしまして、無事でしたよという話をした事件もあったわけです。

そういう意味で失踪と言うのは非常に難しくて、「失踪して20年30年経っているからその方は拉致被害者だな」とはストレートに行かないわけですね。
いろんな事件・事象・事故その他いろんな要因があって、長年に亘って失踪状態が続いている方が、本当に山ほどいらっしゃるんです。
ちなみに、警察への届出ベースで年間10万件あります。
そのうち解決しないまま残るのが、年間に大体1000件から2000件です。
だから20年と言うと大体2万人から3万人の方が何も結論が出ないまま、ずっといるという方が全国にそれくらいの方がいらっしゃるんですね。

その中でご家族の方が勇気を振り絞って、もしかして?と言う形で届け出られた方が現在520人おられまして、そのうち270人の方の公開を私たちがさせて頂いている方、と言う事です。私たちが公開をしているからすなわち拉致被害者だということでは無いという事です。
これを前提としてご認識をして頂きたいと思っています。
ただ、どの失踪の方も怪しい失踪ばっかりなので、それを調べて行こうという事で調べています。

特に、加瀬さんにつきましてはご案内の通りと思いますけど、北朝鮮から写真が出てきまして、鑑定の結果加瀬テル子さんであることは間違いないとなりました。
特徴的なところは、目にほくろがあるんですけど、ほくろの位置が本人と写真が一致しているわけですね。
この写真が本物かどうか?と言うのが問題なんですけど、現物は私も見ましたけども、これくらいの車の免許証くらいの写真の大きさで、北朝鮮の刻印が押してあったんですね。
ちゃんとハングルで。
裏には糊が付いていまして、そこに、キムだったかチェだったか忘れましたけど、名前が記載されているという事で、写真そのものは誰かが偽造したとか日本で作ったとか、という事は全く考えられない。

という事ですから私としては、千葉県警の方に加瀬テル子さんは拉致された事は間違いないという形で、告発の手続きを弁護士の先生を通じてお願いしたと言うケースなんですが、残念ながら昭和37年の失踪ですから、もう何も、捜査のしようが無いという事が現実です。
本当に。
現場にも何度も何度も行ったんですけども、手がかりになる事はほとんど見出すことは出来ないんです。ただ、脱北者の方からこの写真がもたらされたんですけど、その脱北者曰く、「加瀬テル子さんは何らかの貿易の仕事に携わっていた」と。
「可能性としては北朝鮮から逃げているかもしれない」と。
いう事を言っていたものですから、その消息を探るためにいろんな事をしたんですけども、本当か嘘かどうなのか?
いまだに分からないと、いう事です。

もう一つ加瀬テル子さんの夫と言われている男性がいましてですね。
その方も拉致された日本人であるとのことでした。
その夫の仕事は、めぐみちゃんや田口さんや蓮池さん奥土さんたちを世話をする人で、日本人担当課長と呼ばれていたと言う付随した情報もありました。
それが本当かどうかも微妙なんですけど、そういった情報もあって我々としては非常に注目している方です。
おそらく古川了子さんもそういう立場であるならば、加瀬さんのお世話を受けていたのではないかな?と、これは推測なんですけど、そういうふうに思われます。

それから今日はお姉さんが来られてますけども、関谷俊子さん・遠山常子さん・峰島英雄さん、市原の方ですね。
当時は千葉にお住まいだったんですけど市原出身の3人の方についてはですね。
私個人的には、拉致間違いないと言う認識を持っているんですけども、じゃあ証拠を出せと言われると困る事例です。
何故拉致間違いないか?と私が思っているかと言うと、ある不思議な人物がいましてですね。
ここには載っていないんですけど、埼玉県の川口市で失踪した藤田進さんと言う方がいらっしゃるんですね。
藤田進さんの写真が出て来たわけですけど、その藤田進の拉致を手伝わされた人物というのがいるわけです。

その人物が時期は曖昧だけど二人の女性を千葉港から運んだと言う証言があって、その運んだ人は誰か?と言うのがポイントですが、その藤田進さんの拉致を手伝った、仮にHさんとしましょう。
Hさんにこの3人の写真を見せたんですけど、「自分としては運んだだけであって、顔を見ていないので分からない」という事と、それから「時期が自分の記憶の時期とこの遠山さん・関谷さんの失踪の時期とずれる」という事があって、間違いないというところまで行けなくなっているケースです。

それから言い出すとキリが無いくらい有るんですけど、注目しているのは江藤健一さんのケースでして、江藤健一さんともう一人の方、印刷工の方が消えています。
江藤さんのケースは、千葉大に当時印刷学科と言うのがありました。
そこをご卒業されていて、会社に行きながらお勉強をされていた方です。
その方が勉強していたのが印刷技術ですね。
写真印刷ですかね。
そういったようなお仕事と勉強をされていた方が昭和48年ですから1973年の失踪になるんですけど、この時期に全国で印刷関係者の人たちが失踪しています。

それもこの千葉県の西側と東京都の東側、要するにこの辺ですね。
この辺に連続して失踪しました。この同時期に、日高信夫さんと言う方がいまして、鹿児島出身で東京の私たちの事務所のすぐ前にあるような印刷会社に勤められていたまま失踪した方なんです。
ほぼこの江藤さんと同時期なんですけど、この方についてはやはり脱北者から目撃証言がありまして、古川さんと同じように「病院に入院した時に、日高信夫さんとよく似た人を見た」という話があったんです。
この方も印刷工だったんですね。

似てる似ていないだけだったら私も、「あぁそんな人たくさんいますね」って話になるんですけども、その脱北者の証言はですね。
2ヶ月くらい同じ病院で生活をしていたのでいろんな話をしたんだそうです。
日本の話もしたって言うんです。
日本の話はどんなのをしたの?って聞いたら、彼はお化けの話ばっかりしていた、幽霊の話を一生懸命していた、というのです。

その話を、すぐにご家族にその場で電話をしました。
「日高信夫さんは若い頃、どんな話が好きでしたか?」と。
「幽霊の話ばっかりしていました」と「四谷怪談の話ばっかり聞かされていました」と、弟さんなんですけどね。
「怖い話が好きでね」なんて話をするわけですよ。
これはもうこの辺がだだだっと鳥肌が立って、続けていろんな話をしている内に「癖はどんな癖がありましたかね?」と脱北者の方に聞きましたら、記憶があるのが歩き方に特徴があったというんです。
両手をポケットに入れて、肩をこんなふうにしながら(真鍋氏、肩をゆすって歩く真似をする)歩く癖があったなと言うんで、これもまたご家族のところに電話をしたら、「その通りです」と。

ただ、似ている似ていないだけだったらかえって作り話も出来るし、鼻の形が似ているねとか目の形がそっくりだとか言えるわけですよ。
しかし、その人の人物の特徴・癖と言うのは嘘をつこうと思ってつけるもんじゃないんですね。
それだけに限らず、後20項目くらいの本人の癖、どんなタバコを吸ってましたか?とか。
日本の自転車の話をしていたので、どんな自転車の会社の名前を言っていましたか?と聞いたら「ミヤタ」だって言うんです。
その脱北者がですね。
で、弟さんに聞いたら「ミヤタの自転車に乗っていました」

これはすべて証言を聞いた後にご家族に確かめたところ、一致しているという話ですので、日高信夫さんについては拉致被害者であると、私たちとしては間違いないと言ったケースなんですけど、これをもちろん日本政府・警察に協力な捜査、北朝鮮からの救出をして欲しいと申し上げたところ、これは古川了子さんの裁判と同じ構造ですよね。
目撃証言があったんだから早く助けて頂きたいという事を申し上げましたが、一言で、「あぁ、そうですか」で終わったわけです。
本当に。

「あぁ、そうですか~~、その情報は重要ですね~~、でも拉致認定できません」
これでおしまいです。
本当におしまいなんです。
今日は警察の方、来られてますかね?
本当にそれで終わったんです。
何故終わったか?と言うとですね。
これが古川了子裁判と非常に絡むんですけど、警察が拉致被害者であると認定をする基準を自分たちで作っています。
この基準が、我々としては問題だと言っているんです。
しかし警察としては我々はこれは絶対に曲げられない基準だという事を言っています。
それは、一つ、『本人の意思に反して失踪した事』。
本人の意思に反したかどうか?と言うのは、本人に聞かなきゃ分かんないんですけど。
ただ横田めぐみちゃんのようなケースはですね、本人の意思に反したというのはすぐに分かりますよ。
ただ、古川了子さんだとか日高さんとか、大人の場合は騙されて連れて行かれても、自分で歩いて行くわけですよ。
いきなり袋を被せられたと言うのは別ですけど、ある程度、有本恵子さんもそうですね。
騙されて、飛行機に乗せられて。

でも、これは拉致だと認めているんですよ。日本政府は。
しかし本人の意思で歩いて行ってるんですよ、騙されて。
この辺の法律的な事はあとで弁護士の先生にお聞きしてみてください。微妙なところはあるんですけど、要するに『本人の意思に反して』と言うところが重要だと言うんです。
古川了子さんも騙されたけれども、おそらく自分の意思で歩いて行ったんでしょう、という事になったら認定出来ないという事になります。

それから、『現に北朝鮮にいること』
当たり前だと思います。
いる事が明らかだという事ですね。
だから、目撃証言があった、写真が出てきました。
これは現に北にいますねと言う話になるんです。
じゃあ認定してくださいよと言うと、でもこれが分からないから駄目だと。
だから古川さんのケースは、確かに安明進の言う通りですねと。
でもこれでも拉致地認定にはならない事になるんですね。

三つ目、これが難しいんです。
『北朝鮮の国家意思が推認できること』。
北朝鮮の国家意思が失踪において存在すること。
要は犯人が誰だか分かるという事です。
犯人が誰かが分からなかったら、北朝鮮の国家意思が働いて拉致したかどうか分からないでしょ?と。
まぁ確かに言われればそうなんです。

じゃあ、有本恵子さんどうなの?と、有本さんは後ほどお話しますが、八尾恵が騙して連れて行ったわけですね。
八尾恵が北朝鮮の国家意思によって命令されて、騙して連れて行って拉致という事になっているわけです。
これが後でお話しますが、よど号犯人を帰す帰さないという、アメリカのテロ国家指定解除の問題に微妙に絡むわけですけどね。これは後でお話します。
要するに日本の警察はこの3つの条件を全部、一つだけじゃないですよ、全部揃って初めて拉致被害者として認定をするという。
結局我々民間レベルで、我々だけじゃなくてマスコミの人たちも含めてたくさんの人間が、今言いました520人の失踪者の中で35人の人が拉致被害者の可能性が高いと、一生懸命一生懸命調べて調べても、駄目駄目駄目駄目と。
古川さんのケースも現に北にいると分かっても犯人分かりませんよね?
分かるわけ無いじゃないか!と。
本人の意思に反して、そんなの本人に聞いて見なきゃ分からんですよね?

さっき言いました藤田進さんと言う方のケースも、犯人は私だと名乗っている人がいるんですよ。
で、現に北にいるという事も間違いが無い。
本人の意思に反してというのも、これも犯人が言っているんですから、いきなり車に連れ込んだと、これも分かりました。
で、北の国家意思はあるのか?と。ありますよ。
これ3つ揃っているのに認定しないんです。
何故ですか?と言ったら、「答えません」と。
本当に答えないんです。

おそらくここにも警察の関係者の方がいらっしゃると思うので是非お願いしたいんですけども、止めて欲しいんですよね。
こういう事をやっていたらですね、本当に、本人が「私です」と北朝鮮で名乗りを上げるか、北朝鮮が曽我ひとみさんのようにね帰さない限り認定しないのです。
「古川了子さん生きてました、藤田進さん生きてました」と言わない限り日本政府は認定しないですよ、このままだと。
そういう状況です。

ここが分かったとしても、もう一つハードルがあるんです。
松本京子さんとか高兄弟というややこしい事件の被害者の6歳と3歳のお子さんの事件のような、政府認定なり警察認定された二つのケースを見ると、どこで拉致されてどこに運ばれてどこから北朝鮮にどのように運ばれたか?というのが判るというのが重要なポイントであるようです。
要するに犯罪捜査ですよね。
当然警察と言うのは犯罪捜査だから、犯罪と言うのはいつどこで誰がどのようにと言う、これをきちっと全部証拠を固めて、そしてこれは間違いないねという事で、刑事的な手続きに入っていく。
これと全く同じ手法を、この難しい拉致被害者や難しい特定失踪者にも適用していますので、いくらこの3条件が揃ったとしても、いつどこで誰がどのように北朝鮮に行ったかが分からなければ、政府認定はしません、という事です。

これくらい非常にハードルを高くするという意味は一体何故なのか?という事なんですけど、これは再三私たちが政府関係者・警察関係者、まぁ裁判を通じてですね明らかにしようとしたのです。
いろいろ弁護士の先生方もご苦労されたんですけど、警察が頑として変えようとしない理由は、表向きは北朝鮮に対抗する上で間違った事をやっては拉致問題の解決の妨げになるということです。
間違いがあっては困る。
間違いがあっては困るから、どんなに怪しい失踪者、どんなに怪しい事件でも拉致認定しませんと言うことなのです。
それを越えるために裁判をお願いしたんです。

こんなことではいつまで経っても誰一人、誰一人といっても松本京子さんと高兄弟は認定と言うプロセスがありましたけど、他の古川了子さん遠山さんたくさんいらっしゃる、どんなに北朝鮮にいると分かっても認定しないという事なんです。
見殺しにする気ですか?というふうに、机をぶっ叩いて怒っても・・・(聞き取れず)。
何ででしょう?
救いたくないんじゃないか?
だから私たちとしては民間レベルですけども、間違えるかもしれないと言うリスクを誰かが負わないとこの問題解決しないと思っています。
警察とか政府が間違えるかもしれないと言うリスクを負わないんだったら、誰かが負うしかないでしょう?
という事でやっていると間違いが一杯起こるわけです。

偽写真を掴まされて発表したら、「それは私です」と出て来られて。
確かに北朝鮮から特定失踪者問題調査会と言うのは謀略団体でとんでもない怪しい団体で、と言うふうに非難轟々の嵐を北朝鮮から送ってくる。
日本国内でも特定失踪者問題調査会はとんでもない、へんてこな団体だという宣伝は起こる。
マスコミからも、あぁあそこはね、と言うふうに一部で言われる事が起こって来た訳です。
でもそれで私たちは、間違いはごめんなさいという事をやるわけですけども、じゃあ調査を止めますという事になったら、どこも誰もやらないという事になってしまう。
それは古川さんの切捨て、遠山さんの切捨て、皆さんの切り捨てになっちゃいます。

だから間違いじゃ困るんですけど、間違いを恐れて何もしないという事では絶対に解決しない問題であるというふうに、我々は覚悟するしかない。
へんてこな間違いはしたくないですけどね。
ただ、かぎりなくこういう拉致と言う難しい問題を解決していくためには、誰かがどこかでリスクを負ってやっていくと言う覚悟を持ってやっていきたいと思っています。

このエントリーのテキストは、真鍋氏ご本人の手による加筆・修正を頂いた上で公開をしております。

|

佐藤勝巳救う会会長(2007/10/20)

北朝鮮による拉致問題を考える 第5回埼玉県民の集い
07.10.20 埼玉会館小ホールにて

『佐藤勝巳 救う会全国協議会会長の講演』


皆さんこんばんは。

紹介を頂きました佐藤でございます。

ただ今中山補佐官の方からお話がありましたように、政府は昨年の安倍内閣成立以来、組織を作って救出に立ち向かったわけです。
実はそこに至るまでには、私たち救う会の側から申しますと、9年の歴史がございました。
拉致と言うのは、これは政府が全責任を持って救出をすべきことである。
政府が全面的に北朝鮮と戦うべきである。
その署名が五百数十万集まって、そして政府が拉致対策本部を立ち上げたと言う経緯がございます。

そこでこれからの戦いにも関連してくることですが、日本人が拉致をされているという事が分かっているにも関わらず、何ゆえに9年もかかったのだろう?
いや、もっと言えば、30年も40年も何故解決を出来ないでいるんだろう?
言う問題が、私の中にはず~っと残っております。

湾岸戦争が起きたとき、サダム・フセインは自国にいる外国人を全員収容しました。
その収容した時に飛行機が収容所の上を飛ぶわけです。
中にいる外国人は日本人を除いては全員窓に顔を出して、自国の軍が飛行機が助けに来てくれたと、皆そう思って救出を叫んだそうです。
日本人のみが収容所の片隅に毛布を被って、サダム・フセインが爆撃したと言って震えておった。
これが現実です。

私この話を聞いたときに、我が国の政府とあるいは国家と国民の関係。
拉致をされた時、政府が助けに来てくれるとは、国民が思っていない。
政府の方も全力を上げて救出に行くという姿勢は皆無だったわけです。
この国家と国民の関係を見たときに、この国は駄目だと。
多分、潰れるだろう。
というふうに思うと同時に、それは即同時に、北朝鮮に拉致をされている人たちに対する我が国の政府の、あるいは我が国社会全体の反応の現れである。
解決できないと言うのは、そういう事なんです。
つまり国家の体を基本的になしていないんでは無いか?
言う、大変な私にとっては重い、且つ辛い思い出が湾岸戦争のときにございます。

それ以来、兎にも角にも政府が悪いんだとか政治家が悪いんだなんていくら言ってみたって、拉致なんて全然解決しませんし、世の中何も変わりません。
思った人たちが行動すべきである。
気がついた人たちが行動を起こすことである。(拍手)
それ以外に、拉致の救出もなければ世の中をちょっとでも良くする方法などは存在していないと言うのが、この10年間の救う会の私の総括です。

一生懸命で心ある人たち、全国で大体40くらいの救う会があって、もちろん今日主催している埼玉救う会もその中心メンバーのひとつな訳ですが、そういう人たちが毎月のように街頭に立って署名をする、ビラを撒く。
と言うような事を繰り返し繰り返し行ってきた結果が、拉致対策本部が出来て中山さんのような優秀な人をですね。
迎え入れる事が出来たと。
これは私、闘いの成果だと思っております。(拍手)

しかし、外野にいるこの私からですね。
この1年の拉致対策本部の動きを見ていると、図体はでかくなったけど小回りが利かない。
政府って言うのはやっぱりですね。
大変なんですね、見ていると。
予算が無いとか、手続きがどうとかこうとか、大変な作業をきちきちと。
しかしですね。
どんな組織でも問題や軋みを抱えております。

私は拉致が救出できるか出来ないか。
主にね。
主に出来るか出来ないかは、政府について言うならば3人にかかっている。
福田さんと、町村官房長官、これは拉致担当の大臣です。
そして今お話をされた中山さん。
この3人の目の色が変わってきたときに、多分拉致は解決されるだろう。

どんな組織でもそうです。
指導者の目の色が変わったとき、全部の組織に人々に、本気でやるんだな、と必ず行き渡ります。
指導者がやると言う気概を示せない時に、運動や政策が成功するなどという事はまず私は無いと思っております。(拍手)
そういう点で、まずこの御三人の方々が、断固として拉致を取り返すとき、アメリカと北朝鮮が何となく今馴れ合って、変な事をほざいておりますけどね。
この場合、日本の拉致を脇において米朝の国交正常化、そんな事は絶対に日本が承知しませんよと言う(拍手)明確な態度表明を、私は内閣総理大臣をはじめ全閣僚がカウンターパートナーに示すべきだと思っております。

それから私本人も皆さん方も、アメリカ人に知り合いがおられましたら「拉致の解決は我が国にとって最大の国益である」「最重要課題である」「これを同盟国アメリカが無視して動くというのであれば、我が方にも考えがありますよ」という事を明確に伝えるべきです。(拍手)
そして尚、我々は今日開かれたこのような集会を、今次に熊本で予定をしております。
愛媛で予定を致しております。
岩手で予定を致しております。
と言うふうに次々と我々国民の決意を政府に対して金正日に対して、アメリカに対して中国に対して、示していく。
そこを示さないまま、アメリカや外国にいくら物を言ったって絶対に誰も聞く耳を持ちません。
そういう意味では拉致の解決は私たち国民の双肩にかかっているというふうに、私たち救う会は理解を致しております。

埼玉は来年ですね。
つまり自治体、埼玉県、救う会、そして政府は拉致対策本部、外務省、総務省、法務省との支援体制をとって、今一度この埼玉でもって大集会を是非とも開いて頂きたい。
思っております。
そういうふうに我々が靴底を減らして一人一人を説得をして、拉致を解決しなかったらこの国は大変なことになりますよという事を、全埼玉県民に訴え続けることによって集会を成功させ、それを全世界に発信して行く事が私たちが拉致を解決していく基本だと考えております。

全国協議会は総力を挙げて各地域の救う会の戦いにご協力をさせて頂きます。
今後とも宜しくご協力のほどお願い致します。
どうもありがとうございました。(拍手)

|

特定失踪者家族の訴え

北朝鮮による拉致問題を考える 第5回埼玉県民の集い
07.10.20 埼玉会館小ホールにて


『井上イトノさん(特定失踪者・井上克美さんの母)の訴え』 



★杉野正治 特定失踪者問題調査会常務理事

今日は特定失踪者のご家族が見えられております。
代表いたしまして、鈴木賢さんのお兄さんでございます鈴木智さんにお出でいただいておりますので、ご紹介をしていただきたいと思います。(拍手)

★鈴木智さん(特定失踪者・鈴木賢さんの兄)

本日ご来場いただきました皆さま方の日頃の拉致問題の解決・拉致被害者救出に対しましては、多大なご支援・ご協力をいただきましてありがとうございます。
私思いますのに、特定失踪者の家族でございますが、特定失踪者が皆が皆北朝鮮に拉致されたとは思っておりません。
しかしながら、数人か数十人か数百人か北朝鮮に拉致され、政府認定者と同じように、あるいはそれ以上に光の当たらぬところで日本からの救出を待ち続けている事は、間違いのないことだと思っております。

従いまして、我々ただ今「拉致問題を考える川口の会」としまして、拉致被害者・田口八重子さんのご家族と私ども特定失踪者の家族、さらに私どもをご支援くださる多くの市民の皆様と、さらに川口の自治体を長とする自治体の皆様のご支援・ご協力をいただきまして、日頃拉致問題解決のための署名活動を定期的に行なっているところでございます。

それでは本日は川口の会の関係の特定失踪者ご家族と、さらに白岡からみえましたご家族、さらに東京都から見えました家族を含めまして、7家族9人のご紹介をしたいと思います。
こちらにパネルがございますので、大変見辛いかと思いますけども、このパネルの向かって左から順を追って紹介をさせていただきたいと思います。

それと皆様にお渡ししましたチラシがございますので、そのチラシをですね。
後ほどで結構ですからひとつご覧いただきまして、何か情報なり、引っかかりなり、あるいは風の便りなりございましたら、それなりの対応を図っていただきたいと思います。
例えば警察に連絡するとか、あるいは私どもの「拉致問題を考える川口の会」、あるいは本日の主催母体でございます救う会埼玉の連絡先がございますので、そちらの方に情報をお寄せいただければありがたいと思っております。

はじめに井上克美さんのお母さんが見えていますので。


★井上イトノさん(特定失踪者・井上克美さんの母)

皆さんこんばんは。
私は井上克美の母です。
うちの息子は昭和46年の12月の29日、突然いなくなってしまいました。
何の便りもございません、それっきり以後。
で、ここにいるのが克美の息子なんですけども、この子は親の顔を知りません。
お父さんがいなくなってから生まれた子供です。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)

私は今前橋に住んでおりますけど、息子は川口にいて拉致されました。
それで、前橋の方でもおかげさまで皆さんが一丸となって、署名運動もこの間の6~7日の土日曜日、県庁前での収穫祭を兼ねて署名運動をさせていただきました。
本当にありがたくおもいます。
でも私は川口の方には中々出て来られないものですから、川口の方の皆さんには本当にいつもいつもお世話になっております。
ありがとうございます。
どうぞ埼玉の皆さん、よろしくお願いいたします。
どうぞ皆さん、よろしくお願いします。

『鈴木智さん(特定失踪者・鈴木賢さんの兄)の訴え』


引き続きまして、私、鈴木賢の兄でございますが、昭和47年5月に大学を卒業し就職したその年の、会社のレクリエーションという事で奥多摩に向かいました。
朝6時に三芳町藤久保の家を出まして、現在まで何の消息もございません。
もちろん、奥多摩の現地集合にも行っておりません。
あるいは会社の上司・同僚も誰も見ていない、会っていない、と言う状況でございます。
もちろん免許証等の更新も行われておりません。

続きまして藤田進さんの従兄弟さんの大平さんを紹介します。

『大平一男さん(特定失踪者・藤田進さんの従兄弟)の訴え』


こんばんは。
私、藤田進の従兄弟の大平と申します。
皆様にはいつもご支援をいただきまして、ありがとうございます。

藤田が北朝鮮にいると分かったのは3年前、脱北者からの1枚の写真からでした。
本日おられる特定失踪者問題調査会の方から力を頂き、北朝鮮にいるという事が判明致しました。
写真が出てから3年ですけども、拉致されてからは31年を経過しております。

取り戻すのに大変長い時間がかかっておりますが、北朝鮮は日本からの制裁が効いていると感じています。
日本からの食糧支援や、日本からの機械製品及び外貨、その辺が必要になっていると思います。
韓国の大統領が訪問した際も、日本の総理の対話の姿勢を評価し期待していると言っているのは、北朝鮮が日本を意識して話す機会を伺っているのではないか?というふうに解釈しています。

今後共ですね。
皆さんの支援を頂きながら、声を大にして、この事件はまだまだ終わっていないんだという事を発信していきたいと思っています。
よろしくお願い致します。(拍手)

『新木博さん(特定失踪者・新木章さんの弟)の訴え』

★鈴木智さん

続きまして新木章さんの弟さんです。

★新木さん

こんばんは。

私は新木章の弟の新木博と申します。
隣にいるのがうちの姉で「(ご本人の声で)横山木三子です。よろしくお願い致します」
本日は拉致問題に関心のある多くの方々にお集まりいただきまして、本当にありがとうございます。
とても心強く思っております。

私の兄は29歳の時です。
昭和52年5月の21日の土曜日だったんですけども、いつものように「買い物に行く」と言って川口栄町の家を出ましてから今日まで31年間、全く便りもなく何の安否に関わる情報とかですね。
そういうのもなく過ぎてしまいました。
こんな事で、私どもは一日も早く安否に関わる確実な情報を得まして、一日も早く日本に戻れる事を願いつつ活動をしてまいりますので、ご支援・ご協力のほどをこれからもよろしくお願いします。(拍手)

『佐々木アイ子さん(特定失踪者・佐々木悦子さんの母)の訴え』

★鈴木智さん

続きまして、佐々木悦子さんのお母さん。

★佐々木アイ子さん

皆様、こんばんは。

いつもご支援いただいてありがとうございます。
私、特定失踪者でお世話になっております、佐々木悦子の母です。
これからも皆さん、よろしくお願いします。

★鈴木智さん

川口の特定失踪者にもう一人いるんですけど、石井久宏さん。
49年5月に、自宅でもって化粧品店を開業しておりました。
その経営資金を持ったまま、自家用車ごと行方不明となり、現在まで何の音沙汰もありません。
もちろん車、免許証等の更新もなされておりません。

続きまして、白岡から見えました江原信明さんのお父さんです。


『江原さん(特定失踪者・江原信明さんの父)の訴え』

皆さんこんばんは。
いつもお世話になっております。
江原信明も1988年に、「大宮の方まで買い物に出る」と出たまま行方不明になって現在です。
どうか今後ともよろしくお願いします(拍手)

『生島馨子さん(特定失踪者・生島孝子さんの姉)の訴え』

★鈴木智さん

本日、東京都の特定失踪者でございます生島さんが見えておりますので、一言ご紹介します。

★生島馨子さん


特定失踪者・生島孝子の姉でございます。
私のところは県外の東京都で妹はいなくなりました。
本日は主催者の方々そして会場にお見えの皆様方のご好意により、この場でご挨拶させていただける事を感謝しております。
ありがとうございます。
妹のために中々活動が出来ないんですが、埼玉の方も是非一緒に心に留めてよろしくお願いしたいと思います。(拍手)

★鈴木智さん

北朝鮮に拉致された拉致被害者の身の安全と救出について皆様方の大きな声をいただきたく、さらにご支援をお願いしまして、私どもの特定失踪者のご家族の紹介を終わらせていただきます。
ありがとうございました。(拍手)

|

家族のメッセージ(2007/10/20)

北朝鮮による拉致問題を考える 第5回埼玉県民の集い
07.10.20 埼玉会館小ホールにて

メッセージ


★飯塚繁雄さんのメッセージ

お兄ちゃん早く助けて!!妹田口八重子は北朝鮮に拉致されて29年も心の底からそう叫び続けているでしょう。
私もその届かぬ叫びを感じつつ、毎日が居たたまれない気持ちです。
他の拉致被害者家族の人達も同じ気持ちでいるでしょう。
日本にいる私たち家族は、どうしたらよいのか、どうしたら助けだせるのか、その手立はありません。
ひたすらに世論に訴えつづけ、そして日本政府に頼るしかないのです。
北朝鮮による容赦ない人材の略奪は、多くの被害者とその家族を悲しませ、苦しませ、悲劇のどん底に突き落としてしまったのです。
こんな事がこの地球上に当たり前いのように、存在していても良いのですか。
私たちは全国民と共に、北朝鮮に向け大きな怒りをぶつけ、日本人拉致被害者を全員取り返すまで戦います。
そして日本国政府は、重要課題として位置づけ、際社会と協力し、政府の責任で被害者を取り返すことを強く要望します。
タラップの下で家族が抱き合う姿を、是非正夢に!

飯塚繁雄


★飯塚耕一郎さんのメッセージ

『北朝鮮による拉致問題を考える第5回埼玉県民の集い』参加者各位様

家族会 田口八重子の長男であります 飯塚耕一郎です。
平素より拉致問題に御注視、御協力、御指導頂きまして誠に有難うございます。
また本日はお忙しい処、本集会に御参加頂き、誠に有難うございます。

さて、今年も2ヶ月ほどとなりましたが、私個人として昨今の状況から推察するに年末年始を田口八重子さんと過ごす事は厳しいと考えております。
この理由は6カ国協議の核無力化を中心とした協議進行、また、12月の韓国大統領選などのターニングポイント以外、現在の硬直状態に変化を与える要素が見当たらないと判断しているためです。また、一部では米国のテロ支援国家指定解除と拉致問題解決は切り離す報道がなされています。

私は最近“何故、帰ってくれないのだろう。何故、普通に母親と暮らすことができないのだろう。”と時折、煩悶してしまうことがあります。常々言っていますが、ただ普通の家族がある生活がしたい、ただ母親に逢いたいだけなのにどうしてこんなにも困難なのだろうと考えています。近頃は自分へのあまりの不甲斐なさなどで虚無感に駆られることはしばしばあります。

しかし、悲観的な事実だけというわけでもありません。
現日本政府は、福田政権が変わっても拉致問題対策本部の人員シフトは変わらず、また10月9日に経済制裁継続と言う判断を下しております。また先日町村官房長官にお会いした際には、「各メディアが6カ国協議で日本だけ浮いてしまうことを懸念する報道をがあるが私はそれで構わないと考える。」とお聞きしており、日本政府として拉致被害者を帰さないと許さないぞという強い姿勢は変わっておりません。

この継続性について、私はやはり世論が現体制の根幹にあり、拉致被害者の奪還を絶対にやらなければならないという皆様の声が届いているからこそだと感じています。
この問題を解決に導くのはやはり皆様の声であると改めて痛感しています。
いつも御願いばかりで申し訳御座いませんが、私共と一緒に日本政府へ、北朝鮮へ、世界へとうか声を上げ続けて下さい。集会へ御参加頂いたり、御署名へ御協力頂いたり、政府官邸へメールや電話などでできることで結構でございます。皆様の一人一人のお声がこの問題を解決するための“根っこ”となります。
また、特にこの問題の理解があまり高くない若年者へこの問題を伝えて頂ければ幸いでございます。

各位様におかれましては季節柄体調を崩しやすい時期ですので皆様お体をご自愛下さい。

平成19年10月20日
飯塚耕一郎

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
飯塚繁雄さん、飯塚耕一郎さんのメッセージ紹介については、集会主催者・救う会埼玉の同意を頂いております。

|

飯塚耕一郎さん(2007/10/20)

北朝鮮による拉致問題を考える 第5回埼玉県民の集い
07.10.20 埼玉会館小ホールにて

飯塚耕一郎さん挨拶

みなさん、こんばんは。
田口八重子の長男であります、飯塚耕一郎でございます。
本日はお忙しい中お集まりいただきまして誠にありがとうございます。

本日はいつもの集会と違って特別に、私の親父及び私からの皆さんへの手紙と言うのを出させていただきました。
封筒のほうに入っているピンクの紙がそうなんですけど、そちらに記載させていただいている内容と若干被る部分があるんですけども、私個人と致しましては、今年はまだ2ヶ月近くありますけども、ちょっと残念な1年になりそうだと。
正直後悔というか、慙愧の念に耐えない1年になってしまうと僕は思っております。

と言うのは、今年の年始から始まった対北の強硬路線というのは、どうしてもアメリカの動きで崩されてしまって、日本としてもどうしていいか、どう対北政策をとって良いか分からなくなっている中、安倍さんが退任されて福田さんに代わったというのが、私の所感ではあります。

私も含めて家族会というのは何でもありません。
ただ単に普通にある一般人なんですけど、やはり政局と言うのは我々は注視せざるを得ません。
なぜなら、私に関してはまだ一度も見たこともない母を取り戻すための答えと言うか、解決策がそこに現れているからです。
やはりこういう集会等で、私はどうしてもそういう政治的なお話をさせて頂くというのはとてもおこがましいと思いますし、また専門家でもないので穿った見方をしていると思われるのも正直嫌なので、そういう事はこれまで申し上げませんでしたけども、今回に限ってちょっと言わせていただきたいと思います。

私特に昨今、ここ近日中のお話なんですけども、やはり福田さんになってからの対話路線と言うのは、特にメディアの方で大きく囚われているような印象を受けます。
対話路線と言うのはこれまでの歴史を鑑みても、北朝鮮に対して対話路線を取って、いい答えが出た事がありますか?(拍手)
それは皆さんが本当に分かっているとおりだと思います。
ですので、アメリカに釣られて「日本としてバスに乗り遅れてしまうから一緒に対話路線に乗りましょう」という6カ国協議及びアメリカの姿勢と言うのは正直疑問がありますし、それに乗ったところで日本としては何のメリットもないと思います。

まだ現在調整中でありますし、私家族会の役員でもないのでこういう事を申し上げるのも何かと思うんですけども、来月あたりにまた家族会が訪米します。
その目的としましては、アメリカの議会の方に家族としての訴えを新たにして来ると言う事になっています。
まだ現段階では調整中ですので確定的なものではありません。
ただ、やはり今のアメリカのやり方と言うか、6カ国協議の流れと言うのは、どうしても融和路線になってしまっているので、そこはどうしても阻止しなければならないと。
それを阻止できるのはやはり当事者である日本ですと。

日本が動くために何が必要か?と言うと、この間新聞にもありました。
福田さんは妙案が無いから中々手を出せないと。
ただ、日本の国内世論が余りにも強いから対話路線には行かないんだよと。
これはまさに僕はその通りだと思っています。
その世論の強さと言うのは皆さんの一人一人の声だと思っています。
皆さん一人一人が署名いただくこと、官邸の方にメールを出していただけること、官邸の方にお電話していただけること。
こういう事が一つずつ重なって世論の強さになっているんです。

とても今日はちょっと過激な事を申し上げましたけども、逆に申し上げれば過激な事の裏返しというのは、私はどうしても今年1年何も出来なかった上手く行かなかったと言う、後悔の念から来ています。
これをメディアの方針と言われて、また何か怪しい事を言ったというような事を言われても仕方が無いかもしれませんけども、それくらい強くて残念な気持ちと言うのは今年に関しては一杯です。

ただ訪米然り、今後の政府のアプローチ然りですけども、皆さんのお声が無い限り私たちと言うのは動けません。
私たちは本当にか弱い人間です。
ですのでこれまで通り、また従来より力強く、皆さんのご声援及び政府へのメッセージと言うのを伝えていただきたいと思います。

また特に私から申し上げたい事は、特に若い世代の方、20代30代もしくは10代でもなんですけど、その方々に対して、拉致問題というのは名前だけ知っているような形で、実際どういう事件だったのか?と言うのはあまり知らないと言うのは正直私印象としては受けます。
ですのでご自宅に帰るなり機会があった時に、特に若い方々にこういう問題があった、本当にドラスティックで残酷な事実があるんだよと伝えていただければ幸いかと思います。

すみません、今日はちょっと変な話になってしまいましたけどありがとうございます。(拍手)

|

飯塚繁雄さん(2007/10/20)

北朝鮮による拉致問題を考える 第5回埼玉県民の集い
07.10.20 埼玉会館小ホールにて

『飯塚繁雄 家族会副代表の挨拶』

Photo_2

 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 

皆さんこんばんは。
ただ今、・・・(聞き取れず)にもありましたように私、田口八重子の兄の飯塚です。
日頃皆様には、この問題について非常に深い理解とご協力をいただきまして、本当にありがとうございます。

こういった雰囲気が全国的に広まり、いまや国民の多くの方々が、この拉致問題に対して早く解決して欲しいと言う願いが沸きあがっております。
今日もこの会場の雰囲気がまさにそれでございますけども、私たち愛しい、しかもかけがえのない家族をあの北朝鮮に拉致されてからもうすでに30年。
1~2年の差はありますけども、この長い間、全く消息もなく、もちろん帰国も出来なく、非常に私たちは無念といらだたしさと、後は北朝鮮に対する怒りと、こういった気持ちが混同して、本当にどうしていいか分からないと言う心境になる事もあります。

当の北にいる被害者が一番大変でしょうけども、今は「もうすぐ日本に帰れるから、取り返すから、もうちょっと頑張ってください」と「それまで元気でいてください」というふうに心の中で叫び、あるいは夜の星に願う。
こういう事しか今出来ない状態ですけども。
一方政府の方々、議連の要するに国会議員の先生方、さらには地方自治体の県会市会、あるいは町の中のいろんなボランティアの方のご協力がありまして、もうこの問題は政府としても後に引けないんだと。
このような重大な問題になっているはずです。

しかしながら、相手がいることですけども、ご承知の通り北朝鮮と言うのはまともな国ではない。
言ってみれば暴力団みたいな国ですから、これらと交渉してこの問題が単なる交渉で片付くのか?という心配がありますし、今まで何十年間こういったやわな交渉で、日本が相当な皆さんの税金を使って北朝鮮を支援してきた経過がありますが、これからは絶対にそんな事はさせないと。
ここで怒らなかったら、また元に戻ってしまうという事になると思います。

今回の6カ国協議の流れの中で、拉致問題と言うのは絶対にいけないと、日本にとしては重要問題と、総括的に解決しないと日朝正常化はありえない。
こういうように全くぶれない態度であたっております。
しかも国際社会の関係各国からもいろいろご支援を頂いておりますけども、やはりなんといっても当事国の日本が、自らの国民を取り返すんだという強い意思を示していただき、具体的な活動・行動、あるいは交渉、それに当たっていただきたいなと思っています。(拍手)

交渉と言うのはもちろん話し合いですけど、やはり何か後ろに力を持っていないと交渉にはならないと思います。
その力と言うのは一つは皆さんの世論、世論の大きさ・強さ、あるいは日本全体がこの問題について怒っていると言うこういった力。
もう一つは今までなんとなくごまかせて来た北朝鮮への支援を取りやめる制裁。
これは今までやっていなかったんですが、今度これを各法案を含めて制裁をしたという事は、本当に日本がこの問題を重要視して、北に対して要求を突きつけているというその流れでございます。

私たち家族会もその意味では北に対しては強く当たって欲しいと。
よくバスに乗り遅れるとか孤立するとかっていう話がありますけども、孤立しても乗り遅れてもいいんです。(拍手)
日本はやるんだと、・・・(拍手で聞き取れず)と言う意思があれば、全くそういう事は無いと思います。
今回、安倍さん、残念ながら辞任しましたけども、今回の福田総理におかれましてもこの問題を絶対に自分の手で解決するといってくれましたし、私たちは安倍さんに代わってこの問題をきちっと受け止めて、最重点課題として取り組んでいただきたいなと言うふうに思いますし、これからもその辺は訴えていきたいと思います。

少なくとも北朝鮮との交渉の中で拉致を取引の材料にだけはさせたくないと。
例えば拉致問題について、北朝鮮にいる日本人を再調査しますとか、再調査するから人道支援として米を何十万トンか寄越せというような話がチラッと出ていましたけど、とんでもないと。
まず、北朝鮮による拉致と言うのは全く国家的な犯罪であって、人道と考えればそれは確かに水害とかで苦しんでいる人はいます。
それと全く次元が違うわけですよね?
ですから日本人の拉致が片付けばそういった支援も出せると言うようなことも条件付けて、北朝鮮を説得すると言うことも一つだと思います。

我々は素人でそういった難しい話は分かりませんが、とにかく政府にお願いするしかないんですね。
皆さんと共に、皆さんのお力を借りながらお願いしていくという事に徹して、今年もあとわずかですけども、今後の方針としては私たち家族は全国民に更なるこの問題に対する喚起をお願いして、その力をバックに政府が動きやすいように、という事で活動してまいります。
もちろん、国際社会にも訴えてまいります。
そういった事を今後も出来る限り続けていこうというふうな方針でやっていきます。

今後とも皆さんのこういった怒りをですね。
是非示していただいて、具体的には首相官邸にメール、あるいはFAX、あるいはハガキ・手紙・電話、何でも結構ですからどんどんどんどん怒りの声を、あるいは支援の声を上げていただいて、本当に日本が一枚岩になってこの問題を解決すると言う態度をさらに強くしていただきたいなと言うお願いでございます。

あまり私たち時間がありません。
一刻も早い解決を願って老体に鞭を打ってですね。
頑張りますので、相変わらずのご支援をよろしくお願いします。
本日は、今日もありがとうございました。(拍手)

|

2007年12月14日 (金)

家族 英訳版

拉致問題の本質が良くわかる本、「家族」の英語版がウェブで無料で読めます。
お友だちや、ご家族を通じて、外国人の方にもおしえて差し上げてください。


 
第一章 
 
第二章  

第三章  

第四章  

第五章  

第六章  

第七章 

ワシントンDCらち連絡会

有志によって英訳されたものです。
是非、お友だちの外国人に教えてあげてください!

|

大韓機爆破-テレビ番組のお知らせ

以下のメールを頂きましたので、ご本人の諒解の元、掲載させていただきます。
――――――――――――――――――――――――――――――――

こんばんは、○○の××です。皆様にはお忙しいところ、このようなメールを配信することをお許し下さい。
是非、観て頂きたいドラマが放映されますので、ご案内させて頂く次第です。
ご関心のありそうな方への宣伝もどうぞ宜しくお願い致します。ある「日本の危機」を救った男たちの物語です。

1987年11月末、彼らがいなければ日韓関係は大変なことになっていました。
その危機を水際で防いだのは決してエリートのキャリア官僚ではなく、ノンキャリアの若き外交官たちでした。
しかし、彼らの「功績」を政府は役立てることもなく、対応を誤ります。
国のトップが無能だと、後々どれほど重いツケを国民に残すことになるか、お汲み取り頂ければ幸いです。

『大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち ~封印された3日間~』 が12月15日(土)午後9時、フジテレビ系で全国放映されます。

http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2007/071119premium.html

多くの皆様は20年前の11月に起きた、大韓航空機爆破事件をご記憶のことと思います。
翌1988年のソウル五輪を妨害しようとした北朝鮮が、バグダッド発ソウル行きの大韓航空機858便を爆破、 乗客乗員115名全員が死亡した事件です。

あの時の爆破犯人、北朝鮮の工作員であった金賢姫がバーレーンの空港で逮捕されたのは、 ご承知の通りですが、誰が、どのような経緯で拘束に成功したのかは、あまり一般に知られてはおりません。
金賢姫を取り押さえるのに成功した殆どの要因は、現地駐在の日本大使館職員の機転と、
わが身を顧みない努力によるものでした。彼の名を砂川昌順といいます。彼を主人公にしたドラマが放映されるのです。
なぜ私が、その宣伝をするかというと、砂川さんは私のよく知る人だからです。彼は私の父の元部下でした。

1984年、親父が西アフリカのガーナの日本大使館にいた時、外務省の外郭団体から派遣されて来たのが 砂川さんでした。2年間の契約が切れると帰国し、新たな職を探さねばならない立場にありました。
当時のガーナは政情不安でクーデターが頻発。アフリカの中でも最も貧しい国の一つでした。
リビアのカダフィ大佐と親交のある左翼軍事政権下で、戒厳令やCURFEW(夜間外出禁止令)が敷かれ、電気も水も食料も満足になく、国民は飢餓状態に近い様相を呈しており、マラリアなどの熱病をはじめ、大使館の庭には猛毒のグリーンスネークが出没するという、過酷な労働環境にありました。

その中で人一倍、勤勉で細かいところによく気がつき、優秀だった砂川さんを親父は可愛がり、 時には厳しい指導をして外交官としての基本を教え込んだのだそうです。
そして人事課に推薦状を書き、砂川さんは外務省職員として本採用されました。これはあまりないケースでした。
正規職員となった彼はアクラ(ガーナ)からバーレーンに赴任します。そこで大韓機事件に遭遇することになります。

事件発生直後には一体、何が起きたのか皆目、分かりませんでした。
ただ、ハッキリしているのは大韓機がミャンマー沖で消息を絶ったということだけ。
日本や韓国政府の対応は後手後手に回ります。事件発生から丸1日以上が経過して、ようやく在アブダビの日本大使館から「大至急電」が飛び込んで来るという有り様でした。

「親子連れの日本人らしき男女2人が最後の寄港地、アブダビで降機した模様。貴国に入国していないか、至急、確認願う」といった内容が、中東各国の日本大使館に配信されて来ました。
しかし、現地で様々な人脈を得ていた砂川さんは、事件発生直後から多くの情報を掴んでいました。
当時の中東各国の状況、航空事情などから、「高飛びするならバーレーンに入国している可能性が高い」と直感。
交際のあった空港職員、スチュワーデス、ホテルマンなどからの情報を元に、様々な困難を乗り越えて、ハチヤシンイチ、マユミが泊まっているホテルを突き止めたのです。

では他の大使館職員は何をしていたか。何と、本省から出張で来たお偉いさんの接待で夕食会を開いていたのです。
そんなことやっている場合ではないのに、危機管理意識がまるでありません。中東特有の難しい事情があったとはいえ、「関係先いくつかに電話で問い合わせ、調べた結果、不明と返信すればいい」程度の認識だったそうです。
対米開戦前夜、呑気に送別会を開いていた在ワシントン日本大使館の失態を彷彿させられます。
尤も、当時の外務省幹部の失態だけに、このような話はドラマではやらないと思いますが…。

これ以上、私が詳しいことを書くと、ドラマの楽しみがなくなってしまいますので、やめておきますが、砂川さんは殆ど一人で、ホテルにいる2人を監視、様々な苦労の末に翌朝、空港で出国ゲートに先回りし、「日本大使館の者です。パスポートを拝見…」と回収し、2人の確保に成功したわけです。
しかし、砂川さんや現地警察がほんの一瞬、目を離した隙に2人は服毒自殺を図り、シンイチこと金勝一は死亡、 マユミだけが一命を取り留めたのはご承知の通りです。

砂川さんは病院に何度もマユミを見舞い、日本語、中国語、英語の3カ国語で話し掛けました。
「何か困っていることはありませんか? 助けてあげますから…」と、優しく語り続けたそうです。
パニック状態に陥っていたマユミは、日本人を装ったり、中国人になりすましたりしていましたが、 韓国大使館員が韓国語で話し掛けると、わざと分からないふりをする様子が見て取れたそうです。
やがて最後には、大粒の涙を流しながら、「あのね、私ね、日本人じゃないのに…。親切にしてくれて、ありがとう…」そう答えたそうです。「マユミは心を開き始めた。あと3日あれば落とせる!」砂川さんは確信した。ところが、彼女が日本人でないことを東京に報告すると、日本政府の反応が急に冷たくなったというのです。

結局、日本はマユミを引き取らず、韓国への移送が決定。砂川さんは地団太を踏んで悔しがりました。
この時点でマユミの犯罪容疑は、まだ大韓機の爆破ではなく、日本の偽造旅券を使用したことだけです。
まず日本に連れて来て、日本の警察が取り調べるのが筋でした。バーレーン政府関係者も訝ったそうです。
「なぜ日本は身柄の引き取りを求めないのか?」と…。

やがて韓国に移送されたマユミ、つまり金賢姫の口から李恩恵こと田口八重子さんの存在が明るみになります。
もし日本に連れて来て取り調べていれば、拉致事件などの解明も、もっと早く進んだことは間違いありません。
少なくとも砂川さんがいなければ金賢姫は決して捕まってはおらず、金賢姫が捕まっていなければ大韓機事件は、「日本人の仕業」とされていたでしょう。ただでさえ反日感情の強い韓国のことです。国交断絶ぐらいでは済まない、大変な事態になっていたであろうことは想像に難くありません。いわば国難、日本外交の危機を救ったと言えます。

事件後間もなく、一時帰国した砂川さんは、事の詳細を報告するため、資料や写真、録音テープなどを 提出しようとしました。ところが外務省幹部は、こう言い放ったそうです。
「そんなものは要らない。見る必要はない。犯人を韓国に引き渡したのだから、もうわが国とは一切、関係がなくなった」
臭い物に蓋、事なかれ主義、危機管理意識のカケラもない見事な平和ボケぶりです。
ちなみに時の首相は竹下登、外相は宇野宗佑でした。

砂川さんの活躍は、事件後間もなく、私は親父から聴かされていました。
「あれは砂川君の大手柄だったんだよ。彼は大したことをしてくれたもんだ!」 と、自分のことのように喜び、詳細を話していた姿が今も強烈な印象に残っています。
しかし、親父は私たち家族に、固く口止めをすることも忘れませんでした。
「このことは一切、他言無用だ。絶対に口外するな! 万が一、マスコミにでも知られたら厄介なことになる…」
北朝鮮がどういう国か、私もよく分かっていましたので、砂川さんの武勇伝を人に話すことは一切できませんでした。

やがて、恐れていたことが現実となります。
当時、既に東側の諜報機関などから「ヨーロッパで行方不明になっている日本人が、北朝鮮に渡っているらしい」との情報を掴んでいた砂川さんは、一向に重い腰を上げようとしない本省に業を煮やし、単身でウィーンの北朝鮮大使館に飛び込むというスタンドプレーをやってしまったのです。
外務省職員が許可なしに国交のない国の人間と接触することは、重大な訓令違反になります。
キャリアでもなければ、私の親父の推薦状一枚で入省した砂川さんを庇う上司もいなかったようです。
砂川さんは笑って、決して答えようとしませんが、キャリアたちの嫉妬などもあっただろうと私は想像します。
これが元で砂川さんは、外務省を辞めざるを得なくなってしまいました。

そして怪しい影が、彼をつきまとうようになりました。来る日も来る日も、得体の知れない男たちに追われ、 逃げ続ける日々が続きます。雲隠れし、住居を転々と変えても変えても、すぐに見つけられ、追われるようになります。
買い物に出る時も防弾チョッキを着て外出する。そんなことの連続だったそうです。
金賢姫が「美人テロリスト」として脚光を浴び、ブラウン管などを賑わせた一方で、 もう一方の「主役」は決して、表舞台に姿を現すことはありませんでした。

私たち家族は、金賢姫の姿がニュースなどでブラウン管に現れる度に、話したのは砂川さんのことばかりでした。
「砂川君、どこでどうしているのか…」と親父はいつも顔を曇らせ、 「いっそのこと、金賢姫なんか捕まえなければよかったんじゃないか。これでは犬死同然ではないか?」 と、私も憤懣やる方ない思いがしたものです。
砂川さんが逃亡生活を続けた15年間は、私たちにとっても後味の悪い、重苦しい心境でした。

転機は2002年9月に訪れます。小泉首相が北朝鮮を訪問。金正日が拉致を認め、日本の世論は一変します。
その後は、もう砂川さんも追われることはなくなり、それまで彼を護ってきた公安関係者から、
「もう大丈夫だろう。真実を世に明かしなさい」と、安全宣言が出されました。
こうして出版されたのが、砂川昌順著「極秘指令」~金賢姫拘束の真相~(NHK出版、1680円)という本です。
ご関心のある方は是非お読み頂けると嬉しいです。

本来ならば砂川さんはその功績を讃えられ、国から最高位の表彰を受けていなければならないはずです。
しかしながら、彼は未だに何の褒美も貰ってはいません。外交官の鑑と言えば杉原千畝氏が有名ですが、 これでは将来、国のために命を懸けて仕事をする外交官はいなくなってしまうでしょう。
否、外交官ばかりではありません。全ての公務員、民間企業に勤める人たちとて同じです。
今からでも政府には、彼に対する再評価を強く求めたい気持ちです。

砂川さん役の俳優、高嶋政伸さんは、砂川さんとはイメージが随分と違うのですが、熱血漢ぶりが買われたそうです。
テレビ番組制作会社のスタッフとは私も3回、直接会い、当時のガーナや砂川さんのことなどを詳しく説明し、番組作りに少し協力しました。ただ、私はもちろん、砂川さんも番組を見ていないため、どのような内容かは、正直、分かりません。なるべく事実を忠実に再現するとは聞きましたが、面白くするための脚色はされているでしょうし、私たちの意向が反映されているか、見終わって期待外れでガッカリ…となるかは、何とも言えません。

長文になりましたが、最後まで読んで下さった方には厚く御礼を申し上げます。

――――――――――――――――――――――――――――――――
砂川昌順さんは、現在ネットライブの運営に中られ、調査会の記者会見や、戦略情報研究所講演のライブ中継に力を貸してくださっています。
以前の講演の様子は、以下のURLで、砂川 昌順さんのお話(2005年4月10日)

http://blog.goo.ne.jp/blue-jewel-7/e/0e79af3bb422837cae577142e808ebd1

参考書籍

Kazoku  

|

2007年11月25日 (日)

2.8渋谷街頭活動のおしらせ

7314113_3862913331s

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   「12月8日 渋谷街頭活動」のご案内

                   平成19年11月24日
                     東京ブルーリボンの会・蒼き星々

私達は、来る12月8日(土)渋谷ハチ公前で、

『拉致は人権侵害!
 北朝鮮の全ての人権問題を糾弾しよう!』

と題して、「第二回北朝鮮人権週間渋谷街頭活動」を行います。

拉致はもちろん、強制収容所、飢餓、脱北者問題など、北朝鮮には過酷な人権状況に苦しむ人たちが多くいます。核で世界を恫喝し、拉致を切り捨てようとする北朝鮮に怒りを向け、北朝鮮で苦しむ全ての人々に平和と自由を勝ち取るために、私達は、首都東京、渋谷からから発信します。

当日は、10日から行われる北朝鮮人権週間に関わるイベントをより多くの人たちに紹介するため、イベント一覧のチラシを配付します。

一刻も早い拉致被害者全員救出のため、北朝鮮で苦しむ人々の人権を守るために、あなたも街頭活動に参加してください。
――――――――――――――――――――――――――――――――
日  時:平成19年12月8日(土)午後12:00~2:00
場  所:渋谷ハチ公前広場(大型掲示板付近)
呼びかけ人:東京都議会拉致問題解決議員連盟        古賀 俊昭 都議
     :北朝鮮に拉致された日本人を奪還する地方議員の会代表 土屋たかゆき都議
企画運営:東京ブルーリボンの会・蒼き星々
活動内容:
救う会認定被害者・東京関連特定失踪者問48名・川口特定失踪者の読み上げ
北朝鮮人権週間イベント一覧の配布
ブルーリボン配布
チラシ配布(しおかぜ・政府リーフレット・東京都作成特定失踪者チラシなど)
街頭アピール
各人権団体からのアピール 他

集  合:11:30 ハチ公前
※ボランティアの方々は「東京ブルーリボンの会」幹事の現場指示に従っていただきます。

――――――――――――――――――――――――――――――――
※この件についての問合せ、参加申し出は 
メール: jewel@blue-stars.org までお願いします。
当日配布物の準備などの参考にさせていただきます。


関係各団体への参加要請中。拉致被害者ご家族・特定失踪者ご家族も参加予定。

|

2007年11月14日 (水)

連載【漂揺の30年(2)】「あの子は今、どこで…」

連載【漂揺の30年(2)】 めぐみさん拉致事件 

 「あの子は今、どこで…」   

 MSN産経ニュースより

北朝鮮から提供された、拉致された直後とみられる横田めぐみさんの写真。おびえたような表情に、家族全員が涙した 「めぐみちゃんは今ごろどうしているんだろう、どうしたら助けられるんだろうって、イライラして…」。横田めぐみさん=拉致当時(13)=の母、早紀江さん(71)は、ため息混じりに語る。

 《1993年3月13日、平壌市の49号予防院で死去。朝鮮名は「リュ・ミョンスク」。77年11月から86年7月まで招待所で朝鮮語などを学び…》。拉致を認めた北朝鮮は5年前、こう伝えてきた。


【横田めぐみさんの写真展はこちら】

 ところが、帰国した拉致被害者らの複数の証言で、めぐみさんがその後も生きていることが分かると、北は「死亡したのは94年だった」と訂正。あまりに不誠実で、つじつま合わせの対応をしている様子を浮かび上がらせた。

 「95年ごろの2年間は金正日総書記の妻、高英姫氏(故人)の2人の息子のうち、どちらか1人の日本語の家庭教師をしていた」。金総書記の元側近で韓国に亡命した幹部は韓国当局に対し、こうも証言している。

 支援組織「救う会」の西岡力副会長は「めぐみさんは工作機関から金総書記の近くに呼ばれたため、北はめぐみさんの消息をそれ以上出せないのかもしれない」と推測する。

 「朝顔の花を押し花にして『記念にしてね』と渡してくれたり、一緒に『故郷(ふるさと)』を歌った」

 帰国した拉致被害者の曽我ひとみさん(48)の証言からは、北でのめぐみさんの様子がおぼろげながら浮かんでくる。昭和53年8月に拉致された曽我さんは、すぐ平壌の招待所に入れられ、まもなく違う招待所に移動。そこにいたのがめぐみさんだった。

 「めぐみさんは元気で、朝鮮語を一緒に勉強した。その年の12月まで一緒におり、2人ともその招待所を出て別々になった」

 曽我さんは別の招待所を転々とするうち、めぐみさんと再会する。

 「このときは7カ月間一緒にいて、一緒にピンポンやバドミントン、バレーボールもした」

 工作員による教育、厳しい監視。ときには地村保志さん(52)、富貴恵さん(52)夫妻を拉致した実行犯として、国際手配されている辛光洙(シン・グァンス)容疑者(78)がめぐみさんらを教育したこともあったという。日本語を話すことも禁じられた生活。「夜、寝るときに2人で日本語で会話した」(曽我さん)。

 北朝鮮側の説明によれば、めぐみさんは86年8月13日、韓国人拉致被害者、金英男氏と結婚、翌年9月13日に長女、ヘギョン(ウンギョン)さんを出産した。

 曽我さんの夫、チャールズ・ジェンキンスさん(67)は「『ヘギョン』はひとみの北朝鮮での名前。親友の名前をつけたのでは」と語った。早紀江さんは「ひとみさんのことを思って娘に名付けた心境を思うと、やりきれない気持ちになる」と苦痛の表情を浮かべる。
「めぐみちゃん、こんな所にいたのね」

 早紀江さんは、北が提供してきた写真に、涙を流しながら話しかけた。おびえたような表情でじっとカメラの方を見つめた、拉致直後とみられる姿。その後、成人後の写真も出てきた。探し求めていためぐみさんの“証”だった。

 父、滋さん(75)は「孫の姿、大人になってからの写真、結婚の様子など信じられないものが出てきた」と話すが、「(北から)帰ってきた人も、一緒に暮らしてたという人もいるのに…。大事な核心的なところ、聞きたいと思うところは、何も分かっていない」(早紀江さん)。

 横田夫妻は「本当の情報が分からない。それが一番つらい」と口をそろえる。「帰国した被害者の方は、いろんな理由で話せないことがあるのかもしれない。あの人たちも苦しいし、私たちも苦しいのです」。北による拉致の非道な現実がここにある。

|

連載【漂揺の30年(1)】 「人ひとりの命は…」

連載【漂揺の30年(1)】 

「人ひとりの命は…」
 
  
MSN産経ニュースより

拉致された昭和52年の正月に自宅玄関前で写真に写る横田めぐみさん(横田滋さん撮影)  日本海に記録的な大雪が降った年だった。人気絶頂だったキャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と突然引退を宣言し、街中には森田公一とトップギャランの「青春時代」が盛んに流れた。一番流行(はや)った映画は「幸福の黄色いハンカチ」。

 政治は今年と同様、参院選があり、ロッキード事件の影響を受けた自民党が過半数を割った。自民党から分裂した新自由クラブを合わせて、かろうじて過半数を確保したが、福田康夫首相の父、故福田赳夫元首相は厳しい政権運営を強いられた。

 日本赤軍メンバー5人がパリ発東京行き日航機をインド上空で乗っ取り、バングラデシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本で勾留、服役中の仲間の釈放と身代金600万ドルを要求した「ダッカ事件」もこの年のこと。福田元首相は「人ひとりの命は地球より重い」と、連続企業爆破事件の犯人など6人を超法規的措置で釈放し、身代金を払った。

 ちょうど30年前の昭和52年はこんな年だった。
晩秋の新潟は、厚い雲に覆われる日が多い。

 「レインコートはいらない?」

 「どうしようかなあ…。今日はやめる」

 玄関で白いレインコートを持ったまま、当時41歳だった横田早紀江さん(71)は、中1だった長女、めぐみさん=当時(13)=を送り出した。それっきり、娘の肉声を聞いていない。

 夕方、バドミントン部の練習を終えて帰宅する途中、めぐみさんは友人と別れた直後に北朝鮮工作員に拉致された。連れ去られたのは、自宅からわずか50メートルの地点。

 「あの日の5日以上前、北朝鮮工作船から発信される電波が把握されていた」。ある捜査幹部はこう明かし、「あの電波がめぐみさん拉致に関係していたはずだ」と確信を深めている。ただ、当初は電波把握と拉致実行の日にちにずれがあり、北が日本の主権を侵害する事件が起きていたことは見逃されてしまった。

 なぜ、めぐみさんが失跡したのか、分からなかった早紀江さんら家族は悲しみのどん底に追いやられた。時間だけが流れ、焦燥感を通り越し、ただ打ちひしがれた日々。早紀江さんの頭には「死」がよぎったこともあった。

 「私がいなくなったら、めぐみちゃんが帰ってきたときにどうするの」。早紀江さんはその度に自分にそう言い聞かせ、思いとどまった。

 どれだけの年月が経過しただろう。朝鮮労働党の現職幹部が第三国で韓国情報機関と接触した際の情報、脱北工作員証言、電波、捜査状況を総合的に判断した結果、「北」の影がようやく見えてくるまでに、失跡から20年を要した。

 「でっちあげ」と否定し続けていた北が、めぐみさんら日本人拉致を認め、謝罪したのも、もう5年前だ。めぐみさんは「死亡」と伝えられたが、「偽遺骨」に象徴されるように「子供だましのストーリー」をもってめぐみさんの「死亡」が確認されるわけはなく、説得力は皆無だ。

 「めぐみちゃんがいる場所が分かって、あの子が持っていた物も写真で出てきて、子供ができていて、あんな大きくなっている。形としてはっきりと認められるものがある。何も分からなかった20年間と今は違う」。早紀江さんはそう話す。

 「何のために子供たちはこんなにひどい目に遭っているのか。大変な問題が日本に起きているのに…」。早紀江さんが各地の講演で語りかける言葉には、一人でも多くの国民が関心を持ち続けてほしいという願いが込められている。民意が政治を動かす力になると信じているからだ。

 先月末の家族会と福田首相の面会で、早紀江さんは「子供たちは海におぼれている状態のまま長い間助けを求めています。泳いでなり、ブイを投げてくれるなり、必ず救出していただきたい」と懇願した。ダッカ事件とは別の次元で、早紀江さんら家族が福田首相に伝えたかったのは「人ひとりの命は…」という気持ちだった。

|

2007年11月 7日 (水)

渋谷街頭活動 鈴木智さん(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『鈴木智さん(特定失踪者・鈴木賢さんの兄)の訴え』

御通行中の皆様、日頃拉致被害者救出につきましては、大変なるご協力・ご支援をいただきましてありがとうございます。
私は「拉致問題を考える川口の会」の特定失踪者の家族でございます。
現在政府認定の拉致被害者は17名。
その他自殺・家出の動機のない、いわゆる失踪者、全国で特定失踪者問題調査会に届出をしている人が460名。
このうち34名の方は、北朝鮮による拉致の疑いが非常に濃厚と言われております。
私は埼玉県でも13名中、6名の特定失踪者がおります、川口の会の鈴木でございます。

私思いますのに、全部が全部、特定失踪者が拉致被害者だとは思っておりません。
がしかし、数名か数十名か数百人か分かりませんけども、北朝鮮に拉致被害者と同じように、それ以上に光を当てられることも無く、暗闇の過酷な暗黒の世界で命を永らえている特定失踪者がいる事は、間違いないことだと思っております。

現在私どもは川口の会として継続的な署名活動を行なっております。
この川口の会の発足につきましては、拉致被害者・田口八重子さんの本籍地、でございます。
さらにこの会の立ち上げにつきましては、田口八重子さんが住んでいた地元町内会からの発信でございまして、これらを川口の家族会の皆様、さらに川口の地域町内会の支援をいただきまして、さらに特定失踪者の家族が加わりまして現在、定例的な川口における署名活動・チラシ配布・集会等におきますアピールをさせていただいております。

私思いますのに北朝鮮の卑劣極まりない金正日の危険な日本国民の、全く何の関わりもない日本人を一方的に略奪し、帰国できない日本人を見殺しにしようとしております。
現在拉致された北朝鮮における拉致被害者はもとより、特定失踪者におきましても、私はこれらの何名か何十名か何百名かは分かりませんけども、拉致されているであろうと言う拉致被害者を救出するためには、皆様の心ある救出活動は不可欠でございます。
どうぞ皆様、お一人でも多くの皆様に救出活動にご参加いただきたくよろしくお願いを申し上げます。

先日、昨日ですけども、永田町の星陵会館におきまして、北朝鮮の金正日のテロ政権を糾弾すると言う集会がございました。
この席で私は今でも脳裏に残っておりますのは、元アメリカの国務省・北朝鮮問題の専門家、チャック・ダウンズの一言でございます。
「日本の国はもっともっと強く抗議しなさい。抗議すべきです。」
チャック・ダウンズさんの言葉は、「今大事な事は日本は国民の命を第一にする事を、国内はもとより国外に向けても強力に発信することである」と、いう言葉でございました。
まさにこの方の言葉は今の状況下に全く適合しているのでは無いでしょうか?

私も北朝鮮による拉致被害者の帰国まで救出まで、一人残らず救出できるところまで、私たちも一人残らずの救出を考え、人の命を考えて、これからも救出運動に邁進していきたいと思います。
どうぞよろしくご支援ください。
ありがとうございました。

|

渋谷街頭活動 杉野正治さん(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『杉野正治 特定失踪者問題調査会常務理事の挨拶』

渋谷を御通行中の皆様、特定失踪者問題調査会の杉野でございます。
今、お話をされた生島孝子さん、この渋谷区にお住まいの時に失踪をされました。
昭和47年のことです。
この大都会、東京の真ん中で拉致をされた可能性が非常に高い。
北朝鮮で目撃された情報がある。
こういう方でございます。

ここにポスターとそして顔写真がありますけど、この東京でたくさんの方が拉致をされた可能性がある。
今日は飯塚さんがお出でですけど、その妹さんの田口八重子さんもこの東京の池袋で拉致をされました。
という事はですね。
北朝鮮から上陸した工作員は、海岸にいる人を拉致しただけじゃないんです。
東京にいて十分調べて日本人を拉致して行った。
それが拉致の本質でございます。

このように東京では50名公開しておりますけど、非公開の方を含めれば80名くらい。
全国では約470名くらいの方が、拉致の可能性を否定できない方、拉致の可能性がある方という事で、私ども特定失踪者問題調査会の下にいます。

丁度5年前、小泉元総理が訪朝して金正日が拉致を認めました。
そして5名生存・8名死亡と言うあの情報がもたらされたんです。
あの時、新潟の佐渡で拉致をされた曽我ひとみさんと言う方がおられました。
そして曽我ひとみさんのお母さん、曽我ミヨシさん。
この二人の方は日本の政府も警察も、誰もが拉致だと思っていなかったんです。
犯人である北朝鮮が自白をして、そして拉致であることが分かった。

あれによってですね。
この5年間、全国から「自分の家族も拉致をされたんじゃないだろうか?」と、そういう申し出がたくさん我々のところに来たのです。
我々調査したところ、今政府が認定しているのは17名。
17名が政府が認定した拉致被害者。
しかし我々はそれだけではない。
もっともっとたくさんの拉致被害者がいる。
どんなに少なく見積もっても100名、もしかすると200名、もっとたくさんいるかもしれない。
我々のところに届け出ていない拉致被害者も必ずいるに違いない。
我々はそう見ています。

それに対しまして、日本国政府は今どうしているか?
北朝鮮に対しては現在6カ国協議の中の日朝の交渉の中で、北朝鮮に対してこの拉致被害者、政府が認定している拉致被害者が今12名、この人たちを返してもらうように北朝鮮に対して誠意を求めている。
これが日本国政府の今の考えなのです。
しかし考えてみていただきたい。
北朝鮮の交渉を担当している人間に誠意があると思っている人は、おそらくこの今渋谷を歩いている人の中にも誰一人いないと思う。
日本国政府も というのは、交渉だけをしていれば、つまり交渉をすることだけが目的になってしまっている。

これだけたくさんの方が拉致をされている可能性がある。
これを明らかにするためには交渉によって北朝鮮の誠意を求めるのではない。
解決のためには必ずやらなければいけないことがある。
これは北朝鮮の金正日の独裁体制、これを倒すこと以外に方法がありません。

先ほど古賀都議会議員が仰ったように、この拉致と言うのは戦争であります。
我々の国民を30年40年の長きに亘って、勝手に日本の国内に入って、そしてやすやすと攫っていった。
それも10人20人じゃない、もっとたくさんの日本人を攫っていったのです。
これを解決するには交渉だけではなく、北朝鮮に対して強い態度で臨まなければいけない。
そのように思っています。

それにこれは政府だけの問題ではありません。
あの5年前の9月17日、そして10月15日に5人が帰国したあのときの怒りを、北朝鮮に対する怒りを是非皆さん、もう一度思い出していただきたい。
あの時政府を動かしたのは、間違いなく皆さん一人一人の思い、怒り、それが日本の政府を動かし、そして北朝鮮に拉致を認めさせた事は間違いありません。
我々は北朝鮮のあの政権を揺さぶるために、ありとあらゆる努力を続けていきたい。
是非、皆さん一人一人の気持ちを是非私たちにも分け与えていただきたい。

そして今日はブルーリボンを皆さんにお配りをしています。
今日は大変いい天気ですけど、この青い空の向こうには今現在、私がこうやって話をしてそして皆さんにこうやって聞いていただいているこの瞬間にも、我々の同胞日本人が祖国日本、故郷。
そしてお父さんやお母さんやごきょうだいの事を思いながら、日本に帰れるよう助けを待っているんです。
この事を是非皆さん、心の中に刻んでいただきたい。
このようにお願いを申し上げまして、お訴えを申し上げます。

それからですね。
私どもは、先ほど金正日体制を崩壊に導くという事を申し上げましたけども、私ども今北朝鮮に向けて短波放送を行っております。
これは北朝鮮の中にいる日本人に向けて、「我々日本人が探している、絶対に諦めない」
こういうメッセージを拉致をされた、あるいは何らかの理由で北朝鮮に行って戻れなくなった人に向けて、情報を短波放送で流す。
これは日本人だけじゃなくて、あの金正日体制に虐げられている北朝鮮の人民の皆さん、こういった人たちに向けて北朝鮮の崩壊のために、毎日毎日北朝鮮に向けて放送を行っております。

政府は1億3千万の予算を使って同じような事をやっていますが、我々はその10分の1の予算を持って頑張って拉致被害者が全て帰ってくるまで、我々はこれを続けて行くつもりです。
是非皆さん、ご協力をお願いしたいと思います。
どうもありがとうございました。

|

渋谷街頭活動 生島馨子さん(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『生島馨子さん(特定失踪者・生島孝子さん)の訴え』

御通行中の皆様、こんにちは。
お忙しいところを恐れ入りますが、私の話をちょっと聞いていただきたいと思います。
私の妹は和47年11月1日、この渋谷区内でいなくなりました。
そして現在では拉致の可能性が非常に高いと言われております。
渋谷区で(拉致)なんて考えたことも無いと思いますが、私どもも行方不明になったとき、拉致と思っておりませんでした。
それも33年経って北朝鮮での目撃証言を得られましたが、まだ政府認定は得られておりませんので、特定失踪者として・・・(聞き取れず)頂いております。

妹がいなくなった当時、母は目の手術をして目が見えませんでした。
そして退院の3日前に突然いなくなったのです。
退院して目が見えるようになったとき、妹が行方不明になってとても悲しがりました。
でも逢うまではといって、33年頑張ってくれました。
入退院を繰り返し、何回も死線を彷徨って生き延びたのですが、33年経って目撃証言を得ただけで安心したのか、急に逝ってしまいました。

でも、気持ちとして「は逢うまでは生きなきゃ」と、頑張っておりました。
頭はしっかりしておりましたので「車椅子でも飛行機に乗れるんだから、北朝鮮に連れて行って。車椅子で私が探すから乗せてくれ。車椅子で探すから北朝鮮へ連れて行ってくれ」と言って最後は悲しんでおりました。
「もう遅いもう遅い、時間が無い時間が無い、もう遅い」と言いながら母は亡くなりました。
この過去3年間、・・・(聞き取れず)でも、そのままで経っております。
母が亡くなって2年経ちました。
まだ状況はそのままで、一歩も進んでおりません。
皆様、こういう家族がいるんだという事を是非ご理解いただきたいと思います。

そして妹がいなくなって35年、小泉総理は5人だけでも帰国させたかもしれませんが、甲州街道沿いには大学生さんが何人もいなくなっておりいます。
この方たち、ご両親は東京で活動をするわけに参らないのです。
その分も私は背負って、活動していたいと思います。
是非皆様にも、東京にもこういう事があった、この人たちも取りかえなくてはいけないとご理解・ご支援いただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

|

2007年11月 3日 (土)

中山恭子首相補佐官の講演(2007/10/20)

埼玉県民集会 
―――――――――――――――――――
中山恭子首相補佐官の講演(2007/10/20)
―――――――――――――――――――
≪司会≫
続きまして、ご講演のほうに入りたいと思います。参議院議員拉致問題担当首相補佐官でいらっしゃいます中山恭子様にお願いします。(拍手)--中山さん壇上へ--
ご講演に入る前に、ご講師のご紹介をさせていただきます。
2002年、今から5年前、5人の被害者の帰還時、いわば用意された一時帰国というストーリーから、政府の責任で北朝鮮には返さない。子供ら、家族の日本帰国を北朝鮮に求めると。また、曾我ひとみさんの御家族の日本への帰国に際しても、中心的な役割をお果たしになり、御家族の立場に立って、政府高官として、家族会や帰国した被害者の方々から絶大な信頼を得ていらっしゃいます。
それでは、本日、「拉致被害者全員の救出を目指して」と題しましてご講演をお願いしたいと思います。

中山恭子さん

みなさまこんばんは、(会場からこんばんは の声)
ご紹介いただきました中山でございます。
今日土曜日、本当に貴重な時間帯でございますのに、このようにたくさんの皆様がお集まりいただきまして、ご参加いただきまして本当にありがとうございました。

埼玉県、今もご紹介ありましたが、政府が認定できていますのは、田口八重子さんでございますが、それ以外にも多くの姿を消した方々が、埼玉県にはいらっしゃいます。

また今日はこのような形で、救う会埼玉、鈴木代表を初め、救う会埼玉のみなさまがこの会を主催してくださいました。本当にありがとうございます。心から感謝申し上げます。また、埼玉県が共催に入ってくれました。今日本には『拉致問題、その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律』というのが現在出来ておりまして、この中で、地方公共団体も、拉致問題に関して多くのみなさまにこのような形で知ってもらうとか、そう言った努力をすると言うことが書かれております。その一環として今回、埼玉県が共催してくれることになりました。上田知事はじめ関係者のみなさまに私どもから心から感謝申し上げます。

このような形で、拉致問題について、県と救う会=民間のみなさま、そして政府が一緒になって会合をひらくということは、これまでに、和歌山県、山口県で行われておりまして、今回埼玉県でこのような会合を開ける、三度目の開催でございます。これからも、このようなかたちで、日本全国、全ての日本の人々にこの拉致問題についての理解を深めていただくように今動いているところでございます。

また埼玉県では県だけでなくて、議連の皆様が非常に活発に動いて頂いておりまして、その議連のみなさま、県の吉田議長(県会議長)、それから今日お話しいただきました議連の深井会長様はじめ関係者のみなさまに対しても感謝申し上げます。

また、埼玉県では、それぞれの市、そして市議会のみなさまも拉致問題、拉致された被害者を取り戻そうと、署名活動をしていただいたり、各種支援を頂いております。多くの皆様にご支援頂き、御協力を頂いていることに、心から感謝しながら、今、仕事をしているところでございます。

2002年、この問題に私自信が関わりましたのは、5年前2002年の9月からでございました。
2002年の10月15日に5人の被害者が日本に戻りました。唯、これも、北朝鮮が5人を解放する、帰国させようとした動きではございませんでした。『日本に一週間か10日ほど、まぁ出張してこい』と言ったような形で、5人は、日本の土を踏むことが出来ました。

日本の中にもいろんな意見がございます。政府の中にもいろんな意見がございますし、ございました。
ただ、この問題=拉致された、そして日本人が他の国=北朝鮮の中で全ての自由を奪われて、幽閉された状態におかれているということであれば、それは被害者や家族だけの問題ではない。あたり前のことだと思いました。

日本という国が、まず日本政府がですね、自分の仕事として被害者を取り戻すということ、自分の政府の中にしっかりと組織を作り、担当者を決め、費用を使ってでもですね、取り戻すことを政府がするのが、これがもう当然のことであって(拍手)政府の基本的な役割だと考えております。考えましたし、今も当然のこととしてそのように思っております。

そのようなことから、5人たまたまといってもいいような形で日本の土を踏んだ5人の被害者を犯人の手にもう一度戻すことはあってはならないと、言う思いで、政府の中でそのような主張をしました。(拍手)

おかげさまで、安倍官房副長官、『そのようにする』という決断をしてくださいましたし、その時のその時の官房長官が、現在の福田総理でございました。福田総理も、『わかったそうしよう』ということで、丁度帰国してから9日目の夜、夕方ですね、10月の24日に日本政府が、この5人を日本に留める。返さない。それは5人の意志というのは当時わかっていたわけですが、日本に留まりたいということを、蓮池さん地村さん、ひとみさんからも、私宛に電話が入っておりました。『日本に残りたいんだけれど』という。でもそれは、5人が残りたいからと言って、政府としてしょうがなく残すという、そう言う形は取ってはいけないと考えました。

ですから、日本政府が出した政府の方針は、<5人の意志に関わらず、帰りたいと言おうと、日本に留まりたいと言おうと、それだけではなくて、日本政府の責任で5人を日本に留める。そして、この家族は、日本政府が責任をもって取り戻す>という方針を、その時に出すことが出来ました。この時が、ある意味では政府の中での考え方の、曲がり角であっただろうとと思っています。

今は、当然のことでございますが、拉致問題、当たり前ですね。
こないだ・・今、イランで一人拘束されています。このイランで拘束されている方も、何としても無事に取り戻したい。日本政府の中に対策本部が出来て、今、イランや関係するところに交渉しています。

海外で日本人が被害にあったら、日本の国は、それを放置している国ではない。必ず日本政府は、被害にあった人が一人であっても、子供であっても、必ず日本人は、日本政府が護るんだ、そのことが、今の日本の政府の中では、既に徹底していると考えています。
従って、なんと本来であれば、もう随分昔に、日本政府の中にこういった被害にあっている人を救出するための、しっかりした対策本部ができているべきであったと思っていますが、戦後の日本の、30年前あたりの日本の環境を考えてみますと、そう言ったことが、相手が北朝鮮であったということが、ある意味ではタブーな時期だったんだろうかなどと思っています。

いずれにしましても、政府が中心となって、政府自らが--当然のことなんですけれども--この問題を担当し、どうやったら取り戻す事が出来るかを真剣に考えて、動く、そう言った部所が必要だと思っておりました。

昨年の秋、安陪内閣が成立いたしましたとき、昨年9月26日に、安倍総理が内閣を作りまして、その三日後の9月29日に政府の中に、拉致問題対策本部を設置することが出来ました。めぐみさんが拉致されて、なんと29年たってやっと日本の政府の中に拉致問題対策本部が、設置されたという状況だと言うことでございます。

日本の社会というのは、私自身は、温かい社会だと信じておりまして、災害が起きたら、台風に襲われてそこに被害が出たら、また地震が起きてそこに被害が出たら、政府は直ちに対策本部を作り、そして各市町村、県が救いの手をさしのべ、社会の多くの人々が救いの手をさしのべる、そう言う社会であると信じています。

唯、本当に残念なことに、この北朝鮮による日本人拉致問題は、めぐみさんが拉致されて29年たってやっと政府が拉致問題対策本部を設置し、真剣に取り組み始めたと言う状況だということでございます。

現在いろんな形で、政府として取り戻すための、救出の為の動きをしておりますが・・先ほど、その前にですね、先ほどDVD、これも政府が作りました。今年の春に作ったものですから、福田総理ではなくて、安倍総理が映像の中にたくさん出てくる映像ですが、ある程度は全体のことがおわかりいただけると思いますので、まぁ今日いらしているみなさんは、拉致問題に対して深い理解をお持ちの方でいらっしゃいますので、あのDVDを見る必要もなかったかもしれませんが、あのDVDを全国、そしてアメリカ、中国、韓国はじめ、世界中の8カ国、9カ国にむけて作っておりまして、アラブの方々に向けても作っておりまして、世界中にDVDを配って理解を深めてもらおうとしているところでございます。

今申し上げたかったのは、DVDの話ではなくて、あの中で、おわかり頂けたかと思うのですが『何故日本人を拉致したんだろうか?』いろんな、いろんな理由があるようです。技術者が欲しかったということもあったかもしれません。曾我ひとみさんの場合は、きっと連れて行ってジェンキンスさんと結婚させるための候補として連れて行ったのかもしれません。

唯、田口八重子さんを初め、多くの人々というのは『北朝鮮の工作員に日本人化工作をするために連れて行かれた』そういう人々が連れて行かれたと考えています。そのためには、典型的な日本的な家庭で、日本的なしつけをしっかりと受けた、身につけたそういう若者が必要だったということだとみています。

ですから被害にあったこの若者たちというのは、日本的なしつけをしっかり受けて、典型的な日本の家庭が荒らされている。そして周りの友達の中でも、みんなから信頼されている、そして共通しているのが、責任感の強い、そう言う若者たちが連れ去られている。日本の大切な家庭から大切な若者たちが連れて去られている。そう言うテーマだと見ていただいて良いと思います。行き当たりばったりではなくですね、連れて行ったのであろうと考えて、尚更に早く取り戻したいという気持ちが出てくるわけでございます。

2002年の10月15日に5人が戻りまして、この子供たちや家族を取り戻すのに1年9ヶ月かかりました。
2004年の7月に曽我さん一家をジャカルタで再会させて連れ戻すことが出来ました。直ぐそこにいるというのがはっきりわかっているのに1年9ヶ月かかってしまいました。

その後、他の被害者の方々の帰国ということを交渉し、いろんな言い方でやっておりましたが、2004年の11月、横田めぐみさんのお骨が戻ってきた。これが他人の複数の方のお骨だというのがわかり、あまりにもひどいやり方だということで、その年の12月日本政府は北朝鮮に対しては『人道支援を当面凍結する』という方針を出しました。
この後次の年、2005年の1月に、北朝鮮は『拉致問題は解決済み』という方針を出し、今もその方針が貫かれているという状況でございます。
従って、2005年の1月から、北朝鮮といろいろな場で、いろんなルートで交渉している中で、『解決済み』という大方針が出ているものでありますから、北朝鮮の担当者も、北朝鮮全体がなかなか違う動きを出すことが出来ないまま、その状態が今も続いていると言うことでございます。

拉致問題に関しては、北朝鮮側が(そう言ういい方をして良いかどうかは別ですが)北朝鮮側が、非常に強い、日本対して強い立場を持っている。今のまま解決済みで知らないとシラをきりとおせば、北朝鮮側としてはなにも困ることはない。そう言う状況にありますので、北朝鮮を何とか動かして、解決済みという方針ではない、違う方針に変わっていくように持っていかなければならないと考えています。

北朝鮮側に強い立場があるということで日本としては、制裁処置を科しました。
それほどに強い影響をでているかどうか、いまのところはっきりはしませんけれど、それでも日本として出来ることとして、制裁処置を科しているところでございます。

この拉致問題をどうやって解決していくか、いろんな形があろうかと思いますが、いずれにいたしましても、私どもは、被害者を救出すると言うことに、今集中しています。従って混乱が起きて、救出できるかと言われると、なかなかそれは難しいと思っております。

今の人々(現在の北朝鮮政権の人々)は拉致した被害者がどこにいて、どのようになっているかというのを知っているはずだという、私たちはそういう前提で、北朝鮮に対して、連れて行った日本人を全て帰すようにと言う強い
要求をしています。

混乱状態になる前に、取り戻さなければいけないと考えています。従って今混乱状態が来ることを望んでいません。救出したい、何しろ日本に戻したい、そこに集中して今北朝鮮と対峙しているところでございます。

そのあたりのことも、ぜひご理解」頂きたいと思います。
いろんなかたちの取り返し方というのはあると思いますが、現段階では、今の政権から救出するという事が、まずやらなければならないことであろうと、いろんな作業をしているところでございます。

今、福田政権に変わりましたが、福田総理ご自身、『ご自分の政権の間に救出したい』とはっきりとおっしゃっていますし、私たちも対策本部を中心にして、必ず救出する、一人残さず救出するというために一生懸命真剣にこの問題に取り組んでいるところでございます。

残念ながら、まだ今のところ、5人以外はですね--5人そのものも、北朝鮮が返してきたわけではないのですから--この今北朝鮮に留まっている人々を、幽閉されている--私は人質と読んでいますけれど--人質を解放させるために、あらゆる手段を使って解放させようとしていると。

今非常に大切な時期になってきていると思っています。担当者も私も含めて本当に真剣でございます。どうぞ、みなさまそのことをご理解いただきまして、先ほどから飯塚さんはじめ多くの方から話が出ていますとおり、日本の力の非常に大きな部分というのは本当に、『皆様の声』でございます。

皆様が、今のような形で、全ての人を救出するのだという政府の方針を支持してくださると言うことが、そのような形で、政策をとる、しっかり政策をとっていくと言うことに繋がりますし、又それが、北朝鮮に対して『いい加減な形で動いたら、日本は、日本人全体が許さないんだよ』ということを伝えるそう言う意味にもなります。

そう言った意味で、国、地方公共団体、更には国民の全ての人々が、この拉致問題に関心を持ち、同僚、同胞、日本人が拉致されたら、日本は必ず救出するんだという、そう言う国であるためにも、一体となって北朝鮮に対して強く要求していかなければならない。今正にその要求を突きつけて、なんとか動かそうとやっている最中でございます。

なかなか成果が出ていませんので、実際に新たな被害者が帰国するということになっておりませんので、私自身非常にいつも重い気持ちで仕事をしておりますが、必ず取り戻すまで頑張る、そのように決意、覚悟しておりますので、どうぞ、みなさま御協力、ご支援くださいますように宜しくお願いいたします。(拍手) ありがとうございます。(拍手)
今日もお集まりくださいましてありがとうございます。(拍手)
この会を催してくださいました担当者の皆様に、関係者の皆様に心から感謝申し上げます。(拍手) ありがとうございます。(拍手)

音声は
http://www.voiceblog.jp/blue-jewel-7/440656.html

|

渋谷街頭活動 野口孝行さん(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『野口孝行 北朝鮮難民救援基金・国際担当の挨拶』

渋谷を御通行中の皆さん、こんにちは。
私は北朝鮮難民救援基金の野口と申します。
今日はですね。
拉致被害者を救おうと言う会に呼ばれたことで、応援をさせていただきます。

拉致被害者と同様にですね。
北朝鮮では多くの人たちの人権が侵害されております。
拉致問題、もちろん解決は必要です。
同時にですね。
同じ時間に人権侵害を受け続けている人たちの事も考えることも大変必要だと思います。

今年になりまして6カ国協議がありまして、ある一部の声がありました。
「日本は拉致問題にしがみついていたら、バスに乗り遅れるんじゃないか?」と、そういうような話がありました。
これは大変おかしな話でありまして、そもそも、そのバスに乗るですね。
6カ国の中で一番重要なお客さんというのは日本なんです。
ですから、日本を置き去りにしてそのバスが出発するはずはありません。
ですから日本の皆様は、そういった言葉に惑わされること無く毅然とした態度で、北朝鮮の人権問題という事に対して大きな声を上げるべきだと思います。

またですね、世界の人々、ある人は「日本は拉致のことしか、自分の事しか考えていないんじゃないか?」と、そういう事を言う人がいるかもしれません。
しかし日本には私たちのような団体があり、実際に北朝鮮の人たちとぴったりと・・・(聞き取れず)しています。
ですからそういう言葉にも怯まずにですね。
日本はもちろん日本政府も含む、また同時に、同じ人間として人権侵害に晒されている人を同時に救っていくんだと言うですね。
しっかりとした立場で国民の皆様の意識を持っていただきたいと思います。

これからもですね。
やはり人権という観点に立って、拉致の被害者を救う運動そして、さらに金正日と言う独裁政権の下で苦しんでいる人たちも同時に助けると言うですね。
そういった普遍的な考えに基づいて皆様のご協力をいただきたいと思います。
どうもありがとうございました。

|

渋谷街頭活動 小川晴久先生(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『小川晴久 北朝鮮帰国者の命と人権を守る会名誉代表の挨拶』

ただ今ご紹介に預かりました、北朝鮮人権問題に取り組んでいるNGOの一つであります、北朝鮮帰国者の命と人権を守る会の小川でございます。
拉致問題に関しては、私も渋谷に遅れてまいりましたけど、数年前からブルーリボンをつけて職場に通っています。
今日はここで渋谷をご通行中の皆さんに私が訴えたいこと・お願いしたいこと、一つだけ申し上げます。

北朝鮮の人権問題は今こう着状態になっております。
それは去年の10月9日に北朝鮮が核実験を敢行した。
その核実験以来、残念ながらアメリカもですね。
この核問題最優先という事で、北朝鮮・・・(聞き取れず)核問題1本に絞ってきております。
6ヶ国協議で。

そのために安倍首相もですね。
拉致問題で成果を上げられないでいた。
この事態を大きくゆり動かすためには、皆さん。
北朝鮮の山の中にある強制収容所に注目をしてください。
北朝鮮の山の中には非常に大規模な強制収容所があります。
非常に多くの収容者が餓死させられています。
中国政府も韓国政府もロシア政府も、この強制収容所問題を知っていないはずはありません。
ですから核査察だけではなくて、強制収容所査察を是非、世界中の声にしていく必要があります。

北朝鮮の人権問題、たくさんありますが、その根っこで共通しているのは山の中の恐ろしい強制収容所です。
強制収容所を暴く。
その新しい姿勢が新しい状況を生み出す。
是非皆さん、関心を寄せてください。

|

渋谷街頭活動 高沢一基板橋区議(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『高沢一基 板橋区議会議員の挨拶』

渋谷を御通行中の皆様、こんにちは。
今ご紹介を頂きました、私、板橋の区議会議員でございます高沢一基と申します。
今お話のありました吉田康一郎都議会議員と同じく、地方議員の会がありますが、その中で、私今年初めて区議員になったのでありますが、時間の許す限りこの拉致問題に取り組んでまいりました。
皆様方も、ここで活動されている多くの方も、10年以上前、まだ拉致問題が・・・(聞き取れず)で認められていない。
街頭で演説活動や署名活動をやると「拉致問題なんて無かった」とこのように言われて活動されていた方も多くいると思います。

そして5年前、本日9月17日に小泉総理大臣が訪朝をすることによりまして公になり、そしてテレビや新聞も積極的に報道されるようになりました。
一歩ずつではありますけどもこの拉致問題、進展をしている事は、私間違いが無いと思います。
しかし今の拉致問題と言うのは、ただ拉致された方が可哀想だ、といったワイドショー化されただけで広がっているのが現実だろう。
そうじゃなくてそれはやはり国の基本の問題として、何の罪もない平和に暮らしている国民がこの街から連れ去られてしまい、北朝鮮の国に行き、そして北朝鮮の国につながれ、生活をさせられ、工作員として強制をさせられている。
こういった国家主権の問題があると思っていかなければなりません。

そしてこの拉致問題と言うのは決して興味がある人だけが行う運動であってはいけないと思います。
安倍総理大臣、官房副長官時代以前に、この拉致問題に関心を持って活動をされていたわけでありますけども、安倍総理大臣は拉致問題に興味があるから、安倍総理だけが頼りだ。
そういう状況になってはいけないわけであります。

昨日ですが、この渋谷の街頭におきまして、自民党総裁選の街頭演説があったように聞いております。
この総裁選に立候補した二人でありますが、この二人の候補がどちらが総理になっても拉致問題は進展をさせていけば、そのためにはやはり国民の声と言うもので盛り上げていかなくてはならない。
自民党の総裁、指導者によってこの拉致問題の混沌が生まれるような状況があってはいけない。
私はそのように思います。
そのためには我々国民が一人ひとりが、細かい違いを捨ててこの拉致問題引く事は出来ない。
北朝鮮に拉致されている人々を一人残らず取り戻すんだと、このような声を併せて政府に声を届けていかなくてはなりません。

この拉致問題、大きな問題と捉えて行くために私は心より留まっておりますのは、今から3年か4年前の・・・(聞き取れず)皇后陛下がお誕生日の時に仰った言葉であります。
この拉致問題に触れて皇后陛下は、「この拉致問題、同じ共同体の問題として関心を持てなかった事が」とこのような言葉を仰いました。
・・・(聞き取れず)ではなくて、拉致をされ、可哀想だ。
そして一部の人だけがこのらちの救出運動をするのではなくて、我々日本に住んでいる我々日本人全員が等しくこの問題を自分の問題として、同じ共同体の問題として・・・(聞き取れず)と思います。

今ボランティアの皆さんが一生懸命この暑さの中、このブルーリボン、北朝鮮に国民の声を届けると言うブルーリボン配布をさせて頂いておりますので、どうかご通行中の皆様、お受け取りをいただき、少しでも拉致問題をお考えいただき、周りの方に話をしていただければと思います。

乱雑な言葉で大変恐縮ではございますが、私高沢一基がお訴えをさせていただきたいと思います。
長いお付き合いをありがとうございました。

|

渋谷街頭活動 吉田康一郎都議(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『吉田康一郎 東京都議会議員の挨拶』



ハチ公口前を御通行中の皆さん、こんにちは。
こちらは東京ブルーリボンの会でございます。
北朝鮮に拉致された人の家族の方と、北朝鮮に拉致された可能性が極めて高い人たちのご家族と、そして今まさにこの瞬間を北朝鮮の大変な人権侵害の中で生きているかも分からない、怯えながら暮らしていらっしゃる日本人を一人も残さずにこの故郷日本に帰ってもらうために、そういう運動をしている地方議員の会と様々な思いの中で、本日9月17日。
5年前に小泉総理が平壌に行って本当に北朝鮮が日本人を拉致していたんだ。
その内の何人かだけが帰って来た。
今日9月17日、この日にこの渋谷駅前をお借りを致しまして街頭演説を申し上げております。

今、皆様は拉致の問題、解決難しいんじゃないかな?とそういうふうに感じ、諦めの気持ちもお持ちの方もたくさんいらっしゃると思います。
しかしこの問題だけは絶対に諦めてはいけません。
今、若い方が皆さん歩いていらっしゃいます。
皆様のもしかしたらお父様かお母様が運悪く拉致されていたら、今、このハチ公前を歩いていらっしゃる若い皆さん。
あなた方はこの日本で生まれていなかったかもしれない。

そしてご高齢の方もいらっしゃいます。
皆様の息子さんやお孫さんが拉致されていたかもしれない。
これは日本人全体の問題です。
皆様、お一人お一人が被害者であったかもしれない。
これからも拉致されないとは限りません。

北朝鮮は今核兵器を持とうとしております。
骨抜きで結局アメリカをはじめ諸外国は、あの謀略な国の核保有を事実上認めることになるかもしれません。
麻薬を売り、他所の国の偽札を売り、様々な暴力行為・不法行為を行い、不法産品を他所の国に送り込み、日本人をはじめ他所の国の国民を拉致する。
こういう暴力団国家が核兵器まで持つ事を、国際社会は何も出来ずに指をくわえて事実上見ている。
それを認めざるを得なくなるような、そして100人以上の拉致被害者をこの日本がこれを諦めるのを、北朝鮮は虎視眈々と狙って待っているのです。

日本人の皆様。
日本人をこんな他所の暴力団国家に、日本人の一人たりとも拉致され命を脅かされて、今も何十年も苦しんでいるこの人たちを絶対に見捨てないんだ、取り返すんだ。
何としても取り返すんだと言う強い国民全体の・・・(聞き取れず)が思っている事を、是非渋谷のハチ公口前を歩いていらっしゃる皆様。
改めて確認してください。

今北朝鮮に拉致された方のご家族をはじめスタッフが、ブルーリボンのバッジあるいはブルーリボンを皆様にお届けをしています。
チラシをお配りしています。
是非お手にとってご覧頂いて、この表向き平和に見える日本が大変な脅威に晒されていて、皆様の事によったら身近な方も拉致されるかもしれない。
拉致されていたかもしれない。
この北朝鮮に対して断固として、日本人を一人も譲り渡さない。
諦めない。
この意思を強く確認をしていただきたい。
改めてお願いを申し上げる街頭行動をさせていただいております。

今自民党の新しい総裁が決まろうとしています。
どなたがどのような立派な事を言ったとしても北朝鮮に拉致された我々の同胞、日本人、この人を取り返すことを日本として一番大事な仕事なんだ。
このように言わないそういう総理総裁であったのなら、皆様の命も権利も自由も守ってくれません。
皆様のお一人お一人の命を守るのと同じように、今まさに北朝鮮に拉致されている、苦しんでいる人を、日本人を必ず取り返す。
こういう強い意思とメッセージを持った人が総理総裁に出てこない限り、これは自民党でも民主党でもどの党でもどんな総理総裁でも偽者だ。
我々日本人は命と権利と自由を守る。
こういう総理総裁が出てくるまで、皆さんどうぞ・・・(聞き取れず)そういう日本の総理総裁を誕生させるように、皆様心に強く念じて要はこの後もご配慮頂きたいと思います。

今お配りをしているブルーリボン、是非皆様お手に取っていただいて、是非身につけてください。
今まさに苦しんでいる人を助けなければいけないんだ、とこのように改めてこの9月17日、小泉さんも訪朝から5年目です。
何も解決していません。
この機に家族の方、そして拉致された可能性が濃厚な方のご家族の方、そして一人たりとも北朝鮮に譲り渡さない。
こういう思いでこの方々を支援している地方議員の会の一員として、お願いをお訴え致します。
東京都議会議員の吉田康一郎でございました。
よろしくお願いいたします。

|

渋谷街頭活動 松浦芳子杉並区議(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『松浦芳子 杉並区議会議員の挨拶』



皆様こんにちは。
私は杉並区議会議員の松浦芳子でございます。
渋谷駅前をお騒がせしておりますが、皆様にお訴えしたく、ここに立ち上がっております。

私は杉並区民でございますけれども、杉並区からもこの特定失踪者、拉致が濃厚だと言われる方が5人杉並区から出ております。
私はその事を知った時に、何故杉並区から?と思いました。
この渋谷、皆様他人事だと思っているかもしれませんが、この拉致問題は他人事ではありません。
今、人権問題人権問題と人権の問題があちこちでうたわれておりますが、この拉致問題こそ最大の人権問題だと考えております。

日本人は水に流す民族であります。
水に流す事はとても素晴らしいことではありますが、この拉致問題は水に流してはなりません。
解決するまで国民一人一人が自分の事として問題を捉え、・・・(聞き取れず)のために解決していきたいと考えております。

ただ今皆様が、ご参集の皆様がお手元にブルーのリボンをビニールの(袋の)中に3つ入っておりますが、そのリボンをお渡ししております。
是非お友達お二人に、ご自分と3人分入っておりますので、是非つけて歩いていただきたい。

このブルーリボンの意味をご存知でしょうか?
日本と北朝鮮、海と空はつながっている。
空を見ながら・・・(聞き取れず)を動かし、彼らは日本を思い出しているのではないかという事で、このブルーと言う色が使われました。
是非皆様、このブルーリボンをつけて国民運動にして頂きたいと考えております。
是非皆様よろしくお願いします。
本日はお暑い中、お騒がせ致しましてありがとうございます。

|

渋谷街頭活動 竹下珠路さん(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『竹下珠路さん(特定失踪者・古川了子さんの姉)の訴え』

渋谷駅前で御通行中の皆さん、こんにちは。
皆さんは、皆さん大切なご家族、お父さんお母さん、娘さん息子さん、そしてごきょうだいの方がある日突然いなくなったらどう思われるでしょうか?

私は今から32年前、千葉県の市原市に住んでおりました妹が「今千葉駅にいる」と言う電話を最後に、突然消えてしまってそれ以来32年が今年の7月7日に経ちました、古川了子の姉の竹下と申します。
いろんな思いで32年過ごしてまいりましたが、待っていた母も今年91歳を過ぎました。
そして妹が娘が無事に帰るまで頑張るといって、今も私と一緒に住んで頑張っております。

家族と言うのはいつも側にいなくとも、地球上のどこかにいれば必ず連絡が取れ、困った時・嬉しい時は一緒に話し合い、そして出会えるものでは無いでしょうか?
それが本人の意思とは違うところである日突然に消えてしまい、そして本人の意思とは違うところで北朝鮮の地に拉致されて行ってしまったという事であれば、これほど辛く悲しい事はありません。

妹は今から丁度10年前に北朝鮮から脱北された安明進さんによって「平成2年ごろには北朝鮮の915病院で私は会いました。私が会って話しかけた女性はお姉さんの竹下さん、あなたにとてもよく似ていました」と言って下さいました。
その証言があってもまだ政府は拉致被害者として認定してくださっておりません。
救う会では認定してくださいましたが、今まだ政府としては「拉致被害者は17人」という事を言っておられます。

そしてうちの妹も含めておよそ460人にも上る方々が、証言があったり無かったりではありますが、拉致の可能性を疑われている方々がたくさんいると言うこの現実を、どうぞ渋谷をご通行中の皆様、分かってください。
そして家族は自分の妹と、母親と娘と会える日を待ちながらいつも待っているし、まだ妹は千葉県市原市の住民のままでいます。
こんな理不尽な事があるでしょうか?

政府は拉致被害者も、拉致被害者として認定している・していないに関わらず、もっともっと積極的に北朝鮮にいる安否を確認し、北朝鮮から日本の地へ帰って来られるように、自分の意思で行ったのではないという事を分かって頂いて、家族の元に帰って来られるように政治の力で取り返していただきたい。
その政治の力を発揮していただくには国民の皆さんの「これはおかしいよ、被害者の人は全部、認定している人もしていない人も、一斉に家族の元へ連れて帰ってこなければいけないよ」と、市民の皆さん方の声の後押しが政府の力になると思います。
どうぞ皆様方、ご自分の家族が北朝鮮に連れて行かれたかもしれないと考えていただいて、政府を後押しする。
政府の力になる。
早く家族を取り返す方法を考えなさい、と言って頂けるように是非よろしくお願いします。

曽我ひとみさんを思い出してください。
曽我ひとみさんは今元気にご家族と暮らしております。
曽我ひとみさんは5年前の9月27日、突然に曽我ひとみさんと言う人が北朝鮮に入っていたと言う、入っていたという、曽我ひとみさんがご自分の意思で行ったのでは無いという事は明白であるのに、という事で北朝鮮から出て来られました。
という事は、まだ日本政府も家族も思っていない人たちが何百人も北朝鮮に連れて行かれている可能性が十二分にあるという事です。

どうぞ皆さんの家族がもしそうなったら?と言う思いを考えていただき、この理不尽な拉致と言う問題に皆様が関心を寄せていただき、一刻も早く取り戻すことが出来るように政府に声を上げてください。
私たちにどうぞ力を貸してください。
よろしくお願い致します。
ありがとうございました。

|

渋谷街頭活動 本間勝さん(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『本間勝さんの訴え』

渋谷を御通行中の皆様、拉致被害者問題に注意を向けてください。
今、駅前をお借りしまして私の妹田口八重子をはじめ、特定失踪者と言われる人の奪還を目指し、一日も早い生還を目指してただ今取り組んでおります。
東京ブルーリボンの会の皆様他、ボランティアの皆様と共に、この拉致問題に真剣に取り組んで国民の皆様にアピールをしております。
これが私も本当にありがたいお力、国民の皆様のお力こそがこの拉致問題を解決させる力になるんです。

今、日本の政情は揺れ動いております。
どんな政権が出ようとも、この拉致問題は日本は・・・(聞き取れず)と言って頂いております。
それは・・・(聞き取れず)ではありません。
どんな政権が出来ようとも、それこそを解決させないと日本は世界から物笑いになるんです。

拉致問題は私ども家族にとっては妹八重子いなくなったのと同じ、また、その家族の中で1歳と3歳の子供を置いていかざるを得なかった八重子の気持ち、それをどうかまた、八重子と耕一郎そのお姉ちゃんとのこの家族の平凡な、共に暮らせるような平凡な生活を取り戻す。
それが私たちの、この拉致被害者問題に取り組む原点なのです。

私たちは、どの拉致被害者の家族も気持ちは同じだと。
耕一郎が1歳半でこの母親八重子と引き裂かれてから、すでにこの6月の29日で29年になります。
八重子は22歳で東京池袋から拉致をされました。
すでにもう52歳になっております。
私どもはこの長い戦いの中で八重子の置いていった、置き去りにされた、やむなく置き去りにされた子供を育て、必死に生活を守ってきました。

拉致問題は今世界的には6者協議等で問題にされていただいておりますが、とかく核問題に見え隠れして、拉致問題は見事に隠れようとしております。
私たちは、核とか拉致とか並行協議とか言っておりますけど、命を取り戻す事が本当に急ぐ問題では無いでしょうか?
核ももちろん大事な安全保障の問題です。
ですが、拉致問題は我々家族を引き裂いた、人の命を引き裂いた、生活を引き裂いた、そういった金正日の卑劣な行為から続いている状態なんです。

早く耕一郎を育ての親から生みの親の元で、共に生活をさせてあげたい。
そして耕一郎は母親と言う気持ちが無い、持てない中で、逆に母親八重子を抱きしめ、
「お母さん、苦労したね」
こういう気持ちで抱きしめると思います。
そのときが一日も早来る事が私どもが願って、この一刻も早く生活の原点に戻れるよう、私どもは拉致被害者問題を取り戻すまで、皆様、引き続き支援してください。

これは拉致問題が、どのような社会情勢になろうと解決させる力になるんです。
お願いいたします。
八重子を耕一郎を元に、一日も早く戻させてください。
そして他の家族も、拉致濃厚と言われる家族の人たちも共に生活の原点に戻れるよう、どうぞ何卒力を貸してください。
よろしくお願いします。

|

渋谷街頭活動 飯塚繁雄さん(2007/9/17)

07・9・17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『飯塚繁雄さんの訴え』

渋谷を御通行の皆様、こんにちは。
私は今紹介されたように家族連絡会の副代表を務めています、飯塚繁雄と申します。

この拉致問題につきましては余りにも長い間、我々を苦しめ、当の被害者である北に連れて行かれた方々が、何十年待っても日本に帰れないこの実態。
拉致されてから、皆さん、30年。
で、我々家族会がこの救出運動を始めてからもう10年。
そして小泉総理が2002年に訪朝し、5人の方々が帰って来ました。
それからもう5年。
この長い単位は何ですか?

私たちは一刻も早く被害者を取り戻したいという一心で長年、こういった活動を続けてまいりました。
しかしながら北朝鮮は相変わらずこの拉致問題、これはもう解決済みだというふうな事を強く言っております。
我々は2002年の北朝鮮が拉致を認め謝罪したと言うこの時点、それからさらに、他の8名は亡くなっていると言うこの報告、それを聞いてその事実はどうなのか?という事を聞きましたけど、どれを聞いても客観的な亡くなったという事実・データはまったくありません。
あるのは北朝鮮が出してきた、全て捏造された嘘の証明書です。

これをみて私たちは怒りました。
逆に嘘の証明が出るという事は、みな生きているんだと言う確信にもつながりました。
そういう事を我々はどの被害者の気持ちを思い、絶対に助け出すと言う固い決意で今も活動しておりますけども、それから5年経った今日、丁度9月17日ですね。
丸5年の日です。

我々は昨日東京の永田町でですね。
この丸5年の機会を怒りの大集会と評して昨日行いましたけど、丁度今日本を騒がしているのは、安倍総理が辞任したという事でございます。
我々は安倍総理につきましては、前の官房副長官の時代からですね。
この拉致問題を真剣に取り組んでいただいて、あらゆるところに働きかけ、この問題をクローズアップされてきました。
そうした意味では、私たちは本当に唯一の頼れる安倍総理という事で相当期待をしておりました。
しかしながら、安倍総理の個人的理由もあるでしょう。
相当お疲れになっています。

そういう意味では私たちは、このニュースを聞いたときに相当にがっかりをしましたけども、残念に思いましたけども、これは安倍総理が降りたと言っても、この拉致問題は解決をしたわけではありません。
むしろこれからが大変な局面を迎えております。
私たちは昨日、現官房長官にお会いしまして「安倍さんが降りた後、この問題はどうしてくれるんですか?」と言うような質問をしました。

官房長官曰く、「この拉致問題と言うのは国家の問題である。決しておろそかには出来ない。後には引けない問題である。従ってどなたが総理になろうともこの問題を徹底的にやるんだ」というそういった話を頂きまして、ちょっと安心はしましたけども、やはり我々としては「本当にやってくれるんですか?」と言う疑心暗鬼な気持ちがあります。
従って、23日にその結果が分かると思いますけども、私たちはどの人が総理になってもこの問題を強くさらに訴え続けます。
そして安倍さんが行ったように具体的に活動する、具体的に北に慌てさせるという形、あるいはその体制、そういった物を強く要望していきたいと思います。

先日の日朝協議の結果は皆さんご存知の通り、何も進展していません。
何も内容がありません。
だた、外務省曰く「前よりは少しは良くなった」と、そういう感じだけが報告されました。
これは北朝鮮が今まで言っていた「拉致問題は解決済み」と言う言葉は発しなかったと。
それから「これからもちょくちょく協議は続けていく」という事を確認したという事なんですが、これは全くせっかくの日朝協議、二晩かけて出た結果とも思えません。

この北朝鮮のやり方と言うのは、もうすでに皆様ご存知の通り全てでたらめでありまして、取り付く島もないほど情報がむやみにかき回され消され、日本人を・・・(聞き取れず)されております。
その意味ではこれから私たちもまだ、時間はどれだけかかるか分かりませんけども、この拉致問題、国の大きな問題として皆さんに訴え、皆さんの大きな力によってご支援によってさらに続けたいと思います。
また一つ、皆様の絶大なご支援をよろしくお願いします。
ありがとうございました。

|

渋谷街頭活動 古賀俊昭都議(2007/9/17)

2007/9/17 渋谷街頭活動
渋谷ハチ公前広場にて

『古賀俊昭 東京都議会議員の挨拶』

夏の炎天下が戻ってきました。
この暑い夏、私たちは、小泉訪朝以来未解決の拉致問題に引き続き取り組んできたところであります。
今回、国の政変によって安倍内閣から内閣が交替するという事態になりましたけれど、私たちは国家の主権が侵害され、日本人の人権が侵害されたこの事件を一刻も早く解決をするために、次期内閣にも当然この問題の国家的優先順位での取り組みを訴えたいですし、私たちも国民運動をより一層強化をして拉致被害者の全員救出に結び付けて行きたいと思います。

皆さんご存知のように、横田めぐみさんが拉致誘拐された北朝鮮の国家犯罪を私たちは糾弾しなければなりませんけども、この事件が起きてからすでに30年が今年は経過します。
横田めぐみさんは自分が生きた13年の日本での人生よりも長い人生を、あのテロ国家北朝鮮において送っているのです。
我々は何故この事件が一体解決されて来なかったのか?
戦後政治の闇と戦わなければならないと思うのです。

この間、横田めぐみさんの事件の2ヶ月前に三鷹市役所の警備員をやっていた久米(裕)さんと言う方が同じように拉致をされました。
この久米さんの昭和52年9月の拉致事件は警察によって犯人は逮捕されています。
証拠品も押収されています。
しかし、なぜかこの事件は闇に葬られ、公になる事はありませんでした。
もし、この犯人逮捕と北朝鮮による拉致事件を国がはっきりと国民に説明し、そして世界に訴えていたならば、2ヵ月後の横田めぐみさん、あるいは翌年昭和53年に多発する、あの帰国をした5人の拉致被害者の事件は防げた可能性が大変大きいのです。

当時の内閣は福田武夫内閣でありました。
この福田武夫内閣において昭和52年当時、北朝鮮の工作員、拉致犯人を逮捕した警察の情報が、内閣に総理官邸に届かなかった事は無いはずなのです。
その総理官邸には秘書官として、あの福田武夫の息子である福田康夫と言う、いま少し有名になっている人が、秘書官となっていました。
つまり、彼らはこの事件の全貌を知っているのです。
しかし、なぜかこの事件を公にしなかった。
その事が拉致事件の未解決に、今もこの事件を引きずりながらつながっているという事を、我々は知らなければなりません。

今テロ特措法の問題がいろいろ議論されておりますけども、日本はとっくの昔にテロに屈しています。
あの昭和52年の久米さんの、三鷹市役所の警備員です。
昭和52年の9月に拉致誘拐され、犯人が逮捕されたと言いました。
その10日後に、日本航空機、バングラディッシュのダッカに着陸をしたあの東京行きの日航機が、赤軍派に乗っ取られるハイジャック事件が起きました。
このときももちろん福田内閣です。

このとき日本は何をしたか?
刑務所に入っていた連合赤軍のテロリストたちを釈放し、そして16億円の身代金を我々の税金から払ったのです。
日本はとっくの昔にテロと闘わない国家になってしまいました。
つまりその事が拉致事件を真に国家主権の侵害、さらに言えば戦争を覚悟しなければ解決できない問題として捉えることが出来なかったのです。

私たち国民は、私たち議員連盟は、土屋たかゆき都議会議員を中心に、平成9年からこの運動に取り組んでまいりました。
10年の歴史を刻みました。
当時はいろいろ朝鮮総連の妨害もありました。
また私たちはそれとも戦ってきました。

皆さん、我々は小泉訪朝によって拉致事件の解決の糸口を遂げたと思っているかもしれませんけども、私は最初から期待していませんでした。
あの小泉訪朝はブッシュ大統領が北朝鮮を悪の枢軸と位置づけて、場合によって武力攻撃も躊躇しないというメッセージを年頭教書で訴えたから、北朝鮮の金正日が震え上がってこの誘拐事件、あるいは拉致事件に関して、被害者の一部を返したに過ぎないのです。
そのときの総理大臣が、たまたま小泉純一郎と言う人だったという事なのです。
本当にわたしたちは戦後政治の闇と戦う姿勢を引き続き崩してはいけません。

小泉訪朝のあと、私たち議員連盟はこの、今皆さんがつけておられるブルーリボン運動を始めました。
三角の切り込みは一日も早い解決を願っています。
青い海と青い空によって隔てられているけれど、私たちはこの通り輝く国ですという気持ちを込めて、このブルーリボン運動を始めました。
当時つけてくれる人はほとんどいなかったのです。
政治家も官僚もほとんどつけてくれませんでした。

しかし、我々の運動も皆さんのご協力によって盛り上がったことによって、拉致問題解決のための一つの象徴として、このブルーリボン運動が広がったのです。
時間ですと言う表示が今出されました。
もっともっと申し上げたい事があるんですけど、皆さん、拉致問題は戦争なんです。
国家主権を侵害すれば戦争を覚悟しているはずです、北朝鮮は。
それと戦う勇気が無い政治ではこの問題、解決出来ません。
その事を皆さんに強くお訴えをして、私からの訴えを終わりに致します。
ありがとうございました。

|

2007年10月29日 (月)

緊急集会 西岡力氏による成果報告(2007/9/16)

あの怒りの日から5年 金正日テロ政権を糾弾する緊急集会

07.9.16 星陵会館にて

『西岡力 救う会副会長の報告』

★司会 櫻井よしこ氏

さてここで救う会の副会長、西岡力からご報告を申し上げたいと思います。
よろしくお願いします。

★西岡力氏

第一部はですね、この5年間我々が何をして来たのか?どこまで来たのか?という事を考えたいと思って構成をしたわけですが、その第一部のまとめで報告をさせていただきたいと思います。
実は新しいパンフレットを作りました。
あそこにいて、今日第二部でパネラーになっていただいている恵谷さんの協力を得て、今分かっている拉致に関する情報の全てをここに入れてパンフレットを作りましたが、そちらをまず見ていただきたいと思います。

5年前、それまででっち上げだ嘘だと言っていた拉致を金正日は認めたんです。
しかしそのときに彼らは新たに二つの嘘をつきました。
拉致したのは13人だけである。
そして5人を返した。
13引く5は8だと、8人は死んだと。
従って拉致を認めた時点で拉致は解決だと、言う嘘だったわけです。
私たちはそれに対して確認されていないじゃないかと、生きている情報があると言って戦って来たわけです。
ですからめぐみさんたちは生きていると言うのが私たちのスローガンになったわけですが、実は日本政府は9.17の時点では確認もしないで死亡だと言って家族に通告をし、その後も北朝鮮に対して証拠を出せと言ってたんですね。

早紀江さんはいつもこう言うんです。
子供が池で溺れていたらば、それを見ている大人はいろんな事を考えないで飛び込んで助けに行くだろうと。
20年30年子どもたちが向こうで溺れているんだと。
助け出してですね。
人工呼吸して病院に連れて行って、それで死亡が確認されて初めて救出運動が終わるんです。
助けようと言う思いがあればですね。
死亡の証拠が出てこない以上、生存を前提にするという事を政府は言うべきだったのに、小泉総理は分からないと言ったんです。
生きているか死んでいるか、分からないと言ったんです。

我々はそういう日本の中の敵とも戦って来たんです。
そして北朝鮮は偽の遺骨など、いろいろな物を出してきましたけどそれを全て論破して、ここに書いてありますが、死亡について誰ひとりも証明されていないという事を満天下に示すことが出来たんです。
これは今は日本政府もですね。
認定以外の人も含めて全員を安全な保護と帰国を求めるという方針に変わったわけです。
変えさせたのは誰か?と。
家族会と救う会と議連と、そしてここにいる皆さんの力です。
私たちが嘘を打ち破ったんです。
自信を持つべきだと思っています。

そしてもう一つですね。
今後どうやって解決するか?という事ですし、次の政権に是非守ってもらわなくちゃいけないことがあるんですが、それはここで何回も言っているように、圧力なくして金正日を変える事は出来ないという事です。
もう少し分かりやすく言いますと、拉致を解決しなければ彼らがどんどん苦しくなるように、状況を作っていく。(拍手)時間稼ぎを許さないためには、時間が経てば経つほど彼らの方が苦しくなる状況を作らなくてはならない。
そういう事です。

そしてそれには実は二つの戦略があります。
一つは守りの戦略。
解決するまで絶対に日本、国際社会から彼らに支援が行かないようにすると。
それは守りの戦略です。
日本政府は今、拉致解決なくして国交正常化なしと、国交正常化前の経済協力はなしと言っています。
また、拉致の進展なくして核問題がいくら進んでもエネルギー支援に参加しないと言っています。
これが今の日本政府の、我々が確保した守りの戦略です。

そして先ほどお話がありましたけども、北朝鮮人権法が改正されて、日本政府は国際金融機関、アジア開発銀行などが北朝鮮に融資をしようとしたら反対しなければならないと言う法律が、自民党と民主党と公明党の合意の下に通ったんです。
日本は、世界が北を援助しようとしても拉致が解決しない時は反対するんです。
このような守りの戦略を今築いた、という事です。

しかしそれは彼らに飴がいかないという事ですから、これだけじゃ足りない。
攻めなきゃいけない。
攻めの戦略は何か?と言うと、制裁を強めるという事です。(拍手)
我々はずっと経済制裁を求めてきましたが、去年、ミサイルの発射と核実験の時に拉致問題も理由の一つとして、北朝鮮に対する大変厳しい制裁がかかり、また、国連安保理事会でも先ほど麻生幹事長が言っていましたけども、北朝鮮に対して制裁が通ったわけですが、その理由に曖昧な表現ではありますけどお「人道的問題」と言う言葉で拉致が入ったんです。

しかしこれでは足りない。
もっと厳しい制裁を日本政府に求めていく。
日本政府も去年の10月に出した方針で追加的な制裁を検討すると言っているんですから、5年経って何の解決もない以上、今度は拉致だけを理由にして、全ての人・物・金・船の日朝間の交流を全部断つと。(拍手)

それからもう一つ、日本はもう一つの制裁をしています。
それは法律を厳しく適用するという事です。
今までが余りにもでたらめだったんです。
税務署の問題、警察の問題、たくさんあります。
しかし安倍官房長官になった後2年間、実は日本政府の中に法執行班と言う組織があって、法律を厳しくまともに適用するという事をやってきた。
それは大変効いています。

例えばですね。
私は最近、ある西側軍事筋の人に会いましたが「去年の7月にテポドンミサイルが空中で爆発したのは日本の警察のお陰です」と言われました。
「何故ですか?」と言ったら、「日本から部品が行かなくなったんだ」と。
今まで行っていた事がおかしいんですが、しかし実際にいろいろな事件が報道されていますよね?
法律を厳しく適用すると日本からもう、裏のお金や技術や部品が行かなくなっている。
効いているんです。
だからミサイルが空中で爆発してしまったんです。

我々は実は制裁でも彼らを今追い込んでいるんです。
この流れを絶対潰してはならない。
攻めは制裁を強めることです。
守りは一切支援をしないことです。
この二つを、我々が作った枠組みを、この5年間の運動で我々が作った枠組みを絶対後退させてはならない。
それがこの5年間の我々の運動の成果ではないか?結論ではないか?と思っています。
ありがとうございます。(拍手)

★司会 櫻井よしこ氏

どうもありがとうございました。

|

緊急集会 増元照明さん(2007/9/16)

あの怒りの日から5年 金正日テロ政権を糾弾する緊急集会

07.9.16 星陵会館にて

『増元照明さんの訴え』

以上で家族会の参加家族の代表に話して頂きました。
皆さん仰るように5年と言うのは長すぎます。
5年前、小泉元総理の訪朝から100人以上の拉致被害者がいる事が明らかになりつつあります。
100人以上の拉致被害者がいるのに、まだ我が国政府は5人しか取り戻していません。

そして今安倍総理が退陣して何を言い始めているか?
北朝鮮に融和的に経済協力すれば拉致の問題も解決するではないか?
テレビの中でそのようなコメントを言っておられる方もおられます。

韓国を見てください。
10年間ずっと貢ぎ続けて、韓国の拉致被害者が帰ってきましたか?
このような馬鹿な事を言う国会議員に私たちは一矢を報いなければならない。(拍手)
拉致の問題は、拉致の被害者の解決は、我が国の毅然とした態度しか取り戻すことが出来ないということを、韓国を見て分かるじゃないかと。
この声を皆さん上げてください。

私の父は「日本を信じる」と言って他界しました。
その日本はここにいらっしゃる皆さんの力です。
私たちの我が国の力です。
その力で被害者を取り戻すことが出来ると、そう信じろと言って、私に告げて逝きました。
是非皆さん、声を上げていきましょう。
もう、待っていられません。
私たち自身が声を上げて戦っていきたいと思います。
ご協力をお願いします。
ありがとうございました。(拍手)

|

«緊急集会 浜本雄幸さん(2007/9/16)