嘘\"に対する恥の意識 から “実害\"による 罰の意識 へ変わる時
◆嘘"に対する恥の意識 から “実害"による 罰の意識 へ変わる時 アンデスの声さん 2004年9月18日(土)
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中東欧米圏で広く使われる「泣かない赤ん坊はミルクにありつけない」の諺通り、自分の利益のための主張はウンザリするほどしても自分の瑕疵は決して認めず言い訳ばかり機関銃のように述べ立てるのが世界では一般的である。これも数千年以上にわたる民族間の侵略殺戮の長い長い歴史の中で培われてきた彼等の生きる術のように思える、他人=敵に対して自分の非を認めることは全面降伏、即ち殺されることなのだから。下記投稿で皆さんが触れられている朝鮮・韓国人・中国人にみられる一般的特質は、世界標準からすれば(やや下品な部類ではあるが)決して特別では無い、むしろ日本人の度の過ぎる人の良さの方が異常なのである。自分が殴られ血を流しながら「きっと僕たちも悪かったんじゃないか」「盗人さんの三分の理を聞いてあげましょうよ」「さんせ~い」などと小学校の学級会のような意見が国家政策や外交戦略にまでまかり通るのは、地理的に外部からの侵略を免れてきて公私、敵味方の境がシームレスになっている日本独特のカルチャーであり、その弱点に付け込んでいるのが中国・朝鮮である。
私が仕事で毎日付き合っている連中も、業務ミスや遅滞についてまずあらゆる「できなかった理由」を並べ立ててくる。スペイン語に嘘(mentiro)や嘘つき(mantiroso)の言葉はもちろんあるが、これは浮気した恋人をなじる痴話喧嘩によく使われても、対外的つきあいの中の嘘は(日本人が抱くような)罪悪性より方便性のほうが強いように感じる。日本では「あつかましい言い訳」にしか聞こえないこういう相手の“嘘”の矛盾をつくのは簡単だが、これをあまりギリギリと追求して公衆の面前で恥をかかせるのは彼等の文化のマナーにも反する。そして決して手を出してはいけない(あまりの図々しさにドタマに来てつい相手の胸を小突いたら大騒ぎになりパトカー呼ばれて豚箱に一晩入れられた気の毒な日本人同僚がかつて居た)。相手が自分に損害を与えた場合、再発防止のための一般的な対処方法は、相手の言い分は無視し黙って粛々とペナルティー(罰金、減給あるいは解雇、取引停止、すなわち実害)を課すことである。多くの国において“他人”との関係は基本的に情抜きのgive & take、「契約の世界」なのだ。
私が幼稚園の時、ある同級生が100円札(そう、あの板垣退助の)を拾って駅前の交番に届けたら先生や大人たちから「Yくん、えらいね~」と褒めちぎられて警察からも表彰された。それからしばらく園児たちはいつも地面を見つめて歩くようになり、一円玉を拾っても交番に届けた。ある日私も五円玉を拾って大喜びで交番に届けたが調書を書くため住所を聞かれて答えられず、困ってしまったお巡りさんは笑いながら「はい、ご褒美じゃけぇね」と飴玉をくれた記憶がある(あの五円玉はどこにいったのだろう)。
先日リマ市内の飲み屋のハシゴをしている間に定期入れを無くした。身分証(外国人登録証:写真+“指紋”付き)と運転免許証と職場のカードキーと名刺が入っていた。翌日、飲み屋を訪ねて回ったら三軒目にちゃんと保管してあった。その店は日本人専用だったので無事だったが、普通の店で財布や携帯などを忘れるとまず間違いなく戻ってこない。公共の場でものを無くしたら諦めるしかない。ここでは拾ったものはありがたく頂戴するのがアタリマエなのでネコババという言葉も特にない。職場の顧問弁護士に聞いたら、「ペルーでは公共の場で拾ったものを取得(=ネコババ)しても犯罪にならない」とのこと(ただし駐車中の車を拾ってはいけない)。落とし主の住所が分かれば連絡することはあっても、それはあくまで拾い主の良心の問題、拾った財布を警察に届けたりすると(何かあるんじゃないかと)むしろ怪しまれるのだそうだ。その店が私の定期入れを保管していた理由を聞いたら「そりゃ金が入ってなかったのと店の評判を上げるためだよ、ハッハッハ」だった。日本にいるとき通勤定期を何度か落っことしたが、いつも必ずそのうち出てきた(=誰かが拾って届けてくれた)。落とし物を拾ったら「持ち主は困っているだろうな」と思うのがふつうの日本人的感覚だろう。
アメリカ人によって書かれた日本文化研究の古典「菊と刀」では、西欧文化を“罪の文化”、日本文化を“恥の文化”であるとし、ムラ社会の対人関係における恥の意識で成り立つ日本人のモラルを、神に対する罪の意識で成り立つ欧米人のモラルよりも、何となく低く見ていたように思う。たしかに日本人にとって「不敬」といわれるより「恥知らず」と言われる方が侮辱であるが、私には“罪の文化”が“恥の文化”よりなぜ高尚なのかわからない。ペルー人はほとんどカトリック教徒だが社会的モラルは日本人に比べてはるかに低い(ただし、親族や友人関係などの『身内』どうしでは極めて義理人情を重んじる)。イスラム教も神-個人の契約意識で成り立つ一神教だが、なんだか信者の数だけ神がいるみたいで、喜捨はあっても、取れるものは獲る(泥棒的)文化は今もアラブの底流にある。「もしお前の妻が欲しくなったらお前を殺して妻を犯す、お前の財産が欲しくなったら殺して奪う、それが、ムハンマドが現れるまでアラブの文化だった、ムハンマドのおかげでマシになったのだよ」と、あるアラブ人が私に話してくれたことがある。神との契約に縛られずとも、もともと我々日本人には共同社会の中でお互いに分かち合うことを喜ぶ、アイヌや北米インディアンにも似た崇高な精神文化があった。そしてどちらの文化が高尚かどうかは、どちらが住み易いかどうかで判断するべきだろう。様々な民族の文化を、「恥」と「罪]ではなく、「拾った財布を届ける文化」と「ネコババする文化」によって色分けすると面白いのではないか。最近“恥知らず”な日本人はたしかに増えたが、それでもまだ、日本人はまちがいなく、最も優しくお人好しな集団に区分されるだろう。
同時多発テロから3年がたち、当地へも日本人観光客も戻り始めるとともに犯罪被害も増え始めた。すれっからしの多い南米に来ると日本人観光客はみんな小綺麗で人が良さそうで、みるからに不用心な感じなのですぐに日本人だとわかる(中国人や韓国人とは雰囲気が明らかに違う)から、クスコやマチュピチュ、リマで日本人観光客の窃盗・強盗被害が絶えない。日本人を襲う側も「日本人は金目のものをポシェットに全部まとめて入れている」、「カタコトの日本語で話しかけると喜ぶ」、「すぐについてくる」ことくらい熟知しているのだ。
今の世界状況の中で、変わらなければならないのは、中国人・朝鮮人ではなくむしろ我々日本人の側ではないか、それは決して我々が日本文化を捨て彼等のような刺々しい社会に染まるのではなく、そういう厳しい現実世界への冷徹な対処方法を身につけること。我々が日本人としてこれからも生き残るために、それを教えてくれようとしているのが、北朝鮮拉致事件と最近激しさを増す中国の横暴ではないのか。
(付録)
すなわち、犯罪を誤魔化し責任転嫁し開き直ろうとする北朝鮮ならびにその体制擁護犯罪集団の姿勢そのものはいわばどこでもよく見られる“国際的ふるまい”の一種なのである、ただ、その厚顔無恥ぶりと悪質凶暴性が並はずれているだけで。そしてむしろ日本の方が異常なのが、身内の中にその加害者側の立場で同胞を攻撃した/する者、加害者と同じ立場で事件を隠蔽する勢力いること。国家共同体を破壊する敵に荷担する行為は多くの国で極刑が適用されるが、荷担どころか拉致候補者をピックアップし同胞を直接敵に売り渡した当事者・政党がいまだ罪を問われず平然と国政に参加していることのほうが理解しがたい。
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中東欧米圏で広く使われる「泣かない赤ん坊はミルクにありつけない」の諺通り、自分の利益のための主張はウンザリするほどしても自分の瑕疵は決して認めず言い訳ばかり機関銃のように述べ立てるのが世界では一般的である。これも数千年以上にわたる民族間の侵略殺戮の長い長い歴史の中で培われてきた彼等の生きる術のように思える、他人=敵に対して自分の非を認めることは全面降伏、即ち殺されることなのだから。下記投稿で皆さんが触れられている朝鮮・韓国人・中国人にみられる一般的特質は、世界標準からすれば(やや下品な部類ではあるが)決して特別では無い、むしろ日本人の度の過ぎる人の良さの方が異常なのである。自分が殴られ血を流しながら「きっと僕たちも悪かったんじゃないか」「盗人さんの三分の理を聞いてあげましょうよ」「さんせ~い」などと小学校の学級会のような意見が国家政策や外交戦略にまでまかり通るのは、地理的に外部からの侵略を免れてきて公私、敵味方の境がシームレスになっている日本独特のカルチャーであり、その弱点に付け込んでいるのが中国・朝鮮である。
私が仕事で毎日付き合っている連中も、業務ミスや遅滞についてまずあらゆる「できなかった理由」を並べ立ててくる。スペイン語に嘘(mentiro)や嘘つき(mantiroso)の言葉はもちろんあるが、これは浮気した恋人をなじる痴話喧嘩によく使われても、対外的つきあいの中の嘘は(日本人が抱くような)罪悪性より方便性のほうが強いように感じる。日本では「あつかましい言い訳」にしか聞こえないこういう相手の“嘘”の矛盾をつくのは簡単だが、これをあまりギリギリと追求して公衆の面前で恥をかかせるのは彼等の文化のマナーにも反する。そして決して手を出してはいけない(あまりの図々しさにドタマに来てつい相手の胸を小突いたら大騒ぎになりパトカー呼ばれて豚箱に一晩入れられた気の毒な日本人同僚がかつて居た)。相手が自分に損害を与えた場合、再発防止のための一般的な対処方法は、相手の言い分は無視し黙って粛々とペナルティー(罰金、減給あるいは解雇、取引停止、すなわち実害)を課すことである。多くの国において“他人”との関係は基本的に情抜きのgive & take、「契約の世界」なのだ。
私が幼稚園の時、ある同級生が100円札(そう、あの板垣退助の)を拾って駅前の交番に届けたら先生や大人たちから「Yくん、えらいね~」と褒めちぎられて警察からも表彰された。それからしばらく園児たちはいつも地面を見つめて歩くようになり、一円玉を拾っても交番に届けた。ある日私も五円玉を拾って大喜びで交番に届けたが調書を書くため住所を聞かれて答えられず、困ってしまったお巡りさんは笑いながら「はい、ご褒美じゃけぇね」と飴玉をくれた記憶がある(あの五円玉はどこにいったのだろう)。
先日リマ市内の飲み屋のハシゴをしている間に定期入れを無くした。身分証(外国人登録証:写真+“指紋”付き)と運転免許証と職場のカードキーと名刺が入っていた。翌日、飲み屋を訪ねて回ったら三軒目にちゃんと保管してあった。その店は日本人専用だったので無事だったが、普通の店で財布や携帯などを忘れるとまず間違いなく戻ってこない。公共の場でものを無くしたら諦めるしかない。ここでは拾ったものはありがたく頂戴するのがアタリマエなのでネコババという言葉も特にない。職場の顧問弁護士に聞いたら、「ペルーでは公共の場で拾ったものを取得(=ネコババ)しても犯罪にならない」とのこと(ただし駐車中の車を拾ってはいけない)。落とし主の住所が分かれば連絡することはあっても、それはあくまで拾い主の良心の問題、拾った財布を警察に届けたりすると(何かあるんじゃないかと)むしろ怪しまれるのだそうだ。その店が私の定期入れを保管していた理由を聞いたら「そりゃ金が入ってなかったのと店の評判を上げるためだよ、ハッハッハ」だった。日本にいるとき通勤定期を何度か落っことしたが、いつも必ずそのうち出てきた(=誰かが拾って届けてくれた)。落とし物を拾ったら「持ち主は困っているだろうな」と思うのがふつうの日本人的感覚だろう。
アメリカ人によって書かれた日本文化研究の古典「菊と刀」では、西欧文化を“罪の文化”、日本文化を“恥の文化”であるとし、ムラ社会の対人関係における恥の意識で成り立つ日本人のモラルを、神に対する罪の意識で成り立つ欧米人のモラルよりも、何となく低く見ていたように思う。たしかに日本人にとって「不敬」といわれるより「恥知らず」と言われる方が侮辱であるが、私には“罪の文化”が“恥の文化”よりなぜ高尚なのかわからない。ペルー人はほとんどカトリック教徒だが社会的モラルは日本人に比べてはるかに低い(ただし、親族や友人関係などの『身内』どうしでは極めて義理人情を重んじる)。イスラム教も神-個人の契約意識で成り立つ一神教だが、なんだか信者の数だけ神がいるみたいで、喜捨はあっても、取れるものは獲る(泥棒的)文化は今もアラブの底流にある。「もしお前の妻が欲しくなったらお前を殺して妻を犯す、お前の財産が欲しくなったら殺して奪う、それが、ムハンマドが現れるまでアラブの文化だった、ムハンマドのおかげでマシになったのだよ」と、あるアラブ人が私に話してくれたことがある。神との契約に縛られずとも、もともと我々日本人には共同社会の中でお互いに分かち合うことを喜ぶ、アイヌや北米インディアンにも似た崇高な精神文化があった。そしてどちらの文化が高尚かどうかは、どちらが住み易いかどうかで判断するべきだろう。様々な民族の文化を、「恥」と「罪]ではなく、「拾った財布を届ける文化」と「ネコババする文化」によって色分けすると面白いのではないか。最近“恥知らず”な日本人はたしかに増えたが、それでもまだ、日本人はまちがいなく、最も優しくお人好しな集団に区分されるだろう。
同時多発テロから3年がたち、当地へも日本人観光客も戻り始めるとともに犯罪被害も増え始めた。すれっからしの多い南米に来ると日本人観光客はみんな小綺麗で人が良さそうで、みるからに不用心な感じなのですぐに日本人だとわかる(中国人や韓国人とは雰囲気が明らかに違う)から、クスコやマチュピチュ、リマで日本人観光客の窃盗・強盗被害が絶えない。日本人を襲う側も「日本人は金目のものをポシェットに全部まとめて入れている」、「カタコトの日本語で話しかけると喜ぶ」、「すぐについてくる」ことくらい熟知しているのだ。
今の世界状況の中で、変わらなければならないのは、中国人・朝鮮人ではなくむしろ我々日本人の側ではないか、それは決して我々が日本文化を捨て彼等のような刺々しい社会に染まるのではなく、そういう厳しい現実世界への冷徹な対処方法を身につけること。我々が日本人としてこれからも生き残るために、それを教えてくれようとしているのが、北朝鮮拉致事件と最近激しさを増す中国の横暴ではないのか。
(付録)
すなわち、犯罪を誤魔化し責任転嫁し開き直ろうとする北朝鮮ならびにその体制擁護犯罪集団の姿勢そのものはいわばどこでもよく見られる“国際的ふるまい”の一種なのである、ただ、その厚顔無恥ぶりと悪質凶暴性が並はずれているだけで。そしてむしろ日本の方が異常なのが、身内の中にその加害者側の立場で同胞を攻撃した/する者、加害者と同じ立場で事件を隠蔽する勢力いること。国家共同体を破壊する敵に荷担する行為は多くの国で極刑が適用されるが、荷担どころか拉致候補者をピックアップし同胞を直接敵に売り渡した当事者・政党がいまだ罪を問われず平然と国政に参加していることのほうが理解しがたい。
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