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2004年10月14日 (木)

横田めぐみさんを救うぞ東京集会(2)

  横田早紀江さんのお話

横田めぐみの母でございます。
本当に北朝鮮に連れて行かれてからの活動の中で本当にたくさんの方に助けていただきまして、署名やカンパ、それぞれのひとりひとりの心遣いを私たちに寄せていただいて、今日まで元気でやってくる事が出来ました。ありがとうございます。

今日はいつものお話と違ってめぐみのことを話してくださいという会なんだそうで、初めての事なんですが。
今、主人が話しましたように、初めての女の子でした。私は自分が兄と二人兄妹なもんですから、男の兄妹が上にいるってのがとても良かったものですから、先に男の子が生まれて、そして女の子が生まれたら、お兄ちゃんのお友達が良い人と結婚できるかもしれない(笑い声)とか、そんな事まで思ったりして、最初男の子が良いと思ってたんですね。

主人は女の子が良いと思っていたんですね。何人女の子が生まれても良いと言ってて、双子の時も女の子だったらいいね、と言うてる位でした。私はやはり最初に男の子が生まれて、3つほど離れて女の子が生まれるのが ちょうどお兄ちゃんのお友達とかね、そういうなんか(結婚できて)良いなとか、母親って馬鹿な事を考えるんですが(会場にはずっとクスクス笑いが続く)そうした事を考えていました。

そうしたところが大きな女の子が生まれました。生まれた時も「拓也」と言う名前しか考えていなかったんです。(大きな笑い声)恥ずかしいんですけど、絶対男の子が生まれると思って「拓也」と言う名前だけ考えていましたら、「お嬢さんですよ」と言われて、どうしようと思ったんですけど。(大きな笑い声)

「名前が無い、早くつけなきゃ」と思って、私は早紀江と言う1字1字見ると簡単に見えるんでけど、非常に書くのが3字で漢字で大変な思いをしてきたもんですから、(笑い声)「早は「さ」と読むんですか?」とか、いちいち言わなきゃならなかったので。平仮名で誰でも書けるような簡単な可愛い名前がいいなと言う事で、「大変だ、早く名前付けなきゃ」と言って、ベッドの上で一生懸命二人で考えていたんですね。
ひろみさんとかあけみさんとかあゆみさんとか・・・・いろいろ平仮名の名前を挙げたんですけども。「めぐみ」と言うのは名前としても良いし、とても良い意味があるので「めぐみ」にしようと言う事で、それで「めぐみ」と付けたわけです。

今度、男の子が生まれたら「拓也」にしようと思ったら、今度はふたり生まれて(大きな笑い声)また名前が無い(笑い声)ということで、大急ぎで、同じ「也」と付けた方が良いと言う事で、「きん也」とか「てつ也」とかいろいろ「也」が合う名前を考えて、最終的には拓也・哲也という名前を付けました。
名前から言ってもそういう面白いいわれがあるんです。

親ですから本当に子供が生まれた時の事は鮮明に覚えておりますし、どなたでもそうだと思うんですが。
ようやく生まれてきたんですが、すぐに洗ってくるんでくださって「初めての赤ちゃんですよ、どうぞ」と言って、婦長さんがドイツ人の方だったんですね、聖霊病院でしたから。その方が私のお腹の上にボンと置かれたんです。

その時一番感じたのは、赤ちゃんと言うのは非常に柔らかくてもろくて軽いものだと思っていたんです。
ところがめぐみは3260グラムくらいあったんですけど、お腹の上にボンと置かれた時に「ああ、重いんだぁ」と思ったんですね。「あぁ、赤ちゃんてこんなに重たいのかなぁ?」と思って「小さいのになぁ」というくらい・・・・・「重いんですねぇ?」って言ったのを覚えてるんですけども。

生まれる時になかなか生まれなくて、私の郷里の母が病院に詰めてまして、隣の方の部屋で一生懸命お祈りをしてくれていたのを覚えてるんですけども、元気な赤ちゃんが生まれてくれて。先ほど主人が言いましたような、本当に活発な。小さいときは、あの御所人形と言うのがありますよね京都の方に。細い目で丸い顔に白い・・・・・(聞き取れず)で「御所ちゃん御所ちゃん」と看護婦さんが言ってくれたり。

段々大きくなってきたら、金太郎さんのような感じになって来まして。ものすごく血色が良い雰囲気で、いつも野原を駆け回っていると言うようなイメージが強いような女の子で、元気いっぱいで庭で遊んでいました。

あの頃は今のように素晴らしい玩具なんて沢山ありませんでしたし、私は特にあんまり物を何でもかんでもめぐみに与えるというような事はしない主義でした。めぐみの着る物も、たいてい私が自分が着ていた物で着られなくなった物を、きれいに洗って、きれいに解いて、裏側を表にして、刺繍を付けてあげて、そんな感じで古いものを利用してワンピースとかスカートとか刺繍をしたブラウスとか。それが非常に楽しくて、こんなものでもこんなに素敵なものが出来るんだって。

その頃、(めぐみさんの事を)みーちゃんって言ってたんですけど。「みーちゃん、こんな良い物が出来たよ」と言うと「あ、これ、ママが着てたスカートだよね、こんなの出来るの?黒い色だけど」とか言ってたんですけど、ほんとに素敵に自分の思ったようなのが出来て・・・・・よくいたしました。よく写真に出てます、萩に行った時に4人で歩いているオレンジ色の服が出てますけど。あれは旅行に行く前に新しい布を買ってきて、自分で一生懸命作ってあげたのを着たのですけど。そういう事がとても好きだったもんで、いつもめぐみは見ていたと思うんですね。

たいてい外で、庭の石ころだとか木の枝とか葉っぱと土とか、男の子みたいですけど、そういう物で遊ぶのが好きな子で。いつも近所で誰も触れないような、さっき主人も話しましたような、大きなガマガエルなんかでも、ミミズでも何でも怖がらなくて、そういうのを捕まえても気持ち悪いとかあまり言わない。

主人がタオルって言ったんですが、それは違ってて「たっくん、てっちゃんの古くなったオシメでいいから、ママ頂戴」と言って入ってきたんですね。で「何にするの?」って(聞いたら)「いいの、いいの」って言うんで、ちょっとボロになってるのがあったので、昔は布で使ってましたから、それを出したらそれを持って下に降りて行ったんですね。

私も忘れていたんですけど、そしたら、同じアパートのママから電話がかかってて、「横田さん、大変!めぐみちゃんがすごい事して歩いてるけど大丈夫かなぁ?上から見てごらん」と言うから「なんだかなぁ?」と思って(窓を)開けて見ました。それに黒いものをくるんで顔だけ見えてるんですけど、かなり大きなもので、それを抱っこしてて。

赤ちゃんが生まれた時の抱っこするのをいつも見てて、哺乳瓶でミルクをあげたいあげたいって言ってましたから、そのせいだったと思うんですけど。それを歩いている時に、寮の小さいお子さんたちが全部後ろにアヒルの行列のように、触れないんですけど面白いんでずらーっと並んで、その一番前で歩いてるのが見えたんですね。

「毒のカエルかもしれないから、あんなの大変な事になっちゃう。早く言わなきゃ。」て言われて、飛んで下に降りて、「そんなの触って、毒でも付いてたら大変だから止めなさい」って言って、自分でもびっくりして。「離して庭にもどしておきなさい」って言ったんですけど。

小さな猫の子を良く拾ってきて、本にも書いてますけど、自転車とか入れていた小さな小屋があって、そこでちょこんと入れて置いてたりしたんですけど。朝になるとミルクを持って「どこ行くの?」と言うと「いいの、いいの」と言って降りていって。そして、ちゃんとミルクをあげてたりとか。そういう事がよくあるもんですから、猫が鳴くんですね、そこから途中出て来たりして。よそのベランダでニャーニャー猫が鳴くと、絶対にみーちゃんが持って来たに違いない、とよく言われたり。そういうような事をいつもしている子でした。

石蹴りだとか庭に線を引いて陣取り遊びだとか、そういう遊びが好きでした。ほんとに、「めぐみちゃんは遊びの天才ね」と、よその家のお母さんがめぐみが面白そうに遊んでるのを見て、私におっしゃった事があって。本当にこちらは双子の世話で精一杯で、よそのお嬢さんがめぐみちゃんを見てくれるので助るし、こっちのことで精一杯で、本を読むくらいの事しか出来なかったんですけど。

小さい頃から本が大好きで。私が忙しいので「足の裏がすり切れるってこういう事ね」と郷里の母が口癖に言うくらい。あのころはオシメの洗濯だけでくたびれて、ベランダがいっぱいオシメで旗のようにひらめいてまして、洗っても洗ってもという感じだったもんですから。なかなか、ひとりだけで遊んであげる事が出来なかったんですけども。けっこう友達が多いんで外で遊んでましたし。

かならず日本昔話って今も・・・・・・(聞き取れず)字がいっぱいの小さな母にもらった赤い本を、こうやってこうやって(読んでもらいたくて)私の後ろを追いかけて「洗濯が終わった?何が終わった?まだ?」とか言って、いつもくっついて歩いてたんですね。めぐみちゃんが「ちょっとだけ読んでくれ」って言うんで、壁にもたれて足投げ出して、民話とか面白い本を読んであげました。そのころでも物語の中身を聞くのが好きで、一生懸命聞いて「どうなのどうなの?なんでそうなるの?」といつも質問して、細かいところまで聞いていました。

下の男の子は読みなさいといってもあんまり読まなかったんですけど、大きくなってからよく読んでるようですけど。子供って小さいときの姿だけじゃ分からないんだなぁ、と3人の子供を育てて思います。めぐみはとにかく元気で、本当に皆さんに可愛がっていただいて、夕方まで庭で遊んでいて、お父さん方が寮に帰ってくると「おじちゃーん、お帰りなさーい」と言って抱っこしていただくような、そんな感じだったんです。

下のふたりは、拓也は今はなかなか厳しい事を言ってますけど、幼稚園の頃はふたりともおとなしくて、めぐみちゃんと全然違って、むこうから 「あら、たっくん、てっちゃーん」とお母さん達から声をかけられると、サッーと私の後ろに隠れてこうやって覗くようなおとなしい感じで。大きくなってくると、全然違ってくるので、本当に人間ていうのは小さい時にいろいろ隠れている才能が沢山あって、大きくなったら皆それぞれ違うようになるんだなぁって。

特にめぐみは本が好きでしたから。中学のあの頃のテストでも、「ドロップ」という、何か芥川龍之介の本ですとか、をよく読んでまして。そういうのが、テストに出て難しい質問が出て、いつも国語は非常に良かったんですけど、その時は非常に点数が悪くて「私は絶対に間違ってはいないと思うんだけど?お母さんなんでこれはおかしい?」と、テストを持ってきまして、一緒に読んで「こういう風に質問してるでしょ?だから私はこういう風に書いてるのに、どうして間違ってるの?」よく読んでみると、ものすごくもっと深く解釈してるんですね。「あ、それは考えすぎだから、間違っちゃうんだ」と言うと「あー、そうなんだ」
そういうような形で非常に話が面白くなってきて、大人の話をしていろんな事が話せるようになってきて。

芥川龍之介の「秋山図」と言う小品があるんですが、それを読んでいて。「芥川龍之介って難しいでしょう?」「でも面白いんだよ」って「一番何が面白いの?杜子春というのもあるし蜘蛛の糸も面白かったでしょう?」と聞いたら、 「あれも面白いけども、秋山図が面白かった」というんですね。

私は読んでなかったので、そんな難しいのがあったかしら?と思って私も読んでみましたら、日本画の画家が描いた、本当にその画家が描いた真の絵か?真贋って言うんですけども、面白い話し合いの場面があるような本なんですけども、それが面白かったって言うんですね。「難しい事が面白いのね?こんな難しいもの、あなた良く分かるね?」って言ったんですけど、そういう所があって、物を見たり、読んだり、理解したり、人の気持ちを何となくよく分かる子だったなぁって。

※注:早紀江さんは本当は「山水図」とおっしゃっていましたが、芥川作品に「山水図」という作品は見当たりません。お話の内容からおそらく「秋山図・しゅうざんず」の間違いでは無いかと思われますので、「秋山図」でテキスト起こししました。

とっても良い様に育ってくれて、私は双子で手一杯で、出来損ないの母親なのに・・・・・・・(聞き取れず)病気もほとんどしませんでしたし、怪我は確かに良くしましたけど、やんちゃなので。そういう子だったので、この事が起きた事が、物凄い衝撃で本当に死んでしまいたいと思いました。こんなに苦しい思いをしなければならない人生なのかと思って、どうして見つからないのかと思って。本当に毎日毎日泣きわめいて、雪の中を泣きながら、何度も何度も歩いて帰ったりとか。

あの日の事は、新潟の景色を思い出すだけで、もう切なくなりますし。本人は、海も大好きだったんですけど、桜の花も大好きだったんですけども、雪もそれなりに好きだったんですけども、雪も桜吹雪も、私にとっては残酷な思い出になっていまいました。北朝鮮にいると言う事が分かって、元気でいてくれたと言う事が本当に嬉しくて、とにかく生きてたという事は喜びでした。

クラシックバレエでかなり厳しいレッスンを受けてましたし、何年に一回かの公演もあってその時はちゃんとした男性のバレエの人とプリマになれる人、その人たちの、本当のプロの人と一緒に・・・その他大勢、めぐみはあんまり上手ではなかったんですけども。

いつも写真には良くつま先だって写しているですんですけども、膝がまっすぐに立てつま先立ってやらなきゃいけないんですけど、バレエって。でも膝が曲がっちゃうんですね。「レッスンだけでやってるだけじゃ駄目だから、下手な人はいつもつま先立ちしてなさい」って先生に言われてたもんで、旅行に行ってもどこに行っても写真を撮るときはつま先立ちしてたんです。それでも膝が曲がってるんですけども。そういう感じでいつも一生懸命やってました。

物凄く厳しいレッスンに耐えて、小学校4年生のときも5年生のときも「くるみ割り人形」とかそういうのに出て一生懸命に踊ってました。最後に踊ったのは、いなくなった11月の前の8月のおわりに大きな公演会がありまして、その時「花のワルツ(「くるみ割り人形」第2幕の中に出てくる小品のひとつ)」を踊りました。一生懸命に家で練習して、「完璧に出来るね」って、喜んでたんですけど、それが最後のバレエの踊りになりました。

あの子の13年間としては、どこのうちでも同じでしょうけど、良い事も悪い事もみんないろいろあるでしょうけども、一生懸命にそれなりに一生懸命に育てた私達。そして一生懸命がんばってきためぐみ、そのなかでみなさんに可愛がっていただいためぐみ。そして突然、消えてしまったわけです。

そして考えられないような人生があちらの国で送ってたわけで、今もこの間出てきました実務協議のあれも、入退院を繰り返すというようなことが書かれてありますし。1993年3月13日死亡と言われてきましたけれど、あの時出てきた死亡台帳というものがいかに嘘だったかと言う事も、ハッキリ今度しまして。
ここに書いてある中では93年の4月から6月まで、また同年8月から10月8日にも入院と言う感じで出てきていますけども。

蓮池さんなんかは横田さんは1994年も元気でいました、とハッキリおっしゃってますから、この事がどこまで本当なのか?これが全部嘘で、蓮池さんや地村さんやまだ出してきた北朝鮮側が全部がひとつの事として、本気で伝えましょうと言うことで言っているのか?その部分のどこからが本当なのか?

そしてキムヘギョンちゃんという、元気な女の子があちらで生まれていたと言う事も、私達にとっては考えられないような本当にびっくり仰天するような事で。めぐみの13年間は皆様と同じように、普通の主婦であり普通の夫であり、姉弟であり家族でありましたけども。突然いなくなったそのときから、私たちは物語のような人生を歩んでいるなぁ、と思っております。

めぐみは19年間耐え忍んでやっと生きていて良かった、と思ったら、今度はなかなか帰れない。死亡とか言われてまた愕然として、だけど絶対生きていると今でも思ってますし。それだけいろいろな事に耐えてきた子だから、どこへ行っても絶対可愛がられているだろうし、自分も人にいろいろ優しくしているだろうと、信じていますし。

これからも何が起こるかわかりませんけど、これは日本の国の物凄い大変な問題で。めぐみがどうのるみ子さんがどうの、帰ってこられた方が何人だの言う事じゃなくて、拉致された方がこれだけいる。何年と言う長い間、それが北朝鮮に繰り返され続けていたと言う事に対して、日本は何をしてきたのか?

そして向こうが認めてきた後も、なんでこんな年老いた家族が皆で一生懸命になって、クタクタになるまで訴え続けなければならないのか?本当にこれはおかしい、とお思いになりませんでしょうか?誰もこれは許す事が出来ない事なんです。

本当に皆が国民がひとつになって、政府も外務省もそして家族も誰も彼もがこんな事許せないんだと。これはどんな事あっても許せないことなんだという毅然とした姿勢を示して行かなければ、日本と言う姿はどんな風に映るんでしょうか?私たちはその事を考えて最後までめぐみちゃんが、皆さんが帰ってきたように、タラップから元気で帰ってきて。

今日も来て下さっている馬場先生や、めぐみちゃんの親友だったお母さん、皆さんのことを本当に覚えていると思います。

曾我さんがいつも言ってらしたように、「毎日、お月様を眺めて小さな声で日本の歌を歌ってたんですよ」と、言ってらしたことを。その事をまだ続いている人が、あんなに沢山の人がいるということを私たちは絶対に忘れてはいけないですし。

私はもう、めぐみちゃんの事だけではなくて本当にひとりひとりの命が、こうして大事に育てられたものが、何の罪も無いのに袋をかぶせられたり、船の底に投げ込まれたりして。そして全く違った気の狂うような悲しい人生に変えられていく。

こんな事を捨てておいてはいけないという事を、私は最後まで言い続けて、どんなことがあるか分かりませんけど、最後まで戦いたいと思っています。
ありがとうございました。(拍手)

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