拉致事件と日の丸
拉致事件と日の丸
2004年11月17日(水)
4月30日の日比谷集会の後、デモ行進のために配られた日の丸の小旗に抵抗を覚え、私はデモの隊列から離れた。当時ポークさんから「そこまで気にしなくても」という指摘を受けたが、私もなぜ気になったのだろうと気になっていた。
私は日本人、その文化、歴史、社会を含めての「日本」を大事に思う気持ちはきちんと備えているつもりだ、特に海外での様々な場面に遭遇する中で、自分の祖国日本のかけがいのない大切さを、理屈よりもまず実感として身に染み込まされてきた。
しかし、私は右翼の街宣車の日の丸を見ると吐き気に近い嫌悪感を覚える(これは彼等の構成員の多くが在日ヤクザと知る前からそうだった)。武道館を訪れたついでに近くの「物議の耐えない例の靖国」を訪れたとき、隅に止めてある日の丸街宣車と戦闘服集団を見て「ああ、やっぱりこういうことだな」と胸クソが悪くなった(が、境内に私の郷里が生んだ大村益二郎の像を見つけたときは、フンフンと胸を張って「これがな、・・・」と自分の子供たちに説明していた)。
日本の学校の校庭に掲揚してある日の丸は自然に映るが、強制問題が生じてからの卒業・入学式の日の丸・君が代には、それまで感じなかったよじれた抵抗感が生まれた。リマ日本人学校*に日の丸とペルー国旗が並んで掲げてあるのには好感を覚え、ペルー人との連帯感とともに「頑張れよ~、ニッポンの子供たち」と声をかけたくなる。遠く離れた異国の地で日本大使館の屋上にはためく日の丸と玄関の菊の紋を見るとなぜかホッと安堵し、外国船のひしめく港の中に日本のマグロ漁船の日の丸を見つけると「お、はるばる遠くまで、日本人の台所のためにがんばってんな、丘の夜の散財はホドホドにな~」とエールを送りたくなる。
中国大陸で日本軍の日の丸を見た中国人と日本人は、もちろん、それぞれ全く逆の印象を抱いたはずだ。そしてその当時の中国人の立場でのみ、何が何でも日の丸を『』カッコ付きで捉えたがる日本人がいる。拉致事件被害者奪還運動の日の丸にカッコを付けてはいけない、それでは真の国民運動にならないし、敵はカッコを付けレッテル張りによる妨害を狙っている。ブルーリボンの生まれた意味もそこにあると私は考える。日比谷公園で私がデモの列を離れたのは、その日の丸にカッコを警戒してしまったためだ(真偽は配布を決めた当人に聞かねば分からぬが)。
1996年12月17日の宵、ペルー日本大使公邸の庭の壁を破り爆音・銃撃音とともになだれ込んできたゲリラの戦闘服姿を見た多くの出席者は絶望的な恐怖に襲われたが、事情に詳しい者はゲリラたちの胸のマークが(凶暴なセンデロよりマシな)MRTAであることに気づき「あ、これですぐに皆殺しになることはない」と“安堵”した。そして4ヶ月後、同様な爆音、銃声とともに突入してきたペルー海兵隊の戦闘服は、囚われていた人質達にはまさに救世神のように輝いて見えた。
北朝鮮に囚われている日本人被害者を武力救出することになった場合、救出に来る兵士たちの腕に「UN」でも「USA」でもなく、もし「日の丸」があれば、その「日の丸」を見付けた日本人人質達はどんなに感激することだろうと思う。残念ながらそれはできなくとも(そういう事態にはならぬ方が良い)、日本人被害者の救出活動は我々日本人が、つまり“日の丸”が常に主体的に主導して当たらねばならない、それはもちろん、カッコの無い日の丸である。
ところで。 「すみませんでした...また、日本へ戻りたいです」と、か細い声で語っていた香田さんはアメリカ国旗の上で惨殺された。星条旗の上に押し倒された時、彼の目には遠く日の丸が映っていたのではないか。日本は、彼を救えなかった、いろいろな意味において。彼の祖国では死んだ者は全て仏になる。改めて合掌。、
※リマ日本人学校 のスペイン語名称が学校(colegio)ではなく日本文化協会(academia cultura japonesa)となっているのは、学校法人にするとペルー文部省の管轄になり日本式教育ができなくなるからです。独自の教育を行っている朝鮮学校に日本の高卒(=大学受験)資格がないのは当たり前のことであり、自国内にそういう破壊工作教育機関が存在すること自体考えられない。リマ日本人学校はペルーの教科書は使いませんが反ペルー教育はやりませんし、行事の時に生徒たちはペルー国旗と日の丸を掲げ、校歌→ペルー国歌→君が代の順に斉唱します。
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2004年11月17日(水)
4月30日の日比谷集会の後、デモ行進のために配られた日の丸の小旗に抵抗を覚え、私はデモの隊列から離れた。当時ポークさんから「そこまで気にしなくても」という指摘を受けたが、私もなぜ気になったのだろうと気になっていた。
私は日本人、その文化、歴史、社会を含めての「日本」を大事に思う気持ちはきちんと備えているつもりだ、特に海外での様々な場面に遭遇する中で、自分の祖国日本のかけがいのない大切さを、理屈よりもまず実感として身に染み込まされてきた。
しかし、私は右翼の街宣車の日の丸を見ると吐き気に近い嫌悪感を覚える(これは彼等の構成員の多くが在日ヤクザと知る前からそうだった)。武道館を訪れたついでに近くの「物議の耐えない例の靖国」を訪れたとき、隅に止めてある日の丸街宣車と戦闘服集団を見て「ああ、やっぱりこういうことだな」と胸クソが悪くなった(が、境内に私の郷里が生んだ大村益二郎の像を見つけたときは、フンフンと胸を張って「これがな、・・・」と自分の子供たちに説明していた)。
日本の学校の校庭に掲揚してある日の丸は自然に映るが、強制問題が生じてからの卒業・入学式の日の丸・君が代には、それまで感じなかったよじれた抵抗感が生まれた。リマ日本人学校*に日の丸とペルー国旗が並んで掲げてあるのには好感を覚え、ペルー人との連帯感とともに「頑張れよ~、ニッポンの子供たち」と声をかけたくなる。遠く離れた異国の地で日本大使館の屋上にはためく日の丸と玄関の菊の紋を見るとなぜかホッと安堵し、外国船のひしめく港の中に日本のマグロ漁船の日の丸を見つけると「お、はるばる遠くまで、日本人の台所のためにがんばってんな、丘の夜の散財はホドホドにな~」とエールを送りたくなる。
中国大陸で日本軍の日の丸を見た中国人と日本人は、もちろん、それぞれ全く逆の印象を抱いたはずだ。そしてその当時の中国人の立場でのみ、何が何でも日の丸を『』カッコ付きで捉えたがる日本人がいる。拉致事件被害者奪還運動の日の丸にカッコを付けてはいけない、それでは真の国民運動にならないし、敵はカッコを付けレッテル張りによる妨害を狙っている。ブルーリボンの生まれた意味もそこにあると私は考える。日比谷公園で私がデモの列を離れたのは、その日の丸にカッコを警戒してしまったためだ(真偽は配布を決めた当人に聞かねば分からぬが)。
1996年12月17日の宵、ペルー日本大使公邸の庭の壁を破り爆音・銃撃音とともになだれ込んできたゲリラの戦闘服姿を見た多くの出席者は絶望的な恐怖に襲われたが、事情に詳しい者はゲリラたちの胸のマークが(凶暴なセンデロよりマシな)MRTAであることに気づき「あ、これですぐに皆殺しになることはない」と“安堵”した。そして4ヶ月後、同様な爆音、銃声とともに突入してきたペルー海兵隊の戦闘服は、囚われていた人質達にはまさに救世神のように輝いて見えた。
北朝鮮に囚われている日本人被害者を武力救出することになった場合、救出に来る兵士たちの腕に「UN」でも「USA」でもなく、もし「日の丸」があれば、その「日の丸」を見付けた日本人人質達はどんなに感激することだろうと思う。残念ながらそれはできなくとも(そういう事態にはならぬ方が良い)、日本人被害者の救出活動は我々日本人が、つまり“日の丸”が常に主体的に主導して当たらねばならない、それはもちろん、カッコの無い日の丸である。
ところで。 「すみませんでした...また、日本へ戻りたいです」と、か細い声で語っていた香田さんはアメリカ国旗の上で惨殺された。星条旗の上に押し倒された時、彼の目には遠く日の丸が映っていたのではないか。日本は、彼を救えなかった、いろいろな意味において。彼の祖国では死んだ者は全て仏になる。改めて合掌。、
※リマ日本人学校 のスペイン語名称が学校(colegio)ではなく日本文化協会(academia cultura japonesa)となっているのは、学校法人にするとペルー文部省の管轄になり日本式教育ができなくなるからです。独自の教育を行っている朝鮮学校に日本の高卒(=大学受験)資格がないのは当たり前のことであり、自国内にそういう破壊工作教育機関が存在すること自体考えられない。リマ日本人学校はペルーの教科書は使いませんが反ペルー教育はやりませんし、行事の時に生徒たちはペルー国旗と日の丸を掲げ、校歌→ペルー国歌→君が代の順に斉唱します。
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