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2004年12月 9日 (木)

増元るみ子さんを救うぞ東京集会(4)

増元照明さんのお話 続き

姉は持ってたんですけどもペーパードライバーですから。
ですから、るみ姉が免許とってあちこち家族を連れて行くのに、車を使っていました。
だから、私大学から帰る時も必ずうちに電話すると空港に迎えに来てるのが姉なんです。
帰る時、北海道に行く時も必ず姉が空港まで見送ってくれました。
ですから姉がいた当時は空港と家の間を自家用車と言う物で、一応帰っていたんですね。
それで助かったんですけども。

そのころは高校卒業してなぜかしら明るくなっていたんです。
さっきフミ子が言った様に、私の家の中心のような存在になってた。
そして車の運転もして家族をあちこち連れて行ってくれている。
で、お袋なんかも良くそれで乗って、ばあちゃんがちょっと離れたところにいたもんですから良くそこへも行ったり、後墓参りに行ったりという話は、多少聞いています。
その頃あんまりうちにいなかったので、後から聞いておりました。

運命の1978年の8月12日なんですけども、たしか8月11日の晩でした。
親父は確かいなかったと(思う)。
私も8月11日と言うと北海道は後期が始まるのが早いものですから、もうそろそろ帰らなきゃいかんなぁと、友達と飲みに行くのを止めて家族と一緒に飲んでました。
その時に、姉が「明日市川修一さんと言う人と、デートに行く」と。
その事を、姉ちゃんとお袋と私と3人で、飯を食いながらそこで姉から話を聞いておりました。
フミ子とお袋は多少話を知っていたようですけども、私は初めてだったもんですからショックを受けたんです。

それまでさっきも言ってたように、空港と家まで送り迎えしてくれてた姉がいなくなるという事は、じゃあ姉が嫁に行ったら、じゃあ俺はいったい誰が送り迎えをしてくれるのだ?(笑い声)
それで困ったなぁ、というのが最初の印象でした。
ただ、聞いてみると2回か3回目くらいのデートだと言うんで、まだ結婚は先だな?と思ってちょっと安心しとったんですけど
オレが卒業するまでは絶対結婚するなよ、と言ったそんな気持ちで。(笑い声)
でも、3回目くらいのデートでしたから、私もその市川さんに会わなきゃいけないのかなぁ?という思いもありましたけども、会いたくないなぁという両方の気持ちで。
じゃあ、次の休みまで会うのは止めておこうと思ってたんですが。

その翌日に姉が、土曜日だったんです、私は普通の日だと思ってたんですけど。
フミ子の言うには土曜日だったようで、ふたりとも半ドンで会社に行って、その間私は寝てたようで。
姉が会社から一旦帰って、自宅で着替えて修一さんと吹上浜まで、鹿児島市内から1時間半から2時間、車でかかります。
そこへ行くのに、私のうちを出て行く姿を、私は寝起きの・・・昼ぐらいに起きる人間でしたから、大学時代は・・・その寝起きの顔で姉を玄関で「行って来い」と言って見送ったんです。
皆さんご覧の眼鏡、サングラスをかけて赤いトレーナーを着た姿だったんです。

玄関を出る時にはサングラスをかけてなかったですから、姉らしい笑顔、ここに2枚写真があるんですが(演台の前に貼ってある左側の写真を取って掲げる)こっちの顔です。
これが本当の姉らしい顔だと私は思います。
この顔見ると、本当に30年近く、27年前の姉の(顔を)そのまんま描ける、という写真です。
これに近い笑顔で家を出て行った、それが1978年昭和53年の8月12日です。
そのまんま、姉は帰ってきませんでした。
親父はその時家にいなかったんですが、私も8月12日は友達と飲んだくれて、帰って。
夜遅くになって姉が帰って来ていないと言う事を知りました。

るみ姉の車は庭に置いてあったので、誰か車の免許持ってる人がいればすぐに行ったんでしょうけど、先ほど言ったように、フミ子はペーパードライバーで、私は無免許で、家の中に免許持ってる人が誰もいなかったんで、どうする事も出来ずに一夜を明かしてしまいました。
とても一睡も出来るような状況では無かったんですが。
親父はその時確か仕事に出ていたんだと思います。

それから翌日になって市川さんのご家族と吹上浜まで行って、吹上浜のキャンプのロータリーの所で市川さんの車を見つけました。
ドアに鍵をかけてあって、中に小物入れ、カメラ、そういった物が全て残っておりまして。
周りを探しても全然応答無いですし、警察に届けることになったんですけども。
それから大捜索が10日ほど続きまして。

本当に私もあまり記憶に無かったんですが、お袋がちょっと気を狂わせかけた。
お袋って、結構気持ちが弱い女で、九州って本当は強いですけどね、まぁ、姉を見てれば分かる(笑い声)親父の気性を一番継いでるのはフミ子で。(笑い声)
だから喧嘩してたし、合わなかったと思いますけど。
お袋はその点、九州の女らしくなくて、気が弱くて、すぐに参ってしまう。
姉貴がいなくなって「るみ子がいなくなったら、こん家は火が消える」って泣いて、そしてちょっと気を狂わせかけた。

フミ子が自宅でお袋を見て、で私、親父、長男がその当時静岡にいたんですが、静岡から呼び寄せて、姉の友人、私の友人、それから消防団と、皆さんで手分けして8月のあの暑い14日から一週間・十日間ほど、吹上浜の周りを捜索しました。
その時の私が見た親父の姿、今でも忘れられないんですけど。
さっき言ったように私たちにとっては怖い親父だったんです。
絶対私たちの前では弱いところを見せた事は無かった。
酔っ払ってだらしないところは良く見せてましたけど、弱いところは見せてなかった。
その親父が、詰め所のような所があったんですけども、そこに座り込んで砂浜に何か字を書いてるんです。
その後姿を見たとき、私は非常に悲しい思いをした覚えがあります。

先ほども言ったように私たちに弱みを見せなかった親父が、可愛い娘がいなくなった事にホントに寂しい、何が起こったんだ?自分の中で整理できていない。
そんな中で、息子たちにも弱みを見せてしまったんだと思うんですが。
その後姿を今見ても、本当に姉貴の事が可愛かった親父にしては残念だったんだろうな、と思います。
それからずっと、先ほど姉が言ったように私のうちの中では姉のことを言うと、お袋がすぐ泣いてしまうので、話をすることが出来なくて。
親父はそうでもなかったんですけども、その親父にしてもるみ子のことを積極的にしゃべる事も無く
て。

で、1997年3月に突然、私その当時東京に住んでおりましたけども、親父から電話がかかってきて「明日東京に行く」と。
「何で来るんだ?」と聞いたら「明日、家族会を結成する」と言って。
「なんでもっと早く言わんとね」言ってましたけど。
私もそれまで19年間、姉の為に何にもしてこなかったという負い目がありましたので、家族会結成を是非やらなければならないと言う事で、その会に馳せ参じました。

それから救出運動が始まって、親父は良く私に言ってました、「すまんね」
自分が鹿児島にいて、晩年体が弱くなって東京に出て来られなくて、国民大集会も第1回目第2回目くらいまでは元気な声で張り上げてたんですけども、それ以降ちょっと足腰が弱くなって、ちょっと出て行けなくなったもんで、私と姉が大集会に出かけていました。
その時によく電話をした時にも良く「すまんね」と。
私は姉の為に、るみ姉のために自分はやると思ってるんで、別に親父に礼を言われるためにやってる訳じゃないんで、それで何にも言わなかったんですけど。
親父としては自分が救出運動が出来ない身体になっていると言う、その思いがあって、私にお礼を言ってたんじゃないかと思います。
多分、長女のフミ子にもそうやってお礼を言ってると思います。
うちのお袋もたまにこの頃お礼を言ってるんですが。
あんまりお礼を言われると後が無いのかな?と(笑い声)心配してるんですけども。
なるべく早く取り戻さなければいけない、と思っています。

2002年9月17日、まぁ、ああいう発表があったんですけども。
皆さん、これです。(ハングルが書かれたA4版の白い紙を二枚掲げる。)
北朝鮮の赤十字が日本の赤十字に送ってきた、死亡と生存の紙2枚だけです。
これもおそらく北朝鮮で日本の外務省の人に渡された物と同じ物だと思う。
この2枚だけで「5人生存・8人死亡・2人未入国」ということを知らせられた外務省は、我々に断定的に「死んでる」なんて言ったんです。

この二枚。
何の調査もしない。
我々は一瞬信じかけてしまいました。
2日間は本当に私は、道を歩いていても涙が出てしまいました。
なぜなら、弱虫だった姉の事を思いまして、その姉があんな北朝鮮に無理やり連れて行かれて、どんなに悲しい思いをして、どんなに辛い思い・怖い思いをして死んでいったんだろうと思うと、可哀想で仕方が無い。
その時は力が無かったんですけども。

外務省の、まぁ蓮池さんや横田さんたちが根本公使というロンドン公使を捕まえて「確認したのか?」と聞いたら「確認してない」と。
それから、私たちは怒りに変わっていきました。
「なんだそれは?あんだけ断定的に言ったのに。確認の上にも確認をしてお知らせすると言ったのに、全く確認をしないで死亡と言ったのか?」
それから戦う気力が湧いてきました。
もう本当にその2日間は何もする気がなくて、鹿児島へ帰って親父の顔見て何も言えなかったです。
親父は、さっき言ったみたいに「るみ子は死んどらん」と言っておりましたが。
やっぱり私は気力が萎えておりましたが。
その根本公使を捕まえて確認をしていないと言う事で、もう一度戦う気力を取り戻しました。

で、その9月18日に鹿児島に帰ってきた時は、親父はマスクまでは行ってないんです。
まだビニールのパイプみたいのを鼻につけていたんです。
あちらにいらしゃっる木村さん達が、姉の中学校の同級生なんですけども、木村さん達が親父を見舞ったのは9月の初めでしたっけ?(演台の横に座っている木村さんたちの方を見る)
9・17のちょっと前で、その時は器具も何にも着けないで、ベットに座った親父と木村さんたちとお袋が元気に写ってる写真があった。
それが一週間か10日くらい経ったら(器具を)つけてた。
それを見て私もちょっとびっくりしたんですけど。
先生の話を聞くと確かに老人性の肺がんですから、「いつまで持ちますか?」と聞いたら「半年でしょう」というから次の正月までは持つかな?と思ってたんです。
ところが、10月になって厳しいと言う事を聞きまして、急遽10月の8日に帰ることになりました。

2002年の10月7日になってブルーリボン運動が始まったんです。
で、その7日のブルーリボン運動が地方議会の会・東京の会の集会があって、その場で発表されたんですが。
その次の日に私は鹿児島へ帰ったので、早速これはブルーリボン運動、その時はブルーのものだったら何でも身に着けようという事でそういう思いで。
これとか(右手首に着けた幅1センチほどのひも状のブレスレットのような物を指差す)それで(テニスの時に手首につける)汗取り、あれなんて言うんでしたっけ?
何とかバンド、(会場より「リストバンド」の声)リストバンドでしたっけ?
リストバンドを買って親父にすると血が通わなくなって、弱いやつなんですけど、それでも手が腫れてしまいました。
それでこちらの方を買って(ひも状のブレスレットのような物)を親父に着けて私も着けて、それ以来離れられないんですけど。

とにかくなぜこれを着けたかというと、10月に帰った時の親父の姿を見て非常に弱ったんです。
9月の半ばに見た、そして後半年と言ってたその気持ちからすると最初に見た親父の姿が、10月の8日に帰った時の姿もうマスクをつけてて、皆さん(ビデオを)ご覧になったと思うんですけど、あれに近い弱りようだったのでもうびっくりしまして。
もう一度気力を持たせなきゃと、だから親父にブルーリボン運動、これはるみ姉を救出するためのシンボルだからと言って、これを着けさせたんですけど。
それでもやはり一回消えた気力は、もう直らなかったんでしょうね。

あのビデオも実は親父の気力を呼び戻そうと、私が親父に向って「るみ子に呼びかけろ!」って言ったんです。
そうすればもう一度気力を取り戻して、もう一回持ち直すかな?と思ったんですが。
ビデオ向けたら、姉に対する「頑張れ」と言う呼びかけだけじゃなくて、「帰って来い」と言うだけじゃなくて「もうオレはこういう状態だから迎えに行けん」という、弱気な言葉を言い始めたのですぐ止めました。
それが結局、なんというか、最後の姿になったんですけれども。

あの姿で一番最後、姉が聞いた遺言みたいな「結婚を許す」。
その前だと私は思うんですけども、私が一人でいた時に、突然うわ言のようにさっきの「修一君とるみ子が一緒にいる」というような事も言ってたんですけども、同じような事、日本刀がなんとかかんとかというような事を言ってました。
「日本刀は魔剣で、美しい」というようなことも「日本は強い」と言うようなことも言い始めまして。
「俺は日本を信じる」そして私にも「お前も日本を信じろ」と。
それまでの親父がそんなことを言うなんて、全く考えていなかったので私にはちょっと分からなかった。
ただ目は私のほうを向いておりましたけども、果たしてそれが私に言ったのか、それとも幻影みたいな姉に対して言ったのかは、今でもちょっと分かりません。
でも「日本を信じろ、日本が助けてくれる」それを私は姉に言いたかった、のではないか?と思っています。

今、小泉さんも先日の・・・昨日もそうですけど、小泉さんは実務者協議から帰ってきて「努力の跡がうかがえる」・・・冗談じゃないと。(笑い声)
あれを聞いて非常に小泉さんではだめだ。
まぁ、5月22日の段階で言ってしまいましたけども、あれを聞いてもうだめなんだなぁと、そういう思いでいました。
ましてや、昨日、めぐみちゃんの遺骨が別人であると分かっても 小泉さんは「対話はまだまだ続けなきゃいけない」と。

ひとつ腹が立ったのは、「被害者家族のためにも・・・」(うんうんと、うなずく気配)
私たちはそこで私たちの名前を使って欲しくなかったです。
我々が望んでいるのは経済制裁してでも国家として国民を助けるその意思を見せろと言ってるのに、「被害者家族の為にも交渉の窓口は空けておかなければいけない」
私たちは経済制裁をして、交渉の窓口がとざしても別に構いません。
(このあたりから声のトーンが少し上がる)この日本の姿勢が被害者を全員、一番早く取り戻す道だと信じているからです。

なぜなら2002年の9月17日、あれだってアメリカの圧力があったから、小泉訪朝を金正日が受け入れたんです。
圧力がなければ本当の事を言わない国なんです。
本当にそれまで食糧支援なんかやってて、でっち上げだでっち上げだと言い続け、5年半たってアメリカの圧力があってようやく認める結果になった。
今、死んだと言われている人間を生き返らせるためには、もっと大きなエネルギーが要るし、もっと強い圧力がいります。
ですから死んだと言われている人間だからこそ、日本が圧力をかけて向こうに白状させる。
日本が追求して白状させていくと言う姿勢を見せていかなければならないと思っています。

みなさん、やっぱり怖いと思います。
でもあの国を怖がっていたら、私たちはこのままずっとあの国を怖がって貢いでいかなければならない。
末代までずっと貢いでいかなければならない。
中国に貢いでいかなければならない。
こんな国だったら、アメリカの52番目の州になれば良いんです。

私たちは、姉は日本が嫌いになりそうだと言ってますが、私は日本は好きです。
海外から見た日本と言うのはすごく美しいですし、天皇家の行事を見ても日本の文化と言うのは素晴らしいものがある。
私はそう思ってますし、その文化を守らなきゃいけないし、この日本と言う国を守らなきゃならないと思ってますので、中国の属国にもなりたくありませんし、アメリカの52番目の州になりたくもない。
日本と言う国は日本で守らなければならない。
自由と平和は授かるものではない。
自分たちで勝ち取っていかなければならないものだ。(大きな拍手)
ぜひ皆さんも周りの人にそういうふうに言いながら、経済制裁この発動、これに対して大きな声を上げていって下さい。

後ほどご案内しますが、○○さんという女性がネットでブルーのハガキ運動というのをやっておられます。(ハガキの束を掲げて見せる)
後ほどご案内いたします。
今日はありがとうございました。
(大きな拍手)
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