増元るみ子さんを救うぞ東京集会(5)
3.同級生からのエピソード
松元みどりさん(るみ子さんの中学・高校時代の同級生) のお話
(司会者の「るみ子さんの同窓生が鹿児島から駆けつけています」の声を受けて)
私は千葉に住んでおります。
私も最初は小泉さん好きでしたが、だんだん嫌いになりそうです。(拍手)
え~っと、ちょっと読みます。(用意したメモを取り出す)
あがってしまうんで・・・
私はるみ子さんと中学・高校が一緒で、仲良しグループでした。
大きな目が印象的な誠実な女性です。
もう、35年も前のことなのでエピソードなど思い出せませんが、表情やしぐさははっきり覚えています。
ここにしわを寄せて(指で眉間を指差す)はにかむように笑うんですね。
それとか卓球してる時の、切れの良い動きなんかを良く思い出すんですが。
私もいなくなって吹上浜でローラー作戦している時にたまたま行って、「何事が起こったのか?」と思って、夕方のニュースでるみ子さんがいなくなったことを・・・偶然にもその場面を見たんです。
私の中でもそのときからが、ある戦いが始まったような気がして。
まぁ、それからは北朝鮮に拉致された事が分かるまでは何回も同じ夢を見たり。
時としてそうやって思い出しては来たんですが、やはり、絶対諦めてはいけないし、忘れてもいけないので。
なんていうか、皆さんにやっぱりずっとずっと応援してもらって、盛り上げてもらって、空港にお迎えに行くということを頭に浮かべながら、今ずっとひとりでも頑張ろうと思っております。
あと、るみ子さんのお母さんが「心から笑った事がない」という事を聞いた時に、これは絶対に会わせて上げなくちゃいけないな、とそう思いました。
どうぞ、皆さん力を貸してください。
宜しくお願いします(拍手)
<木村宏次郎さん(るみ子さんの同級生)のお話 /b>
こんばんは、皆さん。
今日はお急がしい中をありがとうございます。
今日は裏方としてきたつもりなんですが、代表でみどりさんがですね。
お話しするちゅう事で安心したんですが、急にしゃべってくれと言う事で(笑い声)飛び飛びになりますけども、宜しくお願いします。(拍手)
そもそも増元家の方とはですね、お父さんを先に知っててですね。
まず鹿児島市内の国道沿いの八百屋さんにですね。
営林署に勤めてらっしゃったもんですから、賄いの野菜を買いに行くとかですね。
そしてまぁ、電車道を挟んで向かい側が私の家でしてね。
それが、その威勢の良い親父さんでですね。
まぁ家族が怖がっていたと言うかそのくらい、一瞬私は「どこかのやくざかな?」と(笑い声)思ってですね。
自分では側に付きたくない位。
だけど歩道を通る方々へ皆さん笑顔で挨拶してるから、「この人は絶対やくざでは無いな」と思って見てたんですけど。
それで北朝鮮に拉致されて、吹上浜の報道のなされてですね。
「あら?この親父は、るみ子さんの親父さんやったとか?」と言うくらいびっくりしてですね。
何かしないといかんなぁ、ちゅう事でですね。
当初は北朝鮮に拉致されたと言うのが分かんなかったもんですから。
るみ子さんがああして駆け落ちするような女性では無いんです。
とっても優しいですね。
皆に好かれる女性です。
その後、ちょいちょい同窓会を私なんかを良くしてたもんですから、もっと早く力になれたら良かったんですけども。
ここ5~6年ですかね。
募金も少し、1万2万と皆から集めてですね。
初めて実家の方へ持っていったら、ものすごくお父さんが喜ばれてですね。
「やっと清水中のクラスの同級生が動き出してくれやった」と言ってですね、喜んでくださいましてですね。
同窓会をやるたび、募金を持っていきまして「活動に使ってください」と、そのように動いてまして。
それといなくなる前、病院にですね。
また同窓会があったもんだから、実家の方にお電話したらなかなか電話出ないもんですから。
夜遅く電話したらお母様がでてらして 「ちょっと、他の人には入院している事黙っていてくれ」と言うんで。
私は「クラスメートだけは見舞いに行ってもいいでしょうか?」ちゅう事で許可を貰ってですね。
入院して10日目くらいだったですかね。
女性3人男性2人でですね、病院に行きまして。
「多分、検査入院だろうな?」と思いきやったんですね。
個室を借りてらっしゃって、ベッドに横たわってステテコ一枚でお昼寝してらっしゃって、お母様はソファで寝てらっしゃって。
「こうしてまた募金が集まったから、家族の為に使ってください」と持って行きました。
最後までちょっと悲しいと言うか。
るみ子さんのお母さんと言う人はですね、本当こう、あんまし表情をですね。
あんまり笑ったりとかなさらない方なんですけども、最初は機嫌が悪そうな顔してらっしゃってですね。
最後にですね、お父様にお母様が「ほら、るみ子が3人来たよ」とですね、励ますんですね。
そしてお母様が3人に向って「ありがとうね」というてですね、泣かれましてですね。
とっても、その時私辛かったです。
それからすぐ、悪くなられてですね。
まさか?って言うくらい・・・危ない・・・すぐ亡くなってしまわれて。
るみ子さんとはクラスが一緒で、みどりさんともクラスが一緒で、クラスメートであったもんですから。
私の横にるみ子さんがいらっしゃっいましてですね。
常にこう、でしゃばりでもない、勉強も出来てらっしゃっいましたからね。
私なんか後ろから数えた方が早かったんですけども、勉強も良くしてらっしゃった。
卓球をですね、頑張ってらっしゃって。
照明君がサッカーが好きで、私がサッカー部にいたもんですから「いつも邪魔しに来る」と言ってですね、るみ子さんに言っとったんですね。
「邪魔しに来て迷惑だ」と冗談ぽく言ってたんですね。
私が可愛がっていた照明君なもんだから、「宜しくお願いします」て言うような事でですね。
たまに給食を貰ったりですね。(笑い声)
今思えば「照明君を宜しく」ということだったんじゃないかな?と思ってですね。
餌で釣られたかな?と。(笑い声)
るみ子さんとはわりに仲良くしてました。
私たちは今回、当初中学の3年6組の救う会を作りまして。
その後、今度は去年中学校同級生がですね、35年ぶりの同窓会をしましてですね。
全国から100人くらい集まって。
その時私が実行委員長をしまして、私としては、るみ子さんの事がまた忘れつつあるんじゃないかな?始まる前に皆にお断りしてですね。
今日は始まる前に増元るみ子さんの講演をしていただくということでお姉さん・照明君をお呼びしてですね。
皆に協力して欲しいとお願いしまして。
それからだんだんと鹿児島の方も盛り上がってきまして。
今年の10月はですね、小学校・中学校・高校の市川修一さんも一緒にですね。
うちの学校も、一本化の救う会を作ろうちゅう事で。
そもそも私たち清水中がですね、ものすごく人数が多いもんですからね。
修一さんの所は地方になるもんですから、人が皆さん就職して地元に残ってらっしゃらないんですよね。
それでいっつも私たちがメインでいろいろ活動してまして、まぁ、一緒には活動してましたけど。
一緒に拉致されているのに同じあれを作ってあげなきゃいかんなぁ、ちゅうことで、私が高校の方とか、修一さんの方にも話をしてですね。
なるべく一本化にして、家族と一心同体となってですね。
なかなか問題が解決しないもんですから、一本化にして活動するちゅう事が決まりまして。
その時は、市川さんご夫婦が喜ばれてですね。
自分たちは人数が少ないから、こちらは活動してくれる人が少ないと。
だけど「皆で一心同体にやってくれれば本当に嬉しいと」発会式でおっしゃってくださって。
これからも一生懸命頑張っていきますけども。
まだしばらくは続くと思いますけど、未帰還者を奪還するまで、宜しくお願いします。
假屋達郎(たつろう)さん(るみ子さんの小学校・中学校同級生)のお話
どうも、皆様はじめまして。
小学校と中学校が同級生ということで、中学校の方で活動していましたけども。
小学校の方が100年以上の歴史があるという事で、関心を持つより行動してもらわないといけないという事で、小学校の方も立ち上げました。
小学校はですね、昭和35年に入学です。
1960年ですね。
まだ、日本が貧乏・貧乏してる頃です。
私たちが最後の日本の貧しいのを知ってるんじゃないかなぁ?と、いうような環境で育ちました。
西郷さんの墓のすぐ近くに、大龍小学校がありました。
西郷さんもそこで学んだと言うことを、先生から西郷さんの幼い頃の話を良く聞かされて、「西郷さんも貧しかったんだよ、皆頑張れよ」と言うような教育を増元さんも受けたんじゃないかなぁと思います。
いろんなエピソードをと思って、クラスの人に同じ学年の人にいろいろ聞いて回ったんですけど、もう何十年も経っているもんですから、文集とか写真がなかなか見つからないで。
やっと見つかりまして、入学式のを引き伸ばして来てありますけども。(大きく伸ばしたモノクロの集合写真を掲げる)
まぁみんな和服ですよね、昭和35年の入学式ですから。
お母さんがいらっしゃらないちゅう事で、昨日お母さんにもお見せしたんですけど、鹿児島で。
お父さんが入学式に来られてるという事です。
こちらの方に、2年の時ですね。(もう一枚の集合写真を掲げる)
一クラス50人くらいいる、大龍小学校はマンモス学校で8クラスですから、400名一学年にいる。
全体では2千人から3千人いると言う学校でした。
まだ脱脂粉乳で給食を(小さな笑い声)ね、ああいう給食を、牛乳じゃなくて。
何故日本の貧しいのを知ってるのか?と言いますと、タダの本を貰った事が無いのが私なんかの年代なんです。
5年生になると4年生まで、6年生になると5年生までという時代ですね。
彼女も拉致という形になりましたけども、やはり気丈にですね。
厳しい中でも生きられる体力を持ってるんじゃないなかぁ、と私自身こう思いましてですね。
なんかそれをちょっとお話しした方がいいかなぁ、と。
今の昭和30年から産まれた後の子供たちとはまた違う、ちょっと教育を受けた子供で。
今、北朝鮮に拉致されてますけども、気丈に生きているんだと言う気持ちを自分は持ちます。
あともう一枚6年生の時のがあります。(別の写真を掲げる)
これが多賀山と言いまして桜島が見えまして、東郷平八郎の銅像があるんです。
そこへ遠足に行くんですね。
歩いて遠足に行くと、城山か、城山はあの西郷さんが切腹した所があります。
それの上に山があります。
そこに遠足にいく。
東郷平八郎の多賀山へ遠足へ行く。
そこで卒業の記念写真を撮ったのが、この写真です。
貴重な文集などもですね。
やっとかっと見つかったのでちょっと読み上げます。
将来何になりたいか?という事ですね。
昨日私は始めて実家の方にお邪魔したんですけども、琴がありましたですね。
それで「琴の先生になりたい」、て書いてあります。
お母さんがされていたので、「ああ、琴の先生になりたいんだなぁ」と、そういう気持ちです。
文集で文をいろいろ書くんですけども。
私たちの卒業する頃も、面白い人間の方が人気があるんですよね。
それはどう言う事かと言うと、こう書く人もいましたね。
「僕は大きな会社の平社員になりたい」(大きな笑い声)
こういう風に書くと「あぁすごいなぁ」、と「あぁいい文集だなぁ」と子供心に思ったんです。
それを頭において聞いてください。
「池之上町58 増元るみ子 私の夢は世界で有名なロケットに乗って、宇宙に行って、帰りに宇宙のタコを日本に連れて来たい」(笑い声)
こういう風に書いてありますね。
やっぱりこういう風にユーモラスのある、主張するところは主張して、気丈のある、増元るみ子さんでした。
北朝鮮でもこの過酷な中で、絶対絶対生きているという確信をしております。
皆様どうかご支援ください。(大きな拍手)
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松元みどりさん(るみ子さんの中学・高校時代の同級生) のお話
(司会者の「るみ子さんの同窓生が鹿児島から駆けつけています」の声を受けて)
私は千葉に住んでおります。
私も最初は小泉さん好きでしたが、だんだん嫌いになりそうです。(拍手)
え~っと、ちょっと読みます。(用意したメモを取り出す)
あがってしまうんで・・・
私はるみ子さんと中学・高校が一緒で、仲良しグループでした。
大きな目が印象的な誠実な女性です。
もう、35年も前のことなのでエピソードなど思い出せませんが、表情やしぐさははっきり覚えています。
ここにしわを寄せて(指で眉間を指差す)はにかむように笑うんですね。
それとか卓球してる時の、切れの良い動きなんかを良く思い出すんですが。
私もいなくなって吹上浜でローラー作戦している時にたまたま行って、「何事が起こったのか?」と思って、夕方のニュースでるみ子さんがいなくなったことを・・・偶然にもその場面を見たんです。
私の中でもそのときからが、ある戦いが始まったような気がして。
まぁ、それからは北朝鮮に拉致された事が分かるまでは何回も同じ夢を見たり。
時としてそうやって思い出しては来たんですが、やはり、絶対諦めてはいけないし、忘れてもいけないので。
なんていうか、皆さんにやっぱりずっとずっと応援してもらって、盛り上げてもらって、空港にお迎えに行くということを頭に浮かべながら、今ずっとひとりでも頑張ろうと思っております。
あと、るみ子さんのお母さんが「心から笑った事がない」という事を聞いた時に、これは絶対に会わせて上げなくちゃいけないな、とそう思いました。
どうぞ、皆さん力を貸してください。
宜しくお願いします(拍手)
<木村宏次郎さん(るみ子さんの同級生)のお話 /b>
こんばんは、皆さん。
今日はお急がしい中をありがとうございます。
今日は裏方としてきたつもりなんですが、代表でみどりさんがですね。
お話しするちゅう事で安心したんですが、急にしゃべってくれと言う事で(笑い声)飛び飛びになりますけども、宜しくお願いします。(拍手)
そもそも増元家の方とはですね、お父さんを先に知っててですね。
まず鹿児島市内の国道沿いの八百屋さんにですね。
営林署に勤めてらっしゃったもんですから、賄いの野菜を買いに行くとかですね。
そしてまぁ、電車道を挟んで向かい側が私の家でしてね。
それが、その威勢の良い親父さんでですね。
まぁ家族が怖がっていたと言うかそのくらい、一瞬私は「どこかのやくざかな?」と(笑い声)思ってですね。
自分では側に付きたくない位。
だけど歩道を通る方々へ皆さん笑顔で挨拶してるから、「この人は絶対やくざでは無いな」と思って見てたんですけど。
それで北朝鮮に拉致されて、吹上浜の報道のなされてですね。
「あら?この親父は、るみ子さんの親父さんやったとか?」と言うくらいびっくりしてですね。
何かしないといかんなぁ、ちゅう事でですね。
当初は北朝鮮に拉致されたと言うのが分かんなかったもんですから。
るみ子さんがああして駆け落ちするような女性では無いんです。
とっても優しいですね。
皆に好かれる女性です。
その後、ちょいちょい同窓会を私なんかを良くしてたもんですから、もっと早く力になれたら良かったんですけども。
ここ5~6年ですかね。
募金も少し、1万2万と皆から集めてですね。
初めて実家の方へ持っていったら、ものすごくお父さんが喜ばれてですね。
「やっと清水中のクラスの同級生が動き出してくれやった」と言ってですね、喜んでくださいましてですね。
同窓会をやるたび、募金を持っていきまして「活動に使ってください」と、そのように動いてまして。
それといなくなる前、病院にですね。
また同窓会があったもんだから、実家の方にお電話したらなかなか電話出ないもんですから。
夜遅く電話したらお母様がでてらして 「ちょっと、他の人には入院している事黙っていてくれ」と言うんで。
私は「クラスメートだけは見舞いに行ってもいいでしょうか?」ちゅう事で許可を貰ってですね。
入院して10日目くらいだったですかね。
女性3人男性2人でですね、病院に行きまして。
「多分、検査入院だろうな?」と思いきやったんですね。
個室を借りてらっしゃって、ベッドに横たわってステテコ一枚でお昼寝してらっしゃって、お母様はソファで寝てらっしゃって。
「こうしてまた募金が集まったから、家族の為に使ってください」と持って行きました。
最後までちょっと悲しいと言うか。
るみ子さんのお母さんと言う人はですね、本当こう、あんまし表情をですね。
あんまり笑ったりとかなさらない方なんですけども、最初は機嫌が悪そうな顔してらっしゃってですね。
最後にですね、お父様にお母様が「ほら、るみ子が3人来たよ」とですね、励ますんですね。
そしてお母様が3人に向って「ありがとうね」というてですね、泣かれましてですね。
とっても、その時私辛かったです。
それからすぐ、悪くなられてですね。
まさか?って言うくらい・・・危ない・・・すぐ亡くなってしまわれて。
るみ子さんとはクラスが一緒で、みどりさんともクラスが一緒で、クラスメートであったもんですから。
私の横にるみ子さんがいらっしゃっいましてですね。
常にこう、でしゃばりでもない、勉強も出来てらっしゃっいましたからね。
私なんか後ろから数えた方が早かったんですけども、勉強も良くしてらっしゃった。
卓球をですね、頑張ってらっしゃって。
照明君がサッカーが好きで、私がサッカー部にいたもんですから「いつも邪魔しに来る」と言ってですね、るみ子さんに言っとったんですね。
「邪魔しに来て迷惑だ」と冗談ぽく言ってたんですね。
私が可愛がっていた照明君なもんだから、「宜しくお願いします」て言うような事でですね。
たまに給食を貰ったりですね。(笑い声)
今思えば「照明君を宜しく」ということだったんじゃないかな?と思ってですね。
餌で釣られたかな?と。(笑い声)
るみ子さんとはわりに仲良くしてました。
私たちは今回、当初中学の3年6組の救う会を作りまして。
その後、今度は去年中学校同級生がですね、35年ぶりの同窓会をしましてですね。
全国から100人くらい集まって。
その時私が実行委員長をしまして、私としては、るみ子さんの事がまた忘れつつあるんじゃないかな?始まる前に皆にお断りしてですね。
今日は始まる前に増元るみ子さんの講演をしていただくということでお姉さん・照明君をお呼びしてですね。
皆に協力して欲しいとお願いしまして。
それからだんだんと鹿児島の方も盛り上がってきまして。
今年の10月はですね、小学校・中学校・高校の市川修一さんも一緒にですね。
うちの学校も、一本化の救う会を作ろうちゅう事で。
そもそも私たち清水中がですね、ものすごく人数が多いもんですからね。
修一さんの所は地方になるもんですから、人が皆さん就職して地元に残ってらっしゃらないんですよね。
それでいっつも私たちがメインでいろいろ活動してまして、まぁ、一緒には活動してましたけど。
一緒に拉致されているのに同じあれを作ってあげなきゃいかんなぁ、ちゅうことで、私が高校の方とか、修一さんの方にも話をしてですね。
なるべく一本化にして、家族と一心同体となってですね。
なかなか問題が解決しないもんですから、一本化にして活動するちゅう事が決まりまして。
その時は、市川さんご夫婦が喜ばれてですね。
自分たちは人数が少ないから、こちらは活動してくれる人が少ないと。
だけど「皆で一心同体にやってくれれば本当に嬉しいと」発会式でおっしゃってくださって。
これからも一生懸命頑張っていきますけども。
まだしばらくは続くと思いますけど、未帰還者を奪還するまで、宜しくお願いします。
假屋達郎(たつろう)さん(るみ子さんの小学校・中学校同級生)のお話
どうも、皆様はじめまして。
小学校と中学校が同級生ということで、中学校の方で活動していましたけども。
小学校の方が100年以上の歴史があるという事で、関心を持つより行動してもらわないといけないという事で、小学校の方も立ち上げました。
小学校はですね、昭和35年に入学です。
1960年ですね。
まだ、日本が貧乏・貧乏してる頃です。
私たちが最後の日本の貧しいのを知ってるんじゃないかなぁ?と、いうような環境で育ちました。
西郷さんの墓のすぐ近くに、大龍小学校がありました。
西郷さんもそこで学んだと言うことを、先生から西郷さんの幼い頃の話を良く聞かされて、「西郷さんも貧しかったんだよ、皆頑張れよ」と言うような教育を増元さんも受けたんじゃないかなぁと思います。
いろんなエピソードをと思って、クラスの人に同じ学年の人にいろいろ聞いて回ったんですけど、もう何十年も経っているもんですから、文集とか写真がなかなか見つからないで。
やっと見つかりまして、入学式のを引き伸ばして来てありますけども。(大きく伸ばしたモノクロの集合写真を掲げる)
まぁみんな和服ですよね、昭和35年の入学式ですから。
お母さんがいらっしゃらないちゅう事で、昨日お母さんにもお見せしたんですけど、鹿児島で。
お父さんが入学式に来られてるという事です。
こちらの方に、2年の時ですね。(もう一枚の集合写真を掲げる)
一クラス50人くらいいる、大龍小学校はマンモス学校で8クラスですから、400名一学年にいる。
全体では2千人から3千人いると言う学校でした。
まだ脱脂粉乳で給食を(小さな笑い声)ね、ああいう給食を、牛乳じゃなくて。
何故日本の貧しいのを知ってるのか?と言いますと、タダの本を貰った事が無いのが私なんかの年代なんです。
5年生になると4年生まで、6年生になると5年生までという時代ですね。
彼女も拉致という形になりましたけども、やはり気丈にですね。
厳しい中でも生きられる体力を持ってるんじゃないなかぁ、と私自身こう思いましてですね。
なんかそれをちょっとお話しした方がいいかなぁ、と。
今の昭和30年から産まれた後の子供たちとはまた違う、ちょっと教育を受けた子供で。
今、北朝鮮に拉致されてますけども、気丈に生きているんだと言う気持ちを自分は持ちます。
あともう一枚6年生の時のがあります。(別の写真を掲げる)
これが多賀山と言いまして桜島が見えまして、東郷平八郎の銅像があるんです。
そこへ遠足に行くんですね。
歩いて遠足に行くと、城山か、城山はあの西郷さんが切腹した所があります。
それの上に山があります。
そこに遠足にいく。
東郷平八郎の多賀山へ遠足へ行く。
そこで卒業の記念写真を撮ったのが、この写真です。
貴重な文集などもですね。
やっとかっと見つかったのでちょっと読み上げます。
将来何になりたいか?という事ですね。
昨日私は始めて実家の方にお邪魔したんですけども、琴がありましたですね。
それで「琴の先生になりたい」、て書いてあります。
お母さんがされていたので、「ああ、琴の先生になりたいんだなぁ」と、そういう気持ちです。
文集で文をいろいろ書くんですけども。
私たちの卒業する頃も、面白い人間の方が人気があるんですよね。
それはどう言う事かと言うと、こう書く人もいましたね。
「僕は大きな会社の平社員になりたい」(大きな笑い声)
こういう風に書くと「あぁすごいなぁ」、と「あぁいい文集だなぁ」と子供心に思ったんです。
それを頭において聞いてください。
「池之上町58 増元るみ子 私の夢は世界で有名なロケットに乗って、宇宙に行って、帰りに宇宙のタコを日本に連れて来たい」(笑い声)
こういう風に書いてありますね。
やっぱりこういう風にユーモラスのある、主張するところは主張して、気丈のある、増元るみ子さんでした。
北朝鮮でもこの過酷な中で、絶対絶対生きているという確信をしております。
皆様どうかご支援ください。(大きな拍手)
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