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2004年12月 9日 (木)

増元るみ子さんを救うぞ東京集会(3)

 2.増元照明さんのお話 1

こんばんは。
(立ち見の人に向って)こちらの方、まだ空席があるので、こちらの方入ってください。
(司会より「空間があります」の声)空間がある。(笑い声)
(司会者の声で「ちょっと、どうぞよろしかったら、前へ座ってください」)

あの~今日は家族会事務局次長ではなくて、増元るみ子の弟として話をしてくださいと言う事で、鹿児島弁でしゃべろうかと思ってるんですけど。(笑い声)
姉が少し泣かしたんで、少し笑わせなきゃ。(小さな笑い声)
私が第一回の国民大集会で「るみ姉」と言う名前を言ったんです。
それが1998年だったんですけども。
そしたら、去年あたりからるみ姉のるみ姉が出始めて、私、商標登録しとけばよかったかなぁ?と(笑い声)思ってます。

私の姉をるみ姉と言い始めたのは、何時頃だったか?ちょっと私も覚えてないです。
小さい時には一番上(ここに)フミ子がおりますけども、フミ子の事を「姉ちゃん」と言ってました。
長男を「信ちゃん」と言ってました。
その次のるみ子は「るみ子姉ちゃん」と言ってたんですね。
小さい時、小学校の位まではそういう呼び方をしたと思うんですけども。

中学校になって、この中学校の写真なんですけどもね。(中学時代の集合写真を一枚掲げる)
姉が中学校3年生、私か中学校1年生で。
中学校入って、私は野球部かサッカー部に入ろうと思ったんですけども、姉貴が「卓球部に入れ」と言われて、素直な弟だったもんですから(会場、くすくす笑い)、そのまま卓球部に入りました。
この真ん中にいるのがキャプテンだと思う、その隣にいるのが副キャプテンの姉、これ卒業アルバムの中の物です。
この一番端にいるのが私なんですが、なんか猿みたいな顔して(笑い声)

私、中学校一年まで本当に小さかったんですね。
確か私の記憶では、129か130です、中学校一年のとき。
ホントに小さくて、姉はさっきフミ子が言ったように大きい姉でしたので、非常にカッコ良くて。
サウスポーなんですけど、サウスポーで卓球やると凄いカッコいいですよ。
あの~、惚れ惚れしますけども。
ただ、男女一緒に練習した事はなくて、姉と卓球をしたという覚えは無いんです。
とにかくそれぐらい近い存在ではありました。

一番上が私より5つ上なんですけど、長女がいて長男がいて、るみ姉がいて、私。
丁度女男女男、学年も丁度一年おきくらいになってるわけですね。
よく産み分けたな、と私思ってるんですけども。
母は身体が弱く、結婚前は子供は産めないというような診断を受けたようです。
だから、昔の医療はあまりたいした事なかったんでしょう。
結婚してみたら4人ポロポロと産まれて来たんですが。

小さいとき、我々家族は小さい家に暮らしておりました。
物心ついたときには4畳半に6人が寝る状態で、私は寝る時に押入れに寝ていたような気がするんですけども。
親父は屋久島と鹿児島を結ぶ船、これは連絡船じゃないですけども、屋久島から杉を運んでくる船に乗っておりました。
これは、営林署の持ち舟なんですが、だから一応公務員です。

その船に乗って行き来しておりましたので、一週間に半分ぐらいしかいないんです。
さっき姉が言ったように親父は凄い怖かったもんですから、帰ってくるのがきょうだい皆、嫌だったんです。
帰ってこないで欲しいくらい。(笑い声)
でも一週間に半分くらいは帰って来るので、帰ってきたときは皆じ~っとしていて、なるべく顔を見ないように(笑い声)逆らわないようにしてたんですけども。
それでもさっき言ったように、るみ子は結構なついていたようです。

これが中学校のときの姉の写真です。(一枚の写真を掲げる)
私もあんまりこの顔に覚えが無いんですけど。
このときにはすでにもうちょっと広い社宅に入りましたので、大分寝るときにも楽になりましたけども。先ほど言った様に、姉が中学の時、私まだ小学校6年くらいまでは、姉と一緒の布団で寝ていたと言う記憶です。
というか、一緒に寝ておりました。
それくらい小さいときからの習慣で、姉と寝るのが全然抵抗なかった。
中学の1年まではもしかしたら、寝てたかも知れない。
130センチですから、ホント可愛かったですから、私。(笑い声)

昔の子供は、今の子供よりもっと子供子供していて。
全くパソコンもありませんし、うちはそんなに贅沢も出来なかったですから、甘えて育ったと言う記憶を私は持ってません。
特にるみ姉には(歳が)近かったせいもあり、非常に甘えて育ちました。
先ほども言ったように私末っ子ですから、今でこそこうやって偉そうにしてますけども、本当は甘えん坊なんです。
ですからいつも姉に甘えて、ずっと大きくなってきました。

中学になって、姉と同じ卓球部になって、そして姉のカッコ良さを知りました。
背がすらっとして、サウスポーで卓球するるみ姉を見てると、あぁカッコいいなぁと思って。
「自分もこの道を精進しなきゃ、あそこくらいまで強うならないかんなぁ」と思って精進はしてたんですけども。
でも、その頃になるとそんなに一緒になって遊ぶ事も無い。
いくら甘えん坊とは言え、男友達も一杯できますし、野球とかもやっておりましたし、クラブもちゃんと行ってましたので、遊ぶ事無かったのでそんなに多くの接点は無かったんです。

ただ、姉の思い出としては、この頃ね、皆姉の友達は明るかったとか言ってるんですけど、僕は姉泣いてる姿しかあまり思い出さないんですね。
特に私が小さい時に、親父にしかられて投げられたんですね。
あの時なんでだろ?お客さんが来て、お客さんに出したお菓子を私がつまんだんですね。(笑い声)
そしたら親父がお客さんが帰ってから、怒りまして。
その時は3部屋くらいありましたから、奥の部屋に連れて行って、頭からボンと投げたんですよ。
それをかばってくれたのが(フミ子さんの方を見て)姉ちゃんだった?(笑い声)覚えてる?(フミ子さん、頭を振る)(笑い声)
じゃあ、じゃあ、るみ姉でしょう。(笑い声)
確か女性が私をかばってくれた事を覚えていますから。(笑い声)
その時に泣きながらかばうんです、私の事を。
私はもちろん小さいからビイビイ泣きながら、言い訳をしてたんですけども、泣きながら私の事をかばってくれました。

更に大きくなって高校のときかな?
よく覚えてるんですけども、これが高校の生徒手帳に載ってた写真を引き伸ばしたものです。(るみ子さんの制服姿の写真を掲げる)
確かに姉の顔ですが。(自分でも写真を見つめる)
高校の多分1年か2年の時だと思うんですが。
私の家は鹿児島市内とは言えちょっと外れの方でしたし、昔は街灯が無かったですからね。
だから、学校帰りがちょっと暗くなると、街灯が無いもんですから薄暮がちょっとすぎると暗いんです。
そこへ姉が帰ってくる途中に、バス停から自宅まで5~6分かかるんですが、そんなに人気のいないところでもないんですけども。

姉がうちに帰ってからもびぃびぃ泣いてるもんですから、「何で泣いてるんだ?」と言ったら、帰り道に暗がりの中で誰か、確か若い男だと言ったんだか、小さい男子生徒、私ちょっと記憶が無いんですが、スカートをまくられて怖くて逃げて帰ってきたと。
その話聞いて私すぐに表へ出ました。
その時私は高校生で、小さいとはいえ、少しは根性もありましたからね。
表へ出ましたが、その時はもう、犯人はおりませんでした。
で、びぃびぃすぐ泣くんです。
さっき、姉が暗がり怖がってたと言うのは、多分そのトラウマがあったんではないか?
だから姉は絶対暗いところには、あえて、修一さんと一緒でも暗がりには行こうとはしなかったはずなんです。
ですから、やはりどこか明るいところで、多少は明るいところで襲われたんだろうと、私は思っています。

高校を過ぎて、高校の頃までは本当に泣き虫だと私は思ってます。
うちの親父、厳格と言うのは(巨人の星の)星一徹を思い出すんですが、ああいう感じじゃないんです。
もっとそのなんて言うかな、もっとわがままで、酒飲みで、子供を良くしかって殴られたりしてたんですが。
一回親父が酒を飲んでお袋と喧嘩して暴れだして、私高校のときでしたけれども、やばいと思って親父羽交い絞めにしたんです。
羽交い絞めしたら親父がここに(自分の右腕を指し示す)噛み付きましてね。(大きな笑い声)
歯形がその時残ってしまって。
やばいと思って玄関から外へ出たら、姉がそこでまた泣いておりました。
ですから、高校までは姉の泣いてる姿が非常に印象に残っております。

高校卒業して就職し始めました。
で、それからじゃないかな?姉がちょっと変わってきたのは。
私昭和49年に高校卒業しまして、北海道の大学に行ったんですが、その同じ年に長男が信一って言うんですが、信一も就職で静岡へ出て行きました。
これは3月の半ばくらいだと思います。
で、同じ49年の4月になって私は大学の方へ出て行ったんですが。
ですから自宅にいた4人きょうだいのうち長男が消え私が消えていく。
同じ年だったので、お袋が非常にショックが大きかったのか、女親ってのはどちらかと言うと息子の方が可愛いみたいで、特に末っ子の私は可愛がられていましたので、私がうちを出る時はお袋が泣いて泣いてしようが無かったんですが。

その当時車を持ってたるみ姉が、私を空港まで送ってくれました。
その時には本当に、私の大学入学を非常に喜んでくれて。
その当時まだ昭和49年50年ですから、高卒の事務員の給料はたいした事無いと思うんですが。
給料の半分くらい、月給の半分くらいで時計を買って私に贈ってくれました。
今持って来れば良かったんですが、もうベルトがちぎれそうになって、これ以上触ると何時ちぎれるか分からない。
私、あの、ベルトがちぎれるとちょっと気持ちが落胆してしまって、願掛けみたいな物ですので、あまり触りたくないんですけども。
それくらい今、私も大事にしております。
本当に大学入試受かった時、非常に喜んでくれました。
時計をくれて、それほど喜んでくれたので、私大学行く時も寂しかった気持ちもありますけども、でも喜んで送り出してくれました。

で、私も大学行って、休みのたびに帰ってたんですが。
そのたびに、車の免許を持ってるのは、フミ子は持ってたんですがペーパードライバーで、ほとんど運転できなかった。
で、るみ姉は、ペーパードライバーじゃだめなんで、一人くらい運転できなきゃ。
親父は持ってなかったし、当然お袋も持ってなかったので、一人くらい免許持ってるのがいないといかん、ということで。
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