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2005年1月

2005年1月20日 (木)

結論ありきの取材はあり得るが、その結論のズレが問題なのだ

結論ありきの取材はあり得るが、その結論のズレが問題なのだ 2005年1月20日(木) 

 ペルー日本大使公邸事件の最中に検問を勝手にくぐり強行突入取材し現場を危険な状態に陥れたテレ朝H記者。人質を危険にさらす暴挙だと非難されると朝日側はNステ等で徹底して弁明し開き直った。

朝日コメント:「H記者の取材は記者個人の判断で行った行為、社は関係していない」
アンデス見解:大嘘である。他のクルーも乗ったテレ朝の車が彼を公邸横まで運んだのだ、実はそのテレ朝の車のすぐ後ろを私は走っていたのだよ。そして突入取材の夜、テレ朝取材チームが人質家族のいる日本食レストランで「Hよくやった」と祝杯をあげ大顰蹙を買ったことは、二年前の第1回投稿で述べたとおり。

朝日コメント:「マスコミとしては公邸内部の状況を国民に知らせる義務がある」
アンデス見解:H記者はほとんど何も情報を取れなかった、なにせ質問メモをオドオドと読み上げるだけなんだもん、人質は怒って無視するしテロリストもあきれていた。彼の行為は現場の緊張を高め混乱させただけ、クソの役にも立っていない、こういう意味のない報道は義務でも権利でもない。

朝日コメント:「彼の勇気ある行動がなぜ非難されるのかわからない」
アンデス見解:彼は勇気の無いただの気の小さい男である。公邸横の路上で立ち話をしていた我々に、おずおずと名刺を持って割り込み「あのう、次回の解放について何か情報はありませんか」と聞くので「そんなこと分かるわけ無いでしょう」と答えたら「まだ邸内に残っているオタクの関係者の人質のお名前は?」と言うので「そんなことを公前で聞くなよ、自分で調べなさい」と声を荒げたら暗い顔で去っていった(その時の名刺は記念に取ってある)。彼が強行取材をしたのはその二日後だ。気が弱く出来の悪い彼は朝日の鉄砲玉、「生け贄」にされたのだろうと我々は想像した。

取材ついでに彼は邸内にラジオ無線機を残していき、テレ朝はこの無線機でこっそり録音した人質の肉声テープを人質家族へ持ち込みコメントを取ろうとした。人の命がかかっている張りつめた現場を勝手に引っかき回すテレ朝に我々は激怒し記者クラブ出入り禁止にした(がこの措置について“報道の自由侵害”のクレームは来なかった、さすがに疚しさを感じたのだろう)

巨悪を暴くのも個人のプライバシーを侵害するのもマスコミの取材は一義的には自分の組織のための取材であり、効率的に記事を作るためには予め想定した筋書に沿って取材せざるを得ない(全くの白紙からの取材など無い)。どのマスコミも似たようなものだろうが、朝日の場合はその筋書きが現実とズレ過ぎているからボロが出やすいんだろう、誘導が過ぎるともはや機関誌であり、朝日流の筋書きが今の社会では通じにくくなってきたたということではないか。じっさい、このマスコミは拉致事件解決に関してはほとんど貢献していない。

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2005年1月15日 (土)

荒木和博氏講演2005/1/15(1)

2005年1月15日(土)
町田市民ホールで行われた集会の模様レポートします。
「拉致事件の全体像と私たちの安全」 

 特定失踪者問題調査会代表 荒木和博
 
 今日、本当に天気の悪い中多数の方お集まり頂き、本当にありがとうございます。
最初にお詫びと御礼を申し上げます。大西会長からお話しがありましたが、本来この講演会は安明進を中心とした講演会の予定でございました。安明進さんが緊急の用事で本人が出席できません。
安明進さんメッセージ
 町田の集会に参加された皆様へ

 本日は突然参加できなくなってしまい真に申し訳ありません。
ご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。
詳細はお知らせできませんが、拉致事件に被害者にも関係する重大な用件があり、どうしても日本にいることが出来ません。なにとぞご了承ください。

 さて、北朝鮮に対して日本の方々はあまりにも知らないと思います。
北朝鮮とはどんな国でしょうか?多くの方々は独裁国家であるというふうに言います。確かにその通りです。北朝鮮はまだ、社会主義を標榜する封建国家の状態でございます。どうか皆様、北朝鮮という国を正しく見て頂いて、金正日体制を支援することが無いように、また経済制裁を実現してくださいますように心よりお願いする次第です。

 日本の政府がやろうとしなくても、国民の皆様が立ち上がれば出来るはずです。
ここにおいでの皆様は日本が再び立ち上がることを求められて来られた方々だと思います。皆さんの安全を守り、拉致被害者を救出し、今、飢え、凍えて苦しんでいる私たちの同胞を助けるためにどうかご協力を頂きたくお願い申し上げます。重ねて集会に参加できなくなったことをお詫び申し上げます。
                                            2005年1月15日 安明進

 安明進氏の言葉の中にもありますように、正に今北朝鮮というのは、中世時代のような独裁国家でございますが、それを何とかしないことには、拉致問題も北朝鮮の人たちの人権問題も様々な北朝鮮に関わる問題は解決しません。

 抽象的な言い方ですが、彼はその根本的な問題の解決のために今、日本ではない別の国にいるということで、ごどうかご了承頂きたいと思います。ここで皆様方に彼がこれないと言うこと自体が救出活動の一環だと是非ご理解頂きたいと思います。

                      (選挙に関するお礼など・中略)

 さて、私がこれからお話しますのは、以前もお話しさせて頂いたことがございます。
今までのことは少しはしょりまして。これから今月来月と日本も北朝鮮も中国もアメリカも韓国もこれからいろんなことが急速に動くと思います。でその時どうするべきかという今後の話を中心にお話しさせて頂きたいというふうに思います。

 まず簡単に、これまでの経過を申し上げます。
家族会が出来ましたのは平成9年の3月の終わりでございまして、これは平成9年の2月に現在民主党におられます西村慎吾衆議院議員が国会で質問をした。これがきっかけとなりまして、大変大きな、拉致問題が、横田めぐみさんの事件を中心に取り上げられました。

 そしてそれまでこの拉致の問題を追ってこられました朝日放送の石高健二さんとか、あるいは当時共産党の参議院議員秘書だった兵本達吉さんとか産経新聞の現在編集局長の安倍雅美さんとか、そういう方がいろいろ協力してご家族に働きかけて家族会が出来たわけでございます。

 私はそれ以前、現代コリア研究所と言うところにおりましたので、そこで横田めぐみさんの事件が明らかになったと言うこともございまして、それ以降この救出運動に参加して参りました。

 新潟の救う会の代表の小島晴則さんをスタートにいたしまして、その後全国で救う会が出来て参りました。2000年に救う会の全国協議会の組織をきっちりさせようと言うことで事務局体制を取るようになりましてそれ以降私が事務局長ということで2年前まで務めて参りました。

 その間、余り大きな変化は5年間ぐらいは、なかなかございませんで。米支援反対の座り込みをやったりし、様々な行動をやりました。しかし増元さんをはじめご家族の皆さんが非常に熱心に訴えられたと言うことが、影響力という意味で大きな力となりました。これで世論が大変盛り上がって参りました。

 変化が起きましたのは3年前、平成14年の3月にですね、有本恵子さんの事につきまして、有本恵子さんを拉致した八尾めぐみという元よど号の妻が、「自分がやった」と証言をいたしました。警察は有本さんの事件を拉致であると認める。それまで横田めぐみさん7件 10人と言っていたものが、8件11人と言うことになりました。

 この頃から動きが急に活発化しました。
国会で衆議院、参議院、自民党から共産党まで全会一致でそれぞれ北朝鮮への非難の決議が行われました。
これに対して北朝鮮側の反論があったんですが、それは「日本は行方不明者問題を拉致問題にしようとしている」というような言い方でございまして、それまでは「我が国は一度も拉致をしたことがない」と言う風に言って「拉致などというのは日本の反動がでっち上げたことである」というふうにずーと言ってきたわけですが、それが言い方が変わりました。こういう風に言い方が変わったときは何かある証拠でございますが、何かあるんだろうと思っていたのですけれども、そしたら5ヶ月後に小泉さんが突如訪朝をすると言うことになりました。

 そしてその訪朝で北朝鮮側は拉致を認めまして、「5人生存8人死亡」というのをはじめて伝えてきたわけでございます。5人生存というふうに言われたお一人が曽我ひとみさんでございまて、曽我ひとみさんが出てきたと言うことがきっかけになりまして、全国で失踪者のご家族が「ひょっとしてうちの家族も拉致をされたんではないか。」「全く原因のわからない失踪をしている。」「どう考えても他の理由が考えられない。」ということでお問い合わせをされて参りました。(当時私は救う会の事務局長でございましたが)

 これがあっという間に何十人にもなってくる。毎日のように事務所に電話、FAX、Eメールそしてお手紙がくるようになりまして、これは何とかしなければならないと思うようになりました。
その結果として一昨年(2年前)の1月10日に救う会の全国協議会から、この失踪者の問題についてやる部分を分けて出来ましたのが、今私が代表を務めます、特定失踪者問題調査会でございまして、私はこれで調査会の代表になり、救う会の事務局長の方を退任をしたということでございます。

そして、2年間活動をやって参りました。活動をやってきて今結論で申し上げますと、それまでと認識が非常に大きく変わってまいりました。
増元さん、市川さんの拉致というのは昭和53年の8月12日でございます。横田めぐみさんのが昭和52年11月15日、政府認定者の中で一番新しいのは有本恵子さん昭和58年の8月でございます。
そのころまでは拉致というものは大体そのころに固まっているんだと思っていたわけですが、この失踪者のことをやり始めまして「これはとてもそんなもんじゃきかない」と思うようになりました。

 現在公開している中で一番古いケースというのは、昭和28年の10月に長崎県の自宅を出てから失踪した徳永 陽一郎さんという方で、この方は100%とはいえないのですが、北朝鮮で目撃情報のある方でございます。
一番新しい方、今ポスターに載っているかたであれば、確か去年だと思います。それぐらいのところまでずーと来ているわけでございます。ひょっとしたら拉致というのはず~~と行われてきたんじゃないかと感じるようになりました。なおかつ場所も北海道から沖縄まで、内陸から太平洋側、場合によっては伊豆七島まで含めてですね、失踪者が出ていると言うことでございます。これは、(我々の持っているリスト420名ほどおりますが)その全てが拉致ではないというふうに思っていますが、それにしても怪しいケースが多い。

 現在我々はこの420人の中で33人を拉致の可能性が高いとしていますがしかし、この数はこれからますます増えていくはずです。なおかつ、我々の所にお問い合わせをしてきていない方は当然、沢山いらっしゃいます。特定失踪者問題調査会と言っても政府の機関でも何でもございません。我々全くの民間の任意団体で、NPOですらない団体でございます。
 
 ですからそう言うところにお問い合わせをするというのはかなりの覚悟が、正直言っているはずです。ひょっとしたら金を請求されるのではないかとか、あるいはプライバシーに関わることを出さなければならないだろうというわけでございます。

 普通で有れば自分の所の子供がいなくなったとすればそんな表に出して明らかにしようなど思わないはずですし。我々自身はご家族からお金は一切受け取っておりません。時々送ってくる方が有りますが現金書留でお返ししておりますが、そんなこと誰にも判らないわけでございますから、そうすると最初にお声をかけてくださる時にその時点でかなりのハードルを超えてしまっているんですね。

 それくらいの覚悟をしてもやはり自分の子供、あるいは兄弟の安否を知りたい、助ける可能性を探りたいという方がこられているということで、これはかなり深刻なことだと思っている次第でございます。

 この問題は、一体どういう風に見るべきなのか?
この問題の原点というのは、日本と北朝鮮という2つの異常な国があったから出来たことでございます。
日本だけが異常でも北朝鮮が異常でなければこんな事は起こっておりません。北朝鮮がどんなに異常であっても日本がちゃんとした国で有ればこういう事は起きていない。起きたとしてもすぐに問題は解決しているはずです。

 問題が解決しないままで何十年も過ぎてしまった。これは何が意味があるかというと北朝鮮と日本が両方が異常な国だったと言うことでございます。

 北朝鮮が異常な国だというのは大体見ていれば判りますが、あの北朝鮮という国は、国が出来るとき、(正式な建国は昭和23年の9月9日ですが)日本が戦争に負けて、北半分をソ連軍が占領をいたします。その時に沿海州にいましたソ連軍の大尉であった今の金正日の父親、金日成ですね、これを連れてきて権力の座に着かせた。

 毛沢東やホーチミンなんかもやったことはひどい話ですけれど、少なくともこの人達は自分の力で、権力を奪取しようとして、人の力を借りたとしてもやはり自分の力をかなり使ったうえで権力をとった。

 金日成という人はそう言う人ではない。
要はどっかに新しい支店とか出張所を造る、そこの支店長にするのに誰がいいかと言うときに本社にいた 主任かなんかをやっている人間を連れてくる。この地域の地理に詳しいだろうとか、言うことを聞くだろうと連れてくる。これが金日成でございます。権力を自分の力で取ったんではなく人の力でもらってしまった。

 そしてあの地域のインフラは全て日本の時代に作ってあったものでございます。まぁ、かなり発電機などいろんなものをソ連が持っていってしまったらしいですが、基本的な物は残っている。

あの当時(今でも稼働していますが)満州国との国境にあった水豊(スプン)発電所(年配の方にはスイホウ発電所と言った方がわかりやすいと思いますが)この発電所は発電能力68万キロワットで、当時世界第2位の発電所でございました。こういうような、かなり良いインフラが朝鮮半島北部に(鉱山資源とか炭坑とかたくさんありましたので)集中をしていた。これも手に入る。

 軍隊は、朝鮮戦争を始めるとき朝鮮人民軍というのは10個師団の中に、(中国の人民解放軍の中で3個師団朝鮮人で構成された部隊がありまして)この部隊をそのまま入れてできたのが朝鮮人民軍の中核でございます。それ以外はソ連の軍事顧問がやってきて資材を提供してできあがったのです。

 ということで、国ができるときの基本的な構成要素であります「権力」と「インフラ」とそして「軍隊」とその3つを全て人からもらってきたのが北朝鮮と言う国でございまして、そうやってできあがった国がどんなことをやるかと言えば「たんなければ持ってくればいいじゃないか」問い言う発想になってしまう。

 もともと金日成たちは戦前パルチザンをやっていたと言うことをいいますが、パルチザンというのは山賊でございまして補給を全て掠奪に頼るということですね。自分たちで最初からちゃんとした補給を確保して戦争をするのではなく人の所に行ってかっぱらってきて戦争をやると言うことですからこの発想は全然変わっていない。
だから、たんなければ、金か物かあるいは人をどっかからもってくればいいという発想でやってきたと言うことでございます。

 先日、新宿の韓国料理屋に行きまして、そこで北朝鮮製の輸出用の葡萄酒を飲みまして、味もとんでもないんですけれど、味よりびっくりしたのは瓶でございまして、こうやってみてですね(瓶を持ち上げて目の前にかざすポーズをとって)、左右が対称になっていないですね。少し歪んでいるんですね。で、輸出用ですから、今時ですね、輸出用の葡萄酒の瓶がゆがんでいる国なんていうのは世界中捜してもそう残ってないと思います。と言うぐらいの技術力の国で、なんで、ミサイルや核兵器をつくれるのか、なんでものすごい精巧な偽札が作れるのか?(技術や人を)他から持ってきている以外に絶対に考えられないんです。

 独裁国家は技術の発展にものすごい障害になります。
自由な意見が言えないと言うことは技術の発展はできない。

 ひとつだけ例を申し上げます。

(以下中略)~70年代の間違った金日成の農業指導の例をあげて説明~

 こういうようなことで経済はどんどんメチャクチャになります。メチャクチャになっている経済を金正日はどうしようとしたかというと、経済を立て直すのではなくて、「この国はすばらしい国だという幻想」を無理矢理作っていくことでごまかそうとした。これが平壌の街の中にある凱旋門であるとか、三角形のホテル(もう崩れかかっています、作っている途中にやめていますが)銅像とか、そう言う物を次から次につくって、それでこんなにすばらしいんだと見せて、個人崇拝によってこれを止めようとしてきたと言うことでございます。

 そういうような異常な国ですから、自分で、自力で物の開発なんかできません。
出来なかったときにどうするかと言いますと、たとえば物を買ってくる。ミサイルなんかでもともとの技術はソ連から供与されたものですが、そうやって友好国からは供与してくれるものは貰う。金を払って買ってこなければならないものは買ってくる。かっぱらってこられる物はかっぱらってくる。場合によってはそれを作れる人を連れてくるということございます。

 日本でも闇からの谺―北朝鮮の内幕と言う本が出ておりますが、韓国の映画監督の申 相玉(シンサンオク)さんという方が1978年、増元るみ子さんが拉致をされたと同じ年に香港で拉致をされています。増元さん市川さんと同じお二人でございます。申(シン)監督の場合は、時期は違いますが、前の奥さん崔銀姫(チェ・ウニ)さんと平壌で一緒に暮らすようになる。

 この時に申(シン)監督に対して金正日は何と言ったかというと(映画監督ですから)「我が国の映画の水準が低いんだ、だから貴方を連れてきた。」と正直にいっているんですね。映画の水準が低いんだから映画監督を連れてくると言うんですから、後はなんでもありと言う事になってしまいます。

 そう言う風にして持ってくる中の一環でありますから、北朝鮮にとって拉致をするのはあたり前の事であって決して特別なことではない。我々それまで、ず~と拉致のために特別な命令があって、その時だけ拉致をしたんだろうと思っていたんですが、そうではなくて、拉致事態はず~とやっていて、(その時その時でこういう人間が必要だとか、「アベックで連れてこい」とか「20代ぐらいの女性を連れてこい」とかいろいろあったんだと思いますが)基本的にはず~とやり続けてきたんだと言うことで間違いないと思います。

 韓国では朝鮮戦争休戦までの昭和25年の6月25日から28年7月27日までの3年間の間に、韓国の民間人で連れて行かれた数は8万3千人。これは自分の意志で北に逃れた人とか、戦争時の軍人の捕虜とかは全て除いてありまして、韓国の民間人で無理やり連れて行かれた人がそれだけの数になるという事でございまして、なおかつ休戦になった時からの50年の間に連れて行かれた韓国人は3700人を超えております。

 韓国の場合は漁船の拿捕が多いわけですが(漁船の拿捕の場合は北朝鮮は9割方返してくるんですが)それでも今残っている人は、漁船民で残っている人と日本人みたいに海岸でやられた人や海外から連れて行かれた人を合わせて韓国政府が発表しているだけで486人。実際には間違いなく500人超えている。そういう数の人がやられている。

 78年にはレバノンでも女性が4人やられている。マカオでも中国人女性がやられている。等々ありまして年がら年中世界中で拉致をしていたんだと考えたほうがいいんだろうと言うことでございます。

 その北朝鮮の国の体制は未だに全く変わっておりません。ということはどういう事かと言うと、「これから先も拉致をやる可能性は十分ある」と言うことでございまして、その拉致の対象となるのは、別に特別な人間では無いんです。ですからここにいる皆さんとかそのご家族、友人のみなさんとかが拉致をされる可能性が十分にあるんだとお考え頂きたい。

 私みたいに年がら年中北朝鮮の悪口を言って歩いている人間がやられりゃぁまぁ、それはそれで仕方がないんだという話になるんですが、そう言う人間は大体あんまりやられないんですね。ですからできるだけ悪口を言っていたほうが安心だと思うんですが。(会場、笑い)そういう事と何の関係もないひとがやられる。

 何の関係もない人がやられると(-皆さんお考えてみてお判りになると思うんですが、自分のお子さんや家族がいなくなったときに、たとえば町田の救う会に関係してるからやられるなんて思わないでしょう-)北朝鮮がやったなんて思わないでしょうから。そうすると、自分の家族がいなくなった時に、小さい子であれば、何かの事件に巻き込まれんじゃないかと思う、大きい人であれば、何かいやなことがあって、家出でもしたんだろうとなるわけです。そうすると家族もいいところ、家出人の捜索願ぐらいしか出さない。

 どう考えてもおかしいと思っても警察は警察で、失踪者はたくさんいますから、まともに取り扱ってくれないわけです。

 家出人の捜索願を受けても、同じ警察署の中でも、家出人の捜索願は生活安全課が受けます。ところがこの人達と公安とは仲良くないんです。情報が横に行かない。踊る大捜査線みたいな世界でございまして。(笑い)こっち(公安)の人がみればひょっとしたらと思うようなことでも、ここ(生活安全課)で止まってしまっていかない。こういう事がず~と続いてきています。

 今警察は、私が感じているところでは、このところかなり気合いを入れてやっているような感じがしていますけれども、しかしそれでもですね、皆さんだって考えて頂いて判るとおもうんですが、たとえば「42年前の8月3日に何処にいましたか」と聞かれて答えられる人間なんかいるはずがないですね。ところが警察の場合、証拠を積み上げると言うやり方ですから、そういうこと、やっていかなくてはならない。

 そうすると大部分のケースというのは判らないと言うことになってしまいます。

 今、日本の中で拉致の救出のためにどういうやり方をしているかと言いますと、まず警察が捜査するわけですね。捜査してこれはもう間違いないと言う証拠があるということになった場合それをまず首相官邸にだします。首相官邸はそれを見て「じゃぁ、これは認定しようじゃないか」ということになって認定したならば、北朝鮮との交渉の場にだす。

 ところが、まず警察が認定するということを出すというところまで、ものすごいハードルがある。大部分の事件が、これができない。そして(警察が官邸に)持って行ってもですね、今の小泉政権はともかくこの問題を小さくして終わらせようと考えています。

 警察は去年ですね、特定失踪者ではないんですが、田中実さん、小住健蔵さんと言う方お二人を、首相官邸に拉致被害者として認定すべきであると具申しています。しかし、官邸は全く動かないです。

 ともかく、それは今の15人をこれ以上増やすと「もう、大変なことになる」と。「大変なことになる」って大変なことなんですけれども、しかし「大変なことだと国民が知ってしまう」と言うことでしょうね。おそらくね。だからもうやらない。なおかつ、もしそれを官邸が「判った」と言ったとしても、(今の状態だと経済制裁もしてないわけですから)そうすると外務省が向こうが話し合い乗ってくれたら、「こういう人はどうですか?」と聞く。

 向こうがまたいい加減なことを言ってくるわけですね、骨がどうしたとかですね、それを見ると、またその書類を見て(いい加減な書類がたくさん来るんですね)たくさん来ると、(日本側のお役人は学校の成績が良い方ばっかりですから)そうすると、いい加減な書類だと思っても読みたくなる、読んでこれは何処に間違いがあるかとか調べないと我慢できなくなる。そして調べて「おかしいじゃないか」いうまで数ヶ月かかります。判ってから持って行って「ほら見ろ、おかしいじゃないか」と言うと、又、向こうはいい加減なのを出してくる。

 そこで、学校の成績が悪い人間であると、開き直ってびりびりと破いて「こんなもんやってられるか」と言って「試験問題出すヤツが悪い」と言って一発ぐらいぶん殴るんですが、頭のいい人は試験問題がでると、ついやらないと気が済まなくなる。
そうやっている間に時間がドンドン過ぎていってしまうと言うことでございます。◆―――――――――――――――――――――――――◆
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荒木和博氏講演2005/1/15(2)

つまりどういう事かと言いますと、この問題を解決するには、今のやり方では絶対解決しない、と言うことでございます。このやり方を止めろとは言いません。止めろとは言いませんけど、別の筋のやり方を、様々な方法を考えて行かなくてはならない。

 そう言うと、平沢勝栄さんがやったように、訳のわからない工作機関の人間にくっついて、いい加減な情報を流すと言うことになるんですが、そうではなくて、やはり、正面から北朝鮮に圧力をかけて、そして取り返す事。大体圧力をかければ向こうも外務省との交渉に乗ってくるんです。

 外務省の中でも、ここまでいっちゃうと、武力の裏付けがなければ、どうしようもないんじゃないかという思いも、外務省の中にも今、あるんだということをちょっと聞いています。実際その通りで、「イザとなったらお前らぶん殴るぞ」という姿勢をみせてはじめて向こうは交渉に乗ってくる。

 北朝鮮の人間と話をして、もし北朝鮮の人間と日本側の人間が信頼関係を築いたらどうなるかというと

 ~日本側はそう言うんですね、北朝鮮の代表と信頼関係を結んで、だんだん向こう側を柔らかくして行かなくてはならないと。~

 しかし、北朝鮮の人間からすると日本に向かって話していることは、こっち(金正日)に向かって話している事なんです。こっち(金正日)が自分たちをどういう風に評価するかと言うことが大切なんであって、こっち(日本)なんてどうでも良いんです。

 どういう状態が評価されるかというと、「如何に日本をやっつけたか、如何に日本を騙したか」というのが評価されるんであって、もし日本の代表団と信頼関係なんて結んじゃったら、帰ったらすぐに収容所に放りこまれるんです。絶対そんなこと(信頼関係を結ぶ事)はありえない。だから北朝鮮に人間と信頼関係を結ぼうと思う方が間違いであるという事でございます。

 相手側も話がわかるのは(彼らの頭の中に信頼関係を結ぼうなんて考えは一切ないんですから)逆に日本側がこん棒を持って「ぶん殴ってやるぞ」という姿勢を見せたときに、「あぁ、なるほど、日本側の考えているのはこういう事なのか」と判るんですね。

なかなか我々の美意識でそう言うことはしにくいんですが、しかしそう言う認識でないと返ってこないと言うことでございます。

 時間がないので今後の事をお話して参ります。
先ほど安明進さんのメッセージの中で「日本の人はあまり北朝鮮の事を知らないんじゃないか」ということが有ったわけですが、(彼はこのことをあちこちで言っている訳なんですが)

 この写真、(写真を掲げながら)9年前に韓国の東海岸で座礁した潜水艦でございます。東海岸のカンヌン市というところで海岸に公園がありまして、ここに展示されている物でございます。 

 みなさんもし韓国に行かれることがあったら、お時間があったら、冬ソナばかりではなく、こういうところにも行った方が良いんじゃないかと思うんですが。

 この潜水艦は長さ35メートル、325トンあります。乗ってきたときは確か26人乗員がいたという風に思います。これは今、見学するためのハッチが付いていますが、もともとは付いていなくて、後で付けたものです。

 この潜水艦は魚雷の発射管みたいな物がありません。(表から)見えない裏側に穴がひとつございます。この穴は何かというと、工作員が水中から浸透するためのものです。つまりどういう事かと言いますと、この潜水艦というものは普通の海軍が使って作戦行動をするための潜水艦ではなくて、工作活動のための潜水艦と言うことでございます。

 工作員を敵国に潜入させて工作活動を行わせるための潜水艦だということです。これはもちろん、日本にしょっちゅうやってくる工作船も同じ事でございます。その為に彼らはやっている。

 この事件の時はですね、工作員を潜入させた、その工作員を回収しようとした時にですね、波が荒くて「もっと海岸に近づいてくれ」ということでバックをしたら、この後ろの方が波に煽られて座礁してしまった。

 もう動けなくなったんで、仕方がないから中を全部焼いてですね、外に出て山の上の方にあがって、11人は自決をした。それ以外の人間はですね、韓国軍、警察、民間ですね、ものすごい数の捜索をやったんですけれど、韓国人を(軍人、民間人あわせて)十数人殺して、最後まで一人だけは見つからずに終わりました。

 もう、すごく寒いんですね。0度ぐらいになる。しかも、あんまり木も高くない非常に険しい山中を何万人もの韓国軍の警戒の中をかいくぐって、そして逃げていったと言うことでありまして、如何にすごい能力を持った人たちであったかと言うことです。

 韓国の方はのんびりした、脳天気な国なんですけれども、韓国人は脳天気で「いや、戦争なんて起きないよ」と言っていますが、その国に対して、もう死ぬことを覚悟して、こういう潜水艦に乗ってやってくる人間が、今の、この時にもいるんだと言うことです。

 韓国は、海岸線がこうやって(写真を見せながら)ずっと鉄柵が巡らせてあります。海水浴場のようなところは入れるよういになっていますが、そういうところでもちゃんと歩哨がいてですね、そして実弾を入れて海岸を睨んでいるわけです。そう言う状態の中でも平気で入ってくる。

 日本の海岸線と比べてみても判ると思いますが、日本の海岸線の総延長はアメリカの半分あるんですね。それだけ長い海岸線で、そんな鉄柵が有る所なんてまずほとんど見たことがない。まぁ、原発があるの周囲とかぐらいで、どこでも入れます。

 私は飛行機に乗ってどこかに到着するときに、海から進入することがよくありますが、上から見ているとですね、「あ~ここだったら入りやすそうだな」という事をついつい考えてしまいます。

 なおかつ、この潜水艦の中の装備ですけれど(写真を見せながら)、モニターとかいろんなものがありますが、これはトキメック、昔の東京計器ですね、パナソニック、フルノといった日本の製品をふんだんに使って頂いておりまして、これ大変ありがたいと思っています。(笑い)大変ありがたいことですがそう言う事(日本製品が使われていると言う事)でございます。

 これは別に韓国だけにやっている事ではありません。侵入するのは韓国より日本の方がはるかにやり易いですから、日本に相当の侵入をしていることは間違いない。今もその状況は変わっていない。このところ日本側も武器を使うようになっていますから多少は気をつけているでしょうが、かなりやっているのは間違いございません。

 ですからこの拉致問題の解決というのはどういう事かと言いますと、これは増元るみ子さんがかわいそうだからとか、あるいは横田めぐみさんのご家族がかわいそうだから、これを助けると言った慈善事業ではないということございまして、これは正に今、拉致されている被害者の方々を救出すると言うことがイコール我々自信の安全を守ることになると言うことです。

 いわんや家族のみなさんから感謝して頂く必要は全くないわけでして、家族の方々が逆に我々の代表のような形で被害を受けられているわけですから、我々は、本当であれば、家族会の皆さんに「もっと休んでいてください」と言って我々がもっと先頭に立たなければならないんですが、(そうは言っても、私も今日、増元さんに無理をして頂いたわけで、余り言えないんですけれども)ともかく、我々自身の問題だということ是非ともご理解頂きたいと思います。

 去年、藤田進さん、加瀬テル子さんの写真が出て参りました。それ以降、我々の所に非常にたくさんの写真が持ち込まれるようになりました。特にマスコミ中心ですけれども、持ち込まれるようになりまして、現在既に100人以上の写真が私どもの事務所にあります。今、分析を続けているところでございます。そのうち結果を明らかに出来ると思っているわけですけれども。

 そう言うことから、去年ぐらいからかなり大きな変化が起き始めている。それまでは、写真がでることなどまずあまり考えられなかった事なんですけれど、そう言うことも起こるようになったと。今年はまだまだ<写真>も来るでしょうし、あるいは<声>とかですね、場合によっては本人が逃げ出すこともできるということすら有るのではないかと、様々考えております。

 更にそう言う動きの中で、推測の範囲をでないのですが、考えている事がありまして、これからいろんなことが判ってくると、私自身もまだ想像もしていなかったことが明らかになる可能性もございます。

 たとえば、拉致をされた方々が日本に戻ったことがあるとか、あるいは第三国に出国したことがあるとか、あるいは工作員として外国で活動をしていたことがあるとか、そう言うことが出てくる可能性があると言うことです。

 これは特に町田の皆さんにもご理解頂きたいんですが、そう言うことが有った時に、普通考えてしまうのは「なんだ、外国に出ているんだったら、人の目を盗んで、ちょっと家に電話するとか、手紙を渡すとそれくらいのことできるだろう」と言うことを思うかもしれない。「外国に出て何も北朝鮮の工作員として動くことはないだろう」と思われる方も当然おられると思います。しかし現実にはそういう(=電話ができない、手紙が書けない、工作員として動く)可能性はあるんですね。

 1978年にレバノンから拉致をされた方々4人、この方々は後に、ユーゴスラビアで別の国の大使館に逃げ込んで保護をされているんですが、その時、北朝鮮側の人間から前から、言われていたことがあるんですが、それはどういう事かと言いますと、「お前の国の大使館にはみんなスパイがいるんだから、おまえら、もし変な事をしたらすぐに判ってしまうんだぞ。」と言われていた。それで自分の国、レバノンの大使館には逃げ込むことが出来なかった。

 当然ですね、この日本ですから。「日本には朝鮮総連いくらでもいるんだ。日本の官庁の中にもいくらでもスパイはいるんだから、お前ら、もし変なことやったら、絶対にあとで只じゃ置かないぞ」と言われたら、もう、自分から行動を規制せざるを得ないんです。

 拉致被害者で政府認定者ではありませんが福留貴美子さんと言う元よど号の岡本武の妻にさせられた方がおられますが、この人は一度日本に入ってきている。入ってきて、横浜の友人のところにちょっと泊まって、その時はもちろん何も言っていないです。それから、高知の実家に戻ろうとして、どうも途中で捕まったらしい。捕まって北朝鮮に引き戻された。

 そう言うときですら連絡がとれないという、それは、如何に北朝鮮が恐いかという証拠でもありますし、だからこそ、今の帰っている5人も話さないんだろうと、私は思います。

 そう言う状況をご理解頂きまして、これから先、どこかでそう言う話が出てきたときに、「それはそんなことではないんだ」(簡単に連絡できない、脅されている)と言う風に、周りの人に言って頂きたいというふうに思います。

 ともかくそういうことも含めて、これからいろんな事がおそらく明らかになっていくだろうと考えるわけです。これをですね、一体どうしていけばいいのか言うと、私がさっき言いました、今のルート以外の別なやり方、(これは経済制裁ももちろん、その一つなんですけれど)別の手段を使うと言うことでございます。

 本来で有れば、普通の国であれば、これだけのたくさんの日本人が拉致されたとすれば、軍事力を使っても全く何の不思議もないということです。 私は少なくとも北朝鮮の中で体制崩壊が起きた時には自衛隊を投入するしか方法はないと再三再四、言っておりますし、私自身も予備自衛官ですので、その時は入れてもらおうと思っているんですが。

 それ以上の、本来でであれば、軍事制裁をやることだって当然オプションとしてあって良い事だろうと思っています。

 逆に言うと、経済制裁ぐらいで済まして貰えるんだったら、金正日は大喜びして日本に感謝しなければならない。

 「経済制裁をやってきたら戦争だ」なんて言うのは、とんでもない話で、感謝して貰ってもいいくらいの事でございます。 経済制裁で戦争だというぐらい、如何に彼らが経済制裁が恐いかという証拠で、経済制裁すれば効果が上がると言うことを、彼ら自信が正直にしゃべってくれているのと同じ事でございます。

 藤田さん、加瀬さんの写真が出たときに、みなさんもそう思われたと思うんですが、「やっぱりホントだったんだな」と、政府の言っている15人なんて違ったんだなと思われた方も多いでしょう。

これから先我々がやらなければならないのは、情報をともかくいろいろ収集して、それを可能な限り明らかにしていく。

 この国は平和ボケの国と言われますが、日本は災害にはぼけていない。

 皆さんいつでも、東京周辺に地震が起きるにじゃないかと想定していらっしゃる。自身は簡単に予知できませんが、台風が来る時は、もし来たらどうするか、もし被害が出たらどうやって助けるか、民間もお役所も一緒になってやっていくわけです。

 ですから、国民が今、日本が安全保障上こんなに危険な国なんだと判っていれば、ではこれはこういう風にしなければならないと絶対に理解が得られるはずだと言うことです。

 我々が今やらなければいけない事は、「この国が如何に危険な国であったか」と言うことについて、現実を国民の皆さんの前に明らかにしていく。そして同時に、その被害を受けている拉致被害者が一体何処にいて、どういう状況にあるのか、どうやれば助け出せるのかという事について具体的に調べていくことをやっていかなければいけない。

もちろんこれは国の仕事ではあるのですが、なかなかお役所と言うところはプラスアルファーの仕事をしても評価されませんけどマイナスだと失点になっちゃいますので、非常にやりづらいです。

 警察が認定の所でなかなか渋いのも、やはり認定しようと出した人の中でそうじゃない人が出てしまったら非常にマズイと言うところにあります。本当は拉致じゃないと思っていた人が拉致だったと言うのが一番マズイはずなんですが、そこについては余り言われない。

 ですから、こういう事を我々国民としても警察とかそういう国家機関をバックアップして、多少勇み足でも、一生懸命やっているときは、「そうだ、がんばれ」と言っていくことも必要だと思います。 

 我々自身が、有る意味で言うとパイロット的な役割で、情報集めなどを、やっていってそれによって後からお役所が本気になって動けば、我々のやる事なんて無くなってしまいますから、とにかくその方向付けだけはやっていこうと思っています。

 これをどんどん明らかにして、国民の中に安全保障の意識を持って頂くようにしていきたいと思っている次第でございます。

 そのあとは具体的にどうやって助けるかと言うことでございまして、中国や第3国に出た人はそこの在外公館が保護をする、これは外務省もおそらく、ちゃんとやってくれると思います。

 あるいは向こう側でなにか起きたら時は自衛隊を入れてちゃんと取り返していく。
今の時点では自衛隊というと、ピンとこない方も多いと思いますし、自衛官でもピンとこない人も結構いるんですね。

 しかし考えてみれば、基本的人権を侵されて何十年も苦しんでいる国民を助けないと言うこと自体が、憲法違反でございまして、その為に自衛隊を出すか出さないかと言う事が憲法違反かどうかなんて事は、条文をどういう風に解釈するかの問題ですから。

 イラクに多国籍軍で自衛隊を出しておいて、それで、拉致被害者救出にいけないようなら、どう考えても理屈が合わない訳でございます。 イラクに多国籍軍で自衛隊を出しておいて、それで、拉致被害者救出にいけないようなら、どう考えても理屈が合わない訳でございます。

 そんな時にそれでも行けない自衛隊だったらそんなもの、税金泥棒以外の何者でもないんで、そんなもの無くしてしまえばいいと言う風にすら思います。その為に年間何兆円もの税金を国民は払っている訳ですから。

 自衛隊の中でも本気になって考えている人達はたくさんいますから、我々もいろんな次元で連携を取りながら、そっちに向かって何とか持っていきたいと思っている次第でございます。

 ともかくですね、この問題は、日本という国が、自分たちがどれくらいちゃんとした国であるかという意識を持つかという事だと思います。

 この国には、あれもいけない、これもいけないといろいろ山ほど行けない事はあるんですが、いくらそんな事言ってもですね、周りの国は全く信用してくれません。

 昔、(エリツインの政権の頃ですが)ロシア人の友人と話していて、「今日本の政界は大混乱状態なんだ」と言ったら、ロシア人の友人曰く「一体何処が混乱しているんだ」という話でございまして、(会場笑い)あの当時のロシアに比べれたらば、日本が混乱しているなんて誰も信じてくれない。

 経済がメチャクチャだと言えば、メチャクチャな国は世界にいっぱいあるわけですから、日本の経済がメチャクチャだと言ったら、メチョクチャじゃない国の方がほとんど少ないわけでございます。

 「軍隊が?」と言っても、イージス艦だって何だって有るじゃないかという話になるわけでして。
 「憲法は?」と言えば、そんなもの変えれば良いじゃないかとそれだけの話であります。

 だから、この国にはそれだけの力があるわけです。

 評価は様々あるでしょうが、ともかくですね、戦争の時にですね、ロシア・中国・イギリス・アメリカ、世界中の大国と戦争してしまった国は日本しかない訳ですから。(笑い)

 しかも第二次世界大戦の時というのは、普通考えたら、「あんな戦争、まず、しない」中国で足を取られてそれだけでも大変な時に、アメリカ・イギリス相手に戦争をするなんて事は、よっぽど「上にいる人間がアホだったんだ」と私は確信を持っていいますが、それだけ上にいる人間がアホでも、4年間アメリカ相手に闘い続けたんですから、如何に中堅が優秀であるかの証拠でございまして。(会場笑い)

 この国の最大の問題は、中堅の人材が優秀な人が多すぎて、上がアホでもなんとかやっていけると言うことに問題がある。だから、その方針を作ればいい。

 この国が明治維新以来非常に大きな力を持ってきたのは、どういう時か?(自分から方向性をつけたことはほとんどないんです)明治維新の時は、お解りのように、外国から何時侵略されるか判らない、一刻も早く近代化しなければいけないと言う事で、コンセンサスがあったから、そこに向かってどうするか、ここにいる人と、ここにいる人が全然連携もとらないで、お互いが何をすべきか考えて動くことが出来る。

 アメリカとの戦争もそうですし、戦争に負けた後、復興という大方針ができたらば、ここで何とかやらなければならないと言うことになれば、それでものすごいスピードで復興することが出来るし、高度成長となれば、そういうふうになる。

 ところが、その方針をひとりのリーダーが提示すると言うことができない。残念ながら。

 韓国の場合、かつて1960年代、クーデターで政権を取った朴正煕大統領という人は、この国を絶対近代化して北朝鮮から攻められない豊かな国にしなければならないというはっきりとした方針を持ってやった人ですが、ああいうリーダーは日本には、まず、ほとんどでてきません。

 とするとその代わりをどうすればいいかというと、国民の手で作るしかない。我々国民の声でこの国がアジアの中で中心的な民主主義の国であると、我々自身が認識し、「だから恥ずかしいことは絶対出来ないんだ」という思いを持って、政府の動きをチェックして、その代わり、政府がちゃんとやるんであれば、進んで協力をしていくということをしたときにこの国は、他の国が付いてこれない力を発揮すると、私は確信をいたしております。

 昔、カンボジアのPKOの後で、中国の軍人さんが言っていたそうですが、「日本の自衛隊はすごい」と。、どうすごいかと言いますと、ともかく隊長が部下にちょこちょこと指示、命令をすると、すぐにみんなかってに動いていって、全部できちゃう。我が国だったらば、一人一人「お前は、これやって」と細かく指示しないと動かないんだという話をしていたそうです。

 そのプラスの部分を我々は最大限に活用して、マイナスをできるだけ少なくすることによって問題を進めていく。

 この方向ができるようになったらですね、私はこの拉致問題は簡単に解決すると思っています。
 今まで時間がかかりましたけれど、解決し始めたらそんなに長時間はかからないと、絶対の確信をしております。

 さっき安明進さんのメッセージにもありましたが、北朝鮮2000万の公民の大部分は苦しんでいます。今も一月ですから、北朝鮮の中国の国境近くは、冬ですから、零下20度30度です。そう言うところで子供が着の身着のまま凍え死んでいく状況は今でも続いているわけです。

 これを誰が助けるかと言えば、金正日が改心するわけ無いわけですから、そして韓国は今、金正日のご機嫌をとることで精一杯ですから。そうすると、誰がやるかと言えば、我々がやるしかない。日本はアジアの中心的な民主主義の国なんですから、我々の手で、あの金正日の独裁政権を打倒してしまって、あの国で今苦しんでいる人達を一刻も早く幸せなごく普通の生活が送れるようにする。その中にはもちろん日本から帰国していった帰国者の人もいるでしょうし、日本人妻とかその家族もいると思います。

 そう言うことをやって、我々が大国としての責任を果たしていく。これはもう、アジアの中では日本しかできない。アメリカにいくら任したって、アメリカはアメリカなんですから、アジアの国ではない。だから必要が無くなれば出て行くわけでありまして、日本はアジアから絶対に出て行くことができないのです。

 我々がその責任を遂行する。
そうしなければいけないし、そして、日本には絶対にその力があると私は確信をいたしております。

ご静聴ありがとうございました。
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2005年1月13日 (木)

松木薫さんを救うぞ東京集会(1)

1.斉藤文代さんのお話(1)  

皆様こんばんは。
今日はお忙しい中集まっていただいて、
本当にありがとうございます。
このような場で私の弟の話をさせていただくと言うことは、
本当にうれしく思っております。

松木薫という人物を知らない方がまだたくさんいると思います。
私の弟・松木薫は1980年に、スペインのマドリードから
北朝鮮の方に拉致されました。
連絡も何も無くて、88年に石岡さんの手紙、有本さんたちのところに「薫と3人で一緒に暮らしている」ということで、北朝鮮にいると言うことが分かりましたけども。
私たちきょうだいには父は何も教えてくれなくて。
父は本当につらかったと思います。
私たちが(北朝鮮による拉致を)知ったのは本当に後のことですから。

(司会者より「座って」の声)
よろしいですか?
すみません、座らせてお話させていただきます。

父は本当につらい思いをしたと思います。
薫は私より8つ下で、小さいときからだいたいおとなしくて。
私たちきょうだいは父母が戦後復帰で、一生懸命二人とも共稼ぎしておりましたので。
薫が生まれてからは、私が8つ下の薫をいつも連れて、どこへ行くにも一緒におんぶしたり引っ張って歩いたりして面倒を見てきましたので、私が母親みたいな役をさせていただきました。

本当におとなしいもんですから。
女のきょうだいの方が、うちの場合は男の子一人ですから、女のきょうだいの方がやんちゃで。
面倒見るのは全然手がかからない弟でした。
弟は私たちにとっては大事な宝物でしたし、小さいときから男の子が一人ということで。

父親は男の子が欲しくて欲しくて、「男の子が生まれるまで産んでくれ」と言うことで母に言ったらしいんです。
でも母も、いやもう私・・・女ばかり生まれるもんですから、5人きょうだいで4人目が亡くなったんですけど女ばっかりでしたから。
母は「そんなに産めない」って言ってたらしいんですけど、5人目に薫が生まれまして、それはそれは父はとっても喜んで。

嬉しくて私たちにも小さい頃、父がよく言ってたんですよ。
「やっと薫、男の子だよ、きょうだいだよ、きょうだいだよ」と言ってかわいがってくれました。
私たちもとても大事にしてくれましたし。
父は子煩悩で優しい顔をしておりましたし、小さいときからですね。
私たちも、だから父も大好きだったし、母も大好きでした。

母もおとなしい性格で、父の言うとおりに人生を歩んできておりますので、薫もどちらの方に似たのか、良い方ばかりを貰ってて。
私たち女の子は、ちょっと男・・・私はあります。
二番目はおとなしいですけども。
3人ともいろいろ特徴があって、案外元気良かったんですが。
薫は小さいときから私たちが一緒に面倒見ても手のかからない。

母も勤めに行ってるときに、私たちは少しでも母の手伝いをしようと思いまして、きょうだいで青果市場なんかにですね、お掃除に行くんです。
「おじちゃん、お掃除させてください」と言うとね、「いいよ」って言って、竹ぼうきを持って、子供ながらに役にはたたなかったと思うんですけれども。

お掃除が終わるとお野菜なんかをくれるんですよね。
たくさん大根とかを、ひびの入ったのとか西瓜のひびの入ったのとか、私はそれがうれしくて。
きょうだいみんなでそれを頂いて帰っては、家で七輪を起こしながら母の帰りを待ちながら、出来ないながらも料理を何かかにか作って帰りを待って。
そういう、貧しいなからも楽しい家庭だったんですよね。

薫たちが成長していくにつれ、私たちもきょうだいいろんな、年の差もありますもんですから。
私が大体早く結婚しましたので、父親たちとは一緒にいる時間帯がちょっと少なかったかな?と今思えば後悔しております。
もう少しお嫁行かないで、父ともう少したくさんおればよかったかな?とか、そう言う事も父がいなくなってからそう思います。

うちの家族はとても父母を頼りにしていましたし、甘えていました、皆。
薫がいなくなったときの頃も、今となりにいる信宏は父から伝えられましたけれども、なんか「私たちには言うな」と言うような。
私たちお嫁に行ったりしてましたので、口止めされていたようで、信宏もつらい思いをしたと思うんです。
父もとてもつらい思いをしたと思うんですよね。

父親は私たちに口癖のようによく言ってたんですが、
「お勉強したければ、父ちゃんはどんなに働いても苦にならないから、お勉強したければどんだけでも頑張って勉強していいよ。
どんだけでも父ちゃん頑張るよ。
だから学校に行きたければ学校行きなさい」
と一生懸命言ってくれましたけど、私たちは高校だけであれしましたけれど、薫はやはり勉強が好きな子で、小さいときから。
一生懸命机に向かって本を読んだり勉強したりしておりました。

父にお願いして大学も行かしていただいて、それで最後にスペインに行くときにも「家に帰ってきて父と一緒に、勉強して帰ってきたら父たちと一緒に暮らすから」、と約束して行ったのですから。
父を裏切ったのでもないし。
また帰ってくる、あの、いろんな事情もありましたので、多分薫は一年たったら帰ってきたと思うんです。

私は本当に、スペインに行っただけでこんなことになるって、本当に思いもしなかったし。
スペインに行く前に、今日これ初めて私これを公開したんですけど。
(信宏さんが、衿にホテル名の入った黒いはっぴ姿の薫さんの写真を一枚掲げる)
やはり行きたくてお小遣いをですね、溜めてたんですよ。
これは大きくしましたが、富士山にですね、富士山でバイトをしてたみたいで。
だいぶきつい仕事だったと思いますけれど、お友達とずっと皆さんとでバイトをしていて。

その中に一人女の方がおられて、薫のことを良く知ってらっしゃってですね。
私に初めて去年手紙を下さって、写真も、「薫さんとこういうお仕事さしていただいたんですよ、バイトしてたんですよ」と、初めて私は知ったわけです。
「どんな風に薫が言ってたですか?」と言ったら「お小遣いを貯めて、スペインに行って、お勉強をして、そしてまた帰ってくるから」と。
「みんな待っててね」というような話をしたということでした。

ですから、薫が好んで北朝鮮に行くということは絶対にありえないし。
またよど号犯の森に、いろんな報道で流れているときもありますけど。
色恋なんかで薫が(北朝鮮に)行くような子ではない、ということだけは、本当に私は皆様に分かっていただきたいと。
薫はどうしても日本に帰ってきて、いろんな自分の人生計画を立てていたと。
私は今でも信じております。

ですから、本当に今でも薫を拉致した人が憎いです。
母もですね、今も病院に入院しています。
父は亡くなりましたけども、父も本当に無念だったと思います。

私は何もしてあげられなくて父にはですね。
本当に申し訳ないという気持ちもあります。
母は病院のほうに入院しておりますけども、やはり痴呆がかかっておりますから、私が病院に行ってもですね。
毎日時間がある限りはわたし行きますけども、私が娘ということがですね、今は分からないんです。

ですから私が「誰?」ってこういう風に(自分を)指差すと違う人の苗字を言うんですよ。
でもやはりね、私はそれでもいいと思ってます。
母は母なりにいろんな苦労をしてきていますから、だから私は精一杯出来ることをしてあげたいと。
毎日毎日本当にそう思って病院のほうに来ておりますけど。
2.斉藤文代さんのお話し(2)

やはりあの、小泉さんが訪朝されたときにですね。
私に・・・病院に行ったときが。
私はその日はつらくてとても病院に行けなくて、死亡と言う事を言われた時に行ってなくて、次の日に行ったんですね。

そしたら「テレビを見た?」って私に言うもんですから、母が。
「何のこと?」って、私もすぐピンと来たもんですから「何のこと?」って。
であの「違う人よ」って。
「薫って名前はたくさんいるんだから」って。
「だから母ちゃん、それは違う人よ」って私が言ったら「そうかしら?」って言うんですよ。
だから私が「薫はもうすぐしたら帰ってくるからね」って言ってるんですけれども。

あの私のこと、名前すら分からないのに、母はいつも「薫、薫」という頭。
でまた、26歳の記憶で母は止まってるわけです。
私が病院から帰ろうとすれば「奥さん、奥さん」って私に言うから「なあに?」て言うと、「ご飯が炊い
てありますので」と敬語を使うんですよね。

「ご飯が炊いてありますので、おかずを作って、薫と爺ちゃん食べさせてあげてくれませんか?」て言うから。
「ああいいですよ、作りますよ、じゃあ何がいいかね?」って私が言うと、
「薫はまだ若いからお肉がいいんじゃないですか?お肉料理をたくさん作ってあげてください」て言う。
「ああいいわよ、じゃあ爺ちゃんはどうしようか?」と言うと、
「爺ちゃんは年だから、簡単な軽いものでいいんじゃないですか?」って私に言うから、
「ああいわよ、じゃあたくさん作って食べさせるから」って言ったら、
「薫は若いからたくさん作ってあげてください」って言うんですよね。

だから本当にそれを聞くとですね。
つらくてつらくて、私は何とかして母に会わせてあげたい。
本当に何とかして会わせてあげたいと思うんですけど、私の力ではどうすることも出来ませんし。
かといって私たちが動かなければ、尚更薫は置いていかれるし。

だから私も何とかして頑張って、これから先も生きていかなければ、母に会わせてあげなければ、薫を、と思ってですね。
(病院に)行けば私がいつも「今日も元気で来て良かったね」って「私も元気だよ」って「だから一緒に頑張ろうね」って、いつも口癖になってるんです。
「頑張りますよ」って言うんですけど、やはり病気なんかして高熱を出したときなんか、「頑張ろうね」って私が言うと「もうそんなに頑張れませんよ」とかって言うんですよ。

そのときは本当につらくてですね。
なんでこんなに長いね、拉致の人生をね、過ごして来たんだろうかと。
この世に神も仏も無いのかなぁ、と思いつつですね。
でも、私がくじけたら、母に薫に会いたいと言う希望をかなえてあげなきゃいけない、という気持ちがあるもんですから。
「頑張るのよ」と。
「どんなことがあっても頑張るのよ」といつもいつも励ましております。

去年ですね。
ちょっと、具合が悪くなりまして、もう本当にだめかと助からないかという状態になりました。
私は耳元でですね。(文代さんの目から一筋の涙がこぼれる)
もう、くたっとしておりましたので。
だから母に「かあちゃん!」って。
「今あなたが頑張らなければどうするの!薫が帰ってきたら泣くよ!」と耳元で言ったんですよ。

そしたら本人は本当に具合が悪いもんですから、くたっとしていて返事も出来ませんけど。
私はかわいそうだな、耳元で大きな声でこんなに叫んだらかわいそうだな、とは思ったんですれどけど。
「頑張るのよ、薫が帰ってきて母ちゃんがいなかったら泣くでしょ!」と、ちょっときつかったんですけどそう言いまして。
そしたら何とか母もそれが通じたのかどうか、熱も一週間以上ずっと続いていたんですけど、点滴なんか本当かわいそうだな、と思って。


見るに耐え切れないようないろんな治療をしておりましたけれども、なんとか今も頑張っておるんです。
いつも病院から帰るときも「今日、母ちゃん頑張ってくれてありがとうね」という気持ちで私は帰るんです。
いつかは絶対に薫をこの病院に連れてこなきゃいけないから、って。
いつもいつも頭の中に入れてますもので。

看護婦さんたちも「お母さん、薫さんが帰ってきたときにはお迎えに出ようね、玄関に」と約束してるらしいんです。
ですから、母が「はい、迎えに出ますよ」って言って。
「そのときのご挨拶は?」って、看護婦さんと相談してるみたいなんですよ。
「なんていうの?」てたまに言うと、「お帰りなさい」って言うって。
私が冗談ですね「じゃあ、『薫どこ行ってたの?』って言って頭ポンポンってしようか?」って冗談で言うんです。
「そんなことしたらかわいそうだよ」って、まぁ冗談なんですけど、そう言うんですよ。

「そうだよね、好き好んで行ったわけじゃないのにね、かわいそうだね」って言うと、「そうですよ」って私に言うもんですから。
「そうだね、帰ってきたときは、おいしいものたくさん作って食べさせようね」と言うような会話を、毎日毎日私は母としているんです。

母がですね、今も何とかかんとか頑張ってくれておりますので、帰ってくるということを、本当にそう長くは待てないわけなんです。
私たち家族には時間が無いわけですから。
何としてでも、去年もそう思ってたんですけども、今年中には本当に北朝鮮から返して欲しいといつもいつも願っております。

それでなくてもうちの場合にはいろんなおまけが付きまして。
骨も何度も何度も持たされてきてます。
本当にね、なんという国なんだろうと。
最初の時は本当につらい思いをしました、あの鑑定が出るまでですね。
これはなった者の身でないと、本当にもう分からないと思いますけど。

1ヶ月間、本当に苦しかったです。
どのような結果が出るのか。
本当に薫の骨なのか?
薫の骨ではないとは思っていても、やっぱり不安ばっかりが募るわけですから。
橋本先生の電話を、本当にもう、かかっていたときは身震いがしました。
先生が一言最初にですね「お姉さん、おめでとうと言っていい?」と言ってくれたときは本当に嬉しかったです。

あ、薫のものではないんだ。
「先生、薫じゃないんですね?」って言ったら「違いますよ」って言われて。
「60過ぎのおばあちゃんですよ、女の方ですよ」って言う。
「そうですか、ああ良かった」と思ってですね。

そしてそのあと、また今回第3回実務者協議で骨をまた渡されましたね。
でもそれは、もう全然私はなんとも思っておりませんでした。
また北朝鮮がそういうことをしたんだと。
じゃあ薫はね、生きてる証拠をね、だんだん、だんだんこうやって逆に出してきてるんじゃないかと、私はそう思います。

3回目に行った時も書籍を持って帰ってきてましたので。
「出航」っていうのを、中身は見られませんでしたけれど、字を見たときに信宏と「ああ、薫兄ちゃんの字だね」って信宏もですね、言ってくれて。
本当に私たちやっぱりきょうだい皆、特徴というのをちゃんとわかってるんだなぁ、って思ってですね。
何年離れてもですね、本当に懐かしいと思ってその字を読みました。

それをちょっと見るのがちょっと、ビデオとって下さったので、私見なきゃと思ってずっと思ってたんですけど。
今回こちらに来るときにですね、見てきました、「出航」というのをですね。
それは本当に、薫の気持ちがそのままドラマの中の気持ちが伝わってきました。
ていうのは、あの船がですね、銅鑼がぼ~んと鳴ってですね、テープを皆がわ~っと投げて出航して行く所からドラマが始まるんですけれども。

もうなんか、それを最初見たときに「ああ、帰りたかったんだろうなぁ」って「皆本当におうちに帰って来たいのに、なんでこんな僕だけ帰れないんだろう」って「つらかったんだろうね」って思って。
そのドラマを見たとき薫は帰りたい一心で、この「出航」というのをね(シナリオを)書いたんだろうなと思って。
ますます取り返してあげなければかわいそうだと思いました。

ドラマの内容、がいろんな内容が素晴らしいもので、300回記念で日曜洋画劇場なんですけども。
(信宏さんが隣で「日曜劇場」と訂正の声をかける)日曜劇場か、に出てて。
本当に素晴らしい「出航」というドラマでした。
私も主人も二人で見入っておりました。
その内容が伝わるものがあって、薫からのメッセージがですね、ますます私の胸の中に入ってきました。

だから絶対にこれは特に母に、これは薫を取り返して何としてでも生きてる間に会わせてあげなければ、私は本当に母に対して申し訳ないと、言う気持ちが今ますます沸いてきております。
自分では何にも出来ないんですけど、やはり国民の力を借りて政府を動かしていただきたい、と。
本当にその気持ちしか私はありませんので。

私たち、薫を本当に取り戻すという気持ちが毎日毎日募るばかりで。
薫を母に会わせてあげたい。
そして母も薫に会いたいと思っておりますし。

母はですね、今となりにいる信宏って、「信宏」と言う名前にもいろいろいわれがありまして。
信宏にはこの間話したんですけども。
薫がですね、まだ信宏が生まれてない時に、薫って名前は女の子みたいな名前ですから、自分でも男らしい名前が欲しかったんだと思うんです。

それで私たちに相談したことがあるんですよ。
「僕家におるときにはこの名前を使っていいかなぁ?」って母に言うから、私たち「いいんじゃないの、いい名前だね」って。
自分でちゃんと考えて来たって言うから、家では「信宏、信宏」と呼んでたんですよ。

ですから信宏が生まれたときになんて名前をつけようかねって、皆で。
かわいい子でしたから、小さいときに(くすくす笑い)なんて名前をつけようかねって皆で言ってたら、薫がですね。
「僕の名前、信宏ってのをあげていいよ」ていうもんだから、「そうだね、信宏って言う名前にしようか」と言う事で。

ですから信宏とまぁ薫を、私たちは知ってたんですけども、父が亡くなる前に信宏のことを「薫お帰り」とかって言ったとか言ってるから。
それは信宏を薫と家では言ってたもんですから、そこんところは、父は間違っていったわけじゃあないんですが。
信宏にしてみたら「何で間違えるんだろう?」と。
そういう話をしなかったから、思ったんだろうと思います。

信宏も薫もとっても父は男の子はなんて言うんでしょうかね。
可愛がって可愛がって自慢して抱っこして、信宏なんか孫でしたから、本当に可愛くて抱いて歩いてたんですよ。
そういうような家庭でしたけども、拉致ということになってから、本当に家の中が一変してしまってたんです。

父も母もそわそわと、私たちと会話をするときも何かこう避けるような。
何か分からなかったんですけど。
後でよく考えれば、そういうような薫が拉致されて本当に苦しんでたんだなと。
本当に何も力に慣れなくて申し訳なかったという気持ちで一杯です。

ですから母には、精一杯私は出来ることは、薫が帰ってくるまで、薫に会わせて。
それからじゃないと絶対に私は母を死なせるわけには行きませんので。
もう一生懸命私はそれを毎日毎日願って、こういう活動をしたり、家のことをやったりしております。
皆様がお力を貸してくださるから、こんなして頑張れるんじゃないかと自分でも言い聞かせをして、ありがたいなと感謝しています。

もう、本当に今年中には解決したいです。
本当に返して欲しいです
薫がですね、帰ってきたら「玄関で母が『お帰りなさい』って迎えるんだ」と練習をしておりますので、どうかみなさん力を貸してください。
私たちも頑張りますので、よろしくお願いしたします。(拍手)
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松木薫さんを救うぞ東京集会(2)

2.松木信宏さんのお話(1)

私の名前の件については2~3日前に聞いたばっかりなので、正直ちょっと驚いてます。あんまり「信宏」という名前も男らしい名前とは思えないんですけども。(笑い声)
まぁ、私の兄にとっては、薫よりはるかにましだったのではないかな?と思います。

私は本当は、兄から見れば2番目の姉の子供になるんですけども。
いろいろまぁ、私の実の母親の方にもいろいろな事情があったかも知れないんですけど。
生まれてすぐに、本当でしたら祖父母になる父親の養子ということで入りました。

まぁ、兄はその当時大学・・・短期大学に行ってみたり、そこから編入学して京都産業大学の方に行きましたりしてましたので、滅多に家に帰ってくることは無かったんですけども。
帰ってきたときは良く・・・遊ぶといっても、私の兄は参考書とかそういうものを買ってきては勉強を教えてやるから付いて来いという感じでしたから、遊びにはならないんではないかな?と思うんですが、よく勉強を教えてくれました。

本当にじっくり私が本気になって教わっていれば、もうちょっと私も違う人生を送ったんではないかな?とは思うんですけども。

本当に私の目に焼きついている兄というのは、机に向かっている姿っていうのがほとんどです。
よくまぁ、私と父親母親とで、週末に海に行ったり山に行ったりするわけですが、兄がいるときはもちろん兄にも一緒に行こうよと声をかけるわけですが、10回誘って1回付いてくればいいほうかなぁ、と。
「家で留守番してるよ」と。

「またそんなこと言って留守番するとか言って、どっか遊びに行くんじゃないのかな?」と言ったら、「いやそんな暇があるんなら、勉強してるほうがましだよ」というふうな感じで。
実際帰ってくれば、どんな時間に帰ってきても、大体机に向かっていると。
だからもともと賢いとかそういうあれではないと思うんですけど、努力の人かなぁ?と、言うのは、まぁ私の目にはそう映りました。

先ほどうちの姉の方が、うちの父親が「勉強したいと言えばどんなことしてでも学校に行かしてあげるよ」と言ってた事を言ってましたが、私なんかの時はだいぶ父親が定年退職した後で、比較的落ちついた状態でしたので。
なんでもこちらのわがままをきいてくれるという風な。
なんでもいいよ、と。
何かしたいことがあったらしていいよと、言うようなことをよく言ってました。

あんまり自分で取り立てて(勉強)しようという気持ちが無かったせいか、結局はうちの父親がよくまぁ、なんていうんですかね。
あちこち塾を探してきて、「おまえ、そこに行け」と。
「勉強しなくちゃ薫兄ちゃんのようになれないぞ」ということで。
結局は無理やり押し込まれて、しぶしぶよく塾だのなんだの、通っていた記憶があります。

そうこうしているうちに、兄もだいぶ落ちついて帰ってきたときに、「スペインに行きたいんだ」という話をしたんですけども。
「いや、そんな遠くに行ってもらっては困る」ということを言ってました。
その当時まだ私は小学生だったんですけど、とにかく反対をしてましたね。
隣にいる姉などは「行かしてやりなよ」と、言ったんだよね?(隣に座る姉・文代さんのほうを見る)
大分女きょうだいは、みな結束してどうにかして行かしてあげたいということで。
母親といろいろとやってたみたいですけど。

うちの父親というのは一回だめだといえばなかなか頑固者で。
自分がこうと思ったらもう、てことして動かないタイプの人間なので、相当苦労したんではないかと思います。
で、姉も言いましたけど、私の耳にも焼き付いているのは「一年で絶対に帰ってくるから」と。
やはりあの、「とうちゃん、かあちゃんのそばにいるから」と、いうふうなことを言ってました。

最後に私の母なんかは、あんまり意見をするタイプの人ではなかったんですけど。
「薫がそんな滅多に頼まないタイプの人間なのに、こうやって頼んでるんだから、行かしてあげな」というようなことを言って。
まぁその場では「ダメだぁ!」と言ってたんですが、最後は「一年だけだぞ」ということで。

兄自身もスペインに行く渡航費用っていうのは、こそこそバイトして貯めてたみたいなんで。
「お金はいいよ」ということを言ってたみたいなんですけども。
何かあったら困るから、ということで確か父親も、金額はちょっと私も記憶に残ってないんですけども、まとまったお金を確か渡して、送り出したと思います。

もともと日本にいるときから、筆不精なタイプの兄ですので、なんて言いますかね。
ちょっと半年・一年手紙が無くても、便りの無いのは元気の印というか、そういう風な感覚でいたんですけど。
行ってすぐに絵葉書が一通来まして。
まだ学校に入る前っていう風な感じで内容が書いてあって、「当座は仕送りも必要ありません」ということでかいてありまして。

後、私の姉たちの名前がずらずら書いてあって、最後に信宏にもよろしくと書いてあったんで、「あぁ僕のことを忘れてないでいてくれたんだなぁ」と思いながら、喜んだ記憶があるんですけども。
その絵葉書が来て、一年たっても音沙汰が無いし、二年まではなってないと思うんですけど。
一年半くらいたった頃から、多分うちの父親があちこち・・・おそらく行ったのは警察とかあたりだと思うんですけど。
日本の警察じゃどうしようもないですから、それで外務省とかに手紙を書いたり電話したりしてましたですね。

私が外務省というか、スペインの大使館のほうにも手紙を出したりしてたみたいですけど。
どちらか、本省の方が言ったのか?現地の大使館の方が言ったのか?分かりませんけど。
印象に残っている言葉は、「それだけ言葉が出来てるんだから、結構楽しんでくらしてらっしゃるんじゃないですか?」「帰りたくないから帰らないんじゃないですか?」というようなことを、うちの父親に言ったらしくて。
「自分の育て方がまずかったのかなぁ?」と、「自分が何か押さえつけてたのかなぁ?」と。
時折ぼやいてたことがあります。

いなくなった後に、普段夫婦喧嘩というのはしないんですけど、大体きっかけは私のことで喧嘩になるもんですから。
例えば、髪の毛が、あの私の父親というのは髪の毛が長い人間が嫌いなんですよね。
だから私の兄なんかは、髪の毛をずっと伸ばしてるもんですから、「そんな見苦しい髪をするな」と、よく言うもんですから。

だから母親が帰ってきたときにお金が無いんだろうと思って、お金を渡して「これで切っておいで」と。
とりあえず切っては来るんです。
でもなんか、床屋さんに行った髪ではないんですよね。
で、あとでよくよく聞いてみたら、自分でそこらへんのはさみでちょっきんちょっきんと切って。(くすくす笑い)
写真のなかでどれかあったかな?(薫さんの写真を指し示しながら)
あ、ちょうどこの上のなんかそうですけど、これなんか間違いなく自分で髪の毛を切って、いますね。

ちょっと真ん中あたりは、いや真ん中も多分自分でやってるんだなと思うんですけど。
(「これもそう」と文代さんの声)
とにかくまぁ、まず一年に何回床屋に行ったかと、数えたほうが早いような人でした。
うちの父親は一月に2回でも3回でも、ちょっと耳にかかれば行くタイプで、だから私なんかにも「そんな伸ばすな」と。

で、母親や隣にいる姉の方はやっぱり髪の毛短く切るほうが好きなんですけど、ほかの姉たちはちょっと伸びた髪の方が好きらしくて、よく私はおもちゃにされてたんですけど。
だいたい、そういう「短くしろ、いやこれでいいじゃない」というのが喧嘩のネタになったりしました。
子供ですからいろいろ口答えするわけですが、それを母親がかばうと、また夫婦喧嘩になると。
いう図式だったんですけど。

その散髪の件に付いては、いろいろ余談があるんですけど、「家族」って本にも確か(となりの文代さんに向かって)書いたよね?
書いてあったと思ったんですけど、京都から帰省してきたときに「これお土産」とかって菓子箱になにか入れてきたらしいんですよね。
母親が「あれまぁ」と開けたらば、床屋代とか仕送りのあれとかなんでしょうね。
お金をずっと菓子箱に入ってたやつを母親にプレゼントしたという。
私は母親が泣いてる姿は見てないんですけど、姉のほうはね、それを見て喜んで感激して泣いてるのを見たということをよく言ってます。

私はなんでもぱっぱ、ぱっぱとお金でも使うタイプなんですけど、兄は本当にほとんどお金があれば、教材というか自分の勉強のものを買うと。
着るものについても無頓着ですし、食べ物もそこらへんにあるものなんでも良いやみたいな感じで。
よくスーパーとかで父親と買い物に行ったら、ちょっとカップラーメンとかが、一箱いくらとかって安売りがあれば、「これ薫に送ろう」と言って。

ジュースでもそうですよね、なにか買って送ってました。
とにかく送らないと、食わないで一週間でも二週間でも過ごすんじゃないか?っていう風なそういう雰囲気が漂っているような、兄でした。

服なんかもよれよれのジーパンとかはいてましたし。
とにかくネクタイ姿というのが大っ嫌いみたいで、北朝鮮側から出してきた写真なんかもネクタイの結び方が非常に下手なんですよね。(笑い声)
うちの父親なんかもあんまり上手なほうじゃなくて、要はひとかけっていうか、一回くるっとまわして伸ばすようなタイプで、そういうふうな結びをこれも(北朝鮮から提供されたネクタイ姿の薫さんを指して)してると思うんですが。

とにかくスーツとかいうものの姿を見たのは一回か二回ぐらいで、ほとんどラフな格好というか。
それしかなかったというのが多分現実なんじゃないかと思います。
母親なんかが(スーツを)買ったりとかして着せようとするんですけど、やはり性に合わないと。
私から見れば非常にジーパンが似合って羨ましいな、と思っているんですけど。

私が高校生のときに、「これ薫が着ていたやつだから、お前着てみろ」とかって、ジーパンをもらうわけですよね。
でも足の太もも辺りではいたときに引っかかっちゃうんで。(笑い声)
「じゃあ腰周りだけ直せばどうかな?」とかいったら、そうすると今度は、足の長さが全然合わないですね。(笑い声)

ただ、上のシャツだけはぴったし合う。
特徴というか体型の特徴ってのは、遺骨を持ち帰ってきたときに、体型の特徴というのは、橋本先生に言ったのは、「うちの兄は逆三角形で間違いありません」と。
「足も私の腰くらいあるはずです。自分ではいて確かめましたから」と言ったら橋本先生少し笑っておられましたけど。

松木家っていうのは、あんまりなんていうんですかね、足の長い人間とか、そんなに勉強が出来る人間というのががいなかったもんで。
「突然変異で出来た人間なんじゃないかな?」と僕なんかは子供の頃ずっと思ってたりしたんですが。
突然変異じゃなくて、影で隠れて人一倍努力をしていたと、今から考えてみればそういう風に思います。

辞書とかそういうのを離した姿というか、握っている姿のほうしか、私も印象に無いもんですから。
よく言ってたのは「この辞書を丸暗記するぐらいのつもりで、自分は勉強している」というようなことを、胸を張って言ってましたから、それだけのことをしていてたんじゃないかと思います。
ただ、私なんかはそういう真面目って言うふうな印象しかないんですけど。

私、学校も小学校から高校まで兄とまるっきり一緒なんです。
熊本の名前なんでご存じない方もいらっしゃるかもしれないんですけど。
中高一貫教育でやってる九州学院ていう、私立の学校に男は行かさせてもらったんですけど。
女の人は信愛女学院といって、両方ともキリスト教の学校なんですけど。
これクリスチャンの方は分かるかもしれないんですけど、九州学院っていうのはプロテスタントっていってキリスト教では新教の学校なんですけど。
信愛女学院のほうはカトリックの旧教の学校なんですよね。

一回聞いたことがあるんですよ、うちの父親に。
「どうして男は九学で、女は信愛なの?」とかって言ったら、「え~?意味は無いよ」って。
「うん、ただ見てくれが良さそうなところに行ってもらいたかっただけだ」(笑い声)と言ったときにはさすがに吹き出したんですけど。

ただ、自分がやっぱり勉強したくても出来なかったと言う事が、私にも言ってました。
やっぱり長男だったんですけど、もともと田舎は鹿児島なんですけど、鹿児島に帰ることをせずに九州の地方を転々としてたんで、言葉ではあまり苦労したという言葉は吐いたことは無いんですけど。
母親のほうは「苦労した苦労した」といいますけども。
でも本人は盲腸で腹膜炎起こしちゃって死にかけたとか、戦争中に爆弾で足やけどしてたりとか、体を見ればいろいろ痛々しい姿があるんで。
そういう苦労したということは人には言わない感じの父親でした。

兄もどちらかといえば、そういうことを言わないタイプで。
父親に似たか?というと、顔もそうなんですが、私の兄は母親にそっくりだな、と思います。
母方のおじとかみんな体がすらっとしてるんですよね。
体型も似てるし、男一人だけ、母方に似たと。
私は先ほども言いましたように孫ですから、なんか皆「年を追う毎にだんだん爺ちゃんに似てきたね」と。
「信宏は爺ちゃんに似てきた、あとは髪の毛似なきゃいいわね」というようなことを言ってますけど。

うちの家では特別な存在でした。
同じ学校なので、私立で先生とかも一緒なんですよね、私と。
教わった先生も一緒なんですよね。
やはり私は真面目な兄だと思ってたんですが、第三者の意見もやはり聞かなきゃいけないと。
ひょっとしたら、違った一面があるかもしれないと。
いなくなるには何か理由があるんだと。

その当時は拉致だとは思わなかったですから、絶対訳があるはずだというふうなつもりで。
それで「松木薫って覚えてますか?」と言ったら、実際教えたことあるはずなのに、知らないという先生もいれば、よく知っているということを言われる先生もいて。
「本当に松木の弟か?」とか「そうですけども」、「それは似ても似つかぬ兄だなぁ」、ということをよく言われました(笑い声)

やはり私が教わった先生で印象に残っているのは、もう亡くなったんですけど国語を教えておられた先生で、授業中酒飲んでやってくるタイプの先生だったらしくて。
私が教わる頃には定年間近でもうだいぶお年を召されて、代わりに質問に答えられたらポケットから飴やチョコレートをだして、ほれほれと上げるような先生だったんですけど。
「松木君、遊びにおいでよ」と。

家に行ったらずらっと寿司だの酒だのが並んでいて、「飲んでけ」とか。
本当は飲んではいけないんでしょうけど、もう時効だと思うんで、一緒に飲みながらいろりろ話をしたら、「本当にお前の兄さんも、もう少し頭が柔らかだったら、よかったのになぁ」と。
「お前ほど柔らかだったら困るけど」、とよく言われました。(笑い声)

その学校に入学するときも、父親が「松木薫の父親ですけど、今度私の身内が受験するんでよろしくお願いします」と。
「そんなことしなくてもいいのに」とかって言うんですけど、うちの父親はとにかく、兄もそうなんですけど、学校の先生に必ず挨拶に行く。

長崎だろうが京都だろうが、必ず一回は行くという、変に生真面目というかそういう面があって。
そこへ行ったときに、そこの先生から「松木薫さんの弟さんなら間違いないでしょう」と、「通るの間違いないですよ」と言われて。
それを聞いたときに、「さあ、これは通らなかったら大変なことだ」ということで、本当に勉強した記憶があります。

本当に幸い通りましたので、まるっきり同じ環境の元で勉強したんですけど。
でも同じ学校なので本当に思うんですけど、どう考えても自分の意思で行方不明になる事は考えられなかったんですよね。
だから、「おかしいな?おかしいな?」と。
「絶対この学校出てて、そんな蒸発するようなことないのにな」と思っていたら、ポツリと私の母親のほうが言ったことは、「本当は薫兄ちゃんは牧師になりたかったのよ」と。
「え?なんで?」と、「やっぱり学校の影響じゃないかしら?」とかって言ってたんです。

それを普段は基本的に勉強することについては賛成している父なんですけども、こと、そういう宗教的な面では「うちはちゃんと先祖代々の宗教があるんだから、そんな牧師になるんだったら勘当だ」と、「今後一切支援をしない」とかと。
相当強いことを言われたらしくて、それだけで断念したんじゃないんでしょうけど。

結局その牧師っていう道はあきらめて、「どうせなるんだったら先生になれ、学校の先生になれ」と父親が言ったらしくて。
そこらへんから「(学校の先生を)やってもいいかな?」ということで、学校の先生になる道を探り始めたらしいんですけども、と母親が言ってました。

私が高校一年のときですかね。
北海道からの手紙が届いて、二年後に私の家に連絡が入ったんですけど。
ちょっと姉がしゃべったときに父親が知ってるというふうなようなことを言ってたんですけど。
実は父親は知らなくて、姉がどうしてこういうことをいうかというと、その手紙が来たときに・・・母親が、姉たちは外に出て行ってますので、家には父親と母親と私という暮らしだったんですよね。
そのとき「絶対しゃべるな」と。

「きょうだい親戚はもちろん、絶対しゃべるな」ということを私に言ったんです。
「なんで?」と「だって身内じゃない?」と。
「いや身内だから何でも知らせていいってもんじゃない。そういうことを知ることでかえって迷惑をかける」と、「親戚にも迷惑をかける」と。
北朝鮮という国をなんとなくわかってたのかなぁ?と思うんですけど。

「とにかくしゃべるな!」ということで、強い口調で言われますもんですから、私もついぞ隣の姉にも何もしゃべらなかった。
本当に9.17のときになってから話したんだね?(文代さんに向かって)
本当にしゃべらないまんまで。
私の姉がどこから聞いたかといったら、警察から聞いたと。

だから、私からの口からも言ったわけでもないし、母親の口からも言ったわけでもないと。
だから、その分かるまでの、そういう拉致されているということが分かる経緯を私は詳しく話すことができなかった。
その点では申し訳なかった。
亡くなった父親にも申し訳ないけど、隣の姉にも本当に申し訳なかったと。 
隠し事してて申し訳ないと、いうふうに思っています。

そのまえにちょっと・・・連絡が取れなかった時期もあった。
それも仕方が無いけどね、あったからね、あれだけども。
そういうことでだから、黙ってました。
母親もそういうことで一切外話すこともなかったもんですから、ご近所も多分みんな知らなかったんではないかと思います。

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松木薫さんを救うぞ東京集会(3)

 松木信宏さんのお話2

よくまぁ、私の家に兄がいなくなってから、2~3年後くらいからおまわりさんが来るようになったんですよね。
「年寄りの家庭だから、年寄りとちっちゃい子供のいる家庭だから、見回っている」と言って来たんですけど、それがずっと代々引き継がれていって。
その手紙が来て、神戸の有本さんたちと連絡を取るようになってからはじめて言ったのが、
「松木さん、どっかから手紙が届いたとかって言う、連絡が来ませんでしたか?」
「え?なんでそういう話を知ってるんですか?」って言ったら、「実は・・・」ということで。

おそらくいなくなってから何年か後には、ひょっとしたらそういうことを把握していたのかなぁ?と。
それまではよく家に来てくれて私のアルバイトの世話をしてくれて、親切なおまわりさんたちだなと思ってたんですけども。
実際は私らの家庭の行動を確認というか、ひょっとしたらそういう思想の家庭ではなのか?と思われていたのかな?と思います。

ずっと家にこられていれば分かるんですけど、うちはそういう家庭ではないと分かるんですけども。
だから終わりの頃はうちの家に上がってきて「ちょっと今日は眠たいから寝させてくれ」といってよく寝ていったり。
「ご飯を食べに行こう」と言ってご飯食べに行ったり。
私が就職が決まったときはスーツを作ってくれて、熊本にいたときは何かとお世話になりました。

ホントにそれで3家族集まってから・・・が結構長かったです。
会ってすぐに帰って来るものかなぁ?と思ってたんですけど、なかなか。
初め確か私一人で行ったんですけども。
神戸のほうに行ったんですけど、外務大臣宛に嘆願書を出すという形式だったんですけど。
それで上京して記者会見すると。

そのとき有本さんや石岡さんが、「松木君はまだ高校生だから、そうやってテレビの画面とかそういう映像に出ると、将来何かあったら困るから」って言って。
「私は構わないからどこへでも行きますよ」って言ったんですが、石岡さんとかが、「いや、まだね、そういう将来があって、この先何があるか分からないんだから、ついて来ちゃだめだ」って言うことで。

「私たちでやるから」ということで。
会見をするぞということで行ったんですけども。
それは皆様ご存知かも知れませんけども、そういう北朝鮮とのコネクション持つという人が「この会見、取り合えず取りやめてくれたら何とかするから」というふうなことでお流れになって。
それから有本のお母さんお父さんとかがだいぶご苦労されて、それはよく放送などで出ているんで分かっていると思います。

ただ、私らの場合は、母親が「言うな、しゃべるな」というタイプでしたし。
「なんでかな?」と思ったんですけど、やはりもちろん兄の身に何か起こるかもしれないということもあったんでしょうけども。
ひょっとしたら本当はやってくれという気持ちがあったんじゃないか?と。
ただ相手が私ですから、やはり石岡さんとかと同じで、要らぬ気苦労をかけさせたくなかったというのがあったのかなぁ?とも思います。

その間、考え方の違いで連絡を取らない時期もありまして、石岡さんや有本さんとかとの交流が途絶えた時期もあって。
私も仕事で、大阪に行ったり東京に移ったりしましたもんですから、家族会結成とかそういう風なことは丸っきり耳に届かなかったと。

でまぁ、もし届いたとしても、姉はどうだか知らないんですけど、姉の場合は届いたら参加してた?(隣の文代さんに問いかける)
(文代さんの言葉)一緒にやりましょということで・・・その間に・・・最初は(後は聞き取れず)
うちの場合は、最初に集まったときにやるときは皆一緒でと。
石岡家もやるときは一緒にと。
みんなでやると決めたときに一緒にやろうと。
なんとなく暗黙の了解があったんですよね、表に出ることを控えようと。

それぞれ言葉に言うあれじゃないんですけど、なにかあったら?とかって。
そのあと、点点点ということになるんですけども。
有本さん場合はお父さん母さんの場合はご存知かもしれませんけど、叔母さんという方がいらっしゃって。
叔母さんという方も、やはり何かあったら、点点点と。

私なんかも今のまんまじゃ・・・というのがちょっとありました。
その手紙の中に私の兄の筆跡が何も無いもんですから。
熊本の警察の方にも「今声を上げても、向こうが知らぬといったらそこで、松木薫という者の存在自体が否定されちゃうぞと、なくなっちゃうぞ」ということを言われたんですよね。

なにも物証が無いもんですから。
やはりあの・・・生きてて欲しいという気持ちが家族にあるもんですから。
変に・・・
有本さんたちは証拠があるもんですから。
本人の顔写真もあるし、旅行保険もあるし、石岡さんももちろんあったんですが。
でもうちの場合は石岡さんの代筆で何も無いんですよ。
だから声を上げようにも上げられないと、いう状態でいて。

これはもう、ちょっと本音の本音なんですけど、ちょっといやらしい気持ちがありまして。
あわよくば、本人じゃないかも?しれないと、淡い期待を抱いていたんですよね。
本人の筆跡じゃないから、ひょっとしたら本人じゃないんじゃないか?と。
スペインでパスポートだけ盗られて帰るに帰れなくてスペインでね、現地人に成りすましているのかな?と。
言葉が出来るし、どこへでも行けると。
ひょっとしてそういう状態なのかな?とか。
ひょっとしたら北朝鮮に渡ってないのかな?と、ほんのちょっとだけ淡い期待を抱いていたこともあります。

ただ結果は、本人は向こうにいるということを北朝鮮は認めましたんで。
で、実際こうやって写真も持ち帰りましたし。
遺骨は人様のものでしたけども、ああいうシナリオも日本語のテキストとして使ってるということもいってるんですけども。
前にもここの場所で言ったんですけども、シナリオを日本語の教材というのはちょっとおかしいなぁ?と。
シナリオってその時代時代の流行語があるじゃないですか。

だから十年たったら使いものにならないフレーズというのもあるわけですし。
そういうものを日本語の教材に使うのはどうなのかな?と思って。
ひょっとしたらシナリオというもの自体が、「これは北朝鮮の“シナリオ”なんだから、あんまり信用するなよ」と、私なんかそういう風にとったんですよね。
姉なんかはその「出航」というドラマのビデオを見て、また違う思いを抱いたみたいで。
これはもう、兄が帰ってくるまで、どっちが本当のことかわかんないですけど。
本当にそういうものだったんではないか?と、何がしかの意味があるんではないか?と思っています。

ずらずらっとしゃべったんですけど、最初に姉も言ったんですけど。
私の兄がよく報道などでなにか色仕掛けとか、一度ならずも二度までも夕刊紙にちょっと書かれちゃいまして。
何の根拠があって言っているのかな?と。

その当時よど号の妻たちのアパートに出入り、兄と石岡さんがしてたもんですから。
そのとき一緒に出入りしていた女性がいるんですが、一緒にスペインに行ったことがあるんですが、その方にテレビでは露骨過ぎて放送できなかったんですが。
そのとき行かれたプロデューサーの方が「ずばり単刀直入に聞きます」というふうな形で、「何ですか?」と。
「松木さんとよど号の森順子(よりこ)っていうのは、肉体関係があったんですか?」と。
私なんかとなりでぐっと息を飲み込むばかりで、「何てこと聞いてくれるんだ」と。

思って聞いてたんですけど、そしたら一言で、「それは絶対にありません」と。
すくなくとも、スペインからウイーンにって言ってたんですけど。
まぁ、実際にウイーンに行ったかどうかもわかんないですけど、証拠が無いんで。
そのときに「少なくても私たちと一緒のときは、そういうことが出来る環境にはありません」と。
私の兄は勉強だけじゃなくて、トランプゲームも暇つぶしにやってたらしくて、「私は松木さんにトランプを教えてもらいました」と。

で彼女たちは、よど号の妻たちはふたりで自分たちのベッドで寝て、泊まることは私の兄や石岡さんたちは滅多に無かったと。
必ず遅くても帰って。
そのまま帰って、二度と行かなきゃいいんですけどね、なんか次の日にまたやってきたと。
だから、どういうふうな誘い方というか。
だから、一緒に食事をするのが色仕掛けだったら、それはね、どんな若い人は毎日色仕掛けを受けてるようなもので。
だから何を持って色仕掛けというのかな?と。

そういうことを書いて結局何もこういうこと、皆様はご存知でいらっしゃいますけども、拉致問題について。
何も知らない人が見たら、「なんだ、そうやってだまされてるんだから、帰ってこられなくても仕方が無いじゃないか」といった雰囲気を作ることになったりしないか?と。
私なんか、そういう報道を憤懣やるかたない思いで見ている。

あと、政府の発表と違うことを、さも政府の発表のように番組で言う方もいらっしゃいますし。
なんでうちの家ばっかりこんなこと言うのだろう?と。
お骨も2回も持って帰って来るし、と。
何かあるのかなぁ?と。
そのお骨のときも、薮中局長とかが帰ってきて個々の家族に説明するまでは何にも言わなくて。
次の日の新聞報道かなんかに、何気なく新聞を開いたらえ~?って感じで。
「何で話してくれなかったんだ?」ということで、問いただしたりもしたんですが。

そしたら「私たちは松木さんたちのものとは思ってないんで、言わなかったんだ」と。
「だったら鑑定が終わるまでマスコミにも言わなくていいじゃないか?」と。
変にそうやって流れるから、私たちいらない気苦労をしなきゃいけなくなるわけですし。
私らはいいんですけども、母親がもしテレビの放送とかを見たらまた「松木薫の遺骨」その後に「らしきもの」と付くんですけど。

「松木薫の遺骨」とかいうのが出るだけでも、痴呆といってもすべてが痴呆なわけじゃないですから。
読み書きはまだできる、あ、書くのはもう出来ないね。
読むのは出来るんだよね?
でも読むのは私の目の前でも、これなんていうの?というと読めますし。
活字は見れるわけですから。
そしたら活字はちゃんと頭の中に入っていくわけですから、どう思うのか?と思うと

うちの家ではポリシーがあってふたりとも。
松木薫のことについて、松木薫の名誉を傷つけられるような事については、どんなことをしてでも抗議するぞと。
うちの母親が泣くようなことをするやつは絶対に許さないぞ、というのが絶対条件であって。
だから、ほかのご家庭よりも過敏に反応する面はあるんですけど。

いや本当になんていいますか、私の兄は反論したくても反論できない環境にあるわけで。
かたや、いまよど号の妻たちが帰ってくるわけです。
いろいろ私が裁判とかへ行ってもいろいろ言ってるわけですよ。
そいつら自分たちの主張をね、いろいろ言ってるわけなんですよね。
それを聞きながら思うのは「いいよなぁ」と。
「おまえらいいよなぁ」と。

私の母の気持ちを代弁すると、自分が丹精こめて育てた息子を勝手になんの理由もなく連れ去ってて。
で、自分は向こうに居づらくなったから帰ってきて、そういう環境の中で、なに言ったって日本じゃ殺されるようなことは滅多に無いですしね。
仮に刑務所の中に入ったって、死ぬということはないですよね。

かたや自分が連れ去った人間は置いてけぼりで、いつ何があったっておかしくないようなところに置いてくる。
そんな理不尽なことあってもいいものかな?と思ってます。
それをずっと言ってたら、3月には石岡さんのまあ、ペアって言ったらおかしいですけども、拉致のときに石岡さんと接触してた若林佐喜子というのが帰ってきますし。
7月になったらいよいよ、兄のまあそういう相手だったといわれる森順子というのが帰ってきます。

帰ってきて・・・私の兄が帰ってきてからだったら、いつ帰ってきてもいいんですけども。
今のままで帰ってくるんだったら・・・まぁ、これは家族のエゴかもしれないんですけど、どうしても心の中に引っかかるものがあって。
少なくとも自分の兄たちが帰ってくるまでは、加害者が帰ってくるというのはどうかなぁ?と。
姉はどう思ってるか知りませんけど、私個人の気持ちとして日本の刑罰では軽いですから。
そのまま北朝鮮の刑法で罰してもらえたらな?と、そういうことすら考えています。

それに自分たちで好きで行ったんですから、そのまま向こうにいればいいんじゃないかな?と。
で、お子さんたちは罪がないと私も思うんですけど、でも毎月のように北朝鮮に行ってるらしいですから。
そんなに北朝鮮が好きだったら、もうまた北朝鮮に永住しちゃえばいいんじゃないかな?と。(拍手)
僕はそういう風に思ってます。

裁判に行って、これは笑い話なんですけど。
私は直接聞いたわけじゃないんですけど。
よど号のメンバーを支援している方々たちが、まぁ松木家は私の姉と私と、有本さんのお父さんお母さんと・・・石岡さん来られてたんです、今度は。
そしたら、ふた家族って言ってると。
石岡さんが余りマスコミに出ないもんですから、どれが石岡さんか分かんないで、ふた家族来てるとよって言ってたらしくて。

馬鹿じゃないの?って思いながら。(笑い声)
少しは学習しろと。
そんなことしてるとよそ見している間に刺されちゃうぞと。
石岡さんに刺されちゃうぞと。
そういう風に思ったりしたんですけど。

裁判でもよど号の弁護士さんたちのほうが迫力があるんですよね。
日本の検事さんたちの方はなんとなく弱々くて。
「これじゃ、大丈夫かな?頼みますよ」と。
なんか傍聴してて祈るような気持ちで、「もっとやってください、お願いします」という感じになりました。
まだ石岡さんなんかは、たまたまこの前は水谷、田中協子って言って元は水谷って言うんですけど、裁判の傍聴に行ったんですけど、やはり自分たちの主張をするわけですよね。
それを聞いて「私は拉致なんかに関わってない」ということを言う。

石岡さんなんかは肩をぶるぶる震わせちゃって。
「で、どうでした?」って私が聞いたら、「いい勉強をさせて、も・も・もらったよ」とかって顔を笑おうとしてるんですけど、顔を笑えずに引きつってひくひくしてる訳なんですね。
用事があるからって言ってすぐいなくなったんですけど。

普通なら感想を私にメールなどで送ってくるんですけども、待てど暮らせど送って来なかったんで、きっと相当ショックだったんだろうと。
昔は石岡さんなんかは「帰ってきて自分たちの罪を償いなさい」と、メンバーに対して比較的寛容なことを言っておられたんですけども、「一度裁判を見てください」と。
「考え絶対変わりますから」と。
変わったみたいです。
「帰ってくるな!」って言ってますから。
もう「帰ってくるな~!」ていうふうな。

私母親が元気な間は母親を悲しませることしたくないですし。
とにかく母親を一日でも長く長生きしてもらうということを、二人とも至上命題にしてますんで。
最後は時間の勝負かな?と。
母親はまだ元気なときに私に、あのこういうことを言ってはどうかな?と思うんですけど。
「私が生きてる時には間に合わないかもしれない」ということを、北朝鮮にいるという手紙が来たときに、すぐ言ったんですよね?
「なんで?」と。
「まだ70、大丈夫だよ」
「いや・・・」って黙るんですよね。

だからおそらく北朝鮮がどういう国なのか、薄々感じてたんじゃないかと。
そういう戦争体験もありますし、あとは母親の勘なのかよく分かりませんけど。
でも本当に母親が言ったとおりのことになってきてると。
なかなか・・・なんていうんですかね、その、兄が生きているということは日に日に強くなるんですよ。
もう間違いないと。

ただ、兄が帰ってくるということが、それと平行してなかなか行かないですよね。
進んだりこう後ろに下がったり、じれったいというか。
こんなじれったいことしてたら、うちの母親なんて今83になりますけども、今度4だよね。
何歳まで生かさなきゃいけないのかな?と。
120歳くらいまで生かさないといけないのか?と、それはちょっと難しいと、ホントそう思います。

私たちはこうやって訴えさせていただいたりお話させていただいたり出来ますけども、実際の交渉は政府ですから、政府の方にはしっかりやっていただきたいなと思います。
ただ私らに出来るのは母親をどんなことをしてでも、一日でも一時間でも一分でも長くやって生きててもらうと。
それしかないと思ってますんで。
これからもちょっとそういうふうなことでやっていきたいと思います。

あと私は、よど号のメンバーたちに対して、いろいろ出来得ることを、ね。
帰ってくるというのを「帰ってくるな!」といって、成田空港にバリケード張るわけにも行きませんから。
どうにかして、少しでも彼らが日本に居心地を、日本にいて快適だな?と思わないようにするしかないですよね?
性格悪いかもしれませんが。

それしか出来ないんで、無い知恵を絞って、いろんな人に協力を頼んでそういうことをやって、出来得ることならば「自分たちがやりました」ということを、正直に言えるような。
言わせると言ったら、あの人たちはおそらく意地でも言わんごとなるので、言っていただけるように丁重に丁重にいろいろ考えてやっていきたいと思います。
長くなりましたけど、本当、今後ともよろしくお願いいたします。(拍手)

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松木薫さんを救うぞ東京集会(4)

3.熊本救う会代表 加納さんのお話


救う会熊本の加納です。
今日はたくさんお集まりいただきまして大変ありがとうございます。

実は松木さんは、父の友人でありまして、あのお父さんがですね。
それを全く知りませんでした。
そして、うちにお母さんもよく遊びにこられておったんですが、拉致のらの字も言われなかったもんですから。
私はこの救う会の活動を始めて何年間も、うちにいらっしゃってた松木さんと、被害者のお母さんの松木さんが結びつきませんで。
結びついたのが2002年だったんですね。
それぐらい一生懸命自分でこらえていらっしゃったんだなぁ、と今から思います。

熊本県警も最近になって口をやっと少し開き始めていますが、拉致の当初から知っておったと。
まだたくさん情報を隠しているみたいで。
先ほど信宏さんがおっしゃいましたが、「今騒いでも向こうがいないと言ったら終わりだ」などと。
信宏さんたちは非常に好意的にそれを受け止められたみたいですが、とんでもないと。
公安の関係の話を聞くと、たくさんの情報をいまだに隠しておるんだな、と思って。
今年はもっと、そういうのを少し目標にしようかな、と。
口を開かせるということで目標にしようかなと思ってます。

で、今日丁度、熊本の朝鮮会館の減免に関する裁判を私が今しておりまして、今日結審だったんですが。
今度4月の21日に判決が下ります
熊本の市長は、私どもがおととしの9月に監査請求を行いまして、熊本市の監査委員が「減免は不当である」と。
「直ちに徴収しなさい」という、勧告が出たにもかかわらずこれに従わなかったと、言うことで私が裁判を起こしたんですが。

熊本の市長は保守系の人だったんですが、どうも市長に当選するときに共産系の人の支援を得まして、どうもそのせいで朝鮮会館の減免を続けておるようなことみたいです。
で、丁度朝鮮会館というのは、今信宏さんがおっしゃられたように、松木薫さんも信宏さんも行かれた九州学院高校の目と鼻の先という所にありまして、多分、なにか関与があるではないかと思っております。

本当にいま少し、もう一歩だと思っております。
今年、今年は本当に帰ってきて、皆でやれたらなと思っています。
どうぞよろしくお願いします。

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松木薫さんを救うぞ東京集会(5)

西岡力副会長のお話(1)  

本日の実はですね、家族会・救う会の役員で、新しく外務省の次官になられました谷内さんと、それからアジア太洋州局長に新しくなられた佐々江さんの所に挨拶に行ってきまして。
その前に支援室にも行ったんですが、支援室でもらった資料がこれでして。
・・以下資料の内容 全文引用開始・・・

拉致問題に関する専門幹事会 
第17回会合(平成16年12月18日)概要

 拉致問題に関する最近の情勢や今後の対応等についての報告等。
 杉浦副長官(議長)より、以下の点を述べ、関係省庁に対して一層の尽力を要請。

○ 第3回日朝実務者協議を通じて北朝鮮側から得た情報及び物証からは、「8名は死亡、2名は入境を確認せず」との北朝鮮側説明を裏付けるものは皆無である。北朝鮮側の「結論」は客観的に立証されておらず、我が方としては全く受け入れられない。


○ 今後の対応として、次の6点を確認。
 ・ 北朝鮮側が、日朝平壌宣言に則り、安否不明の拉致被害者に関する真相究明を一刻も早く行なうとともに、生存者は直ちに帰国させることが基本であり、これを要求していく。
 ・ 北朝鮮側の迅速かつ納得いく対応を引き続き求めることとし、その対応如何によっては厳しい対応をとらざるを得ない。
 ・ 対北朝鮮人道支援は当面行なわない。
 ・ 船舶検査等、現行制度の下での厳格な法執行を引き続き実施していく。
 ・ 拉致事案に関する責任者の特定及び処罰に関して、より明確な説明を求める。また、拉致に関し国際手配している3名について、その他「よど号」犯行グループとともに、北朝鮮に対し、引き続き身柄の引渡を要求していく。
 ・ 拉致問題に関する情報収集に引き続き努める。

○ 帰国された拉致被害者御家族に対する支援を関係機関が連携して行うこと、拉致問題の解決なくして日朝国交正常化はないこと、を確認。
                                                   (了)

・・・資料の引用終了・・・

これは昨年の12月28日に、政府が北朝鮮から第3回実務者協議で提供された、証拠なるもの情報なるものを分析をした結果を発表しましたね。
それを受けて専門幹事会というのが開かれたと。
政府の中で各省庁の局長クラスの人が入っていて。
安倍さんが官房副長官のときに議長をやられてたんですけども。
その後任の後任ということで杉浦副長官が議長をやっているんですが

そこでですね。
最初の丸のところでこう書いてあるんですね。
議長より以下の点を述べた、と政府の立場なんですが。
第3回日朝実務者協議を通じて北朝鮮側から得た情報及び物証からは、「8名は死亡、2名は入境を確認せず」との北朝鮮側説明を裏付けるものは皆無である。
皆無であると。

北朝鮮側の「結論」は客観的に立証されておらず、我が方としては全く受け入れられない。
説明を裏付けるものは皆無である。
全くない。
そして、我が方としては全く受け入れられない。
一部でも受け入れる部分はない。

というのが今の日本政府の基本的な立場です。

ここでずっと私はひとりひとりのお話を聞いた後にずっと言ってたんですけど。
北朝鮮が8名死亡、2名入国・・・日本政府が北朝鮮を国と認めてないんで「未入境」といってるんですね。
我々もそうしたほうがいいのかな?と、思ってるんですけど。

という風に言ってるんですけども。
それを裏付けるものはないんです。
ないと、家族会・救う会は言ってたんですけども、今は政府も言ってるんです。
今は日本政府も8名死亡、2人が入ってないということを裏付けるものは全くないといってるんです。
ゼロだといってるんです。
日本政府が我々の認識に一致したということです。

そのことを強くここで確認したいんですけど、その中にはつまり松木薫さんのことも含まれているわけです。
松木薫さんが死亡したということを裏付けるものは皆無である、と。
松木さんが死亡したという北朝鮮のいわゆる結論は、客観的に立証されていない。
我が方としては全く受け入れられない。

これは家族がまだ諦め切れなくて言ってることではないんです。
日本政府の基本的な見解なんです。
そういう点で、私たちはこの間も申し上げましたけども、この2年間で大きく勝利したんですね。
2002年の9月の終わりに日本政府の調査団が行っていろんな事を聞いてきたわけです。
そのとき松木薫さんの遺骨であるという可能性が大きいものと称するものが、まず来たりしたんですね。

そしてどこどこで死んだとか、どうだって話はいろいろ出てたんです。
それについて当初から我々は信用していなかった。
疑問があるって事をずっと言い続けてきたわけです。
北朝鮮側はそれを信用させようとしたんです。

10人について限定して言いますと、この2年数ヶ月の間の私たちの北朝鮮との戦いというのは。
8名死亡、2名入境と北朝鮮側は言ってるけれども、それは全く根拠がないんだということを、主張する戦いだったんです。
彼らは日本政府にそれを認めさせようとしたわけです。

小泉総理は一時期、「私の任期中に国交正常化をする」といったわけです。
それは拉致問題が解決するという見通しがあったわけです。
それはどういうことかというと、北朝鮮側の言ってることについて確認出来るようなものが出てくるだろうと。
そうすれば先に進めるということを考えていたから、ああいう発言がでるわけです。

しかし私たちはそんなことは無いと。
生きてる人たちを見捨てるのか?と。
去年の5月からずっと言ってたわけです。
ですから安否不明者という言葉はやめて未帰還者と言おう、と。
向こうにいるんだと。
証明されてないじゃないかと。
言うことを言ってたわけですけども。

北朝鮮は満を持してめぐみさんの遺骨と証するものを出して来たわけですね。
それが鑑定できずという結果になれば、国民の半分くらいは死んだかもしれないと思う人が出てきた可能性が高かったわけです。
実際国会議員の中でも松木さんは死んでるんだと、いうことを公然とあるマスコミの集まりで言った人がいて。
松木家に謝罪に来てもらったわけです。
その後もその人は死んだということを言ってるわけです。
今度は松木さんだけじゃなくて、被害者はほとんど死んでる。
皆死んでるとかって、言ってることを私たちは裏づけを持って確認してますけども。

しかし、一国会議員が言うことと日本政府の基本的立場は違うんだと。
今日谷内次官に会いましたけど、「もう真相究明とあまり言ったら良くないんじゃないか?と私は思ってる」と次官が言ってました。
真相究明というと今生きてる人、まぁ、ちょっとそこまで露骨じゃなかったですけど、意味としてですね。
変なことをして証拠だというものを出してくるかもしれない。(拍手)

我々はずっと言ってきたんですけども。
外務省の事務方のトップがそういうふうに言ってました。
それは安倍晋三幹事長代理もいろんな所で講演でおっしゃってるとおりです。
ですから今は日本政府の基本的立場は、生存者を帰せということだ。(拍手)

そしてですね、私たちは5月の時に「政府は生存者を見捨てるつもりなのか?」と記者会見で言って。
松木さんですよね?(信宏さんの方を見る)
総理に「総理は被害者は生きてると思っているんですか?」と端的な質問をされたわけですよね?
そしたら「生きていて欲しいと思うけど、私は分かりません」と。
「分かりません」とうふうに客観的な物言いをされるわけです。

横田さんの早紀江さんがここにおられますけど。(会場には横田夫妻と、飯塚副代表の姿もありました)
お母さんがいつもおっしゃるのは、「救出運動というのは、例えば川や池にはまって溺れている子供たちを取り戻しに飛び込むようなものだ」と。
飛び込んで身柄を引き上げて人工呼吸して、病院に連れて行って、それで死亡だとお医者さんが言って、それで救出運動が終わるわけです。

今は何も分かってないんですから。
分かってなければ、「生きてるってことを信じて助けます」ということをなぜ言わないのか?(拍手)
「生きてるということを信じて助ける」ということを総理が言わなくて誰が助けるんだ、と。
第三国の人が言うんならばいいでしょうけども、「助けに行こうとしたのじゃないのか?あなたは?」と。
「平壌に行くときに、生きてるのか死んでるのか分かりませんという気持ちで行ったのか?」というふうに思ったわけですよね。
端的にそういう質問したのはそういう気持ちですよね?(信宏さんの方を見る)

それはまさに、松木家については遺骨を、あのときにも遺骨が出てきて。
そのあと有力な国会議員の人が、北朝鮮の人間と会ったあとで死んでるといい始めたと。
いうことがあったから総理と確認したかったわけですよね?(信宏さん「そうです」の声)
しかし今はこうなっているわけです。
皆無であると。
全く受け入れられないと、いうことで。

そういう点について私たちは日本の政府も変えることが出来たと。(拍手)
この2年間やってきた運動が大変大きく勝利したと。
めぐみさんたちは生きているということをずっと言ってきたわけですけども。
そのことについて政府は客観的に立証されていないと、死亡ということは。
だから今生存者を助け出すことを第一優先にするんだといっていると。
まずそのことについて確認しておきたいと思います。

そしてですね、もうひとつ、松木さんのことについてお話があって。
私はひとつ考えたんですけど、実は松木さんについては不安があったんですよね。
最初の手紙で有本さんと石岡さんは自筆で筆跡があったわけです。
住所もちゃんと番号までちゃんと書いてあったんです。
旅行保険の証書とかが付いてたんですね。
写真も有本さんと石岡さんの写真はあって、そして有本さんと石岡さんの子供ではないか?と思われる子供の写真も付いてたんですね。

我々は子供のはそれは松木さんの写真じゃないか?と長い間誤解していたんですけど、そうじゃなかったんです。
というのはつまりあの手紙が出された時、すでに松木さんは有本さんと石岡さんとは離れていたんではないか?と。
で、よど号グループからもれ伝えられてくる話でも、松木さんがかなり怒って抵抗したと。
で連れて行かれたとかというような、伝聞ですけれども、そういう話もあったので。
あの時点で一緒にいなかったということは、じゃあどこに行ってるんだろうか?と。
特に抵抗したということは、北朝鮮の中で抵抗するということはどういうことを意味するのかと、いろいろ心配せざるを得ないような状況が実はあったわけです。

しかし今回ですね。
手書きの「出航」というTBSの番組のシナリオですが、シナリオといってもシナリオそのものではなくて、ビデオを見て松木さんが起こしたものなんです。(会場より「ほぉ~」という声)
セリフを起こしたものなんです。
手書きのものなんです。

ビデオが北朝鮮に誰かから運ばれて、それを見てビデオを止めながら、日本語に起こしたものなんです。
それをきれいに清書したものが出てきたんです。
日本語の教材だといわれているんです。
教材だというのは間違いはないと思います。
だとすると、つまり松木さんには何らかの役割が与えられたわけです。

つまりよど号の犯人たちのグループの一員として出て行って、また別の人間を拉致してくるということを拒否したんだということになるんだと。
そしたらば今度は「強制的に拉致した人間ていうのは信用できないんだな?」ということになって。
蓮池さんたちなんかと同じような所に入れられて、工作員たちに日本語を教える特殊機関の中でですね、側に回されたと。
そこで今度は教材作りをさせられたという証拠だと。

つまり抵抗した後に収容所に入れられたりとか、そういうことはなかったという、明白な証拠がここで出てきたと。
よど号グループと離されたけれども、そのあと日本語の教官になったということですから。
今でも生きているという可能性がもっと高まった、というふうに思っています。

実はですね、特殊機関、まぁ3号庁舎というんですけども。
北朝鮮の特殊機関の中には出版社があるんですね。
それが金正日政治軍事大学の中にあるんですけども、その出版社は実は政治軍事大学の中だけで使われる教材を作ってるんじゃなくて、外のすべての工作員たちが使う教材を作っていて。
そこには学生、生徒たちは近寄っちゃいけないことになってるわけですね。
そして安明進氏はそこにも拉致された日本人がいると、聞いているんです。

実はめぐみさんの写真であの、車が・・・あれ?車があった方でしたっけ?
(司会者より「車があった方」の声)車があったほうですね。
車があった方の写真、石垣があるんですけど、あれが出版社の前です。
安明進さん、その場所よく覚えていて。
じつは石垣、そこに雪が積もって春になるとですね。
雪が解けてきて、雪と一緒に枯葉だとか土が溝に詰まるのでいつも学生たちが動員されて溝掘りをやらされたので、だからこの場所を良くしっているんだと。
ただ、その上には行っちゃいけなかった。

松木さんはその上にいた可能性がある。
つまりその「出航」というのは日本語の教材だというのは間違いがないですから、拉致された人たちに一般の大学の教材を作らせる事は有り得ないわけですから、そこにいたんではないか?
いうふうに今は思っています。

とにかく一番心配だったのはよど号グループから離されたと。
で、抵抗したと、向こうで抵抗するのはかなりのことを意味するわけですから、そういう点が心配だったんですけど。
教材が出てきたということは、先ほど二人なりの解釈されていましたけど、私の解釈はよど号グループと一緒の活動はもう出来ないと。
忠誠心がないから。
しかしせっかく捕まえてきた「資源」ですから、彼らからすれば。
日本語、蓮池さんたちと同じような使い方をしようと。
そっちへ回されたと、ではないか?というふうに思っています。

しかしこれらのこともすべて北朝鮮側が証明するべきことなんですね。
私たちは生きてると信じて助けると。
出しなさいということで。
それは日本政府同じ姿勢を持っていると、いうことです。

そういう点では今後どういう形で松木さんたちを助けていくのか?と。
今信宏さんが生きているということは確信を持てたけど、でいつ帰国させるか?ということについてはじれったいと、いうふうにおっしゃってましたけど。
生きてるということについての確信は家族は2年前から持ってたんですけど、今日本政府にここまで確信を持たせることが出来たということは大きな勝利でして。

まずこれがなければ先に進めなかったわけです。
今は日本政府は生きてる人を取り戻すってことを優先すると。
真相究明はかえって危ないと、いうふうに言ってますので。
そういう意味ではこちら側の体制は整ったと。
認識は一致したと。

この2年間の戦いはそういう点で大変大きな勝利があったと。
ただ我々は、今勝ったということが分かってない人が首相官邸の真ん中にひとりいると。(笑い声)
いうことが少し問題ではあるんですが。
しかし基本的にはここ書いてあるとおりのことを日本政府はすると言ってるので。
生存者は直ちに帰国させることは基本であると。
これは日本政府の決めたことですからね。
ああいうことすることが出来たという点では、今は大きな2年間で前進したことで。

そしてブッシュ政権が、第二期のブッシュ政権が出来まして。
ブッシュ大統領は、松木さんを含むすべての拉致被害者の居所が分かるまで日本政府の政策を支持するというふうに、2年前の5月に小泉総理にハッキリと言ってるわけですね。
今回経済制裁についてアメリカは6者協議のとの関係で消極的だという、一部の誤報がありましたけども。
それははっきりと誤報で。
アーミテージ副長官は12月に平沼拉致議連会長と直接会った席上で、自分の発言が誤解されているので訂正しておく、と。

制裁には程度の高いものから低いものまでいろいろある。
それについて何をするのかを決めるのは日本政府だと。
しかし日本政府がどのレベルの制裁をするにしてもアメリカ政府は支持すると。
これがアメリカ政府の立場だというふうに、八ッキリとアーミテージ副長官は平沼会長に言ったわけです。
それはアメリカ政府の立場として言ってるわけですから、人が代わっても変わることはないことだとハッキリ言えるわけです。

北朝鮮側が拉致を認めて謝罪していながら、結論を客観的に立証できるものを何も出していない。
これは明らかに平壌宣言に違反ですから。
日本側は迅速に出しなさいと今言ってるわけですが。
答えなさいと言ってるわけですが。
絶対に答えられませんから。

そうなったときに一月の終わりぐらいから、2月のはじめ、12月の末に日本側は抗議して再回答せよといったわけですね。
期限が付いてないのが我々はちょっと不満なんですけど。
しかし期限については常識の範囲がありますと。
1年も2年も引っ張ることはしませんと、政府は言ってますので。

今日の話では北朝鮮側から公式に返事はまだないと。
ただ外務省スポークスマンの口を通じてたり、北朝鮮の新聞を通じていろいろ言ってると。
しかしそれが政府の基本的立場かどうかについては、まだ分からないと。
だから何回もこれからちゃんと返事をしろ!というふうにいい続けていくと。
そして北朝鮮側に迅速かつ納得のいく対応を引き続き求めると、書いてありますね?
そしてその対応いかんでは厳しい対応を取らざるを得ない。
その中には当然経済制裁の発動も入っていると。

そしてもひとつよど号犯人グループの国際手配している3名ですね。
3名の中に安部公博が入ってるわけで、有本さん拉致については引渡しを求めると、犯人としてですね。
森と黒田について日本の捜査当局にしていただきたいのは、安部公博は国際指名手配をするだけの拉致についての容疑を固められたと。
松木さん拉致と石岡さん拉致について、拉致だと認定しているわけですからね。
その犯人について、なぜ指名手配できないのか?と。

拉致容疑で指名手配をして、(森と黒田が)帰ってくるのを迎えて欲しい。(拍手)
いま捜査当局は必死でやってると思ういますけど、一番だと思うんですね。
今日本の法廷で拉致で、旅券法違反じゃなくてね。
まだ日本の法廷で拉致で誰も裁かれてないんです。(拍手)

八尾恵氏についてもまだ逮捕もされてなくて、参考人状態ですね。
多分安部が帰ってきたときに一緒にやろうと警察は考えているようですけども。
でもとにかくあと二人帰ってくると今いってるんですから。
ハイジャック犯たちは帰ってきたらば、ハイジャック防止法で裁かれるわけですから。
あの二人は帰ってきたらば、拉致犯人として裁かれる。
当たり前のことだと思うんです。(拍手)

そして民事的な責任も取ってもらうと。
刑法と同時に民法もありますから。
当然それはご家族とも相談しながらですね。
先ほど彼らはいやな気持ちをするようにという言い方をされていましたが、いやな気持ちじゃないです。
人間として当たり前の責任を取ってもらうと。
それは刑法上、民法上も、日本は法治国家ですから。(拍手)
ということをきちんと日本の法律に基づいてやっていただきたいと。

そのために警察当局に、公然とですね犯人が「逮捕されないと思って帰ってくる」と言ってるわけですから。
それをぜひ拉致で逮捕して欲しいと、いうふうに思ってますし。
日本の警察を甘く見てもらっては困ると。
多分この話も北朝鮮へ行くでしょうから、あなたたちは拉致で逮捕されるぞと。
その覚悟して帰ってくるなら帰ってきなさいと。
北朝鮮当局ともそのつもりで。

田宮はですね、実は自分たちは20人拉致したというふうに言ってるわけです。
まだ松木さんたちは手紙があったから名前が出てるって事で表に出られるけども、同じ立場の人があと17人いるわけです。
その人たちがまさに今特定失踪者の中に含まれている人たちもいる可能性がある。
ただ、海外で拉致されてますから。

海外の場合はもっといろんな理由があるということで、特定失踪者に何も出てない行方不明者の方も多いんじゃないかと思ういますけども。
まだ名前も出ていない被害者を彼らは知ってるわけですから。
一緒に住んでたんですから。
八尾さんももっとちゃんと話して欲しいというふうに、私は思ってますけども。

しかし日本政府とだんだん足並みが揃ってきましたので。
今当面は1月の終わりから2月のはじめぐらいに、北朝鮮が今回の第三回実務者協議で出して来た証拠と情報なるものについて、納得できる解答をしなければぜひ制裁をかけていただく。

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松木薫さんを救うぞ東京集会(6)

西岡力さんのお話(続き)

国会議員のアンケートでは今日配りましたけど。
全国会議員のアンケート、回答者の80%が早期に経済制裁発令せよ、といってるわけです。
回答率が57%で出したですけども。
これ以外に文章などをつけて1・2・3などに丸をつけなかった人は回答率に入れてませんので、それを入れると63~4%になりますけども。

そのなかで明記的に経済制裁に反対だとした人は5人だと。
その他につけた人たちも制裁という言葉を使って、今は反対だけどもう少ししたらやるべきだと。
早期じゃなくてですね。
北朝鮮の回答いかんによっては、という点では今の日本政府と同じなわけです。
この早期にというのは回答を待たないでという意味ですからね。

回答を待たないでも80%は賛成で。
その他につけた人たちの18%も回答を待ってやるべきだといってるわけです。
100%に近い国会議員がそうと言ってると。
そして世論調査でも国民は制裁を求めるわけですから。

私たちの戦略は、とにかく早い時期に拉致を理由として日本で単独制裁をかけてもらう。
それがまず対北朝鮮内部に大きな影響を与えるだろうと。
対北朝鮮内部で言いますとですね。
これは今は北朝鮮の担当者が大変困ってるんだと。

金正日に対して松木さんの骨を2年前送ったときに、高温で焼いたらDNAは出来なかったと。
あごの骨で変な骨相学の先生っていうのが変なやつがいて、あごのちょっとした骨だけで男か女か年齢とか分かっちゃうと。
今回は前回の松木さんのと同じ温度であごの骨入ってなかったんです。(笑い声)
分かりやすいんです。

だから金正日がそれならいいって決済したんです。
ところがDNA鑑定できたんです。
でも彼らは今何を言ってるかというと、DNA鑑定が偽物だと。
日本の方が嘘をついてるんだといってるんです。(笑い声)
そういわないと担当者は金正日の決済をもらった人が、「お前の言うとおりにやったら、これ何だ」といわれるから。
日本の鑑定結果を今の担当者は認められないんです。

実は90年代にですね、韓国の財閥の現代が500頭くらい牛を送ったことがありました。
すぐ死んじゃったんです。
で最近ですね、韓国に当時の事情を知ってる人が亡命してきてその時の話をしてるんですけども。
あの、牧草がなくて死んじゃったんですって。
当時は大飢饉で皆人々は草を食べてたから。
人間が草を食べてたから、牛に食べさせる草がなかった。
いうのが真相なんだけども。

金正日はその牛を大事にするように言ったと。
ところが死んでしまったんで担当者は困って、南朝鮮から送ってきた飼料の中にビニール紐とかなんかが混じっていて、それを食べて牛が死んだといって解剖して、牛の胃から出てきたというビニールの紐とかの写真を国際的に公開したと。

つまり担当者からすると、金正日から言われた事をうまく出来なかった場合に、自分の責任には出来ない。
認められないんです。
それは左遷されるだけではなくて、もしかしたら命がなくなるかもしれない。
そういう独裁社会ですから。

今めぐみさんの骨を出した担当者も困ってるわけです。
だから日本側のでっち上げなんですって、今金正日に上に上げてるわけです。
「で、の証拠は?」っていったら、「小泉総理は怒らなかったでしょ?」と。(笑い声)
「まだ話し合いが必要だ」、といったじゃないですか。
「あれは少し後ろめたいんですよ」、というふうなことを必死で言って、命がかかってますから。

そして遺骨も返せといってますよね?
返したらば、牛の胃から出てきたといって変なもの入れて写真を撮ったときと同じように、生きてる人たち、めぐみさんの腕なり何かから、DNAを入れてしまう事だってやりかねない。
担当者それじゃないと自分が死んじゃうわけですから。
家族もろともですね。

平壌からはずれて田舎に行くということは、配給ないわけですから飢え死にすることもありうるわけで。
処刑されるということでなくても生き死にの問題になるわけです。
必死だと思いますけど。
だからこそ日本が本当に怒ってるんだと。
もう皆無なんだと。
絶対にそのことについては揺れないんだと、いうふうにして低いレベルでも制裁かかれば担当者代わります。

代わった後ですね。
北の中で別の新しい担当者が、つまり「8人死亡2人未入境といった、あいつらのやり方は駄目だったんです。新しい案を出します」といって、「誰を返しましょうか?」と。
「10人全部返すほうがいいか?」、なんか考えます。
向こうは押されているわけですから。
日本の世論を納得させるために。

「じゃあ、パスポート持って入ってきた人は自分から入ったと言いやすいから、3人返しましょうか?」とか。
なんかいろんな案を考えると思います。
返してもらってきたら、まだ駄目だと言えばいいわけですから。
そういう点では帰国も近づいていると。
担当者を代えることが出来れば。

それからもうひとつ、北朝鮮では明日何が起こるか分からないような状況に今なってます。
最近亡命してきた人と、私昨日までソウルに行ってきていろいろ話を聞いてきたんですけど。
最近亡命してきたですね。
ある高い地位にいた人が、「韓国や外国社会は北のこと何も分かってない」と。

「金正日は今逃げ回ってるんだ」と。
「人民が一番怖い」と言ってる。
「だから軍隊ばかり行ってるのはそうなんだ」と。
「金正日が逃げ回っているところから分析をはじめなくちゃいけないんだ」と、興奮して私に言うんですね。
「それをあなたたちは分かってない」と。

それから別の脱北者出身のジャーナリストの人が、中国へ行ってよく脱北者とか内部を取材している人がいるんですけども
北朝鮮の人民の金正日に対する考え方はどうですか?言ったら。
みんなの前で「あの野郎!」とかって呼ぶようになってると。
我々ブッシュ大統領の当選を喜んだんですけども、北の人民もブッシュの当選を喜んでると。(笑いと拍手)

ブッシュ大統領が金正日を悪だといったのを皆知ってて、口コミで。
悪だといった人が、自分たちも悪魔だと思ってるんですから、その人が当選したと。
だから韓国は反米になってるんだけども、北朝鮮は親米になってる。(笑い声)

という状況の中で、中国が親米的なクーデターでも起こると困るのでその前に手を打つとか、いろんなシナリオがありうるわけですけども。
しかしそのときにもう一つ北の内部に対する重大な意味を持ってくるのは制裁のですね、日本が怒ってるんだというのを伝えなくちゃならない。
金正日が逮捕されたり処刑されたりした後ですね。
誰か実力を持ってる暴力を持ってる軍隊とか政治警察とかが権力握ると思いますけども。

そのときのその直後に、「被害者どこにいるんだ?保護しろ!」というふうになるかどうかが勝負なんです。
今日本担当や工作機関の人間たちは日本との関係で拉致問題はずせない、ということは分かってきたと思うんです。
しかし北朝鮮の軍の幹部や政治警察の幹部までにそれが伝わってるかどうか?
皆縦割りですから、分かってない可能性がある。

拉致を解決しなくても50万トン米が行ったじゃないか、と。
彼らはそういうことを経験してるわけですね。
でも絶対に日本からは、今認定されている人とそれ以外の人を全員返さない限り、日本は怒ってるんだと。
援助どころが制裁がどんどんどんどんかかってくるんだと。
核問題でアメリカと妥協しても日本はだめなんだと。

いうことを北の人民軍の幹部や政治警察の幹部に、そういう人間しか絶対クーデター起こすことできませんから。
そういう人たちに知らせると
次のポスト金正日政権になったら「被害者どこにいるんだ?」と。
「担当者出せ」と。
「保護しておけ」と。
「これからどうするか、後で決めるけどまず保護しておけ」と。
「混乱の中で流れ弾に当たったり、飢え死にさせちゃだめだ」と。
「逆に病気だったら病院入れろ」と。
「あとで返さなくちゃいけないんだ」と。

そういう点でもう日本が拉致で制裁かけなくちゃいけない。
アメリカと一緒に核とか拉致とか、アメリカにいわれたからやったんだということになって。
ほかの担当者以外の人たちは誤解するかもしれない。
偽物の遺骨をという酷い事されて、皆無だといってるんだから制裁すると。

日本はなぜ制裁したんだ?と。
北朝鮮製のアサリが売れなくなったと。
外貨減ったと思わせなくちゃいけないわけです。
いくらマツタケ採っても日本は買わなくなったと。(拍手)
金正日の秘密パーティーに行ってもトロが出なくなったと。(笑いと拍手)

金正日が機嫌が悪いと。
言うことが上層部の中に皆伝わるようにしなくちゃいけない。
「何なのか?」不思議に思ったらば、いや今まで何もしなかった日本が制裁かけたんだと。
そういうことが口コミで伝わるようにすれば、ポスト金正日にとって一番安全になるわけです。

残念ながら日本は自衛隊を送って助けに行くって状況じゃないし、どこにいるか正確な情報をまだ掴んでませんから。
そういう点でも、いつどこで起こるか分からない混乱の中で助けるためにも、まず日本は絶対に全員を取り戻す必要意思が政府と国民とにあるんだと、言うことを伝えなくちゃならない。(拍手)
それが出来るのが制裁だと。(拍手)

そしてもうひとつ対外的にですね。
制裁は大変効果があると。
一国でやっても効かないんじゃないか?という人がいますけども、そんなことは無い。
日本が絶対に拉致問題で妥協しないんだ、というメッセージになるんです。

核問題は皆考えているんです。
核問題については中国は、韓国もアメリカもいろいろ考えているんです。
核問題を妥協させるために、日本の金を使おうと皆思ってるわけです。
日本の金で北をおびき出せばいいって、皆言ってるわけです。
日本の専門家、いわゆる国際政治の専門家という人もそういうこと言ってる人多いですけど。

でも日本は拉致で制裁かけるということになれば、核は全部解決しても拉致は解決しないから。
制裁かかかってるのに日本が援助出すことはありえないと。(拍手)
つまり核問題を解決しようとアメリカや韓国や中国が考える場合に、この制裁を解除させなきゃだめだ。
それは生きてる人を全員返せということで理由に制裁かかってるから、返さなくちゃだめなんだ。

そしたら北朝鮮説得するしかしょうがない、いうことになるわけで。
すぐ金正日政権が制裁したら3日後に倒れるかどうかという、議論じゃなくて。
国際社会が日本の決意を感じるということは、今後拉致問題が国際社会の核と並ぶ優先課題になるわけです。(拍手)

そしてもうひとつ。
核問題で6者協議で、アメリカは6者協議出してますよね?
日本も出してると。
今後もアメリカは出しますし、日本も出すわけです。
その後、韓国や中国にもどうやって出してもらうようにするかという事ですけども。
韓国や中国は、出さないで拉致問題は2国でやれと。
核問題だけ進めようと言ってるけど、制裁かかっていればそれも出来なくなりますし。

いよいよ多分今年の、私は遅くても今年の後半には6者協議では進展がなくて、国連の安保理事会に北朝鮮の核問題が行く可能性がかなり高いと見てます。
イラク情勢とかイランの問題とかいろんな要素がありますけども。
今年の後半には国連の安保理事会にかかる可能性大変高いです。
そうなったときに安保理で核問題だけ議論させるんじゃなくて、核と拉致を一緒に議論させると。
そして国際制裁をかけるということになるわけですけども、制裁の理由に核と拉致両方を入れてもらう。
出来れば人権問題も。(拍手)

実はそれは先例があるんです。
対イラクの1441号決議というのがありまして、国連安保理事会でですね。
イラクが大量破壊兵器をまだ保有し続けているという疑いがあると。
それについてイラク側が証明する義務があると。

その義務を果たさなければ武力行使を含むことをしても良い、と読めるような文章になってるわけです。
それがアメリカがイラクに対する攻撃をした根拠になっているし、日本もその決議があるからアメリカの行動は国連の決議に反してないと支持したんです。
1441号決議の解釈でドイツやフランスとアメリカが違ってるんですけど、とにかくそういう決議があるんです。

その決議の中に実は拉致問題が書いてあるんです。
湾岸戦争のとき、イラクはクェート人を拉致したと。
クェート人を拉致してまだ10年たっても返してない、と書いてあるわけです。
大量破壊兵器、テロとの戦争の中で書かれた決議の中に拉致問題を書いた先例があるんです。

今日も次官にそのこと言っときましたけど。
まえに外務大臣に会ったときもそのこと強く言っときましたけど。
1月から日本は安保理の非常任理事国になるんです。
日本が発言できる。
決議文の中に前例があるんですから、書き込ませることが出来なければ日本外交は大失敗ですよね。
我々はそんなことは許さない。

安保理事会の決議が議論されるときには、ニューヨークへ行って座り込みをしようかと思ってるんですけども。
拉致はテロなんだから、テロとの戦争を言ってる国連が何で日本人拉致を書かないんだ?と。
おかしいじゃないかと、言うことをしようと思ってますけども。
しかし出来る可能性は非常に高い。

それは絶対条件がありまして、日本がまず拉致を理由にして制裁をかけてなくて、国連に行って制裁をしてくれ拉致を理由にしてくださいといっても。
お宅の国がやってないことをなんで人に最初にやれというんだ?と。
自分の国が制裁するほど深刻だと思ってない問題について、国際制裁かけてくれとアピールできないんです。

まずうちはここまでやったけれどまだ効果が無いから今度は同調してくださいと。
それが筋なんです。(拍手)
リビアに対する制裁も、アメリカはパンナムという飛行機を落とされてるわけですね。
アメリカはまず一国制裁をかけて、それから国連の制裁をかけたんですね。
それが当たり前の順序なんです。

国連に対するアピールをするためにも、今年の早い段階で拉致を理由に制裁をかけると。
イメージ的にですね。
それは北の内部に対しても先ほど言ったように、担当者を代えると新しい何人かが帰ってくる可能性が増えると。
ポスト金正日の有力候補にメッセージを送ることが出来ると、その2点で有効だし。

中国や韓国やそういう国々に対して、拉致問題解決を抜きに日本は動かないんだというメッセージを送ることが出来るし。
そして国連の安保理事会で核問題で北の議論が始まったときに、拉致問題も書き込ませることが出来るための重大なステップになる。

政府は生きてる人を取り戻すという所を、全員死んでるという証拠が全く無いんだという所まで行きましたから。
次はこちらが攻勢をかけるわけです。
こちらの体制は整ったと。
足並みは揃ったと。
そして制裁をかける武器はもう揃っていると。
法律もあるわけです。

あとは政府の決断だけで。
政府も決断するといってるわけですから、1月の終わりか2月くらいがひとつの山が来ると思いますけど。
そこでかけるように運動すると。
そして今度はかけたことを使って国際社会に強くアピールする。

ぜひ次2月の集会の時には、かけてる状況で皆さんとお会いしたいと思いますけど。(拍手)
出来ていなければここにいないでどこか外務省前で、我々座り込みしてるかもしれませんけど。(笑い声)
そのくらい勝負だと思っています。
見通しはかなり楽観的ですが。

そのあと実は2月にですね、今度は国際社会に対するアピールと言うことでアメリカですね。
アメリカに北朝鮮人権法というのを作るために大変活動された、NGOの活動家のスザン・ショルティーさんという方をお呼びすることになりまして。
2月の18日から来ていただきます。

それから韓国でも今拉致に関する関心がやっと高まり始めまてまして。
2000年に中国から拉致された牧師さんがいるんですけども。
その人を拉致した犯人が韓国に潜入していたんです。
別の任務を持って。
それを韓国は逮捕したんです。

それで今日テレビや新聞で韓国の国会議員が北京で記者会見しようと思ったら、公開されたじゃないですか?
あの人が一生懸命やってるんです、韓国人拉致を。
今回中国へ行って、韓国人が拉致された現場を見に行ったんです、あの人は。
金文洙(キム・ムンス)という国会議員です。
私大変親しいんです。そういう人も韓国から来てもらえないかなと、今思っておりまして。
日本側が絶対に譲歩しないんだという体制を作って。
今度は日本側のそういう姿勢を韓国とアメリカの人権問題考えている人たちに伝えて。
アメリカで拉致問題をもっとアピールするにはどうしたらいいか知恵をもらって。

韓国でもハンナラ党のほうは拉致問題やるようになってますから。
どう協力していけるのか、みんなで議論できるようなそういう集会を2月の19日の午後から、まだ時間は決まってませんけど、場所は霞ヶ関ビルの(司会者より「あとでやります」の声)
ていうのをそれはほぼ決まりました。

今年は攻勢をかけたいと思ってまして。(拍手)
去年はちょっと守備に回りましたけど、でも子供たちが帰ってきたということで負担がなくなったわけで。
今年は攻勢をかける年ということで希望がある。
我々は今勝ちつつあると。
ありがとうございました。(拍手)

(司会者より2月の集会についての説明などがあり、集会終了)
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2005年1月11日 (火)

北朝鮮の核弾頭が日本人を無差別大虐殺するリスク」の一つの捉え方

北朝鮮の核弾頭が日本人を無差別大虐殺するリスク」の一つの捉え方 

 2005年1月11日(火) 



私は「今乗っている飛行機が墜落する可能性は万が一以下だがゼロではない」とのニヒリズム(諦観)くらいはいつも持ち合わせながら日本まで米国経由片道20余時間の機中に命を委ねている(尤も2001.9.11以降米航空会社の飛行機は避けているが)。

「ソウルが火の海になる」などの北朝鮮のこれまでのテロの脅しは全てブラフ(はったり)だった。その一方でラングーン爆破テロ、大韓航空機爆破、外国人拉致、自国民虐殺などあまたの実際のテロ行為は、予告無く秘密裏に着実に実行し、バレたらシラを切るか逆ギレして下品にわめき散らす、こういうルール無視の、喧嘩のモラルの片鱗も恥も外聞もない小心者特有の意地汚いやり方が北朝鮮の常用戦術である。

だから今回の「経済制裁を宣戦布告と見なす」を額面通りに受けるのは馬鹿げているし北朝鮮の謀略にはまることに他ならぬが、かような狂人国家がいきなりミサイルを発射する確率は確かにゼロではないし、様々な汚い謀略を仕掛けて来る可能性は十分ある、日本の社会インフラを一時的にマヒさせるくらいは可能だろう。しかし制裁しなくとも北が同様なテロ・謀略を引き起こす可能性も十分あり(もうすでにやっている)、日本のメシで体力を付け野放しにされた刃物を持った狂人は間違いなくさらに殺人を重ねるだろう。「制裁を宣戦布告と見なす」という狂人のブラフに応じるのはこのリスクの先送り、どころかいずれ今以上のリスクをもたらす。そして経済制裁をする場合もしない場合も、さらわれた邦人同胞が全員無事解放される確率はそれぞれ100%でもゼロでもないが、制裁発動により金正日体制崩壊と解放が実現する“可能性が高い”と判断するから我々は制裁を強く要求している。

避けられない危機に直面した場合、リスク・ゼロの確実な解決方法は無いのが普通であり、リスクのより少ない方法を採択するのが危機管理の基本である、もちろんリスクを下げる可能な対処方策を予め講じた上で。そのリスクは①加害当事者、②被害当事者、③第三者の3極を頂点とするダイアグラム上のスタンスの違いで異なる。①加害当事者の金正日にとっては日本からの搾取で体制を強化・堅持し拉致被害者を社会から抹殺してしまうのが最も(自分が殺される)リスクが少ない。そして当然ながら、②の拉致被害者とその家族、同胞の解放を願う我々日本人にとってのリスクは金正日とは正反対になる。もはや①加害者と②被害者の平和的共存・共栄はありえない。そして③第三者の中で代案もないのに経済制裁に伴うリスクを針小棒大に言い立てるのは無責任な事勿れ主義者の問題先送り(あるいは北の幇間)に過ぎない(それを北朝鮮と南朝鮮の区別も知らぬ南米の人間が口にするなら分かるが)。

机上の空想・理想を現実にこじつけ「あってはならないこと」を「あるはずが無いこと」と勘違いして本当の意味の危機回避やリスク管理の努力をしてこなかった戦後の日本だが、今年は少し真面目に考える必要がありそうだ、ツケを払う時は必ず来るのだ、我々日本人だけが地球上で特別な存在ではない、毒素と腐腫瘍を孕んだヌエのような今の中国・北朝鮮に隣接する日本にとって、イラクやチェチェンの事態は対岸の火事ではない。中国・朝鮮半島が5年後、10年後、さらに100年後も今のまま安寧に存在し続ける可能性よりも、その体制が破綻し崩壊の過程で周囲も巻き込み数十万~百万単位の犠牲者が出るリスクのほうが相当に高いと私は考える。「経済制裁してテポドン撃たれたらどうするんだよ」と問題先送りモラトリアム派が脅してきたら「今日何もしないで明日殺される可能性の方がずっと高いから心配しなさんな」と脅し返そう。もとより不完全な人類が不完全な人類社会で生きる覚悟とはそういうものではないか。

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