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2005年1月13日 (木)

松木薫さんを救うぞ東京集会(2)

2.松木信宏さんのお話(1)

私の名前の件については2~3日前に聞いたばっかりなので、正直ちょっと驚いてます。あんまり「信宏」という名前も男らしい名前とは思えないんですけども。(笑い声)
まぁ、私の兄にとっては、薫よりはるかにましだったのではないかな?と思います。

私は本当は、兄から見れば2番目の姉の子供になるんですけども。
いろいろまぁ、私の実の母親の方にもいろいろな事情があったかも知れないんですけど。
生まれてすぐに、本当でしたら祖父母になる父親の養子ということで入りました。

まぁ、兄はその当時大学・・・短期大学に行ってみたり、そこから編入学して京都産業大学の方に行きましたりしてましたので、滅多に家に帰ってくることは無かったんですけども。
帰ってきたときは良く・・・遊ぶといっても、私の兄は参考書とかそういうものを買ってきては勉強を教えてやるから付いて来いという感じでしたから、遊びにはならないんではないかな?と思うんですが、よく勉強を教えてくれました。

本当にじっくり私が本気になって教わっていれば、もうちょっと私も違う人生を送ったんではないかな?とは思うんですけども。

本当に私の目に焼きついている兄というのは、机に向かっている姿っていうのがほとんどです。
よくまぁ、私と父親母親とで、週末に海に行ったり山に行ったりするわけですが、兄がいるときはもちろん兄にも一緒に行こうよと声をかけるわけですが、10回誘って1回付いてくればいいほうかなぁ、と。
「家で留守番してるよ」と。

「またそんなこと言って留守番するとか言って、どっか遊びに行くんじゃないのかな?」と言ったら、「いやそんな暇があるんなら、勉強してるほうがましだよ」というふうな感じで。
実際帰ってくれば、どんな時間に帰ってきても、大体机に向かっていると。
だからもともと賢いとかそういうあれではないと思うんですけど、努力の人かなぁ?と、言うのは、まぁ私の目にはそう映りました。

先ほどうちの姉の方が、うちの父親が「勉強したいと言えばどんなことしてでも学校に行かしてあげるよ」と言ってた事を言ってましたが、私なんかの時はだいぶ父親が定年退職した後で、比較的落ちついた状態でしたので。
なんでもこちらのわがままをきいてくれるという風な。
なんでもいいよ、と。
何かしたいことがあったらしていいよと、言うようなことをよく言ってました。

あんまり自分で取り立てて(勉強)しようという気持ちが無かったせいか、結局はうちの父親がよくまぁ、なんていうんですかね。
あちこち塾を探してきて、「おまえ、そこに行け」と。
「勉強しなくちゃ薫兄ちゃんのようになれないぞ」ということで。
結局は無理やり押し込まれて、しぶしぶよく塾だのなんだの、通っていた記憶があります。

そうこうしているうちに、兄もだいぶ落ちついて帰ってきたときに、「スペインに行きたいんだ」という話をしたんですけども。
「いや、そんな遠くに行ってもらっては困る」ということを言ってました。
その当時まだ私は小学生だったんですけど、とにかく反対をしてましたね。
隣にいる姉などは「行かしてやりなよ」と、言ったんだよね?(隣に座る姉・文代さんのほうを見る)
大分女きょうだいは、みな結束してどうにかして行かしてあげたいということで。
母親といろいろとやってたみたいですけど。

うちの父親というのは一回だめだといえばなかなか頑固者で。
自分がこうと思ったらもう、てことして動かないタイプの人間なので、相当苦労したんではないかと思います。
で、姉も言いましたけど、私の耳にも焼き付いているのは「一年で絶対に帰ってくるから」と。
やはりあの、「とうちゃん、かあちゃんのそばにいるから」と、いうふうなことを言ってました。

最後に私の母なんかは、あんまり意見をするタイプの人ではなかったんですけど。
「薫がそんな滅多に頼まないタイプの人間なのに、こうやって頼んでるんだから、行かしてあげな」というようなことを言って。
まぁその場では「ダメだぁ!」と言ってたんですが、最後は「一年だけだぞ」ということで。

兄自身もスペインに行く渡航費用っていうのは、こそこそバイトして貯めてたみたいなんで。
「お金はいいよ」ということを言ってたみたいなんですけども。
何かあったら困るから、ということで確か父親も、金額はちょっと私も記憶に残ってないんですけども、まとまったお金を確か渡して、送り出したと思います。

もともと日本にいるときから、筆不精なタイプの兄ですので、なんて言いますかね。
ちょっと半年・一年手紙が無くても、便りの無いのは元気の印というか、そういう風な感覚でいたんですけど。
行ってすぐに絵葉書が一通来まして。
まだ学校に入る前っていう風な感じで内容が書いてあって、「当座は仕送りも必要ありません」ということでかいてありまして。

後、私の姉たちの名前がずらずら書いてあって、最後に信宏にもよろしくと書いてあったんで、「あぁ僕のことを忘れてないでいてくれたんだなぁ」と思いながら、喜んだ記憶があるんですけども。
その絵葉書が来て、一年たっても音沙汰が無いし、二年まではなってないと思うんですけど。
一年半くらいたった頃から、多分うちの父親があちこち・・・おそらく行ったのは警察とかあたりだと思うんですけど。
日本の警察じゃどうしようもないですから、それで外務省とかに手紙を書いたり電話したりしてましたですね。

私が外務省というか、スペインの大使館のほうにも手紙を出したりしてたみたいですけど。
どちらか、本省の方が言ったのか?現地の大使館の方が言ったのか?分かりませんけど。
印象に残っている言葉は、「それだけ言葉が出来てるんだから、結構楽しんでくらしてらっしゃるんじゃないですか?」「帰りたくないから帰らないんじゃないですか?」というようなことを、うちの父親に言ったらしくて。
「自分の育て方がまずかったのかなぁ?」と、「自分が何か押さえつけてたのかなぁ?」と。
時折ぼやいてたことがあります。

いなくなった後に、普段夫婦喧嘩というのはしないんですけど、大体きっかけは私のことで喧嘩になるもんですから。
例えば、髪の毛が、あの私の父親というのは髪の毛が長い人間が嫌いなんですよね。
だから私の兄なんかは、髪の毛をずっと伸ばしてるもんですから、「そんな見苦しい髪をするな」と、よく言うもんですから。

だから母親が帰ってきたときにお金が無いんだろうと思って、お金を渡して「これで切っておいで」と。
とりあえず切っては来るんです。
でもなんか、床屋さんに行った髪ではないんですよね。
で、あとでよくよく聞いてみたら、自分でそこらへんのはさみでちょっきんちょっきんと切って。(くすくす笑い)
写真のなかでどれかあったかな?(薫さんの写真を指し示しながら)
あ、ちょうどこの上のなんかそうですけど、これなんか間違いなく自分で髪の毛を切って、いますね。

ちょっと真ん中あたりは、いや真ん中も多分自分でやってるんだなと思うんですけど。
(「これもそう」と文代さんの声)
とにかくまぁ、まず一年に何回床屋に行ったかと、数えたほうが早いような人でした。
うちの父親は一月に2回でも3回でも、ちょっと耳にかかれば行くタイプで、だから私なんかにも「そんな伸ばすな」と。

で、母親や隣にいる姉の方はやっぱり髪の毛短く切るほうが好きなんですけど、ほかの姉たちはちょっと伸びた髪の方が好きらしくて、よく私はおもちゃにされてたんですけど。
だいたい、そういう「短くしろ、いやこれでいいじゃない」というのが喧嘩のネタになったりしました。
子供ですからいろいろ口答えするわけですが、それを母親がかばうと、また夫婦喧嘩になると。
いう図式だったんですけど。

その散髪の件に付いては、いろいろ余談があるんですけど、「家族」って本にも確か(となりの文代さんに向かって)書いたよね?
書いてあったと思ったんですけど、京都から帰省してきたときに「これお土産」とかって菓子箱になにか入れてきたらしいんですよね。
母親が「あれまぁ」と開けたらば、床屋代とか仕送りのあれとかなんでしょうね。
お金をずっと菓子箱に入ってたやつを母親にプレゼントしたという。
私は母親が泣いてる姿は見てないんですけど、姉のほうはね、それを見て喜んで感激して泣いてるのを見たということをよく言ってます。

私はなんでもぱっぱ、ぱっぱとお金でも使うタイプなんですけど、兄は本当にほとんどお金があれば、教材というか自分の勉強のものを買うと。
着るものについても無頓着ですし、食べ物もそこらへんにあるものなんでも良いやみたいな感じで。
よくスーパーとかで父親と買い物に行ったら、ちょっとカップラーメンとかが、一箱いくらとかって安売りがあれば、「これ薫に送ろう」と言って。

ジュースでもそうですよね、なにか買って送ってました。
とにかく送らないと、食わないで一週間でも二週間でも過ごすんじゃないか?っていう風なそういう雰囲気が漂っているような、兄でした。

服なんかもよれよれのジーパンとかはいてましたし。
とにかくネクタイ姿というのが大っ嫌いみたいで、北朝鮮側から出してきた写真なんかもネクタイの結び方が非常に下手なんですよね。(笑い声)
うちの父親なんかもあんまり上手なほうじゃなくて、要はひとかけっていうか、一回くるっとまわして伸ばすようなタイプで、そういうふうな結びをこれも(北朝鮮から提供されたネクタイ姿の薫さんを指して)してると思うんですが。

とにかくスーツとかいうものの姿を見たのは一回か二回ぐらいで、ほとんどラフな格好というか。
それしかなかったというのが多分現実なんじゃないかと思います。
母親なんかが(スーツを)買ったりとかして着せようとするんですけど、やはり性に合わないと。
私から見れば非常にジーパンが似合って羨ましいな、と思っているんですけど。

私が高校生のときに、「これ薫が着ていたやつだから、お前着てみろ」とかって、ジーパンをもらうわけですよね。
でも足の太もも辺りではいたときに引っかかっちゃうんで。(笑い声)
「じゃあ腰周りだけ直せばどうかな?」とかいったら、そうすると今度は、足の長さが全然合わないですね。(笑い声)

ただ、上のシャツだけはぴったし合う。
特徴というか体型の特徴ってのは、遺骨を持ち帰ってきたときに、体型の特徴というのは、橋本先生に言ったのは、「うちの兄は逆三角形で間違いありません」と。
「足も私の腰くらいあるはずです。自分ではいて確かめましたから」と言ったら橋本先生少し笑っておられましたけど。

松木家っていうのは、あんまりなんていうんですかね、足の長い人間とか、そんなに勉強が出来る人間というのががいなかったもんで。
「突然変異で出来た人間なんじゃないかな?」と僕なんかは子供の頃ずっと思ってたりしたんですが。
突然変異じゃなくて、影で隠れて人一倍努力をしていたと、今から考えてみればそういう風に思います。

辞書とかそういうのを離した姿というか、握っている姿のほうしか、私も印象に無いもんですから。
よく言ってたのは「この辞書を丸暗記するぐらいのつもりで、自分は勉強している」というようなことを、胸を張って言ってましたから、それだけのことをしていてたんじゃないかと思います。
ただ、私なんかはそういう真面目って言うふうな印象しかないんですけど。

私、学校も小学校から高校まで兄とまるっきり一緒なんです。
熊本の名前なんでご存じない方もいらっしゃるかもしれないんですけど。
中高一貫教育でやってる九州学院ていう、私立の学校に男は行かさせてもらったんですけど。
女の人は信愛女学院といって、両方ともキリスト教の学校なんですけど。
これクリスチャンの方は分かるかもしれないんですけど、九州学院っていうのはプロテスタントっていってキリスト教では新教の学校なんですけど。
信愛女学院のほうはカトリックの旧教の学校なんですよね。

一回聞いたことがあるんですよ、うちの父親に。
「どうして男は九学で、女は信愛なの?」とかって言ったら、「え~?意味は無いよ」って。
「うん、ただ見てくれが良さそうなところに行ってもらいたかっただけだ」(笑い声)と言ったときにはさすがに吹き出したんですけど。

ただ、自分がやっぱり勉強したくても出来なかったと言う事が、私にも言ってました。
やっぱり長男だったんですけど、もともと田舎は鹿児島なんですけど、鹿児島に帰ることをせずに九州の地方を転々としてたんで、言葉ではあまり苦労したという言葉は吐いたことは無いんですけど。
母親のほうは「苦労した苦労した」といいますけども。
でも本人は盲腸で腹膜炎起こしちゃって死にかけたとか、戦争中に爆弾で足やけどしてたりとか、体を見ればいろいろ痛々しい姿があるんで。
そういう苦労したということは人には言わない感じの父親でした。

兄もどちらかといえば、そういうことを言わないタイプで。
父親に似たか?というと、顔もそうなんですが、私の兄は母親にそっくりだな、と思います。
母方のおじとかみんな体がすらっとしてるんですよね。
体型も似てるし、男一人だけ、母方に似たと。
私は先ほども言いましたように孫ですから、なんか皆「年を追う毎にだんだん爺ちゃんに似てきたね」と。
「信宏は爺ちゃんに似てきた、あとは髪の毛似なきゃいいわね」というようなことを言ってますけど。

うちの家では特別な存在でした。
同じ学校なので、私立で先生とかも一緒なんですよね、私と。
教わった先生も一緒なんですよね。
やはり私は真面目な兄だと思ってたんですが、第三者の意見もやはり聞かなきゃいけないと。
ひょっとしたら、違った一面があるかもしれないと。
いなくなるには何か理由があるんだと。

その当時は拉致だとは思わなかったですから、絶対訳があるはずだというふうなつもりで。
それで「松木薫って覚えてますか?」と言ったら、実際教えたことあるはずなのに、知らないという先生もいれば、よく知っているということを言われる先生もいて。
「本当に松木の弟か?」とか「そうですけども」、「それは似ても似つかぬ兄だなぁ」、ということをよく言われました(笑い声)

やはり私が教わった先生で印象に残っているのは、もう亡くなったんですけど国語を教えておられた先生で、授業中酒飲んでやってくるタイプの先生だったらしくて。
私が教わる頃には定年間近でもうだいぶお年を召されて、代わりに質問に答えられたらポケットから飴やチョコレートをだして、ほれほれと上げるような先生だったんですけど。
「松木君、遊びにおいでよ」と。

家に行ったらずらっと寿司だの酒だのが並んでいて、「飲んでけ」とか。
本当は飲んではいけないんでしょうけど、もう時効だと思うんで、一緒に飲みながらいろりろ話をしたら、「本当にお前の兄さんも、もう少し頭が柔らかだったら、よかったのになぁ」と。
「お前ほど柔らかだったら困るけど」、とよく言われました。(笑い声)

その学校に入学するときも、父親が「松木薫の父親ですけど、今度私の身内が受験するんでよろしくお願いします」と。
「そんなことしなくてもいいのに」とかって言うんですけど、うちの父親はとにかく、兄もそうなんですけど、学校の先生に必ず挨拶に行く。

長崎だろうが京都だろうが、必ず一回は行くという、変に生真面目というかそういう面があって。
そこへ行ったときに、そこの先生から「松木薫さんの弟さんなら間違いないでしょう」と、「通るの間違いないですよ」と言われて。
それを聞いたときに、「さあ、これは通らなかったら大変なことだ」ということで、本当に勉強した記憶があります。

本当に幸い通りましたので、まるっきり同じ環境の元で勉強したんですけど。
でも同じ学校なので本当に思うんですけど、どう考えても自分の意思で行方不明になる事は考えられなかったんですよね。
だから、「おかしいな?おかしいな?」と。
「絶対この学校出てて、そんな蒸発するようなことないのにな」と思っていたら、ポツリと私の母親のほうが言ったことは、「本当は薫兄ちゃんは牧師になりたかったのよ」と。
「え?なんで?」と、「やっぱり学校の影響じゃないかしら?」とかって言ってたんです。

それを普段は基本的に勉強することについては賛成している父なんですけども、こと、そういう宗教的な面では「うちはちゃんと先祖代々の宗教があるんだから、そんな牧師になるんだったら勘当だ」と、「今後一切支援をしない」とかと。
相当強いことを言われたらしくて、それだけで断念したんじゃないんでしょうけど。

結局その牧師っていう道はあきらめて、「どうせなるんだったら先生になれ、学校の先生になれ」と父親が言ったらしくて。
そこらへんから「(学校の先生を)やってもいいかな?」ということで、学校の先生になる道を探り始めたらしいんですけども、と母親が言ってました。

私が高校一年のときですかね。
北海道からの手紙が届いて、二年後に私の家に連絡が入ったんですけど。
ちょっと姉がしゃべったときに父親が知ってるというふうなようなことを言ってたんですけど。
実は父親は知らなくて、姉がどうしてこういうことをいうかというと、その手紙が来たときに・・・母親が、姉たちは外に出て行ってますので、家には父親と母親と私という暮らしだったんですよね。
そのとき「絶対しゃべるな」と。

「きょうだい親戚はもちろん、絶対しゃべるな」ということを私に言ったんです。
「なんで?」と「だって身内じゃない?」と。
「いや身内だから何でも知らせていいってもんじゃない。そういうことを知ることでかえって迷惑をかける」と、「親戚にも迷惑をかける」と。
北朝鮮という国をなんとなくわかってたのかなぁ?と思うんですけど。

「とにかくしゃべるな!」ということで、強い口調で言われますもんですから、私もついぞ隣の姉にも何もしゃべらなかった。
本当に9.17のときになってから話したんだね?(文代さんに向かって)
本当にしゃべらないまんまで。
私の姉がどこから聞いたかといったら、警察から聞いたと。

だから、私からの口からも言ったわけでもないし、母親の口からも言ったわけでもないと。
だから、その分かるまでの、そういう拉致されているということが分かる経緯を私は詳しく話すことができなかった。
その点では申し訳なかった。
亡くなった父親にも申し訳ないけど、隣の姉にも本当に申し訳なかったと。 
隠し事してて申し訳ないと、いうふうに思っています。

そのまえにちょっと・・・連絡が取れなかった時期もあった。
それも仕方が無いけどね、あったからね、あれだけども。
そういうことでだから、黙ってました。
母親もそういうことで一切外話すこともなかったもんですから、ご近所も多分みんな知らなかったんではないかと思います。

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