有本惠子さんを救うぞ東京集会(2)
有本嘉代子さんのお話 2
とにかく主人と二人、必死の思いで手紙をよこしたんだろうから、どうしても助けてやらなければいけないと動いたんです。
9年間。
私は動いていません。
子育てで大変ですから、よう動きしませんから。
主人が外務省の方なり政治家の方なり、一所懸命できる方があったらそこへ行って、9年間は二人で動きました。
外務省に行った記憶の中で、私は本当にいつ行っても私は座って話した記憶がありません。
3遍ほど行きましたけど。
入り口までばっと出てこられるんです。
立ったまま「国交が無いですからね」って感じですね。
ですから一番最初土井さんのところに行きましたけど、土井さんのとこも「先生に言うときます」て秘書の方が言われて。
そのまま何の返事もありませんでした。
それが1983年のまだ暑い時分でしたからね。
手紙が来たのが9月6日でしたから。
まだ9月中に多分行ったと思います。
でも(土井さんから)便りが無かったから、仕方が無いと思って、主人も「政権を取ってるのは自民党だから、これは社会党行っても駄目や」と言うことで。
それではじめて安倍先生のところだけコンタクト取れたんです。
で、「とにかくどうなるか分からないけど、とにかく一遍来てください、手紙持ってきてください」って言うてくれたんですね、秘書の方が。
それで最初は私その手紙を持って安倍先生の議員会館の事務所へ行きました。
今もいらっしゃいますけど、飯塚さんて秘書の方が、「どこいったらいいかなぁ?」言うて、事務所の中たくさんいろんな方が来ていらっしゃって、皆で相談して、「警察行かなきゃ仕方が無いかな?」ということで警察署へ連れて行ってくれたんです。
そこではかなり、1時間くらい私が話することを、いろいろこういう経緯でいなくなったんですということを、1時間あまりかかって1人の人がきちっとしてくださいました。
「これはでもね、国内の事だったら何とかなるけど、外国のことだからね」っておっしゃったもんですから。
そしたら「外務省行かな仕方ないな」ということで、また外務省へ車で連れて行ってくれまして。
外務省は5分ほどでした。
そのときから外務省、おかしかったんですね。
表から出てこられて立ったまま、5分くらいで「国交が無いからね」て言われました。
その以降、また主人と同じ道をたどって、警察へ行ってまた外務省へ行って。
その外務省へ行ったときは、2度目に行ったときは、「これは難しい国ですので、これが表に出ますと娘さんに危害を蒙ることがあったらいかんので、この話は伏せておきましょう」って言われたんです。
そのときは主人も納得して「この時期だったら黙ってな仕方ないかな」って思って黙ってたんですよね。
それ以降はもうどうしようもなくて黙ってたんですけども。
19・・・ちょうどね地震が起こったときですよね。
地震が起こる前ですから1990年90年の末に、とにかくマスコミの方がわ~っともう、何社もね、一番最初は文春の方が来られたんです。
それから各社が、もう本当に、年末だったんです。
もう20日過ぎてたと思うんですけど、年末までず~っと来られるんですよ。
「これ隠しておこうと言ったのに、どこから漏れたんですか?」って言うたら皆おっしゃらないんですよ。
「こんなに表に出てしまったら、これ表に出な、しようがないかな?」と思って、北海道の方と相談して。
翌年の1月の16日くらいだったですかね。
外務省の方に正式にお願いに上がろうということで文書にして持っていったんですね。
そのときに表に出すべしって、名前もきちっと明らかにするべしで行ったんですけれども。
記者会見が始まりまして。
本当にそういうのは生まれてはじめてですから、記者の方がたくさん来られてますし、テレビの方もずらっと後ろに並んでらっしゃいますし。
そこで、いざこれから私たちが話ししようというその直前に接触してこられた方があったんです。
マスコミの幹事社言うんですか?
代表して仕事してくださったのは、そのときはNHKなんです。
NHKの記者の方が来られて「ちょっと会ってほしい人があるんですけど」と言われるので、別室へ行って会ったんですね。
その方がそのときは名前も何もおっしゃらないし、どこから来られたか分からないんですけども。
「私が金正日と太いパイプを持った人を知っておりますので、水面下で必ず娘さんが帰れるようにしますから私に任せてください」っておっしゃったんです。
それが後になって分かったんですけれども、ウニタ書房言いまして、よど号の機関紙を売ってらっしゃっる方らしいです。
その人が「水面下で必ず取り戻す」って言うてくださったんで、「それだったら帰りさえしたらいいんだから」と。
「どうしたらいいんですか?」って聞いたら、「今から記者会見始まりますけども、そこで氏名と住所を一切言わないでください」言うてはったんですね。
それが言わないことがどういうことなのか全然分からなかったです。
とにかく(記者会見で)名前言う段になったら「急に言えなくなったんです」って言うたら、記者の方がものすごく怒られたんです。
「早くから来てこないしてるのに、住所と名前と言うてもらわんかったら何にも出来ない」って。
というのはその翌日湾岸戦争が始まったんです。
明日湾岸戦争が始まるっていうて、「こんな急がしい最中に来てるのに、こんなこと言うたら困る」ってすごく怒ってはったんですけど。
そのままとうとう言えずに終わってしまったんです。
私どもはその遠藤さんと1年あまりお付き合いしました。
だけど北海道の方はハッキリ申し上げたら、得体の分からない方だから私は付き合いようせんて、私はこのまま置いて行きますって。
私どもはその方と1年ほどお付き合いしました。
なにか大阪に絵本を仕入れにいくて言われたら、ちょっと神戸へ来て会いましょうか、と言うことで3遍くらい神戸の駅の近くのホテルで会いました。
だけどそれがいまだに誰のツテで来られたのか全然分からなかったんですけども。
金丸さんが逮捕されたんです。
あの時点から全然連絡してこられなくなったんです。
だから政治家のほうから来てはったのか、どこから来てはったのか。
それでも外務省ともなにか関係があったみたいです。
主人が外務省がおかしなことをしてると「そんなことしてもらったら困るやないか」って文句言うていきますと、あくる日必ず連絡が入るんです。(笑い)
「あれはちゃんと生きております、ちゃんと動いておりますから、必ず水面下で助け出しますから」と。
そのときに第三国発言なさったんです。
森首相が第三国発言なさいましたね?
北京に連れてきてそこで会わせる、それを聞いたとき、私は驚きませんでした。
「ああ、遠藤さんと同じこと言うてるわ」と思って。(笑い声)
だけど遠藤さんが「北京に娘さんたちを連れてきてもらって、お母さんたちと会って、それで日本に帰ればいいような、そんな形も取れるんですよ?」って遠藤さん言いました。
最後にあの方はずっと見てましたらね。
「でもこれはどこかで行き詰ってるような感じがするなぁ、絶対これでは解決しないような感じがするなぁ、あの人もいつまでもこの人たちを自分が騙してるのいかんなぁ」というふうに私は取れたんですね。
「そんなような気持ちでおってる違うかな?」というような一遍バッとしたんです。 そのときになにか一番最後にね、「とにかく手紙を書いてください。手紙を必ず持っていくルートがありますから、娘さんにまで届けてあげますから」と言うことでしたので。
差し支えの無いことだけを書いて、家族全員が一筆ずつでも妹たちは「元気にしてる?」と言ったり。
長女がちょうど(恵子さんがロンドンに)行くときに子供を身ごもってましたので。
向こうからも知ってるんでね。
「(長女に子供が)出来てるだろうな?一遍会いたいわ」って手紙が来てましたからね。
長女が「(子供は)元気に大きくなってるよ」とか、いろんなことを各自が5人の子供が書いて、私たち二人も書いて送ったんですね。
それは先ほども申し上げた高沢皓司さんという方がはじめて私どものところに訪ねて下さって、震災の年なんですけど、そのときに「その手紙は私が言付かりました」っておっしゃいました。
「私が平壌に行きまして、田宮さんの手までは渡してきましたよ」って。
田宮さんていうのはよど号乗っ取りのリーダーですね。
「この方までは渡してきましたよ」って。
「そこから先、娘さんの手に入ったかどうかは分かりませんけども、ともかく田宮さんまでは私届けてきました」っておっしゃいました。
そのときに田宮さんは「よど号の私たちの手で、20人くらいはこの国に連れて入ってる。これは私たちがここにおる間に絶対に日本の国に帰すようにせなならん」って田宮さんが言うてるてことは聞いております。
それから間無しに、田宮さんは心臓麻痺で亡くなりました。
私は粛清されたんじゃないかな?と今でも思ってますけどね。
本当にそんな辿りもって来たんですけども、本当に何の進展も無くて。
はじめて横田(めぐみ)さんが北朝鮮にいる言うことがわかりまして。
それも朝日放送の石高さんがたまたまソウルに行かれたとき、そういう情報をこちらに持って帰られて。
それをこちらで佐藤先生が新潟でお話なさったときに、そこで初めて「めぐみさんじゃないかな?」ということが分かって。
予算委員会のときでしたかね。
西村先生が国会の場でめぐみさんのことをおっしゃって。
それで横田さんもおっしゃってました。
はじめてお会いしたときに、「今年で19年目にしてやっと、めぐみのいるところが分かったんですよ」っておっしゃいました。
「だけどね、19年間めぐみが北朝鮮のあんな国でも元気で暮らしているゆうことが分かったんですけど、私らが表に出ることによってめぐみにもしものことがあったらどうしよう?と、かなり悩みました」とおっしゃいました。
同じです。
私らもかなり悩みました。
本当に、初めて新聞に出るいうときは本当に夜眠れませんでした。
どうなるかしら?と思いましたけど、同じ思いで横田さんも思い切って表に出てくれたんですね。
それによって初めて1997年ですね、3月に家族会が出来たんです。
初めて運動始めましたらね。
外務省に行きましたらね、当時局長さんが会ってくれました。
私らが行ってるときは「なんとかもうちょっと上に人にお目にかかれませんか?」とお願いしても、課長どまりでね。
「私で辛抱してくださいって言うんです。
数の力って本当に大きなものだな、ってつくづく思いました。
今も問題は前に進んでませんけれども家族会が出来て、やっと2002年9月17日、5人の方が帰って来られて。
だからそういう経緯で、家族会の方とお目にかかるんですけども、そんなにゆっくり話す間も無かったんですけども。
「家族」って言う本を出しましたね。
あのことによってずっと読ましていただいて、はじめて「皆さん同じ思いで長いこと暮らしてきたんだなぁ」とつくづく思いました。
今から先どうなるか不安ですけどもね。
やはり、必死の思いで私は助けを求めてきたんだろうと思いますから、出来る限りのことはせないかんと思うてますし。
家族会でも横田さんも一所懸命、毎日のように北から南からずっと全国走り回って、訴え続けておられますのでね。
だから私どもも今訴え続けるより他に道が無いんです。
これを本当に外務省の方々が、交渉に当たる方がしっかりと受け止めていただいてね。
日本の国のことなんですからね。
特定失踪者の人も、やはり400人からの方が言って来られてる。
この方も同じ思いなんですよね。
だからその、分かりませんものね。
本当にそうなのかどうなのか?言う、証拠が無いもんですから、動くに動かれなかったんですけども。
長い間みな同じ思いで暮らしておられたと思うんです。
全員の方が帰って来ないと、私はいつもそう思ってますけども。
解決しないです。
拉致問題の解決と言うことは、やはり全員が全部日本人なんですからね。
この方たち全部が日本の国の土を踏まないと、解決しないと思っております。
これからも皆と力を合わせて、家族会の皆さんと力を合わせて一所懸命頑張っていこうと思いますので、皆様方もどうぞ、これを最後まで、とにかく立ち消えになってしまったら困りますので。
皆様関心を持ち続けていただいて。
一緒に、国のためなんですから、日本の国がおかしくなってるなとずっと思ってましたけれども。
若い人たちがたくさん連れて行かれて犠牲になってますけども。
この人たちの拉致問題があったことによって、日本の国が国民の皆様方が日本をきちっと見直してくださって、それでこれではいかんと言うことで私たちに応援してくださっています。
道を歩いていても何人かの方が必ず声をかけてくださって、「頑張ってくださいよ」「私たちもずっと関心を持って見てますからね」と、それが一番の励みになっています。
親なんだから、絶対に最後までこれをやらなければいけないと思っております。
どうぞ皆様よろしくお願いいたします。(拍手)
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とにかく主人と二人、必死の思いで手紙をよこしたんだろうから、どうしても助けてやらなければいけないと動いたんです。
9年間。
私は動いていません。
子育てで大変ですから、よう動きしませんから。
主人が外務省の方なり政治家の方なり、一所懸命できる方があったらそこへ行って、9年間は二人で動きました。
外務省に行った記憶の中で、私は本当にいつ行っても私は座って話した記憶がありません。
3遍ほど行きましたけど。
入り口までばっと出てこられるんです。
立ったまま「国交が無いですからね」って感じですね。
ですから一番最初土井さんのところに行きましたけど、土井さんのとこも「先生に言うときます」て秘書の方が言われて。
そのまま何の返事もありませんでした。
それが1983年のまだ暑い時分でしたからね。
手紙が来たのが9月6日でしたから。
まだ9月中に多分行ったと思います。
でも(土井さんから)便りが無かったから、仕方が無いと思って、主人も「政権を取ってるのは自民党だから、これは社会党行っても駄目や」と言うことで。
それではじめて安倍先生のところだけコンタクト取れたんです。
で、「とにかくどうなるか分からないけど、とにかく一遍来てください、手紙持ってきてください」って言うてくれたんですね、秘書の方が。
それで最初は私その手紙を持って安倍先生の議員会館の事務所へ行きました。
今もいらっしゃいますけど、飯塚さんて秘書の方が、「どこいったらいいかなぁ?」言うて、事務所の中たくさんいろんな方が来ていらっしゃって、皆で相談して、「警察行かなきゃ仕方が無いかな?」ということで警察署へ連れて行ってくれたんです。
そこではかなり、1時間くらい私が話することを、いろいろこういう経緯でいなくなったんですということを、1時間あまりかかって1人の人がきちっとしてくださいました。
「これはでもね、国内の事だったら何とかなるけど、外国のことだからね」っておっしゃったもんですから。
そしたら「外務省行かな仕方ないな」ということで、また外務省へ車で連れて行ってくれまして。
外務省は5分ほどでした。
そのときから外務省、おかしかったんですね。
表から出てこられて立ったまま、5分くらいで「国交が無いからね」て言われました。
その以降、また主人と同じ道をたどって、警察へ行ってまた外務省へ行って。
その外務省へ行ったときは、2度目に行ったときは、「これは難しい国ですので、これが表に出ますと娘さんに危害を蒙ることがあったらいかんので、この話は伏せておきましょう」って言われたんです。
そのときは主人も納得して「この時期だったら黙ってな仕方ないかな」って思って黙ってたんですよね。
それ以降はもうどうしようもなくて黙ってたんですけども。
19・・・ちょうどね地震が起こったときですよね。
地震が起こる前ですから1990年90年の末に、とにかくマスコミの方がわ~っともう、何社もね、一番最初は文春の方が来られたんです。
それから各社が、もう本当に、年末だったんです。
もう20日過ぎてたと思うんですけど、年末までず~っと来られるんですよ。
「これ隠しておこうと言ったのに、どこから漏れたんですか?」って言うたら皆おっしゃらないんですよ。
「こんなに表に出てしまったら、これ表に出な、しようがないかな?」と思って、北海道の方と相談して。
翌年の1月の16日くらいだったですかね。
外務省の方に正式にお願いに上がろうということで文書にして持っていったんですね。
そのときに表に出すべしって、名前もきちっと明らかにするべしで行ったんですけれども。
記者会見が始まりまして。
本当にそういうのは生まれてはじめてですから、記者の方がたくさん来られてますし、テレビの方もずらっと後ろに並んでらっしゃいますし。
そこで、いざこれから私たちが話ししようというその直前に接触してこられた方があったんです。
マスコミの幹事社言うんですか?
代表して仕事してくださったのは、そのときはNHKなんです。
NHKの記者の方が来られて「ちょっと会ってほしい人があるんですけど」と言われるので、別室へ行って会ったんですね。
その方がそのときは名前も何もおっしゃらないし、どこから来られたか分からないんですけども。
「私が金正日と太いパイプを持った人を知っておりますので、水面下で必ず娘さんが帰れるようにしますから私に任せてください」っておっしゃったんです。
それが後になって分かったんですけれども、ウニタ書房言いまして、よど号の機関紙を売ってらっしゃっる方らしいです。
その人が「水面下で必ず取り戻す」って言うてくださったんで、「それだったら帰りさえしたらいいんだから」と。
「どうしたらいいんですか?」って聞いたら、「今から記者会見始まりますけども、そこで氏名と住所を一切言わないでください」言うてはったんですね。
それが言わないことがどういうことなのか全然分からなかったです。
とにかく(記者会見で)名前言う段になったら「急に言えなくなったんです」って言うたら、記者の方がものすごく怒られたんです。
「早くから来てこないしてるのに、住所と名前と言うてもらわんかったら何にも出来ない」って。
というのはその翌日湾岸戦争が始まったんです。
明日湾岸戦争が始まるっていうて、「こんな急がしい最中に来てるのに、こんなこと言うたら困る」ってすごく怒ってはったんですけど。
そのままとうとう言えずに終わってしまったんです。
私どもはその遠藤さんと1年あまりお付き合いしました。
だけど北海道の方はハッキリ申し上げたら、得体の分からない方だから私は付き合いようせんて、私はこのまま置いて行きますって。
私どもはその方と1年ほどお付き合いしました。
なにか大阪に絵本を仕入れにいくて言われたら、ちょっと神戸へ来て会いましょうか、と言うことで3遍くらい神戸の駅の近くのホテルで会いました。
だけどそれがいまだに誰のツテで来られたのか全然分からなかったんですけども。
金丸さんが逮捕されたんです。
あの時点から全然連絡してこられなくなったんです。
だから政治家のほうから来てはったのか、どこから来てはったのか。
それでも外務省ともなにか関係があったみたいです。
主人が外務省がおかしなことをしてると「そんなことしてもらったら困るやないか」って文句言うていきますと、あくる日必ず連絡が入るんです。(笑い)
「あれはちゃんと生きております、ちゃんと動いておりますから、必ず水面下で助け出しますから」と。
そのときに第三国発言なさったんです。
森首相が第三国発言なさいましたね?
北京に連れてきてそこで会わせる、それを聞いたとき、私は驚きませんでした。
「ああ、遠藤さんと同じこと言うてるわ」と思って。(笑い声)
だけど遠藤さんが「北京に娘さんたちを連れてきてもらって、お母さんたちと会って、それで日本に帰ればいいような、そんな形も取れるんですよ?」って遠藤さん言いました。
最後にあの方はずっと見てましたらね。
「でもこれはどこかで行き詰ってるような感じがするなぁ、絶対これでは解決しないような感じがするなぁ、あの人もいつまでもこの人たちを自分が騙してるのいかんなぁ」というふうに私は取れたんですね。
「そんなような気持ちでおってる違うかな?」というような一遍バッとしたんです。 そのときになにか一番最後にね、「とにかく手紙を書いてください。手紙を必ず持っていくルートがありますから、娘さんにまで届けてあげますから」と言うことでしたので。
差し支えの無いことだけを書いて、家族全員が一筆ずつでも妹たちは「元気にしてる?」と言ったり。
長女がちょうど(恵子さんがロンドンに)行くときに子供を身ごもってましたので。
向こうからも知ってるんでね。
「(長女に子供が)出来てるだろうな?一遍会いたいわ」って手紙が来てましたからね。
長女が「(子供は)元気に大きくなってるよ」とか、いろんなことを各自が5人の子供が書いて、私たち二人も書いて送ったんですね。
それは先ほども申し上げた高沢皓司さんという方がはじめて私どものところに訪ねて下さって、震災の年なんですけど、そのときに「その手紙は私が言付かりました」っておっしゃいました。
「私が平壌に行きまして、田宮さんの手までは渡してきましたよ」って。
田宮さんていうのはよど号乗っ取りのリーダーですね。
「この方までは渡してきましたよ」って。
「そこから先、娘さんの手に入ったかどうかは分かりませんけども、ともかく田宮さんまでは私届けてきました」っておっしゃいました。
そのときに田宮さんは「よど号の私たちの手で、20人くらいはこの国に連れて入ってる。これは私たちがここにおる間に絶対に日本の国に帰すようにせなならん」って田宮さんが言うてるてことは聞いております。
それから間無しに、田宮さんは心臓麻痺で亡くなりました。
私は粛清されたんじゃないかな?と今でも思ってますけどね。
本当にそんな辿りもって来たんですけども、本当に何の進展も無くて。
はじめて横田(めぐみ)さんが北朝鮮にいる言うことがわかりまして。
それも朝日放送の石高さんがたまたまソウルに行かれたとき、そういう情報をこちらに持って帰られて。
それをこちらで佐藤先生が新潟でお話なさったときに、そこで初めて「めぐみさんじゃないかな?」ということが分かって。
予算委員会のときでしたかね。
西村先生が国会の場でめぐみさんのことをおっしゃって。
それで横田さんもおっしゃってました。
はじめてお会いしたときに、「今年で19年目にしてやっと、めぐみのいるところが分かったんですよ」っておっしゃいました。
「だけどね、19年間めぐみが北朝鮮のあんな国でも元気で暮らしているゆうことが分かったんですけど、私らが表に出ることによってめぐみにもしものことがあったらどうしよう?と、かなり悩みました」とおっしゃいました。
同じです。
私らもかなり悩みました。
本当に、初めて新聞に出るいうときは本当に夜眠れませんでした。
どうなるかしら?と思いましたけど、同じ思いで横田さんも思い切って表に出てくれたんですね。
それによって初めて1997年ですね、3月に家族会が出来たんです。
初めて運動始めましたらね。
外務省に行きましたらね、当時局長さんが会ってくれました。
私らが行ってるときは「なんとかもうちょっと上に人にお目にかかれませんか?」とお願いしても、課長どまりでね。
「私で辛抱してくださいって言うんです。
数の力って本当に大きなものだな、ってつくづく思いました。
今も問題は前に進んでませんけれども家族会が出来て、やっと2002年9月17日、5人の方が帰って来られて。
だからそういう経緯で、家族会の方とお目にかかるんですけども、そんなにゆっくり話す間も無かったんですけども。
「家族」って言う本を出しましたね。
あのことによってずっと読ましていただいて、はじめて「皆さん同じ思いで長いこと暮らしてきたんだなぁ」とつくづく思いました。
今から先どうなるか不安ですけどもね。
やはり、必死の思いで私は助けを求めてきたんだろうと思いますから、出来る限りのことはせないかんと思うてますし。
家族会でも横田さんも一所懸命、毎日のように北から南からずっと全国走り回って、訴え続けておられますのでね。
だから私どもも今訴え続けるより他に道が無いんです。
これを本当に外務省の方々が、交渉に当たる方がしっかりと受け止めていただいてね。
日本の国のことなんですからね。
特定失踪者の人も、やはり400人からの方が言って来られてる。
この方も同じ思いなんですよね。
だからその、分かりませんものね。
本当にそうなのかどうなのか?言う、証拠が無いもんですから、動くに動かれなかったんですけども。
長い間みな同じ思いで暮らしておられたと思うんです。
全員の方が帰って来ないと、私はいつもそう思ってますけども。
解決しないです。
拉致問題の解決と言うことは、やはり全員が全部日本人なんですからね。
この方たち全部が日本の国の土を踏まないと、解決しないと思っております。
これからも皆と力を合わせて、家族会の皆さんと力を合わせて一所懸命頑張っていこうと思いますので、皆様方もどうぞ、これを最後まで、とにかく立ち消えになってしまったら困りますので。
皆様関心を持ち続けていただいて。
一緒に、国のためなんですから、日本の国がおかしくなってるなとずっと思ってましたけれども。
若い人たちがたくさん連れて行かれて犠牲になってますけども。
この人たちの拉致問題があったことによって、日本の国が国民の皆様方が日本をきちっと見直してくださって、それでこれではいかんと言うことで私たちに応援してくださっています。
道を歩いていても何人かの方が必ず声をかけてくださって、「頑張ってくださいよ」「私たちもずっと関心を持って見てますからね」と、それが一番の励みになっています。
親なんだから、絶対に最後までこれをやらなければいけないと思っております。
どうぞ皆様よろしくお願いいたします。(拍手)
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