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2005年3月

2005年3月29日 (火)

星は生きて人の心に

夏の星座 
  冬の星座を
   楽しげに教えくれし子よ 
          星はかたみぞ

失った子が残した記憶は宇宙という壮大なものでした。
作者は生きている子を夜空を見上げるたびに見つけ出す。
子の残した記憶は悠久の宇宙、宇宙がかたみという感覚

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2005年3月26日 (土)

北朝鮮の公開処刑について

北朝鮮の公開処刑について  2005年3月26日(土) 

(所用でしばらく日本のニュースから離れていてやや浦島太郎の気分ですが、拉致事件の状況はあまり変化がない、残念ながら。最近の動きをざっと拝見し「北朝鮮公開処刑ビデオ」への反応について少し引っかかったので感じたことを述べます。)

ブラジルにシュラスコという串焼肉料理がある。サーベルみたいに長い鉄製の大串に刺した牛の塊肉を岩塩だけで味付けし炭火で焼きナイフで肉を削ぎ落としながら食べる風土料理で、霜降り状に脂肪が入ったクッピンと呼ばれる瘤(首の後ろコブ)の肉は特に逸品である。ブラジルの片田舎で数ヶ月の仕事が終わったとき現地の連中がこのシュラスコを馳走してくれた。中型の瘤牛が村の広場に引き出され、一人の男が柄長のハンマーを牛の眉間に叩き付けると牛は赤土の上にどうと倒れ、その場で解体作業が始まった。抜いた血をバケツにため皮を剥ぎ肉と臓物を分け骨を割り手際よく解体が進む。私はこういうのはわりと平気な方だが、同行の日本人は青ざめてその肉をあまり食べようとしなかった。牛の解体現場は大勢の子供達が取り巻いて目を輝かせながら眺めていた、それはちょうど、私が幼い頃、台所で魚を捌く母の手元をワクワクしながら眺めていたように。

アンデス山中でバスが転落した。そのバスに乗っていたはずの同僚を捜しに他のペルー人スタッフと一緒に現場に駆けつけたら、草原の上には約20名分の損傷した死体がまだ転がっていた。うつ伏せの遺体は後ろ髪を引っ張り顔を起こし覗き込んでは仲間の死体を捜しているペルー人たちの姿を少し離れた場所から眺めていて私は気分が悪くなり草の上に吐いた。当地では事件・事故の遺体の映像をそのままニュースで流す。公邸事件で射殺され階段の踊り場に仰向けに転がるMRTA首謀者セルパの遺体もそのままテレビ放映された。先週の朝のニュースで、誘拐・殺害・死体遺棄された下着姿の中年女性の死体が用水路の水門にゴミと一緒に引っかかってうつ伏せに浮かんでいるシーンがアップで映ったときはさすがに口に入れかけた朝飯の目玉焼きを飲み込めなくなった。焼き豚に巻き付けるタコ糸のように、膨らんだ背中にブラジャーの背ヒモが食い込んでいる光景がいまだ目に浮かぶ。植民地時代の白人入植者の数千体のミイラ(白骨)が並べられたリマ・サンフランシスコ教会のカタコンベ(地下墓地)は観光名所のひとつであり、プレインカ時代のミイラを自宅に飾っている御仁もいる。人の死体の扱いは民族・文化が違えばかく異なる。

サウジアラビアでは今も公開処刑である。テレビ放映はされないが、月に一度、各都市の処刑場に行けば誰でも見ることができる。死刑になるのは不倫・同性愛者が多い。死刑の受刑者は何か飲ませられているのか引き出されたとき既にフラフラになっている。不倫の男は刀で首を切られ、女は下半身を地中に埋め頭部に石を投げつけて殺される。イスラムで同性愛は重罪のためレイプした同性被害者を口封じのため殺してしまい殺人罪として裁かれる場合が多い。麻薬は死罪だが酒の密造は鞭打ちの刑、これは数が多いので受刑者が順番に並び鞭打つ側も手が疲れるので複数の執行者が交替で行う。これらの処刑は全てコーランの規定にのっとったいわば宗教儀式で淡々と行われる。不倫女の処刑方法もコーランの規定で「女の首は切ってはいけない」ためである。

日本のテレビが逮捕者の手錠にモザイクをかけるようになって久しい。逮捕者の“人権”を守るためか、子供への悪影響を恐れてのためか知らぬが、私の父は18歳の時に広島で何千人もの死と死体を目の当たりにし腐乱した死体の処理を何日も続けた悲惨な体験をしながら人や生き物の死には深い思いを抱いていて、飼っていた金魚が死んでも墓を作って弔うように幼い私に命じた。私の実家の近所に、前原一誠の乱の首謀者たちの処刑を幼い頃に目撃したというお婆さんがいた。「首が切れる瞬間にゃ“シャバッ”ちゅう音がしての、首から血がピューッと飛ぶんよ。」 幼少時に公開処刑を目撃したこの婆さんは決して人命を粗末に考えるような人ではなく、路傍の地蔵にも手を合わせる人だった。今の日本は人の死をことさら隠すことで、むしろ興味本位で見たがる、はたまたバーチャルと混同してしまう未熟なバカが現れるのではないか。かつて日本で処刑は公開されていた、京都三条河原は明治まで続いた獄門さらし首の場だ。そして今も日本に死刑はある。民主主義国家が国民を処刑するのであれば、その国家の主体である国民はその事実から目をそらすべきではなく、真の民主主義国家ならその処刑を国民に公開すべきともいえる(・・・ま、現実にはそうはいかぬでしょうが、私が言いたいのは、きれいにパック詰めされた牛肉を買ってきて美味そうにスキヤキを食うなら、その背景の事実を屠殺段階から、その生命の重さとともにきちんと理解しておくべきではないか、ということ)。

今回の北朝鮮公開処刑映像も、処刑が公開であることを問題にすると視点がずれるのではないか。我々が問題にすべき点は処刑の公開・非公開ではなく、あの受刑者達がなぜ処刑されたのか、“金正日という個人”が北朝鮮国民を情報閉鎖により一方的に洗脳し一方的に虐殺しその虐殺シーンを使ってさらに恐怖支配しているというおぞましく野蛮な強権支配の事実証拠としてあの映像の意味がある。一方のサウジアラビアでは北朝鮮と違い外部情報は(ヌード画像を除けば)結構正確にに入っており、彼等は他の世界も知った上で、酒や売春のはびこるだらしない世界を忌み嫌い、イスラムの戒律を至上の価値として自分の身を委ねている。サウジのイスラム教徒を律しているのは脂ぎった生身の野蛮な他人ではなく自らの強固な信心であり、その個人的信心に基づく戒律社会の決めごとによるサウジの公開処刑を欧米の“人権屋”が野蛮と言うのはお節介かつ“解放”に名を借りた中東支配の口実に過ぎぬ。したがって、サウジの公開処刑はちっとも野蛮ではなく、北朝鮮の公開処刑は野蛮極まりない、と私は考える。
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2005年3月20日 (日)

横田早紀江さんの願い

横田早紀江さんの願い
2004年9月11日
公開講座 拉致事件を通して人権と教育を考える   東京砂防会館において
主   催 東京都教育庁                 参加者約 850名

こんにちは、私は横田めぐみの母でございます。本当に長い間この拉致問題に関心を持って頂きましてみなさん、みえないところでいろんなところで私たちを支えてくださったおかげで今日までこうして救出活動してくることが出来ました。本当にありがとうございます。私たちは考えることも出来ないような拉致問題というのがこの日本の中で起きていました。19年間という間は国内事件の何かだったんだろういうことで警察の方と一緒に一生懸命にめぐみのことを探し続けて参りました。めぐみのことは本当にけむりのように消えたとしかいいようのない感じで、家のすぐ近くの曲がり角でめぐみは消えていました。そしてどんなに探してもテレビに出てもめぐみの消息は全くわからないで、どうしてこんなに解らないのだろうと、毎日いろんなことで悩み続け、生殺しのようで地獄のような毎日を過ごして参りました。

そんな中で北朝鮮に拉致されたと言うことが解りました。
こないだ引き上げられました不審船(工作船)の船底に閉じこめられて長い時間泣き叫びながら清津(チョンジン)に運ばれていったと言うことがはっきりといたしました。
それでも私たちはこんな平和な時代にこんなばかなことが日本で起きているのだろうかと半信半疑の中でおりましたけれど、安明進さんという北朝鮮亡命工作員による証言によってめぐみが金正日政治軍事大学の中で目撃されそして『確かにめぐみさんに違いありません』ということを証言してくださいまして、細やかなめぐみの様子などをお聞きして『あぁこれはめぐみに違いない。』と確信することが出来ました。

そのあと佐藤勝巳さん、西岡さんや荒木さん新潟の救う会のみなさん、ほんとうにたくさんの方がめぐみ達のことを真剣に考えてくださって『これは許せないことだ、何とかしなければ、助けなければ』ということで立ち上がってくださり、日本中でいろんな努力をして参りました。その中でアメリカのワシントンに、2度行って訴え、ジュネーブの国連にも訴えに行ってきました。その中で私たちは、ほんとうにすぐにでも場所が解ったんだから救出にいけるだろうという期待でいっぱいでしたけれど、このように運動をしている中で、これは大変なことなんだと言うことが解ってきました。そう簡単に取り戻すことはできないんだということが解ってきました。

それは北朝鮮がただの共産主義の国だと言うことだけではなくて、考えられないような独裁主義、恐怖政治の国というか私たちの知らなかった社会だということを学ばせて頂きました。そこから逃れるためにたくさんの亡命者の方がいろんなところに駆け込んで、命がけでとにかく助かればいいという想いだけで多くの人が逃げてきています。その方達の証言などでこれは大変なことなんだと言うことが解りました。

そんな中で、そんな国(北朝鮮)に対して日本政府が拉致問題を解決するためにどれだけ真剣にとりくんでいるのか心を尽くして取り組んで頂いているのかという疑問を抱かざるを得ませんでした。米支援の時も、金正男という金正日の息子と言われる人の渡航問題の急遽送還にいたしましても。。
ジュネーブに行きましたときも、私たちは一生懸命子供達の写真を持ってみなさんに訴えました。私たちが大切に育てた子供なんだから、勝手に連れて行ったんだから返してもらうのが当たり前だと訴えました。

このことは、私は涙なしには話せないのですが、その時あって頂いた、デメロさんという高等弁務官の方が本当に真剣に私たちの目をみつめて、鋭いまなざしで聞いてくださいました。『頑張りなさい。皆さんは良くやっています。そんなこと絶対に私は許すことが出来ない。私たちも努力するから、頑張りなさい。』と言ってくださったあの姿を忘れることが出来ませんけれども、その何ヶ月かあとにテロに対して立ち上がってくださったデメロさんが、テロで爆殺されてしまいました。その時はものすごいショックで悲しい思いがしました。

その時も(ジュネーブ国連人権委員会に訴えに行ったとき)北朝鮮と日本の政府から拉致に関する書類が提出されていました。けれどもデメロさんにお会いする前の日にも、どのように訴えようかと予行演習などにて時間を計ったりして準備をしていました。その時の日本から来た書類はたった一枚でした。たった11行だけ書いてありました。『めぐみちゃんについても、今は特に変わったことはありません』というように書いてありました。

けれども北朝鮮から提出された書類は何枚もありました。日本の過去にこんなことをしているのにこんなこと(拉致問題)ばかり言っているとか、いろんなのことが書いてありました。ほんとに上手にいろんなことが書いてありました。それをそのまま提出してしまうと、むこう(人権委員会)で書類を見てくださる方は、これは実に細やかに書いてある、これは本当じゃないかと思ってしまうわけですから、もっともっと日本政府は書くことがたくさんあるわけですから。(たとえば)松木さんの骨が違った人の骨が返ってきたとか、めぐみの娘キンヘギョンという娘がこんなに大きく育っていたとか、もっといっぱい書いて欲しいことがあったのに、そのようなことを何枚にも書いて頂きたかったのに、こんなに大変な想いをしてジュネーブに訴えに来ている、そんなときでさえもたった一枚の書類に11行に簡単に書かれている。このようなことでは、この拉致問題について外務省の方は真剣に取り戻そういう想いを持って取り組んでくださっているのだろうか、としか思えませんでした。

私たちは、「これは大変だ」と言うことで、一緒に行っている議員の方や救う会の方が一緒になって日本の方に話して、書き直してください。ちゃんとしてくださいとお願いしました結果、ようやく次の日に提出する前にぎりぎりで外務省の方から新しい書類が何枚にも書かれて送られてきました。それでようやくその書類を対抗して出して協議の場にまにあうということがあったわけです。

そういうことをいろいろ考えますと私たちはほんとに政府を信じたい、外務省を信じたい、そしてその人達にお願いしなければ、私たち個人ではこれは動けないことなので信じていかなければならないと、こうしてくれているかもしれない、ああして考えてくれているのかもしれないと一縷の望みを持って見ていましたけれど、いつもそのことはあっけなく裏切られてしまう。言わなければやって頂けない。必死になって頼まなければ届かない。大きな声で、みんなで戦って大きな声をださなければ変わっていかない。こんな国であって良いのでしょうか。

今も蓮池薫さんがお帰りになって言っていましたけれど『私たちは毎日だれかが助けに来てくれると思ってた。』と仰っていました。薫さんはお月様を見ながら『まっていればきっと助けに来てくれるに違いないと一生懸命待ったけれど何年間待っても誰も日本から助けてくれる人はいませんでした。』と仰っていました。『だから私たちは、これはしかたがない。北朝鮮で生きていくしかないんだと思って、それで私たちは北朝鮮人としていきる覚悟をした。180度心を入れ替えたのだ。』と薫さんは仰っていました。

めぐみは連れて行かれたあとも、一生懸命朝鮮語を勉強すれば必ずお母さんに逢わせてあげると言われて-彼女は本当にだれもしらない、言葉もわからない、どこかも解らない、何で自分がこんなところにいるのかも解らない(ところで)-家族に逢いたい想いで一生懸命に、初めての北朝鮮語を勉強したんだと思います。一生懸命に勉強して、日本に帰れるかもしれない、親に会えるかもしれないと思っていたのですけれども、結局それは果たされなかった。それでとうとう、精神的に破綻をきたして病院に入院したということが書かれてありました。こんなに若い年代で親から離れて、そして知らない国で恐ろしい監視の中で何とかしておとなしくしていなければ殺されるかもしれないと、一生懸命知恵を働かせて生きてきたんではないかと思います。めぐみは今あすこの国で生きているのかどうか。。。。

相変わらず私たちは27年前の新潟時代のあの寂しい秋の、もうすぐ来る11月のあの時と同じ想いで、まだ見えないめぐみの面影を一生懸命探し求めています。

どうかかえってきて欲しい、どんなところにいても命さえあれば必ずかえってこれるのですからと、私たちは一生懸命お祈りをしています。けれどもそれをしてくださる日本の国が本気で立ち上がって下されなければ取り返すことが出来ないのです。だから私たちは全国を歩いて、7年間歩き続けて、こうして皆さんの前に立ったようにたくさんの方々に訴えて続けて参りました。『みなさん、もしこんなような状態だったら皆様はどうなさいますか』と訴え続けて参りました。『向こうに行ったらもう帰れないんだから仕方がないんだよと諦めてしまえるのでしょうか。』自分の命を削っても倒れるまで声をあげ続けて助けてあげたいとお思いになるのではないでしょうか。

一生懸命育てた子供が、本当にたくさんの若者達が日本の国から、海岸から、街角から袋に詰められて、あのような船にあっという間に乗せられて、連れて行かれ、そして監視の中で恐ろしい中で一生懸命頑張っている。そこの国に馴染まなければと頑張っている。北朝鮮の人たちに日本語を教えるために先生をしているという話もありますけれど。日本の国にいれば、どんなにか何かのお役に立っていたかもしれないたくさんの若者達がこんなに理不尽に連れ去られ、その年月は27年、寺腰さんのように30年以上も長い苦しみの中に置き去りにされている。こんなことが許されるのでしょうか。

帰ってきた方達も、長い間子供と引き裂かれていました。そしてようやく子供達が日本の地を踏みました。私はみなさんが日本の国の土を踏んだとき、『あぁ、良かった、良く帰ってきた。良く帰ってきてくださったと。ほんとうにひとつの生命が助かったのだ。』と思いました。理不尽な国から逃れてきたということは大きな喜びです。私は本当に嬉しく思いました。

私たちの子供達も、必ずその日が来なければならないと思っています。

ほんとうにどうしたら日本の国はこの事が解決できるのでしょうか。450万名の署名が集められ、官邸に届けられ、今までにないような皆様方のご支援を得ていられる中でも、なかなかこの問題が進展していかない。そして報道も、多くの人たちが家族の帰国を待ち望んでいる、そのことにもっと(報道の視点が)いかないのでしょうか。

国会議員全部が拉致議連議員でなければならない。そのようなことが何故起きないのか不思議でなりません。私たちは27年前と同じように朝も昼も夜もめぐみ達のことを想い、何を食べているのだろうか、病気になっていないだろうかと思っています。日本が必死にならなければ助かるものも助からないのに、どうしてみんな、怒ってくださらないのでしょうか。

小泉首相が2回目の訪朝をなさった前の日にも、私たちは会ってくださるようにお願いをしました。逢ってくださらなかったので、細田外務大臣にも、外務大臣にも一生懸命お願いをしました。「こんな馬鹿な、理不尽な事をされ続けて、怒ってください」とお願いしました。せっかくあちらのトップの方とお会いになるのだから、こんなチャンスはないんだから、目を見て話せるんですから、怒りを持って日本の国のために戦ってきてください。『返しなさい』と言ってくださいと一生懸命お願いしました。けれども、私達の想いとは遙かに違った回答が来たことは本当に残念な結果でした。

この国は何を考えているんだろうか、あのようにたくさんの人たちの命を虫けらのように向こうに押しやっても、もっと他にご自身で何かやりたい事がおありになるのだろうかと。自分は何か功績を挙げたとしても、こんなにたくさんのかわいそうな罪のない日本人の若者達が、そのあと山の中に放り出されてしまうかもしれない状況がはっきりしているのに、どうしてそれをまず一番に救出しようと言う気持ちがないのでしょうか。自分のお子さんであっても、その方達はそのようになさるのでしょうか。

          私はほんとうに叫ばなければなりません。

日本の国のために私たちの大事な子供達、孫達がこの日本で平和に暮らして行かなくてはならないのに、このような大事な問題を放棄したままで、このままでこの問題が進んでいったときに日本の国は世界の国に笑われてしまうのではないでしょうか。あの国だったら、こんな事を言っても何も言わないだろう、何とかなるだろうというかたちでいろんな外交がすすめられ全てのことがいつもマイナスに働いていくのでしょうか。

私たちはこの大事な今こそ、この時代に生きている今こそ、犠牲を払って向こうで苦しんでいる子供達のためを犠牲者として放り投げてしまうことのないように、子供達孫達のためにも、今生きている私たちが大切なこの問題をしっかりと見て、絶対に救出する、必ず助ける、全部の拉致被害者を助けるために、日本中全部が怒ってあちらに向けてそれを言わなければならない時だと思っております。

どうか、これは皆様の一人一人の力が必要です。北朝鮮の多くの国民のかた方にも自由な人間らしい生活をして頂きたい。そして私たちも“正義”にあふれたすばらしい日本の国が運営されていくように、トップの方々がまずそのような想いをもって動いてくださる国になって欲しいと、そのようなすばらしい政治家が一日も早く一人、二人、三人と現れてこの国の政治を担って頂きたいと、毎日そのことを願っております。

どうか拉致被害者のめぐみをはじめたくさんの、見えないところにいらっしゃる被害者やご家族の方のためにもこの問題をどうぞ真剣に考えて頂いて一刻も早くせめて今年中にある程度の進展があるようにお力を貸してくださいますように、よろしくお願い申し上げます。

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2005年3月10日 (木)

市川修一さんを救うぞ東京集会(1)

 市川健一さんのお話 1
 
皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの~、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。

弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。

当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。

で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4~5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。

私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの~学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。

たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。

父も仕入れですとか配達の時なんかに修一を車に乗せまして、連れ回しておりました。
修一が高校時代だったと思うんです。
こっそりと運転させて練習させておりました。
本当に高校3年になった時はすっごく上手になってたんですよね。
今そんなことしたら大変なんですけども、まぁその頃私どもの田舎ではそんなに厳しい取り締まりは無かったからそれを利用して上手になったんだと思います。
修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。
親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、いろいろと手伝いをしておりました。

そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。
大捜索にも関わらず、何も見つからず何も進展しないまま、捜索が打ち切られてしまいました。
日々悶々とした思いで月日が過ぎていきましたけども。
私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。
兄である私がこういう気持ちですがね。
ですから親としては本当に身を切られる思いだったと思います。

それから失踪からですね、2年後だったと思うんです。
東京の新聞記者の方(産経新聞の阿部雅美氏)から聞かされ、その時初めて私は全国各地でアベック失踪事件が起きているのを知りました。

それまでは修一は神隠しにあったんじゃないか?
あるいはUFOに連れて行かれたんじゃないか?
そういうことばかり思っておりました。
富山県でのアベック未遂事件で残された遺留品。
これから見て、おそらく修一さんも北朝鮮に拉致されている可能性が強いと言われました。
以前から拉致、北朝鮮に連れて行かれたんじゃないだろうか?と言う疑惑はありましたけれども、この話を聞いて絶対に北朝鮮に拉致されたんだと、確信を持ちました。なぜ?北朝鮮に連れて行かれたのか?
何の目的なのか?
全然分かりませんでした。
北朝鮮に拉致されたとしても、生きているのか?死んでいるのか?
本当に生死の分からない、これほど辛いものはありません。
弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私のね家では一切、あの~皆思ってるんですけども口には出しませんでした。
口に出していうとお袋が涙をいっぱい流し、また悲しそうな顔をするもので、本当にね長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。

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市川修一さんを救うぞ東京集会(2)

事件から17年後1995年、確か11月の終わりだったと思います。
私が父と店を代わり昼食を取っていたところ、電話が鳴りました。
韓国から国際電話が入ったんです。
以前私の家に取材に来られたテレビ局の記者の方(大阪・朝日放送の石高健次氏)でした。
「韓国へ亡命した北朝鮮の元工作員・安明進さんという方に取材をすることが出来た。
何枚かの行方不明者の写真を見せたところ、その中からこの男性は何回も目撃している。
おそらく修一さんは北朝鮮で生きている可能性が強いです」
と言うお電話をいただいたんです。

お袋がその時はテレビを見ておりましたですけども、私が修一と言う言葉を出したもんですから、サッとこっちの方を見ておりました。
私が電話を切ってから「お母さん、修一が北朝鮮で生きているよ」と言った途端みるみる大きな粒の涙を流し
「どこへねおってもいい、元気でいてくれればそれでいい」
本当にね、私もびっくりするぐらいの大きな大声で泣いておりました。
私も初めてね、母親があのように大きな声で泣くのを見て、本当に母親の愛というものは海よりも深く広いなぁと理解しました。
それからお袋の顔も笑顔が戻り、修一の話をしてもそんなに悲しい顔をしなくなりました。
本当に安明進さんの証言と言うものは家族にとっては本当に大きな光が、希望の光が差し込んだような思いがしました。
それから修一が帰って来ても困らないように、着れもしない20代の頃のスーツを取り出して虫干ししている母親の姿を見ると本当にたまらない気持ちですよね。(少し声を詰まらせ涙声で語る)

それからですね、まもなく家族会が発足したんです。
私は国は国民の生命を守る義務があります。
修一たちを全員を必ずいつかは政府が取り戻してくれるだろうと。
私は期待し、絶対に取り戻してくれるんだと、いつも思っておったんです。
ところが20年間政府は何もしてくれませんでした。
拉致被害者をね、完全に見捨てていたわけなんです。

皆様方もご承知のように2002年・平成14年、世論の力で小泉総理が訪朝されました。
日朝首脳会談が行われました。
私たちは外務省の飯倉公館に集められて、「5人生存8人死亡2人が未入国」と通知されました。
家族は個別に呼ばれ、私と妻とそれと長男3人に植竹外務副大臣より
「命に関わる問題です。
政府としては慎重に確認作業をいたしました。
ところが残念なことに修一さんは死亡されております」

その時私はね、死亡というのは頭に無かったんです。
最悪でも行方不明のままだろうかなぁ?おそらくその方が強いかなぁ?と思っておりました。
ところが死亡と言われたもので、頭の中真っ白になったんです。
そこで・・・あの・・・あの・・・植竹副外務大臣に
「修一は殺されたのですか?病死なんですか?死んだのはいつなんですか?」
と矢継ぎ早にね質問したところ
「何も分かりません」
ただそれを繰り返されるばかりでした。
市川健一さんのお話 4
妻も怒って
「何も分かりませんでは、私は両親にどう説明したらいいんですか?大臣・副大臣は知っていらっしゃるんでしょ?知っているんだったらここで教えてくださいよ!」
物凄い剣幕でね、副大臣に迫っていました。
長男も目を真っ赤にして妻の肩を抱いて
「お母さん、もういいよ、もういいよ」
ってね、一生懸命ね、母親の肩を抱いておりました。(このあたり少し声を詰まらせながら語る)

私はその時安明進さんの証言がありました、っていうのもそれも頭に全然無かったんです。
「親にどう説明したらいいのか。そうだやはり行方不明のままで知らせた方がいい。高齢の90歳の身だからどういうことか何かあったら大変だ」
そう言おうと思いましたらね、なんとちゃんとテレビで放映されておりましてね。
で私は心配して電話したら、家じゃあ妹が、
「一時はしょげ込んでいたけども、元気だよ。兄ちゃん大丈夫だよ」
と言ってくれてね、やっとそれで安心しました。

それで後で分かったんですけど、政府は死亡確認はやっていなかったわけなんです。
北朝鮮の一方的通知をそのまま私たちに伝えただけだったんです。
後日政府の訪朝団が訪朝し、北朝鮮側からの聞き取り調査を行いまして、私たちにその調査書と言うのを下さいました。
その内容を見てとても納得できる内容ではありませんでした。
1979年9月4日元山海水浴場で溺死と書いてありました。
私はえっ?修一は、あの私の田舎は私のときもでしたけど修一の時も小学校・中学校もプールが無く、また山間に住んでいましたからほとんど海水浴に行ったことが無いわけなんですよ。
で家族でも海水浴に言行ったこともないし、修一が泳ぎに行ったことも全然聞いたこともありませんでした。

あぁ、これは嘘だな。
泳げない者がわざわざ海水浴に行くはずが無い。
それと9月4日、水は冷たいですよね?
その水の冷たい時期に海水浴するはずが無い。
それと元山海岸から緯度をたどっていくと東北の岩手県に当たります。
岩手県でも9月になって海が冷たくて泳いでいる人はいないですよね。
それなのに海水浴で死亡としてあるわけなんです。
元山海水浴場には台風も近づいていた訳なんですよね?

私には目撃証言者の安明進さんがいらっしゃいました。
1988年から1991年、あの~修一をね、金正日政治軍事大学で何回も目撃しているわけなんです。
修一の特長なりすべて話されたこと、また赤いネクタイなんかも修一に間違い無いという証言も頂いておりましたから。
それなのに北朝鮮は拉致の次の年には死亡としているわけなんですよね。
本当に全てが矛盾と不自然な点が多く、とても信憑性があるものではなく、捏造と嘘に嘘を重ねるのが北朝鮮の常套手段だと思っております。

昨年5月22日小泉総理が訪朝されました。
私たち家族は10名の未帰還者、それから100人以上ともいわれる北朝鮮に拉致された可能性の強い特定失踪者。
この人たちの救出の道筋を立てて来られることを本当に心から強く切望しておりましたけども。
ところが総理は被害者の国・日本が、加害者の国・北朝鮮に対して、食糧支援の約束をなさる。
また国民の意思で成立した経済制裁法も発動しない、ということをね、約束されてこられたんです。
本当に唖然としてしまいました。
 市川健一さんのお話 5
日本は北朝鮮から主権侵害・人権侵害され続けているのに、なぜ?
なぜ毅然とした態度で交渉が出来ないのか?
本当にね、情けない!腰抜け外交!日本はどうなっているんだ!と怒りがふつふつと湧いてきました。
日本人の拉致を指令したのは金正日なんです。
その金正日は自国民にも恐怖を与えて食料も与えずして、餓死させ続けている極悪の独裁者なんです。
だから日本政府がどんなに誠意を持って米支援しても、特定階層の人あるいは軍人などにそれがまわって国民のね、口には入らないんです。
だから祖国を捨てて脱北者がどんどんどんどん後を続いておりますよね?

独裁者には誠意は通じません。
独裁者の考えることは得か損だけなんです。
私たち家族は北朝鮮に対して経済制裁の発動をして欲しいと強く強く要請しております。
対話の出来ない相手にはもう制裁の圧力しかないと思います。
圧力と言っても軍事力ではありません。
経済封鎖でもありません。
北朝鮮の国民が困らない、金正日が困る人・物・金を止めればいいわけなんです。
それをね、総理は絶対やって欲しいと思うんです。

でなければ、ただ時間だけが過ぎ去っていきます。
私のね、両親はもう90歳なんです。
一刻でも早く弟に会わせたい。
私はその一念でね、気が張っております。
本当に時間が無いんです。
朝私は早く起きるんですけど、両親今日も元気で起きてきてくれるかなぁ?
それだけが毎日心配しております。

今父は足が痛くて、自宅と店は隣同士なんですけど。
私なんかが歩けば何歩かで店に着くのに、親父はそこまで来るのに30分も時間がかかるわけなんです。
本当に歩けば歩くほど足が痛い痛いと言ってね、ほとんど寝ているわけなんです。
あんまり寝ているとボケてしまいますんで心配しております。

北朝鮮の国民もね、金正日の独裁から解放されることを信じております。
皆様方もこの拉致問題を忘れないで下さい。
関心を持ち続けてください。
世論の力ほどね、強いものはありません。
5人の被害者、まずはその家族が帰って来られたのも世論の力です。
私たち10人の未帰還者、また400人以上と言われる特定失踪者、この人たちが全員が祖国の土を踏むまでは戦わなくてはいけません。

頼りにしているのはね、皆様方のね、世論の力なんです。
どうかね、私たちと一緒に戦ってください。
そしてね友達、友人なんかにこの拉致問題の話をしてください。
悪いのはね、金正日です。
よろしくお願いします。(拍手)

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市川修一さんを救うぞ東京集会(3)

市川龍子さんのお話 1
皆様こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
いつもご支援ありがとうございます。
私は修一の義理の姉に当たります。
修一は48年の3月に隣町の県立岩川高校の機械科を卒業しております。
私たち夫婦が横浜から引き上げてきたのが47年10月なので、あまり修一とは長くは住んでおりませんでしたけども。

私の長男と、修一の姉に当たります孝子って言うんですが。
主人から(みると)妹ですね、修一からは実の姉に当たるんですけど。
その姉孝子の長男と私たちとの長男が初節句が同時期だったもんですから。
そのときは修一は臨時職員として働いていたと思います。
郵便局に働いていたんですが。
なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな冑の置物ですか?
節句の、あれをプレゼントしてくれたことがあります。
修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。
それでも可愛い甥っ子のためにと言うことで、修一が贈ってプレゼントしてくれました。
また母にはですね。
初ボーナスで、もう見たくないんですけどここに持ってきました。
修一が初ボーナスで母に大島紬ですね。
これをプレゼントしてくれたそうなんです。(大島紬の着物を広げて見せる。会場より「あぁ素敵」と言う声)
これは一度も母は袖を通しておりません。
もう見ると涙が出るからって言って。
ずっとタンスの中にしまってありました。 今日初めてですね。
取材の方がいらっしゃったので母が初めてこの紬を抱いたんです。
初めてです。
27年にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。
もう本当にですね、酷だったかなぁと思ったんですがここに持ってくるということで。
母が初めて大島紬を手にとって泣いた時の姿は。
早く修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないと言う気持ちがまた決意が、ずんずんと湧いてきたんですけど。(会場のあちこちですすり泣く声、以後最後まですすり泣き続く)
修一さんが初ボーナスでお母様にプレゼントした
大島紬
また私の長女が2歳の時ですか。
修一は、そのうちの女の子がですね。
本当の兄ちゃんがいるのに、修一のことを「兄ちゃん兄ちゃん」というんですね。
まつわりついて、その、うちの長女も修一になついて可愛がってくれていました。

拉致されてからほとんど修一のことを話すことも無かったんです。
さっき主人が言いましたように、本当に禁句でした。
修一に関することはですね。
うちはお店をしているものですから、スーパーの方に切り替えた時にですね。
新装開店をしたのが58年の7月なんですが、盆とか暮れとかですね。
今は下火になってますけども当時は本当にですね、忙しいお店だったんです。
かき入れ時なんかはですね。
鹿児島市内からわざわざから帰ってきて、レジに立ったり、またお客様を送っていったり。

田舎はよく砂糖が出るんですよ。
砂糖の進物って言うんですか?
砂糖が2キロくらい箱詰めで、その当時はその箱詰めもきれいに包装して売り出してましたので。
修一はその箱詰めをですね。
嫌とも言わずに、物凄い数で進物としてね。
砂糖とか進物類を包装してくれたのを、私は覚えています。
お店が国道沿いにあるもんですから、道路を横切る近所のおばあちゃんたちをですね。
お買い物してくださった荷物を、沢山の荷物をですね。
持って、一緒に道を横切って交通安全に気をつけてですね。
おばあちゃんたちの安全を確認して一緒に渡っていって、よくしておりました。

話が飛び飛びになりますけども、また母の話によりますと魚釣りが好きでですね。
近くに大隈湖ってあるんです。
その大隈湖とかですね、錦江湾の方に良く釣りにも行っていたよ、と言って母が見せてくれたのがこのリールなんです。(リールを見せる)
釣竿もあったんですけどちょっと長いから持って来れなかったんですけど、これも修一が帰ってきたら返そうと思っています。

ボクシングの時にあの、大きな袋詰めのものを下げ・・・なんていうんですか?(会場より「サンドバッグ」の声)
私知らないんですが、そのサンドバッグっていうんですか。
それをベランダにぶら下げてよく叩いておりましたね。
そしてあと鉄の塊のこっちとこっちの、(会場より「ダンベル、鉄アレイ」の声)鉄アレイ、それからバネになってるぐぃ~んと伸ばすような、ああいうものをよく使って体を鍛えておりましたね。
目に浮かびます。
ボーナスと貯金をはたいてですね。
修一にとっては一世一代かと思います。
聞きましたら60万とか70万とか言ってましたけど、そんな豪華なステレオですか?
縦式に、あの当時は縦式にステレオを回すところがあって、なんかアンプがあってこう、なんか知らないけど機械がずらっと縦に並んだセットがありましたよね?
スピーカーも大きなスピーカーを4台そろえて、そしてここにこうしてですね。
LP盤って分かりますか?
ドーナツ盤って分かりますか?(笑い声)
レコードなんです、要するに。
CDとかMDとか知りませんからね。
そういうのを良くここにつけて(ヘッドフォンをつける仕草)静かに聴き入ってましたね。
今もLP盤とかドーナツ盤とかは金(かね)で出来たレコード差しって言うんですか?
若い方は知ってらっしゃらないと思います。
それが大事に置いてあります。
それも早く返さなきゃ、家が狭いです。(笑い声)
大きなですね、ガラス張りの書籍棚を自分で買ったんでしょう。
さっき言ってました妹孝子の敷地内に間借りしてたもんですから、そこにちゃんとあったんでしょう。
持って来ましたが。
その書棚の中には世界史とか日本史とか単行本とかいろんな本がね、ずら~っと並んでるんです。
レジを手伝ってくれる時はいつもレジで本を見てたよ、と近所の方が教えてくださいましたけども。
そういう面もあって、目撃証言にもあったようにいつも片手に何かをね。
辞書か何か知りませんが、いつも何かを持っていた。
市川先生はチョン、チョンなんでしたっけ?
なんとか先生はいつも片手に辞書か何かを持っていつも静かに本を読んでました、寡黙な方でしたよ、といわれたんですが。
確かにそうだと思います。
確かに余り余計なことはしゃべりませんでした。

私は義理の姉と言うこともあったんでしょうが、またその時は修一は若いですから、恥ずかしさとか遠慮さもあったんだと思います。
私も当時はまだ若かったですからね。(笑い声)
余計なことはしゃべりませんでしたけども、本当にその通り寡黙な青年だったと思います。
でも同級生によると、今日はですねその同級生もここに来るのをですね。
楽しみにしていたんですけど、なんか議会が始まってどうしても出られない、申し訳ない申し訳ないといってですね。
今日は欠席しておりますけども。
その同級生が言うには、反面悪いこともしてましたよと教えてくれましたけども。
バイクで学校へ行くまでいろんな抜け道をしながら近道を通りながら、遅刻をしたりとかそんなこともしてましたよって、修一の一面を教えてくれました。
横浜からですね、鹿児島へ主人と一時帰省した時があるんですが、そのとき主人と父と修一とで霧島の方にドライブにいったときの写真があるんです。
これは私がたった一枚です。
修一と共に写った写真はこれ一枚なんですよ。(手帳から写真を取り出す)
これは私がいつも手帳の中に入れて持ち歩いているんですけども、私もミニスカートはいてます。(笑い声)
考えられないんですが。
高校2年生くらいだったと思います。
修一と父と主人とで霧島の方にドライブに行ったことがあります。

修一は母が30代後半の頃に生まれた子ですので、歳をとって出来た子は特に可愛い、まぁ子供に変わりはないんですけども、特に可愛かったんだろうと思います。
当時はお店が忙しくてですね。
母はいつも嘆いております。
「余りかまってやれなかった、かまってやれなかった」といっております。
でも子供たちのために一生懸命、本当に一生懸命あの働いていた母でしたね。
修一が社会人になってからですね、それはそれは本当に親思いの修一だったよって、修一の姉の孝子が言っておりました。

主人とは9つも歳が離れていますから怖い存在だったかもしれないし、話が合わなかったかもしれませんけども4歳違いの姉、孝子って言うんですけども。
「姉ちゃん姉ちゃん」と何でも相談していたと聞いております。
鹿児島市内に住んでいた、姉のところから修一はいなくなったんですけども。
当時は電電公社に通勤しておりました。
食事も姉家族と一緒にとっていたんですけども、今日のこの日にですね。
姉の孝子も「出席して語りたい」と言ってたんですけど、今病に伏せっております。

修一が北朝鮮にいると分かってから、母はですね、(昭和)60年だったですかね。
韓国の38度線の鉄柵の前でですね、言っても聞き苦しいかも知れませんけども。
鉄柵の前でですね、あらん限りの声で叫びましたよ?
「修一どこにいるの~!顔を見せて~!声を聞かせて~~!」
ってですね。
むこうの方では断髪的に号砲がなり響くんです。
聞こえるはずも届くはずも無いんですけども、それでも母は叫び続けました。

今にも鉄柵を乗り越えてですね、修一を探したい、連れ戻したい。
そんな心境だったんでしょう。
もう後を振り返り振り返り、空しく国境線38度線を後にして日本に帰ってきましたけども。
子を思う親の気持ちは何処の国でも本当に同じです。
気が狂ってもおかしくないぐらいの状況の中で27年過ぎます。
私だったら気が狂っておりますね。
よく耐えてくれていると思います。
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市川修一さんを救うぞ東京集会(4)

市川龍子さんのお話 2
ご存知のように2002年の9月17日、本当に私たちにとっては大打撃でした。
植竹(外務)副大臣に本当に食って掛かりました。
主人はちょっと穏やかって皆さんおっしゃるんですが、私はもう怒りがもう頂点突き抜けてるんです、本当。
だから植竹さんにも食って掛かりました。
「殺したんでしょうが!」
ってですね。
植竹さんに言ってもどうしようもないんですけど、それくらいどこに怒りをぶつけていいか分からなかったんです。
2002年10月15日ですか、5人の方は帰って来られました。
あのメンバーのなかに修一がいたらなぁって。
もしかしたら安倍さんの後ろから出てくるんじゃないか?
誰か一人降りてくるんじゃないか?修一が降りてくるんじゃないか?って。
そういうかすかな期待もその時ありました。
でも残念でした。
その時は帰国者の喜びの涙と、無念の涙が入り混じった15日でした。

いつも私が歌を言うんですけどもこれも皆様ご存知でしょうか?
 どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
 すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
 星も凍てつく雪山に 母はひな鳥捨て置かぬ
 腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
 千里万里はいとわない 可愛い我が子に会えるなら
 親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯がゆさよ
 これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
 生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ 
この歌があります。
本当に早紀江さんの心情、有本恵子ちゃんのお母さんの心情、うちの母の心情を本当に歌った歌だと思います。

でも安明進さんの目撃証言の後から、さっき主人が言いましたように母は修一の衣装箱を開けるようになりました。
毎年虫干しをするようになったんです。
今となっては着れる状態の服じゃないです。
センスも違いますし。
それでも毎年毎年、母は衣装箱の中から虫干しするようになったんです。
母はもちろんですけども、私たち夫婦も23歳のあの修一のこの顔しか私たちには思い浮かびません。
また私は自国民の救出に手をこまねいている日本国にあきれ果てて、腹を立てて、情けなくて。
拉致の実態を知ってもらうために横田代表たちと一緒にロスまで行かせて頂きました。
ロスの市民は怒っておりましたよ?
「それでも日本国か?日本国民か?どうしてあなたたちがここまで来なくちゃいけないんだ!」
と言ってですね、怒り狂っていらっしゃいました。
でも同情の涙、共感の涙に変わって、「ロスから修一さんたちを助け出してみせる」といってですね、固い約束もしていただきました。

ブッシュ大統領に3回手紙を書きました。

 ・助けてと頼みの綱はただ一人 三度(みたび)の便りに願いをこめて

本当に3回手紙を出しました。
それから自負かどうか知りません。
その、まあ、ブッシュの態度もちょっとこう、変わってきてるんじゃないか?と思ってるんですけども。(笑い声)

胡錦濤さんにも手紙を書きました。
でも中国に今馬鹿にされている状態ですよね?
これで日本国国家と言えますか?
私はこの後いつも主人に怒られるんです。
「お前は言い過ぎだ」と言われるんですよ。(笑い声)
「もう国のこと政府のことは西岡先生らに任せておけばいい」って言うんですけど、私は怒りが収まらないんです。
本当ですよ?
分かっていただけますよね?(拍手)

主人の父も90になるんです
ただひたすらわが子の帰りを待っているんです。
毎朝発する言葉はですね。
「お父さん、修一が帰ってくるまでは何としても元気な体で修一を迎えてやりましょうね」って言って。
自分で無農薬の野菜を作って食べていますよ?
お互いに食事に気をつけてですね。
お互いに二人で一人前だって言ってかばい合いながら、頑張っています。
30年同居しています、30年以上です。
もう手に取るようにわかります、私には。

もう切なくなってくるんです。
朝に夕な仏壇に手を合わせております。
母の背中もだんだんだんだん小さくなってきております。
食卓や部屋のあちこちとか庭の池の周りとかには、可愛い蛙の人形がですね、あちこちに置いてあるんです。
「修ちゃん帰る。必ず帰る」って私が全部、どんなちっちゃな蛙にでもですね。
もう何百個ってあります。
ちっちゃな蛙にも、手書きをしてですね。
その文句を入れて、あちこちに蛙が置いてあるんです。

最初この蛙を見たとき、母が泣き出したんです。
「泣くんだったら蛙引っ込めるよ、私は!」って私言ったんです。
そしたら
「いやそうじゃない龍子さん、このおどけた蛙の顔を見て、ちょっと慰められて笑みが出てくる」
って言ってですね。
泣き笑いをしております。
もう本当にもう私はたまりません、もう。

署名活動なんかでですね。
小さな子らが署名してくれたり、たどたどしい字で署名してくれたり、なけなしのお小遣いをポトンと入れたりしてくれます。
私はそんな子供たちが、子供や孫やひ孫がですね。
「安心して安全に遊べる日本列島にしてあげるからね、必ずするからね」って約束します。
それでなければ400人以上と言われてますが。
その400人が「日本人は目を覚ましてくれ!」って叫んでるんじゃないかな?って私は思ってるんです。(拍手)

るみ子ちゃんのお父さんが残念ながら亡くなりました。
私はるみ子ちゃんの(お父さんの)霊前で弔辞を読ませていただきました。
「お父さん、絶対に世界の世論を高めてるみ子ちゃんを助け出してみせるから、安心して逝ってね」
って、私は弔辞を読ませていただきました。
その通り今ボチボチとですが、北朝鮮の人権問題に世界が注視するようになっております。
なんとしてもこの独裁政権は打倒しなければ。
私たちは北朝鮮全体を打ちのめせって言ってるんじゃないんです。
むしろ北朝鮮の一般民衆を救ってやるのは今だと私たちは思って、この活動を続けているんです。(拍手)

今はですね、話は飛び飛びになりますが。
歩くことも困難になった父ですが私は車椅子を押してでもですね、羽田のタラップの下で修一を迎えさせてやりたい。
また母にはこの大島紬を着せてですね、修一を迎えさせてやりたい。
ただその一心で夫婦して頑張っておりますが。

いつも母が、私もお勤めしております。
お勤めの休みを返上して署名活動とかいろんなところに出かけて行きます。
母がいつも言う言葉は、
「気を付けて行ってね、頑張ってね、ご苦労さんね、お願いしますね、頼みますね」
って言って送り出すんです。
しっかり留守を守ってくれています。
本来ならば子や孫やひ孫に囲まれて楽しい余生を送っている歳です。
一日も早くこの母にですね、一刻も早くです。
母の胸に、病に伏せっている姉の胸に、弟修一を抱かせてやりたいただそれ一心なんです。
そして拉致被害者、特定失踪者、日本人全員の無事の帰国を、その日まで本当に皆さん今一度もう一歩、皆さんの声で世論の高まりで助けていただきたいと思います。(拍手)

短歌が好きなので詠ませてください。
これも聞かれたと思いますが、極寒の地でまた27年目の冬を迎えました。

 ・巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け春を信じて
 ・北の果て木々(木々だと思うのですがここだけはっきり聞き取れず)を偲びて
  幾年(いくとせ)か 老いたる母のしわの重さよ
 ・故郷(ふるさと)に想いを馳せる弟よ 救いの手立てにいらだち募る
 ・遅々として進まぬ異国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は
 ・彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
 ・老いていくわが身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱く(いだく)夢見て
 ・彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして
 ・またしても騙され続ける日本国 国家の誇り取り戻せ今

皆さんもう一度、今一歩ご協力お願いいたします。
ありがとうございます。(拍手)

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