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2005年4月

2005年4月28日 (木)

ブルーリボンの作り方

ブルーリボンの作り方や材料の入手方法、その他ブルーリボンについてのアイディアなど。

irukaさん ブルーリボンの作り方(その1)

以前に投稿したものと殆ど同じなのですが、わたしの作り方を書いてみます。ご参考までにどうぞ。
必要なものはシモジマで通販しています。色んなものが格安なのでぜひ無料カタログを取り寄せてみてくださいね。
シモジマ通販サイト

(1)リボン……コハクリボンの「ミズ」なら30mのものが10巻単位で1巻270円で買えます。ただこれはレーヨンなので、摺擦に弱いです。できればサテンリボンがいいですが、20m巻で800円します。
(2)ボンド……セメダイン社の速乾Gクリアスリム180円が115円1本から買えます。大きくないので手が疲れません。布用ボンドでも布が波打つものがありますが、これはそんなことはありません。(RNETご紹介のものは使っていないのでどちらがいいか分かりませんが)
(3)安全ピン……100個入り270円が120円

iruka さん ブルーリボンの作り方(その2

A3のカッターマットに、8.5センチずつ赤の油性ペンで印をつけておく。8.5×5本で合計425センチです。
最初は大きく425センチ長さに切っていき、端を洗濯ばさみで留めて束ねていきます。1巻分切ったとこで、20枚ぐらいずつ低温のアイロンをかけて真っ直ぐにします。そのあと、マット上で8.5センチずつにカッターや
ローラーなどで切っていきます。
できた8.5センチ長さの長方形のリボンの右端(または左端)を>の形にハサミでカットします。
全部カットしたらある程度をまとめて、左端(または右端)を1センチ折り曲げます。ここまでで準備完了。
全部を綺麗に菓子箱などに並べておく。

A3ぐらいの段ボールを2枚用意する。
1枚の段ボールの上に、リボンに安全ピンを通しながら並べていく。
25枚並べたら順次糊付けする。済んだらリボンを並べたままで脇に置いておく。
2枚目の段ボールも同じように使用する。2枚目の段ボールで仕上げたら、1枚目の段ボール上のリボン25枚をまとめてハガキサイズのビニール袋に入れる(2枚目を作っている間に充分乾燥してリボン同士がくっつきません)。2枚目が済んだら1枚目で作る。
これを4回繰り返したら、袋に計100本のリボンができたことになります。数えやすくてグッドです。

他にもっとうまく作っている方もおられると思いますが、わたしが試行錯誤しながらたどり着いた、今一番良いと思われる楽な作り方です。
こちらはRNETの直リンクです。


プリンくん  リボンの色

シモジマカタログP243のシングルサテン(ポリエステル)Rブルー(No.1420228)20m800円
同じ頁のコハクリボン(レーヨン)ミズ(No.1200205)これだと30m巻で10巻まとめると1巻が270円と格安です。
摺擦に弱いですが、沢山作れる上に、ほつれが無いのでほつれ止めの必要が無いんです。ただ、品質にちょっとムラがあって、固めのと柔らかめのリボンがあります。固めの方が糊付けし易く柔らかめのは若干ほつれし易いです。でもほつれ止めするほどのことはありません。
(連絡板では流れが早くて探すのが大変なので、 iruka 様の投稿の一部分をもう一度こちらに入れさせていただきました。)
ちなみに私はシモジマカタログP242のシングルサテン(ポリエステル)アオ(No.1420218)20m800円を使用しました。
少し色が濃いかなと思いますが、水色というよりきれいなブルーでした。

ちゃきちゃき さん <材料リボンについて補足>
以前の投稿の控えを取っていないので失念してしまいましたが、シモジマカタログに出ているキャピタルリボン50m巻を使っているという情報もありました。

カタログが現在遠征中で手元になく、値段はわからないのですが(注:シモジマカタログ記載の価格は売価ではなく、実際はもっと安いです)、キャピタルリボンはコストパフォーマンスがよかったと記憶してます。
各種情報を突き合わせてみたところ、コハクリボンは安価でほつれにくいが強度に劣る点があり、キャピタルリボンはほつれにくくカットが容易で強度は中くらい、シングルサテンリボンは光沢・発色が美しく強度もあるがカット面がほつれやすい、という特色があるようです。
また、シモジマのリボン売り場で、10巻まとめて購入すると10%引きになるというポップを見かけました。通販でも同じだと思います。
使用するリボンの幅は1.8cmまたは2.4cmのもの(カタログないので確認できませんが、キャピタルリボンには2.4cmがなかったかも?)。
安全ピンはリボンの幅によって番手を変えた方がいいと思います。
私は1.8cmで、No.1の安全ピンを採用しています。

また、以前お寄せいただいた情報では、実家が園芸店でラッピング用リボンは、生花市場内の資材部で仕入れている。市価の半額以下。近所の園芸店に聞けば教えてくれると思いますよ。(夜桜子さん)
アートフラワーの先生をされていたY.Kさんからも、以前資材を購入していたというお店を教えていただきました(個人のお店なのでさしさわりがあるといけませんから、再掲は控えます)。  
(お二人とも、その節はありがとうございました。)
お花関係のお仕事をされている方は、情報やツテをお持ちのようです。

また、手芸店などにある服飾リボンは、品質・値段ともに高いので、自分用に長く使えるものを作るならおすすめですが、ボランティアで作るブルーリボンの材料としてしまうと後が続かないと思います。
ラッピングリボンをおすすめします。

ちゃきちゃき さん <接着剤について>

ブルーリボンを作るときには、V型にカットした端部のほつれ止めと、もう片方の側で安全ピンを止めつける2工程で接着剤を使用します。
私は>>2irukaさんおすすめの「セメダイン社の速乾Gクリアスリム(皮・布用)」を使っていましたが、ほつれ止めの側に「ぼてっ」と落ちてしまい、なかなか仕上がりが美しくできません・・・。
(ちなみに、リボンはシモジマのシングルサテンリボンのアオ、1.8cm×20mを使用しています。)
桜花さんから「コニシ(ボンド)から出ているHigh Stick(ボンド ハイスティック)」をご紹介いただきました。
布用の固形スティック糊です。水濡れに弱いようですが、雨程度なら大丈夫そう。
また、同じくsakuraさんから「木工用ボンドを平らな皿にとり、割り箸を割らずに,太い方を使って,こそぎながら塗布してます、太さと,平らさがちょうどいいかんじです」との情報もいただきました。
シングルサテンリボンはとにかくほつれやすいので、思案した挙句、「ボンド・ハイスティック」を購入してみました。
試作の結果、ほつれ止めはハイスティック、安全ピンを止める側は速乾Gクリアスリムを併用しています。
(シングルサテンリボンでハイスティックを使用すると、接着性がいまひとつ。おそらく材質の相性かと。)
仕上がりは格段に綺麗になり、工程的にも乾燥時間が減るなど全体的に時間短縮できました。
お一人で作る方に2種類の接着剤を購入することはあまりお勧めできませんが、グループで作成される方は、接着剤も複数必要でしょうから2種類用意されても宜しいかもしれません。

ちゃきちゃき さん ブルーリボン・リボンタイプ(プチサイズ)の作り方

4センチくらいの、小さいリボンタイプです。デザイン的に男性はつけにくいかも・・・。
リボン結びタイプよりも、必要なリボンが短いです。
出来上がりは、その昔キティちゃんの妹のミミィちゃんがしていたリボンに近いです。
スタンダードなブルーリボンよりも手間がかかりますが、さりげなくつけられ、コーディネートしやすいのデザイン・大きさなので、気負わずに身に付けられるかと思います。
襟元や半袖ブラウスの袖口、帽子やカバン等のワンポイントに。

<使用材料>
・1.8センチ巾のリボンを以下のサイズにカットしたもの(巾の異なるリボンをお使いの場合は、適宜サイズ調整をして下さい。)
  (a)8.5センチ
  (b)2.5センチ
 ※私が使用しているのは、シモジマのシングルサテンリボンです(参考)。
・安全ピンNo.1(巾の異なるリボンの場合は、サイズ変更が必要かもしれません)
・接着剤

<作り方>※リボンの表裏に注意してください。
1)リボン(a)を接着して輪にする。糊代の目安は5ミリ程度。
2)リボン(b)の中心に接着剤を塗り、左右の端を折って接着する(巾9ミリ×2.5センチの紐状にする)。
3)リボン(a)の接着面を裏側にして、断面がW字になるように折り曲げ(仕上がりが綺麗になります)、中心部に接着剤をつけて開いた安全ピンを仮付けする。
4)リボン(b)に接着剤を塗り(全面ではなく、端と中心部程度でいいです)、握りこんだ状態で、リボン(b)を中心部で一周させ、安全ピンを巻き込んで裏面で止めつける。
5)接着剤が乾ききる前に形を整え、乾燥させる。

3)と4)の工程には、技と慣れが必要です。最初は接着剤まみれになる可能性が大です。
基本長さが、irukaさんがご紹介して下さっているスタンダードなブルーリボンと同じで、プラス2.5センチのリボンで作れます。
手間がかかるので、乾燥時間の合間に一つずつ作ったり、切り損じが出たとき(私はたまに端を逆Vカットにしてしまいます・・・)の有効利用にも。
使用前に一日ほど乾燥させて下さい。

4センチくらいの、小さいリボンタイプです。デザイン的に男性はつけにくいかも・・・。
リボン結びタイプよりも、必要なリボンが短いです。
出来上がりは、その昔キティちゃんの妹のミミィちゃんがしていたリボンに近いです。
スタンダードなブルーリボンよりも手間がかかりますが、さりげなくつけられ、コーディネートしやすいのデザイン・大きさなので、気負わずに身に付けられるかと思います。
襟元や半袖ブラウスの袖口、帽子やカバン等のワンポイントに。

<使用材料>
・1.8センチ巾のリボンを以下のサイズにカットしたもの(巾の異なるリボンをお使いの場合は、適宜サイズ調整をして下さい。)
  (a)8.5センチ
  (b)2.5センチ
 ※私が使用しているのは、シモジマのシングルサテンリボンです(参考)。
・安全ピンNo.1(巾の異なるリボンの場合は、サイズ変更が必要かもしれません)
・接着剤

<作り方>※リボンの表裏に注意してください。
1)リボン(a)を接着して輪にする。糊代の目安は5ミリ程度。
2)リボン(b)の中心に接着剤を塗り、左右の端を折って接着する(巾9ミリ×2.5センチの紐状にする)。
3)リボン(a)の接着面を裏側にして、断面がW字になるように折り曲げ(仕上がりが綺麗になります)、中心部に接着剤をつけて開いた安全ピンを仮付けする。
4)リボン(b)に接着剤を塗り(全面ではなく、端と中心部程度でいいです)、握りこんだ状態で、リボン(b)を中心部で一周させ、安全ピンを巻き込んで裏面で止めつける。
5)接着剤が乾ききる前に形を整え、乾燥させる。

3)と4)の工程には、技と慣れが必要です。最初は接着剤まみれになる可能性が大です。
基本長さが、irukaさんがご紹介して下さっているスタンダードなブルーリボンと同じで、プラス2.5センチのリボンで作れます。
手間がかかるので、乾燥時間の合間に一つずつ作ったり、切り損じが出たとき(私はたまに端を逆Vカットにしてしまいます・・・)の有効利用にも。
使用前に一日ほど乾燥させて下さい。

プリンくん ブルーリボンを救う会全国協議会へ

国民大集会の前に少しでも何かしたいと思い、ブルーリボンを救う会全国協議会へ送りました。
そんなに多く出来なかったのですが・・・。
そしたら、救う会事務局長 平田隆太郎さんから丁寧に礼状が届きました。
救う会の皆様は多忙に活動されてますので、なんだか礼状まで書いていただき申訳ないくらいです。

何かしたいと思っておられる皆様
ブルーリボンを作って救う会全国協議会に送るのはどうでしょう。
ブルーリボンを作ったことある方ならわかると思うのですが、以外と時間や手間もかかります。
多忙な救う会の人たちもブルーリボンを作るの大変だと思うのです。
多くの集会を開いたり、街頭行動もされてますので、ブルーリボンもたくさんいると思います。
救う会全国協議会の方でもちゃんとブルーリボン受け付けていただけますよ。

救う会全国協議会のホームページで送り先はご覧ください。
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ホリエモン

ホリエモン

少し目先を変えて、この男はやはり金の亡者であった。
堀江社長との主な一問一答(2-2)
堀江社長との主な一問一答
(抜粋)
--メディア論を聞きたい。「既存のメディアを殺す」とか、「産経新聞に正論路線はいらない」といった発言があったが、真意は何か

 「正論路線がおかしいといっているのではなくて、利益に結びつかない言論活動をしている機関が株式会社であることが非常におかしい、と私は思う。正論路線が利益に結びついていないのなら、産経新聞はNPO(=民間非営利団体)や日本放送協会のような組織になって、(正論路線を)支持している人たちから会費を集めて経営すればいい。現在の新聞社が株主にどれだけリターン(=配当)しているかを考えれば、商法や会社法でいう株式会社として成立していること自体がわからない」
(抜粋終わり)

彼の論理は株式会社は利益を上げるためのみに存在するのである。その目的と違う事をする事は彼の論理感からは否定される事となる。そこにおいて、会社の社員とか、社会という存在は利益のための手段なのであろう。彼にとって、自らの働きがどの様に社会に役立つかなどは考えた事も無いのであろう。社会とは利益を奪い取る元であり、貢献の対象ではない。おそらく、社会運動など考えたことも無いのであろう。さびしい男だ。(momoedake)

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2005年4月27日 (水)

北の為政者よ

蒼き星々詩に込める想いより

北の為政者よ
幾億の不幸を生めば 気が済むのだろうか
血の涙を大河のように流せば 満足なのだろうか

貴方の国の人民がどれだけ苦しめば
どれだけ命を失えば貴方は気が済むのか

人の心を踏みにじり 世界に甘え たかり ゆすり 脅し・・

どれだけの我が儘を繰り返したら満足なのだろう

自らの民のみでは飽きたらず
日本から、韓国から、世界から
多くの人々を圧政の国家に連れ去り
心を踏みにじり 痛めつけ
その家族に計り知れない深い苦しみと哀しみを与え
現代の悪魔と化した為政者よ

人民を解放せよ
日本人を帰せ
世界に謝罪せよ
そして 消え失せよ


存在自体が悪である為政者を
今こそ その地位から引きずり降ろそう

そのときは 着実に迫っているのだ

フランス革命のときのように 人民はいずれ立ち上がる
バスチーユの陥落のように 強制収容所は破壊される

ベルリンの壁のように 38度線は崩壊するだろう

人民の怒りを覚悟せよ
世界の鉄拳に気をつけよ
拉致被害者の心の怒りは燃えている
私たちは絶対に貴方を許しはしない

自らの犯した罪を数え上げよ
跪き うなだれて 罪を悔いなさい
そのあまりにも膨大な罪に押しつぶされてしまいなさい

恐ろしくて身も凍るような罪を心から謝罪できない貴方は すでに人間ではない

悪魔の船を航行させるな
その船は日朝交流という仮面の下に 多くの犯罪を覆い隠してやってくる

その真実を私たちは看破している
その悪を私たちは赦しはしない

北の為政者よ
すでに時は迫っている
崩壊と自滅から目を背けるな

人民を解放せよ
日本人を帰せ
世界に謝罪せよ
そして 消え失せよ

返せ、日本人を帰せ
全ての命を返しなさい

北の為政者よ
貴方の命も必ず消える日がくるのだ
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2005年4月24日 (日)

4.24日比谷・野外



ぴんぼけ・携帯写真・拓也さん、哲也さん、飯塚耕一郎さんのお話しは熱かった。

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4.24日比谷集会 目次


目次
第一部


横田滋氏    平沼赳夫氏

安倍晋三氏   鳩山由紀夫氏

漆原良夫氏   中山恭子氏

崔祐英さん   李星矣さん

荒木和博氏    竹下珠路さん

スザンヌショルティ氏メッセージ   地村浜本家メッセージ

蓮池家メッセージ   細田官房長官メッセージ

出席議員紹介~古屋圭司氏~   救う会熊本から

第二部
パネルディスカッション1   パネルディスカッション2

パネルディスカッション3   パネルディスカッション4

パネルディスカッション5   パネルディスカッション6

パネルディスカッション7   パネルディスカッション8   

パネルディスカッション9

決議文朗読 西村眞悟氏   閉会挨拶 佐藤勝巳氏

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4.24日比谷集会(1)開式

ぴろんさんの丁寧なテキストです。
第7回国民大集会 第一部

(大きな拍手の中登壇者が壇上に登場)

※司会 櫻井よしこ氏
みなさまこんにちは。(「こんにちは」の声 拍手)
この会場の定員は2000名でございますけど、全部の席が埋まりまして、その他に1700名に余る人たちが会場の外に駆けつけております。(大きくて長い拍手)

ただいまより第7回国民大集会を開きます。
これまでは北朝鮮の金正日総書記に対し、私たちの家族・同胞・日本人をそして韓国人を返せと要求してまいりました。
しかし今年は小泉純一郎日本国総理大臣に決断を促す大会となりました。(拍手)

あの金正日総書記に訴えかけても、無駄であります。(拍手)
その金正日総書記に対し、小泉首相は対話と圧力を重ねて問題を解決すると言ってきました。
しかし今日の状況を見ますと、対話と圧力・小泉方式は全く機能してきませんでした。(拍手)
実態としては何も変わっておりません。
この変わらない実態にこのまま私たち家族、友人、そして日本国民が沈黙を続けるとしたら、あの金正日総書記は「日本はこれくらいの対応で良いのだ」と思うに違いありません。(拍手)
また、国際世論も自分の方式でうまく操作できるのだと自信を深めるに違いありません。(拍手)

だからこそ、私たちは今こそ日本国の持てる全ての力を結集してこの拉致問題を、いい加減解決する方法を考えなければなりません。
日本国の持てる力はまず第一に経済力であります。
経済力に裏打ちされた政治力が無ければならないんですけれども、残念ながら小泉さんの下ではそれが余り有効に使われておりません。

だからこそ、私たちの持てる最強の力であります経済力を使って、この拉致問題を解決するために行動を起こそうではありませんか。(拍手)
私たちは今こそあの北朝鮮、あの金正日に対して経済制裁を断行することを小泉首相に求めたいと思います。
そのための国民集会をただいまより開催いたします。
開催の辞を家族会代表・横田滋さんにお願いいたします。

『横田滋家族会代表 開会の挨拶』

ご来場の皆さん、こんにちは。(「こんにちは」の声)
開催に当たりまして主催者であります家族会それから救う会、拉致議連と打ち合わせをしたときに、どのくらいの方がお見えになってくださるのか?とちょっと心配をしたわけでございますが。
しかし実際に本日は会場に入り切れずに、更に第二会場にまで人が来てくださるという、この皆様の気持ちに本当に心から感謝しております。
・・
第3回の日朝実務者協議の際に、政府の代表はめぐみの遺骨と称するもの、その他数々の証拠とするものを先方から受け取ってまいりました。
そしてめぐみの遺骨とされるものをDNA鑑定しました結果、12月の8日に全く別人のDNAが鑑定されました。
家族会はその際にこういった国家間の交渉に、鑑定不能と見越して偽物の骨を出してくるということは、我々家族だけでなくて日本国全体を侮辱しているんだというふうに強い怒りを感じました。(拍手 「そうだ!」の声)

その翌日の9日に拉致議連の総会が開きましてそこでも制裁の決議を出されましたし、更には食糧支援の凍結だけではなくて、日朝国交正常化交渉もするべきではないということが決議されております。
そして翌日開かれました自民党の拉致対策本部の総会でも、それから衆議院の拉致特別委員会等でも制裁ということが決議されております。
しかし小泉総理は制裁することによって対話の窓口が途絶えるということで、いまだに慎重な姿勢を崩しておりません。

しかしやっぱり偽の遺骨を出してくるということは、やっぱり国として怒るべきなんです。(拍手)
もし帝京大学でDNA鑑定が出来なかったとするということを我々はちょっと懸念しておりました。
そうしますと北朝鮮はめぐみの夫が現れて自分が大事に保管してきた物を持ってきたということで、絶対めぐみの骨に間違いないということで持ってきたわけです。
それで鑑定が出来ないとなるとこれは間違いないんだけど、結果的に鑑定が出来ないんであって間違いない。
そして3枚の写真を出して来まして、怯えたような表情をしている中学生を、わが国は立派に育てたんだ。
しかし体が弱くて入院して自殺をしたんであって、北朝鮮が殺したわけじゃないんだ。
だからこれでもう諦めて欲しいという形で来た場合に、反論する材料を我々は持ち合わせてないわけです。
国としてもそういった事に対する反論ということは難しいと思います。

これで拉致問題の幕引きをという事にされてしまえば、後の方が、それから特定失踪者の方の帰国と言うことがとても困難になってきます。
このことについては小泉総理は慎重な姿勢ですけど、しかし世論の力ということは無視することが出来ません。
もしこの会場が余裕があるような状態であれば、やっぱり一部の人は怒ってるかもしれないけど日本全体はそうではないっていう印象を与えてしまいますが。
これだけの方が来て下さったんで、総理も私たちの気持ちを汲んで経済制裁に踏み切ってくださることを期待しております。(長い拍手)

それから日本側は全ての鑑定が終わりました12月の24日に、家族に鑑定の結果等を説明した上でその時に同じ時刻頃に、官房長官が談話を発表しております。
これは今日のチラシの裏にも出ておりますが、それは迅速かつ誠意ある対応をしない限り、日本政府としては厳しい対応を取らざるを得ないと当然制裁の予告と取れるような談話を発表しております。
それから今日で丁度4ヶ月になりました。
しかし対話と圧力といっても対話も行われておりません。
北朝鮮は対話の席に着こうともしておりませんから。
圧力もかけておりません。
このまま自然に時が経っていくだけになりますので、ぜひ皆様の熱意を感じて、総理大臣が経済制裁を決断してくれる事を心から望んでこの会を開くことになりました
皆様たくさんのご来場ありがとうございました。(拍手)

※司会 櫻井よしこ氏
ありがとうございました。
次に小泉総理に決断を促すには永田町の議員の声というものが絶対に必要になります。
超党派の拉致議連の会長を務めております、自民党の平沼赳夫さんにご挨拶をお願いしたいと思います。(拍手)

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4.24日比谷集会(2)平沼赳夫さん

ぴろんさんによるテキスト

平沼赳夫拉致議連会長の挨拶

本日は皆様方、この日比谷公会堂に溢れんばかり。
事実溢れる方が全国各地からこうして盛大にご参集頂きましたこと、主催者の一員として心から御礼申し上げます。
本当にありがとうございます。(大きな拍手)

昨年の5月22日に小泉総理が2回目の北朝鮮訪問をする。
このことが分かりました。
家族会の横田代表をはじめ皆さん方が、出発の前にどうしても総理に会いたい。
当然のことであります。
しかし小泉総理は出発の前には誰にも会いたくない。
こういうことであります。

私も議連の会長として申し上げたいことがあるからどうしても会いたい。
最初は拒否されました。
しかしここに来ておられる今自民党の安倍幹事長代理をはじめ、当時の官房長官福田康夫さんが出発前に議連くらいには会っておかなきゃいけない。
そうしたら返事が来ました。
会長一人だったら15分会うと、こういう事でした。

そこで出発の3日前、午前10時に総理官邸へ行きました。
その時に私が申し上げたのは、本当に全国の皆様の熱誠と今日来さしていただいている自由民主党・民主党・公明党、議連の皆様方の努力であなたは腰に大小2本差したんだ。
その1本は外為法の改正ともう1本は特定船舶入港禁止法案だ。
その大小2本を差したから、北朝鮮は2回目会いたいと言って来たんじゃないか?
そしたら、彼はそのことは認めました。

あなたは総理大臣だけれども、口幅ったいことを言うけれども、言うまでもなく外交は硬軟の使い分けだ。
だから行くに当たって10名の方々の安否。
そして更には400名を超えているといわれている特定失踪者の皆様方のその苦しみ。
そのことに最善目処を付けて来てくれ。
硬軟をハッキリ使い分けて来てくれ。
こういうふうに私は申し上げました。
彼は頷いておりました。

そして22日の当日。
家族会・救う会・特定失踪者の皆様方とホテルで朝からず~っと待機をしてた。
昼過ぎに会談の内容が新しい官房長官と当時の外務大臣が来て説明があった。
びっくりしました。
それは小泉さんがのっけから「日朝平壌宣言が正常に履行されている限りにおいては、経済制裁は発動しない」と言い切った。
しかし我々が怒ったのは、日朝平壌宣言というのはすでに正常に発動されてないわけであります。(「そうだ!」の声 拍手)

第1回の訪朝の後、NPT(核不拡散条約)もいち早くそういう最重要課題は日本にいち早く連絡しなくてはいけない約束なのに勝手に脱退をする。
そして核の査察官も、こういうことも事前に言わなければならないのに勝手に国外退去を命じた。
ですから正常に履行されていないにも拘らず、正常に履行されている限りは経済制裁を発動しないなんて事を一国の総理が言うことは、不見識極まりないことなんであります!(「そうだ!」の声 大きな拍手)

従って我々は怒った。
ですから私も官房長官と外務大臣との記者会見の後、テレビがインタビューしてきましたら、皆様方も覚えているかもしれないけども、この程度の外交だったら俺にも出来ると、こう言った。(「そうだ!」の声 大きな拍手)
今本当にしなければならないのは皆さん方のお力で我々が国会の中で立法したこの二つの法律をいかに早く実行するかであります。
皆様方のお約束を守って衆議院・参議院の中にも拉致特別委員会が出来ました。
そこでも経済制裁の決議をした。
したがってもっと圧力をかけるためには、我々拉致議連が結束をして本会議の決議をして総理大臣に迫るということが今一番必要だ。
そのように思うわけであります。(「そうだ!」の声 大きな拍手)

このことを私の決意として申し上げ、今後とも議連は一致結束して本当に辛い思いをされている被害者の方々、そしてご家族の皆様方に、なんとしてもお報いするために全力を尽くすことをお誓いし。
今日は韓国からも被害者の方が来ておられます。(拍手)
その方々のためにも頑張ってまいる事をお誓いを申し上げまして、私の会長としての挨拶といたします。(大きな拍手)
ありがとうございました。(大きな拍手)

※司会 櫻井よしこ氏
大変力強いご挨拶を平沼さん、本当にありがとうございました。(拍手)
ではここで自民党幹事長代理の安倍晋三さんにお願いたします。
安倍晋三さんも家族をこれまで非常に力強く支えて来て下さいました。(拍手)
よろしくお願いします。(拍手 「安倍さん頑張れ!」などの声)


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4.24日比谷集会(3)安倍晋三さん

第7回国民大集会3 ぴろんさんによるテキスト

安倍晋三自民党幹事長代理の挨拶

(「安倍さん頑張れ!」などの声 大きな拍手)
自由民主党の幹事長代理の安倍晋三でございます。(拍手 「あんたが総理になれ!」などの声)
本日は日曜でたいへん色々とご多忙の中、大変多くの方がこの会場に足をお運び頂きましたこと。
長い間関わって来た者の一人といたしまして厚く御礼を申し上げる次第でございます。(野次の声)
ここでたくさんの方々が足を運んだということが私は大変大きな力となると、こう思います。

もしかしたら今日のこの大会のことを、朝日新聞は報道しないかもしれない。(笑い声 大きな拍手)
また一昨年の決起大会同様、News23の筑紫哲也氏は全く報道しないかもしれない。(大きな拍手)
しかしこの声は必ず金正日委員長に届くはずであります。(「そうだ!」の声 拍手)
そしてこれは日本政府の総意である。
この思いを私たちはしっかりと私たちは発信しなければならない。
こう新たに決意をしている次第であります。(「頑張って!」の声)

北朝鮮に対する外交の仕方を見ておりますと、戦後の60年の日本の外交の有り方とやはり大きな関係がある、関わっている。
またやはりその上にたって外交が行われていると言っても良いと、こう思うのであります。(「そうだ!」の声)
日本のこの60年の外交と言うのは外国が作ったルールの上で、外国が作った土俵の上で、何とか相手に誉めてもらおうと思って一生懸命相撲をとる。
そして何とか国益を確保しようと言う、いじましい外交であったのではないか?と。
こう思います。(拍手)

2002年小泉総理が9月の17日に訪朝し、そして10月の15日に5人の被害者の皆様、日本の土を踏むことが出来ました。
そしてその後、この5人の方々を北朝鮮に戻すかどうかについて、議論を行いました。
今日参加をしておられます中山参与と一緒に、私もその議論の中に入ったのでありますが。(拍手)
政府の中にはこの5人の方を北朝鮮に帰してもらわなければ、もうパイプが切れてしまって協議が出来なくなる。
そういうことを言う人がいました。

これはまさに、まさになんとか北朝鮮に良い子に思ってもらってなんとか良い結果を出そうという、この外交そのものではないだろうか?と思います。(拍手 「そうだ!」の声)
このときに私たちは5人の被害者を帰さない。
それも国の責任として帰さないと言うことをハッキリと言明しました。(拍手 「そうだ!」の声)

そして5人の被害者の方の8人の子供たち・ご家族が、日本の土を踏めなければ正常化交渉はしない。
クアラルンプールの日朝正常化交渉で日本の代表団は先方にそう告げたのであります。
これはまさに私たちがしっかりとペースを握って国民の生命と財産を守るという意思の表明であり、戦後の今までの外交との決別であったはずであります。(拍手 「良いぞ!」の声)

今回経済制裁をすると先方が怒ってしまって交渉が出来なくなるという議論は、まさに5人を帰すという議論と同じ議論であります。(「そうだ!」の声)
相手に何とか日本は相手のことを考えているなぁと思ってもらう。
このことのみに集中している。
北朝鮮の善意を期待しても、残念ながらそれは無理であるということは、もうこの20年でハッキリしたのであります。(拍手 「そうだ!」の声)

昨年この経済制裁関連法案を提出すれば、あるいは成立をさせたら北朝鮮が暴発をするという人がいました。(「いた!いた!」の声)
有名な政治家もいました。(「そうだ!」の声)
有名な政治評論家も、テレビのコメンテーターもニュースキャスターもいました。(「いた!いた!」の声)
しかし結果はどうだったでしょうか?
5月22日に5人の被害者の家族の皆さんが帰って来たではないですか?(拍手 「当たり前だ!」の声)

しかし今回もそう言ってた人が同じ事を言ってますね?
経済制裁をかけると、北朝鮮が暴発する。
果たしてそうでしょうか?
経済制裁とはなんでしょうか?
例えばアサリやズワイガニを止めるということであります。(「その通り!」の声)
もし彼らが暴発をして日本にミサイルを撃ち込めば、日米安保条約の第5条、共同対処によってアメリカは間違いなくピンポイントで金正日委員長そのものを狙う。
このことは金正日委員長は分かっているんです。(拍手)
彼は果たして自分の命とズワイガニと引き換えにしますか?(笑い声 拍手)

こういう馬鹿げた議論をいまだにしゃあしゃあと朝のテレビでコメントしている、極めて知的レベルの低い人たちがいます。(「それは朝日新聞だ」の声)
もちろん朝日新聞もそうです。(笑い声 拍手)
私たちはそういう論調とず~っと戦ってきました。(拍手  「そうだ!」の声)
しかしそれに負けずに昨年その法律を通過させたのであります。

そして今度はまたもや同じ論調であります。
極めて馬鹿げた論調であります。
そしてまたこれによって6者協議が出来なくなるかもしれないという論調も有ります。(「それも朝日だよ!」の声)
残念ながら6者協議の場において核の問題の解決ということについては、6カ国すべてのコンセンサスが得られています。
拉致問題についても何とか議題には上っています。
アメリカも支持をしていますが。
しかし6者協議の場においてこの問題を解決するというコンセンサスは出来ていないんです。

そこでやってもらえない、やることが出来ないのであれば、日本は独自に経済制裁を発動するしかないのであり。(拍手 「そうだ!」の声)
そしそれが困るのであればもっと、もっと中国も韓国も圧力をかけて頂かなければならないということであります。(拍手 「その通り!」の声)
このように日本が、ここ一番日本の国益がかかって、そして日本人の命がかかっているときには日本が主導権を握る!(拍手 「そうだ!」の声)
外交を展開するのは、それは当たり前のことであり、権利でもあります。
我々はごく当たり前のことを粛々と行えば良いというふうに思います。(「早くやって!」の声)

政府においても我々自由民主党は与党でありますから、大きな責任を感じております。
更に政府に対してしっかりとしかるべき時に出来るだけ早く北朝鮮に対し、政策を変更しない限り経済制裁をかけると。
発表するように、更に党としても圧力をかける。
そのことをお約束して。(拍手 「頑張れ!」などの声)
大切なことは、大切なことは日本人の声をひとつにしていくことであります。
我々も今後とも一生懸命やりますことをお誓い申し上げまして、私のご挨拶とさせていただきたいと思います。(拍手)
一緒に頑張りましょう。(拍手)
よろしくお願いします。(拍手)
ありがとうございました。(拍手 「いいぞ!」などの声)

※司会 
安倍さん本当にありがとうございました。
日本国の利益。
日本国民の利益と日本国の安全は日本国政府が責任を持ちましょうと。
言うことを力強く仰っていただきました。
それにしても、それにしてもわが国の外交の現状はいかがでありましょうか?
小泉さんに対して今の平沼さん安倍さんの言葉を本当に真剣に聞いていただきたいというふうに思います。(拍手)

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4.24日比谷集会(4)鳩山由紀夫氏

鳩山由紀夫 民主党拉致対策本部長の挨拶

(拍手 「しっかりしろ!」などの野次の声)
お集まりの全ての皆さん、本当にありがとうございます。
ありがとうございます。(拍手)
民主党を代表いたしまして、今日お集まりの国民大集会にわざわざ全国からお運び下さいました全ての皆様の、今日までの大変なご努力に心から感謝を申し上げながら。
政治家の一人として必ずしも、今司会者の方からお話がありましたように。(笑い声 櫻井さん司会席で手を合わせる仕草)

私ども政府も含めてであります。
政府も政治家も十分皆様のご期待に応えられていない状況に対して、極めて残念に思いますし申し訳ないことだと思っています。(このあたり次々上がる野次の声)
この場に来さしていただいて皆さんと共に、大変難しいこの問題に対して、我々も全力でお誓い申し上げる次第でございます。(拍手 )

私は第一回目の小泉訪朝の時に代表でありました関係で、小泉総理に申し上げた。
行くことは歓迎をする。
しかし交渉は難しい。
答えが出なかった時にも勇気を持って帰って来れるだけの心構えをもって行って訪朝してもらいたい。
そう申し上げた。

ご案内の通り、その5人のご家族、ご家族を含めて日本へ帰国がなされたことを、大変に皆様方ともども大変喜ばしいことだと思っています。(「当たり前!当たり前!」の声)
ただし。
ただし問題は全て解決するどころではなく、これからがより大きな問題を抱えているということを私たちは認識しなければならない。(「そんなことは分かってる!」「早くして!」の声)
小泉首相はただひたすら、日朝国交正常化は自分の手でやり遂げたい。
その思いの下でひたすら拉致問題を極力小さな問題として、これを小さく小さく捉えて解決をすれば良しと考えているんじゃありませんか?(拍手 野次の声)

私は今ここで、なぜ日朝国交正常かなのか?と申し上げたい。(大きな拍手 「そうだ!」の声)
冗談じゃない。(大きな拍手)
横田めぐみさんをはじめとして、消息が分からない方々の安否の確認。
当然のことであります。(「そうだ!」の声)
しかしそれを持ってお終いとするのでは断じてありません。(拍手 「その通り!」などの声)
特定失踪者という方々、100名を越すとも言われておられます。
その方々の問題を解決する。
すなわち安否を確認をして、そしてその方々に無事に日本へ帰って来て頂く。
それで初めて拉致問題の解決じゃありませんか?皆さん。(大きな拍手 「その通り!」の声)

先ほど平沼会長から大小2本の刀の話がありました。
私たち民主党としてはもう1本の脇差が必要だと考えているんです。
それは「北朝鮮人権侵害救済法案」と申します。(拍手)
力貸してください、皆さん。(拍手)
この法案では例えば特定失踪者の問題。
これを調査し解明をするように日本政府に求める内容になっており、そのために政府の中に内閣府に、拉致問題対策本部をというものを設置することを求めています。(拍手)

まだこれが出来ていないんです、皆さん。(「早くしないと!」の声)
この問題、別に民主党がやったなんて自慢するつもりはありません。
国民の皆さんのために今ここにお集まりの人権問題を本当に命の問題として捉えて来られた、活動して来られた人たちの為にこの問題を解決したい。
そのために超党派でのご協力を心からお願いを申し上げる所でございます。(大きな拍手 「いいぞ!」の声)

経済制裁に関して申し上げれば、一部の方々の中に一国だけでこのような経済制裁をやっても効果が上がらないなどと言っておられる人たちがいます。(「北朝鮮の回し者だ!」の声)
冗談じゃありません。(「回し者!回し者じゃないか!」の声)
もし一国で効果が無い。
試しもしないで仰るならその前に、なぜ経済制裁への協力をもっと真剣に他国に呼びかけないんですか?(大きな拍手 「そうだ!」の声)

それも行わずして一国だけでは効果が無いと言ってるのは、まさにそのようなことを最初からやる気が毛頭ないのと同じじゃありませんか?(拍手 「そうだ!」の声)
私たちはむしろ日本一国だけでもこの経済制裁、もう発動するべきだと考えています。(大きな拍手 「そうだ!」の声)
先ほどから安倍幹事長代理も話がありました。
日本としての意思を示すことを、当然のこういった問題に対して人権の立場から正当な主張をする。
その主張が国民を動かし、全世界に広がるんじゃありませんか?皆さん。(拍手 「その通り!」 「そうだ!」の声)

私はその意味でかつて私の祖父・鳩山一郎が総理の時に
領土は待っていてくれるけども、人の命は待ったなしだと。
明日をも知れないのだと。(拍手)
だから領土と人の命の問題を比べた時に、まずは人の命から先にやるべきではないか。
まさに拉致の問題がそうではありませんか?皆さん。(拍手 「そうだ!」の声)

政府がその方向に歩みを強めた時。
あるいは歩みを強めていけるように民主党としても努力をし、野党ではありますが・・・現在の所です。(笑い声)
野党ではありますが、超党派として最善の努力をお約束を申し上げて決意の表明といたします。
ご苦労様でございます。(大きな拍手 「頑張れ!」などの声)

※司会 櫻井よしこ氏
鳩山さんありがとうございました。
会場の皆様にもう一度確認したいと思います。
民主党の議員の方々地味ながら本当に良くやってくださいました。(笑い声 拍手)
ありがとうございました。

さて次に与党の公明党から漆原さんをお迎えしたいと思います。
対策委員長をしていらっしゃいます。
漆原良夫先生です。
よろしくお願いします。(拍手)


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4.24日比谷集会(5)漆原良夫氏

漆原良夫 公明党拉致対策本部長の挨拶

皆さんこんにちは。
公明党の漆原でございます。
今日は本当にお忙しい所たくさんの皆様にお集まりいただきましたこと、感謝と御礼を申し上げたいと思います。
ありがとうございます。(拍手)

政府は対話と圧力と、こういうふうにずっと言い続けておりますけれども、対話もやらないし圧力もかけない。(「その通り!」の声)
こういう状態が今続いているわけでございます。
本当に我々は待って、待って、待って参りましたけども、もう忍耐の限界であります。
(拍手 「そうだ!」などの声)
私は喧嘩をするときにはぶん殴らなきゃ駄目なんだと、常々申し上げてまいりました。
ぶん殴る時にぶん殴らないと殴れなくなっちゃうよ、と。(拍手 「そうだ!」などの声)

横田めぐみさんの遺骨、偽物を送ってまいりました。
それを日本が捏造したというふうに言ってるわけであります。
今こそぶん殴らなければ皆さん、いつぶん殴るんでしょうか?(拍手 「そうだ!」の声)
今こそ本気になって日本が怒らなければ、皆さんいつ怒るんでしょうか?(拍手 「そうだ!」の声)
今この状態になっても尚「対話だ、対話だ」と言ってる小泉総理の私は真偽が私は分からない。(「腰抜けだ!」などの声)
到底理解できない。(野次の声多数)
今腰抜けと仰った野次がありました。
まさに私は腰抜けだと思います。
我々は先ほど2本の武器を総理に与えたわけであります。
しかしながら、どんな名刀を与えたとしても臆病者には何の役にも立たない。(「そうだ!」の声 拍手)
断じてこの名刀を使えるような・・・ここから先言い難いんですけども、(笑い声)総理に使ってもらいたい。
こう思っております。(「総理を変えろ!」の声 拍手)

私どもは今まで何も無理を言ってない。(「その代わり何をしてるかって!」の声 笑い声 拍手)
何も悪いことをしていない人が突然北朝鮮に連れて行かれた。(「許せない!」の声)
その人を帰してくださいと言ってるだけなんです。(「当たり前のことだ!」の声)
当たり前のことなんです。(「なぜ出来ないんだ!」の声)
なぜ出来ないんでしょう?(野次の声多数)
何も無理を言ってない。
当たり前のことを言ってる。(「自民党がやらないからだよ!」の声 拍手)
当たり前のことをやらない国、それは私はおかしな国だと思います。(「その通り!」などの声)
原状回復をきちっと求めていくことは私は日本政府としては当たり前の責務だと思っていますがいかがでしょうか?(拍手)
断じてこれを総理に強く求めていきたい。(拍手)
こう思っております。(拍手 野次の声多数)

総理は日朝国交正常化したいというふうに仰っておる。
しかし日朝国交正常化の為に、この拉致問題を犠牲にするようなことがあっては断じてならないというふうに思っております。(拍手)
常々私は申し上げてます事でありますけど、総理は日朝国交正常化をした総理として日本の歴史に名を残してはならない。
拉致事件を解決した総理として、日本の歴史に名を残すべきであると私は強く考えておる次第で有ります。(大きな拍手)

連休が終わったら国会は後半国会に移るわけでありますけれども、しかしなんとしても衆参両院で経済制裁を発動すべきと言う決議をこの国会決議で実現していきたい。(拍手)
固く決意し皆様にお誓い申し上げて、私の挨拶に代えさせていただきます。(拍手)
本当にありがとうございました。(大きな拍手)

漆原氏

※司会 櫻井よしこ氏公明党の漆原さんでした。
本当にありがとうございました。
さて皆様にメッセージがございます。
今第二会場には1000人を超える人が集まっております。
壇上の拉致被害者の家族の皆さん方が、順番でそちらの方に順次参りますので出たり入ったりが多少ございますがご了承いただけますでしょうか?(拍手)

さて、私たちは私たちの家族、同胞を助けたい。
日本人拉致被害者のみならず韓国の拉致被害者も助けていきたい。
それは日本国民として、また人間として当然のことであります。(拍手 「そうだ!」の声)
私たちは戦後長きに渡って日本とは何か?国家とは何か?ということを忘れてまいりましたけれども、この拉致問題で初めて国家の果たす役割、日本人として行う責務に気が付いたものではないでしょうか?(拍手 「そうだ!」の声)

その意味でこの集会は最も立派な日本人の集りでなければなりません。
その意味でどうぞ壇上で私たちの運動を身命を賭すような気持ちで支持してくださっている政党の方々に対して失礼な野次は控えていただきたいと思います。(拍手)
この運動は最初からスムーズであったわけではありません。
私たちが始めた時は多くの妨害がありました。
その中で自民党・民主党・公明党の多くの政党の方々が助けに出てくださった事は、並々ならぬ努力であったと思います。
そのことを私たちは決して忘れずに、今どのような状況にあろうともですね。
壇上に挨拶に来てくださった方々には心からの声援を送っていただきたい。(拍手)
その他の野次のための野次は良き日本人として慎みましょう。(拍手)
ありがとうございます。(拍手)

さてここで拉致被害者の家族の皆さん方の心の支えになって来てくださいました。
今はその職務にはありませんけれども、元内閣官房参与の中山恭子さんにお願いいたします。(大きな拍手)
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4.24日比谷集会(6)中山恭子さん

中山恭子 元内閣官房参与の挨拶


(大きな拍手の中、登壇)
皆様、この国民大集会にこのようにたくさんの皆様が参加頂きましたこと心から感謝申し上げます。
先ほど横田さんも仰っていましたが、実は心配をしていました。
日本の中で拉致問題が下火になって来ているのではないか?と。
心配いたしましたが、今日お集まりいただきました皆様のおかげで、まだ日本では拉致に関して自分の力を注ごうと思ってくださっている方が、このようにたくさんいらっしゃると言うことを分かりまして、本当にありがとうございます。(拍手)

北朝鮮は今拉致問題をなんとか押さえ込んでしまおうという状況になっていると思っております。

横田めぐみさんのお骨と称して麗々しく骨壷に入れてですね。
他の方々の複数の方のお骨を日本へ渡してきました。
横田さんご夫妻が、またご家族がこのお骨を見て諦めるだろうと、高温で焼いたお骨ですから。
そうすれば日本の中で拉致問題は下火になり、国交正常化へ進める。
国交正常化への道筋が付くと考えてのことでございます。

でも日本の科学技術の高さ、そして日本の人々の強い意思で、この横田めぐみさんと言われるお骨が偽物であること、違う人の物であること。
そしてこのような茶番劇的な動きでは、日本は拉致問題を決して下火にしていかないと言うことがハッキリいたしました。(拍手)
皆様のおかげだと感謝しております。

北朝鮮は国交正常化へと進もうと思ったこの道筋が壊れてしまった、言うことで今は核問題の方へ話題をすり替えてしまっています。
核を保有しているとまで宣言いたしました。
そして今尚、政府が認定している中では8人の方が死亡し2人未入国である。
それ以外の方々は拉致していないと言う、この方針を貫こうとしております。
私たちは北朝鮮に対して、このような方針を変えて拉致していった日本人をすべて帰国させなければ、国交正常化は無いと言うことを改めてしっかりと理解させなければいけませんし。(拍手)
更に北朝鮮が生き残る唯一の道は拉致した日本人を帰国させることだと言うことを理解させなければいけない。(拍手 「その通り!」の声)

北朝鮮に拉致され幽閉され日本のことを毎日思っているこの被害者の人々を、どうやったら無事に連れて戻せるか?
救出できるか?
大変難しい問題です。
日本の国として出来ることは、成し得る全てのことをして救出に当たらなければなりません。
アメリカとの緊密な連携をとり、他の国々への説得も必要です。
しっかりした戦略を立て戦術を練って、北朝鮮に対し拉致した日本人は全て帰国させなければいけないということを理解させ強く要求していかなければなりません。(拍手)

そのためには日本の人々、全ての日本の人一人一人が、拉致された日本人・同胞を救出するためには日本としてあらゆる手段を使うのだと。
成し得る全ての事をするんだと言うことを、心に決めることがまず大事でございます。(拍手)
今日はこのように心に決めてくださっている方々がここにいらしてくださっています。
本当にありがたいことだと思っております。
一人一人が出来ることは小さいことかもしれませんが、一人一人がそのように救出するんだと心に決めて動けば、まとまればこれは大きな力になると考えております。

今年1年、また来年2年。
この1~2年が大きな重要な年になるかもしれません。
どうぞここにお集まりの皆様が心に成し得る全てのことをして救出すると、心に決めてくださっている方が、ここにお集まりの皆様が更に輪を広げ、日本の国として国際社会に恥ずかしくないためにもですね。
あらゆる手段を使ってですね。
拉致されて北朝鮮で帰国を待っている人々の救出に当たっていきたいと考えております。
小さい力かもしれませんが一緒に力を合わせて救出に当たっていこうではございませんか。(拍手)
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。(大きな拍手)

※司会 櫻井よしこ氏
中山さんありがとうございました。
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4.24日比谷集会(7)崔祐英さん

さてこの後は韓国の拉致被害者家族会の代表をしていらっしゃる、崔祐英(チェ・ウヨン)さんにご挨拶をして頂きたいと思います。

崔祐英さんは第一回目から今回まで、7回通して全部、日本にこられました。(拍手)
私達は毎回崔祐英さんにおいで頂きました。

韓国では盧武鉉(ノムヒョン)大統領が大変な反日の政策をとっています。反日、則、親北朝鮮であります。(拍手)

韓国政府は、約500人の国民が北朝鮮に拉致されていることが明らかであるにも関わらず、金大中政権の時にも、盧武鉉政の今も、この問題を北朝鮮政権と話し合おうとして議題としてあげることすらしておりません。

私は韓国の人々、そして盧武鉉政権に言いたいと思います。
私達は常に崔祐英さん、その他拉致被害者の家族の人々と共に、日本人の拉致被害者のみならず、韓国の拉致被害者の救出も訴えてきました。どちらが-韓国と日本と-人権を大事にしているのかと問いたいと思います。(強くきっぱりと、拍手)

その韓国で政府の支援もなく本当に孤独な闘いをしているのが崔祐英(チェ・ウ・ヨン)さんです。
崔祐英さん心からのメッセージをお願いします。

      (拍手の中、崔祐英さん登壇)

みなさんこんにちは。
国民大集会にご招待頂いた家族会の横田滋代表、救う会の佐藤勝巳会長、議員連盟の平沼赳夫会長及び国民大集会の関係者のみなさまにお礼を申し上げます。(拍手)

韓国の拉致問題の運動の状況を申し上げます。

70年代の拉致された生死確認もなかった漁船の○○号(聞き取れず)の36人の人々の北朝鮮で撮られた写真が流出しベスコムから報道されました。今まで拉致された人は誰もいないと主張していた北は嘘つきということが明らかになりました。(拍手)

闘いはまず○○号の36人の安否確認訴えています。(船の名前が解る方教えてください)

今年3月に東京で、拉致問題の日韓米の連携のためにセミナーが開かれました。(2月の国際集会)
その時韓国からハンナラ党の金文殊(キム・ムンス)議員がいらっしゃって、日韓の議員レベルの上で協力ができました。
またその時日本の家族会の事務局長の増元さから増元さんのお父様の「私は日本を信じています。お前も日本を信じろ」と言う言葉を聞きました。

私もこの言葉を信じております。

日本の拉致問題の解決のために今のように全力を尽くしていけば、小泉首相も、必ず拉致被害者のご家族の必死の思いを、受け取ると期待しております。

今こそ、日本人の拉致問題の完の解決のために、経済制裁を発動すべきだと思います。

日韓が力と心を合わせて、一緒にがんばりましょう。
ありがとうございました。(拍手)

崔さんありがとうございました。

(担当:金木犀)
参考:横田さんご夫妻とのふれあい
   東京フォーラムでの発言
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4.24日比谷集会(8)李 星矣さん

李 星矣さんのお話  

朝鮮戦争拉致被害者家族協議会会長 李 星矣(イ・ソンイ)さん


櫻井さん司会
朝鮮戦争拉致被害者家族協議会会長 李 星矣(イ・ソンイ)さんにもお越し頂きました。通訳は西岡さんにお願いします。李さんお願いします。

李 星矣さんのお話:通訳西岡力さん
みなさんお会いできて嬉しいです。そしてお招き頂きましてありがとうございます。
(日本語でも:ありがとうございました。)

招待頂いてこの席に立つまでいろんなことを考えました。

まず、日本の多くの方々人権が重要な価値であると言うことを、この事実を知っていると言うことを私は学ぶことができました。

人権とは時々只叫ぶというそのような主題ではなく、日常生活の中で実行しなくてはならない価値であるということが解っていらっしゃるのが、正に、ここにいらっしゃる皆さんだと思います。

みなさん方の力が集められて、拉致された人たちが救い出すことができた、そのような力がわいてきたと言うことをみて大きな成果が上がったことに、限りない感謝と尊敬を感ずるものであります。

韓国では、1950年の戦争の時に、拉致された民間人が10万人あまりいます。
これは北朝鮮の金日成の「南朝鮮のインテリを連れてこい」と言う指令による計画的犯罪であります。

この間55年の間、韓国戦争拉致被害者に対する真実の究明はもちろん、その方達の生死確認すらもできない、このような状況でございます。

その方達の年齢からみて一日でも早く何としてでも生死の確認だけでもしていただきたいと思いっています。

私達家族会では、この間1952年の当時大韓民国政府がつくった拉致被害者の名簿を発見致しまして、月刊朝生社(?)といっしょになってここに持ってきました「6.25拉致被害者82959人」という本を出しました。(拍手)

戦争の時に拉致されたことを立証するために関連する政府の文章などを発掘、整理し、そして証言を記録する、そのような作業もしております。また国会に韓国戦争拉致者の名誉回復及び、生に関する法律案を上程して頂いております。

今大韓民国政府は南北間の和解交流拡大を急いでおります。歴史の不幸を繰り返さないため、そしてこの間のお互いの恨みを解消するために当然の努力だと考えます。

しかし南北の和解と交流のためには必ずしなければならないことがあります。北朝鮮によってなされた人権被害、民間人拉致を一番最初に解決しなければならないということです。

みなさん拉致は生命を奪う罪悪です。

人権よりももっと重要な価値があるなどということを主張する勢力はこの地球上からなくさなければなりません。(拍手)

私達全てが、自分ではない他人の人権に関心を持たなければなりません。(拍手)
拉致された人を家族の元に帰すようにしなければなりません。(拍手)

今自分の苦しみ哀しみを私達全てのものに昇華することをここに提案したいと思います。
国境を越えて世界の全ての民族と共に生きる私達になろうではありませんか?(拍手)
隣人同士手を握り私達が力を合わせましょう。(拍手)
拉致された人々を救い出すために私達みんあで力を合わせ戦いましょう。(拍手)


ありがとうございます。(日本語で)(拍手)

櫻井さん司会

李さん本当にありがとうございました。(拍手)
今の李 星矣(イ・ソンイ)さんのお話しで約8万3000人もの人々が朝鮮戦争の時に北に拉致されていった。
その問題を一言も問題提起することのない、盧武鉉さんは今でも北朝鮮に親しい路線をとり続けています。韓国や中国が日本が経済制裁をするのを控えて欲しいという資格は全くないと思います。(拍手)

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4.24日比谷集会(9)荒木和博さん

~櫻井よし子さん~
では次に、この会場に荒木和博さん、あ、いらっしゃいますね。特定失踪者問題をずっと調査してきた荒木さんです。

私達は考えてもいなかった人々、考えてもいなかった時期から、ずーと日本人は北朝鮮に拉致され続けてきた。その実態を荒木さん達が綿密に調べてきました。
ここで報告をお願いしたいと思います。

~荒木和博さん~(特定失踪者問題調査会

ご紹介頂きました、荒木でございます。本日はこんなにたくさんの皆様、お集まり頂きましてありがとうございます。のちほど櫻井さんからご紹介があるかと思いますが、この前の列の方には特定失踪者のご家族の方々、多数お見えになっています。

先ほど櫻井さんのほうから、ヤジについての注意がございました。おそらくヤジの一つぐらい飛ばしたいと思って来ておられる方たもたくさんいらっしゃっているかと思いますので、そう言う方は私が話している間にヤジをすまして頂いて、後の方の時はおとなしく聞いて頂きたい。(笑い・拍手)

(櫻井さんから)
 ちょっと一言、元気づけるヤジは大いに飛ばしましょう。

最近あちこち、いろいろ嫌われておりますので、この際嫌われついでに申していきたいと思いますが、この中にも恐らく警察関係の方がたくさん来ておられるだろうと思います。

我々、2年間調査会の活動をやって参りまして、正直申しまして上げて、この国の国家権力が如何にいいかげんなものであるかということを(ヤジで聞き取れず 感じているの意味?)

このまま我々もですね、頭に来てやっておりますと、そのうち治安維持法違反で捕まるんではないかと思っております。(隣のヤジうるさくて。。。)

現場の方々は本当に血の滲むような思いで一生懸命にやっているんです。しかし法制度が整わない、、それ以上にトップの意思が定まらない。現場でこれは拉致ではないかというふうに思って上にあげても上で潰されてしまう。

何十年間もの間このことが続いて参りました。
こんな事はもちろん、絶対に許されるべきではありません。(荒木さん頑張れ!)
しかし、それが何十年間も続いてしまったことによって、おそらく、今、誰も恐くて蓋が開けられないんだろうというふうに思います。蓋を開けてしまえば、「一体今までどうしてきたんだ」、当然そう言うことになります。

私どもも関係官庁の幹部から、我々が今、1000番台リストと言って、拉致の可能性が高いと言っている方々と警察が持っている拉致の可能性が高いと言うリストと、かなりの部分が一致している。

そして、もちろん我々が持っていないところでも拉致の可能性高いと認識している数が相当あると言うことは聞いております。

国会の答弁でも、政府はそう言う答弁をしております。しかし、それでは「15人以上にならないのか」というふうに聞くと「今分かっているのは15人」としか答えてこないのでございます。

あの9.17で4人の方々追加されてからそれ以降、2年半に渡りまして、ひとりの拉致被害者も認定者も追加をされておりません。

これだけいろいろなところでいろいろな機関が動いて分かっているのにもかかわらず、出さないのは、警察は警察で理屈があるでしょう、首相官邸は首相官邸で理屈があるでしょう、しかしそういう理屈がどうであろうと「拉致被害者は拉致被害者」でございます。(拍手)

そして政府はそれを救う義務がございます。

今回、今日もお姉さんがお見えになっておられますけれど、4月の13日に千葉県市原市で昭和438年7月7日に失踪致しました古川了子(のりこ)さんの拉致認定を求める行政訴訟を提訴をして頂きました。法律家の会、そしてご家族、皆さんが大変なご苦労をされますが、この問題は、古川さんお一人の問題ではなく、未だ認定をされていない拉致被害者、それは我々の特定失踪者リストにもない全ての拉致被害者の代表と言うことでございます。(拍手)

この訴訟を通じて、我々は政府が今までやってきた判断が如何にいい加減なもんであったかということを明らかにし、そしてそれを正していきたいというふうに思います。(拍手)

(不明)さきほど安倍幹事長代理をはじめといたしまして、朝日新聞の批判が大変あったんですが、ま、いろいろございますけれど、しかしこの会場の中には、朝日新聞の拉致の担当で、一生懸命取材をして、記事を書いている(?)記者もございまして、それぞれの機関、それぞれの団体、それぞれの会社には、何とかしてこの問題を解決しようと思っている方はたくさんおられるわけでございます。

そして今現在、我々が突き破らなければいけないのは、残念ながら今の15人という数でさえその政府が自ら先頭に立って捜し出して、それを明らかにした数が1つもないと言うことでございます。(拍手)

平成10年1月に、横田めぐみさんのご家族の中で、めぐみさんの名前を表に出すか出さないかというようなことで、大変激しい議論があったということは、皆さんもご承知と思います。

あの時、今「家族会」の代表をされております横田滋さんが決断をして危険を冒しても名前を出すというふうに決断をしてくださらなければ、その後「家族会」も恐らくできていないし、そしてこうやって皆さん集まって拉致問題を解決しようということにもなっていないわけでございます。(拍手)

何とも我々自身が非常に恥ずかしい話です。何で被害者のご家族がそうやって、苦悩の決断をして、それに我々が寄りかからなければいけないのか。ご家族を、(この集会は家族会は三つの三団体の1つでございますけれども)ご家族が前に立って「経済制裁を訴えなければいけない」というような状況が、私も含めてここにいる皆さん、国民全体の恥だと思わなければいけないだろうと思います。

この問題を放っておけば、必ずこれから先も被害者が出ます。「拉致問題の解決」というのは、ここにおられる「家族会」の方々がかわいそうだからやるんではない。この人たちをすべて救いださなければ、次は我々の家族がやられるから、やるわけでございます。(拍手)

いろいろなこの解決の方法を申しますと、例えば「憲法が邪魔になっている」とかいろんなことを言う方がございます。これは右でも左でも両方ございます。「今の憲法を変えるまではダメだ」とか、「今の憲法を護持しなければならないからダメだ」とかいうふうに言うわけですけれども、しかし皆さん今の憲法を読んでいただければ、第九条を誰がどう解釈しても軍隊を持ってはいけないことになってるんです。

しかし実際には、この国には現役、予備役合わせて30万人の軍隊が厳然として存在をしております。それをもし無くそうとすれば、国民から大変な反発が起きる訳でございます。ちなみに言えば、私もその憲法違反の1人でございます。

ですから問題は「何が必要なのか」「今何をしなければいけないのか」という本質を考えることであって、目先のことに囚われているべきではないというふうに思います。

そしてそれを我々自身が本当に認識することができた時に、この拉致問題というのは絶対にあっという間に解決いたします。

人口1億2千万を超え、37万平方キロの国土と、そして世界第2位の経済力を持ち、優秀な国民を持っているこの国が、自国の国民さえ飢えて殺していくようなあんな体制に負けているはずがありません。

我々は、この1月に発表いたしました(今日もご家族が見えておりますけれども)斉藤裕さん、そして松本京子さんに似た写真、ということで出しまして、残念ながらそれが本人のものではないということがわかりました。関係したマスコミの方、あるいは東京歯科大学の橋本先生等々大変ご迷惑をおかけし、また、ご家族には大変なご負担をおかけしたことを、大変申し訳なく思っておりますが、しかし、その間違いを恐れていったならば、この問題の解決なんかできるはずがありません。

我々はこれからもどんなことがあっても情報を集め、明らかにして全体を動かしてまいります。

そして最後に一言、この問題をやっている間についこの間、(今日もご家族がお見えですけれども)99歳で生島孝子さんのお母さん、生島うらさんが、亡くなりました。私ども、それぞれの役員がご家族と会っているわけでございますけれども、その中で亡くなっていかれた方が、もう何人もおられます。時間の余裕はございません。

ここで、ここにおられる方の前でお誓いをすれば、私も逃げ場がなくなるので申し上げておきたい。

来年の末までに今、我々のリストにもない人まで含めてすべての拉致被害者を救出してみせる

(長い大きな拍手)

これができなければ私もそれなりの責任をとるつもりでおります。

合わせて、ここにおいでの国会議員の皆さんも、これ、一番先頭に立ってやってくださっている方々ですから、その方々にこういうことを言うのは申し訳ありませんが、もしいつまで経っても取り返せないのであれば自らのバッジを外すという覚悟でやっていただきたい。(大きな拍手)

改めて申し上げます。もちろんそれが成功しても私の手柄ではございません、みんなでやったことなんですけれども。私はその時の責任を胸にしてこれからもやって参りたい。調査会一同そのつもりで頑張ります。どうかよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。(担当金木犀)


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4.24日比谷集会(10)竹下珠路さん

古川了子のお姉さま竹下珠路さん

~櫻井さん司会~

さて会場には、特定失踪者の被害者の方々のご家族がいらしています。どうぞご起立なさって頂きたいと思います。どうぞこのご家族のみなさんに絶大なる拍手と支援をお願いします。
約、60人の方々がおいでくださいました。私達は、心は、常に皆さんと共にあります。

さて昭和48年7月7日、-先ほど荒木さんが言及致しましたけれども-古川了子さんが失踪しました。その了子さんの双子のご姉妹で、にご挨拶をお願いします

竹下珠路さん挨拶
みなさまこんにちは。
今ひとつ訂正させて頂きます。私は11才年上の姉です。

櫻井さん:ごめんなさい。

若く見て頂きありがとうございます。(会場笑い)

竹下珠路でざいます。
私の妹、古川了子はみなさん方の一番左のはしの写真の、あれが古川了子の18歳の時の写真です。(壇上のパネルをさして)失踪する3ヶ月前、高校を卒業する前に、仲良しの友達と遊びに行った時の写真です。一番自然な写真だと思い、一番妹を感じる写真です。

私の妹、古川了子は、昭和48年7月7日土曜日でした。その前日に初めてのボーナスを頂きまして、そのボーナスを手に、母と約束をしていた、「私のお金で浴衣を買いたいから母さん一緒に見てね」と約束をしていた。そして美容院に前の晩に予約をしていた。その二つの楽しみな予定を電話で急にキャンセルして「今どこにいるの」という美容師さんの問いかけに「千葉駅にいる」という声を最後に連絡が全く取れなくなってしまいました。

持って出たと思われるものは、ハンカチと小さな財布しか入らないような、ちいさな、ちいさなバックと、それだけでした。

そして、その後本人の銀行口座から一切お金を引き出された様子はありません。

母は、そして私達家族は、あらゆる、自分たちにできる、可能な限りの探し方をしました。母は占いも頼りにし、テレビにも出して頂き、新聞や、同級生の方々に手紙で消息を尋ねるお願いをしましたが、一切消息は掴めず。20数年たった時に、元工作員の安明進さんが、あるマスメディアの方に母がお願いしていた写真を見て「この女性は見たことがある。915病院で自分が会って話をした、その女性に大変よく似ている。」という証言を頂きました。それが1997年の事でした。

そして、私はその話を伺いまして、すぐ最寄りの警察に行きましたけれど、その当時はまだ「イヤ太平洋岸ではないですよ」それから、「今拉致の被害者と言う方々が出ているのは昭和52年、53年からですから、48年はちょっと早すぎますね。」というお話しで、私自身も、母も「そんなものなのかしら?」「違うのかしら?」と思いながら、ずっと「もしかしたら、いなくなった当時から、本人が何かいけなかったのかもしれない、家族がいけなかったのかもしれない」と言う思いで、なかなかお話しができなかったそのこと(=古川了子さんの拉致の疑い)を、97年に封印するような形になりました。

しかし、次のチャンスがあれば、安明進さんにお目にかかれるものなら、もっとお話しを聞いてみたいというお願いもしていたのですが、それが具体化したのは、平成14年12月でした。

その(原因の)一つには、曽我ひとみさんというそれまで新聞に名前も載っていなかった人達が9.17に時点で急に名前が浮上してきたということです。これは私の妹も、名前が分かっていないだけに、政府も交渉をして、行方を捜して貰えなかったんだと思い、荒木さん、その他の皆さんの「公表しましょう」そして「動きましょう」という、「この状況からして北朝鮮による拉致に疑いがないんだよ」という励ましを頂いて、名前を公表させて頂きました。

昨年には日弁連の人権擁護委員会に提訴もいたしました。そして訴えをいたしました。その結果つい3月に「これは北朝鮮の拉致による可能性が大変強い」ということと「政府はすぐにもこの実態を明らかにして救出に最大務めなければいけない」という報告書を出して頂き、私たちは本当に10件15人という人たちばかりでなく、もっとたくさんの人たちが拉致されているんだという(ことを)日弁連の人権用語委員会の方々も認めて頂いたと言うことを(つい先頃ですが)大変力強く思いました。

私達は、「特定失踪者」という妹に対する呼び方ではなく「拉致の被害者です」と大きく言えると確信を持っております。

今現在、拉致認定されているか、されていないかで、その立場で政府の対応は大きく違っております。

その、ひとつは、北朝鮮との交渉においても拉致認定の方々に関しては、交渉テーブルで、名前がきちんと乗っおりますが、特定失踪者の私達、前にたくさんおられるご家族のその特定失踪者の方々については、認定されたかされないかの壁のところで交渉テーブルに名前の一行も出ていないのです。

拉致の可能性が強いと、いろいろな状況からされている中で、これは、日本政府自身が、救出に向いて動いていないと言うことではないでしょうか?

曽我ひとみさんのお話の中に、日本の要人が向こうの国を尋ねたというニュースが流れたときに、「さぁ、次は私を探しにきてくれたんだろうか」と思って訪問を待っていたという話がありました。

今私の妹は、きっとかの国で、その思いで「いつ自分を捜しに来てくれるのだろうか」と、同じ気持ちを持っているんだと思います。

私たち家族が、そして日本の国が、「古川了子を、拉致された全員の人々を捜しているんだよ」と北朝鮮に出すことによって、所在を要求することによって、本人達の命が一番確保される。そしてそうしないと、もしかしたら、闇から闇に葬られてしまうかもしれない、この大事な命なのです。

先だって今、荒木さんからご紹介がありましたように、古川了子の拉致認定を求める行政訴訟というのを起こさせて頂きました。

これは、古川了子を救出する手段の一つなのです。行政訴訟で拉致認定をしていただいたからといって、本人がすぐ帰ってくるわけではないのです。

政府に拉致被害者として、相手方との交渉、そして救出という行動に写って頂きたい、その一つのプロセスでしかないのです。

拉致認定をされてから、それからも、どんなに大切かはこの家族会の皆さんのお話を聞いても十分私にもわかります。大変道の厳しいこともよく解ります。しかし今本当にに本人を救出しないと。。本当に時間がないのです。(声が震える)

私の母も89才になろうとしています。古川了子本人は今年の1月に、50才になりました。しかし、豊かな日本で50才とかの厳しいと伺っている国での50才とでは同じでしょうか?
32年という妹の不在は本当に長いです。

命は誰も同じだと思います。(ここまで、担当:金木犀)

(ここからぴろんさんのテキスト)

先ほど鳩山先生からお話しがありましたように、何よりも命を救っていただきたい。
一刻も早く命を救っていただきたい。
たくさんの日本人を救っていただきたい。
それには日本国の代表である小泉総理に毅然たる態度といっても、それよりももっと決断をしていただきたいのです。(大きな拍手)

経済制裁も含めあらゆる可能な限りの救出に向けた決断をぜひぜひお願いしたいと思っております。
それには皆さんの支援するお力が何よりの力になると思います。
どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。(拍手)

竹下珠路さん
※司会 櫻井よしこ氏
ありがとうございました。
皆の心をひとつに合わせてこの問題にぶつかっていくしかありません。
この声は日本だけではありません。
アメリカでも力強く北朝鮮人権法と言うものが出来ました。
そのアメリカの北朝鮮に対する人権法の中に、日本人の拉致被害者・韓国人の拉致被害者の無条件即時の原状回復というものをうたった条文がございます。
これを人権法案に入れるために尽力をしてくださったスザンヌ・ショルティーさんからのメッセージがございます。
島田先生にお願いいたします。(拍手)

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4.24日比谷集会(11)島田洋一氏

スザンヌ・ショルティー 米国「北朝鮮自由連合」副委員長のメッセージ
             ~代読 島田洋一氏~



スザンヌ・ショルティーさんはこの2月の東京の国際集会にも来日してくださいまして、今櫻井さんの方から話がありましたように、昨年アメリカで成立した北朝鮮人権法の民間側の立役者であります。それではこの大会に寄せたショルティーさんのメッセージ、翻訳したものを読み上げます。

「ワシントンより東京の集会に寄せて

私は北朝鮮に直ちに経済制裁を発動するよう求める皆様の呼びかけに支持を表明します。(拍手)金正日を相手に拉致問題を解決するに当たり、日本の皆様は忍耐強すぎたのではないか?とさえ私は思っています。(拍手)
愛する我が子やきょうだいが今どのような状態にあるかを知ることも出来ず、苦痛にさいなまれているご家族の心情を平気で逆撫でするような北朝鮮の行為は言語道断であり、世界中の良識ある人々に対する挑戦でもあります。(拍手 「その通り!」の声)

金正日は人の命も尊厳も顧みず、ただ私腹を肥やし贅沢な生活を続けることのみに汲々としている男です。(拍手 「その通り!」の声)このような男に制裁をかけることは余りに当然のことではないでしょうか?(拍手 「そうだ!」の声)今週私たちはワシントンにおいて北朝鮮自由化週間と銘打って活動を繰り広げる予定です。金正日が自国民のみならず、日本人や韓国人に対して行った恐るべき残虐行為の数々を明るみに出し、北朝鮮に住む人々の自由と人権の獲得に向け行動いたします。

例えば火曜日26日は日本人拉致問題の展示を含む北朝鮮ジェノサイド展・大虐殺展の開催式を繰り広げます。増元照明さん・島田洋一さんがワシントンを訪れ、数々のイベントに参加してくださることを大変光栄に思っています。

拉致被害者救出の為に日々休むことなく活動している皆さんに心から敬意を表し、北朝鮮に住む人の人権・自由の為に皆様と隊列を組んで戦えることを大変光栄に思っている旨、ここに述べさせてください。全ての人が故郷に戻れる日まで共に戦いましょう。

北朝鮮自由連合 North Korea Freedom Traditional(ノース コリア フリーダム トラディショナル)代表

スザンヌ・ショルティー」
(拍手)

今ショルティーさんのメッセージにも言及されていましたけれども、明日から増元照明家族会事務局長と私島田洋一とでワシントンに行ってまいります。北朝鮮政策を担当するアメリカの政府各部署の要人等とも意見交換してくる予定ですが。その他例えば28日木曜日正午から、アメリカや韓国の有志と共にですね。

アメリカ中国大使館の前で「脱北者強制送還に抗議する集会・デモ」に参加してまいります。(拍手)
これは北朝鮮だけでなく、中国にも圧力をかけなければ人権をはじめとする北朝鮮問題は解決できないと言う認識の上での行動であります。(拍手)

我々は文明人の端くれですから、石を投げたり卵を投げたりアホなことはいたしません。だいたい卵は食べるもんであって、投げるもんじゃないと。(拍手 「その通り!」の声)これは幼稚園レベルどころか、子供が2~3歳の段階で教え込まなければならないことであります。(拍手 「その通り!」の声)ところが子供たちが見ている前で大人が食べ物を粗末にしてヘラヘラ笑いながら卵を投げつける。当たってぐしゃっと崩れたと言っては歓声をあげる。だから中国の教育は根本的に駄目なんです。(拍手 「そうだ!」の声)

中国政府が捕まえては送還している脱北者の中には拉致被害者に関して重要情報を持つ人、あるいは拉致被害者の家族、あるいは拉致被害者本人まで含まれる可能性があります。

中国政府は陰に陽に金正日政権を支えております。中国政府というのは明らかに拉致問題解決を妨害し続けている存在であります。(拍手 「そうだ!」の声)

この中国大使館前における抗議活動では、まず脱北難民を強制送還し続ける中国には、オリンピックを開催する資格はないということです。(拍手 「その通り!」の声)

アメリカの議会ではすでにそういう法案が有志議員によって作られてもおりますけど、日本でも作っていただいたらいかがでしょうか。(拍手 「その通り!」の声)公開競技として難民狩りを実施するというなら北京が会場として相応しいでしょうけども。(拍手)そして間違いなく中国チームが優勝するでしょうが。(笑い声)常識的に考えて、北京はオリンピック開催資格を持たないと思います。(拍手)

なお中国は日本は国連常任理事国になる資格は無いと言っておりますけども、中国に常任理事国の資格があるのなら、世界のたいていの国には資格があると思います。(拍手 「その通り!」の声)

ショルティーさんもこの2月の東京での集会でも大変力強いスピーチをしてくれたんですけど、日本に来て拉致議連の先生方と活発な意見交換をし、また熱気のこもった集会に自ら参加してですね。自身も多いに勇気付けられたということを言っております。日米の有志が核となってですね。さらに運動を強めていくなら、必ず金正日体制を潰せると。この確信を得たと言っております。

明日からのワシントン訪問を通じて日米の一層の連帯を深めてきたいと思っておりますので、色々バックアップの方をよろしくお願いします。(拍手)




ろぐさんの全訳はこちらで

※司会 櫻井よしこ氏

島田先生ありがとうございました。
島田先生のお話に関連した私の取材による関連したお話をご披露したいと思います。
この前韓国に取材に行ってきましたときに脱北者のカン・チョルさんにお会いしてきました。
カン・チョルさんの仰るにはですね。
金正日政権は盧武鉉政権と何とかうまく提携して韓国を北朝鮮のようにしたいと思っている。
そして、中国のバックアップを得たいと思っている。
だから北朝鮮の政権は親韓国・親中国ではあるけれども、北朝鮮の国民はもっと国際情勢をきちんと見ていると言うんですね。

北朝鮮の国民はどこの国が一番嫌いかといえば、中国が一番嫌いであると。
なぜならば、命からがら国境を越えて中国に逃げていった人々を捕らえては送り返す、捕らえては送り返す。
送り返された人々がどのような辛い目に遭うかということを知っていながら、中国政府は命からがら逃げていった北朝鮮の人々を捕まえては送り返す。
だから、北朝鮮の人民は中国政府が嫌いだと言っておりました。(拍手)
そして彼らが本当に頼りにしているのはアメリカと日本の人権を重んじる人々である。(拍手)
アメリカの北朝鮮人権法のことは口コミで多くの北朝鮮の人々がすでに知ってるそうです。
そして日本人の拉致問題救出の努力も含めて、日本人は非常に悪い国民だというふうに教えられているけれども、実際はそうではないんじゃないか?という事に彼らは気付いてる。

だから皆さん。
北朝鮮のあの圧制の元で今も苦しんでいる2000万の北朝鮮の国民のためにも、私たちは頑張りましょう!
私たち日本人が信じてやって来たことは中国政府がなんと言おうと、韓国政府がなんと言おうと、北朝鮮政府がなんと言おうと、その国に住む良識ある人々には分かっていると信じましょう。(拍手)
だからもっともっと自信を持って、この拉致問題の解決の為に小泉さんに突きつけていきましょう。
勇気を持て!
経済制裁をする勇気を持って欲しいということを、もっともっと言っていきたいと思います。

ここで私たちの趣旨に賛成して集まって来た人がなんと4000人に達したことをご報告いたします。
この会場に立っている方を含めて2500人。
第二会場には1500人の人が詰め掛けてくださいました。
ありがとうございました。

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4.24日比谷集会(12)地村・浜本家メッセージ

司会櫻井さん

さて北朝鮮から戻ってきた5人の大人たち。その大人たち、今日本で一生懸命に今失われた時を取り戻そうと頑張っております。地村保志さん・富貴江さんからのメッセージがございます。地村さんのお父様からご紹介をしていただきたいと思います。(拍手)

地村保志さん・富貴恵さんからのメッセージ紹介 
        ~代読 地村保さん)~



皆さん、こんにちは。(拍手)私、福井から参りました地村でございます。(拍手)
皆さんのおかげで、また皆さんの世論で政府が動き拉致された5人が、また家族が帰国できましたことはひとえに皆様のご協力と世論のおかげと思っております。本当にありがとうございました。(拍手)

帰りました息子たち、また孫も大変現在では日本に馴染みまして、進学も出来また就職も出来まして本当に私としてはホッとしているような次第でございますが。まだまだ10人の不明確の人、特定失踪者の人、大勢おります。

私の県でも私以外にも特定失踪者の人が3人もおります。その特定失踪者の解明のため、また10人の不明確の人も、北朝鮮の全面解決まで。

私どものは家へ帰りましたけれども、拉致問題の全面解決に、私はこれは宿命やと思って皆さんと頑張るつもりでございます。(拍手)おかげで帰りました息子たちのメッセージを預かってきましたので、代読させていただきます。国民大集会へのメッセージとして、代弁します。

「本日、小泉総理の決断を求める国民大集会の開催にあたり、ここにお集まりの皆さんをはじめ多くの国民の皆様のご支援により、私たち家族が帰国できましたこと、改めて感謝いたします。
思い起こしますと、昭和53年7月、私たち夫婦は北朝鮮に拉致されて以来、紆余曲折の人生を強いられてきましたが、世論の後押しとして日本政府のご協力により、平成14年10月24年ぶりに夢にも見た祖国へ帰国を果たすことがでいました。

また離れ離れになっていた子供たちも昨年の5月無事再会でき、日本で共に暮らせるようになりました。
これもひとえに皆様のご支援のおかげと心から感謝しております。

帰国後私たち夫婦は多くの国民、地元の皆様のご支援ご協力の下、国の政策に支えられ、いち早く社会復帰が出来、子供たちも日本に順調に慣れ、この4月から就職・進学が決まったことにより将来の生活に道筋が見えてまいりましたので、本年の3月、国に対して永住帰国の意思の決定を伝えたところでございます。(拍手)
今日まで私たち家族にも寄せられた公私に関わる数々のご支援、心温まる激励の品々、署名のご協力に改めて感謝申し上げます。

幸い私たち家族は帰国することが出来、心の安堵を取り戻すことは出来ましたが、反面日朝交渉に進展が見られず、拉致被害者の帰国を待ちわびる10人の不明者や特定失踪者の家族の気持ちを察すると、心が痛みます。

日本政府におかれましては、最善の努力を払われ、交渉に臨んでいただきたいと存じますが、拉致問題の早期解決に向け国民世論が更に盛り上がるように全国の国民に改めてご支援ご協力をお願い申し上げます。

私たち家族も自立する上でまだまだ多難な問題を抱えておりますが、拉致問題を風化させることなく早期解決を実現するため、これまでも出来る限りの協力はしてきたつもりでありますし、今後も努力してまいる覚悟でございます。この場をお借りして皆さんの暖かいご理解・ご支援をお願い申し上げます。

平成17年4月24日
地村保志・地村富貴恵」

以上です。(拍手)
皆さんのおかげで私たち孫まで帰していただいきましたことは、本当に皆さんのおかげと改めて御礼を申し上げます。どうも本日はありがとうございます。

浜本雄幸さん 挨拶


(拍手)
皆さんこんにちは。(「こんにちは」の声) 私、浜本です。浜本富貴恵、地村富貴恵の兄です。
皆さんに大変なご心配をかけ、大変な皆さんご支援を受けて、24年ぶりに帰ってくることが出来ました。
本当にどうもありがとうございます。厚く御礼申し上げます。

今地村夫妻からもメッセージがございましたが、非常に皆さんに感謝いたしております。日本へ帰って良かった。子供たちもまぁ来月で丸1年になるんですけども、日本語ちょっと心配しておったんですけれども、やはり1年経てば非常に日本語上手になりました。会話も出来るようになりました。非常に喜んでおります。

日本って素晴らしい国だ。これはもうまず、食料の心配が要らない。(笑い声)ね、今日は暖かい。マイナス20度という厳寒の中を生活することを思えば、日本なんて寒いと言うような国ではない。(笑い声)
こんな良い国はない。周囲の皆さんも親切だし思いやりがあって、非常に私たちを温かく見守ってくれる。
こんなありがたい国はない。あぁこれは日本へ帰って来て良かった。毎日が楽しい、と言うことで非常に喜んでおります。

本当にあぁ帰ってよかったなぁ、これも私強硬な意見で「北朝鮮に絶対帰さんぞ!」と非常に強硬な意見を吐き続けて来ておったわけでございましたけども。何を言うか知れない、また北朝鮮へ帰りたいと言うかと思って大分心配しておりましたけどもそれはなくなりましたので。(笑い声)だけどもこれから先はまだまだ問題がございます。どうぞ皆さん温かい目で見守ってやって欲しいとお願いをいたします。(拍手)

ところで拉致問題でございますけども、遺骨の問題で悶着起こしておりますけども、こういうことで悶着をしておる。これは拉致、(舞台横で時間ですの合図 笑い声)帰せと、本人を帰せという一本の方針でやれば問題はないんじゃないかと。原状回復!日本人を帰せ!これ一本でやっていただきたいと思います。(拍手)

※司会 櫻井よしこ氏 
溢れる思い、ありがとうございます。
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4.24日比谷集会(13)蓮池家メッセージ

司会櫻井さん
さて蓮池薫さん・祐木子さんからもメッセージを頂いております。
お兄様の蓮池透さんからお願いをいたします。(拍手)

蓮池薫さん・祐木子さんからのメッセージ紹介 
       ~代読 蓮池透さん~



蓮池薫と祐木子の兄の蓮池透でございます。
本日はせっかくのお休みの中、こんなにたくさんの方が足を運んで下さり本当にありがとうございます。(拍手)同じ時間同じ場所でこれだけ多くの皆さんと強い気持ちを共有できると言うことは、きっと我々の熱い思いが政府・小泉総理に届くものと確信しております。(拍手)弟夫婦からメッセージを預かっておりますので、代読させていただきます。ちょっと時間が押してるようなので急ぎます。(笑い声)

「今から1年前の5月22日子供たちが帰国をし、私たち家族は再びひとつになることが出来ました。そして現在色々困難はありますが、子供たちを含め一歩一歩自立に向けて進んでいます。これはひとえに国民の皆様のご支援の賜物と心から感謝しております。本当にありがとうございます。

私たちはこのように家族が揃って前進できるようになりました。しかし一方で他の拉致被害者の皆さんは、まだ帰国出来ないばかりか北朝鮮の不誠実な対応で一向に解決の道すら見えてまいりません。被害者のご家族が高齢になられる中、拉致被害者の皆さんの早期帰国実現のため、私たちは今の自分たちに出来る限りのことは全てやってまいりましたし、これからもやっていくつもりです。

何よりも私たちは拉致被害者のご家族の皆様と、政府の関係機関に私たちが持っている情報を提供いたしましたし、これからも要請に応じて積極的に提供することでその情報に基づいてご家族や政府はこの運動を盛り上げて、北朝鮮に対する強い外交を繰り広げていただきたいと切に望んでおります。

拉致問題を解決し、被害者の皆さんの一日も早い帰国を実現するためには、これからも国民の皆様のご支援とご協力が何より必要と考えています。何卒これからも拉致問題が風化することなどないよう、よろしくお願いいたします。

平成17年4月24日
蓮池薫・祐木子」

どうもありがとうございました。(拍手)

※司会 櫻井よしこ氏
 蓮池さんありがとうございました。
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4.24日比谷集会(14)細田官房長官からのメッセージ



櫻井さん司会
さてここで内閣官房長官の細田さんからメッセージをいただいております。
今日のこの集会は「小泉総理に決断を求める国民大集会」でございます。
決断を求められている内閣の官房長官がメッセージをくださいました。(笑い声)
私が代読をさせていただきます。

細田官房長官からのメッセージ紹介 
        ~代読 櫻井よしこ氏~


「本日の国民大集会を主催された家族会・救う会・拉致議連の方々、並びにご出席の皆様に深甚なる敬意を表します。
皆様ご承知の通り、第3回日朝実務者協議の我が方の精査結果に対して、先日も北朝鮮側より納得しがたいが反応が示されました。
わが国は即時に反論すると同時に、生存する拉致被害者の即時帰国と真相究明を強く北朝鮮側に強く要求した所です。

まだ先般、国連人権委員会で北朝鮮の人権状況決議が従来よりも強化された内容で採択されるなど、拉致問題を含めた北朝鮮の人権問題の対応について国際社会の懸念も強まって来ています。
政府としても、愛する家族を取り戻すために活動している被害者の家族の気持ちを重く受け止め、拉致問題の一日も早い解決に向け、全力で取り組んでまいることを改めて表明いたします。

平成17年4月24日
内閣官房長官 細田博之」

以上でございます。(拍手)
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4.24日比谷集会(15)出席議員紹介

櫻井さん司会
さてこの拉致問題解決に向けての原動力の一つが拉致議連の皆様方でいらっしゃいます。
今日も拉致議連の皆様方、一部がお出でくださいました。
ここで拉致議連事務局長の古谷圭司さんに出席の議員の方をご紹介していただきたいと思います。
よろしくお願いたします。(拍手)

古屋圭司 拉致議連事務局長による出席議員紹介


ご紹介を頂きました、拉致議連事務長・自民党衆議院議員の古谷でございます。
私たちは213名の衆・参超党派の国会議員がございます。
この私たちこそがは日本を思い、日本の国益のために必死に汗を流すまともな国会議員であると自負しておる次第でございます。(拍手)

紹介をさせていただく前に一言私からもお話をさせていただきたいと思います。
この拉致議連の正式名称は皆さんご存知のように「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動をする議員連盟」
すなわち拉致被害者、並びに家族の立場に立ってこの拉致問題を早期に解決をすると言うことが我々の責任でございます。
従いまして先ほど平沼会長からもお話がありましたように、一方的に埒が明かぬ。
対話が駄目なら次はやはり圧力である。
すなわち経済制裁をかけることがこの拉致問題の解決の有力な手段であると言うことを、先ほど平沼会長からも申し上げた通りでございます。(「そうだ!」の声 拍手)

皆さん、ちなみにですね。
この春からいわゆる船舶の油濁を防止するための保険、これに入ってないと日本に全ての船が入港出来なくなります。
北朝鮮は一年にだいたい100隻くらい一隻10回くらい入りますので、千数百回でございますが。
この100隻の内、このまともな保険が付いてるのは確認できたのは17隻しか無いんですよ。
これだけ見てもですね。
当たり前のことをやるだけでもこれだけの効果がある。

だから我々のこの手に持っている経済制裁のカードを切るということは大きな力になることは間違いがないことでございます。(拍手)
頑張ってまいりたいと思います。
そこで今日ここに出席されている国会議員を私の方からもご紹介申し上げたいと思います。
皆さんご存知のように国会議員というのは日曜日はかき入れ時でございましてね。(笑い)
永田町もキナ臭いしないでもないという中で今日は来ていただきました。

まず拉致議連会長の平沼赳夫衆議院議員でございます。(拍手)
自民党拉致対策本部長 安倍晋三衆議院議員です。(拍手)
拉致議連顧問民主党 鳩山由紀夫先生でございます、あ、先ほどお帰りになりました。(拍手)
拉致議連副会長公明党衆議院議員 漆原良夫先生でございます。(拍手)
拉致議連幹事長民主党 西村眞悟衆議院議員。(大きな歓声と拍手)
盛大な拍手、ありがとうございます。
拉致議連副会長 原口一博衆議院議員でございます。(拍手)
民主党 増子輝彦衆議院議員でございます。(拍手)お帰りになりました。失礼いたしました。
民主党 渡辺周議員衆議院議員でございます。(拍手)
拉致議連副会長 中川義雄自民党参議院議員でございます。(拍手)
民主党 津田弥太郎参議院議員でございます。(拍手)
民主党 山根隆治参議院議員でございます。(拍手)お帰りになられました。
民主党 森ゆうこ参議院議員でございます。(拍手)
拉致議連副会長・自民党 山谷えり子参議院議員でございます。(拍手)
拉致議連事務局長代理・民主党 松原仁衆議院議員でございます。(拍手)


以上でございます。
あと一言だけ皆様に報告させていただきます。
実は私ども拉致議連としては最近話題になっております、「人権擁護法案」。
これにつきましては私ども断固反対の決議をしております。(拍手)
これは我々が行っている活動、あるいは家族会、あるいは救う会が行っているこの拉致問題の運動に対して不当に制限が加えられ兼ねない恐れがあるからでございます。
私たちは人権侵害に対する擁護には徹底的にされなければならない。
これは申し上げるまでもないことでございます。

しかし、この人権擁護法という美しい法案の響きの中には恐ろしい危険が隠されているからでございます。
私たちはその疑念が解決しない限りは、まぁいわば自由主義あるいは言論の自由を犯すかもしれない。
この法案が国会に提出されることが無いように徹底的に頑張ってまいりたいと思いますが、幸いにして今日は安倍晋三自民党幹事長代理もお見えでございますが、彼もこの法案には徹底して反対をしております。
どうか皆さん。
皆さんも美しい言葉の裏に隠された法案が通されることのないよう、皆様方の市民のお力添えも心からお願いいたします。(拍手)

※司会 櫻井よしこ氏
ちなみに拉致議連の会長の平沼さんは、この人権擁護法案に反対する議盟の会長でもあります。
お願いしたいと思います。
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4.24日比谷集会(16)救う会熊本緊急報告

加納良寛 救う会熊本代表 緊急報告


こんにちは。
救う会熊本では去年の1月に熊本朝鮮会館の固定資産税減免取り止めを求めて行政訴訟を起こしました。
ついこの間、こういう判決を頂きました。4月の21日のことでございました。

裁判の中で私どもはずい分とずさんな調査の元で税金の減免が行われていると主張しましたが、その中で朝鮮総連が原敕晁さん事件、長銀信用組合の不正流用事件で東京地裁で損害賠償命令が出てる、そういうことをたくさん申し述べました。

そうしたところがちょっと判決文の一部を読ませていただきますが、こういう判決でございました。

「朝鮮総連が一見して反社会的で公益を害する団体であるならばともかく、その綱領によれば祖国政府への結集や愛国をうたい、祖国の発展に尽くし祖国の統一を目指すというのであるから、朝鮮総連が反社会的団体であるということは言えず、そうであれば仮に本件土地建物において朝鮮総連により一部政治活動が行われているとしても、なんら法令に反するものとは言えず公益を損なうとは言えない。」

これはあの、例えは悪いかもしれませんが、暴力団が組事務所を公民館類似施設といった場合に、刺青が見えないようにシャツを着て、そしてしかも彼らは任侠道という日本古来の美徳を体現するものであるからなんら公益に反しないと、このようなことを裁判長は言ったわけです。

私どもはよく、報復でこういうことをやってると言われますが、実は熊本朝鮮会館は、松木薫さんが拉致されましたが、通っておられました九州学院高校の目と鼻の先にあります。私どもは非常に関与を疑っております。しかもこの固定資産税というのは誰でも分かる。情報開示を請求すれば誰にでも分かる。

減免という答えが返ってくるわけですから、他に所得税とか住民税とか、はたまた駐車違反まで様々な特典が与えられておりまして、朝鮮総連の政治活動資金になったり本国の送金されたりと、私どもはそういう認識をしております。

ですからこの運動の一環として報復ではなくやらせてもらっています。私どもはこういう70年代に良く聞きましたようなアジ演説のような判決を頂きまして、とても承服できませんので福岡高裁に即日控訴いたしました。(拍手)

そういうことでこれからまた一年ぐらい戦いが続くと思いますが、いろいろまたご支援よろしくお願いします。(拍手 「頑張れ!」などの声)

※司会 櫻井よしこ氏
加納さん、ありがとうございました。
さて会場には地方自治体の議員の方々で、この拉致問題に熱心に取り組んで来られた人々がいます。
どうぞご起立をお願いします。(拍手)
この地方自治体の議員の方たちは、それぞれの地元に密着する形で熱心に拉致問題に取り組んでくださいました。(拍手)
本当にありがとうございました。(拍手)
もう一度拍手をお願いします。
ありがとうございました。(拍手)

さてここからはこのセッションは第2部に移りたいと思いますけども、そのためにステージの上のテーブルおよび椅子のちょっとした組み換えがございます。4~5分かかると思いますけど、どうぞロビーに出たい方ちょっと足を伸ばしたい方どうぞ随時なさってくださいませ。4~5分でこの用意が終わると思いますのでよろしくお願いいたします

・・・第7回国民大集会 第1部終了・・・

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4.24日比谷集会(17)パネルディスカッション1

第7回国民大集会 第2部
パネルディスカッションの模様は以下のサイトでもご覧になれます。
とても丁寧なテキストです。ご努力くださっているみなさんに感謝。
以下の2つは
aoinomama13のホームページさん
aoi blogさん
話の花束さんでご覧ください。

曾我ひとみさんからのメッセージ紹介
有本嘉代子さん(有本恵子さんの母)のお話

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4.24日比谷集会(18)パネルディスカッション2

未帰還者家族によるパネルディスカッション 2


※司会 西岡力氏
同じよど号グループで、3人で一緒に暮らしているという手紙が来た松木薫さんのお姉さんの斉藤さんにも。今、薫さんが北朝鮮で思い出しているだろうな?と言う思い出は何かありますか?

斉藤文代さん(松木薫さんの長姉)

この間第3回実務者協議のときにですね。薫が北朝鮮で、母があの、たくさんカレーライスを作ってあげてたんでしょうね。たくさん私たちも食べましたけれども、その思い出があったと思うんですけれど。
北朝鮮で皆さんお世話になった方に「今日は僕がカレーライスを作って上げます」といって、作って何度か食べさせていただきました、と言う話をされたと。

言うことを聞いたときに、ああ本当に薫はいつもいつも優しい子だったのに、向こうに行ってもお母さんのことを忘れないで。いつもいつもそんなしてお父さんお母さんのことを忘れないで。そんなして日本のことを帰りたくって、辛抱して。なんとかして日本へ帰ってこなきゃいけないという気持ちと我慢強さと言うのを、本当にかわいそうだな、と思いました。

先月の18日ですかね、母が吐血いたしまして。救急車で運ばれて。本当にこれでもう今度は駄目なのかと私思いましたけども。やはり母は強いんですね。やっぱりどこの父母って強いなぁと私思いました。

胃がですね。先生に見せていただいたんですけど。胃カメラ通した所を見せていただいたんですけど、もうボロボロになってるんです。

それでもいつも病床で、ベッドで思うは薫のことばかり、毎日毎日思ってて。会いたい、会いたいという気持ちが毎日あったのか?と思うと可哀想で可哀想で。本・当・に・拉致された家族の皆さんが本・当・に・同じような苦しみを味わっているのかな?と思ったら、お母さんになんとしてでも会わせて上げなきゃと思ってですね。(拍手)私も一生懸命今看病しております。

母の苦しみは母だけで納めておきたいな、って。皆さん他の方にはこんなに苦しい思いをさせたくないなと言うことを顔を見るたびにいつも思います。私が涙を流すと母も泣きますのでなるべく泣かないように務めてるんですけど。私も泣き虫ですから、外に行ってずっと泣いては帰ってくるんですけど。
やっぱり見破られます。娘が泣いてるんだなというのは分かるんですね。

こんなことが皆苦しんでらっしゃるのかと思うと、家族会の方たち、皆歳を召して来てますので。こんな苦しい思いは母だけで十分だといつもいつも思っておりますので、何とか皆様助けてください。(拍手)生きてるうちに帰ってこられますように、よろしくお願いいたします。(拍手)

※司会 西岡力氏
何回かまわそうと思いますから、一回はなるべく短めに、(笑い声)全部話さなくても大丈夫ですから。
次は増元るみ子さんの弟さんの照明さんで。今日は新事務局長ではなくて。るみ姉と呼んでたそうですが、増元さんとしてお願いします。

増元照明さん(増元るみ子さんの弟)


あの、私・・・(会場より何か話しかける声)
はい?出身ですか?鹿児島県鹿児島市です。

私小さくて、小さい頃って本当に小さくて。中学1年のとき129センチだったことを私覚えてるんですけども。今でこそちょっと皆さんに偉そうなことを言ってますが、あの頃は自分でも言うのはなんですが、非常に可愛い子で。(笑い声)

るみ姉と非常に仲が良くて。家が小さかったもんですから、小さい頃は一緒に布団に入ったんですね。中学校になってもその癖が抜けなくて、中学校の低学年まで1年か2年のくらいまで、姉と一緒の布団で寝てたんです、本当に。それほど、私は4人きょうだいの末っ子で甘えん坊で、非常に私のことを可愛がってくれた姉でした。

大学に入って私がお酒を飲んでしまって、警察に捕まったんですね。まだ未成年だったもんですから。(笑い声)軽犯罪違反で、夜中でしたね。ほとんど1時2時でした。警察に捕まって始末書書かされた時に、家に電話して親父もいて。親父は怒ってるんですけども、結局るみ子が私を迎えに警察まで来てくれて、笑ってました。怒ることもなく笑っていました。そんな優しい姉でした。

私が大学、北海道なんですけど。北海道にいる間に必ず札幌の町を見せたい、小樽の町を見せたいというふうに思っていたんですけれど。それも叶わないままに、邪悪な金正日に北海道より寒い北朝鮮に連れて行かれてしまって、私は非常に怒っております。

札幌と言う町はきれいな町です。あんな平壌よりもっときれいな町です。(「その通り」の声)でもどう、どうすればいいんでしょう?北から帰ってきたら、また寒い国へ行けとは言えなくなってしまって、困ってるんです。早く日本に連れて帰って来て、あったかい鹿児島で過ごさせてやりたいと思っています。(拍手)

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4.24日比谷集会(19)パネルディスカッション3

『未帰還者家族によるパネルディスカッション 3』

「市川健一さん(市川修一さんの兄)のお話」
「飯塚耕一郎さん(田口八重子さんの長男)のお話」
「増元照明さんのお話」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※司会 西岡力氏
市川修一さんの思い出を、市川健一さんお願いします。

市川健一さん(市川修一さんの兄)


鹿児島から来ました修一の兄です。
私と修一とは9つ違うんですよね。
修一が生まれたときは私は小学校の3年生。
だから修一と余りにも歳が離れておりますもので、小学校の高学年・中学校になったとき、学校から帰ってくると。
うちは商売やっておりますもんで、修一を遊ばせてくれといつも言われるんですよ。
私は修一をおぶってね、よく遊びに行っておりました。

でも余りにも、私今は人口は少ないけどもその時は同級生が一歩(外に)出れば多かったもんですから。
いつも修一をおぶって、自分も一生懸命遊びたい。
そういう気持ちがあって
「修ちゃんちょっとここで待っとってよ、お兄ちゃん遊んでくるからね、ここ動いちゃ駄目だよ」
で、修一はず~っとそれを守って、ひとりで遊んでおりましたよね。
今考えるとあぁ可哀想なことをしたな、と思っております。(笑い声)
修一はすごく両親を大事にして。
今は「両親は大丈夫かなぁ?」とそのように心配してるんじゃないかな?と思っております。
一刻も早く取り戻したいと思っております。
以上です。(拍手)

※司会 西岡力氏
田口八重子さんのご家族が並んでいるんですが。
田口八重子さんの長男の耕一郎さん、1歳だったんですね。
お母さんは耕一郎さんのことを覚えていると思いますけど。
でもお母さんと一緒の写真が出てきましたよね?
そのことをちょっとお話してくれませんか?

飯塚耕一郎さん(田口八重子さんの長男)


(拍手)
あの丁度ここに今あるんですけども。(ステージ上に飾られた八重子さんの写真を指し示す)
今西岡さんから昔のご家族の思い出を語ってくれと言われた時に、ちょっと私だけ寂しい思いをしました。
なぜなら私は1歳のときに母親が拉致をされて、私は田口八重子さんの記憶がないまま、27年の歳月が経ってしまいましたので。「本当に誠に申し訳ない」母に対して何もして上げられなくて、「誠に申し訳ない、本当にごめん」って思うんですよね。

ここにある写真を見ていつも思うのは、「あ、やっぱり八重子さんと本当に親子なんだ」と思う安堵の気持ちと、自分をわざわざお腹を痛めて産んでくれた母親に対して本当に申し訳ないという気持ち。これに尽きてしまうんですよね。ですから早く八重子さんとかお母さんとか、曖昧な。いつもいつも言う時で発言が変わってしまうんですけど。早く帰ってきて色々な話をたくさんして、北朝鮮のことを忘れさせて、早く「お母さん」って呼んであげたいと思っています。(拍手)

※司会 西岡力氏
北朝鮮は田口八重子さんと原敕晁さんが結婚したと言ってるんですね。しかしその結婚の日時がおかしいので、結婚したと言うこと事態、私たちは正しいことが分からないんですけど。

原敕晁さんの家族も実は家族会に入ってらっしゃいます。長崎に住んでらっしゃるお兄さんの原耕一さんが入ってらっしゃるんですが、大変病気がちで病院と行ったり来たりで、今回も来ることが出来なかったんですが。連絡を取ってらっしゃるのが増元さんなので、原さんのご家族の状況について若干お話をしていただけませんか?

増元照明さん(増元るみ子さんの弟)


つい先日もメッセージを頂きたいというふうに電話を差し上げたんですけれども、息子さんご夫婦が2回とも出られまして、「今病院に行っておられます」と言うふうに仰って。ご本人とは今回お話できませんでした。
昨年の実務者協議の結果が出た時に、「原敕晁さんの結果を全て公表していいですか?」と言うことをお伺いした時、「もうぜひそれはやっていただきたい。家族会の皆さん全面的に一緒にやっていきたいので、ぜひそれはお願いします」というふうに仰られました。

ただ、本当に高齢なようで病院通いをされてて、まだ一回も東京に来られてないです。どうも大分重い病気っていうか、めんどくさい病気、腎臓を患ってると言う話なんですけども。なかなか遠出が出来ないということです。ただ、昨年は声が元気でしたので、まだまだ頑張っていただけると私は思っています。

※司会 西岡力氏
ありがとうございました。
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4.24日比谷集会(20)パネルディスカッション 4

未帰還者家族によるパネルディスカッション 4

※司会 西岡力氏
最近報道がありましたけれども、めぐみさんはお母さんから買ってもらった小さな爪切りを大切にしていた。
そして拓也さんと哲也さん、弟さん二人の名前を書いていたと、いう報道がありました。 
蓮池さんたちがそれを見ていて教えてくれたということですが。
早紀江さん、めぐみさんがいまどんな家族のことを思い出しているか?
どういう楽しい思い出を思い出しているか?
何かありますか?

横田早紀江さん(横田めぐみさんの母)


私たちはよく旅行をしました。いろんな所に弟たちも連れて5人の家族の旅行を良くいたしましたので。いろんな所で、海に行ったり貝殻を拾ったり。そして岩をのけると小さな蟹が出てきた、そらあそこに何がいる、とキャアキャア言いながら、それを採ったりして騒いでいた時とか。

そしてもっとめぐみの小さい時は、お友達が皆下に小さい弟とか妹とかがいたんですね。4歳ちょっとになるまで下に弟たちがいなかったもんで。「みーちゃん」て自分のことを言ってたんですけど。「みーちゃんの所にはどうして赤ちゃんがいないの?」っていつも言われて。

そして幼稚園に通っている時にいつもバスで通ってまして。その通園バスが丁度鹿島神社って言う所の前で止まって、そこで降りるんですけどお。帰ってくるとそのままぱ~っと走っていって、神社の中に駆け上がって。そして神社の前に行って小さな手を合わせて「神様、みーちゃんの所にも赤ちゃんを下さい。神様、みーちゃんの所にも赤ちゃんを下さい」(笑い声)

てもう必ず言ってたんですね。近所のお母さんたちと一緒に噴出して笑ってたんですけども。余りにもお祈りしすぎて、後に産まれてきたのが二人も(笑い声)赤ちゃんが産まれてきまして。思いがけなく。

今度はそのことを日本銀行の(社宅の)大きな庭を大きな声で「みーちゃんのところは、赤ちゃんが二人も来たんだよ~!」って物凄い大きな声で喜んで、はしゃぎまくって歩いてたよ、ということを良く聞きまして。

とても元気な明るい子供でしたので、爪切りと買っていうのもはっきりと覚えていないんですけども。めぐみの誕生日に必ずそういう小さなものを。キティちゃんのところで買ったりとかしながら。小さい袋とかを必ずあげてたので、その中のひとつだと思いますが。

いろんなああいうさびしい所でどんなふうに耐えてきたのかなぁって。向こうが出してくるようなうつ病で入院したとか、本当に私だったらとっくにどうかなっていたと思うほど、苦しかっただろうな、寂しかっただろうなと思いますので。そういった小さなものを見ながらどんなにか泣いたんじゃないか?と思います。(拍手)

※司会 西岡力氏
お祈りして産まれたという双子の弟さんが来てらっしゃいますけども。
拓也さんか哲也さんか、どんなお姉さんだったか一言どうですか?

横田哲也さん(横田めぐみさん弟)

(拍手)
弟の哲也でございます。どこにでもある風景でありますけども、新潟にいるまえ広島にいたわけでありますが。非常に明るく楽しく、一緒に通学、手をつないで学校に行った思い出もありますし。

当時新潟へ転勤・引越しをしたときにですね。本にも書いてありますけども、当時私と兄の拓也が非常に仲が悪かったわけでありますけども。(笑い声)私のほうがどちらかといえば非常に劣勢だったわけですが、(兄とケンカをすると)非常に私の味方をしてくれたのが姉だった。(笑い声)

いうことで明るく楽しく、しかも非常に優しい姉だったということでこの両親だけでなくて双子の我々も思っていてくれるだろうな、と思っておりますが。一刻も早くこの家族5人で、この日本の平和な素晴らしい風景を味わいたいと思っています。(拍手)
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4.24日比谷集会(21)パネルディスカッション5

未帰還者ご家族によるパネルディスカッション 5

寺越昭男さん(寺越昭二さん長男・寺越武志さん従兄弟)のお話
北野政男さん(寺越昭二さん次男・寺越武志さん従兄弟)のお話


※司会 西岡力氏
先ほど古川さんのご家族が話をされた時にですね。
日本の政府はあるいは調査機関は拉致は70年代の後半からあったんだと。
だから70年代初めの古川さんのケースはちょっと違うんじゃないか?とお話がありましたけれども。
実は家族会に入ってらっしゃいまして、特定失踪者調査会の対象ではなくて。
今家族会として一緒に活動していらっしゃる、拉致被害者の。
拉致事件が1963年に起きてるんです。
1963年に、石川県の海の磯のすぐ、100メートルくらいの所で操業していて3人の漁師がいなくなった、その寺越昭二さんの3人の息子さんが家族会に入って、ずっと今活動されています。
お父さんの思い出、何かあったらお話くださいませんか?

寺越昭雄さん(寺越昭二さん長男・寺越武志さん従兄弟)


(拍手 )こんにちは。
私たち兄弟3人にとって父の思い出というのは、まぁ42年経ったせいもあるし、本当に断片的な思い出しかないんですけども。
父は漁師ということで気が荒いと言う一面と、よく言えば外面が良いって言うんですかね?
で、まぁ特に女の人には良かったみたいで。(笑い声)
母も相当泣かされていたようです。

私にとっての記憶って言うのは。遠洋漁業で東北へ行ったりそれから九州のほうへ行ったりして、一年の内に何ヶ月か出稼ぎの漁をしていたんで。若い頃、まぁ、私らの小さいころですね。その漁の帰りに土産と言うことでみかん箱一杯にするめを持って来てくれたり。それからラジオ、当時真空管のラジオだったですけど、ラジオを買って来てくれたり。そういうまぁやさしい面もありましたし。

ある一面、怒ったら丸いちゃぶ台ひっくり返す、そういうような一面もあったりして。私は鮮明に今でもよく覚えてるんですけど、一握りの丸い丸太ン棒持って追っかけられた。何を悪いことしたんか知らんけど追っかけられた、そういう思い出もあります。最後に事件のちょっと前だったと思うんですけども、親父と二人で銭湯へ行ったというのが私の最後の記憶になりました。

母は横浜出身なんですけども。戦後多分、私が25年生まれですから23年か24年頃だと思うんですけども。父とどこで知り合ったんか知らんけれども・・・まぁ、何というか、あの、え~、夜逃げじゃなかった、駆け落ちですか。

駆け落ちみたいにして石川県の方へ来て、父と生活するようになって。苦労して、父も心臓病を患って出稼ぎの漁に出なくなって、叔父・外雄さんとふたりで漁をするという事になったんですけどね。父も真面目になってくれたって喜んだ矢先の事故だったんですね。

それから母は私ら3人の小さい子供を育てるのに一生懸命苦労して。2002年、丁度小泉訪朝の年にパーキンソン病を患って亡くなったんです。私たちは父と母のためにもやっぱりこの問題、拉致問題を本当に解決したいと思っています。どうもありがとうございます。(拍手)

※司会 西岡力氏
実はですね。
先ほど安倍晋三さんや中山参与の方からもお話がありましたけれども。5人が帰ってきた時に日本政府は日本政府の意思で日本に残しましたよね? 本人たちは表向きは北に帰りたいと言ってたんでよね?あるいはジェンキンスさんも小泉総理に会ったときには、日本に行きたくないと言ってましたよね?

北朝鮮の影響下にあるときは言論の自由が無いんですよ。本音はしゃべれないと言うことを、私たちは目の前で見て経験しました。

今、日本政府が寺越さん事件を認定しない大きな理由は、実は武志さんが北朝鮮にいて、「自分たちは拉致じゃない」と言ってるんですね? 「拉致じゃない」と言ってる。しかしそれは蓮池さんたちが北にいた時に、日本に行きたくないと言ってた事や、ジェンキンスさんたちが日本に行きたくないと言ってた事と、どこが違うのか?と言うことなんです。

実は安明進さんの名前が何回か出てきますが、安明進さんは犯人から直接寺越さん事件の事を聞いてるんですね。金正日政治軍事大学で航海講座というのがあって、工作船で日本に侵入するときにどうするか?という講座があるんです。その先生、オと言う人が「実は1963年、ノトに進入した時になぁ」と言う話をしてくれたそうなんです。

3人その船に乗ってたんですけど、一番年上の人が子供をかばったと。
それでうるさいのでそのかばった大人を射殺して、あと二人を拉致して来たと聞いたんだと言ってるんです。
ところが北朝鮮はこの3人は遭難してたんだと。
助けてやったらば、日本より北朝鮮が良い国だったから帰らなかったんだと。(笑い声)
そして武志さんも今は「そうだ」と言ってるんです。
これを日本政府は北朝鮮の中で家族もいるのに危険を冒して、拉致されたと言わない限り認定しないのか?と。

国家として、さっき安倍さんや政治家の方が言ってましたけど、日本国としての決断はどこにあるのか?
言うことだと思うんですよね?
とくに北朝鮮は、昭二さんは射殺されたんじゃなくて、上陸て平和に楽しく暮らしていたのに、病気で死んだと言ってるんですよね。
で、最近墓が出てきたんですけども、その生年月日がおかしかったんですよね?
その事をちょっと北野さん、お話いただけませんか?

北野政男さん(寺越昭二さん次男・寺越武志さん従兄弟)

次男の北野政男でございます。
寺越事件の真相と言うのは、事件のその日以前と以後の記憶と言う所で考えれば、ちょっと分かりやすいと思います。
もし事件の以前に、武志が小さい時に、親父の生年月日を覚えてるはずがないんですね?
事件の以前に覚えていることは(武志さんの母親の)友枝さんが覚えているとことです。
大人でしたから、寺越友枝は。
事件の以後に向こうに渡った武志が日本のことをひとつも覚えていない、ということです。

安明進さんの言うように海で射殺されて捨てられた時には、武志の記憶は朝鮮へ行って一つも持っていないということです。
親父は朝鮮に渡っていませんから。
ですから墓石に刻んであった期日、生年月日というのは、武志から出て来た物でなくてこれは友枝さんが北朝鮮へ行って、「こう、しかじかこういう事ですから墓石を作りましょう」と言って、出てきた墓石だ。
そしてそこに刻まれた生年月日は、友枝さんがうろ覚えに覚えていた生年月日を書いたものだから全然違っていたと一日違っていたと、そう思います。

※司会 西岡力氏
本当は3月31日生まれなのに、3月30日と書いてあったんですよね?

(寺越昭男さんの声)そうです。

墓石にですね、生年月日が刻んであった。
実は誕生日の日に死んだという事になってますから、死亡日も生年月日が同じだという事になってますが、3月30日となってるんです。しかし戸籍を調べると3月31日なんです。昭二さんが北朝鮮に上陸していて、平和に楽しく暮らしていたんならば、自分の生年月日を間違えて言うはずはないんです。

今、つまり安明進さんの証言などが出てきて、寺越さんたちがお父さんの遺骨を返して欲しい。お母さんと一緒の墓に入れたいと。昭二さんは北朝鮮で結婚していませんから、家族いないんです。日本にしか家族がいないんです。

その遺骨を返すのは当たり前のことですよね?しかし遺骨は返ってこなくて、砂だけが返ってきたんです。
そして出てきた墓の写真に生年月日が一日間違っていたと。

しかし北朝鮮の言うことは、10人のまだ帰ってこられないこの家族会の人たちのこともデタラメですけども。この寺越さんの事も、自分たちが射殺しておいて、「助けてやった、感謝しなさい」と言ってるんです。それについてどちらが正しいと判断するのか?と言うことを日本政府は求められていることだと思うんです。

寺越さんたちが何回も日本政府に会って仰ってるのは、このまま拉致認定されないまま、国交正常化してしまったら、私たちは北朝鮮に感謝しなくちゃいけない。お父さんを救助してもらったと感謝しなくちゃいけない。お父さんを射殺されていて、親戚を拉致されているのに、感謝しなくちゃいけないことは絶対に認められない。そう思いませんか?皆さん。(拍手 「そうだ」の声)

真実を明らかにする決意さえあれば日本政府にできることはたくさんあると。
そういうふうに思っております。

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4.24日比谷集会(22)パネルディスカッション6

『未帰還者家族によるパネルディスカッション 6』

「斉藤文代さん(松木薫さん長姉)のお話」
「飯塚繁雄さん(田口八重子さん長兄)のお話」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※司会 西岡力氏
北朝鮮は今、寺越さん以外の日本政府が認定してる被害者については、死んだと。
あるいは北朝鮮に入っていない、と言ってきたわけですけども。
おかしなことがたくさんあったわけですね。
横田さんについてのおかしなことはもうすでに皆さん知られていますけども。
実は横田さんの事だけじゃないんです。
遺骨が来たのは横田さんだけではなくて、松木薫さんの遺骨は2度も来たんです。(小さな笑い声 )
2002年の9月に遺骨が最初に来た時は喪服の準備もされたんですよね?
今それに付いてちょっとご説明いただけませんか?

斉藤文代さん(松木薫さんの長姉)



私のほうに政府の方からこうやって骨を持って帰りましたということを聞いたときには、「それは薫ではありません」と「受け取るわけには行きません」と言いましたけれども。
(東京医科歯科大学の)橋本先生が「ひとつだけ絶対にこれを証明できるものを持って帰ってきたから、なんとかそれを証明して見せますから、1ヶ月待ってください」と言うことで。

それが本当に薫のものであれば、私は本当に覚悟して「薫、お帰り」と言って、父の墓に入れてあげようとまで思ってたんですけども。
まぁ全然違う人の骨でしたので、もう2度目来た時には
「また同じやり方をしたのか?だまされないぞ」
と言う気持ちで、そんなことは全然びくともしませんでした。
最初はやっぱり本当にいろんな面で悩みました。

※司会 西岡力氏
それから交通事故の現場で作られた報告書って言うのも来てるんですよね?
(斉藤さんの声 「はい」)
それは今度は飯塚さんの方に。
松木さんの方も来てますけどふたつ来てるんですよね?
あの飯塚さん、それ見られましたけど、どんなものだったんですか?

飯塚繁雄さん(田口八重子さんの長兄)


普通、交通事故報告というのは、いつどこでどういう状態で、誰が加害者で誰が被害者か、誰が死んだ。
その人の名前がなければならないのに、肝心の誰が亡くなったという名前がないんですよね。
それで場所もですね。
いろいろ後で聞くと、こんな所で交通事故が起こる所ではない、というような。
原っぱのど真ん中。(笑い声)
そういうところで交通事故で亡くなったという報告書。
これは全く、じゃぁ、誰の報告書か分からないですよ。
こんなもの信用できるわけないですよね。

※司会 西岡力氏
だから交通事故があったかどうかも
写真も何もついてないんですよ。
紙だけなんです。
その交通事故があったかどうかも本当に、そこ被害者の名前、書いてないんです。
それで人が死んだと言うことを信じろと言う。
こんな馬鹿な話ないじゃないですか?

北朝鮮はこの2年間かけて、10人が8人死んで2人は実入国だと説明したかった、証明したかったんです。
しかし証明はできなかったんです。
ゼロなんです。
さっきも斉藤さんおっしゃいましたけど、家族の人たちホントに証拠がくれば、きちんと弔ってあげたいと、無理を言ってるわけじゃないんですよね。
しかし誰一人について、死亡の証拠が出てきていないんです。
10人についてゼロなんです。
ですからこれは生きてるということです。(拍手)

つまり先ほどの曽我さんのメッセージの通り、この瞬間も、ここの写真に出ている今いろんな思い出を語った私たちの家族が、同胞が、
「日本にいつ帰れるんだろうか?父さん母さん、兄弟姉妹に会いたい」
と指折り数えているんですよ。
くじけそうになると、きっと日本で楽しく暮らしていた時のことを思い出して、この次日本に帰って楽しく暮らすことが出来ると信じて、一日一日一生懸命生きてると。
曽我さんが自分がそうだったからそうだったと今言ってるんです。
この人たちのことを絶対に忘れてはならない、と思います。(拍手)

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4.24日比谷集会(23)パネルディスカッション 7

『未帰還者家族によるパネルディスカッション 7』

「横田拓也さん(横田めぐみさん弟)のお話」
「寺越昭男さん(寺越昭二さん長男・寺越武志さん従兄弟)のお話」
「横田早紀江さん(横田めぐみさん母)のお話」
「横田滋さん(横田めぐみさん父)のお話」

 
※司会 西岡力氏
時間も押してますので一家族一人づつ、家族の人たちに今声をかけてあげるとすればしたら何を言いたいのか?
と言うことを言っていただきたいと思いますが。
ちょっと先ほど楽屋で打ち合わせありまして、横田拓也さんから一言皆さんに訴えたいことがあると仰ったので、そのことをしてもらってから一家族一言ずつお願いします。

横田拓也さん(横田めぐみさん弟)

誠に勝手を申し上げて申し訳ございません。実はですね、私どもの所に複数のルートからですね。
同じような情報がありまして。私ども家族としてはとても心配、そして懸念をしておりますので。
皆様にお話しを申し上げますと共に、そういう不穏な動きをどうか私たち国民の意思として力を持って阻止していただけますようにと思いまして、勝手ながらお時間いただいた次第でございます。

実は前からこの拉致問題のシンボル的な横田家の切り崩しのために、いろんな画策・工作があったわけであります。
代表的な最近の事例で言うと偽遺骨の問題があったわけであります。
ここに来まして、またと言うことなんですが。
めぐみの子供の、キム・へギョンさんを訪日をさせてはどうか?と言うことがですね。
どうも首相官邸の周辺でですね。
計画・画策されていると言ったような情報を、複数のルートから私共は聞いています。

まぁ父は、親に対してこういう言い方は失礼だと思うんですが。
情の世界で大変優しいといいますか、悪い言葉使うともろい人間でありますから。(笑い声)
孫に会いたいのは父ならずとも親としては当然なんです。
ここをまたですね。
偽遺骨の次に狙って来ている話であります。

私たちは支援室、当時の支援室・小熊室長を経由して日本政府に対して。
へギョンちゃんを、家族分断をする形で訪日要請をして欲しくないと、これまでも訴えております。(拍手 )
私たちが求めているのはめぐみをはじめとする家族帯同・全員の帰国をお願いしてるわけですが。(大きな拍手 「そうだ!」などの声)
優しい父には申し訳ありませんけども、本当にですね、ここは日本政府も安易な妥協をせずにですね。
全員の帰国を強く求めていくような強い姿勢でいっていただきたいと思います。(大きな拍手)
皆さんお願いいたします。(大きな拍手)

※司会 西岡力氏
それでは今度は寺越さんの方からですね。
まぁ、もう天国にいらっしゃてると思いますが、お父さんに一言ということで何かお願いします。
それからずっとご家族ひとりずつ、今北朝鮮で待ってるご家族に一言ずつ訴えてください。

☆寺越昭雄さん(寺越昭二さんの長男・寺越武志さんの従兄弟)

あの、今私たちは本当に特別な感じになってしまったなぁと思ってるんですけども。
他の皆さんのご家族は被害者を取り戻す、そして家族を取り戻す。
それで解決すると思うんですけども。
私たちにとって、解決とは一体なんなのだろうか?
父親は死んでいない。
母親は病死。
そして従兄弟の武志は、42年間経って子供・孫が出来て、北朝鮮に根を張ってもうどうすることも出来ない。
被害者を、私らは家族を帰せと声を大にして言えないんですね。

そんな中で私たちにとっての解決ちゅうのはいったいなんなのか?と。
で、最終的には私たち考えてるんですけど。
武志の安全の保証とか、自由の保障とか、生活の保証とか。
そして外雄叔父さんの家族の保障。
そして私たちにとってはやっぱり金正日の謝罪が一番の解決じゃないか?と思ってるんです。(大きな拍手)
そのことを私は父親、そして母親に報告するまでは、やはり頑張って行きたいと思っています。
よろしくお願いします。(拍手)

横田早紀江さん(横田めぐみさん母)


めぐみの性格は本当に明るくて元気で声が大きくて。
いつも大きすぎるほどの声で家の中で歌を歌っているような明るい子でしたので。
考えられないようなことが起きて、向こうで気が狂いそうな、始めのうちは大変なことだったと思いますけども。
その中で歯を食いしばりながら、結婚してそしてあんなに元気なへギョンちゃんというような考えられないような成長した女の子が出てきて、もうびっくりいたしましたけども。

あのような女の子に恵まれて、そしてこの間の写真のように成長したあのような姿を見ますと、何とか一生懸命に日本に帰れるまで頑張ろう、一生懸命に生きようって。
拓也と哲也がどんなに大きくなっているだろうなって。
お母さんとお父さんずい分歳をとっただろうな、といろんなことを思いながら。
それでも明るく元気で周囲と楽しく、何とか楽しく過ごしていこうと思って過ごしているだろうと、私は信じているんです。
絶対にそんなようなことを信じ続けて、取り返してあげたいと思ってますので、どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)

横田滋さん(横田めぐみさんの父)

もし一言声が届くんであれば、「もう少しでへギョンさん連れて日本で会えるから、健康に気をつけて」と声をかけたいです。(拍手)

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4.24日比谷集会(24)パネルディスカッション8

未帰還者家族によるパネルディスカッション 8


飯塚繁雄さん(田口八重子さんの長兄)のお話

私の妹八重子も、そこに写真がありますけども。
(隣の耕一郎さんを見て)こいつが1歳の時に持ってかれちゃったもんですから。
相当慌てたんですが。
うちはきょうだいが7人おりまして、私が一番上。
連れて行かれた八重子が一番下で、年齢差が17もあるんですよね。

従って育ち盛りに何か話したとか面倒見たとかっていう記憶はあまりないんです。
むしろ親父の方が一番末っ子なんで可愛がってたと。
向こうへ行って見る夢は、親父の夢だっていう、金賢姫の本に書いてありました。
突然がばって夜中に起きて、親父の幻想が出たとかね、そういう話も聞きますし。

むこうで結婚の話も出てますけども彼女はどっちかと言うと気が強いほうで。
その気の強さが良し悪しあったんですけども、
結婚して子供が出来た時もですね。
女手ひとつで育てる羽目になったんですが、「絶対私が育てる」と。
こういうふうに頑張ってまして、私もそれに対しては少し様子を見ようと言う事でいたんですが、間も無く連れて行かれちゃった。

先ほどの結婚の話もあったんですけども、例えば、原さんには悪いんですけども、原さんと結婚したというのは全く考えられない事実ですね。
北朝鮮はやたら結婚させるのが何か好きらしくて、(笑い声)誰かといつもくっつけるんですね。
見合いをしろという命令が下って。
じゃあお願いだから見合いをする前に下見をさせてくれと。
要するにどんな人かね、扉の影で一回見たいと。

で、ある人が入って来て、やっぱり例えば原さんの年齢の男の人らしいんですけど、一見して嫌だって逃げ出しちゃった。
いうふうな話も聞いてますし。
それよりも何よりも、日本に残した小さい子がいると。
早く帰って会いたい、面倒見たい。
本当に子供だから困ってるんじゃないか?
それがもう頭が一杯で、とにかく自分がまた違う人と結婚してどうのこうのというのはまず考えられないし。

そういう意味では昼間はすごく気を強く保って、北の言うことを聞いてなるべく優等生的な態度を見せる。
これはもう例えば、帰ってこられた富貴恵さんなんかも皆話をしてですね。
とにかく田舎の収容所に入れられないように昼間は頑張ろうと、いう誓いもしてきたようですけど。
そういうなかで夜になると故郷を思い出して、今子供は何歳になったかしら?と。
もう何年経ったかな?と。
そういう話がつい出るようなんですけどね。

普通指折り数えてと言うのはせいぜい10本の指の中ですけど、それこそ30本も指がないと足りないわけですよ、もう。
それまでですね、毎日毎日思いを積み重ねてきていると言うことは、物凄い、もちろんストレスもありますし、可哀想な状態が続いてると。
で、私たちも早く親子で会わせて上げたいと、そういう言う一心で頑張っておりますけど。

(西岡さん 「それで八重子さんに一言、今言うとすれば」の声)
すみません、長くなって。
まぁ、八重子に最初に会った時は「ごめんなさい」っていうふうに思ってるんです。
なぜかと言うと「こんなに長い間、あんちゃんたちは助けてくれなかった」と思ってるかもしれないし。
日本もそれだけの間、私を助けてに来てくれなかったということも代弁して、私謝りたい、と言うふうに思っています。(拍手)

※司会 西岡力氏
続いて市川健一さんか龍子さんかどちらか、お願いします。
修一さんに一言言うとしたら何を言いたいですか?

市川龍子さん(市川修一さん義姉)のお話

3月14日に90を迎えた父と、同じく90になります母がおります。
私はこの両親に、両親の胸に(修一さんを)抱かせたやりたい一心で闘っておりますが、母の心境を言います。

彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
老いてゆく我が身に鞭を打ちながら 愛しい吾子を抱く夢見て
風に舞う花の吹雪に君思う 我が家の桜も君を待ち続け
弟よ君の姿を追い求め 声を嗄らして今日もまた

これからも、とにかく取り戻すまでは声を嗄らして全国を駆け巡りたいと思います。(拍手)
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4.24日比谷集会(25)パネルディスカッション9

『未帰還者ご家族によるパネルディスカッション 9』

「増元照明さん(増元るみ子さん弟)のお話」
「斉藤文代さん(松木薫さん長姉)のお話」
「有本明弘さん(有本恵子さん父)のお話」
「有本嘉代子さん(有本恵子さん母)のお話」

 
増元照明さん(増元るみ子さん弟)

私も飯塚さんと同じで、まず姉に会ったら謝らなければならない。
30年近くも・・・(涙を流しながら語る)
取り戻していないと言うことが非常に残念です。
もう30年という年月を取り戻すことは出来ない。
でも姉が30年前私にくれた時計、今非常に私大事にしておりまして。
この時計の動きを止めることは出来ないし。
今でも動いていると言うことを彼女に教えてあげたい。
そしてこれからもずっとその時計は・・・持ち続けていくということ・・・(涙で言葉にならず、声を詰まらせる)
父が死んで、あんなに可愛がっていた姉ですから、必ず北朝鮮で姉の身を・・・(再び声が詰まる 「頑張って!増元さん!」の声)・・・守ってると思います。
以上です。

※司会 西岡力氏
松木さんに一言何か。
斉藤文代さん(松木薫さん長姉)

薫に元気でいて頂戴ということと。
あの、まぁ、母の言葉として
「お母さんも頑張るから(涙で声を詰まらせる)帰ってらっしゃい」
と言うことを・・・(拍手)

※司会 西岡力氏
では有本さん、お父さん、恵子さんに一言。

有本明弘さん(有本恵子さん父)

え~、ちょっとその話はもう、子供のことは家内の話で十分やと思う。
なぁ、私はここに先生方おられた。
その時に言いたかったことあるのよ。(大きな拍手)
思うとおり言うて来た。

(西岡氏の声 「短めにおねがいします」)
えっ?
(西岡氏の声少し笑いながら 「短めにお願いします」)
言いたい事言えないじゃない。(笑い声 大きな拍手)
と言うわけで簡単にお話します。

このタイトルですね。
これは決断を求めると言うタイトルになってるんです、今日はね。
これのタイトルを決めるときに私は、決断じゃなくて糾弾をする国民集会。(拍手 「そうだ!」などの声)
これの方がいいんじゃないか?と、これが私の意見。(拍手 「そうだ!」などの声)

なぜそういうふうに言わなければならないか?
この日本の国民の70%・80%近い人が制裁せよと言ってる。
おそらくここに来られてる人は、全部の人が制裁せよと。(拍手 「そうだ!」の声)
そういう国民の皆様であって、そうでない人は朝鮮総連のまぁ人しか、そうとしか考えられない。

そのなかで国民の大きな声に応えられるのは、ここにおられた政治家の先生方なんです。
これが政治のとるべき道なんです。
どうして応えるのか?
与党も野党も先生方おられた。
私は問いかけたい。(拍手)
それでこれはこうなったら、国民がここまで言ったと言うことは、日本の国はあの凶悪な国に対して制裁せよと言ってるんですよ、国民が。(「そうだ!」の声 拍手)

これに政治が応えられない。
こういう政党は全部お払い箱にするべきやと。(大きな拍手)
これに応えられる先生方が、そういう先生方がひとつの旗の下に集まって、北朝鮮に制裁をかけると。
となればこれは有事、有事じゃなくて非常事態も想定した内閣でなければならないんです。(拍手)
そうなった場合、枠の与党・野党のなかでそういった状態に耐えられる先生おるのか?
もう半分以上はパーや、そんなもん。(笑い声 拍手)

それで簡単に申し上げますが。(笑い声)
議連の会長さん。
行動する拉致議連の会長、これがどういうことを言ってるか?
「金正日の政権の崩壊も視野に入れる」と、この文字が入ってるんですよ?(拍手)
だからこれに志のある人は全部これに結集せい!
小泉さんを放り出して、そういう人が政権を担っていく。(拍手)
これしか方法がないんです。(「その通り!」「小泉は首だ!」の声 笑い声)

※司会 西岡力氏
ありがとうございました。
時間になりました。(拍手)

有本嘉代子さん(有本恵子さん母)

やっぱり私は母親として、やはり皆さんの5人の家族が帰られたあの様子が頭から離れないんです。
あの時横田(早紀江)さんがしっかり私の肩を握って、ここの肩をサインしてくださったんです。(少し声を詰まらせる)
あの後ろに恵子もめぐみちゃんも乗ってたら良いなぁと、私は思いました。(拍手)
きっとめぐみちゃんも恵子も一緒にあのタラップから降りてくる。
あれを本当に、もう私はそういうことを願いつつ、これからも運動を続けてまいりたいと思います。(拍手)

※司会 西岡力氏
ありがとうございました。
最後に有本のお父さんの言葉ですが、僕はお父さんの言葉に感動したことがあります。

それは2年前の小泉総理が訪朝された後、一度小泉総理が家族に会うといって会ったことがあるんですね。
その時に今日もそうですけど、「うちの恵子が」と言わないんですね。
そのとき有本のお父さんが3回総理に迫ったのは、「認定されてない人がいるでしょ!」と。
「それをどうするんですか?」と。(拍手)
自分の娘が死んだと言われた直後ですよ?
処刑されたんじゃないか?と当時は思っていたわけです。

その時に総理に会った時に仰ったのは、「自分の娘は」じゃなくて、「まだたくさんいるんですよ」と。
「どうするつもりなのか?」と3回質問して、小さな声ですけど総理は「全てのことを踏まえてやります」と。
そうだったですよね?(拍手 「偉いね」の声)
小泉総理に強く強く制裁断行・決断を求めて行きたいと思います。

シンポジウムを終わります。(拍手)
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4.24日比谷集会(26)大会決議

※司会 櫻井よしこ氏
どうもありがとうございました。
聞いていて本当に、表現のしようのない思いで心が一杯になりました。
私たちは毎年この会を開いてきましたけれども、この壇上に立って訴えるこの家族の皆さん方の言葉を、一言も忘れたくはないと思います。
そしてさっき荒木さんが言いましたように、来年の12月末までには、何としてでもこの10件15人だけではなく、特定失踪者も含めて日本国の責任として、日本国民としてこの人たちを全員救出するということを改めて誓いたいと思います。(拍手)

さて受付の統計が入って来ました。
今日この会場に足を運んでくださった方は6000名を突破いたしました。(拍手 「お~っ」と言う声)
ありがとうございました。(拍手)
6000名の後ろにはまだだ多くの人たちの心があります。
この大会はその人たちの心を凝縮して表現するものだと私は考えております。(拍手)
今日のこの大会での私たちの思いを凝縮した大会声明を、ここで朗読していただきたいと思います。
西村眞悟さん、お願いいたします。(大きな拍手)

『西村眞悟 拉致議連幹事長・民主党衆議院議員による大会声明朗読』

6000名を超える方がこの日比谷に来られた・・・大会の声明案を私は今、提案に変えて読み上げます。
そしてこれが皆様のご承認を得られれば、4月26日午前11時30分。
首相官邸において総理に手渡します。(拍手)
どうぞよろしくお願いします。

尚、本当に良い時期に共に集まることが出来ました。
北朝鮮に同調する流れがわが国に、国政の中に外交の中にず~っと一貫してあります。
3年前の9月17日には8名死亡の線で北朝鮮の言う通りに納めざるを得ない、と言う方法にあり。
今またこれで拉致問題は終わったのだと言う方向で一見無関心を装いながら、日本外交は常任理事国入りを目指していると言うことであります。
しかし拉致被害者、自国民を救い出すことが出来ない国家が、常任委理事国入りする資格はないのであります。(拍手)

わが国の名誉がかかった拉致問題。
本日の国民大集会の決議案を朗読させていただきます。


国民大集会決議
 
 いまこの瞬間も多くの拉致被害者たちが北朝鮮で「いつ帰れるだろうか」と指折り数えて待っている。
 彼らを救出するため、私たちは本日「小泉首相の決断を求める国民大集会」を開催した。
 日本は昨年12月24日、死亡診断書や遺骨などがすべて偽物であったことを受けて、「迅速かつ誠意ある対応をしない場合、厳しい対応をとらざるを得ない」と金正日政権に制裁を予告した。
 本日で4か月が過ぎた。誰が見ても「迅速かつ誠意ある対応」は、なされていない。それなのに、小泉首相は制裁発動を決断しない。
 制裁発動は、拉致被害者全員を取り戻すという国家意思を内外に示すことだ。
それを躊躇していると、拉致問題を重視していないという間違ったメッセージが発せられてしまう。
 すでに国会は制裁法を成立させており、衆参両院の拉致特委は制裁発動を決議し、拉致議連、自民、民主、公明3党の拉致対策本部も制裁発動を訴えている。
 国民の大多数も制裁発動に賛成しており、その意思は500万を超える署名となって政府に提出されている。
 未帰還者家族も、愛する肉親が北朝鮮で囚われている苦しい立場でありながら座り込みも辞さない覚悟で制裁発動を求めている。
 私たちは小泉首相に、北朝鮮に対する、制裁発動を強く求める。
 制裁法による送金・貿易停止、船舶入港禁止と合わせて、北朝鮮最高人民会議(国会)代議員を勤める総連幹部への再入国許可取り消しを行っていただきたい。
拉致被害者追加認定も実現して欲しい。
 金正日政権に要求する。いますぐ、日本人拉致被害者を全員返せ。韓国人拉致被害者もすべて返せ。核武装と戦争準備を止めて、北朝鮮民衆の生活向上に力を尽くせ。
 私たちは全ての拉致被害者を取り戻すまで、たたかい続けていくことを誓う。

平成17年4月24日
「小泉首相の決断を求める国民大集会」 参加者一同

以上でございます。
何卒ご承認をお願いいたします。(長く大きな拍手)
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4.24日比谷集会(27)閉会の挨拶

佐藤勝巳 救う会会長 閉会の挨拶



佐藤でございます。(拍手)
今回で7回目の集会となりました。
この種の集会は今年が最後、今年が最後と思ってやってまいりましたが、なかなか止めることが出来ないでおります。
ただいま現在、皆様方がお聞き及びの通り何が問題か?というと、経済制裁を発動するのは閣議決定が必要です。
閣議の責任者は小泉総理大臣です。
この人が邪魔をいたしております。

政府が制裁を発動しないと言うのは正確な表現ではありません。
小泉純一郎が制裁を発動しないんです。(拍手)
制裁を発動しなくて拉致の問題が解決するならば、とっくの昔に解決しております。(拍手)
ではどうやって制裁を発動して拉致を解決するのか?
それは、国会議員の先生方が衆参両院で決議を取ってもらうこと。
大切なことです。

しかし、現状を見ておりますと、仮に決議が通っても小泉さんは発動しないだろうと言うのが私の見通しです。
なぜか?
それは今の総理大臣の頭の中には、国会議員の先生方の来賓の挨拶の中にも触れられておりましたけれども、日朝(国交)正常化を図って歴史に名を残すというとんでもない間違った考えを持っているからです。(拍手)
多分、漆原先生が仰ったんだと思いますが、彼が政治家として歴史に名を残したいのならば、拉致を解決することです!(拍手)

そこで閉会の挨拶として、皆さん方にお願いを申し上げたいことは、小泉さん宛てに直接、手紙でFAXでメールで葉書で、拉致解決の為に制裁を発動しろということを、首相官邸に集中していただきたいということです。(拍手)
去年も申し上げましたけど、あの人は支持率が命の人ですから。(小さな笑い声)
支持率を下げることなんです。
その運動を今日お集まりの6000人の方が、そして全国で本日の集会を固唾を飲んで見ていらしゃる国民の皆さん方が、ひとりひとりが行動を起こしていただければ、私は絶対に拉致は解決すると確信をいたしております。(拍手)

本日は中国の問題があり、韓国の問題があり。
などなどで、皆さん方のお集まりが少ないのではないか?と私正直、内心危惧をいたしておりましたが。
私はそういう意味では大変日和見であったわけです。
実際6000の人たちがお集まりを頂いたことにとって、私をはじめとして、主催者の皆さんは家族会の皆さんは、改めて国民の支持の厚さに感謝をし確信を持ったと思っております。(拍手)
我々3団体は文字通り総力を上げて首相官邸並びに金正日に対し戦ってまいりますので、よろしくご声援をお願いたします。(拍手)


※司会 櫻井よしこ氏
会場の皆様方、長い間・・・(「官邸のFAX番号を教えてください」の声)
このお配りした紙の所に首相官邸のFAX番号が書いてございますのでご参照ください。

はがき/手紙:100-9868千代田区永田町231内閣総理大臣小泉純一郎殿
メール:官邸ホームページ「ご意見募集」から
FAX:官邸FAX番号03-3581-3883

さて会場の皆様、今日は本当に長い時間ありがとうございました。
家族の皆様がお話になっている間、私日比谷公園の外の第二会場の方に行ってまいりました。
多くの人が地面に座って、もしくは立って、そこでず~っとこの会場から向こうに順繰り順繰りに行く人の話を聞いて、同じように時間を過ごしてくださっておりました。

彼らにはモニターもございません。
会場の中で何が話し合われているかも、彼らは知りません。
けれども拉致問題を解決するために、その力となるためにここにやって来たんだという熱い思いひとつで、ず~っとそこにいてくださいました。
会場にいらしてくださった皆さん方、そして会場の外でずっと一緒に過ごしてくださった皆様方、6000名を超える熱い心を持った皆様に心より感謝いたします。
ありがとうございました。(拍手)

私たちは私たちの決意を持って、来年の12月末までに10件15人の皆様だけでなく、特定失踪者全員の皆様方、そしてお隣の韓国から拉致されたかわいそうな被害者の皆様にも救いの手を差し伸べることをここで改めて決意いたしましょう。(拍手)
どうぞお家にお帰りになりましたら、、お友達、周りの人々、会社の人々にお伝えいただきたいと思います。(「インターネットに書くぞ!」の声)
インターネット書いてください。
そしてこの輪を広げていきましょう。
私たちの心をひとつにして、拉致被害者の皆様と心をひとつにして、そして北朝鮮で救いを待っている人々に一日も早く私たちがたどり着けるよう、頑張っていきましょう。

本日は本当にありがとうございました。(拍手)
ありがとうございました。
そしてこの長い間、手話をしてくださった方が二人いらっしゃいます。
もう一人、(ステージ裏からもう一人出てくる)ありがとうございました(拍手)
本当にありがとうございました。(拍手)
皆さん心から御礼を申し上げます。(拍手)
本当にありがとうございました。(拍手)
どうぞ気をつけてお帰りくださいませ。(拍手)
ありがとうございました。(拍手 )
ありがとうございました。(拍手)

・・・集会終了・・・

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2005年4月23日 (土)

平島筆子さんの問題にrついて(三浦小太郎氏)

三浦小太郎さんの投稿文を転載許可を頂いて掲載します。

~平島さんの問題で  三浦小太郎~

平島筆子さんの件で、今の所もっともまとまった報道からの引用と、あと私見を書いておきます。

(平島さんは)2002年11月に脱北、中国潜伏中に実名で週刊誌に手記を公開。また、平島さんの脱北を援けた韓国側の男性が、ソウルの日本大使館に身代金を要求したなどとも伝えられ、外交問題に発展。結局日本政府が外交ルートを通じて、中国側に身柄の引渡しを求め、帰国が実現した。(中略)平島さんは帰国後、日本政府に北朝鮮の脱出者の受け入れ拡大を求め、実名でテレビに出演、衆議院議員会館で自分の悲惨な生活体験を語るなど、活発に活動していた。

しかし、公安関係者によると、平島さんには最近、北朝鮮からたびたび国際電話がかかってきたという。北朝鮮に残した自分の長男が昨年亡くなった事や、3人いる孫の一人が、『夢にも思わなかった』大学に通っている事を知らされたと記者会見でも説明している。
東京都葛飾区内でひとり暮らしていたが、支援者によれば、平島さんは中国の瀋陽で家族に会うからと、知り合いの平沢勝栄衆議院議員に航空券を買ってもらい、14日に帰国する予定で7日に瀋陽入りした。だが、11日後の18日、瀋陽ではなく北京に板。支援者は『日本の生活にも不慣れな家族が、どうやって北京に行き、北朝鮮大使館を探し当てたのか』と首をかしげる。平島さんに働きかけた『組織』があったのは間違いない。
脱北者支援を行っているNGO、北朝鮮難民救援基金の加藤博事務局長は、『子どもや孫が北朝鮮にいるという弱点を握られ、筋書きに従って会見で喋らされたのだろう』と推測する。支援者も『日本では生活保護を受けて暮らしていたが、孤独感からホームシックになっていたようだ。そこにつけこまれたのかもしれない。』と話す。
加藤氏は、『北朝鮮側は、平島さんから日本の脱北者仲間のことや、援助団体について聞き出し、潰しにかかるはずだ』とした上で、日本人拉致被害者についてこう危惧した『北朝鮮は、日本も平島さんを拉致したではないか、と反論の道具に利用するに違いない』」
(4月20日中日新聞『ニュースの追跡』から)

以下、私見を付け加えますが、母親として、孫に会いたいという想いは強いはず。そこを雨と鞭で攻められたことはほぼ明らかですね。正直、総連か北よりの関係者からの誘導があったことは事実でしょう。
中国に、不慣れな脱北者が一人で行くというのは、もう私の感覚から行けば罠にかかりに行くようなものです。瀋陽で誰に合ったかはともかく、その場で中国の黙認下で北の工作員か誰かに説得され、かつ強要されて北京の北朝鮮大使館に『誘導拉致』されたら、もう後はシナリオを読まされるだけですから・・・

ただ、私が個人として本当に反省しているのは、平島さんは日本では平沢勝栄議員が保護しており、それは確かに生活保護の確保や様々な保証面ではよかったのですけれども、同時に、市民団体とは少し距離が出来てしまっていたんですね。あえて言えば、こういう誘いを受けた時に、本心で相談できる支援者が周囲にあまりいなかった。孤独感と子供たちを救い出したいという思い、それが出来なければせめて顔を見たいという思いにさいなまれていた時に、中国で会えるかもしれないという誘いが来て、一か八か何とかなるという思いで行動してしまったのかもしれません。勿論、これは一つの解釈であって、証拠に基づくものではないのですが。

私たちのケアがたりなかったことは深く反省しております。同時に繰り返しますが、この問題で一番深刻なのは、在日の脱北者、日本人妻で、平島さんと親交のあった方々の情報は、細かい所まで北朝鮮に伝わるということですね。これを彼等は酷く心配しています。それでなくても家族が北に残るため口が重い彼らを、ますます追い詰めることになりかねません。
北朝鮮人権法の制定を求める立場としては、この事件がマイナスに響いていることは承知しています。しかし同時に、日本に帰国した日本人妻、脱北者に対して、お金だけではなくメンタルな部分のケア体制が不十分なことがやはりこのような事態を生んでいる面もあるのです。それを支援団体だけで行うのはもう限界に来ています。私も多く反省すべき点がありますが、同時に脱北者の受け入れ体制がどうしても必要なこともご理解いただければと思います。
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2005年4月22日 (金)

企業と人権擁護法案

企業と人権擁護法案  
企業の中には人権週間と称して、1-2週間、企業内において人権標語を募集したり、人権問題を職場で学習させる行事が行われる。私の会社もそうである。人権擁護法案を推進する「人権フォーラム21」なる団体の役員を見て欲しい。
http://www.jca.apc.org/jhrf21/About/aym2002.html
部落解放同盟の役員などが名前を並べる中、場違いな連中がいる、
磯村 巌  トヨタ自動車株式会社取締役副会長
杉村和俊  積水ハウス株式会社専務取締役
植場 恂  三菱自動車工業(株)上級執行役員
布江彌之助 西日本鉄道株式会社取締役会長
日本を代表する企業の役員である。何故であろうか。
もし、人権週間を実施している企業の社員で、人事関連の部門に親しい知人がいたら尋ねてみたらよい。必ず小声で解説してくれる。うちの会社は部落解放同盟の糾弾会にやられた。その結果としての人権週間であると。発端は、部落総攬などの書籍を購入したなどの人権問題である。それを見つけた部落解放同盟が、連日、連夜、企業のトップを監禁状態にして、学習会、講習会と称する糾弾会を実施するのである。大して使いもしない書籍を購入したが、事が人権問題であり、弱みを握られた企業トップは拒否できずに部落解放同盟の言いなりになるのである。中には耐えられずに、自ら命を落とす人もいる。人権擁護法案のブログをたどれば、そのようなHPに必ず出会う。部落解放同盟は主義主張のためにやるのではない。企業における学習会、講習会の教材、講師などで多額の資金を集めるのである。多くの企業がその餌食になった。その代表が上に名前を連ねているのである。
経験を積んだ大企業は、その対策を採ってきた。部落解放同盟も食い扶持を確保するために、今回の人権擁護法案を通過させ、全国に2万人のレーダを張り巡らし、「人権問題」が発生したら、そこに大挙して押しかけ数多くの糾弾会を実施するのである。従来は効率を図って大企業中心でやっていたが、件数が減ってきたので、背に腹は変えられないのである。世の中全体が、「人権問題」で殺伐とした雰囲気になるのである。
私達は、この様な社会を望みはしない。古賀誠などの推進派も最後の正念場なのであろう。敵がそうならば、私達も油断せず徹底してこの人権擁護法案を廃案にしなければならない。 (momoedake )
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2005年4月20日 (水)

砂川昌順さんからの呼びかけ

*****声を上げましょう!******

経済制裁の効果のみを云々する有識者がいます。経済制裁発動に否定的な人もいます。事を興せば波は立つものです。その波がこちらに寄せて来た時に、己の逃げ道だけを確保するために否定的な発言をする人がいます。時には逃げ道が必要な場合もあります。しかし、拉致問題は、逃げては解決しません。制裁を発動すべき時期に来ています。いえ、遅きに失しています。

"効果が小さいから経済制裁をしても意味がない、周辺国と北朝との取引が高まるだけ"との理由で制裁発動しなければ、主権国家としての日本の尊厳は消失し日本の未 来はありません。日本が国家としての尊厳を示し、拉致被害者の救出を目指すのであ れば、拉致問題の解決を現実として望むのであれば、経済制裁以外にも可能な制裁を即刻発動し、同時に北朝鮮へ乗り込むべきです。

特別機を用意し食料を詰め込み北朝鮮に乗り込み、機内で生活しながらでも、北朝鮮において徹底的な調査、究明に当たるべきです。それを実行すべく外交交渉ができてはじめて、国際社会で通用する国家としての姿勢が示せます。制裁と同時に北朝鮮へ乗り込む行為には、生命に関わるリスクを伴うでしょう。しかし、それでも北朝鮮に乗り込む日本の姿勢こそ、国際社会にも示すべきなのです。黙して、待っていては解決はしません。

日本政府の情けなさは、北朝鮮という異常な国を相手に、ただただ「圧力と対話」という紋切り型の言葉を並べ、どちらも実行に移さず、日本国民を欺いているところにあります。「直ちに、可能な制裁を発動し、北朝鮮へ乗り込め」と声を上げ、日本政府を、われわれ国民の手足として使い、さらに、許すべからざる人権問題として、国際世論へ訴えていくことが、問題解決への道です。声を上げネットワーク化を拡大していくことで、国民の声たる国内世論が高まり、国際世論が、国連をはじめとする国際機関や各国の人権擁護団体を動かし、国内世論と国際世論を高めて北朝鮮包囲網を作ることから解決への糸口が開かれるのです。

圧力も対話も徹底しない、国際世論も形成しようともしない、日本という国家に今求められているのは、凛とし、毅然たる、断固とした尊厳ある、国家としての姿勢を内 外に示すことです。国内的には、制裁の実施と北朝鮮に乗り込む姿勢について国民に 理解を求め制裁世論を形成し、国際的には人権世論の形成に全力を傾けるべきです。
国内外の世論を形成していくことで、外交姿勢を確立させていくことができます。その姿勢を打ち出せるかどうかは、国民ひとりひとり、わたしたちひとりひとりの声にかかっています。声を上げなければ解決への扉は開かれません。声を上げましょう!
*****************

皆で頑張りましょう。
砂川昌順
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2005年4月19日 (火)

平島さんに関する要望書

北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会の三浦小太郎さんの投稿文を許可を得て転載します。

昨日山田代表が提出した要請書  


昨日午前中、守る会山田代表が提出(ファックスの形で)した文章です。

2005年4月19日
内閣総理大臣 小泉純一郎様
外 務 大 臣 町村信孝様
                北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会
                         代表 山田文明

   平島筆子さん救出のための緊急要請

北朝鮮を脱出して2003年1月に日本に戻った平島筆子さんが、昨日、北京の北朝鮮大使館で記者会見し、北朝鮮に戻ると語りました。
しかし、これは平島さんの自発的な発言、自由な意思ではなく、中国で北朝鮮工作員によって北朝鮮大使館に拉致された上、北朝鮮当局の強制によって、また北朝鮮に残る平島さんの子供たちと平島さん自信の身の安全のために、北朝鮮当局の意向に沿って発言しているに過ぎません。
今回の事件は、中国で発生した北朝鮮当局による日本人拉致だと判断せざるを得ません。拉致を実行した北朝鮮当局の責任とともに、結果としてそのような犯罪の実行を許した中国政府の責任も問わねばなりません。
このままでは平島さんは今日にも北朝鮮に送られてしまいます。
平島筆子さんの身の安全を確保するため、当面次の処置をお願いいたします。
1 平島筆子さんの北朝鮮への送還を止めることに全力をあげてください。
日本政府は平島さんの北朝鮮への出国(北朝鮮送還)を止める措置をとるよう中国政府に断固とした決意で要請し、中国政府がこのまま平島さんを北朝鮮に行かせるなら、平島さんの拉致に中国政府が関与したことになることを強く申し入れてください。
2 日本政府が平島筆子さんの意思確認を行ってください。
日本政府は安全かつ自発的意思で発言できる環境の中で平島さんと面会し、本人の意思・希望と北朝鮮大使館に入った経緯の説明を受けることができるよう、中国政府に申し入れ、これが認められなければ日中関係の断絶も辞さない決意で中国政府に迫ってください。
現状では、平島さんは北朝鮮に残る子供たちとご自身の安全確保のためには、北朝鮮当局の意向に従って発言するほかない状況に置かれています。日本政府はそのことを踏まえたうえで、対応してください。
3 平島筆子さんの希望が日本に戻ることであれば、直ちに身柄を保護してください。
平島さんが冷静に自由意志で発言できる環境を確保し、本人の意思が日本に戻ることであることが確認できれば、その場で直ちに平島さんの身柄を保護してください。

家族を人質に脅迫することは北朝鮮当局の常套手段です。平島さんは北朝鮮で夫を奪われ、ご本人たちも山奥に追放された悲惨な経験があり、北朝鮮当局の恐ろしさを知り尽くしている人です。日本政府の断固とした対応で救出していただくようお願いいたします。
以上
~~~~~~~~~~~~~~~


ここからは三浦の私見ですが、何よりも、平島さんと、私たち救援団体や個人との間にコミュニケーションや信頼関係が薄かったことも原因の一つだったと思います。そこは個人として深く反省しています。


平島さんが北朝鮮に戻ることを表明した記者会見の模様は左記アドレスで

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2005年4月18日 (月)

家族の絆と、国との絆

家族の絆と、国との絆
         アンデスの声さん  2005年4月18日

今週後半から一時帰国予定だったので「よおし、24日の国民集会に参加できるぞ」と土日返上で業務をこなしてきたが野暮用が入って日程がずれ込み無理になった。どうか、盛況で実りある集会になることを、祈っています。

最近、当地の知人がアメリカとフランスへ移住した。自国での将来に見切りを付け、むこうに住む家族・親族をたよって国を去った。「日本に行って働きたい」という相談もしばしば受ける。日本の事情を知らなくても、街中を走り回るピカピカの日本車や店のデジカメ・電器コーナーを席巻している日本製品に日本がとても豊かで輝く国に思えるようだ(当地の日本ブランド製品の多くはmade in Chinaなのだが)。良い仕事、より豊かな暮らしを望んでコトバができなくても文化が違っても平気で国境を越えたがる彼等の感覚は、我々日本人とやや異なる。彼等が国との絆よりも大切にするのが家族や知人・友人との絆である。中東ベドウィン社会でも国よりも血縁ベースの部族への帰属意識がずっと強く、アラビア半島の地図に一部国境が描かれていないのもそのため、サウジアラビアの国名も“サウジ家が(ようやくたまたま)統一したアラビア”の意味、彼等にとって国家は道具としての組織体に過ぎない、が、人間は一人では生きていけない、国が頼りないとなおさら人は人との絆、家族や部族との絆をより求めるのだろう。

日本に何年も暮らした日本事情に詳しいガイジンがかつて私に「日本人の親戚のつきあいって年賀状とお葬式の時くらいでしょう、私たちはいつも普段から親戚や友人との関係を大切に育てているわよ」と語った。我々はそうまで日々努力して人間関係を創り出さなくとも、ムラ社会や職場組織への帰属意識と同様、海外へ出てもただ日本人というだけで一種安心感を覚える、日本国籍であることが一種家族体のような意識を我々にもたらしてきた。そういう、自分を無条件に護ってくれるハズだった国から見捨てられた時、国の脆弱さに気づく。国は国民が創り出し声を上げきちんと支え動かさないと、何もしてくれないものだと。国に見放された個人に残るのは親子・家族の絆だけだが、特定失踪者にはその絆さえ希薄だった者も多く、そしてそういう人が特に狙われた。国家が見捨てた彼等を我々国民も見捨てるなら、彼等を救う絆はもう残されていない。

NHKニュースで、今日も街頭で国民集会への参加を懸命に呼びかけている高齢の横田夫妻の姿を見て、ふとそう思った。

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2005年4月17日 (日)

万景峰号よ

蒼き星々詩に込める想い より
万景峰号よ 映画好きさん作


万景峰よ、お前には聞こえるか。
おまえが悠々と航行するその白い航跡から立ち上る哀しげな声が。

万景峰よ、お前には聞こえるか。
20ノットで悠々と走るお前のエンジンの音ではなく、
50ノットで走る工作船の「羅津15号エンジン」の騒音にかき消されながら、
助けを求める若者達の悲嘆の声が。

それは、ほんの数年前の、あるいは20数年前の日本人達の声だ。
未来を嘱望され、明るい笑顔であったはずの若い日本人達の声だ。

万景峰よ、お前の作る航跡、
そして、お前の白い船体には、透かし模様のように、
数百もの、悲嘆にくれる若者達の顔が浮かんでは消える。

万景峰よ、地獄で産声を上げたお前は、
どんなはかりごとを携えて、
若者達が連れ去られた航跡を再びたどってやってくるのか。

万景峰よ、
地獄で生まれたお前は地獄へ帰れ。
神の手によって制裁を受けよ。
神の手によって海の藻屑と消えよ。

万景峰よ、お前には聞こえるか。
エンジンの騒音の中、数十時間もの間、暗い船室に閉じこめられ、
母に助けを求める13歳の少女の悲嘆の声が。

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2005年4月16日 (土)

キング牧師の祈り

 ◇蒼き星々 詩に込める想いより(yuriさんの投稿)


 友よ、私は今日あなたがたに言いたい。

われわれは、今日も、明日も、多くの困難に直面するだろうが、
それでも、私には夢がある。

 私には夢がある。

それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「われわれは、すべての人びとは平等につくられていることを、自明の真理と信じる」という信条を、真の意味で実現させることだ。

 私には夢がある。

それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子と、かつての奴隷所有者の息子が、兄弟として同じテーブルに腰をおろすことだ。

 私には夢がある。

それは、いつの日か、不正と抑圧のために熱く蒸しかえるミシシッピ州でさえも、自由と正義のオアシスへと変わることだ。

 私には夢がある。

それは、いつの日か、私の四人の小さな子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に生きられるようになることだ。

 私には夢があるのだ!

われわれが、すべての村や集落で、すべての州や町で自由の鐘を鳴り響かせるとき、そのときこそ、われわれは、黒人も白人も、ユダヤ教徒も異教徒も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子たちが手を取り合って、あの古い黒人霊歌を口ずさむことができる日が来るのを、早めることができるのだ。

ついに自由だ!ついに自由だ!
全能の神に感謝せん、われわれはついに自由になったのだ!


もし私の最期の日に立ち会うことがあったら、長々と弔辞を述べないで下さい。

私がノーベル平和賞を受賞したことなど言わないで下さい。
そんなことは重要なことではないのです。
何百もの賞を受けたことなど言わないようにお願いします。
どこの学校に行ったかなど、どうでもいいことです。

最期の日には、私マーティン・ルーサー・キングJr.は、人のために一生を捧げた、と言ってもらいたいのです。

戦争の問題では、つねに正しい立場に立ったと言ってもらいたいのです。

すべての人間を愛し、仕えたと言ってもらいたいのです。

私は、お金もぜいたくな物も後に残すつもりはありません。
ただ私は献身的な生涯を残したいだけです。

もし、私がキリスト者としての義務を果たすことができるなら、もし世界を救済することができるなら、もし、御言葉を広めることができるなら、私が生きたことは無駄ではなかったのです。

そうです。イエス様、私は利己的な理由からではなく、あなたの御許にいたいのです。

政治的な思惑や野心からではなく、愛と正義と真実と人にたいする思いやりをもって、あなたの御許にいて、この古い世界を新しい世界にしたいのです。

これから先、何が起ころうとしているのか、私にはわかりません。
たしかに、われわれの行く手にはさまざまな困難が待ち受けています。
しかし、私にとって、それはもはや問題ではありません。
なぜなら、私は、山の頂にのぼったのです。
私は、もう何も気にしてはいません。

ほかの誰もがそうであるように、私も長生きをしたいと思っています。
長く生きることには、それなりの意味があります。
しかし、私は、いま、そのことに執着していません。
私は、ただ、神の意志のままに行動したいのです。

神は私に山の頂へ行くことをお許しになりました。
そして、私は山の向こうを眺めてみました。
そこに、私は約束の地を見たのです。
みなさんとともに、あの約束の地へ行くことは、私にはできないかもしれません。
けれども、今夜あなたがたに知ってほしいことは、われわれは、みな、いっしょに、約束の地へ着くことができるということです。

私は、いま、とても幸せです。
何も心配しておりません。
誰もおそれておりません。

私の目は、主の降臨の輝きを見たのです

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2005年4月15日 (金)

横田めぐみさんの小学校時代の作文

横田めぐみさんの作文:「思い出」
蒼き星々詩に込める想い より

 初めてこの小学校に来たのは、1年生の3学期父と、いっしょに階段を登ってへとへとになっていたあのころ・・・もう私たちは卒業を真近にひかえている。
 そんなに早く過ぎた6年間だから何もなかったのだろうかとふり帰って見るとたくさんの事がある。クラブの仲間入り、はんごうすいさん、修学旅行、このほかまだまだある。

 そんな、なつかしい思い出のたくさんある学校、それはほかにないくらい階段があって、うらの山にはキノコや花がさき、ある時はヘビもいた。運動場からは瀬戸内海までみわたせるかんきょうのいい所にある。
そして4月6年生は、中学へとあがっていって、私たちの上はいなくなった。・・・・やがて、オーシャン回転シーソーなどもせんりょうし始めて、自由に遊んだ。

 先生もかわって、親友もできた。毎日、手紙や絵を、かえっこして楽しんだ日々をなつかしく思う。でも、父の仕事の関係で、ひっこしにきまってしまった。
4年半いたこの牛田新町小学校とも、おわかれになった。親友と別れるのはさびしい・・・いずれ、卒業の時こうなるのだろうけれども、卒業までまだ5ケ月もある。

この5ケ月間には、まだいろいろな事がおこるだろう。卒業までの、5ケ月間、小学校生活の最後として、なるべく牛田新町小学校に、いる気持ちでがんばろうと思っています。(原文のまま)

         ~~~~~◇~~~~~~~~◇~~~~~
◆工藤新一さんから
めぐみさんの直筆のまま転載できないのが、残念ですが、小学生らしい、まだたどたどしい筆跡と文章で、卒業前に去り行く小学校の思い出を語っています。仮定の話になってしまいますが、新潟に引越をしなければ、北朝鮮に拉致されることもなかった。まだ、その時のことなど夢にも考えていないだろう時期のめぐみさんの作文を読むと、涙を誘われます。

牛田より太田川を望む(南方面)

広島市内
◆明るい広島の気候が大好きだっためぐみさん
  広島の街は今も変わらずめぐみちゃんを待っている
※写真は2点とも広島在住のサンデーさんから、頂きました。
 ありがとうございました。

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2005年4月14日 (木)

横田早紀江さんの祈り

~横田早紀江さんの祈り~ (偽遺骨にかき乱された家族の苦しみ)
               2004年11月20日東京にて

どんなにめぐみがぼろぼろになっていても、必ず命を与えたままでかえしてください、と私は藪中さんにもお願いして、どうかあちらの人たちにそう言って下さいとお願いしてきましたけれども、出てきたものは、めぐみの骨つぶでありました。「お母さん、私は必ずお母さんの所に帰るんだから待っててね」と言っていると私は思っています。

骨壺と一緒に向こうから持ち帰られた写真が突然、私達の目の前に置かれました。一枚の写真を見た時、私達は絶句しました。あの52年11月15日のあの夜に「めぐみちゃん、どこに行ったの」と神社の中や海辺やいろんな所を探し回った、あの白いブラウスと紺のスカートをはいたあのころのめぐみが、なんとも言えない寂しげな顔でそして悲しいまなざしで一生懸命に写されている写真がありました。息子の拓也、哲也は思わず声をあげて泣きました。私達夫婦も、「めぐみちゃん、こんなところにどうしていたの」と写真に手を置いて泣きました。

そのような国に連れて行かれて、毎晩毎晩、月を見ながら、どうしたら助けてくれるんですかと、曽我さんと一緒になった時に「一緒に暮らしながら二人で小さな声で日本の唱歌を日本語で歌ってたんです」と曽我さんはおっしゃいました。日本の国や兄弟や親を思いながら助けを待っている多くの人たち、この人たちを救わなければならないのです。たくさんの被害者が一日も早く北朝鮮から解き放たれ家族の元に戻れるよう祈って下さい。
 
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寺越家を救うぞ東京集会(1)寺越昭男さん

寺越家を救うぞ!東京集会
         2005年4月14日(木)

※ぴろんさんによる、丁寧なテキストです。会場の雰囲気を感じ取ってください。


 寺越昭男さん(寺越昭二さんの長男)のお話

皆様こんばんは。
私は今から42年前、昭和38年。
能登沖で、わずか海岸から200メートルのところから拉致をされた寺越昭二の息子です。
長男です。
ここにおるのは次男で名前は北野になりますけども。
養子に行きましたんで、北野になります。

事件は、私らはあの、本当にわずか海岸から200メートルのところから、何で800キロも離れた北朝鮮の清津というところに行ったか?と言う疑問。
そして父親が本当に北朝鮮で死んだんか?と言う疑問。
事件の真相を知りたいと言うことから2002年10月に政府に対して、寺越事件の真相究明と拉致認定・遺骨の返還を求めて声を上げさせていただいたわけです。

事件の当時は私は中学校の2年になったばかりでした。
5月の12日、私が中学校の2年で弟が小学校の6年、三男が小学校の4年でした。
小さかったせいもあるけども、本当に何で死んだんか?と。
何でこういう事になったんか?という思いというのは、今までずっと持ち続けて来たことなんですけども。
ひょっとしたら当てた船の当てた犯人が、怖くなって3人をどこかに殺して埋めたんじゃないか?とか。
常にそんなことを思っていましたんですけども。

17年後に突然北朝鮮から手紙が、叔母の栗原豊子さんのところへ来たわけですね。
それまでは本当に死んだとばっかり思ってたわけなんですけども。
突然北朝鮮から手紙が来たと言うことで、死んだ人間が生き返ったというような思い。
でもこの手紙には一番最初の手紙には父親のことは何も書いて無いんです。
「あるとき突然3人で北朝鮮で暮らすことになりました」と。
その後、「外雄さん・武志は結婚して幸せに暮らしております」と。
で父のことは何も書いてないんです。
3人で一緒に北朝鮮に来たのになんで父のことが書いてないのか?と。
そのこともきちんとと言うか、そういう思いはあったんですけども。

取りあえず北朝鮮から手紙が来た言うことで本当に大騒ぎになりました。
どういうふうに対応していいかというのは、やっぱり北朝鮮がどういう国か分からない国。
それから手紙なんかもおそらく検閲されているんじゃないか?とか。
こっちから変なことを書いたら武志とか外雄さんに何かあるんじゃないか?とかっていう。
そういう意見というか議論をして、差し障りの無いように、「うちの親父がどうしているか?」とかいう返事を書いたわけなんですね。
まぁ私は書いてませんけど、その手紙が来た栗原さんの所から手紙を出して。

2通目の返事にうちの親父は5年後に病気で亡くなったということで。
私らはその時に、ああやっぱり親父は死んでたか、と。
親父は心臓が悪くて、弁膜症とかって言う病気を持っとって。
力仕事なんかすると心臓の発作で苦しくなったりして自分で動脈注射をしてかってやってたんですね。
もし北朝鮮に行ったのなら私はそんなに長生きはしなかったやろな、とは思っていたんですが。
まぁ、とにかく死んだと言うことを手紙で知らされまして。

それから私らはなんと言うかな。
武志・友枝さん親子のことを見守って。
北朝鮮の方に私らが目を向けると言うことは、情けないと言う思いがあったんでとにかく沈黙をして行こうと。
これは私の考え方ですけども、弟たちも多分それと同じ考え方ではなかったんではないかなと思うんですけど。
一生懸命友枝さんは運動しながら、外務省行ったり警察行ったり、まぁあちこち苦労しているのを私らは見てました。
まぁ応援出来れば良かったんやけども、私らも経済的に余裕がなかったと言うか。
子供が出来て小さい子やったもんやし、本当に申し訳ないと思いながら、見守るしかなかったんですね。

お袋は昭和42年かな?
母親は親父なくしてから、いなくなってから私ら3人を育てるのに本当に苦労して。
42年に子宮筋腫になりまして手術をしたんですけども、それが元でホルモンのバランスを崩したんじゃないかなぁ、と思うんですけども。
寝たり起きたりの生活になったんですね。
それもあって経済的には本当に苦労してきました。

お袋は「親父の遺骨を見るまでは死んだとは信じられん」と、言うことで。
本家で葬式出したんですけども、葬式にも出なかったし。
その思いはやっぱり遺骨を見るまではと言うことで、淡い期待は持ちながら丁度2002年の2月に最後にはパーキンソン病で亡くなったんですね。
その2002年と言うのは私らにとっては2月にはお袋が亡くなり、そして9月に小泉訪朝、そして金正日が拉致を認めた。
そして武志が一時帰国したと。

ここが重なって私らは声を上げようという。
声を上げると言うのは親父の骨を返して、母親と一緒にお袋と一緒に墓に入れてあげたい。
そういう思いとそれから事件の真相と言うのをハッキリ知ってかって。
知る権利というのは私らにはあると思うし、お袋にもやっぱりそれを報告しなければいけないやろうし。
もし父親が本当に安明進さんの証言どおり殺されておったら、父親の無念と言うのを私らは晴らさにゃいかんと思うし。
いろんな思いから2002年の10月10日に声を上げさせていただいたんですけども。
この2002年と言う年ちゅうのは、いろんな事が重なって私らが声を上げるきっかけになったと思います。

2002年に政府に対して外務省には、事件の真相究明そして遺骨の返還・拉致認定を求めて声を上げさせていただいたんですけども。
まぁ本当に恥ずかしい話なんですけども、その時は私らは家族会というのも知らなかったし。
それから救う会も知らなかったし。
北朝鮮と言うものから目を背けながら生活してきたと言うような感じになっとるもんで。
東京へ出て来てから驚くことばかりでね。

拉致って言うのはやっぱり個人がすれば犯罪。
しかし一国のリーダーが拉致をさせたと言うことは犯罪じゃなくて政治問題なんですね。
その辺私らには一番歯がゆしいと言うかどうにもならんことなんで。
政治問題ではなくてやっぱり犯罪として日本の政府が北朝鮮に対して断固として解決を努力すべきだと思うし。
そのために圧力というものをかけなければいけないなぁと思います。
個人で拉致をすれば刑事罰があると思うんで、国が拉致をすればそれ相応の制裁というものがあって然るべきべきではないかと思います。

拉致問題と言うのはこの2002年から2年間ちょっとですけども活動して、奥が深いというか。
拉致だけでなくて教育問題とかそんないろんな問題が関わってくるもんで。
本当に個人では何も出来ない問題だと思ってます。
個人では出来ないというのは私らもそうやし、国会議員の先生方も一人一人は個人なんで。
拉致問題解決には全国民が一丸となって、活動って言うか。
解決に向けての運動をしていかなければならないんじゃないかな?と私自身は思っています。

今現在の私の心境は、寺越事件というのは私らが声を上げてから何一つ解決されてないんですね。
真相究明もまだ分かってない。
拉致の認定もされてない。
遺骨の返還もされてない。
本当に政府は私らに対して真剣に取り組んでくれているんかなぁ?と、いうふうに現在では思っています。
遺骨の返還としては外務省の斎木審議官が一生懸命取り組んでくれているので、私らとしては本当にありがたいなと感謝しております。
その他のことについては何一つ進展していないので、残念なことだなぁと思っております。

ちょっとまぁ写真の説明をさせていただきたいと思うんですけど。
この左の一番上が父の昭二です。
その下が叔父の外雄さんです。
親父の隣が従兄弟の武志です。
現在の武志がその下です。
その横が友枝伯母さんです。
事件の発端となったのが真ん中のあの船ですね。
清丸と言いまして大きさが1.5トン。
本当に小さい船です。
そしてその横が亀城(クソン)市にあると言われている父の墓なんですね。

この墓にはちょっと奇策がありまして。
2002年の10月に従兄弟の武志が始めて39年ぶりに日本に一時帰国。
それは寺越武志としてではなくて、北朝鮮の平壌市の職業総同盟副委員長としての役職と言うことで金 英浩(キム・ヨンホ)ということで一時帰国出来たわけなんですけども。

その時に私が武志と地元の歓迎会で話をすることがあったんですね。
わずか2~3分だったんですけども。
私は武志に「父親の墓には何と書いてあるんや?」と。
私としては父親が朝鮮籍を取ってないという認識があったもんですから。
寺越昭二の名前なのか?それとも北朝鮮の名前なのか?知りたくてそういう質問をしたんです。
武志は即座に「自分の名前を書いてある」と言ったんですね。
「どうや?死んでもおらんがに自分の名前を書いたがんな?」
という話をしとったら、そこへちょうど友枝さんが入って来て「ここの席でそういう話はするんでないから」と言ったもんで話はそこで終わったんですが。

その後武志が北朝鮮に帰って二週間後くらいですかね。
武志の妹の正枝さんが北朝鮮へ行ってこの墓の写真を撮ってきたんですね。
一番最初にこの墓の写真を見たとき、「えらい新しい墓やな?」と思ったんです。
帰ってすぐに作ったような墓じゃないかなぁ?と。
「この墓が何で新しい墓なんや?」と友枝さんに聞いたら、「武志は偉くなったんや」と。
「昔の墓やと恥ずかしいから新しい墓に作り変えたんがや」と言っておりました。

私らはその時には気が付かなかったんですけど。
ここには父の誕生日と死んだ日とが書いてあるんですね。
1927年3月30日生まれ。
1968年の3月30日死亡って書いてあるんです。
うちの父親は誕生日は3月31日なんです。
一日違うんです。
何で一日違うんか?と。

本人が生きとったらまず一日違うことなんて絶対に無いことなんですね。
生まれた日と誕生日とが違う人は広い世間には多分何人かおいでやと思います。
うちの嫁はんもそうです。
ましてうちの父の死んだのは、誕生日の前の日に外雄さんが「明日誕生日だから今晩祝いをしよう」と酒を買ってきたりして、皆で祝いをしてがって次の日の誕生日の朝にベッドから落ちて死んでたと、言うことなんですね。
北朝鮮では目上の人の誕生日は毎年するんやと。
ということは5年間おったんなら少なくとも5回はやっとるわけです。
で5回もやっとってがっておりながら尚且つ誕生日が一日違うというのはどういうことか?

親父が誕生日を間違うわけ無いし、武志は誕生日を知らんと思うんです。
子供の私らでさえ知らなかったんです、誕生日を。
うちの母親は知ってました。
そじゃけ誕生日を知ってる可能性があるのは、外雄さんか友枝さんか、ふたりのうちのどっちかなんですね。
どっちかが誕生日を勘違いして覚えておったと思うんです。
でこの墓が、なんで父親が北朝鮮で死んだということを工作するための材料なんですね。

私らは本当に遺骨があるんなら返して欲しい。
北朝鮮の政府も遺骨があるんならさっさと返せば寺越事件は救助で、多分私は落ち着くんで無いかな?と思うんです。
私らは納得しませんけども。
政府間ではおそらく寺越事件を本当に、今だかつて何にも進展してないってことは寺越事件はこのままうやむやにしておきたいと。
で、国交正常化がすればおそらく武志は今の体制では拉致だとは言えないから、寺越事件は救助でもう収まってしまうと思うんです。

そういう危険性というのは私たちも常に持ってますし。
そうならないためにも今一生懸命活動しているわけなんですけども。
政府に対して寺越事件が、真相究明するには拉致なのか?救助なのか?と言うことを北朝鮮に常にボールを投げつけんといかんと思うんですけど。
今だかつて全然そういうことは一度もしてはいないんじゃないか?と思います。
これが本当に残念と言うか。
拉致の特別委員会でも私らは寺越事件と言うものを本当にいっぺんでも取り扱って欲しいな、と今の思いですね。
真相究明に少しでもそれがつながるなら本当に嬉しいことやし。

もうひとつ大事なことは、武志が今の状態やといつ何時抹殺される可能性があるかも知れんということです。
北朝鮮が拉致を認めれば武志の命は絶対にまず保障されるでしょうけども。
日本の政府もやっぱり拉致を認定してがって武志の身の安全と言うものを北朝鮮に保障させなけりゃいかんと思います。
北朝鮮側に対してそういう意思表示をして欲しいと思います。
もしこのまま武志が死んでしまったら私らはそれで終わりですし。
寺越事件も永久に闇の中だと思います。
そうならないためにも一日も早く拉致認定、そういうものが大事になってくるんじゃないかなぁ?と思います。
私の考えは以上です。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京集会(2)北野政男さん

北野政男さん(寺越昭二さんの次男)のお話


次男の北野政男でございます。
今日こうして寺越事件だけを取り扱って発言させてもらえると言うこと、本当にありがたく思っています。
そして家族会・救う会・一般の方々こうやって多く集まっていただきありがとうございます。
うちの親父のこと兄弟二人で話すと言うとなかなかダブる面も多くあると思うんですけども、それはご理解していただきたいと言うことと、私も何分不慣れなものですから途中で頭の中が真っ白になるかもしれませんがよろしくお願いします。

今日は私は寺越事件の関係者5人。
うちの(兄弟)3人と友枝さんと武志との、「記憶」という面で寺越事件を考えて見たいと思います。
事故があったのはここにも書いてありますとおり、昭和38年ですよね。
記憶と言うのはこの38年を境としてそれ以前・それ以後という事に2分に分けられますよね?
うちら兄弟3人は当然子供ですから親父の記憶は持っております。

しかしながら親父は出稼ぎ漁師といいますか、1年に数ヶ月しかいなかったんです。
あとは大きい船で漁に出てて、それが38年から以前の記憶は4多分~5年しかないと思います。
その4~5年の間の3~4ヶ月親父と一緒に暮らした日で、通算して1年前後しかありません。
でも記憶は生活した記憶やとか、親父の特徴やとか、親父が身に着けてたものとか、と言うものはうちらでも二人は覚えております。
お風呂へ行って3人で行って体を流してもらって、親父のごつい手で頭をが~っとやられるのが痛いもんやから親父が嫌でお袋で。
そういうなんていうか生活感に溢れた記憶は持っております。
13歳前後の前の記憶で持っております。
ところが弟の美津夫は親父の記は一切持っておりません。
うちらの記憶の中の会話には入れないと言うことです。
仮に、ここに名前書いてもらったんですけど、兄貴と俺がゴルフボールかピンポン玉くらいの記憶を持ってると仮定しますと、美津夫は全く無しなんです。
38年以前の友枝さんはもう大人ですよね?
家が隣同士ですので嫁同士話をしていた。
だから親父のことはバレーボールかバスケットボールくらいの大きな記憶を持っているということです。

私たちは12~3歳の子供ですから大人の話には入れませんから。
この船はいくらで誰から買ったとか、いつ買ったとか、それから親父はどこの船に乗っていて何月に帰って何月に出かけたとか?
要するに大人の話は私たちは全く知らん。
それこそ親と子供の記憶しかありません。

武志はと言うと、当然別棟ですので叔父と甥の関係ですわね。
子供ですからしょちゅううちの親父とは会っていません。
船を買ったんも多分事故の半年前後前ですから、そんなに親父とは会ってない。
その中で土曜日・日曜日の休みに一緒に船に乗って何回か出かけた。
それくらいの記憶しかないはずです。
ですから極端な話、武志の(昭二さんの)思い出はビー玉かパチンコ玉それくらいの記憶しかないと思います。
一緒に住んでませんから。

これが38年以前の記憶ですよね?
それで事故後は武志の記憶と言うのは寺越昭二の記憶と言うのは、365日寝食を共にして5年間一緒にいたと言う。
13歳から5年間とすれば18まで、5年間共に生活をしていた。
そこの中に外雄さんもいた、ということですね。
と言うことは、バレーボールくらいの記憶よりももっと大きい、アドバルーンくらいの記憶を持っていなきゃならないということです。
うちらの子供の生活していたそんな細かい記憶も含めて、持っていなきゃならないという事です。

ところが武志のみが知りえる記憶ですよね?事故以後は。
うちらは全く知らないというわけですよね、朝鮮に渡っての記憶というのは。
私らは全く知らない。
友枝もいくら親父の記憶を持っていても、朝鮮へ渡ってからの記憶は当然ありません。
これが記憶の私の考え。

これはちょっと置いておいときまして。
次、ここに年表書いてもらったんですけど、38年に事故が起きた。
それで43年に昭二が死亡、墓を作って。
その後50年に亀城の共同墓地へ墓を入れたと。
多分昭和50年でそのままの墓なのか?
今の兄貴の言った新しく作り変えたのか?その後問題になってきますけど。

1987年に手紙が届いて、(友枝さんの)訪朝が始まりますよね。
友枝さんが訪朝して2回目の時に、友枝さんと(武志さんの)妹の正枝さんが訪朝しております。
遺骨の代わりと言って砂の袋を持って来ております。
その後私たまたまビデオに録ったものがありますけども、骨の代わりと言って砂袋を持ってきました。
その後友枝さんは何回も訪朝しております。
金正日が拉致を認めてその後、友枝さんの武志の戸籍復帰とかそれから武志の一時帰国の事とかありまして、2002年に武志が一時帰国を果たしました。
その時兄貴が言った帰国してから墓の話をしたら、こういう墓が出てきたと言うことですけど。

武志が帰国した時にもちょっといわくがありまして。
うちら家族、拉致を声を上げる上げないと言うことを話していたんですけども。
その時に友枝さんのところへ電話して「私たちも迎えに行きたいんですけども」と話をしたんです。
友枝さんから「警備が厳しくて小松空港へは入れませんから」とお断りでした。
でも一応無駄でも行きましょうということで、家族が行ったんですけども。
警備は厳重でしたけども、まぁ入れました。

入ったんですけども、武志は正面のロビーから出ませんでした。
私たちが迎えに行ってるときにロビーから出なくて横の通路。
まぁ非難通路という何か他の通路か、そこから出て行って友枝さん側の、あの人は旧姓ハタナカって言うんですけども。
ハタナカ一家の出迎えを受けて寺越一家の出迎えは受けずに、小松空港から出て行きました。

歓迎会が色々ある中ですけども、その中で兄貴が仕事の関係で歓迎会出たわけです。
そこで墓の話が出て、(武志さんが北朝鮮に)帰ってからこの墓が出てきたんです。
そういうことで友枝さん側の一家でパーティやら歓迎会やらやって、一週間ほど過ごしたんですかね?
それから何にも言わずに帰ったんです。
私たち寺越一家とは全く一切の面識無し。

手紙来てから寺越の人たちは皆から集めて借財を送って、生活の足しにということで何回か送ってるんです。
当然そういった御礼とか、少なくとも寺越の挨拶くらいはしなきゃいけない。
それなのに全く無かった。
そして帰った。

その前に雑誌の取材の中でうちの親父が手が器用だと言うことで話をした。
その後で出てきたのが確かにこういった折り紙細工。
これも私たちが声を上げてから出てきたことです。
しかしながら、今これ綺麗ですけども。
親父から教えられて作ったと言う紙細工なんですけども、38年当時の北朝鮮の紙質って言うのはこんなようなもんです。(一通の手紙をかざす)

これは向こうから外雄さんたちが送ってきた手紙なんです。
中身はって言いますと、昔のわら半紙のようなものに書いてあるんです。
これが当時の手紙なんです、実際の。
こんな時にこんな綺麗な、ね、なんていいます?折り紙?があったかどうか?です。
これを出してきています。
私たちが声を出してから。

ただ親父に教えられて作られたと持ってきていますけど。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志さんに教えたと」)
いや、親父から教えられて武志が作ったと。
ちょっと待ってください。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志君が教えてもらったやつを武志さんが折ったと)
そうです、で持って来ていますんですけど。
つまり言いたいのは、こんな紙質で昔はあったのかどうか?と言うことと。
それからいつから折り始めて、誰に売って、いくらになって、そのお金を何に使ってということが、生活に密着したことがまず出て来ていない。

(兄の寺越昭男さんがマイクを取る)
ちょっと補足させていただきます。
弟の言いたいことは、実は手紙が来てから17年間。
父に関しての情報っていうのは一切無かったんです。
2002年10月まで。
(友枝さんが)二回目の訪朝をして「外雄さんから託ったよ」と言って、「これは墓の土なんや」と土をあずかった、だけ。
後何回か訪朝してますけど、父に関する情報は一切無いんです。

それで2002年私らが声を上げてから私らが運動する中で、友枝さんが今の墓の写真を出してきたり、父親から武志が習ったいう折り紙細工を北朝鮮から持ってきたり。
いかにも父が生きとったよ、という要するに証明というかアリバイ作りの工作みたいなものをしてくるわけです。
で、これがもし本当なら今までにとっくにそういう話があってもいいんじゃないか?と私らは思ってるんですが。
そういうことを弟は言いたいんじゃないか?と思いますけども。

折り紙細工もそりゃ本当に父親から習ったのかもしれん。
しかし昭和38年、拉致された当時の北朝鮮の経済状態というものを、これは24年後に来たものやからそれ以前はもっともっと悪いわけです。
タバコの空き箱で作ってがって、売ってがって生活の足しにしたというけども、そんなもの折り紙細工の作ったものを、北朝鮮の人が買いますか?
全然私らにとっては「なんや?それ?」と言うことでしかないわけです。

私らは友枝さん・武志を批判してるんじゃないんです。
あくまでも北朝鮮側が友枝さん・武志に対してこういう工作をしなさいと。
生きとったという事を証明をしてということを、おそらく言われてると思うんですね。
それに対して私らはいちいちああやこうやと言うて反論はしません。
友枝さん・武志さんは被害者。
本当に逆に言うと本当にかわいそうやな、と。

42年経って武志は本当に日本に帰って生活もしたいやろうと思うけど、子供が出来て孫が出来て家族が大きくなればなるほど、大地に根っこが生えたみたいでどうにもならんわけです。
だから武志のことを考えると、日本政府は救助なら救助でいい。
どうして自由に行ったり来たりさせるように、北朝鮮に要求しないんですか?
そうでしょ?
もちろん前回来た時は、二人の通訳として北朝鮮から来た監視役が24時間付きっぱなしだったと思います。
そうではなくて自由に日本に来たい時に来て、帰りたい時に帰る。
そういうふうな環境に武志をしてやりたい。

もうひとつ忘れていかんのは外雄さんの家族もいるわけなんですね。
外雄さんの家族もやっぱり幸せになっていただきたいと思うし。
やっぱりそういうことを、私らは運動のひとつとして。
これは拉致の被害者全員に言えることやと思うんですね。 
おそらく早いうちに拉致された方は武志のような環境になってる人が多いかもしれん。
そうなった場合に日本の政府として本当に自由に日本に帰れるようにするのが、日本の政府の仕事やと思います。
このことも含めてこれから政府に要求していきたいと思います。

(北野政男さんにマイクが戻る)
元に戻って、ちょっと横道にそれましたけど。
これがうちの事件のあらましでしたね。
またちょっと記憶の方に戻っていきたいと思うんですけども。
本来なら武志が北朝鮮での5年間の生活を、大きいアドバルーンくらいの量を覚えていなきゃならない。

逆にうちの(三男の)美津夫は全く記憶がないと言いましたけど。
これは18歳前後の時に養子に行って他の姓に変わって、寺越のうちらの情報を全く受け入れる状態じゃなかった。
それで20年25年経ったら、親父の記憶を全部ポンと飛ばしたと。
思い出そうとしても思い出せないんです。
(兄)二人がやっていても思い出せない。
記憶が飛んでしまった。

もし寺越武志が事故の時に、うちの親父が事故で安明進氏の言うようにして海に捨てられたと。
銃殺されて重りを付けて海に沈められたという事になると、寺越武志はそれ以後の親父の記憶はないわけです。
さっきアドバルーンくらいの大きさの記憶があるといいましたけども、これが本当なら親父の記憶は全く持っていない。
当然。
そして尚、ああいう事件の後ですから、思い出したいと思っても思い出せない記憶ですから。
当然あれだけの出来事であれば忘れてしまいます。

そしてさっき記憶、(武志さんが)ビー玉かパチンコ玉かというくらいの記憶を事故の前の記憶を持ってるけど。
うちの美津夫でさえ石川県・日本に居て出さえ、記憶が飛んでいるのに、ちっさな記憶を武志が持ってるわけが無い。
当然親父が海に沈められた。
外雄さんと武志で二人で北朝鮮に渡ったと。
だから記憶は全く持っていけない。
ゼロだと考えられるわけです。

そのなかからこうやって親父の誕生日、それから器用だったと折り紙を出してくる。
北朝鮮も親父のことをまったく知りませんから、出してくることは不可能。
全てこれは友枝さんが北朝鮮に行って、北朝鮮と協議の上で墓を作り、こういう物を出して来ております。
もしうちの親父が北に向こうに渡ったら、まずこういうものは出てくるわけが無い。

これはちょっと貰ったんですけどもね。
この中で何月何日だ?
2002年の10月3日に武志が帰ってきて、小泉首相と面会しております。
その中で「故郷の記憶が出てこない」という発言をしております。
これは、小泉じゃない、森前首相だ。
それなのにうちの親父の記憶を持ってることはありえない、と思います。

それを裏付けるのはこれはちょっと出してもらったんですけども、皆さん報道の方は調べになれば分かると思うんですけども。
(友枝さんの)訪朝回数。
最初の頃は3年に1回とか、2年に1回とかっていうそういう回数でしたけども。
1999年くらいからだんだん多くなってきております。
この年数で3回。

そして2000年に2回。
3回4回とか2回とか、だんだん多くなってきて。
これは武志の書いた「人情の海」と言う本です。
こう言うものを書いたり。
それから友枝さんの本が出たりしてますので、そういった面でだんだん回数が多くなってるんじゃないかと。
ましてや武志が一時帰国を果たした後、5回6回と言う訪朝回数を重ねております。
これは帰国して墓石が出て折り紙が出て、それを製作するために友枝が行ってやってきた。
つまり親父は北朝鮮には全く上陸していないと言う証拠であります。

記憶の面から私はそういった推察が出来ると思っております。
墓が遺骨があるとか無いとか、当然なければ何だかんだ言って出してきません。
出せません。
出してこないんじゃなくて出せないんです。
一回目の帰国の際に私たちに会わなかった。
寺越家に会わなかった。
会わないんじゃないんです。
会えないんです。

寺越家から寺越昭二の質問をされると武志は何一つ答えることは出来ない。
だから、会えない。
この人情の本とか友枝の書いた本とか、島崎(譲 社会党代議士=当時)先生が書いた冊子とか、親父の生活感が溢れるものは何も無い。
これまで私たちは言ってきましたけど、この中にも出てこない。
書かないんじゃなくて書けない。

いくら友枝であっても5年間、向こうの5年間のこれは事故以後のことですよね?
事故以後のことであれば友枝はいくら逆立ちしても書けないんです。
武志でしか書けないんです。
だけども全然載ってない。
武志でも書けないんです。
と言うことが私は言えると思います。

最後にちょっとおかしいことになりましたけど。
私たちが声を上げたその日から、寺越友枝はうちらの声を静めようと色々工作をしております。
それに救う会の方にも色々工作をしております。
最近で私が一番新しく聞いたのは、うちらの家族の子供の仕事場にまであること無いこと電話をかけている、と言うことを私も聞いております。

先ほど兄貴は寺越友枝のことを恨んでないとか何とか話をしましたけど、私は反対なんです。
拉致問題が第一の被害とするならば、私は友枝がそうやって色々工作をしてくる。
これは私「第二の被害」だと思っています。
これは範囲が広いんです。
うちらの子供たちに関わるかもしれん。
それから救う会にも関わるかもしれん。
暴力があるかもしれん。
向こうの出て来方によっては。
物凄く範囲が広い。

それに友枝本人も「第二の被害者」だということです。
本来拉致被害者であるべき人間が、北朝鮮の救助と言うことにしようという工作に乗って、北朝鮮によって動かされている。
それがすでに第二の被害。
進行しているものと私は考えてます。
そしてその工作によって被害がもし出た場合は、誰が責任を取ってくれますか?

当然北朝鮮が悪い。
友枝も北朝鮮に動かされてスパイみたいなことをやらされて、こういうものを出して来てと言うのは友枝も悪い。
しかしながら悪いのは日本政府。
一時被害は当然食い止めることは出来ませんけども、二次被害というのは食い止めることは出来る。
政府が拉致認定をすることで、北朝鮮はこういうことをやっても意味が無いということです。
友枝もこういうことをやっては来れないということです。

そういう意味で、私は日本政府に対して速やかに一日も早く拉致認定をしていただきたい。
二次被害が出ないように、これは政府の責務であります。
これを強く政府に申し上げたいと思います。
ありがとうございます。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京集会(3)~救う会石川事務局長~

大口英夫 救う会石川事務局長のお話

皆様こんばんは。(「こんばんは」の声)
救う会石川の事務局長の大口と申します。
お時間もありますので、簡単に少しお話をさせていただきたいと思います。
救う会石川は2年前に設立しました。
ただ、私の方は今から8年前ですね。
救う会石川の設立の6年前から、実は寺越友枝さんと一緒にこの問題取り組んでまいりました。

寺越事件を語るときは大変ややこしいんです。
寺越さんと言う人、何人も出て来てて。(笑い声)
しかも寺越昭二さんの息子さん、長男・寺越昭男さん、御次男・北野政男さん、養子に行かれて。
三男さんの内田美津夫さんも養子に行かれてお名前が違うと。
拉致被害者の方も3人いらっしゃって、しかもお子さんとか、寺越友枝さんもいると大変ややこしいお話になるんですけども。
ただ事件としたらこんなに簡単でおかしな事件は無いんです。
それで2年前救う会石川が出来ました。
救う会石川が寺越さんたちとやってきた事、ひとつは石川県警に告訴をいたしました。
告訴・告発。
これは北朝鮮から亡命された安明進さんの証言を基にしまして作成しました。

まずひとつは寺越昭二さん。
これは「1968年3月30日北朝鮮で死亡」と言ってるのは、これは社会党の当時の代議士の島崎譲さんと言う人がごまかす為に作ったわけです。
安さんのお話によれば、昭和38年5月12日に事故に遭った時。
この時に寺越昭二さんは、寺越武志さんをかばって撃たれて海に捨てられた、という証言があります。
私たちこれを信じております。

そしてその撃った張本人の者の名前もオ・グホといいますが。
安さんの証言によってオ・グホという名前も分かっております。
この人を告訴いたしました。
合わせて外雄さんと武志さん、拉致と言うことで告発もいたしております。
これが私たちが救う会石川が出来てからやったことのひとつ。

もうひとつは先ほどのお話からあります。
昭二さん殺してはおらんと。
海難事故に遭ってるところを私たちが助けて、北朝鮮に住んでいて昭二さんは病気で亡くなったんだと。
その証拠に墓もあると。
生年月日違ってますけど、墓もあると。
しかも遺骨もある、って言ったんですね。
それであるなら遺骨を返せるものなら返してみろ、と。
出せるものなら出して見ろと、これを今一生懸命やっておるんです。

外務省にも言ってまいりました。
そして赤十字にも言っております。
そして斎木審議官の方が北朝鮮に再三言っております。
遺骨どうなった?遺骨どうなった?と。
その都度北朝鮮はごまかしていると言うのが現状です。
この2年間は告訴とそして遺骨の返還を強く求めております。

そしてもうひとつは拉致被害者認定してくれと、言っております。
誰がどう見ても聞いても拉致であります。
しかし日本の法律では拉致された寺越武志さん、またはそのご家族・寺越友枝さんが「息子が拉致された」と言わない限りは拉致とは認められませんというのが、今の日本の法律だそうです。
それで私平沢勝栄代議士にも食って掛かったんですけど、平沢さんは
「いやこれはそうなんだ、これは正しいんだ、そうじゃなかったら裁判勝てないんだ」
と、訳の分からんことを言ってますけども。

戦争状態みたいなものですよね?
日本のこんな法律はおかしいわけで。
だけどそれに基づいて拉致だと認められませんというのは私は大変おかしいと思います。
裸の王様の話みたいなもので、皆拉致だと思ってるのに拉致だと言えないと。
それが今の現状で、私たちは拉致被害者認定を強く求めてまいりました。

さてこの2年間、救う会石川が出来てから2年間のお話は以上なんですけど。
私8年前から寺腰友枝さんと一緒におりました。
当時寺越友枝さん、昭和38年拉致されて。
それから死んだものだと思ってたら、昭和62年に手紙が届いたんですね。
外雄さんから手紙届いたんです。
「私たち生きてます」と、「私と武志が生きてます」と届いたんです。

そして誰も話を聞いてくれないから、社会党の島崎譲代議士のところへ行って。
そしたら社会党の島崎譲代議士はご自身で書かれた本が2冊ございます。
「再会」という本と「再会2」と言う本がございます。
そこに「寺越さんたちは拉致ではなくて海難事故で助けていただいたんだ」と。
言うことでごまかして。
その時寺越友枝さんは、「息子が事故で死んだことになってるけど戸籍を回復してくれ」と言ったら「大変難しいから出来ません」とごまかしたんですね。
そしてそれからほったらかし。

それで8年前に当時の救う会の拉致問題を一生懸命やっていた荒木和博さん。
救う会の前の事務局長さんで、今調査会の代表であります荒木和博さんが私の方に電話して来まして。
「実はこういった人が居ると、寺越友枝さんと言う人がいるから私は石川県まで会いに行きます」とご連絡があったもんで、「私も何かお手伝いさせてください」と引っ付いていきました。
そして「寺越武志さんが生きてるにも関わらず戸籍が回復されないというのはこれは大変なことだ」と、荒木さんが言われて。
寺越友枝さんと私が活動をし始めたわけです。
戸籍は見事回復されました。

それまでは寺越友枝さん、「武志さんは拉致だぁ」と言ってたんです。
戸籍回復がされた時から、色々な力が動きました。
先ほどの森代議士のお話しもあります。
朝鮮総連も接触持って来ております。
要は寺越武志さん、それから急に偉くなったんですね、向こうで。
労働委員会の副委員長になったんです、急に。

簡単に言いますと寺越武志さん良い生活させてやる。
身の保証もさしてやる。
友枝さんあんたいつでも(北朝鮮に)来させてやる。
だから拉致だと言うな、と。
北朝鮮と朝鮮総連と、森代議士はじめ自民党の何人もの代議士もやり始めたんですね。
そこで友枝さんがコロッとここで考えが変わったんです。
それまでは「拉致だぁ~」と騒いでいたのがコロッと変わったんです。
で「拉致じゃない」と言い始めたんですね。

ですけども地村さんや蓮池さんたちが戻って来たとき。
武志さんが初めて帰国して帰った直後ですね。
やっぱり「うちの息子も拉致だ」とまた言ったんです。
平成14年にも一回言ってるんですね、また。
そしたらまぁまた向こうの国がまた慌てたんでしょう。
または自民党の先生方慌てたのかもしれません。
一回言ったけれども、またひっくり返して「やっぱり拉致じゃない」と言うんですね。
それが今の現状です。

石川県では寺越武志さんのお母さんの友枝さんは「拉致ではない」と言っております。
そして昭二さんの息子さんたち3名は「拉致だ」と。
そして救う会・私たちも「拉致だ」と言っております。
そういうちょっと特別な事情があるのが石川県です。

しかし誰が見ても聞いても拉致です。
その証拠はたくさんあります。
その島崎代議士が当時書かれた「再会」でも一杯矛盾した事がございます。
武志さんが書かれました「人情の海」という、北朝鮮で書いた本。
これにも一杯矛盾したところがあります。
お墓の生年月日も矛盾しております。
向こうが拉致ではないという証拠があるならたった一つ、遺骨の問題だけです。
返せるもんなら返して見ろと、言っておりますが。

大変分かりやすいようで、ちょっといろんなたくさんの人が絡んでおりますので分かり難い面もありますが。
しかし私は救う会石川としても、寺越さんの問題、これを拉致だと言わずしてごまかすわけにはいきません。
拉致だと一番分かりやすい、また向こうで生存しとるんですから、武志さん。
この問題を日本政府が拉致だとしたときに、きっと拉致被害者皆さんの事件がぐっと加速度をつけて進んでいくんじゃないか?と思っております。
こういったことで私たちも力足らずではありますけれども、石川県の方で少し頑張っております。
また全国の皆さんに応援していただきたいと思います。
ありがとうございます。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京集会(4)~飯塚繁雄さん~

飯塚繁雄副代表のお話

皆さんこんばんは。(拍手)
この集会も数を重ねるごとに、それぞれの家族の方のいろいろな今までの経過、あるいは状況。
そういうものがここに非常に良く分かってきて。
実を言うと私も寺越さん事件のことは良く分からなかったんですけども、今日色々聞いてなるほどと、そう思いました。

家族会としても3月の10日ですね。
支援室を通じて内閣総理大臣に、寺越事件を含めた特定失踪者の方の認定を求める申入書出しました。
小熊室長が継いだわけですけども、お話によれば「一生懸命やってると、捜査をしてますと、警察にもよく言ってある」と言う話でしたけども。
その結果はですね、各特定失踪者の方にお話をしてありますよという返事だったんですけども。
中々実態はそうもいってないようで。
一生懸命やるやると言いながら、中々結果が出ていない。
というじれったさがあります。

こういうものも含めて北朝鮮が今まで拉致してきた証拠その他報告に対して、日本政府は「誠意ある対応をしない限り厳しい対応をとる」とハッキリ申しましたが。
そう言っていながら3ヶ月以上3・5ヵ月ほど経ってますね。
一体どうなってるんだ?ということもあるんですが。
というような場面を見ますとこう着状態になってますが。
我々4月の24日国民大集会をやる前に全国で々浦々こういった集会を精力的に開いております。
参加者も以前よりも相当増えておりますし、力強いものを感じています。
そういった国民の力をですね、ぜひ24日に終結して強い態度で政府にも訴えかける。
ということにしたいと思いますので皆様のご協力を更にお願いします。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)

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寺越家を救うぞ東京大会(5)~増元照明さん~

増元照明事務局次長のお話

皆さんご存知の通り、寺越さんの事件は我々も家族会結成して2年目くらいで友枝さんが確か来られて。
一緒に来られてやろうという話になってたんですが、母親として非常に心が揺れていたみたいで。
果たして拉致という被害者家族会に入られてそれが武志さんに何か被害が及ぶのではないか?と。
おそらく先ほど言ったように朝鮮総連とかいろんな代議士から色々な圧力がかかって心変わりをして、その後ほとんどお会いしておりません。

でも確か民放でしたけども、その中で武志さんが拉致かどうか聞いたら、涙ながらに「口が裂けても言えないし墓まで持って行く」と仰ってた。
これが拉致であることを物語ってるわけですけども。
そこまで苦しめている北朝鮮と言う、それに対して非常に私たちは怒りを持っておりますし。 現在拉致被害者は特定失踪者を含めて100人以上いるというふうに考えられております。
国民の皆さんに10件15人ではないということ。
100人以上下手をすればもっと、更に大勢の方が北朝鮮に連れて行かれていると言う事をもう一度認識していただいて。
北朝鮮の脅しには屈していただきたくない。
北朝鮮へ制裁を課せば宣戦布告とみなすと言ってますが、国家主権を侵して日本人を連れて行った時点で北朝鮮は日本に宣戦布告しているわけですから。
そんなことに怯えていてはこれから先また同じことをやられてしまうと。
本当に自覚していっていただきたいと私は思っています。

いま日本政府がやることは速やかに被害者を取り戻すことである。
それが当たり前のことだと私は思いますし。
寺越さんたちはお父さんの遺骨を返せと。
被害者家族として返せと、当たり前のことを言ってるんですけども、日本の政府も強く言ってませんし、そして赤十字もなかなかそれに対して動こうとしない。
北朝鮮は家族が反対するから返せない。
昭二さんの息子さんである昭男さんたちが返せと言ってるのに、それに対してそういう言い訳をしている。
非道な国に対して、政権に対して、私たちはここで怒りをぶつけるべきではないでしょうか?
冷静に怒りをぶつけてそれが拉致問題の解決につながるし。

先ほど副代表が仰ってましたように4月24日ぜひ溢れるように。
おそらく日比谷公会堂2000人くらいしか入れないので、外であふれる人の方がもしかして多いかもしれません。
そういう状況になっていただきたい。
中で2000人、外で5000人くらい。(笑い声)
それくらいの状況になるように私は望んでおりますので、ぜひ皆さん、お近くの人を誘い合わせて。
4月24日、日比谷公会堂、14時からやっておりますのでよろしくお願いします。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京大会(6)横田拓也さん

『横田拓也氏のお話』

皆様こんばんは、いつもありがとうございます。
今お話を伺ってまして、本当にいろんな方面から過去からこれまで、現在進行形と言う形でいろんな圧力とか誘惑・だましの手口というものが私たちの周りにあるということを改めて認識いたしました。
こういったものに絶対に屈してならない。
家族を取り戻すという原点を大切にして行くということと、そして正義を守り通していくという事が本当に大事なんだと思います。
こういった中、人間として本当に基本的なことを私たちはお一人お一人の国民の皆様方に訴えて。
そして共感を得ていただいて、この厳しい現実を乗り越えていくことが出来ればと思っています。

今日はお話を聞いている内容とは別件なんですが、横田家の事としてひとつお話を申し上げられればと思っております。
これまでも私や国民の皆様のほぼ多くの方々の一致した認識といたしまして、北朝鮮政府の言ってる事柄というのは全て嘘である、ということは申し上げるまでも無いことなんですが。
ここで北朝鮮側がまた横暴なことを言ってるわけなんで、私も再度これまでの資料を読み返してまいりました。
で、そのなかで北朝鮮政府が言ってることの嘘を発見いたしましたので、お話が出来ればと思っております。

これは第3回日朝実務者協議の終わった後にですね。
北朝鮮政府が日本政府に説明したことを、日本政府が家族会の各家族に示した資料であります。
これはたまたま表紙が横田めぐみと書いてまして。
向こう側が話したことをここにまとめて各家庭に配ったということであります。
この資料、おそらく過去にこういった会合の中ででですね。
マスコミの方をはじめとしてご案内された資料かと思います。
ここに書いてあることをもう一度読み返してみたいと思います。
一部でございます。

「93年9月21日までは695病院で治療を受けた。
めぐみさんの精神状態を積極的に治療するため、95年3月平壌スンホ地区の49予防院に入院させた。
尚前日まで義州の精神病院に入院させることも検討されたが、少し様子を見ようということでこの49予防院に入院させた」

ということが書いてあるわけであります。
ここまでの情報はすでに皆様承知されている内容かと思います。
他方で私たちは日時のお話は避けたいと思いますが、蓮池ご夫妻からですね。
横田家としてお話を直接伺った機会がございます。
その場で彼らが私たちに何を証言してくれたか?という事をお話をしたいと思います。
まずはこれは全てを語るわけに行かないので一部、今のところに関連したお話を申し上げたいと思います。

「めぐみさんは新義州の隣の義州の病院」
これ何号病院ってある数字が付いた病院なんですが。
何々号、って例えば1号とか2号とか数字の付いた病院なんですが。
「新義州のとなりの義州の病院に行った」ということを言っておられました。
「めぐみさんの病院はテレビ一台と若い看護婦が付き添うという特別待遇のものであった」と言うことが書かれています。
そして「この話はめぐみさんを病院に送り届けた運転手からの話である」というふうに、蓮池ご夫妻は私たちに語って下さっております。

ここ先ほどともう一度読み比べてみますと、間違いがあるわけです。
彼らが話をしているのは義州に行くことは前日まで検討されたが行かなかったと。
私たちもしくは日本政府に公式な場で説明をしてるわけなんです。
しかし、実情を承知されている蓮池ご夫妻は、私たちに義州に行ってるんだということを言っておられるわけです。

つまりこの時点でもっと、日本政府は事態を把握しているわけですから、北朝鮮政府に対して「お前たちの言ってることは嘘じゃないか」と言う必要があったと思います。
今でも言えるわけなんです。
それは日本の政府・外務省も承知しているわけなんですから、対話対話と言うことを繰り返してますが。
先ほどから家族会のメンバーが申し上げてるように、何も圧力も加えていませんし、対話のひとつもしていません。
何も口にしていないに等しいわけなんです。

そういった意味では、こういった大きな偽の情報をつかまされて、嘘だとわかっているのであればもう少し日本政府は、黙ってるんではなくて大きく(口を)開けて。
お前たちのやってること言ってることは間違ってるんだと、実力的な行使を持ってですね。
態度に変えて言って欲しいと思っています。
私たちは先ほど言いましたように、4月24日に日比谷で国民大集会を開きます。
私たちは小泉総理になんとか自分たちの家族を取り戻すために、具体的な制裁の発動をして欲しいと言うことを訴えて、そして小泉総理にお願いする場にしたいと考えています。

また嘘の情報があるということを改めてお話をさせていただいくと共にですね。
本当に緊急に、どの家族も政府の認定・非認定に関わらず急ぎでやって欲しいということを思います。
こちらからは今日は寺越さんの日なので余り時間をとるつもりはありませんが。
ひとつ読み返しをいたしまして重大な事実がありますので、これは放っておくと生命に関わる問題ですのから。
日本政府が政府として国家の基本機能として、人間として親父のひとりとして総理が具体的な行動に出て欲しいというふうに思います。
以上でございます。(拍手)

すみません先ほどの病院の番号を言いませんでしたが、蓮池ご夫妻が言った病院も番号は、義州の39号病院だと言うふうに聞いております。
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寺越一家を救うぞ東京集会(7)西岡力さん-1

西岡です。
まず寺越事件について、今安明進さんの証言の話が、寺越さんたちからそして大口事務局長から出ていますが。
実は最近安明進さんが本を出しまして。
「新証言・拉致」と言うこの本の中にその証言が出てきています。
それはすでに私が、これは正論の2003年12月号に書いたんですが。
2003年の10月くらいに詳しく聞き取りをしていまして、それを元に救う会石川が刑事告発をしたと言であります。
その事をまずご報告したいんですが。

2003年の9月にですね、安さんと一緒に石川に行ったんですね。
事故があった現場を見に行ったわけです。
そこに行きますとね、網をかけてた所は100メートルくらい。
海岸から離れている磯なんですね。
たった100メートルしか離れていないんです。
すぐ近くです、見えるんですね。

ハチメ漁ですね。
メバルの事をハチメと言うんだそうですが、私も知らなかったんですけども。
の網をかけていたと。
そして安さんが海の方を見ないで後ろを見るんですね。
なんで後ろを見るのかな?と思ったら
「ここは上陸地点として大変良いんだけども、海から見て何か目印があるはずだ」と。
磯でしてですね、すぐ後ろに道があるわけです。
しかし街灯も無くて寂しいところなんですね。
磯からすぐ上がったら道があってどこかにいけると。
そして寂しいところだと。
大変上がるのに良いところだと。
しかし何か遠くから見て目印があるはずだときょろきょろしてたんですね。

そしたら当時のことを知ってる寺越家の親戚筋の方がですね、実はあの山の上に大きな松が昔あったんだと。
一本松として有名でそこの下にござを敷いて芸者を上げて遊んだもんだと、いうふうに言ってたんですね。
だからつまり入ってくる時に遠くから見えるわけです。
あそこが上陸地点だと。
その松を目標にして工作船から小船が出て来て、それからゴムボートで上がってくるわけです。
あるいは工作船が近づいてくるわけです。
60年代は小船とかゴムボートがあったかどうかちょっと分かりませんが、目印があったということで、大変良い場所だと、言うことが分かってですね。
そして実はと言って、先ほど名前が出てきましたオ・グホという政治軍事大学の自分の担当の教官からこういう話を聞いていたんだと言って、詳しく話をしてくれたわけなんです。

それはですね、1988年のことなんです。
安さんは87年に入学してますから2年のときですね、大学の。
その時に88年の10月にめぐみさんたちを目撃して、チョン教官からあれは俺たちが拉致した女の子だと話を聞いていたので、安さんのクラスは拉致問題について皆関心が高かったわけですね。
そして航海の授業があるんです。
つまり船に乗って航海して進入するための航海術の授業があるんです。
その担当教官がオ・グホだと。
オは呉と書くんだと思うんですけど。
グホはちょっと漢字が分かりませんが、求めるとさんずいに告げる(浩)かなぁ?と。
朝鮮は漢字使わなくなってるので分かりませんけどね。

彼は当時88年に60歳くらいで航海講座の副講座長をしていたと。
61年くらいから17年間、清津連絡所で工作員をやっていたと。
たたき上げの人なんです。
講座長は上から来た幹部らしいんですけど、彼はたたき上げで清津連絡所でずっと60年代から工作員をやってて何度も日本に侵入した事のある男だった。
清津と言えば日本担当ですから。
そのあと17年間工作員をやったあとも連絡所の幹部をやってて、80年代の半ばまで清津にいたというんです。
60年代から80年代の半ばというのはまさに清津連絡所で日本人拉致が行われていたときに、ずーっとそこにいたわけです。
(日本人)拉致のことを知ってる人が、引退して学校の先生をやっていたと。

そしてですね、航海術で授業でですね。
「わが国の海岸線は単純だけど、日本は凹凸が多い。砂浜が多いから地形を見て航海することは容易ではないんだ」と。
「韓国の方は山がすぐ海につながっていて地形を見ながら航海することは簡単だ」と言うような授業をしてたんだそうです。
そしたら学生がですね。
「教官、日本によく侵入したんでしょ?」と聞いたんだそうです。
「そうだ、よく行ってきた」と。
「俺は日本にだけ行ってきて南には行ってないんだ」と言った。

学生が「チョン教官が拉致したと言ってるんですけども、オ教官の時も拉致がありましたか?」と。
チョン教官も清津ですから。
オ教官よりも後輩ですけども、めぐみさんを拉致したと言ってるからその話をしたわけです。
同じ清津出身ですからね。
そしたら「俺たちもたくさんやった」と。
「俺が元祖だ」と。
「俺たちがやったのが一番先だろ」と。
「1960年能登半島に入って俺たちは3人拉致してきた」と言ったと。

60何年かもその時はっきり言ったというんです。
安さんは今その数字は覚えていない。
ノトだったか?トロだったか?
半島だったか?湾だったか?
とにかくそういう音の地名を言ったと、いうふうに覚えていると。

「その時も拉致をしてたんですか?その話をしてくださいよ」と。
つまり金正日政治軍事大学では76年に金正日の拉致指令が出てその後拉致が本格化したと、安さんたち習ったわけですね。
60年代にも拉致があったと言ったから、「そのときからやってたんですか?だったらその話聞かせてくださいよ」と、学生たちが質問したと。
「駄目だ、授業続けなくちゃいけない」と言ったんだけど「お願いします」と言ったもんで、「それじゃあやってやろうか」となって。

「夜日本の海岸に船の明かりを全く消して低速で侵入して来たんだが、思いがけない場所に小さな船が突然現れて、大声を出して何か言ってきた。
声が聞こえてそれが分かった。
お前たちその場で状況判断をしなきゃならない。
任務は遂行しなきゃならないけれども目の前に誰かいる」
学生たちに「お前たちならどうする?」
授業で言ったそうです。

だいたい雑談の方が人間ってよく覚えてるんですね。
講義はよく覚えてないけど、こういうのはよく覚えているんだと、安さん言ってましたけど。
それで学生の誰かが「殺さなければなりません」と。
つまりそれは上陸地点を守らなくちゃいけないんです。
何回もこれから使わなくちゃならないんで、工作船で見られたと。
そしたら殺さなきゃならないと言うのが工作員学校での正解なわけですね。
そしたらオ教官が「子供がいたらどうする?」
で学生たちは子供も殺すのか?という事になって沈黙をしたというんです。
そしたらオ教官が「子供一人のために革命事業を駄目にするのか?」というふうに言って。
「その時も子供がいたんだ」と。

「子供でも殺さなきゃならない。
しかしその場で殺して遺体を放置すれば次に進入する時に疑われる。
疑われない場所まで乗せていってそこで殺して捨てなければ駄目だ。
それでこちらに乗り移らせようと何回も上がって来いと言ったが、聞かなかった。
小さな子供が怖がって大声で泣いたと。
泣き声が大きかったのでその場で子供をかばっている人を射殺したと。
その後ぶるぶる震えている子供一人、大人一人を乗り移らせ、死体を乗せ上げた。
彼らの船が証拠として残るから、こちらの船を一度後退させてその船をひき潰した」

学生が「死体をなぜ船に乗せたんですか?」と聞いたと。
実は訓練の中で工作員の学校では学生が死ぬんですね。
死ぬことがあると。
死体ってのは重たいんです。
学生たちは死体が重たいと言うことを知っていたから、死体を引き上げるのは大変だったろうと思って聞いたと言うんです。

「死体もひきあげるんですか?」
「船にはロープがたくさん有るだろう、死体一つ持ち上げられなくてどうするんだ?」と。
ロープ術というのを習うわけです。
ロープで荷物を持ったりとか。
「じゃあ清津まで死体を乗せてきたんですか?」と学生が聞いたら
「馬鹿、何キロか行って捨てたんだ」と。
「でも死体はそのままでは沈まないじゃないですか?」
「潜水で使う鉛の錘があるだろう。それをいくつか紐で結び付ければ沈む」
という会話だったと。

具体的ですよね。
そういう言う会話があったわけです。
ただしその話の中で一つだけ矛盾することは、船が証拠として残るからこちらの船を一度後退させて衝突させてそしてひき潰したというけれど、実は清丸はひき潰されてなくて船首の所にぶつかった痕があったと。
そしてそこに緑色のペンキがあったんですね?(隣で昭男さんの「そうです」の声)
ペンキを、つまり日本の漁船と衝突したんじゃないか?ということで海上保安庁がずい分捜査したんですね。
そしたら外国製だと、その塗料がですね。
そしてあたりを操業していた船にそのペンキを塗った船は無かったと、言うところまでは分かってる。

真っ暗な海ですから、小さな船だったので速度を上げて高速で工作船とぶつかった時に、逆に波が起きて潰したと思ったけど、船首だけ当たってくるくる回ったか何かして残ってたんじゃないか?と。
小さな船だからそれで水が入って沈むんじゃないかということじゃないか?と推測されるけど、そこだけ辻褄が若干合わないんですけど、今のような説明を考えると合うと、いうことなんです。

それからもうひとつですね。
実は安さんは寺越武志さんを政治軍事大学で目撃してると言ってるんです。
今の話は88年ですよね。
その後3年後の91年の9月くらいにですね。
オ・グホ教官が引率して実際に工作船に乗って海上訓練ってのをやるんです。
だから安さんもああいう船に乗ってたわけですね。
乗って訓練が終わって学校に戻って来たと。

そして大学の中に倉庫がありましてね。
濡れた装備を乾かして、午後4時から5時くらいに6~7人の学生がオ教官と一緒に装備をトラックに積んで倉庫に行ったわけです。
学校の中の。
装備には武器もあるもんですから管理が厳しくて、倉庫長と教官がちゃんと戻しましたとサインをしなくちゃいけない。
システムになってたから教官もついていった。

安さんは倉庫の中に入って装備を運んで、他の学生は倉庫の外で作業をしていたと。
トラックから降ろしたりして作業をしていたと。
外にいる学生のそばにいる教官がいて、何か日本人について話をしているのが倉庫の中でも分かったと。
装備返却が終わりオ教官と倉庫長が確認作業をいているとき、トラックの荷台に座っていて学生たちがタバコを吸っていたと。
そして安さんが他の学生に「さっき何の話をしてたんだ?」と聞いたと。

丁度その時にですね。
安さんたちが作業をしていた所から10メートルか15メートルくらい離れた所にある通信装備の倉庫の前にトラックが止まっていて、そこで2~3人の私服の男が。
工作員学校の生徒も教官も軍服なんです。
日本人教官は私服なんです、外国人教官は私服なんですね。
私服の男が通信装備を運び込む作業をしていた。
安さんの同僚の学生が「あれをみろ」と言って、「どいつだ?」と安さん聞いたらばですね。
「あの男だ、オ教官が拉致したんだって」と言ったんだそうです。
学生が「小さい時に拉致してあそこまで大きくなったって、自分が育てたかのように自慢してたよ」と。
安さんに言ったと。

顔を見たらですね、寺越武志さん。
今思い出すとですね。
安さんの記憶力というのはかなりの物ですから、こういうことも言えるのだと思いますけど。
顔とよく似ていたと。
髪型も今の武志さんと同じで眼鏡もしていたと。
その安さんの同僚の学生が「教官が自分の家にもよく来る」と言っていたと。
「誕生日にはいつもお祝いを持って来るんだ」と。
別の学生が「教官がここに出入り出来るようにしてやったらしい」
自分が拉致したもんで、政治軍事大学に出入り出来るようにしてやったらしい。

また別の学生が「あの男からも外貨を取ってるんじゃないか?」
オ教官はですね。
実は拉致された日本人を自分の家に出入りさせて、その日本人から外貨をせしめていると言う噂が流れてた。
実は安さんはオ教官の家に、学内にあるんです。
射撃場の下にあったんですけども、そこに何回か言ったことがあって、そこで市川修一さんを目撃してるんです。
そういうこともあってですね、「あの寺越さんからも外貨をせしめてるんじゃないか?」と噂が立ってたと。

教官は学生たちに「学生は自分で持ってくるって教官言ってたぞ」
そういう会話があったと。
そしたらオ教官が話をしている学生たちに近づいてきて。
学生が「あの日本人と挨拶しないで分かれていいんですか?」と聞いたんです。
「俺のうちによく来るんだ」と言って声をかけないでそのまま別れたと。
というやり取りがあったと、安さんは覚えている。
現場の様子からしてもですね、矛盾が無いんですね。

先ほど現場のところで言うのもうひとつ忘れたんですけど、網をかけてるところがありましたよね。
当時網というは高価なんですよね。
その網はですね。
現場で聞いたんですけど、いつも同じ磯にかけるんじゃなくて、移動させるというわけです。
たまたまその日現場にかけたんですね?
たまたまそこが松の木の所だったんです。
何回も上陸地点として利用しているところに、その日網をかけちゃったんです。

普通ですね、こんな小さな船に乗っていて大きな怪船舶が来たら逃げるんです。
声なんかかけない、近寄っていかないんです。
怪船舶を目撃している漁船の情報ってのはたくさんあるんですけど逃げるんです。
自分の網があるもんだから近づいて行ったんです。
真っ暗な中、静かに低速で工作船が入って来たんだけど、網のところにいるわけですから。
真っ暗だけど何か来るのが分かるわけなんです。
網の傍にいて漁をしてたんですからね。
夜中の真夜中ですけどね。
だから大きな声で「ここに網があるんだぞ!」と「近づくな!」と言った。
で見つかった場合は殺さなきゃいけないと言う原理がある。
騒いだんで一人殺したけど子供がいたから、その後言ってませんけどそのまま連れて帰って来た。
状況がぴったり合うわけです。

そして今お話で記憶の問題だとか墓の問題、つまり5年間一緒にいたんであればね。
昭二さんのことについて武志さんは知ってなくちゃいけないのに、今現在その話は一切出て来て無い。
そして誕生日の、この墓の写真も寺越さんたちが家族会に入ってから後出てきたんですね。
新しく作ったわけですから新しいわけですよね。
3月30日となってる。
31日なのに30日となってる。
生まれた日と死んだ日とがなってる。
友枝さんの記憶違いだったのか?
あるいは外雄さんが聞かれたときに、もしかしたら後で昭二さんのことが問題になる時が来るかもしれないと、一日意図的に違えて教えたか?
兄弟ですからね。
兄貴の誕生日をどれくらい覚えているかどうか?ね。

(昭男さん)
それにうちの兄弟は11人と多いですからね、全部は覚えておれないと思います。

(西岡氏)
昔みたいに誕生日祝いとかそういう習慣無かったですからね。
そうすると、もしかしたら友枝さんがうろ覚えでどこかで調べてこうだと、戸籍謄本を調べてなかったと。

(昭男さん)
この写真がこの写真の半年後に撮った写真なんです。(墓の写真を一枚示す)
わずか半年でこれだけ汚れるんですね。

(西岡氏)
ああ、そうですね。
本当に汚れてますね。
人が来る時に磨いてたんなら、このときも磨いてなきゃおかしいですよね。

(昭男さん)
だから本当にこれは武志が帰ってすぐに作って、正枝にこの写真を撮りなさいと。
おそらくそういうことではなかったかなぁ?と
でなければ正枝さんが行く必要はなかったわけです。
わざわざ。
武志が帰って来てわずか2週間でなぜ行く必要がありますか?
わざわざこの写真を撮りに行ったんだ。
こっちの写真をね。

これが叔父の外雄さんの墓らしいんですけど、こうして草っぱらに寝かせてあるっていうか。
こういうふうに傍らに寝かせてあるって言うか。
墓の全景と言うのはこれなんですけど、小高い丘に墓があるそうなんです。(山の風景写真を示す)
北朝鮮では目上の人の墓を上につくって順番に段々下がって来ると。
うちの父親の下に外雄さんの墓があると。
ちなみに武志はうちの親父の息子として向こうで生活しとったと、いうふうに友枝さんが言うとって。
親父の墓の喪主は武志なんだと。
北朝鮮は家族が反対しとるいうのは武志が反対しとるんだと言うことで。
で反対する理由は、本当は無いはずなんだけどね。
そうでしょ?
本当に救助ならば遺骨を持ってくればいいわけです。

前に友枝さんが遺骨を持ってきてやると。
日本政府にも私らにも渡さん。
本願寺に、西本願寺か東本願寺かちょっと私忘れましたけど、本願寺へ持っていくと。
どういうことなんかんぁ?と
本願寺へ持ってって、無縁仏にすれば(他人の骨と)皆一緒になって、私らの親父の遺骨が分からんようになるんやないか?と。
そういうふうに考えたんじゃないか?と。
ということは鑑定をされたくないという思いがおそらく出たんじゃないだろうか?と。
で私らとしては遺骨を確保した時点でもう明らかにそれは偽物であると思ってますので、政府には私らはまだ葬式はしてないので、遺骨はそのままに返還して欲しいと斎木さんにもお話してるんですが。
北朝鮮は出す時にはおそらく火葬して出して来るんじゃないか思っています。

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寺越一家を救うぞ東京集会(8)西岡力さん-2

(西岡氏に戻る)
問題の本質はですね。
北朝鮮に身柄があるときに本当のことが言えるかどうか?なんです。
寺越武志さんは今北朝鮮に身柄があるわけなんですね。
北朝鮮で結婚して家族もいるわけなんです。
我々はすでにそのことについて実際に経験しているわけです。

5人の今帰って来て日本で家族と一緒に暮らしている被害者も、北朝鮮にいて最初に外務省の調査団に会ったときは「日本に行きたくない」と言ってたんです。
「北で幸せに暮らしている」と言ってたんです。
ですから、「両親に会いに来て欲しい」と言ってたんです。
それは事実です。
しかし日本に帰って来て、子供は置いたまま日本に帰ってきましたけれども、政府に対して「日本政府が守ってくれるなら日本に残りたい」と意思を示したんです。

その意思が示せたのは実は中山恭子さんが参与になって安倍晋三先生が副長官で。
北朝鮮の影響下から被害者を離さなければ自由な言論は確保できないと。
いうことで5人については北朝鮮から案内人が付いて来たんですけども、羽田に着いた瞬間から引き離してしまった。
一切連絡をさせなかった。
そこで警戒心が解けて、それで秘密ですけど政府に本当のことを言ったと。

そしてつまりジェンキンスさんも同じですね。
小泉総理が去年の5月に会った時も「行きたくない」と言ってたんです。
「日本には行かない」と。
小泉総理が「Guarantee(ギャランティー 保障・保証人の意)」と紙に書いてるのに「行かない」と言ったんです。
ところがジャカルタでは何日か経ったら行くと言った。
その違いはジャカルタで支援室が主体となって、北朝鮮から案内人が付いて来たんですがそれとは引き離した。
会わせなかったんです。
あの時ホテルの大変高いところに入ったとか、チャーター便を使ったとか言って一部週刊誌に批判されたんですが。
それをする必要があったのは、北朝鮮の影響下から離す必要があった。

チャーター便に入れてしまえばそこは日本の主権下なんです。
そしたらあなたはここの席ですよとか、言えるわけです。
そこからもう北朝鮮の案内人と引き離す。
実は北朝鮮の案内人と称する人たちは、曽我さん一家が大変世話になった担当者だったんです。
ジェンキンスさんとすればこの人が責任取らされるかもしれないと。
自分が指示通りひとみさんを平壌に連れて帰って行かなければ、この人が責任を取らされるかもしれないというような人を付けてくるわけです。
接触が出来るような状況では、なかなか北朝鮮からの影響下が排除できない。

しかし当時日本政府はそれを分かって、だからホテルのワンフロアお金を払ってでもそこ借り切って。
エレベーターそこ止まらないようにして。
曾我さんたちの部屋の内線電話を抜いちゃって。
北朝鮮の連絡員が同じホテルにチェックインすることを想定してですね。
実際ジャカルタにある北朝鮮大使館がそのホテルを取ってたわけです。
でも内線電話が無いから連絡出来ないんです。
として、だからジェンキンスさんは「日本に来たい」と言ったんです。

ところが武志さんたちが最初に帰ってきた10月3日というのは大変不幸な帰り方をしたわけです。
24時間、通訳と称する人がずっと付いてたんです。
主権を持った日本国に拉致被害者である可能性が高い人が帰って来たときになぜ?日本国は武志さんの言論の自由を回復する最低限の措置を取らなかったのか?
それは先ほどから北野さんが言ってるように2次的な問題についての責任は、かなりの部分日本政府にあると。

友枝さんや武志さんが今こういう言動を取ってるというのは、実はそれは5人の人が平壌にいたときと同じなんですね。
ジェンキンスさんが平壌で総理と会った時と同じです。
すべて隠しマイクがある。
報告されると。
いう状況の中で言論の自由はあるのか?と言う事ですよね。
そうだとすると平沢先生が言ってるように、「本人や家族が拉致を認定してくれと言わなければ拉致の認定が出来ない」と言うなら、蓮池さんたちだって認定できないですよね。
平壌にいた時。
曽我ひとみさんは朝鮮語で「将軍様のお陰で幸せな暮らしをしている」と言ったんですよね。
日本語も忘れてたわけです。
しかし今はあの顔をみて、ホッとした顔をいるんですね。

まだ私たちは目の前にいる武志さんをホッとさせることが出来ないでいる。
分かっている人も助けられないと言う歯がゆさを今日もまた感じるんですね。
やはり国家意思の問題だと思うんですね。
目の前にいる人を助けるんだと、あの時中山参与がやったことはそういう事だったわけですね。
それを出来ない。
武志さんが帰ってくることを日本の中で取り仕切ったのは森事務所ですから
森喜郎先生は何を考えているのか?という事になるわけです。
日程の調整などは森事務所がやってたんですね。
「日本に帰してやるから、静かにしていなさい」と言ったんでしょうか?
どちらの側の政治家なのか?と。
元総理たる者が、いったいどちらの側の政治家なのか?が問われる対応だったと思います。

昭男さんの家族の立場からすると、このまま日本政府が認定しないまま事態が推移して、日朝国交正常化になると、北朝鮮に家族が救助してもらったんだという事になってしまうと。
家族として感謝しなくちゃいけないという状況に今なってると。
北朝鮮の言ってることに一理あると日本政府が認めてるということは。
あなたたちは北朝鮮に救助を感謝しなさい、と言うことを日本国民に強要する政府なのか?
それは絶対したくないというのが、それが家族会に入られた。

武志さんの身の安全ということがあって、2002年の9月、金正日が(拉致を)認めるまでまで入らなかったけど。
金正日が拉致を認めた以上拉致と言ってももう大丈夫だろうと。
国交正常化になって、救助と言うことだけは絶対に認められない。
武志さんだって、安明進さんの言ってることが本当であれば、自分をかばって死んだ人の真実を話すことが出来ない。
それも大変むごいことだと思いますね。

そういう人を守るのは国家しかない。
そういう状況に日本国民が置かれているというのが、それが分かってるということ。
いま増元さんたちはめぐみさんのことが分からない。
どこにいるのか分からない状況だけど。
武志さんについては分かっているのに助けられない。
特に日本に来たわけですよね。

国民の関心も高かった9月17日の後に日本に来たのに、北朝鮮の見張りから切り離して寺越家とじっくり話をすることが出来るような状況を日本政府が作らなかった、その責任は重大だと。
自由な言論をさせないような状況を作るのに、逆に日本の政治家が加担していたと。
もっともっと現在の与党ですね。
ということではないかな?と。
極めて政治の問題で日本が本当に国家なのか?と。
我々は4月の24日にこれだけの嘘をつかれてなんで経済制裁をしないのか?と。
日本は国家なのか?と言う訴えをしようと思いますけど。
実は寺越事件だけでも国民大集会をやってもいいくらいの、重大な主権侵害・人権侵害を目の前でされていて。
証拠は全部揃ってると、いうことではないかなぁと思っています。

もちろんですね。
申し訳ないんですけど、生きてるって分かってる人たち、あるいは亡くなってると言うことがほぼ確実な問題ですので。
めぐみさんたちやるみ子さん達は今も生きて救出を待ってますから。
我々の運動としては優先順位が低くなってるということは申し訳ないんですけど。
このまま行くしかないとは思ってますが。
本質的には本当に重大な問題で、拉致特議でもきちんと議論していただきたいと。
もっともっと多くの人たちにこのことも分かって貰わなきゃいけないなぁと。

今日は初めて東京でですね。
寺越さん事件について。
寺越さんたちは家族会の一員として何回も東京に来てますけども。
先ほども言ったように登場人物が多くてですね。
名前も違ってたりしていろいろ難しくて。
中々家族会でも副代表でも良く分かってないと仰ってたんで。
今日ゆっくり話を皆で聞けたことは良かったと思いますけども。

こういう集会を各地で、東京でもやりましたけども、全国で寺越事件についての集会をやりたいと思ってまして。
北海道でもすでにやりまして。
またこういう事をやりたいと思います。
ぜひ周りの人たちにですね、この寺越事件のことも、日本政府はやれば出来たのにしなかった
見捨ててきた、そのひとつの例としてお伝えいただければと思います。(拍手)

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寺越一家を救うぞ!東京集会(9)もう一度寺越昭男さん

最後にこれは私の叔父、神戸に昭二のすぐ下の叔父・クニオさんと言う人がいるんですけども。
クニオさんが私に言った言葉でちょっと印象に残ってる言葉なんですけども。
うちの父親は5人なんです。
男兄弟。
男5人女6人の全部で11人のきょうだいなんです。
5人しかいない男兄弟で、なんのゆかりも縁も無い北朝鮮で3人骨を埋めるのは、うちの親父も北朝鮮に骨を埋めたと仮定しての話なんですけども。

なんの縁もゆかりも無い北朝鮮で3人も兄弟が骨を埋めるのは情けない話だと。
というのはうちの親父、外雄さん、で最後に武志の父親(=太左衛門さん)。
3人が本当にに何のゆかりも無い北朝鮮で骨を埋めることになるのは情けない。
私も本当にどうかやぁ?と。
今現在生きとるのは神戸の叔父さんと北朝鮮にいる武志の父親だけなんです。
ちなみにこれは叔父さんがここにおったらこういう話をしてくれるやろうな、ということで最後に話をさせていただきました。
ありがとうございました。(拍手)

(会場より質問)外雄さんの死亡原因は間違いないんですか?向こうの発表は?

(昭男さん)
多分間違いはないんだと思いますが、私らには全然分かりません。

(同じ質問者)肺がんですか?

(昭男さん)
そういうふうになってますけど。
亡くなる前に親族って言うかな。
きょうだいのところへ電話をかけて来たらしいです。
で、ただ本当に残念なのは北朝鮮の言うように救助っていうんであれば、病気になった時点で友枝さんは知ってたわけですから。
友枝さんが日本政府に働きかけて日本で治療を出来るように、やっぱりそういうふうに働きかけをしてくれればよかったなぁとは思ってますけど、私らは全然知らなかったもんで、その時は。

その当時は全然病気であると言うことも知らなかったし、亡くなったということも本当に後から聞いて知ったわけなんですけど。
拉致って言うのは中々駄目だと思うんですけど、救助をされたって言うなら北朝鮮では治療出来んから、日本で治療したいからと日本政府が働きかけをしてくれてもいいがじゃないかな?と思うんですけど。
そういうことが出来なかったのは残念だなと思ってますけども。
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寺越一家を救うぞ!東京集会(10)もう一度西岡氏

最後に今後の予定、運動の展開についてご説明して時間ですので終わりにしたいと思います。
ご承知の通り4月24日ですね。
4月24日の2時から4時まで、「小泉総理の決断を求める国民大集会」を行います。
3時間ありますので、あまりたくさんの人に代わりばんこに話してもらわないで、今回は家族会の人たちにパネルディスカッションみたいに座ってもらってですね。
特に帰って来られていない10人の家族の人たちが、心の中で心配を思いながら今制裁しかないと思ってると。

一日一日向こうにいる人たちは今日どうしているだろうか?と思いながら過ごしていると。
早紀江さんなども今大変疲労感を覚えていらっしゃる。
色々な週刊誌に情報が出ますけど、それが本当かどうか?確認するすべはないし。
本当だとしたら、今度は本当のことが出てしまったら、北朝鮮に響いて娘の身に何か起きるかも知れないとか。
毎日いろんなことを分からなくて心配しながらというのは大変なんですよね。

逆に増元さんたちなどは何にも情報がないという辛さがある。
たくさん出てくる辛さもあるし何にも無くて待ってるという辛さもあると。
そういう中で日本政府が始めて厳しい態度をとると予告して4ヶ月経つんですけども。
このまま言ったら日本政府言ってることは虚勢であって、そんなに怖がることは無いと金正日が思ってしまったら、圧力にならないじゃないか?

12月に厳しい対応をすると予告したんですから、そうなったら拉致問題を日本は重視していないという、間違ったメッセージが金正日やその周辺や中国や韓国やアメリカに送られてしまったならば。
これから核問題などで情勢が緊迫したら、拉致は棚上げになってしまうかも知れないと。
いう強い危機感を持ってるという事に付いてですね、ぜひ皆さんに。
やっぱり国民の皆様に真正面から訴えるしかないと言うこと意外に無いと思ってますので。
なぜ経済制裁を今我々は訴えるのか?ということを分かってもらえるような、そういう時間をたくさん取る集会にしたいと思っています。

もうひとつ北朝鮮の核問題がクローズアップされていて。
国際社会は拉致問題より核問題になって、アメリカを含めて今すぐに日本が経済制裁単独でという事に、手をあげて応援してくれているという雰囲気じゃないんですね。
それでもう一度、アメリカに家族に行ってもらおうと。
24日が国民大集会ですけど、25日に増元さんとうちの島田洋一副会長二人でワシントンに行ってもらいます。
・・・
実はワシントンで26日~29日、北朝鮮の人権問題のパネル展が開かれるんです。
4月28日は北朝鮮のフリーダムディがありますので、そこでパネル展で日本人拉致について訴えると。
あるいはスピーチをすると。
日本人拉致のパネルもそこで展示すると。
そしてそれだけではなくて、ワシントンですからアメリカの議会関係者、国務省や政府関係者にももう一度会って。
偽の遺骨が出てきて偽の死亡診断書が出てきて、我々としては必死の思いで制裁を求めてるんだと。
ぜひ実情を分かって家族のサポートをして欲しいという訴えをして来てもらおうと思ってます。
そして同じパネル展がロサンゼルスでも開かれるんで、それが5月の9日から12日なんで。
5月8日から12日まで家族会と救う会で行こうと準備してます。

実は私が行こうかと思ってたんですが、もうひとつ5月12日に東京でこの集会の連続集会。
19日と予告してたんですが12日に決まりました。
今度は佐渡から曽我ひとみさんが東京へ出てくるということになりまして。
お母さんの救出を訴えたいと。
家族会の一員としてお母さんの救出を訴えるために出て来たいと。
ですからこの連続集の次は「曽我ミヨシさんを救うぞ!東京集会」という事になります。
ちょっとここでは多分入りきれないだろうと、豊島公会堂を取りました。
豊島公会堂で6時半から曽我ひとみさんが参加して、お母さんの思い出をじっくり語ってもらってお母さんの拉致について解説するという集会にしたいと思います。
19日と予告しましたが12日、第二木曜日だって事は変わりませんので。

ですから4月24日があって、その後15日からワシントン、5月8日からロサンゼルス、5月12日にはもう一度東京で曽我ミヨシさんの集会をするということですけど。
ここにいらっしゃる皆さんは我々の味方ですので、ボランティアなど色々な事をお頼みしていることが多いと思いますけど。
24日以降も精力的に全員を取り戻す活動を続けていきますので、今後ともよろしくご支援下さいますようお願い申し上げます。(拍手)

・・・集会終了・・・
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2005年4月13日 (水)

市川龍子さんの歌

 
 どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
 すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
 星も凍てつく雪山に 母はひな鳥捨て置かぬ
 腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
 千里万里はいとわない 可愛い我が子に会えるなら
 親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯がゆさよ
 これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
 生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ 



  ◇巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け春を信じて

 ◇北の果て木々(木々だと思うのですがここだけはっきり聞き取れず)を偲びて

  ◇幾年(いくとせ)か 老いたる母のしわの重さよ

 ◇故郷(ふるさと)に想いを馳せる弟よ 救いの手立てにいらだち募る

  ◇遅々として進まぬ異国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は

 ◇彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな

  ◇老いていくわが身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱く(いだく)夢見て

 ◇彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして

  ◇またしても騙され続ける日本国 国家の誇り取り戻せ今


2005年3月10日(木)
東京友愛会館で行われた市川修一さんを救うぞ東京集会にて
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2005年4月11日 (月)

鰯を侮るべからず

  鰯を侮るべからず  アンデスの声さん

もとより我々は拉致問題で自己主張・自己実現をしたいわけではない。強引にさらわれ人生を、命を蹂躙されて続けている同胞被害者を助け出したいのが原点、そこから自国への危機意識も生まれてくるが、当事者は拉致被害者とその家族であり、我々はサポーター、マトリックス、一山いくらの鰯の群れであることは了解済みだ。そういう素朴な素人集団ながら24時間体制で掲示板を維持したり自主的に集会報告をしたり街頭署名応援に出かけている方々には、たまに思いついて投稿するしか脳のない私には頭の下がる思いである。

掲示板で経済制裁を求める声がトーンダウンしたのは気移りしたからではなかろう、昨年末に気運があれだけが高まっても政府・政治家が何も具体的に動かなかったことへの失望感から“いったいどうしたもんかいな”との閉塞感はあるが(私の場合)、少なくとも国交正常化の動きへの歯止めは掛かっている、とにかく火を絶やさぬようあの手この手でこれがダメでも別の点から騒げばいい、ベクトルの向きと大きさに変化はない。

この拉致事件は普通の国なら総連・社民党本部・総理官邸の焼き討ち暴動に発展してもおかしくない、国民・国家の根幹に関わる危険でスキャンダラスな事件なのに、何となく国民が静かなのはそれが日本人の気質なのかとも思う。あの中国の暴徒の姿を多くの日本人は“下品”と感じ顔をしかめたんじゃないか。我々は露骨な自己主張のDNAに乏しい。しかし我々には我々の方法があるはずだ、感情を爆発させるより効果を考えたい、目的ははっきりしているのだから。

戦後まともな市民運動がほとんど育たなかった日本人の意識は市民運動後進国といえる(今の市民運動の多くは思想趣味クラブの思想活動に過ぎぬ)。この拉致事件解決をめぐる動きにようやく一般市井人による、運動を目的としない本来の市民運動の萌芽を感じる。我々の市民意識は未熟だし運動も素人だし、最善の方法はわからない、しかしだからこそ目的達成の方法が具体的に見い出せれば、鰯の群れは動くべき方向へ動く。もし仮に総理官邸焼き討ちが最も効果的手段となれば、私はそれに参加する。

周知の通りペルー沖は世界最大級の漁場で、日本マグロ漁船の基地もあり高級マグロは冷凍せずに日本へ空輸されている。今年は海水温が高めで鰯(アンチョビータ)がチリ沖へ南下したのでマグロも南下ぎみだ。漁獲量の大部分はこの鰯なのだが魚粉と魚油に使われるので魚屋に鰯は置いてないしほとんど目に付かない。日本の商社は利ざやの多い高級マグロしか相手にしないが、そのマグロを、そしてペルー全体の漁業を支えているのは、水温変化と潮に流されているだけに見える、アンチョビータの大群なのだよ。

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2005年4月10日 (日)

砂川 昌順さんのお話

第10回拉致被害者と家族の人権を考える市民集会
           ~拉致を語らずして人権を語るなかれ~


4月10日藤沢産業会館8Fにて、参加者約400名
5人の方のお話と詩を掲載します。
目次

1.砂川昌順さんのお話(ここ)  2.小川晴久さんのお話(1)   小川晴久さんのお話(2)

3.北朝鮮難民基金の方のお話  4.横田早紀江さんのお話  5.高野美幸さんの詩

他の講演内容はaoi blogさん電脳補完録さんでどうぞ!




1.砂川昌順さん のお話
※砂川昌順さん 
(元・外務事務官・駐クェート日本大使館員、株式会社デプロ・代表取締役)

初めまして、砂川と申します。今日はこうして皆様の前でお話しをさせて頂く機会を与えられましたことを大変光栄に存じ深く感謝申し上げます。どうもありがとうございます。

昨年の11月15日早朝私は新潟の海岸に向かいました。28年前のこの日、横田めぐみさんが拉致されたその新潟の海をどうしても東京に戻ってくる前に見ようと思って車で出かけました。横田さんご夫妻が「めぐみちゃ~~ん、めぐみちゃ~~ん」という声を張り上げながら探し回ったであろう海岸線にたって、私達がこれからして行かなくてはならない責務というものを自分自身でも考えてみようと思っておりました。(涙ぐむ)

今日私は、3つのことを胸にこちらに参りました。3つの事をお伝えできればとの想いです。

一つめはお詫びの気持ちを申し上げたいいう想いです。
二つ目は感謝の気持ちをお伝えできればという想いです。
そして三つ目は、私達がこれからして行かなくてはならない責務についてお話しさせて頂ければという想いです。

長年、多くの日本人が拉致問題に正面から向き合おうとしてきませんでした。多くの人たちは拉致を疑惑としてその疑惑を「ひょっとしたら事実とは違うんではないか」というように考えて認めようとしなかった過去があったと思います。それは政府も、マスコミも、そして一部の有識者もそういう風な疑惑の目を向けて来たのではないかと思います。 この拉致被害者ご家族の声に耳を傾けなかった我々の責任というのは大きいと思っております。
この事実を事実として言わないでしまったという思いもあります。

私が出しました「極秘指令」という本は、1987年11月に発生した「大韓航空機爆破事件」の犯人である蜂谷新一こと金勝一(キム・スンイル) 蜂谷真由美こと金賢姫(キム・ヒョンヒ)の二人を拘束した経緯をまとめたものです。 私はこの本で訴えたかったのは、事実を事実として言わなくてはいけないのではないかということを少しでもお伝えできればとの思いで 出版致しました。

1987年の12月15日のテレビ報道をご覧になった方も多いと思います。韓国の空港に着いた飛行機から、自殺防止用のマスクを口に取り付けられて、両脇を抱えられて、タラップを降ろされる金賢姫の姿を覚えておられるかと思います。
あのシーンでこの世の中に「諜報、工作活動」というものが存在するのだということを 皆さんも少しは理解しはじめた瞬間だったのではないでしょうか?
只、そのシーンの裏には、このことを突き詰められなかった日本政府のふがいなさ、金賢姫(キムヒョンヒ)を取り調べることなく、韓国側に引き渡してしまった日本政府のいわゆる弱腰外交、それが読みとれるのではないかと思っております。

大韓航空機爆破事件、115名という尊い人命が失われた単なるテロ事件ではないことは、みなさんもよく記憶されていると思います。
その事件の裏には、我々が真剣に考えなければいけない重大な問題があります。日本国のパスポートが偽造され日本人化教育された工作員がいて、日本が陥れられようとした重大な問題があります。
日本の国益が大きくそこで失われました。日本人に偽装するために日本人化教育に利用された、あるいは北朝鮮によってその日本の情報収集の一端を担わされている拉致被害者の方がいると言うことを突き止められなかった日本政府の、日本の体制そのものにも問題があります。

さてここで少し突っ込んでお話しさせて頂きます。
私は1989年8月に在バーレーン日本国大使館勤務を終え、9月に休暇をとるよう(一部不明:休暇をとって渡欧した意味?)
基本的には3つの目的を持っておりました。
具体的には当時のソ連モスクワ、オーストリアのウィーン、東西ドイツのベルリンに入りました。

3つの目的というのは、ひとつは北朝鮮大使館側とオーストリアの北朝鮮大使館に於いて、大韓航空機爆破事件をはじめとする国家犯罪に、北朝鮮が大韓航空機を爆破したと国際社会では判断している事に対して、北朝鮮がどういう考えているか、それを問いただしてみるという目的がありました。
当然ながら金賢姫(キム・ヒョンヒ)をはじめとする工作員に対する日本人化教育、偽造旅券作成、その真偽を問いただしてみる。
更には対日工作活動の全容を調べるために、自分自身で手段を問わず、北朝鮮に入国できるかどうかの可能性を見いだす目的もありました。

二つ目及び三つ目の目的は今日の集会の主旨とは直接関係がありませんので、詳細については差し控えますが、簡単に申し上げますと、当時東西ドイツベルリンの壁の崩壊情報、東側社会の崩壊情報を当時のソ連国家保安委員会=いわゆるKGBといわれているメンバー等にその信憑性を確認するという目的がありました。

ウィーンでは、オーストリアの北朝鮮大使館側と話し合いを持ちました。
先方は参事官以下、書記官含め計5名と対談を持ちました。
私が金勝一(キム・スンイル)金賢姫 (キム・ヒョンヒ)を拘束した当事者であるということで、相手も懐疑心、動揺を示しておりましたけれども、私の「北朝鮮が大韓航空機858便を爆破したのか」というストレートな問いに対して、彼らは一貫して「南が悪い、南のせいだ」と返答してきておりました。

私の予想としては、私のストレートな質問に対して彼らもストレートに「何を馬鹿なことを言っているんだ。北朝鮮がするわけないだろう」と返答してくるのかと思いましたが、「すべて南が悪い、南のせいだ」と他者に責任転嫁するかのような、曖昧模糊と言いますか、議論を噛み合わせまいとする返答に固執しておりました。
私はことばや表現を変え同様の質問を幾度となく行いましたが、彼らは反論するわけでもなく、噛み合わない返答を続けておりました。
当然ながら北朝鮮が大韓航空機858便を爆破したという(ことの)明確な否定もなく、当然ながらそれ尾を認める返事も彼らはしませんでした。

また金勝一(キム・スンイル)金賢姫(キム・ヒョンヒ)の身元についても問いただしました。更に彼らが日本語を話し、日本人化教育を受けていることに対する開廷、旅券を国ぐるみで偽造していることの真偽もを聞いてみました。
しかし彼らは「この二人が誰かは知らない。彼らは南の工作員あり、南のせいだ。全て南の策略だ。北も南にも日本語を話せる人たちは大勢いる。日本人化教育などは、かつての日本がやったことだ。
偽造旅券のことなども知らない。どうして、どの部分で偽造旅券だということがわかったのだ?」などというような返答を続けておりました。

また、バーレーン空港での私と金勝一(キム・スンイル)と金賢姫 (キム・ヒョンヒ)とのやりとり、彼等の自殺現場を録音(録画?)したカセットテープもそこで開示し、彼らの反応を覗ったのですが、彼らは、動揺をみせたものの、ただ単に白を切るようかのように無関係を装いながら「南のせい、あくまでも南の策略だ」と言い続けておりました。

更に、「ここ数年ヨーロッパから複数の日本人が北朝鮮に渡っているということを聞いているが、その人たちが何のために北朝鮮に渡っているのか?単なる旅行とは思えないが」という質問をいたしました。
彼等は「北朝鮮にはチュチェ思想がある。北朝鮮に渡っている日本人はそのチュチェ思想を勉強しているようだ」と答えてきました。
日本人がヨーロッパから北朝鮮に渡っていると言うことに対して、つまり私が<渡っている>と言うことを聞いていることに対して否定をしませんでした。

何故「チュチェ思想を勉強している」とそこで即答できたかに対しても疑義が残るところです。そこで私は『チュチェ思想なるものを私自身も北朝鮮で勉強したい。ついては私を北朝鮮に連れて行ってもらえないか?日本の外務省職員が北朝鮮に入国したということは彼等にとっては都合の良い話ではないのか?彼らが、外務省職員が北朝鮮に亡命したとか、うまい理由をつけて国際社会に発表すれば北朝鮮にもいい話ではないのか』という交渉を行いました。

北朝鮮、そういう国家犯罪を犯し、日本の国益を侵し、平気で偽証するそういう国の実態を私自身、この目で北朝鮮の国内で確認しなければと言う想いがありました。

北朝鮮のその日の対応は「即答はできない、本国にその旨を伝え本国の決済=返答を受ける必要があるので3日間待ってくれ」ということでその日の会議は終わりました。

それから3日後、私は再度北朝鮮大使館を訪ねました。本国からの返答は「日本の外務省職員をオーストリアから直接に入国させることは認めない」という返答でした。「但し、可能性としては一旦日本に帰り、日本の朝鮮総連の誰某とコンタクトをとり、日本の朝鮮総連から本国に要望を出せば、高い確率で貴方は北朝鮮にいける」とう返答でした。

すでにヨーロッパから複数の日本人が北朝鮮に渡っているとの情報は出ていましたが、それが日本人自らの意思なのか、それとも意志に反して北朝鮮に渡らざるをえなかったのかという情報は、私もその時点で掴んではおりませんでした。

私がこの種の情報を得たのは、他国の諜報機関、そのエージェントからでした。
日本政府はこれに類する情報は何も持っていなかったと思います。私の知る限りこの種の情報を日本政府が持っていたとういうことは聞いておりませんし、記録も残っていないと思います。
言い換えれば日本政府には、こういう情報(を)収集する体制や方針がなかったということです。

当時拉致問題があることは、一部の有識者の中ではささやかれておりました。
が、日本政府をはじめとする、マスコミ、行政や国民の目は冒頭に申し上げましたとおり、冷たかったのではないかと思っております。

とりわけ日本国内での拉致は、拉致被害者本人及びその家族の尊厳を傷つけるばかりではなく、日本国民の安全を脅かし、主権を侵し人権を蹂躙するものだと思います。

日本がその当時から諜報に対する意識を持ち、国家として総合的な、安全保障体制を整えていれば、あるレベルでの拉致の防止やその後の対策が、当時から作られていたのではないかと思うと、私自身当時一公務員として働かせて頂いた私自身、国民に対する、そのご家族の方々に対しお詫びを申し上げたい気持ちでいっぱいです。

1990年3月私は、外務省を辞職致しました。
情報という者に対する日本政府の姿勢に愛想がつきたというのも要因のひとつですが、当時は、公務を離れたプライベートな立場といかように主張したとしても、ソ連の諜報機関の関係者や北朝鮮大使館側=北朝鮮の公務員と接触を持つことは禁止されております。当然、金銭での取引とかそういったことがあるということは(不明、当然という意味?)
したがって、ヨーロッパから日本に帰国できたとしても懲戒免職等の罰を受ける立場でもありました。結果的には懲戒免職ということにはなりませんでしたが、罰は罰。規則を犯した罰を受けるべき、けじめを付けさせるべきとの声も強く、道は道、筋は通すべきとして、私自身、辞職という形をとり、外務省を去りました。

退職後も他国の諜報機関との接触が続き、その影を消すのに相当の年月を要しました。
身の安全も含めて全て自己責任として、隠遁生活を続けていた時期もあります。当然私の身内や関係者に何らかの影響がでることも危惧し、一切コンタクトをとらず行動を控え、黙して生きてきた時期もあります。

そう言った中で、拉致被害者家族の戦う姿を見たとき、「いや、このままではいけないんじゃないのか」と、その戦う姿に大きく刺激され、自分が黙して生きてきたことを反省して、これから少しでもまた何かお役に立てればという思いを持っております。

さて、時間も迫っておりますので、最後に我々が北朝鮮問題に対してどう立ち向かうか、私なりに簡単に述べさせて頂きます。
さてどうするか、「北朝鮮と戦争をしますか」と言っても、日本国民がそれを望むわけもありませんし法的にもありえません。戦争を行うべきではないと思います。
それでは北朝鮮の体制が崩壊するのを待つのでしょうか?これは我々が望むところでありますが、現実には崩壊しておりません。

それでは経済制裁しますか?と。
~~即刻すべきです。~~
単に経済制裁のみならず、可能な制裁を、あらゆるレベルで、即刻実施すべきだと思っております。
これ以上何もしなければ完全な手遅れになります。
他国の協調行動がなければ、特に周辺国、中国、韓国、モンゴル、ソ連(ロシア)の協調行動がなければ、その影響は小さいことは分かり切っています。

かといって、経済制裁の効果が小さいから、あるいは周辺国の北朝鮮との貿易関係が強まるからと言って経済制裁をしないという、そういう損得勘定で外交を行えば、日本の尊厳、外向的立場、国際社会における立場は完全に失われることになると思います。

単なる損得だけで動くことで、果たしていいのか?そうではないと思っております。

また、北朝鮮は、日本の世論も恐れていますが、国際世論も恐れています。

国連、あるいは国際的人権擁護団体に対して、日本がもっと訴えていく必要があります。
あるいは民衆レベルで、国境のないインターネット等あらゆるメディアを媒体として国際世論に北朝鮮おける包括的人権問題も含めて、その中心となる拉致被害者の人権を軸に、国際世論に訴え、国内的には制裁世論と、北朝鮮に強制的にでも調査団を乗り込ませ、事実究明をはかるという、こういうことに対して国内的にも理解を求め、国内世論、国際世論両方で高めることで北朝鮮を包囲していくと言うことが必要だと思っております。

即刻、直ちに、あらゆる制裁を発動し、実施し北朝鮮に乗り込むと言う声をあげていくべきだと思っています。

圧力と対話という紋切り型の表現を維持している日本政府、膠着状態の続くこの状況をこのまま私達がみていていいとは思っておりません。

みんなが、国民一人一人がまず、声をあげていくことから、この膠着状態を打破する第一歩が歩き出せるのではないかと思っています。

以上今日のお話しは終わりとさせて頂きます。
ありがとうございました。
極秘指令~金賢姫拘束の真相 ◆砂川 昌順 (著)

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小川 晴久さんのお話(1)

◇第10回「拉致被害者と家族の人権を考える市民集会~拉致を語らずして人権を語るなかれ~」
                  2005年4月10日藤沢産業会館にて
小川晴久さん
「守る会」名誉共同代表、二松学舎大学教授、東京大学名誉教授

只今ご紹介にあずかりました、小川でございます。
今日は横田めぐみさんのご両親と一緒にお話しできるといった機会を与えていただけたことを嬉しく、光栄に思っております。

砂川さんのお話を聞いたのですが、25分という制約がある中で、ひとこと、ひとことが重くて(少し言葉に詰まる、涙ぐむ)とても良いお話しをお聞きすることができました。

私に与えられた時間も20分少々になりますが、今日お話し申し上げたいことがいっぱいありまして、レジメを用意しました。その中にたくさんのことを書かせて貰ったんですが、テーマは「北朝鮮の人権問題と世界の関心」というものにさせて頂きました。

私は悪い癖がありまして、一度に全部のことを語りたいと。

このレジメは(私が北朝鮮の人権問題に目を開いて以来今日まで僅か12年間なんですけれども)市民運動、人権運動をしていて学んだこと、掴んだ事を全部ぶち込んだレジメでございます。

但し今日は時間の制約もありますし、北朝鮮の金正日の体制というのは、どれだけひどい、悪い体制であるかというのは、日本の、特に民法テレビのがんばりでかなり知られるようになっているわけですので、北朝鮮が一体いつからあんな国になってしまったのかはレジメの3番目、4番目に要点は書いてありますので、後で参考にして頂ければと思います。

今一番私たちに求められている事は、横田滋さんも、砂川さんも仰いました。「膠着状態になっている。どうしたらいいんだ。何をやればいいんだ」ということだと思いますので。
その点に関していわゆる「包括的な解決方法」、小泉さんが何度も言っていますが、「包括的」と。人権問題も経済問題も、国交を開く問題も、すべて包括的に掲げて、その中で、できることからやっていこうという包括方式とか、六カ国方式で打開していくとかいう政府が取っている、あのやり方、あれは間違いであるということを、どうしても申し上げなければなりません。

私は今の憲法で育った世代の一人でありますので。1941年に生れて1947年に小学校に入った一人です。(ですから)今の憲法で小学校から育てられた世代ですので、どうしても第9条、「戦争放棄」(にこだわります。)

今の憲法はものすごく人権条項に恵まれた憲法であります。世界人権宣言と双子ではないかと思われるほど、日本の憲法は世界の中でも、ものすごく人権尊重を謳った憲法ですので、この憲法を生かして、隣国の北朝鮮の人権問題の解決に努めたいと、そういう立場で今まで、考え、且つ行動してまいりました。

人権は国境を越えますから、人権問題にものすごく敏感な人たち、それは、アメリカであり、ヨーロッパの人達であります。そういったひとたちが、世界が、北朝鮮の人権問題にどこまで関心を向けてきているのか、そのことが特に5番目にまとめてあるのですが、そこを中心に(お話していきたいと思います。)

現在この瞬間(4月10日)にもジュネーブで第61期国連人権委員会が開催中であります。
明日(4月11日)、ヨーロッパ=EU諸国と日本が、-今回は日本がかなりイニシア(ティブ)をとって-今年の北朝鮮に人権改善を求める決議案を上程して15日に採択される見通しでありますが。

現在進行中のジュネーブ国連人権委員会で どういう形で北朝鮮の人権問題が集約されているかについて今日は申し上げたいと思います。

今砂川さんがおっしゃったとおり国内の努力というのはまだまだたりない。小泉政権があのように「対話と圧力」「対話と圧力」それしか言わない政権、首相ですので。もっとはっきりさせてくれ(と言いたい)。
「対話の段階ではないんだ。交渉の段階ではないだ」ということがはっきりしているのにも関わらず、やるべきことをやっていない、そういう政権を私たちは持っておりますので。

日本国内でも、平和勢力、民主勢力、「第9条を守ろう」と一生懸命がんばっている人達、9条の会に結集している人達、その代表たちが北朝鮮の人権状況について発言しないという状況。私は、これは正しくない対応をされていると思うんです。(この部分強く怒りを持って仰っていました)

私は、第9条を守りたいという一人ですから、第9条を守る運動が広がっているのはとても評価しなくてはいけないのですが、しかし、何故そこで、北朝鮮のものすごいひどい人権状況について、あの年配の日本を代表する知識人たちが語らないのか!(声を強めて)どうして語らないのか? 大江健三郎さんにしても、何故このことを事挙げしないのか?ほんとにおかしな事態が進行しております。

憲法9条がどんどん崩され、有事体制がど進んできたこの10年間、その引き金を引いているのは、ノドンの発射、テポドンの発射、これによってぐいぐいと有事体制化が進行致しました。

それからイラク戦争に対しても、日本政府はアメリカをイギリスを支持して自衛隊を送っていますけれども、本来だったら断固、第9条の立場から、あんな遠くに自衛隊を送るのかということで大きな反対運動がおこっていいはずなんですが、それが暗黙のうちに、国民の半数以上の人たちの支持があって、その事態が進行していると言うことは、やはり北朝鮮の影が濃いからなんですね。北朝鮮脅威をいうものを、日本国民は肌身で感じているので、こういう事態が進行して、第9条がどんどん崩されていく。そういうことを第9条を守ろうという人たちは何故しっかり抑えて発言しないのか?

ものすごい人権条項に恵まれている憲法を持っている国民、市民として、その人権条項を守るためもですね、早く北朝鮮の人権状況を改善しなければならない。(これは)ものすごく密接に関連があるはずなんですけれどね。
そう言う点日本国内でも、韓国ででも同じです。

(現在の)韓国の政権は民主化を達成した勢力が作っている政権であります。あの過酷な軍事政権と戦って血を流して、そして自分の力で勝ち取ったあの政権です。あの人達何故あの北朝鮮のものすごい、おぞましい人権侵害に対して積極的に改善するように声を挙げないのか?

「北朝鮮を刺激してはいけない。対話が始まったからばっかりだから刺激しちゃいけない」という態度、今のノムヒョン政権。ものすごくねじれていますね、韓国社会も。(深い憂いを込めて) 

日本の社会もねじれています。
そういうことについてもどうしたらいいかということを時間の限りお話したいと思っています。

第五項
「世界はどこまで、北朝鮮のおぞましい人権状況に気付いてきているのか?」というテーマです。

まず、第一に1979年に2月24日にロンドンに本部があるアムネスティ・インダーナショナルがベネズエラの詩人アリラメダの手記を英文で発表致しました。この英文のラメダの手記によって、世界は北朝鮮に強制収容所があると言うことを、はじめて知りました。それから9年後(1988年12月)にアメリカで「北朝鮮の人権」という大変立派な人権報告書が発刊されました。これがそれです。
(掲げて示して)『北朝鮮の人権』

それを出した主体は、「ミネソタ弁護士会国際委員会」と「アジアウォッチ」 という人権団体です。二つのNGOが共同して今日でもこれを凌駕することのない、北朝鮮の人権状況の把握ですね、今から16年前にだしました。これはアリ・ラメダの手記が、かなり大きな引き金になったのではないかと推察しております。

ところが、この翻訳大国の日本がこの大変立派な北朝鮮の人権報告書を昨年11月まで翻訳しませんでした。このこと自体も大変恥ずかしいことです。

3番目、ロンドンにあるアムネスティは、北朝鮮の人権問題について、大~きな貢献をして参りました。先ほど申し上げましたラメダの手記を発刊したり、富士山丸の漁船民の拿捕についても、アムネスティは1980年代に世界に訴えました。そういうことも、この人権報告書で知りました。

4番目にですね。
私が北朝鮮の強制収容所に気付くきっかけは今から12年前、1993年8月に東京のある朝鮮料理屋さんでですね、-40年前に、日本から沢山の人が北朝鮮に渡りました。日本人妻も6000人ぐらい渡ったと言われておりますがーその帰国者たちの家族が、北に渡った家族が強制収容所で殺されたり、ひどい迫害を受けているということを、はじめて小さな屋内集会で、(知りました)私もそこに誘われて、12年前、はじめて帰国者が受難していることや、山の中に恐ろしい収容所があることを知りました。その時から、この問題に取り組むようになったんですけれど。

韓国でも、同じような市民団体が私達の市民団体ができた2年後に誕生しました。私達は「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」という長ったらしい名前です。 韓国では「北韓人権市民連合」というNGOが一緒になって、「命と人権」という英語のパンフレット世界に発信することを始めました。

それで、何を訴えたかったかというと、山の中に恐ろしい強制収容所があるんだという事実を訴えたくて、4刊、今までに出しました。

第5番目に国連人権委員会の小委員会が、1997年8月にはじめて決議を出します。それは2年続きます。

6番目に、フランス知識人21名声明。1999年3月12日にでます。

(7番目)それからアメリカ上院外交問題小委員会では、強制収容所体験者を呼んでヒアリングをしました。1999年4月に行われています。

(8番目)それから、1999年12月から、北朝鮮難民問題国際会議というものが、ソウル(1999年12月)で開かれ、第2回もソウル(2000年12月)東京(2002年12月)で開かれ、そして一昨年はチェコのプラハ(2003年2月)で開かれ、昨年はポーランドのワルシャワ(2004年3月)で行われ、そして今年はまたソウル(2005年2月)で開かれました。こういう国際会議が営々と続いています。

(9番目)それからドイツ人の医者フォラツエンさんが2001年1月から、「北朝鮮を知りすぎた医者」(2冊)と言う本を出して、個人の力であれだけのことができるのかと思うぐらいがんばって、「情報こそ、インフォメーションこそ力だ」という信念の元に、行動を開始されております。
北朝鮮を知りすぎた医者 国境からの報告(Part2) 北朝鮮を知りすぎた医者

(10番目)それから、2001年9月(あのニューヨークセンタービル爆破事件の月でありますが)北朝鮮人権改善のためのアメリカ委員会が発足しました。とっても立派な創立宣言を出しております。この創立宣言の何処が立派かと言いますと、「安保問題よりも、核問題よりも、人権問題のほうが大事だ」という視点を打ち出したことです。

11番目になりますが、国連人権委員会のコリア委員会で、立派な決議がでるようになりました。、

(12番目)そして昨年の4月(2004年)の決議では地域を特定した北朝鮮の人権問題を特別に調査する特別報告官が勧告され昨年の7月にタイの学者、ムンターボーンさんが初代の北朝鮮特別人権報告官に任命され、精力的にその方が活動され、今回進行中の人権委員会に立派な報告書が提出されております。

そして昨年12月には、アメリカで「北朝鮮人権法」が成定され、これが北朝鮮に対する大きな圧力になっているのはみなさんもご承知かと思います。

このように世界の中で目立つのは、アメリカです。この立派な人権報告書をだしたアメリカの人権団体がひとつの象徴ですね。それから、クリスチャンたちのものすごく活躍していますね、アメリカであれヨーロッパであれクリスチャンたちの活躍が非常にめざましい。。

アメリカとヨーロッパが非常に良い形で提携して、今日まで、国連人権委員会に向けて北朝鮮の人権状況の改善のために、力を合わせて努力しております。

人権決議の中には山の中に恐ろしい強制収容所があるということが、しっかりと書かれておりますし、北朝鮮の人権問題がほとんど全て網羅されている、レベルの高い決議が採択されております。

あとは、砂川さんが仰ったとおり、「人権査察」が必要なんですよね。核査察は一度北は受け入れましたが、核施設をごまかして隠してきたんですが。それよりも人権査察が必要なんですよね!

人権査察で何を査察するか?それは山の中に今5つ6つに集約されているといわれている強制収容所を詳細に確認し査察する必要がある。しかしこれはもう人工衛星でキャッチされています。

アメリカの商業用の人工衛星なんですけれど、山の中の強制収容所の詳細な衛星写真が、一昨年、アメリカ人権委員会の報告書「隠された強制収容所」という報告書に、26枚の強制収容所の衛星写真がここに示されております。

昨年の9月にイギリスの外務次官、ビル・ラベル(?)さんというひとが(イギリスは北朝鮮と国交がありますので)、人権問題を特定して北朝鮮に乗り込みました。そして北朝鮮当局に、ここに強制収容所があると言って、写真を持ってその確認を迫ったんですね、そうしたら、北朝鮮はそれは刑務所であるとごまかしたそうです。でもラベルさんはその報告書を2冊おいてきたそうです。そこまで行っている。

残念なことに私は、40年前、学生時代は北朝鮮を支持していたひとりでありました。
当時は、北朝鮮はあんなにウソをつくようなでたらめな国ではなかったと思うんですね、。
だからこそ、たくさん多の人がいろんな人の説得に応じて、北朝鮮に渡ったんですね。全て騙されたとは言えないところがあるんですね。<北朝鮮というのは社会主義だ。日本では大学にも行けない。日本の大学を出ても研究職には就けない>というのが当時の状況でありましたから、東北大学で研究していた在日の科学者たちも率先して北に行くんですよ。その人達が数年後に強制収容所にぶち込まれてしまうんですよね。そんな悲劇を私達は、なかなか判らなかった、長い間。(感慨深く)そういった帰国事業の悲劇もあるんですけれども。

今や北朝鮮はあらゆることにウソをつくひどい国になっちゃいましたね。これは本当に悲しいことなんですけれども、そこのところをどのように打破して行くかと言いますと。

今申し上げた国連人権委員会をはじめ、人権を守れという世論も高まりつつありますけれど、だ・け・ど、北朝鮮は崩れませんよね。なぜ崩れないと言うと、国内でがっちりと体制を固めているからです。なんで固めているかというと秘密警察、密告制度、それから恐ろしい強制収容所です。本人が収容所にいれられるのだったら、まだ我慢もできます。自分さえ勇気を持っていればいい。。ところが、家族ぐるみ入れられちゃうんですね。裁判もなしに。こういうことは、強制収容所体験者の手記を読まないと判らないんです。手記は日本でいっぱい訳されています。その手記はレジメの第2番目のところに書いておきましたので読んでください。この中の一つでもいいですから読んで頂きたい。(参照A)

時間もなくなってきましたので、何故、北は崩れないのかとうと、これは国内をがっちりと固めている。金正日という人は国家主席になればいいものを、国家主席なんか蹴飛ばして、軍事委員会の委員長なんですね。それはどういう事かと言いますと、北朝鮮の軍隊、秘密警察、その上に彼は自分を乗っけて、自分ひとりの命を守っているんです。北朝鮮の軍事力で、自分一人の命を守っているんです。(声を強めて早口で)

金正日さえいなくなったら、金正日さえその地位から引きずり降ろせば、北朝鮮の民主化は一気に始まります。(それなのに)何故(崩れない)かと言えば、金日成から築いた恐怖の体制=強制収容所、秘密警察=そういう体制がまだしっかりしていますから。金正日、金日成の批判をしたら、即刻山の中の収容所に持っていかれてしまうんです、家族もろとも。
北朝鮮の人達の命が、全部あの金正日というたったひとりの人間の手に握られているです。

もちろん北朝鮮を支えているのは金正日だけではなくて支配層はありますよ。
もし、金正日が失脚したら、自分たちも一緒にやられちゃうと言う。北朝鮮政府に代表者はみんなそうですね。そう言う人たちは、必死ですよね、あの体制を守らなければならないと。だけど、金正日さえひとり除去できたら、ものすごく早く、北朝鮮というのは民主化する。この問題は解決されていくと思います。

そのために(失脚しないために)彼は必死になって、軍事委員会の委員長として自分を守っているんですね。

だからなかなか倒れないと言うことがあるんですけれど、だけど、残念なことに(国外にも)北朝鮮を支えている勢力があるんですね。ひとつは中国です。ひとつは残念ながら韓国政府ですね。残念なことに、日本政府もなんて言うんでしょうか・・小泉さんと金正日が会談しましたよね。宣言を発表しましたね。あれを(日朝平壌宣言)を遵守するなんて言ってますからね。だから、日本政府の北朝鮮に対する対応は非常に弱いですね。だからこそ、拉致家族の皆さんも非常に苦しんでいらっしゃいますね。

日本政府もどっちかと言えば北を支えている。

何故、支えているかと言うと、北朝鮮が崩壊して難民が多く出てきたら困る。それだけです。これはエゴイズムだと思います。難民がいっぱい出てきたら困る。だからできるだけ今の体制で改善していって欲しいというのが、中国、韓国政府、日本、ロシアもそうですね。そう言う形で支えちゃっているから、なかなか崩れない訳です。

だけども、支えている国の中にそれぞれ大きな矛盾があります。
一つは、中国の矛盾ですね。中国は1951年に難民条約に加盟しております。『この人を送り返したら命が危ないという場合は、保護しなければならない』というのが難民条約の根本精神ですね。

ところが北朝鮮からどんどん難民が出ています。その難民を中国は捕まえて送り返しているんです。
これは難民条約の明白な違反ですね。国際人権活動家たちは、もう歯ぎしりしています。何を言い始めているかといいますと、今年の2月のソウルでの国際会議の決議に入りました。
『中国政府がこんなことをやってたら2008年の北京オリンピックをボイコットするぞ。』と。この声がだんだん、だんだんと高くなっていくと思います。これは中国の一番の弱点でありますね。北京オリンピックを成功させたいと思っていますから。これは中国の最大の弱点です。難民条約に違反して脱北者を送り返しているんですから。

韓国政府の弱点は何かと言えば、軍事独裁政権と戦って血を流した人たちが、北朝鮮の裁判もなしに、金正日、金日成の批判をしただけで、収容所に入れてしまうような体制、あれに賛成するはずないんですよ。民主化でがんばった人たちが、もしそれをあからさまにそれを知ったらですね。そこも、ものすごい矛盾ですね。

今、386世代(60年代に生まれ80年代に大学校に通い、現在30~40代の世代)というのが政権を支配していると言われています。それよりも10才上の世代486世代が分離して動き始めています。それはとても待ちに待っていた嬉しい事態ですので、大いにそれを見守りたいし、その人達と一緒に行動していきたい。

更に、日本の北を支えている人たちの矛盾が何かと言えば、さっきの9条を守ろうとしている人達が、北朝鮮の人権問題について口を噤んでいると言うこの矛盾です。これは早急に解決されなくてはならないと思います。

総じて言えば、平和勢力、民主勢力、もっと端的に言えば左よりの人たちですね。その人達が北朝鮮に対してものすごく甘いんです。この弱点がある。この人達が、北朝鮮を支えてしまっているのです。ここのところの矛盾をもっと突いて、こういう人達がもっと拉致問題にも取り組み、難民問題にも取り組み、北朝鮮に返った人たちの受難もですね、そういった問題をどんどん取り上げるべきです。(また)特にNHKはもっと北朝鮮内部の収容所などの問題を報道しなければいけないと思います。

そう言うことも含めて、やるべき事ははっきりしています。

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小川 晴久さんのお話(2)

最後に私の悩みについて書いておきましたけれど。
どういう悩みかというと、強制収容所の手記などが翻訳されて出版されておりますけれど、こういうものがねずみ算式に読まれていかないんですね。私は、ねずみ算式に読まれていくんだと思っていたんです、最初は。
(それを読んで)驚いて、親しい人に知らせなくてはならないと広がっていくと思っていたんです。どうもそうではない。

最近わかりました、その理由が。人間は不幸なことから、目をそらしたい。不幸なことを見つめ続け、その認識を深めると言うことは、人間の本能には反する。

だから私は友人達に訴えるんですけれど、年賀状で400人ぐらいの友人に。
昨年若い人たちと
『北朝鮮・隠され強制収容所』とか、ミネソタ弁護士会の『北朝鮮の人権』
やっと訳しました。それを「読んでください」と頼みますね、年賀状で、400人。反応してくれた人は10人ぐらいです。反応してくれた人はホントに心の優しい人たちだと思うんですけれど。でも何故かと考えると、やはり人間には、不幸からは目を背けたいという気持ちがあるんですね。
でも、そんなことでは、拉致問題も、何も解決しないんですよ!

どうしたら良いかと言いますと、やっぱり努力するしかないんですね。
手記などを読んだ人が、一時期はいろいろ動きますよね。でもやっぱり疲れてしまうんですよ。なかなか解決しないから。

その時に考えたのは、『勉強することだ』ということです。
何を勉強するかというと、『命というのはものすごく大切なものなんだ』という勉強、『人権を確立するためには、どれほど困難な歴史があったかということの勉強』それから『最近20年間のアメリカの努力』についてです。

アメリカは憎まれていますね。イラクの戦争とかいろいろ。私も学生時代に左翼に入って活動した人間ですから「アメリカ帝国主義」というイメージしかないんです、アメリカに対して。

だけどアメリカはイギリスから分離独立した国ですよね。
ベトナム戦争でホーチミンが指導したときの、ホーチミンの合い言葉はなんだと言えば、「独立と自由ほど尊いものはないんだ」という言葉です。これはアメリカの独立宣言の言葉ですよ。ホーチミンは、アメリカの独立宣言の精神を持って、アメリカのものすごい空爆と戦ってあの時アメリカを追い出しちゃったんですね。

そう言うこともあってアメリカは今は大国で、世界一の強い国ですが、『人権』とか『自由』とか『民主主義』については歴史がある訳ですね。その歴史を我々は勉強してこなかった。アメリカ批判一辺倒。

説明つきませんよ、2001年にアメリカ人権委員会ができたこと、昨年『北朝鮮人権法』というものすごく立派な人権法が成立したこと。満場一致だそうです、上院下院! アメリカ議会で、満場一致です。
レベル、ものすごく高いです、アメリカ北朝鮮人権法は。内文なんて、事実認識では北朝鮮の人権状況を全て認定していますよ。

顧みて、日本政府はどうですか?
    日本の国会議員はどうですか?
    日本の政党の北朝鮮の人権状況への認識はどうですか?

    ものすごく遅れています。(深い落胆と憤りとを込めて)
    
この認識の遅れは何処に表れているかと言いますと、NHKが報道しないこと。
日本国民の認識レベルは民法テレビとか、週刊誌とかの、手記とか、難民の証言とかの、その域を出ていません。
日本人のこの認識の遅れは、アメリカの国会議員達の認識に比べて、ほんとに恥ずかしいぐらい低いですね。

そういうことを考えると、何を勉強しなければならないかというと、『命に関する勉強』『人権の歴史に関する勉強』特に最近は、『アメリカのこの20年間の人権、民主主義を普及するという努力』ですね。
これについて勉強しなければならない。

6回の国際会議を支えてくれたひとつのスポンサーは、ナショナル・エンダウメント・フォー・デモクラシー(NED~National Endowment for Democracy~米国民主主義基金)というアメリカのNGOです。それは アメリカ議会のもとにできているNGOです。
このNGOが、国際会議の費用の半分を持ってくれている。そう言う点でも、アメリカに対するイメージには悪いイメージもあります、悪いアメリカもありますが、しかし、人権を守るというアメリカもあるわけなんですね。
その点、私は今の日本国憲法ははっきり言って、与えられた憲法だと思うんです。こんなにありがたい憲法はありません。世界人権宣言の双子です。それを我々は、力で勝ち取っていないために、(人権意識が遅れている。)今北朝鮮の人権問題を通して、日本国憲法の精神を守っていくべきなのです。

北朝鮮に家族のいる在日は何も言えないんです。北朝鮮に家族のいない日本人、たくさんいるでしょう、私も含めて。彼等の言いたいことを聞いて、それを変わりに語っていくことです。それは日本国憲法の人権条項の精神を守っていく活動でもあります。

以上です。

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北朝鮮難民救援基金の方のお話

4/10神奈川集会での北朝鮮難民救援基金の方のお話

こんにちは、今回お話しをさせて頂き本当にありがとうございます。
「北朝鮮難民救援基金」は98年に設立されて、設立されてからずっと様々な北朝鮮難民に対する救援活動をしてきました。

私はその中で私の心を一番温かくする救援活動のひとつは、「教育里親制度」です。
それは、「何処で生まれた子であれ、どの国の国籍を持つ子であれ罪のない子供達を一人でも守りたい」という気持ちで、里親になってくださった日本の方々の国を超えた愛が、今も難民の子供達の命を守り続けているのです。  

今、北朝鮮難民の子供達は本当に重労働や売春 寒さ、飢えで、ほんとに様々な危険にさらされ、命を、その小さな命を落とし続けているんですね。

今も飢えから逃れようと北朝鮮から山を越え、川を越え何日も歩き続けて、国境を越える子供が居ますね。私も以前、中国の国境沿いの白頭山の山の奥に~で(不明)登ったことがあるんですが、その時に、6人の子供達がとぼとぼ(もうまっ白なんですね、雪で)歩いてくるのに遭遇しました。で、(感極まる)

その時子供達の口から聞いた言葉は(涙で言葉がつまる)「私達が何とか国境を超えて働いて~おとうさん、おかあさん、みんな食べられなくて寝たきりになってしまったんですね~でも、おばあさんや、おじいさんに食べさせたい」 という一言でした。(涙でしばらく話せない、会場無言)

北朝鮮の子供達は、食べられなくて、15才16才17才でも日本の小学生より小さいんです。その時会った子供達もそうでした。ほんとに日本の小学生より小さいです。(涙・・)

場所を話せないんですけど、今第3国に逃れている子供に会ったことがあるんですが、-ふたごだったんですけど-。初めて私、幼稚園だとおもったんですね。で聞いてみたら、「15才」と言うんですね。寝てる姿をみたら、胸が出っ張っているですよね。「何で胸がでっぱってるんだろう?たくましいな」って思ったんですけど。
北朝鮮内で学校に行っても、ずーと重労働をさせられていて、土とかを背負って歩いたり、そういう重労働ばかりしていて、成長できなくて押されて、それで胸が出っ張って来るんだそうです。

このような子供達、北朝鮮と中国の国境の町に逃れている子供たち、大勢います。ホントに命を落としつつある。
その中には日本を故郷に持つ、親を持つ在日の方や片親が日本の方の子供もいますね。今貴重なお話しを聞いたのですが、

  拉致被害者のこどもがそこにいないと断言できません。いるかもしれないです。

その子供達を助けること、その救いの手を差しのべる一人が、本当に切実に今必要な時ですね。

わたしがここに立っているのは・・。
中国の公安は、北朝鮮の難民の子供達や弱いおじいさん、おばあさんを助ける人は罪とするんですね。それで、逮捕して刑務所に入れるんです。中国の国境地帯の朝鮮族の人たちも逮捕されて、家まで全部罰金でなくした人も、私、見てます。

それで(朝鮮族の人たちも)だんだん冷たくなって、まず自分が苦しいので助けることができなくなって。。。。。前に行った時は、家に入る門の横で、川をわたったところなんですが。冬、川を渡ると濡れ着のままですね。着替えもなくて、寒さで(家に)入りたいんですが、入らせてくれないんですね。朝起きてドアをあけたら、その横で昨日は生きていた人がそのまま、凍死で、凍って死んでいたという話も聞いていますね。(怒りと涙)

このような(子供達に対する)助けが切に必要です。

今みなさんお手元にある資料の中に「要請文」(安忠学(アン・チュンハク)氏の早期釈放を求める嘆願書?)がはいっていますね。この方は、もともと北朝鮮からシベリアに木材伐採工として派遣されて、そこがあまりにも厳しい状態で、人間じゃない扱いされて、ひどいところだったので、脱出して、外国船に乗って、韓国に着いたときは失神状態だったそうです。

その方は苦しい悲惨な思いで韓国に1994年に入って、95年に韓国籍をとって、キガ自動車という韓国の会社の社員になって、結婚して、今は5才のこどもがいます。その方がたまたま仕事関係で中国に入って--自分の弟も中国にはいって救ったんですが--自分の経験した悲惨な思いから、仕事で中国に入るたびに難民を助けたそうです。

今年の2月4日に仕事関係で、中国の延吉の空港に入ったそうです。中国公安は着いたとたんに何にも理由を告げずに、いきなり逮捕して、そのまま監視所に連れて行かれてしまったんです。只、逮捕して監視所に入れっぱなしです。今もずっとその状態です。

(それなのに)韓国の外交部はは何にも動いてくれません。

私が先週その奥さんの所を尋ねてきました。それで奥さんがいうのは、「自分の夫がどんな死ぬ思いで北朝鮮から逃れて、2日間失神状態で、それで救われた命なのに、そこで(難民に)目をそらし事ができずに手を差し伸べたことが、何故罪になって、何故逮捕されなくていけないのか」って、韓国政府に訴えたそうです。

でもその奥さんが私に話してくれたのは、「韓国政府は力がない。韓国は自分の国のひとりひとりが(国民が)外国であんな状態なのに何にも動いてくれない。もう、この情けなさを、それを何処に訴えればいいのか。。」と私に涙ながらに言ってくれました。

安忠学(アン・チュンハク)氏とその家族がどうなっているのか、署名してくださる方に、説明したいと思います。

1994年に韓国に入国して、(8月に入国したんですが)家族は、その2ヶ月後の10月に家族全員、おとうさん、おかあさん、そして下の二人の息子夫婦、全部強制離婚させられて、家族はバラバラになって追放されたそうです。追放される直前にお母さんは××で亡くなって、追放された所は特別なところで、食物が出ない、何にも食べ物のない、飢えても何にも出ないところだったんですね。

食べるもののないところに送られるんだそうです。お父さんは、飢え死にでその一年後に亡くなって、2番目の弟は、そこで当時10才の男の子と7才の女の子を飢え死でなくして、2番目の弟は自分の家族をなくして、中国に脱出したんですね。その時中国で洗礼を受けて、もう一人の弟が残っているので、弟のことや、自分の周りの人の悲惨さが頭からこびりついて離れないので、僅かな食糧と僅かなお金を持って北朝鮮に戻ったそうです。

1998年に戻って、その後北朝鮮の保安部に捕まえられたそうです。保安部の集団に囲まれて、みせしめのために見物人が集められて、(その時弟もいたそうです。)みんなの前で打たれて打たれて、「貴方は金正日を信じるのか?神様を信じるのか?」「どっを選ぶのか?」と聞かれて、2番目の弟は「私は神様を信じる」と答えたそうです。最後まで屈しなかったので、そうしたらそのまま打たれて、撲殺されたそうです。

それを最後の弟がみて、韓国に2005年渡って、その話をしてくれました。
その方のために、みなさん是非とも協力していただきたいんです。
奥さんの言った「韓国の政府の情けなさ」を、皆さんの署名をもって、又その力をもって、そのことを訴えるために是非とも協力して頂きたいんです。

これからも、ずっと関心を持ち続けてください。
何処の国の人間でもみんな同じ人間ですね。
関心を持ち続けていただけたら本当に幸せです。
よろしくお願いします。
ありがとうございました。

署名用紙
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横田早紀江さんのお話

4. 横田早紀江さんのお話

皆様、こんにちは。沢山の方が来て下さった様で、あの、部屋が小さな所で短い時間で申し訳なく思いますけれども、本当に今日は御集まり下さいまして有難うございました。

拉致問題というのは本当に考えられない様な、子供を連れ去られたこの悲しみと苦しみは、こちらの飯塚(繁雄)さんも同じですけれども本当に家族にとって、もう地獄の様な、生殺しの様な、長いあいだ何にも分からないで、本当にあの、何が起きたか分からない様な状態が起きた訳ですね。

そしてもう家のすぐ近くの角までお友達と一緒に帰って来て、一人になって、その角まで来たのに、そこで煙の様に消えてしまって。もうすぐ曲がって二筋目の所の角から2軒目が私達の家なんですけれども、いつもこう覗いて、「まだかなあ」って窓から覗いて、こっちから戻って来るのを見ている事がよくあったんですけれども、その様な近い所で煙の様に消えてしまいました。その時に、丁度あの、新潟日報にも本が出ましたけれども(『祈り 北朝鮮・拉致の真相』)、こちらにも書かれてありましたけれども、私達の住んでいた角の家、隣の家の2階にその当時、今はお医者さんになっていらっしゃるんですけれども、女の方で医学生の方が下宿をしてらしたんですね。
その頃ね、私達がいた時に。

その時に丁度あの、(昭和)52年の11月15日の夕方、丁度めぐみがこの角で消えた丁度その頃に、はっきりとした時間は分からないんですけども、その2回の医学生さんが悲鳴の様な声、はっきりとは覚えていないんですけれども「助けてー」という様な声だったような気もするし、「ギャー」という様な声だったような気もしたそうですけども、その声を聞かれていたんです。

それだけが、あの、何にも分からない中でその事だけがあの頃からありました。で、その下のおばあちゃまに「何か凄い女の人の声が聞こえたのよ」と言って後で話されていて、そしてびっくりして窓を開けて一生懸命こちらの方をこうして見て下さったんですけども、お隣の家もかなり大きな家で、木が茂ってて邪魔をして何にも見えなくて、しばらくこうして見てたんですけども、女学生が騒いで来る様な気配もないし、車が発車する音もないし、何にもなくて、どうかなあと思いながらも窓を閉めて、(聴き取れず)、で、おばあちゃまもそれをすぐにお聞きになって、「うちの2階のおねえちゃんがこんな事を言ってたけど、それはどうか分からないけど、そんな声を聞いたという事を言ってましたよ」という事をすぐに知らせて来て下さった事がありました。

それは私もいつも気にはなっていたんですが、それはあの、丁度この前、3組の御家族の方が御帰りになった時に、曽我さんも御帰りになって、曽我さんが少しずつ色んな事を、めぐみと一緒に暮らした時の状況を、皆さんも御存知の様に(聴き取れず)書いたりなさっている中で、私にもちょっと教えて下さった事があるんですね。

それはあの、めぐみと1年あとに曽我さんは連れて来られて、北朝鮮に連れて来られて、しばらく違った招待所に住んでたんですけども、ある時に曽我さんをめぐみがいる招待所に、「一緒に過ごして、一緒にここで勉強しなさい」という事で、初めて連れて来られた後の事、と言っておられました。その時にあの、とてもめぐみは喜んで、1人でいたところを、「同じ様な、私の様な人が来てくれた」というんで凄く喜んだと思うんですけれども、「こんにちは」と言ってくれた時のその感じがとっても可愛くて、もう本当にほっとしたというような事を仰ってまして、その時にはジュースを頂いたりしながら、夜に布団を敷いて寝る時に、曽我さんは何かその時に、足に、どういう傷か分かりませんが、かなりひどい傷を負ってらしたらしくて、めぐみちゃんはびっくりして「その傷はどうしたの?」って訊いてくれたと仰ってました。

そして、そんなに優しく訊いてくれた人は今までなかったので、本当に嬉しくて「思わず本当の事をお話したんです」という事で、「実は私、お母さんと一緒に佐渡の浜辺から連れ去られて、船に乗せられて来たんですよ」という事、「でもお母さんはそれっきりいない」という事を言ったら、そしたらめぐみちゃんは「実は私も、バドミントンの帰り道に、友達と別れてこの角の所で男の人に捕まって、そして船に乗せられて連れて来られたんです」、「怖かったねえ」という事を2人で囁き合ったという事をね、初めて聞きました。

だから私は、その時に矢張り誰かがそこにいたんだという事を話して、どういう姿だったとか、何人いたとか、誰か顔見知りのような人がいたという事を言ってませんでしたかと訊きましたら、「それは何も言わないで、その事だけを仰った」いう事で、(聴き取れず)言わなかったし、「もっと聞いとけばよかった」っていうような事も仰ってましたけども、だからやっぱりあの、誰かがそこにいた。それはめぐみを捕まえようと思ってたのか、もっと違った、短大生か誰か来るのを待ってたか、それは全く分かりませんけど、やっぱりあそこで「ギャー」と言ったのは、あのおねえちゃんが聞かれた声は、めぐみに違いなかったんだと、その時に私は思ったんです。


そうやって、皆様も御存知のように、蓮池さん御夫妻も地村さん御夫妻も、それから曽我ひとみさんも御母様も、みんな同じ様にこう、袋に入れられて括られて船の底に転がされて、北朝鮮まで運ばれて、そして20何年間という間あちらで監禁状態の様な物凄い惨い生活をさせられて来たという事が分かって来ました。

めぐみも、たった一人ですけど、何が起きたか分からないような状態で、あの、余りにも泣き叫ぶので船の底に放り入れられて、もう物凄い絶叫して泣いて、あの、「助けて、助けて!」って泣きながらチョンジン(清津)まで運ばれたという事がアンミョンジン(安明進)さんの本に書かれてありましたけれども、本当にもう、こんな事が今この平和な日本の中で行われていたなんていう事が、私達当事者であっても「そんな事があるんですか?!」っていう信じられない、半信半疑の思いで、あの、名前を公表して、めぐみの写真と名前を出して来た訳です。

その中で色んな事が表れて来て、そしてあの、中々解決に向かわなかったんですけども、小泉さんの訪朝がありまして、初めてキムジョンイル(金正日)という、あちらでは滅多に会えない人に会う事が、トップ同士が会う事が出来て、初めて向こうが拉致を認めて、そしてあの、「我が国がやった事だ」っていう事を言いました。

けれども、そこまではよかったんですけども、返って来た答えは、たった5人だけが生存で、9月17日のあの凄い日の事を思い出しますが、5人生存8人死亡というように、それも向こうが「この5人は生きてる。この8人はもう死亡したんだ」と。「あとの2人は入って来た事がない。曽我さんのお母さんも見た事がない」という風に言ってますけども、その事を日本政府に伝えた、その伝えた事を何にもそれを調べないで、どうして死亡したのかという事を、証拠がどこにあるのかも何もなしに政府は帰って来られて、そしてもういきなり私達に「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と、はっきりと明暗を分けられた訳ですね。

そういう風なこの、どうしてこんな酷なんだろうと、私達当事者は(聴き取れず)、こんなに簡単な言葉で、紙切れだけで決着が付くような問題じゃないのにという思いを抱いていました。係りの方が北朝鮮に行きまして、亡くなり方とか色々、また色々と訊いて来て、こうだこうだと紙切れに書いてくれて(聴き取れず)こうこうこれですというのを配られて読んだんですけれども、本当に何て言うかもう、これだけの長い年月をね、私達は死に物狂いで生きて来たその思いというものは全然やっぱり理解されないで、ただもうこうですよという事務的な処理のされ方をしたという事に対して、本当にもう悔しくて堪らなかったですね。

誰がこんな目に遭われても同じ思いになるんだろうと思います。その中で私達は、そんな死亡なんて信じられないという事ではっきりと政府に向けて発信して来ましたし、家族会が一緒になって頑張って来ましたけども、未だに死亡と言われた人達の事は益々エスカレートして、この前の様にめぐみは亡くなってますよという事で、夫であるチョルジュンさんという人が大事にしていた骨ですから間違いありませんという形で、直接その人から藪中(三十二氏・当時、外務省アジア大洋州局長)さんの方へ渡されたものが提出されましたけれども、「私はこんなものはめぐみと思っておりません。全然信じておりません」とはっきりその前で言いました。

で、悲しい顔の写真とかが出て来た時は、本当にもう悲しくて遣り切れなくて、拓也たちも一緒に泣いてしまったんですけども、そういう風にこう何か非常にこう全ての事が、生命というものが軽くあしらわれているなという感じがもう本当にいつもするんですね。

それであの、飯塚さんも一緒に行きましたジュネーブで、国連の強制失踪者調査会に行って、めぐみ達の写真を持って訴えて来たんですけれども、その時、本当にあちらの方は一つ一つ、「母親であり父親でありお兄さんであるあなた方がどんな思いで過ごして来たか」を本当に1つ1つ身を乗り出して聞いて下さって、涙を流して、「こんな事は許せない。あなたも頑張りなさい。私達も一生懸命応援するから」という思い、その心がね、響いて来るんです、こちらに。そういう事が日本の元政治家の方達と何度もお会いしましたけども、本当に不思議なんです、何が足りなくてああなるのかなと思うほど心が響かないんですね。

ただこう、「お話の事は分かりました。お気の毒だと思います。一生懸命に頑張りますから」と言って下さるんですけども、ジュネーブとかワシントンに行ってあちらの高官にお会いした時の、あの感覚って言うか感性と言ったらいいんでしょうかね、琴線に触れる、もう本当に話してても涙が止まらないような、そういう思いにならないというのが不思議でしょうがなくて、何かが日本の中に欠けてしまってるんじゃないかなあっていうのを感じるようになっていますし、そして本当に今も、小泉さんもまだ対話対話対話です、と如何にも無表情に仰る姿を見ると本当にこの方は人の苦しみを、御自分の御子様がこうなってもああいう風に言えるのかなと思うくらい寂しいなあと思って見てるんですが、その小泉さんと本当にお話をしたいと、直接会ってお話をしたいと申し入れてるんですけど、中々御忙しくて会って頂く事が出来ません。

だけど本当にこれはめぐみや田口八重子さんや増元るみ子さんの(聴き取れず)一人一人が可哀想で御気の毒ですね、何とかしなくちゃ、というような問題でなくて、誰がこんな目に遭ったかも分からないし、まだこれからだってこのまま放っておけば幾らでもこう乗じて色んな事をまだやってくると思いますから、国としての指令ですから何をやってくるか分からない、その様な恐ろしい状況の中にもう落とされているんだという事に私達は気付くべきだと思いました。これはもう(聴き取れず)「私の子供だったら私はどうするだろう。こんな事でいいんだろうか」と、何はさておき生命がまだ助けを求めていて、そして危険な国に置かれていて、助けてって言っている人達を放っておいて他の事をもっと優先して動くというその姿勢というのは、私は信じられないですね。自分の子供だったら絶対に飛び込んで、自分はもう溺れてもいいから助けに行くでしょう、海に。

もし溺れていたら。その状態にまだいるんですから、どうしても一番に生命を助けてあげなければならないというこんなに大事な事が、相変わらず何となくのんびりと見過ごされて、他の事件が起きるともうそちらの方だけがワーッと優先的になっていって忘れ去られていくような形になっていくという事が、非常に怖い事だなあと思います。もし御自分の御子さんがこうだったら、御家族がこうだったら、将来こういう事になったらいけないという思いがあれば、全部が一つになって、政治家もそうです、外務省もそうです、警察もそうです、そしてマスコミもそうですし、国民全部が、こんなひどい目に遭わされてまだ苦しんでいる人がいる、「うちがやったんだ」とその国が言ったのに、取り返す事が出来ない、こんな事でいいのかという事を真剣に考えて頂いて一緒に、私達と一緒に、こういう国ではいけない、本当に大事な事をまず優先して皆がもう一丸となって闘えるようにしていかなければならないんだという事を分かって頂きたい。

そういう事を私達は全国を回って、もう3県だけ、沖縄と青森と山梨だけ残して、あと全部で講演会の(聴き取れず)になりますが、本当にもう一生懸命に聴いて下さる様になって、(聴き取れず)皆さんが怒って下さいまして、(聴き取れず)沢山の方が、講演会に溢れるばかりの人が来て下さるようになりましたし、この事を絶対に消さないように一生懸命に守り続けて、必ずまたあのタラップの向こうから有本さんの恵子さんもめぐみもるみ子さんも田口八重子さんも、皆が(聴き取れず)元気で帰って来てくれる姿をいつもいつも想像して頑張っているんです。

るみ子さんの御父さんや地村さんの御母さんの様に、あんなに待って待って待ち望んでいた御家族達が帰って来られても、また死亡と言われて何も分からないままであの世に逝かなければならなかった、その様な方の様にもうこれ以上、年老いた御家族の方が無念の思いをする事がないように、絶対あの子達のこの長い間の苦労、悲しみ、どんな生活をさせられてるかと想像するだけで私達はもう本当にのめり込んでしまうほど悲しいんですけども、絶対その嫌な事を思わないで必ず元気でいるんだと思って助け合って闘っている訳です。だからもうあの子供達の苦労、苦しみは、これがあの、この(聴き取れず)が絶対、無駄だった、しょうがなかったというような事で終わらないように、こんなに苦労してきた事が、こんなに日本が良くなって、甲斐があったのよ、あなた達の御蔭よって言ってあげられるように、私は絶対頑張りたいと思ってますので、どうかこれからも宜しく御支援下さいますように御願いを致します。有難うございました。

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~蒼明~

~~蒼明~~  作詞:高野美幸   作曲:きなさか ゆうま

触れることも叶わない セピア色の過去なのに
見送ったキミの背中 何も変わらず

記憶の片隅に隠す この手つないだ温もり
見つけ出すよ君の全て 胸ふるわせる真実

Ah 北西の地にはまた 君の命輝き 
日よ照らして 月の鏡に 流れ星願かけて

涙でできた海の蒼い海流 赤い太陽 黄に夜明け染めて

流されないで 戦い方も知らない 小さなISLANDS

もうこれ以上 待てない その愛を 取り戻す今

白く霞む水平線 一人細波に歌う
無機質なビルの壁に 浮かぶせつなさ

あの日海に沈められて 眠る本当の自分
もう一度見つけ出せたなら 抱きしめられる真実

Ah 蒼い絆は切れず 強く結ばれている
風にのせて 空よ映して 海よ伝えて欲しい

涙でできた海の蒼い海流 心にともる火で 橋を架けて

蒼い炎が 深く暗闇を照らす 凍るPARADISE

自由の羽広げる その夢が 蘇るように

~~~ご本人の了解を得て掲載します~~~~~
特定失踪者高野清文さんのご家族の作品です。
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2005年4月 6日 (水)

文革の犠牲者

以前、半年、10回ぐらいだけ、中国語を習った。

中国語は難しかったけれど、合間に話してくれる中国の実情が興味深かった。
この先生、中国語のレッスンより、<文革の異常さ>の話になると止まらない。
(おかげでほとんど発音が身に付かなかった。←ほんとは私が悪い)

実体験に基づいた話なので、聞いている生徒も引き込まれる。
「一言で言えば、中国は間違っている」と話し出す。

文革の敵は、文人・学者・知識階級のだったので、その地域で何代も医者をやり人々の敬愛を集めていた彼の父親はやり玉にあがった。家族も同罪とみなされた。

詳しくは覚えていないけれど、父親は農村に労働に行かされ、毎日のように毛沢東語録を読まされ、自己批判をさせられ、非道な扱いを受けた。 家族との連絡もほとんど取れず、食糧は家畜以下だったそうだ。

家族も毎日地域の長の家に連れて行かれ、そこで自己批判や、反省のための労働に従事させられた。 母親は、父親を非難する文章を書かされ、それを地域の人の前で読まされた。(隣組のような組織があったようだ)子供の安全のために、心の中とは裏腹のことを、母親は泣きながら読む。読み方が悪いと、やり直しをさせられる。

「幼かった私は、どうしてお父さんのことが大好きなおかあさんがこんなことを言うのかと問い詰めたこともあります。その時、お母さんは泣くだけでした。」と。

全く医学の知識のない人が医師として選任され、医療にあたる。 思いつきで診療するから、誤診もある。死人も出た。それでも彼は医師として扱われる。
誰も彼を信じない。だから党幹部が病気になると、遠い農村から本物の医師(中国語講師の父)を秘密で連れ出して治療に当たらせる。 「党の幹部が体調が悪いと聞くと、父に会えると喜んだものです。でも朝には連れて行かれてしまった。人目に付かないように、農村に戻されたのです。」

「おかしい」と発言した人はつるされる。拷問はひどいものだった。子供である講師も、<死なない程度>の拷問にあったと言う。
「めちゃくちゃです。それはみんな判っていた。それでも黙っていなければいけなかった」

今、上海には文革の記録を残す施設があるらしい。その中に拷問でなくなった青年の遺体があるという。(人形?名前も聞いたが覚えていない。だれかご存じでしたら教えてください)A講師は彼を知っている。「青年は何も悪いことはしていません。只めだっただけです。美少年だった。<悪いことをしている>と自白しないから拷問されました。中国人は何故、彼が死んだかを考えなくてはなりません。展示には異論もありましたが、私は展示されて良かったと思っています。」

話が戦争のことになるとこういった。「日本の人は中国人と会うとうつむく人が多い。戦争で悪いことをしたと思っているのでしょう。でも戦争とはそういうものです。中国は長い歴史の中で国内でも戦争をいっぱいやりました。その時中国人だってたくさん残虐に殺されました。日本は良い国です。もっと自信をもってください。」

中国語講師のAさんは、知能指数がものすごく高いと聞いた。知的レベルも高い。文革の嵐がなければ、ひとかどの人物として活躍したはずだと思う。日本で中国語を講師などしていないはずだ。

嵐の後、両親は彼が日本に行こうとするのを止めなかったそうだ。「いつ又同じようなことが起こるかもしれない。生きるために国外に出なさい。家族のことは心配しなくていい。」と父親は、国外に出るチャンスを掴めと奨めたそうだ。

いくつかのチャンスを逃してやっと彼は日本に来ることができた。そして、日本人の奥さんと幸せに暮らしている。

きっと彼は東京のどこかで中国語を教えながら、合間に文革の異常さを語っているだろう。
熱のこもった、聞く者を沈黙させるその話に教室は静まりかえって聞き入る。歴史の現実をかたる彼の中の苦悩が滲み出ているからだ。

文革後の中国にも、強い危惧を語っていた。

今も彼は東京のどこかで、「中国は間違っている」と心の叫びを伝えているだろう。
その話には、祖国中国への愛ゆえの、実体験があるからこその、厳しい視線があった。
普段は明るい人だ。冷静で論理的だし、冗談だってうまい。

私には、そのほんの少ししか理解できなかったけれど、「中国は間違っている」という言葉が重く、残っている。
(金木犀)
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2005年4月 5日 (火)

法王死して私の下痢は続く

法王死して私の下痢は続く   アンデスの声
鳳凰は不死身だが生身の法王は死ぬ。法王の死を悼み喪に服するよう、ブラジルもフィリピンもフランスもイギリスも大統領が国民に呼びかけた(政教分離は世界の非常識?)。カトリック教徒にとってのローマ法王の存在感は我々日本人(少なくとも無宗教の私)にはどうにもさっぱりわからぬが、たぶん彼等にとって民族・国家を超えた、国連よりも大切な精神的拠り所なのだろう。

植民時代の布教活動により国民の9割がカトリック教徒(リマの宗教裁判博物館には改宗に応じない先住民に対する往時のすさまじい拷問の様子が蝋人形で再現されている)となった当地では、今回の法王死去で昨日緊急政令が公布され3日間喪に服することになった。本日月曜も朝から街全体が静まり各教会で追悼ミサが行われている。ふだん付き合う中ではあまり意識しなかった、自分の知らない彼等の精神世界を垣間見た気分である。

その昔、英国教会圏の大学に滞在中、下宿屋のオバサンから「日本人のあなたは仏教徒でしょう?」と聞かれ私が「いえ、宗教は無い」と答えたら目を丸くして「宗教無しに人は生きられない、神がいないとみんな自殺しなきゃならないでしょう」と真面目に語り始めた。宗教が当たり前の国において無宗教にはアナーキストの印象があり物言いには注意を要する。アラブイスラム圏の仕事していたとき必要知識としてイスラムの本は色々と読んだが本はあくまで本、彼等の信心の心の襞の奥には部外者には窺い知れぬ部分がある。南米担当になるとき経験者から「ここのカトリックはいわば浄土真宗、みんな賛美歌は歌うが門徒のお経みたいなもんで、聖書をまともに読んでいる者は少ない」と聞いた。若い頃にプロテスタントの洗礼を受けた私の母の聖書には所々に赤線が引っ張ってあったが、そういうクソ真面目なのが(特に日本人の)新参信者の特徴らしい。南米の人々にとってカトリックは別に何もしなくても最初から精神・生活の中に溶け込んでいる空気のようなものなのである。

日本の天皇、ローマ法王、北朝鮮の独裁者を(不謹慎ながら)並べてみる。天皇制に反対する一部の日本人も人間としての皇族個人を嫌う者は少ないはずだ、天皇制大嫌いなあの本多勝一でさえ日本山岳会で出会った皇太子の人となりについては好感を持って高く評価していた。ヨハネパウロ二世の人柄は宗教・宗派・民族の壁を超えて広く敬愛されていた。で、一部の狂信者に支えられながら民族国境を越えて蛇蝎の如く憎まれ嫌われている金日成・正日親子、彼等は何をめざそうとしたのだろう。自信と自惚れ、自覚症状は似ているがその判断を下すのは他人である。ある価値観を人々が精神風土として受け入れ消化するのは理屈でも強制でもなく自身の良心からであり、寛容と慈愛を欠いた社会思想はいずれ必ず破綻する、膨大な屍とともに。

ところで私は先週水曜日に親不知の抜歯縫合手術して以来固形物が噛めず牛乳に浸したパンとヨーグルトだけ食べていたらずっと下痢ぎみで、今日ようやく抜糸の予定だったのに法王追悼休日で歯科医院も休業、私の下痢はまだ続くことになった。

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