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2005年7月 6日 (水)

飯塚家・家族の絆

田口八重子さんのお兄様、現在家族会の副会長を務める飯塚繁雄さんご夫婦、耕一郎さんの現在までの軌跡を語る文章をテキストにしましたので是非ご覧ください。

特別企画
  家族のかたち
     雑誌 「家の光」より
実の子として育てた日々
       飯塚繁雄(66) 飯塚栄子(61)

27年前、二人の子どもを残し、
突然いなくなった妹。
兄夫婦は残された子どもの
ひとりを「実の子」として育てる。
その後、妹は北朝鮮に
拉致されていることがわかり
子どもにも真実を告げることに・・・・
夫婦が語るその間の苦悩と、
妹に寄せる思い。



「お宅の妹さんが何日も無断欠勤をしています。」
妹、田口八重子の勤め先から突然電話があったのは、1978年、今から27年前の6月のこと。最初はなにがおこったのか状況がつかめませんでした。八重子は当時、夫と別れ、二人の子どもを育てるために東京・池袋のキャバレーに勤務していました。二歳半の長女と一歳の長男(耕一郎さん)をベビーホテルにあづけたまま、姿を消したのです。

自分の子どもは自分ひとりで育てる。そんな意思の強い妹でした。だから、子どもを置いていくなんて考えられません。二、三日もすれば戻ってくるだろう、と最初は楽観的に捉えていました。それが一週間たっても帰ってこない。トラブルにでも巻き込まれたのではないか。嫌な感じを抱いたのを覚えています。
私は7人兄弟の長男として、戦中戦後の食糧のない時代を必死で生きてきました。娯楽はなく、何事も我慢我慢の時代。一方、八重子は末っ子で昭和30年生まれ。私とは十七も年が離れています。親父が病気がちでしたので、あんちゃんあんちゃんといつも慕ってくれていました。

離婚したときには心配で、「昼間の仕事をしなさい」と言ったのですが、当時、女性が子どもを預けて働ける職場は水商売しかありません。いろいろと悩んだ上での選択だったと思います。二週間に一度は様子を見に行きました。勤め始めて二ヶ月、暮らしも落ち着き始めたころの出来事でした。(繁雄さん)



必死で仕事をして、子どもを育て生きてきました。
   そんな家庭にどうして・・・(繁雄さん)


そのころ私たちはすでに三人の子どもがいました。八重子さんがいなくなったこともそうですが、残された八重子さんの子どもを何とかしなくちゃいけない。私たちの子どもの分も含めて、ご飯食べさせなきゃ。ミルク飲ませなきゃ。必死でした。(栄子さん)

家族の一員として
   育てることに

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その後、八重子さんの長女は繁雄さんの妹が引き取り、繁雄さん夫婦は長男の耕一郎さんと養子縁組をして、自分たちの子どもとして育てることになる。
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子どもたちにも事情を話しました。「耕一郎はこれからお前たちのきょうだいとして生活する。ほんとうの子でないことは耕一郎が大きくなるまでは絶対に口にしてはいけないよ」と。子どもたちは、「うん、わかった」と素直に答えました。近所の人も気づいていたようです。妻のおなかが大きくならないのに、突然子どもが増えたのですから。
成人したら、耕一郎にこの事実を打ち明けるつもりでしたが、それまでは絶対に知らせてはいけないと思いました。多感な年代に事実を知ることで、自暴自棄になり、自分を見失ってしまうことが怖かったのです。三人のきょうだいはよく黙っていてくれたと思います。子どもだったら冗談で、「お前なんかうちの子じゃねぇ」なんて言っていってしまいそうですが、それだけは言わなかった。やはり子どもなりにいってはいけないことというのがわかっていたのでしょう。耕一郎が立派な大人に成長してくれたのも家族のおかげだと思っています。(繁雄さん)

あの子はかわいそうな子だからこうしてあげよう なんてことはまったく考えませんでした。子どもが四人もて、家のローンも抱えて、そんなことを考える余裕がなかったのも事実です。その分、私たちが一生懸命働く姿、生きている姿を見せてきたつもりです。そのことが耕一郎を育てる上でよかったんじゃないかと思っています。(栄子さん)


飯塚家に引き取られた直後の耕一郎さん。なんの疑いももたず、実の子として素直に成長した。

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1987年11月29日バクダット発ソウル行きの航空機がミュンマー沖で消息を絶つ。いわゆる大韓航空機事件だ。経由地で飛行機を降りた日本人を名乗る男女二人が服毒自殺をはかり、男性は死亡、女性は未遂に終わる。取調べの結果、北朝鮮の工作員であったことが判明。生き残った金賢姫は、事件は工作員による爆破テロであったこと、日本人に偽装するために、北朝鮮で、「李恩恵」と呼ばれる日本人教育係りから日本語や日本の風習を学んでいたことを証言する。そして驚くことに、その「李恩恵」は八重子さんであったことが、明らかになる。
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最初はそんな馬鹿な話があるかと思いました。そりゃぁ、八重子に関しては十年近くなにも情報がなかったのですから、信じろというほうに無理があります。それからは毎週のように警察からの事情聴取を受けました。そして、最終的には金賢姫が八重子の写真を指して「李恩恵」だと証言したので、事実を認めざるを得ませんでした。八重子は北朝鮮に拉致されていたのです。

さいわい耕一郎には知られずにすみましたが、マスコミの取材攻勢はひどいものでした。会社や親族の家まで押しかけてきて、事実と違うことや興味本位なことを書かれ、ひどくショックを受けました。八重子は無理やり連れて行かれて、なにも悪いことはしていない。わたしたち家族は被害者なのに、どうして世間から傷つけられなければいけないのか。腹立たしい日々が続きました。(繁雄さん)

養子って
      どういうことなの?

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1998年9月、耕一郎さん21歳のとき、ついに真実を告げるときがくる。きっかけはパスポートの取得のために取り寄せた戸籍謄本の「養子」の記載だった。
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「これってどういうことなの?」
耕一郎に尋ねられ、わたしはついにそのときが来たかと思いました。言おう言おうと思いながら、なんとなく話すタイミングを逃していたのですが、そのときはたまたま妻も出かけており、二人でじっくりと話すことができました。
耕一郎は最初、「へぇ、そなんだ」とそっけない反応でしたが、内心は穏やかではなかったようです。あまりに重大な話だったのでショックを受ける余裕がないという感じでした。時間をかけていろんな話をきくことで、これは大変なことなんだということをすこしずつ実感してきたのではないでしょうか。話の最後に私は言いました。「でも、おまえの父親と母親はこれからもわたしらだからね」と。(繁雄さん)


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2002年9月17日、小泉首相が訪朝し、金正日総書記との日朝首脳会談が実現する。会談の結果、北朝鮮は拉致の事実を認め、五人の生存と八人の死亡を発表する。
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「あきらめずに待っていてくれ」
     なんとか妹にそう伝えたい(繁雄さん)


外務省から、携帯電話に連絡があったのは、ちょうど会社で仕事をしているときでした。それで「八重子は死亡した」という報告を受けたのです。

そのころ、耕一郎は出張でロンドンにいました。テレビの衛星放送で報道を見てすぐさま家に電話をかけてきました。
耕一郎の声は震えていました。日本から遠く離れた地で最悪の結果を知らされ、どうしようもないやるせない気持ちだったと思います。わたしと耕一郎が話している間ずっと、妻は隣で嗚咽していました。妻に受話器を渡しましたが、とても会話にならないようでした。

しかし、電話一本ではどうも納得がいかない。翌日、外務省まで出向き、一人で説明を聞きました。内容は、死亡したという事実だけで、証拠はなにもなく、説明もまったくありません。情報はまったくのでたらめとしか思えませんでした。

そのとき、わたしは決心しました。これまで家族の生活を守るために沈黙をしてきたけれど、このままでは何も進まない。家族会(「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会)に入り、世論に訴えていこうと。2004年2月からは耕一郎も家族会の一員として活動を始めました。拉致問題の解決の糸口が見えないなかで、「親父も疲れているだろう。少しでも補えるならおれも出るよ」と言ってくれたのです。出て行くには勇気がいったと思います。よく決意をしてくれました。

親子が抱き合う姿を
       一日も早くみたい


私たちは、必死で仕事をして子どもを育ててきました。「そんな家庭にどうして?」という思いは正直に言えばあります。また、日長実務者協議で、なぜ、八重子の情報が入ってこないのか、という苛立ちもあります。でも、一番つらいのは拉致された八重子本人です。北朝鮮で一人、「もうだれも迎えに来ないだろう」と、あきらめているんじゃないかと。「あんちゃんたちはぜったいにあきらめないぞ。取り返そうとがんばっているから待っていてくれ」、そのことを八重子に伝えることができたら・・・・。拉致被害者の家族には年老いている人がたくさんいます。私たちだって、もうそれほど若くはありません。でも、八重子が帰ってくる日までは倒れるわけにはいかないんです。(繁雄さん)

「ああ、今日も出張なんだ・・・」家族会の活動を始めてから夫が家を留守にすることが多くなりました。活動は夫が先頭に立ってくれていますが、気持ちはわたしも同じです。耕一郎がお母さんと抱き合う姿を一日も早く見たい。いま、心から願うのはそのことです。
(栄子さん)



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