安明進氏の国会証言を否定する蓮池薫氏に対する
安明進氏の再反論の会見
原 良一@記録係さんの投稿より 8月29日(月)
先日8月26日に行われた、特定失踪者問題調査会の定例記者会見で、安明進氏が、自身が7月28日に行った国会での発言に対し、蓮池薫氏がそれを否定する発言を発表したことに対して、反論の会見を行いました。
概要は当日の調査会ニュースで発表されていますが、私もそれに出席していたので、その発言を質疑応答を含め、全文公開します。
発表にあたっての但し書き
本記録は、2005年8月26日に開かれた特定失踪者問題調査会定例記者会見に際して、荒木和博同会代表の通訳を介した行われた安明進氏の発言を私、原 良一が、テキストに起こしたものです。起草後に、荒木氏の校閲を受けているので、通訳及び本稿のチェックにおける責任は荒木氏に属します。
<安明進氏記者会見全発言>
荒木氏の紹介
それでは続きまして、安明進さんからコメントをお願いしたいと思います。この間衆議院の特別委員会で安さんが証言したのは7月28日でございまして、蓮池さんのコメントは29日でございます。
安明進氏の発言
蓮池薫さんが発表したコメントを読みました。蓮池さんは、マスコミに対する発表文として出したわけですけれども、私の方は、逆に蓮池さんに対する質問としてお伝えしたいと思います。
蓮池薫さんは「私は『金正日政治軍事大学』にはいなかった」と言っているわけですけど、それは当時違う名前だった、「朝鮮労働党中央委員会直属政治学校」だったということです。学校自体は同じです。
変わった学校名、変わらない秘匿名称
私が、蓮池さんや横田めぐみさんを見た88年から91年の間は、「朝鮮労働党中央委員会直属政治学校」だったものが、92年の1月20日に「金正日政治軍事大学」に名称が変わりました。そして当時から変わっていない名称もあります。それは「130連絡所」と「人民軍695軍部隊」で、こちらは現在も変わっていません。
私が蓮池さんにお聞きしたいのは、昔の名前の「朝鮮労働党中央委員会直属政治学校」そして「130連絡所」、「人民軍695軍部隊」にいなかったか? ということです。
北朝鮮が2002年、03年に拉致被害者の日本人が死んだ根拠として出してきた「死亡診断書」の中に、「695病院」と書いてありました。これが「695」の名称が現在も変わっていないという根拠です。
要するに、「695」という施設で日本人を今でも管理していることを、北朝鮮自体が認めているにも関わらず、蓮池さんがそれを語れないということは、何か別の語れない理由があるのではないかと思います。いずれはそれを明らかにしてもらいたいと思います。
太陽里も金正日政治軍事大学の一区画
蓮池さんたちは、太陽里(テヤンリ)という所に居たと言っていますが、私たちがいた東北里(トンプンニ)の隣になりまして、太陽里が西北に位置しまして、東北里が東南になります。(安氏、位置関係を紙に書く。左上に太陽里、右に東北里、左下が新美里=シンミリ、東北里の中に南朝鮮革命史跡館が描かれている。それを示しながら)こういう地理関係で、こちらが蓮池さんたちがいた太陽里、こちらが東北里、ここが新美里となります。東北里のこのあたりに南朝鮮革命史跡館があり、私たちはこの近くに住んでいました。金正日政治軍事大学は、この三つの区域に跨って存在していました。
その中で、蓮池さんたちがいたと主張しているのは(太陽里を指しながら)ここですけれども、その地域も金正日政治軍事大学の所在地の一つに含まれています。
蓮池さんは、私たちは東北里にはいなかった、居たのは太陽里だという意味で言っているのかもしれませんけれども、私はその主張を信じていません。彼らも東北里に住んでいたと思っています。
1987年に大韓航空機機爆破事件が起きた後、88年から91年の末にかけての拉致被害者日本人の管理は、金正日政治軍事大学の本校で行われていたのではないか、と私は思っています。蓮池さんたちに尋ねてみたいのは、彼らの子供たちが、学校に行く年齢になってからは、遠方の寄宿舎付きの学校に通わせたわけですが、それ以前の幼稚園時代は、南朝鮮革命史跡館の裏にある幼稚園に通わせたのではないか? ということです。
特別な存在の拉致被害者、その他大勢の中の安明進氏
蓮池さんは、私を見たことがないと言っていますが、それは当然だと思います。たくさんの学生がいて、私はその中の一人に過ぎなかったのですから…。
一方彼らは、特別な立場にありました。蓮池さんが言うように、確かに彼は「金正日政治軍事大学」にはいなかった、あるいは、私、安明進を見たことはなかった。それはそれで事実でしょう。当時の学校の名前は違っていたし、私は、多くの学生の中のワンオブゼムで、会って話しをしたわけでもありません。けれどもだからといって、彼らが実際の事実を否定することはできないはずです。
私が考えるに、蓮池さんが金正日政治軍事大学にいたことを認めれば、他の拉致被害者についても話をしなければならなくなり、それを負担に思って認めたくないのだと推測しています。
私たちも蓮池さんも、北朝鮮に対して闘わなければならない立場であるのに、なぜこれ程までに私を忌避しなければならないのか? ということをお伝えしたい。以前、東京国際フォーラムであった大集会(03年5月7日の第5回国民大集会)の時に、蓮池さんたちも出席したのですが、彼らは、私と同じ階には泊めないでくれとまで言いました。なぜそこまでしなければならないのか、と思わざるを得ません。
忌避するのではなく、共に闘ってほしい
私は、もちろん日本人だけではなくて、自国の可哀想な同胞を救いたいと思ってやっているわけですが、多くの日本人の皆さんも拉致被害者を救出しようと活動しています。私が、日本人に危害を加えようとしているならともかく、日本人も救おうとして活動しているのに、なぜ避けなければいけないのでしょうか?
北朝鮮が拉致を認めていなかった時期から、私は、私なりに命を賭けて、蓮池さんを初めとする拉致被害者の救出を日本政府に訴えてきました。ですから人間の道理としても、逃げ回ってばかりいないで、会って話しをして、そして共に戦うべきではないかと思います。
正義の側について欲しい!
もちろん蓮池さんを初めとする拉致被害者5人の方々は、北朝鮮がどれだけ危険で、非人間的な集団であるかは、よく知っていると思います。しかしそうではあっても、北朝鮮は崩れつつある悪であり、日本政府は正当な要求をし、活動をしていることは、彼ら自身も理解していると思います。悪の側に追従するのではなく、彼ら自身も助けられたのだから、他の拉致被害者も助けるという正義の側に付いて欲しいということを求めます。
質疑応答
Q1. ― 東北里で見たのはいつか? ―
先程の推測の中で、蓮池さんは太陽里に住んでいて、(金正日政治軍事大学のある)東北里に入ったことはないという意味の主張をしているのではないかという推測をなされていましたよね。東北里で蓮池さんを見たのは、何年ごろでしょうか?
A1. ― 88年~91年8月までに6、7回 ―
88年から91年の8月頃までです。蓮池さんは、少なくとも6~7回は見たと記憶しています。彼は、行事がある度に南朝鮮革命史跡館に出向いては、金日成の銅像を拝んでいましたから、行っていないはずはありません。
Q2. ― 印象的なシーンは? ―
その6、7回見ている中で、鮮明に覚えているシーンを二、三教えてください。
A2. ― 一際目立つ長身 ―
他の拉致被害者の方々は、総じて背が低いのですが、蓮池さんだけが非常に長身で目立っていました。二番目に大きい田中実さんが170㎝くらいだったと思いますが、後の人はそれより低かったのです。女性の場合も、150~155㎝くらいで、それら小柄な日本人の中で、一人だけ頭一つ抜けて長身だったので、とりわけ目立ったのです。
私が97、98年に証言を始めた頃は、特に親しい1、2社を除いてマスコミの人には目撃証言を話していませんでした。ご家族に伝わって衝撃を与えるのを恐れていたからです。警察など政府機関には、この人は間違いなくいますと話してはいました。3年前の2002年10月15日に、帰国してタラップを降りてくる姿を見て、ああこの人に間違いないと確信しました。ですから逆に、97、98年の段階で、ご家族に「間違いない、この人です」と伝えていたら、蓮池さんは戻って来られなかったかもしれない、と思ったりもしました。
Q3.
繰り返しになりますが、東北里のどの辺で目撃したのでしょうか?
A3.
金正日政治軍事大学の本校の講堂で、行事の時です。
Q4.
ちょっと細かくなりますけど、どんな行事で、どんなことをしている、例えばお辞儀をしているとか、どういうことをしているのが、印象に残っているのでしょうか?
A4. ― 主要な祝日の時に一緒に宣誓を ―
大きな行事の時だけですけれども、10月10日の朝鮮労働党の創建記念日、4月15日の金日成の誕生日、2月16日の金正日の誕生日、あと元旦、それらの行事の時に来ていました。その時には宣誓をするわけですが、それも一緒にやっています。ただ私たちは、軍服を着ていましたが、蓮池さんたち拉致日本人たちは私服でした。
Q5.
私服というのは、背広でしょうか?
A5.
暑い時は、(安氏、自身が着ているワイシャツを指して)このような開襟シャツ1枚の時もありました。
Q6. ― ディテールの再確認 ―
イメージとしては、何かの催し物でみんなが並んでいる時に、制服を着ている安さんたちにグループと別個に被拉致日本人のグループがいて、そこに背の低い人たちがいる中で、頭一つ抜きん出ているから目立った、ということですね。
(荒木氏の「それならば、位置関係書いてもらった方がいいですね」に、安氏快諾、絵を描き始める)
A6. ― 指定席に最後に並んで来て、真っ先に帰る被拉致日本人たち ―
(レポート用紙の上部に演壇、演壇前左側の席に安明進氏、右下入り口近くに蓮池氏ら被拉致日本人の一団を描いた絵を示して)
こういう形で講堂の奥に演壇があって、被拉致日本人たちは、演壇から見て左手最後列、演壇を上に描くと右下最後列に座ることが多かったです。私たちは、その時の学年とか、訓練に出ている学生がいたりすると場所が変わりますが、日本人の座る場所はいつも決まっていました。
そして日本人は、学生たちが座ってから並んで入ってくるので、背が高い蓮池さんは目立ったわけです。被拉致日本人たちは、最後に入ってきて、行事が終わると最初に出ていくので、そこにいる学生たちは見ていないと思っているかもしれません。しかし、拉致の実行犯が(教官や先輩として)その中にいるわけですから、その彼らが、あいつはどうした、こいつはこうしたと話をするので、彼らの個人的なことがわかるのです。蓮池さんたちは、北朝鮮当局から「お前たちは、見られているはずがない」と言われているのかもしれません。
<構成者補注>
双葉社より今年7月30日に出版された漫画「めぐみ」前編212~221ページで、安氏の証言に沿った構図が描かれています。イメージとしてはほぼこれで間違いありません。後から集団で来て、席の最後尾の指定された場所に座る被拉致日本人たちを、安氏ら学生が振り向いて見ては、噂話をする位置関係になります。
Q7. ― 5人が沈黙する理由は? ―
なかなか彼らが、ここで思うように喋れない理由について、脅されているんではないか、いろいろな推測がなされていますが、その辺はどのようにお考えでしょうか?
A7. ― 疑いない脅迫や圧力 ―
いくつか考えられますが、一つは、お前たちが日本でペラペラ喋れば、北朝鮮に残っている拉致被害者が無事ではすまないぞ、帰れなくなるぞと言われている可能性があります。あと、北朝鮮の非常に野卑なところですが、お互いに監視をさせてそれぞれの弱点を全部チェックして把握している可能性が高く、それを暴露するぞと脅している可能性があります。
蓮池さんは、子供たちが帰ってくるまでは、ぽつりぽつりと話していたわけです。私自身は、子供たちが帰ってくれば、安心してもっと喋ってくれるだろうと期待していました。ところが逆に、子供たちが帰った後の方が、却って喋らなくなってしまった。やはりこれは、明らかに何ならかの圧力がかかった証拠だと思います。
北朝鮮側は、当然5人の電話番号など連絡先を掌握していると思います。例の、北朝鮮に戻ってしまった平島筆子さんも電話番号を捉まれていて、北朝鮮の保衛部などから直接電話がかかっていたものと思われます。ですから、5人の所へも当然脅迫はなされていると思います。
日本にいる脱北者の許にも、北朝鮮から直接脅迫がなされている例もあります。
<構成者補注>
韓国在住の姜哲煥氏や、守る会会員の帰国者親族、在日朝鮮人であるRENK代表李英和氏の許にも、北朝鮮から定期的に脅迫と身代金請求の電話が来ています。
Q8. ― 家族会の意向は? ―
最近蓮池薫さんが、安さんの証言を否定したことで、薫さんの意思とは別に、安さんの証言の信憑性を疑われるという報道がされ始めていますが、家族会としては、この問題を薫さんに直接確認するということは考えられないのですか?
A8. 荒木氏の回答 ― 満足していない未帰還組家族 ―
この問題について、今日増元さんが大分の方に行っていて不在なものですから、私が家族会を代表して喋るわけにはいかないもので何ですが、ご家族の方は、ご家族の方で帰国した5人の喋っている内容について、満足はしていないことは間違いないです。充分にちゃんと喋ってはくれない、と。彼ら5人は、未帰還組の家族には、ちゃんと喋っていると言ってはいますけれども、これを満足して聞いている家族はいない、ということは間違いありません。だからご家族は、当然蓮池薫さんが、この間の安さんの国会での証言に対して出したコメントよりも、安さんの証言の方を信じているのは、間違いないです。
Q9. 原 良一‐1(構成者)― 蓮池薫氏との電話はいつ? ―
安さんの著作「新証言・拉致」(廣済堂出版)の中で、安さんと蓮池薫さんが電話で話したとありますけれども、それは何時ぐらいの話でしょうか?
A9.
はっきりとは覚えてはいませんが、蓮池さんが帰ってきたその年の内、つまり2002年末までです。
Q10. 原‐2 ― 一度や二度では本音は語れないはず ―
これは質問からは離れてしまうのですが、私は慰安婦の問題にも関わっていますが、慰安婦たちも、真実を明かすまでには、ものすごい時間がかかっているんですね、通り一遍のインタビューでは、本当のことを言うわけがないんです。これは朝鮮人差別だとかそういうことではなくて…。
彼女たちは、最初は強制連行されたと言っていて、詳しく聞いていく(人によっては数年に及ぶヒアリングによって)過程で、本当は親に売られていたことを打ち明ける、といった事例がほとんどなんですけれども、それと対比しても拉致被害者だって、二十数年間の北朝鮮での生活があるわけですから、1回、2回の事情聴取や未帰還組の家族との面会で話せるわけがないんで、もっともっと、対話を重ねて信頼関係を築いていかないと真実には迫れないと思います。
Q11. 原‐3 ― 時間がかかったのは安氏も同じでは? ―
実はこういうことを話したのは、以前高世仁さんの話で、安さんが横田ご夫妻と初めて会って、めぐみちゃんの話を始めた時、隣にいた安企部職員が慌ててメモを取り始め、後で「こんな大事なこと、何で今まで黙っていたんだ」と怒られていたと言っていたんですね。
A11. ― 最初からは無理でも、すべてを話すことが最大の安全策 ―
もともと情報機関に全部を話すことはありえません。例えば、何か一つ話せば、これは真実か、間違いないか、あれはどうなのか、それは…と次々と問い詰められることになる、そういう意味では確かに最初からすべてを話せるわけではない。特に拉致のことを話し始めた当初は、金正日の関与していることなので、顔を隠したりもしていたので全部話すことは無理でした。
しかし、拉致被害者5人にとって一番安全な方法は、正しい情報をきれいさっぱり話してしまうことだと確信しています。すべてを話してしまった後では、北朝鮮側も下手な手出しはできなくなります。
Q12. ― どうすれば発言を決断できるか? ―
先程喋りにくい理由を三つ挙げてくれました。危害加えられるとか、そういったことに対しては、話した方が下手な手が打てなくなると言うのはよくわかるんですけれども、一番最初に言われた、話したら残っている日本人が帰ってこられなくなるぞ、殺されるぞ、と何となく躊躇される気持ちが出るのも人間としてあるのかな、という気がするんですけど、それを乗り越えるにはどういうことをしたらいいと思いますか?
A12. ― 生存を明言されれば手が出せない ―
却って、「○○の人たちは生きています」と言えば、北朝鮮としてはもう何も手出しができなくなると思います。北朝鮮側の立場の人間にとっても、現体制が崩壊すれば、拉致被害者が居なくなっても(=解放して帰国させても)問題はないわけで、拉致被害者を抱えたままで体制が潰れてしまえば元も子もないわけです。
あとこういう言い方もどうかと思いますが、日本人というのは余りにも物わかりが良すぎるようにも思います。こうだと言われれば、ああそうですかと簡単に聞いてしまう部分があると思います。
<参考資料>
・
安明進氏を中傷する破信義(河信基)の論考
・
安明進氏の会見を伝える新潟日報05.8.26付
・
安明進氏、蓮池薫氏コメントに反駁(電脳補完録管理人による詳細な解説)
・
特定失踪者問題調査会拉致被害者向けラジオ放送を企画中 (同日の会見で発表された別の話題)
・
北朝鮮拉北者の安否確認拒否(朝鮮日報05.8.25)
※ 本会見記録作成にあたって、原稿の校閲に特定失踪者問題調査会荒木和博代表の多大なご協力をいただきました。記して御礼申し上げます。
ただし、拙記録の発表自体は、原良一個人としての活動であり、所属団体の指示、命令に基づくものではありません。
(http://www.jca.apc.org/JWRC/indexj.html)
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