« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月

2005年9月30日 (金)

拉致問題へのスタンス、私の場合

アンデスの声 さん 投稿日: 9月28日(水)

【トントンがある国の人間として】

「こいつらね、トントンが無いのよ、トントンが」と私に語ったのは技術指導派遣中の日本人技師。「書類をガサガサと束ねて適当にバッチンとホッチキスで留めてくるんよ。日本人なら留める前に誰でもやるじゃろ、束ねた紙の縁をトントンと机の上でそろえる、あのトントンが無いのよ。品質じゃの技術じゃの学ぶ前にね、そういう精神的基本から教えんといけんのよ。」 熱帯風土病のはびこるアフリカ内部の世界最貧国へ還暦を過ぎて単身で乗り込んだ彼は、博識で優れた技術者ながら決して気取らず現地社会に溶け込み、その誠実な人柄は現地の人々から“マンジュウ・ボボ”(バンバラ語で「マンジュウ族の酋長(ボボ)」の意)と慕われ、九州出身の彼はことさらこの呼称を気に入っていた。

日本のある高僧が「脱いだスリッパがずれていると、気になってきちんと揃えたくなる、それも禅の心」と語った。これは禅に限らぬ日本人の心、「もったいない」もその一つ。折りたたんで重ねた布団の縁をきちんと揃える、庭に箒の目が立っていると気持ちがいい、物事の道理を通さないと気が済まない。日本の異常に高度な品質管理・製造技術は、この「気がすまない」精神に負うところが大きい。国土が小さく資源もない日本が複雑高度な文明社会を維持できている所以でもある。これは趣味の問題ではない、日本人が日本人であることをcriticalに規定している精神的要素だ。

そういう日本人にとって、北朝鮮拉致事件とは、食卓の上に便所のスリッパが放り置かれたようなもの、たまらなく「気がすまない」のに、正す方法を理不尽に塞がれている、このままだといずれ我々は便所のスリッパの横で平気で飯を食うようになるのだろうか、そうして社会は壊れていく。道理を忘れた日本人は、なぜか簡単に、だらしなく、意地汚く、傲慢・凶暴に堕す傾向が目に付くだけに、そう思う。

以前この板で『拉致事件について私の根っこにある感情の一つは、自分と家族が生きる場である社会が壊れていくことへの危機感である』と私は述べた。拉致事件をウヤムヤにすることがどう危機なのか、上のように考えた。もちろん動機はこれだけではない、生身の人間としてのごく当たり前の普遍的な感情、被害者への情と加害者へのストレートな怒りと憎しみもあるが、動機は人それぞれだし一人の中には複数の動機があって良かろう。

拉致問題は根が広く深い、金正日をピンポイント処刑して終わりでもない、直情径行型の運動では簡単に解決すまい、腐りかけた根っこから社会を蘇生させる必要がある、それを叶える簡単で巧い方法は私には分からないが、クソの付いたスリッパが置かれている食卓で私は飯は食わない、飢えても箸はとらぬ。決して派手な動きでは無くとも、これは我々の命がけの運動なのである。


【民族・国家の差異とつきあい】

日本のある国立大学の留学生会館では留学生の生活費援助のためにアルバイトを紹介している。「人数が足りないから」と請われてその留学生たちに混じってアルバイトに参加した日本人学生の体験談。

その日の仕事は、あるイベント会場のテントを立てる作業。留学生の多くは国費留学で国籍は中国、韓国、台湾、タイ、インド、スリランカ、イラン、・・・。ふだんはみな真面目な学生達であるが、こういう「誰がやっても給料が同じ」仕事になると態度に差が出る。自分から仕事を買ってでる者、指示通りに黙々と身体を動かす者、作業が終わると次の指示まで雑談に興じる者、常にダラダラとしている者など。日本人の彼の見立てでは、仕事の真面目さの順序は次のようになった。

 1.韓国
 2.台湾
 3.中国
 4.タイ
~~~~~
 5.インド
 6.スリランカ
 7.トルコ
 8.イラン

ほぼ地理的な位置にしたがって東から西へと並んでしまった。それは等間隔で並んでいるのではなく、1~4の真面目なグループ、5~8の手抜きグループとの間に大きな断層があり、断層を挟んだ同じ側のグループ内部では大差なく似たようなものだったという。民族差別を信条として嫌うやや左巻きの彼は、目の前に自ずと浮き上がったその明確な差異に自分で驚いたそうだ。中東も極東も呼称は“アジア”だが、東経90°あたりに一つの境界がある、これは私自身の体験からも納得できる。

民族の気質の差は個人差・個性の延長だ。その差異に目を伏せず、差異を差別に短絡させるのでもなく、付き合うための事実として違いを認識し、相手の嫌いな点ははっきり嫌いだと伝えること。それに相手がどう反応するかは相手の判断、そこからさらに次の段階に進む。相手を知り、違いを認め、言うべき事を言い、やるべき事をやるのが正常な付き合いだ、相手が主権を持った利害相克する国家の場合はなおさら。この当たり前のことを怠たるから北朝鮮との関係はさらにイビツになる、すなわち北朝鮮との正常な関係とは、北朝鮮の犯罪に抗議し共犯者を封じ相応の具体的制裁を即刻科すこと、本当の対話はそこから始まる。

ところで、仕事が終わって親方が日本人の彼に言ったそうだ、「やっぱり日本人が一番ええ、兄さん、あんたこの次も来てもらえんかの。」
____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

秘策?奇策?珍策?

アンデスの声 さん 投稿日: 9月29日(木)

外交特権は外交官が職務を円滑に行うために“身の安全を保護され法的義務も免除される”ものであって、その国での勝手な行為が許されているわけではありません。しかも外交官の安全保護義務は接受国(=北朝鮮)側にあるからこれは殺人者に身辺警護を依頼するようなもの。他国から平気で一般国民を拉致誘拐抹消するような国が自国内で自分に不都合なガイジンを消すことくらいわけない。北朝鮮に限らず国家による思想統制の厳しい国では大使館職員にも公安の尾行が付く場合がある。いずれにせよ、北朝鮮が今のままでは外交官だろうが北朝鮮国内での自由な活動は不可能、下手な動きをすれば国外退去どころか、消されるか、弱点を捕まれて脅され逆スパイになるのが関の山、後者の例はすでにいくらでもある。

日本の外務省・在外公館には諜報機能が無く、外務省HPの各国治安情報のレベルは現地の新聞情報以下。その国の裏の情報を得たいなら直接その国の公安機関やマスコミに接触した方がはるかにマシで、必要あればかなり踏み込んだ情報も金で買える。本来国家が行うべきそういう諜報活動のための外務省機密費はいまだに大使館内輪の接待飲み食い大半が消えているのが日本の国家の現状だ。これは現場担当者のモラルのせいでだけはない、日本政府がそういう情報を必要としていないのが根本の原因であり、現場が頑張って情報を掴んでも本部が何もしないので現場はやる気もしないし、日本の政府機関は内部情報が外部に筒抜けのスカスカ状態だからせっかくの情報提供者に危険が及びかねぬ。アメリカは日本の防衛庁の機密保持能力も全く信用していない。

ところで、拉致被害者奪還への近道は、もし我々が「目には目を」の姿勢で「名を捨て実を取る」なら方法はある。日本の政治家を動けなくした最大の工作は北朝鮮旅行時の淫行映像と総連からのバラマキ献金の脅迫だ。脅迫ネタは「ばらすぞ、ばらすぞ」と脅している限りにおいて効果があり、バレてしまえば意味はなくなる。日本の政治家を動けなくしているこれらの証拠品を我々が手に入れて公開し全マスコミにばらまく。証拠品の入手のための資金はインターネットを通じて募る、うまくやれば億単位の金が集まるんじゃないか。そして「裏情報淫行ビデオ一本1000万円、収賄資料500万円で買い上げる」と持ちかければ寝返る総連工作員は間違いなく出る。公開する目的は、我々が逆に彼等を脅して拉致被害者奪還に協力させるのではもちろんなく、妨害勢力に消えて貰うこと、マイナスが消えることはプラスと等価。

もちろん仕掛ける側は命がけになる、なんたって敵は世界トップレベルの謀略国家で当方は世界最低レベルの公安国家だから、家族持ちには無理でしょう。皇族などの要人警備官の条件の一つが独身者であること、扶養家族がいると自分の命を投げ出せない、どうしても一瞬躊躇してしまうのだそうだ(要人警護に独身者を充てる例は他国にもある)。

ウヨクも敵の建家に銃弾撃ち込むような、敵失を与えるだけのチンケな自慰行動じゃなく、もっと効果を考えて頭使やいいのに。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月28日 (水)

拉致問題へのスタンス

この掲示板は運動家が運営するものではありません。
本当に普通の一般市民の掲示板です。
被害者とご家族を支援する底辺の日本人の掲示板です。

最終的な目的は、運動の継続ではなく、「拉致被害者の奪還」です。
願はくは、すべての被害者を救出してこの運動がめでたくお開きになって欲しい。

家族を奪われた被害者家族の思いに心を重ね合わせる、市井のひとりの市民が大きな何かを出来るわけでもありません。運動家の皆さんは、それでは不満かもしれません。

でも、心を寄せる市民の数が多ければ、僅かでも国政への圧力になるのではないでしょうか?愚かといわれようと、心を寄せる市民を「妨害勢力」と切り捨てては、奪還運動は、一部の人たちに限定され、心を寄せる人たちを枠の外においだしてしまいます。

一番助けたいのは、救いを待っている被害者です。そしてご家族です。
そのための運動のはずです。

市井の市民の掲示板ですから、投稿は救う会の主張に全て沿ったもの、正論ではないかもしれません。一部には、過激なものも、多少言葉のたりないものもあるでしょう。

しかし、それが世論なのです。ときには、運動の方向とは違った投稿もあるかもしれません。それも世論です。少なくとも拉致問題に関心を持ってくれている参加者を、排除したりしないことが私達管理人の基本姿勢です。

私達一般市民は、運動家の人たちの指針を学び、できるだけその主張を理解ついていこうとしています。うさぎさんや、原良一さんなど、実践している人たちの意見は本当に貴重で、ありがたいと思っています。

NET上でも、きちんとした意見や納得できる主張をなさるブロクやサイトはたくさんありますから、私たちはそこからいろんな意見から学べばいい。学んだ感想や意見を書けばいい。自分の意見を述べればいい。身近な活動を報告してもいい。アイディアを提案してもいいと思います。

時には議論になることもあるでしょう。その中から学べばいいのです。

私たちは、支援する人を一色にしたいとは思っていないのです。

怒りは外側へ!

最近の現代コリアで佐藤会長は『自民、民主のどちらが政権の座についても拉致の解決は期待できない状況にある。われわれは、この現実をしっかりと見据え、あくまでも国民世論を背景に正攻法で戦い続ける意外にないことを今から覚悟しておく必要があろう』とその主張を閉じています。

『政治家はもうだれも信頼できない』という声さえ出ていると聞きます。多くの政治家を切り捨て、国民世論だけを背景に戦って行かなくてはならないということであれば、なおさら底辺を拡大する必要があります。

そうであれば、大きな集会でコアな支援者を集め、気炎をあげ、家族にカンフル剤を打つのではなく、地味でも支援の輪のほんの少し外側にいる人を仲間に入れることが必要ではないでしょうか。

内側から敵を作り、排除したり攻撃したりすることで、どれだけの人たちが輪の外側に行ってしまったでしょう?少なくとも内側には入っている人を排斥するのはおかしいと私は思います。

もし、その人の理解が浅いなら、攻めるのではなく上手に説得して欲しいと願っています。

掲示板での意見が未熟であれば、解説し、説明してください。言葉の中に不十分なところがあれば、そこを丁寧に教えてあげてください。

私はすべての投稿の中に被害者への想いがあれば、それでいいと思っています。ことば使いの問題も、投稿の中に支援の心があれば、その単語を読み替えて理解しています。世間にそういう見方もあるのだろうと、捉えています。

やさしく教えあいましょう。学び続けましょう。

私個人は、拉致奪還の先頭に立つ立派な指導者とか、リーダーとはなりえませんが、強く拉致問題に関心を持ち、たまには街頭に出て、生の世論を感じ取り、集会に参加して、ご家族の思いを感じ取り、救う会の活動にわずかな手助けをする程度です。

参加者の投稿にも聞くべき意見が多いと思います。

私個人としては、大上段に論をはることできないかもしれません。
具体案や方針を決めるのは、指導者にお任せします。
ただ、市井の一人の日本人として、その意見を書き込みます。
早くめぐみちゃんたちを取り戻したい思いは、誰にも負けないつもりです。

もう一人の管理人momoedakeさんは、私などよりずっと、見識が深い方です。
一緒に管理していただいて本当に感謝しています。

この掲示板は、被害者を救い出したい誰でも参加できる掲示板です。
一色に染まらない掲示板であることが支援の輪を広げることに少しばかり貢献できるようにと願っています。

ですから、ROMのみなさん、ひさしぶりのみなさん、気兼ねなく書いてください。

蒼き星々掲示板への投稿 金木犀)

◆―――――――――――――――――――――――――◆
この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。


| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005年9月26日 (月)

マスコミ・一般参加者による質疑応答

拉致被害者は生きている!東京集会12  

★Q(日本テレビ ザ・ワイド)

はい、宜しいですか?このままで。
安明進さん、先ほどから敵工地の名前が出てるんですけれども、(西岡氏より「社名を仰ってください」の声)日本テレビのザ・ワイドと申します。
敵工地の事はご存じないということですが、安明進さんが知っている敵工局と言うのはどういう所で、そこにはどんな人たちがいて、何をするところなのか、教えていただけますか?

★A 安明進さん(通訳・西岡氏 以下同様)

敵工地、と言う言葉は聞いた事はありません。
多分、薫さんの記憶違いか、あるいは翻訳上の問題か何かではないかと思うんですが、敵工局と言うのは人民局の総参謀局の傘下にある一つの部署です。
敵工局の担当は心理戦を担当する部署でして、例えば板門店で米軍や韓国軍と接触する兵士たちは全部敵工局の所属です。
また韓国に対して板門店から拡声器で放送していたりしたんですが、それもすべて敵工局の要員です。
そしてまた総参謀局の配下に偵察局と言う部署があるんですが、偵察局の要員たちは小さな手帳のようなものを持っていて。
そこには簡単な会話が朝鮮語を英語や日本語に翻訳して「お前どこから来たのか?」とか等を見れるような手帳があるんですが。
それは偵察要員用の手帳は敵工局が作ります。

★Q(日本テレビ ザ・ワイド)

その組織の中に田口八重子さんを始めとする日本人がいる可能性はあり得ないんですか?

★A 安明進さん

私はそちらに入った事がないのでですね。
断定的なことは言えないんですが、しかし敵工局に日本人拉致被害者がいるとすれば、それは朝鮮人民軍の偵察局も独自に70年代から工作船を持っていたので、必要があれば自分達が拉致をしてきて確保してるんじゃないかと思います。
その可能性はあります。
しかし田口八重子さんのように、労働党の3号庁舎が拉致してきた人間が敵工局に回されると言う事は、私の知ってる範囲ではあり得ない事だと思います。

★Q(日本テレビ ザ・ワイド)

その組織上ありえないというのはどういうことですか?

★A 安明進さん

秘密機関同士はお互いに牽制しあっている。
特に党と軍の間は協力関係は一切ないので、組織上あり得ないと言うことです。

★Q(新潟日報)

新潟日報の○○と申します。
拉致被害者6人が太陽里に集められたと言う話を聞きましたが、安さんは太陽里に行って・・・ありますか?(音声が小さく一部聞き取り不可能)

★A 安明進さん

知りません。

★Q(日経新聞)

すみません。
日経新聞ですが、田口さんが敵工局にいないとなると、田口さんは今どこで何をしているというふうに推測されますか?

★A 安明進さん

91年に確認されたその場所。
ハム教官が言っていた招待所、その近くにいるんではないかと思います。
秘密機関の中で動かすと言うのはそんな簡単な事ではないので、今もそこにいるんではないかと推測します。

★Q(日経新聞)

日本語教育を今もしていると、そういう事になりますか?

★A 安明進さん

日本語教育は、北の工作機関がなくならない限り続くだろう。
北の工作員が外で悪い事をするときに日本人に成りすましてするので、工作機関がある限り工作員の日本語教育は続くだろうと思います。


一般からの質疑応答 他

★Q(一般参加者 女性)

いつも心に思ってるんです。
どうして日本政府は、「どうしました?」と聞いてるじゃなくて、「返せ」と言えないんでしょうか?
それをいつも・・・(会場の一般参加者より「日本人が反日分子だからですよ、官僚も、自民党も」の声)
日本人が反日だからですか?

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

その質問に私が答えて良いのでしょうか?
実はですね、中国人や朝鮮人の中では日本人についてこういう評判があるんですね。
よく言えば大変礼儀正しいと。
悪く言えば、あいつらは何をしても「すいません」と謝ってくると。(くすくす笑い)
だから何をしても大丈夫なんだと言う風に見られているというのは事実です。
やはり自分の敵が自分の事を攻撃してきているのに、堂々とけしからんと言わないと言う。
それが日本人の礼儀なのか何なのか分かりませんが、その民族性はちょっとおかしいんではないか?と。
と言うふうに思います。

皆さん方のために、日本の事悪口を言いたくて言ってるんじゃなくてですね。
それは日本のためになる、皆さん方の為になると思うので申し上げているんです。
そして、日本がちゃんと自己主張出来る国になれば自分の事を守る国になれば、金正日は長続きできない、と。(大きな拍手)

この席を借りて一つ申し上げたい事があるんですが、私は拉致された日本人を全員助け出さなければならないと思っています。
そのために戦っていますが、それだけではなくて金正日によって苦しめられているのは北朝鮮の人民も同じなんです。
この豊かな食べ物の余っている日本からすれば想像もできないかもしれませんが、300万人にも上る北朝鮮の私の同胞が餓え死にさせられたんです。
その人たちも一緒に助けなければならない。
私は拉致被害者を救う為に戦っていきますけども、皆さん方にも拉致被害者を救う為と、そして北の私の同胞を救う為にも力を尽くしていただきたいと心からお願いいたします。(大きな拍手)

★西岡力氏のお話

その事と関連して実は今安さんとも相談しているんですが。
実は今脱北者の仲間で今、自由北韓放送と言うですね。
短波ラジオ放送を、来年の1月から北朝鮮向けに脱北者が放送局を作って送ると言う計画があって準備をしているんですね。
韓国の中で左翼の学生や北朝鮮に近い人たちが、その放送局を何度も襲撃して放送局が維持できなくなって、転々と引越しをして、そして韓国当局も実は良い顔をしていない中で脱北者の力で自由の声を北朝鮮に届けようと活動をやっていまして。
私もその放送局まで活動を9月に行って見てきまして、普通の食堂の地下でトイレも無いところにいるんですね。
そこでしかし、どんなテロにあっても自分達の声を北朝鮮に入れたいんだと。
北では今、実は短波放送を聴いている人は多いと。
脱北者が北朝鮮の思考方式で北の方言で言うと信じてくれると、と言っていまして。
その放送の一部で日本人拉致の情報も是非くださいとか、日本人は絶対に拉致問題では妥協しませんとか、言う事を流してもらう事はできないかと言う話もしてるんですが。

もちろん拉致問題でその放送を利用するだけではなくてですね。
北の人民に自由の情報を入れて彼らを助けるために、実は韓国の中で厳しい戦いをしている安さんの仲間の人たちもいますので。
その人たちを近く日本に呼んで、彼らに何か協力できることはないか?と言う集いも考えておりますので、また詳しい事が決まりましたらご連絡しますけれども。
自由北韓放送ということで覚えていただいてですね。
キム・ソンミンさんという軍人出身の脱北者がいるんですが、その人たちをぜひ記憶の隅に入れていただいて、またご連絡しますのでご協力をいただければと思います。(拍手)

★司会 平田氏

安明進さん、西岡さんありがとうございました。(拍手)
また最後まで本当に真剣にお付き合い頂きましてありがとうございました。
安明進さんが言っておられましたように、私たちがすぐに相手のことを信じると言うのはある意味で大変良き文化ですが、日本人同士ではそれで良いとしても、国際交渉の最前線に立つ外交官であるとか報道の方とかいろんな方がいらっしゃいます。
そういう方には外国の事を良く分かってお付き合いをしてもらわなければならないと言う、今日はそういうアドバイスもありました。
そういうことをですね、心にかけて、これからも頑張っていきたいと思います。
本日はありがとうございました。(拍手)

・・・集会終了・・

____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

斉藤文代さんのお話(松木薫さんの姉)

拉致被害者は生きている!東京集会11

こんばんは、松木薫の姉です。
安さんのお話を聞いていまして、私は今ただひたすら、皆が北の国で元気でいて欲しいと願って聞いておりました。
後は日本政府が一生懸命やるかやらないか?
後、国交正常化をすると私の弟達は帰ってこられないんじゃないか?と言う不安を私は持っております。
やはり今、国民の皆さんにこうして私たちは助けていただいています。
本当に心が休まるのは皆さんの集まった時の顔を見た時にホッと致します。
何時もいつも家の中にいて、考えてはいけないことを考えます。
でも本当に政府に、もう早く取り戻してくださいと、願うだけです。
よろしくお願いいたします。(拍手)

____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

有本ご夫妻のお話(2006/9.18)

拉致被害者は生きている!東京集会10  

有本嘉代子さんのお話(有本恵子さんの母)

皆さんこんばんは。
ご苦労様です。
今寺越さん仰いましたけど、国交正常化したら寺越さんの事件だけじゃないんです。
全部が駄目になるんですから。
これ絶対に私もう、今度小泉さん圧倒的に勝たれましたので、その時点で思いましたけども。
国交正常化へ走るような事があれば私たち家族は、今度こそ座り込みどころではない、首相官邸へ行って本当命懸けで戦わないかんと思っていますので。(大きな拍手)
その時は皆さん、お力を貸してください。(大きな拍手)
本当に皆さん、よろしくお願いします。(大きな拍手)
安さん、ありがとうございました。(大きな拍手)

有本明弘さんのお話(有本恵子さんの父)
92610

今、安さんがお話になられた事は、安さんが向こうで体験された事を率直にお話されたわけで、私たちは安さん以外の他の情報で知っている事といえば、八尾(恵)さんが証言したように日本の人間を拉致してきて。
それをつがいにして(「つがい」という言葉を強調気味に語る)、拉致したら使いやすいと。
そういう発言をしているこの人間が言っておるんでありまして。

金日成がそういうふうな教示をしたんです、これ。
金日成、その親が。
だからそれをずっと追討して現在までも来ていると思うんです。
ですから男が半分、女が半分、大体その割で向こうは拉致しているとそういう認識で私は思うんです。

拉致した中にはもう年齢がいって向こうの言葉を覚えるだけでも何年もかかって、はっきりよう覚えられない。
そういう人も拉致されておるんです。
それはなぜかと言うと、日本の国の住んでいる戸籍を取る為に人間を拉致している。
それもかなりあるんです。
私が聞いた一人は、3階建てと聞いたんですけど、その中に沢山の日本人を収容しておる所があると、いうような事を聞きました。
それは何かと言いますと、もう向こうに連れて行っても使いもんにならない人間、それを一ヶ所に集めて管理しているんだと、そういうふうな認識で話を聞きました。
だからかなりの大勢の人がようけ連れて行かれているのは確かだと思います。
以上です。(拍手)

____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

寺越昭男さんのお話(寺越昭二さんの長男)

拉致被害者は生きている!東京集会9  


9199
こんばんは。
どうもお疲れ様です。
安明進さん、本当に今日はありがとうございました。
私も声を上げて、今年で丸3年になります。
こうやって安明進さん、救う会の皆さん方のおかげで大分話は進んで来たかなぁと。
しかし、私らが政府に対してお願いした事って言うのが今現在何一つ解決していないと。

本当に政府は寺越事件をどういうふうに見ているんかなぁと。
本当に解決する気があるんかなぁ?
まぁ、そういう不信感が最近はものすごく募って来て。

今の選挙でも山崎拓さんが、小泉さんの任期の間に国交正常化をしたいというような事も言ってましたけど、本当に私には信じられない発言だなぁと。
もし、国交正常化したら寺越事件はどうなるんやろう?
あの、闇から闇へ本当に葬り去られてしまうんでないかなぁという気がしています。
もう一点総理は、寺越事件は、
「武志君は立派になった」と。
「北朝鮮で本当に立派になったから。そしてお母さんは北朝鮮に行ける。行きたい時に行ける。だからこれで良いんじゃないか」
と、そういうふうな発言をしてましたけども、とんでもない事です。(拍手)

私たちにとってもそうですけども、まだ私の叔父さんの家族が、北朝鮮にいるんですね。
外雄さんの奥さんとそして二人の子供が、私にとって見ればいとこなんですけども、まぁ彼らの事も私は本当に幸せになっていただきたいと思うし。
そうするためにはどうすれば良いかと言うことを考えた時に、やっぱり武志の事も含めて一日も早く日本政府に拉致認定をして(もらって)、日本の政府として北朝鮮に対して、彼らの生活の安寧と生活、自由を保証をやっぱりさせるべきだと思いますね。
そういう意味からも、これはもう国交正常化をしない前にしていただきたいと思っていますので、皆さんのご協力をお願いします。(大きな拍手)
どうも、安さんありがとうございました。(大きな拍手)
____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

平野フミ子さんのお話(増元るみ子さんの姉)』

拉致被害者は生きている!東京集会8  

9198
こんばんは。
今日はありがとうございます。
私にマイクを持たせたらですね、

今何言うか分からない。

(会場より小さな笑い声)
主人からですね、「あんた馬鹿正直に何でも言うな」って言われてますけども、本当にこの安明進さんのお話を聞いてまたあの日を思い出すんですね。

2002年9月17日。

あの時タラップを降りてきた薫さんを見て安さんがですね。
「あっ、あの人が返ってきたら市川さんも帰って来る」って言われたんです。
妹は市川君と夫婦になっていますので、私の妹を助け出すためには市川君を助け出さないと、と言う思いが絶対にあるんですね。
安明進さんの今までの、安明進さんの証言からこの運動が盛り上がって、私たち何をして良いか分からないという所にあって、家族会も出来、そして5人が帰ってきて、5人が皆帰ってきたときに何も仰らない。
その当日しか仰らなかった。
今のことは言えないんだなぁ、子供さん帰ってくるまで何も言えないんだなぁと言う思いでいました。

私たちも言いたいことが本当に一杯ありますけども、私も本当に田舎者で人を信用する事しか知りません。
でも本当に今、何を信用して良いか分からない。
政府も信用できないし、ここにいらっしゃる皆様方だけが信用できる。
本当にいろんな講演に行って私たちの話を聞いていただきます。
拙い話、聞いていただきます。
そういう人たちしか信用できないんです、今。
この拉致問題が、この新政府でどういうようになっていくのか?っていう、すごい不安があるんです。

横田早紀江さんが仰ってました。
もしもめぐみちゃんが帰って来たら、めぐみちゃんを他の日本人を救う為に活動させますって、そういう事を仰っていました。
私ももちろんるみ子が帰ってきたら、他の日本人を救う為に、「るみ子、あんた他の日本人の多くの支援の人たちのおかげで帰ってこられたんだから、あんた今から帰ってこられない人のために頑張らんといかんよ」って私は言います。
それがせめてもの皆さんへに対する恩返しだと思っています。
ですからまだ一杯言いたいことがありますけど、また大変な事になってはいけませんのでここで控えさせていただきますけども、本当に私たちは安明進さんには感謝しています。
本当にありがとうございます。(大きな拍手)
____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月25日 (日)

家族による質疑応答(本間勝氏)

★Q 本間勝さん(田口八重子さん兄)918honma


蓮池(薫)さんからの話でね。
八重子が敵工地、先ほど西岡先生から書いていただいた敵工地の組織に入れられていると。

八重子は金賢姫の事件の後に、要するに日本人を教官に使わなくなったと。
なぜなら金賢姫みたいな工作員がいて日本人が教官にいたことがばれると。

要するに亡命してくると日本人はいたんだよと、ばれてくるから、それで金賢姫の大韓航空機爆破事件以降は、蓮池さんも工作員教育から外されて、その翻訳業務に回されたと。
そういうような話をされたんですね。
今現在はそういう工作員教育には日本人を携わってないんじゃないかと思われます。
それとなんで八重子は敵工地と言う、労働党の組織じゃなくて軍の組織に回されたと思いますか?
それをちょっと教えてもらいたいです。

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

(安氏、証言の途中で敵工地の略図を後ろのホワイトボードに書き記す。かなり長い証言になる)
えと、通訳をします。
まず最初の日本人教官を金賢姫事件のあと辞めさせられたという話ですが、そういうことは無いと思います。
なぜなら先ほど言ったハム教官が八重子さんは招待所は代わったけれど教育を続けていたと。
確認したと私たちに言ってるわけです。
ですから辞めていないと思います。
ただ、そこはちょっと私はちょっと記憶がはっきりしないんですが、確か学内で聞いたような気がするんですが、事件の後ですね。
分校で1対1の教育を長い時間していると、金賢姫が田口さんの事を沢山聞いて(韓国当局に)話してしまったような事が起きるから、同居教育はやめて本部に日本人教官の事務所を作って小型バスが出てたんですね。
分校の方に。
彼らはそれに乗って必要な時に分校へ行って教育をしていた。
そういうシステムに変えたんではないかというふうに思っています。

それからもうひとつ敵工地の問題ですが、敵工地と言う言葉は聞いた事はありませんが、敵工局(てきこうきょく)という部署は人民軍にあります。
これは心理戦を担当している部署で、そしてそれは政治軍事大学の近くに敵工局の地域がありました。
それが今ここで書いたのが、(ホワイトボードの略図を指し示しながら、以下同様に)ここが本校です。
そして分校です。
そして東北里、ここですね。
そして彼らが住んでいたという太陽里、この辺ですけれど、こちらまで太陽里が続いているわけです。
918honma1 そしてここに敵工局地域がある。

その横に国家保衛部地域がある。

ただし私の考えでは、党の工作期間にいた人間を軍に行かせるということは、もちろん私が全部のことを知っているわけではありません。

しかし組織上、大変ありえないことではないか?と、いうふうに思います。

___________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

家族による質疑応答(増元照明氏)

拉致被害者は生きている!東京集会6

★Q 増元照明さん(増元るみ子さん弟)


今、安さんはあまり管理をするところは多くない。
100人くらいの拉致被害者、韓国は400人以上、480何人の拉致被害者。
それだけの被害者を管理する招待所はあるのかどうか?
それと北朝鮮は密告社会ですよね?お互いに。
拉致被害者の中にも密告制度はあったと思いますか?

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

招待所はそれほど多くないんですが、多分多くの拉致被害者は分散管理されていると思います。
拉致された事によって教官をさせられている人たち、教官をさせてなくて翻訳をさせている人たち。
分散管理をされているんじゃないかと思います。
それから密告制度ですが、それは当然あるはずです。
北朝鮮社会は当然そういう社会で、例えば私も密告制度があった。
4人で韓国に侵入してきたわけです。
私が一人侵入作戦の前に呼ばれてですね。
「お前の事を信用している」
組長と言うのがいるんですね。
組長がリーダーで3人退院がいるんですが、組長の様子がおかしかったら撃ち殺せと上官が言うんですね。
多分他の隊員たち組長も同じように「お前だけを信じている」と言われ、作戦に投入されているはずです。
そういう社会ですから相互密告制があるのは間違いない。
―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

家族による質疑応答(飯塚繁雄さん)

拉致被害者は生きている!東京集会5

★Q 飯塚繁雄さん(田口八重子さん兄)


今いろいろお話を聞きましたけれども、聞いている間にいろいろ脳裏に向こうに行ってる人間が出てくるんですけれども。
安さん、向こうに残されている日本人。
我々の親族の日本人が、例えば生きてるとしたらどういう場所でどんな気持ちで生きてるか?
言うような事が少しでもコメントいただければありがたいなと。

★A 安明進さん(通訳・西岡氏)

北朝鮮は自分達の必要のために拉致をしたわけですね。
つまり現地化教育の教官が必要だった為で、その必要は現在も変わっていないと思いますから、継続して工作員の教官として使ってると思います。
また彼らを管理する事が出来るような秘密区域というのはそれほど多くは無いんですね。
今まで管理されていた場所の中にいて、同じように教官として暮らしているんじゃないかと私は考えます。

北朝鮮当局は日本人被害者を殺すだろうか?ということですが、私はその可能性は大変低いと思っています。
実は工作機関の中で我々工作員要員たちも日本と言うのは大変しつこい国であると。
日本の警察は一つの事件について20年30年徹底的に調べてくると、いう認識を持っていました。
特に金正日が拉致を認めた後の段階では、3号庁舎の人間は大変緊張していると思います。
後で責任を取らされるかもしれない。
そういう状況の中で拉致被害者に手を加えたりすることは、ほぼあり得ないんではないか?と思っています。
あるとすれば被害者たちが反抗して言う事を聞かなかった場合ですが、反抗したらば殺されると言う事を良く分かっている拉致被害者が反抗するとは考えられない。
そういう観点から考えると今も殺されないで、管理下におかれているというふうに思うわけです。

それから確か朝日新聞だったように記憶するんですが、金正日が拉致を認めた後の記事でですね。
日本に対する拉致を認めたので、清津連絡所を解散すると言うような記事が出ていたのをご存知ですね。
そんなことはあり得ないと。
清津連絡所は今も存在していて、最新の装備を導入しているんです。

清津連絡所は今でも活動していて、そこに工作員たちがいると言う事については映像でもすでに日本に入手されていて、いつかは公開されるんじゃないかと思います。

また北朝鮮は拉致を実行した人間を死刑にしたと。
チャン・ボンニン、キム・スンチョルと言う人間は刑務所に入れたと言ってるんですが、この二人は3号庁舎の人間ではありません。
軍人です。
そして3号庁舎で拉致を命令したのは金正日ですから、責任者を処罰するとしたら金正日を処罰しなければならない。
軍人は別の刑で処罰を受けたのかもしれませんが、拉致とは何の関係も無いんです。
―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

安明進氏の証言(通訳・西岡氏) その3

 拉致被害者は生きている!東京集会4

薫さんを目撃したのは講堂の行事の時だけではなくて別の時もありました。
政治軍事大学には勝利号と言う貨客船が所属していまして、その船で大学に必要な装備だとかそう言う物を日本から買ってきていたんですね。
日本人の拉致被害者たちは故郷の日本のニュースが聞きたいのか、あるいは何か日本の物を買って来てくれと頼んでいるのか。
勝利号が戻ってきて船員たちが大学に帰って来ると、その船員たちの事務所が大講堂の上の所に同じ建物にありましたから、大講堂の前のあたりに集まって来てですね。
船員たちの出てくるのを待って、良く話をしているのを目撃しました。

ですから彼は拉致された日本人の教官として(政治軍事大学に)いたわけです。
教官をやっていたとすれば政治軍事大学に居なかったとはありえない、論理的にもおかしいわけです。

そしてまたもう一つ、北朝鮮は拉致した日本人は13人だと発表したわけですね。
日本人の中でも純真な方はそれを信じていらっしゃる人もいるかもしれませんが、絶対嘘です。
先ほども申し上げたように30人の教官が政治軍事大学の中にいたんです。
それでも13人より多いんです。
それだけでもない。
実は拉致した人間の中から教官として使える人間を選抜して教官にしたんです。
ですから30人よりもっと多い人たちがいたのは間違いない。

帰国した5人の中でも私が目撃したのは薫さん一人だけなんですね。
教官が5人の中で一人だけだったとすれば、そういう比率であればもっと他に教官をしていない日本人がいるという計算になるわけです。

★ここより、西岡力氏のお話

大体以上が安さんの話ですが。
(後ろのホワイトボードに書かれた安氏の目撃した拉致被害者の名前の一覧を指し示しながら)この中でここまでが政治軍事大学の中で見たと言う人ですね。
11人。
この男性のどちらか一人が藤田進さんに似ていた。
藤田進さんの物と言われる出てきた写真ですね。
藤田さんが拉致された時の学生時代の写真では分からなかったんですが、亡命者がもたらしたと言われる写真ですね。
と似ていた。
この藤田さんは実は実は市川さんと良く歩いていて、安さんが市川さんからタバコを貰った時、横にいた男性Aと言う人がこの藤田さん。
と言う事ですね。

田口八重子さんについては91年まで金正日政治軍事大学、当時の名前は中央委員会直属政治学校の分校にいたわけですね。
射撃の教官が行って見たらば、別の招待所に移っていたと。
薫さんは家族の人に田口さんは86年に敵工地(てきこうち)と言う所にいたと言ってる。
これは軍の所属なんですが、91年まで政治軍事大学にいたと言うことは、まだ党の所属にいたと言うことで86年に軍の所にいてまた戻ってきたのか?
そこも若干、まだ解明出来てない部分なんです。

この中で日本の政府が認定しているのは、6人ですね。
17人のうち11人は認定されていない。
そのうち4人は全く分からない。
特定失踪者の写真を沢山見てもらってるわけですけども、その中に似た人がいない。
もちろん久米さんや原さんのように身寄りのない人を拉致しているケースは沢山ありますから、調べて欲しいと名乗り出ていない人の中でこういう所にいた可能性はあるわけですね。
田中実さんなどはそういうケースで選ばれて連れて行かれているわけですね。
張龍雲という工作員が自白をしなければ田中さんは名前が分からなくて、男性Cとかになってたんですね。
そういう点でも、つまり30人政治軍事大学にいると。
日本人は16人と日本政府は認定していて、あと14人認定していてもっといるじゃないかとそういうことじゃなくて。
つまりここで安さんが知ってる17人のうち6人しか特定できない。
認定できてないわけですから、認定以外の人が14人じゃなくてもっと多くなるんですね。
言う計算になるわけです。

そして今日有本さんたちがいらっしゃってるんですけれど、よど号の犯人たちが拉致した人間っていうのは別の日本革命村と言うところにいましたから、そこでよど号が拉致した人間たちは基本的に彼らが管理していたようなので。
高沢(皓司さん=「宿命」の著者)と言う人間は、田宮と言うよど号のリーダーから20人くらい拉致したと聞いてるわけで、今よど号ケースで3人しか認定出来てないんですね。
あと17人はこちらに、30人とは別の所にいる可能性が高いわけです。

そういうふうに考えていくと、もちろんこの二人(寺越昭二さん・外雄さんの事)は30人の中に入ってないわけですね。
寺越さんも殺されちゃってしまったわけです。
教官の中には入ってないわけです。
武志さんは教官じゃなくて、装備を運搬する仕事をしてたわけですね。
だからその30人の中に多分入ってないと思うんですが。
曽我さんのように結婚して外にいた人もいるので、こういうことからして我々は100人くらいはいるんじゃないか?と。
100人くらい今言ったような分かってる他に情報からすると、合わせて100人くらいになるんじゃないか?と。
金正日の言ってる13人というは絶対におかしいと。
日本政府の言ってる16人もまだまだ足りないと、言うふうに思っているわけです。

★ここより再び安氏の証言(通訳・西岡氏)

またさっき言ったようにですね。
70年代の半ばから82年くらいまで清津が全面的に拉致を行ったんです。
これで10何人というのはありえない。
具体的には分からないんですが、実はめぐみさんを拉致したと安さんに話している丁(チョン)教官は、もう一人自分は拉致していると言ってるんですね。
男をひとり拉致したといってるんですね。
でも学校にはいないと。
それから丁教官と同じような世代で同じような時期に再教育を受けた別の教官も、自分は2人拉致したと。
その2人も学校にはいないと。
そこで3人、学校にいない人の存在が出てくる。

拉致がなぜまだこんなたくさん行われていて解決できないのか?
もちろん、やった北朝鮮の責任が一番ですが。
しかし私が命懸けで拉致はあるんだと97年から証言を始めても、信じなかった大部分の日本社会の人たちの責任。
また北の工作船を発見しても発砲もせずに、ただ領海から追い出すだけで何もしなかった警備当局の責任もあるんじゃないかと思います。

今のような日本の警備体制であれば金正日が決心さえすれば、ここにいる皆さんだって拉致する事が出来る。
今現在でもそういうことが、日本の警備状況ではないかと思います。

次に死んだと言ってるわけですね、8人を。
市川さんは79年に死んだといってるわけですが、私は91年に見ているわけです。
これは矛盾する。

それから田口さんは86年に死んだと言ってるんですね、北は。
しかし91年に話を聞いていると。
ここで確実に生存を確認出来ると。

それからめぐみさんは私が向こうにいたときには、91年以降確認していませんが、ソウルに来てから入手した有力な情報によると95年前後の2年間、金正日の息子の誰かひとりの日本語教師をしていると。
95年が入ってるんですね。
めぐみさんは94年に自殺したといわれているんですが、95年前後の2年間、金正日の息子の一人の日本語教師をしていると、私がソウル入手した情報ですけれども、かなり信憑性がある情報によれば生きていると。

ここで死んでるか生きてるかと言うことを検証するまでも無くて、北朝鮮が死亡の証拠として出してきたのは判子、ゴム印を押した書類だけなんです。

遺骨も本物は一体も来てないんですよね。
北朝鮮は1950年に起きた朝鮮戦争で死んだの米兵の遺骨も、お金が欲しくて発掘してアメリカに売ってるんです。
50年代に死んだ人間の遺骨も出てくるのに、そのあと自分達が徹底的に管理していた日本人の骨が一体も出てこないことがあるでしょうか?

北朝鮮の発表を少しでも信じてしまおうとする日本人の思考方式をまず変えなくちゃならない。
北が死んでるからといっていちいち点検する必要性さえもないんだと。


―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月23日 (金)

安明進氏の証言(通訳・西岡力氏) その2

拉致被害者を救うぞ!東京集会3

政治軍事大学の中では教科書でですね。
工作員の現地化教育は工作員たちが頭をひねっても出す事ができなかった優秀なアイデア、それが金正日同士が3号庁舎を指導するようになって偉大な同士の頭から出てきた。
大変素晴らしいアイデアであると、教科書で習うんですね。
しかしそれを習った時にオ教官はですね。
もちろん公式の席で金正日は嘘つきだとか言えないんですが、実は俺たちが前から金正日が指示する前からやってたと。(くすくす笑い)
俺たちが現役の頃から必要だと思えば一人二人は拉致してたんだと。
昔からやってたんだと。
朝鮮語で「虎がタバコを吸っていた時代」と言う言葉があるんですが、昔と言う言葉ですね。
昔々という昔話の頭言葉で使うんですが、虎がタバコを吸っていた時代から、と言うふうにオ教官は我々学生に言ってたんです。

もちろん金正日が「現地化教育をしろ」と、「そのために現地人を連れて来い」と拉致指令を下した後、拉致工作が本格化して拉致が大変頻繁に行われたと言う事は事実です。

ちょっと専門的な話になってしまうんですが、金正日が拉致命令を下したあと拉致を本格的にした事を証明する一つの事実としてですね。
70年代の半ばに拉致命令が出されたわけですけども、その後は82~3年くらいの間拉致が本格的に行われた時、清津連絡所、日本担当の清津連絡所だけでは足りなくて元山連絡所、ウォンサンですね。
元山連絡所の一部が対日担当に動員された。
元山と言うのは本来日本担当ではなくて、南担当なんですが。
元山連絡所の所属で昔元山からちょっと離れたラクオン郡にあるテチョ連絡所と言うのがあって、今は政治軍事大学の訓練所になっているんですが、その連絡所にだから元山の一部ですね。
そこは70年代半ばから82~3年までの間、日本担当に変更になった、言う事実があります。
そのテチョにある元山の一部はですね。
連絡所の下に方向(ホウコウ)と言うのがあるんですね。
方向と言うのがあってその下に組と言うのがあるんですが、3つの方向があるんですが。
その一つの部隊みたいなものですが、53方向と言う名前が付けられているテチョにある方向ですね。
つまり元山連絡所には3つしか方向がないわけですが、3分の1が日本担当になったと。

韓国にですね。
今何人かの政治軍事大学出身の先輩で亡命したり捕まったりした人たちがいるんですね。
その先輩たちが拉致のことを話すと今の韓国政府の圧力を受けるので、中々話をしないんですが、その元山連絡所で勤務していた先輩たちもいるんです。
その先輩がその53方向が日本だけを担当する方向だったと、言ってる。
拉致を担当するとは言わないんですが、日本だけを担当する方向だったと言うふうには言っています。

そしてその53方向は実は82年か3年に解体されてもう一度元山連絡所に移管されるんですね。
その事実からして、70年代の半ばに金正日が現地化教育のために現地人を連れて来いと拉致命令を出して、大々的に拉致を行われて、ある程度必要な教官が確保されたので縮小されたという推測も成り立つんです。

このような状況からしてですね、北朝鮮の言ってる事を絶対に信じてはならない。
ここにいらっしゃる皆さんだけでも北朝鮮の言ってる事をそのまま信じる事は絶対にやめて欲しいと思う。

ですから見てください。
96年から私が拉致に付いて証言を始めたとき、まず最初は安明進と言う人間はいないと言った。
その後は私が学校の先生で、強盗・強姦・殺人をして逃げた人間のクズだと。
人間のクズの言う事だから信じてはいけないというふうに発表したんですね。
しかし2002年に拉致を認めたじゃないですか。

私は北朝鮮によってですね。
このように存在しない人間とされ、それから学校の先生一度もしたことないんですが先生にもなって(くすくす笑い)、金正日政治軍事大学に通ったんですけども、北朝鮮はその大学の存在を認めていない。

私は金正日政治軍事大学の25期卒業生です。
韓国には11期以降の先輩たちが何人もいるんです。
その先輩たちは皆私が卒業生だという事を認めて、先輩たちと今良い関係なんです。

このような妙な状況を蓮池薫さんが利用しているんじゃないかと思って、私は残念です。

蓮池薫さんは、私が「薫さんを見た、政治軍事大学の教官だ」と言ったので、「いやそれは誤解だ」と。
「自分は政治軍事大学に居たことはない、安さんに会った事も無い」と言っています。
その表現自体は実は正しいんです。

金正日政治軍事大学に居たことがないという蓮池さんの話はある意味では正しいんです。
私は87年3月にその学校に入学しましたけれども、その時の学校の名前は朝鮮労働党中央委員会直属政治学校だったんです。
それが92年の1月の10日に、本校が金正日政治軍事大学になり、分校が烽火(ほうか)政治大学になったんです。
そして二つに分かれたときの前に、日本人の教官たちは分校の方に移って行ったんです。
従って金正日政治軍事大学に蓮池薫さんが居た事が無いと言う、表現自体は正しいんです。
また私と会った事が無いと言うのも、会った事は無いんです。
しかし私の方は彼らを見ていた。
見ることは出来た。
学生は沢山ですけども、日本人教官は少ないわけですから、我々は何回も薫さんを目撃する事ができた、と言う事です。
だから薫さんにもう一度新しい質問をしたんですけども、
「それではあなたは朝鮮労働党中央委員会直属政治学校、またの名を130連絡所、対外的には695軍部隊と言われている場所に居たことはないのか?
そしてそこで学生たちに目撃されるような場所に居たことはないのか?」
いう質問をしたんですが、それについて今度は彼が答える番だと思います。

先ほど私は薫さんに695軍部隊と呼ばれている所、対外名称695軍部隊という所にいなかったのか?と聞いたわけですが、それはつまり金正日政治軍事大学は何度も名前が変わりましたが、130連絡所、695軍部隊と言う対外名称はずっとそのまま変化無く使われているんです。
そして北朝鮮は実は、拉致被害者が695軍部隊にいるということを誤ってなのか何か分かりませんが事実上認めたんです。
8人の死亡診断書が日本に来ましたが、そのうち7枚は695病院と言う判子が押してあったじゃないですか。
実は私は695病院という判子が押してある書類が来るずっと前に、最初に本を書いた時91年、金正日政治軍事大学のまたの名前は695軍部隊だと書いてあるんです。
確認してくだされば分かるんですが、695と言うのは政治軍事大学の中にある病院だから、695と使っているわけです。

695と言うところに日本人拉致被害者が関係している事は北朝鮮が認めたことなんです。
薫さんが695軍部隊と言うところに自分がいたことを認めるのかどうか。
いなかったと言うと、やはり矛盾するんじゃないかと思います。

今蓮池さんたちが話すことができないのは、北朝鮮にいる別の拉致被害者の身の上に何か起こると脅迫されているのかもしれませんし。
あるいは北朝鮮から帰る前に厳しい教育を受けて何かこのように話せと言われて、それをそのまま言っているのかもしれませんが。
とにかく時間が経てば真実が明らかになると、私は思っています。

蓮池薫さんは私は彼が政治軍事大学に居なかったというのでその名称を使うのはやめて、労働党直属政治学校130連絡所695軍部隊の大講堂で、市川さんやめぐみさんと一緒にそこにいた。
そして贈り物を受け取ったりしていた事を目撃しています。
我々は軍服を着ていましたが、彼らは私服でした。

我々は軍服を着ていましたわけですけども、拉致された日本人は我々と区別する為なのか、私服を着せられていたと。
それから日本人だけでなく拉致された韓国人の教官もたくさんいたんですが、その人たちも私服だったんです。
夏には白いワイシャツでネクタイ無し。
そして冬には紺の背広にネクタイをしていました。
背広は同じ者を着ていたので、支給されていたようでした。

薫さんの事を良く覚えているのは彼は背が高かったんですね。
拉致される前の写真を見たときにですね。
最初に拉致の事を証言始めた97~8年の時、「似てるなぁ、しかし違うかもしれないなぁ」
確実に自信が無かったんですね。
それで、ご両親に対してはもしも違っていたら大きな精神的なショックを与えるのでハッキリとは言わなかった。
しかし関係機関、例えば日本の警察などには似ている人がいたと話はしてありますし、大変親しかった日本のマスコミの何人かの記者にもその話はしました。
そして彼が羽田空港でタラップから降りてきた姿を見て、これは間違いが無いと。
私が良く見ていた姿と全く良く似ていたと。

もし私が私の本の中で薫さんの事を見ていましたと書いていたら、薫さんは帰って来られなかったのではないか。
そのようにも考えています。

蓮池さんは学校の中で教官の中でも指導的な地位に居たんではないか?と。
日本に帰ってきてから5人に対してもどうもその様な関係に見えますので。
地村さんも政治軍事大学にいた可能性はあると思いますけども私は見ていません。
ですから、教官はやっていなかったんではないかとも見ます。
そういう人たちを何人か蓮池さんをリーダーとして、一時ケースとして日本に送ってみたんではないかなぁ、とも考えています。

・・・つづく・・・ ―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月21日 (水)

安明進氏の証言(通訳・西岡力氏) その1

拉致被害者を救うぞ!東京集会2

(日本語で)皆さんこんばんは。(大きな拍手)
(以下、西岡氏の通訳)今、西岡さんの方から私の紹介があり、金賢姫が証言をして生き残ったので、私は韓国に亡命をして、そして日本に来て証言をしたと言う話であったんですけれども。
これは聖書にある言葉か仏教の物かちょっと忘れましたが、「悪は必ず暴かれる」と、言う事で私でなくても別の人が来て、証言をしたんじゃないかと私は信じています。

この席は私が金正日政治軍事大学で私が見た日本人についてお話しする。
そしてまた政治軍事大学で何人が拉致されたのかを明らかにする席でありますけれども。
私がまずすぐ思い出すのは、政治軍事大学には11人の教官がいた。
これはもう一緒に生活するキャンパスの中で何回も見ていた人たちです。
11人を一辺に見たんではなくて、5人一緒に見たり6人一緒に見たり、何回か入れ替わりながらそのように目撃していた人たちが11人いると。

実は11人と言うことを申し上げるんですが、私たち政治軍事大学では私たち学生は、少し申し訳ない話かもしれませんが、若い男性だったものですからどうしても若い女性に関心があったと。
めぐみさんのことをずっと関心があってじろじろと見ていたんだと。
そしてその横にいる人たちのことについても目に入って来たんだと、言う事です。

学校の中ではですね、先輩たちや教官から政治軍事大学には30人ほどの日本人の教官がいると聞いていたんです。
それでそういう話を聞いたもんだから、私もそして同級生たちもですね。
30人もいるのかと思って、数えてみたんですね。
しかしいくら数えてみても30人は数え切れなかった。
11人だったというふうに覚えています。

その11人の中ですね。
一番良く覚えているのは市川修一さん。
もちろん北朝鮮にいた時はその日本の名前は知らなかったわけです。
キム・ヨンイルとかいう名前だったと覚えているんですが、彼は外国語第二講座の教官の代表として、良く何かの式の時に行事の時に贈り物を貰ったりしていた、言う事で覚えています。

今、名前が分かっている人はそれ以外に、増元るみ子さん。
格好はちょっと今の拉致される前の写真の顔とは違っていたんですが、体全体が写っている写真などを見ると足の形などで覚えていると言って、増元るみ子さん。
それから蓮池薫さん。
薫さんは私が目撃したと言う事を否定しているようですけれども、とにかく薫さん。
それから、もちろん横田めぐみさん。
そして田中実さん。
それから北海道から拉致された男性、名前は分からないんですが北海道から拉致された男性。
それから加藤久美子さん。

それからですね、後女性が二人。
一人は田中実さんの、実さんが若干体が弱かったようなので、横にいつもいて面倒を見ていた奥さんとも見えた女性。
田中実さんの奥さんとも見えた女性。
そしてもう一人の女性。
それから男性が二人。
その4人については、今まで私が見せていただいた失踪者の写真の中に似た顔はいないんですが、もしかしたら顔が大変変化していて、その中にいても確認出来ていないのかもしれません。

それからですね、学校の中に通信装備を持ってきて、良く学校の中を出入りしていた寺越武志さん。

それから915病院と言う工作員が利用できる病院が大学の近くにあるんですが、その915病院で目撃した古川了子さん。

それからやはり近くにですね。
放送局がありましてですね。
そこに偽装アンテナが沢山付いていて、それを工作員の学生たちが爆破する訓練を受けるんですね。
その爆破訓練場だった放送局に出入りしていた日本人の女性が一人。

今言った人たちが目撃した人ですけど、それ以外に田口八重子さんについてですね。
金賢姫を教えた先生ですが、私は田口八重子さんを目撃はしていません。
ただし、実は1990年~91年頃、私の先生で金賢姫の先生。
私にも教えた共通の先生がいるんです。
その先生たちが大変元気がなかった。
金賢姫が本を書くという話が伝わって、その本の中に政治軍事大学の様子が書かれて、自分が登場したら罰を受けるんじゃないか。
元気がなかったんですが、それでそういう事があったんでだいぶ噂になったと。
ところが91年になったらばその教官が元気が出てきた。
ハムさんと言う教官なんですが、(後ろのホワイトボードに「咸」と言う文字を書く)こういう字を書くんですけどね。
射撃の教官で。
その教官に我々が聞いた所、「先生元気になりましたね」と言ったらば、「将軍様の配慮で教官の処罰はされない事になったんだ」と。
「金賢姫を教えた日本人の教官も全く問題がない」と。
「行ってみると招待所だけが変わってそのまま教育をしていた」と、いうふうにハッキリとした話を聞いています。
ですから91年まで、金賢姫を教えた日本人の教官、つまり田口八重子さんは健在だったと言うことは分かっている。

それからもうひとつ、90年くらいだったと記憶しているんですけれども、実は朝鮮中央放送、ラジオでですね。
大韓機爆破事件と言うのは全くでっち上げだと。
拉致した日本人なんかいないんだと、言う放送をしてたんですね。
それを学生と先生が学校の中で聴いたと。
それで、おかしいと、ここの中に居るじゃないかと。
余りにもでたらめなことを言ってるなぁ、おかしいなぁというふうに、学内で話題になったんです。
だからその時まで、田口さんはいたということです。

実はそのときですね。
学生の中で、我々はもう金賢姫がここに居たと言うこと、拉致された人から教わったというのを知っているのに、公開的に国際社会ででたらめだという。
ということは、我々が国際社会に出て行ってもしも捕まった時、そんな話をしたらどういう事になるんだろうか?
どういうことを上は考えているんだろう。
怖い気持ちがしたんです。

北朝鮮と言うのはそういう所なんですね。
しかし日本人はまりにも信用社会に住んで嘘をついてはいけないと言う事を思っていらっしゃるから、北が死んだと言ったら死んだということを信じてしまうというような、純真な所があるかもしれません。

日本を見ていてですね。
もちろん北朝鮮のことを知らないからそう仰るのかもしれませんが、やはり北を見る時は日本的な物の見方を捨てなければならないと、強くお願いしたいんです。

今までで15人になるわけですけれど、先ほど17人と申し上げたのは、後二人は実は寺越さんを拉致した犯人であるオ・グホと言う人物は我々の教官であると。
航海術を教える講座の福講座長で授業中に寺越事件に付いて話をして、そこには3人が船に乗っていた。
一人は子供だった、と言っていた。
今は大きくなったと言っていた。
そして一人は抵抗したのでその場で射殺した。
死体を海に捨てたと言ってる。
後二人、つまりそこで3人いたと言ってる訳ですから、寺越(武志)さん以外に昭二さんともう一人外雄さんの事だと思いますが、それを合わせると17人になると、いうことです。

そこで寺越さんの話が出たので申し上げたいんですけれども、日本の方々はいったいこの事件をどのように考えているのか?ということです。
船は日本のすぐ近くで見つかったんですよね?
人間は北朝鮮に居たわけです。
彼らは救助したと言ってるんですけども、何で船が(日本の)近くで、北朝鮮で救助されなくてはならないのか?
私は海の、海上での工作活動の訓練を沢山受けているから良く知っているんです。
冬の、5月ですか。
寒い海の中で長い事人間は泳いでいられないんです。
夜、水中に長い事いれば凍え死んでしまう。
特に13歳の武志さんが、長い期間北朝鮮の船に発見されるまでの長い期間泳いでいたとすれば、流されていたとすれば、それを日本人はどう考えるのか?
今でも北朝鮮の言うように救助だと考えるのか?拉致だと考えるのか?
北朝鮮が何と言ってるかではなくて、日本人が何と考えるかではないでしょうか?

もちろん日本の総理は北朝鮮に行った時「寺越さんを助けてくださってありがとう」と、感謝は申し述べなかったんでしょうけれども。
しかしハッキリと拉致だと分かる事件があって、その証人もいた事が分かっていたのに、なんで日本政府は、その事をず~っと歴代の政府は問題にして来なかったんでしょうか?
どうしても理解が出来ない。

寺越事件の現場に私は行ってみたんですね。
その現場の様子と、オ・グホ教官が私たちに話してくれた様子が全く一致するんです。
つまりオ教官はその場所に侵入するとき、船の明かりを消して真っ暗な中、進んでいった。
いつもそこの上陸地点は何回も利用していて、何も無かった所だったと。
ところがその日突然小さな船が現れて、大声でこっちへ来るな来るなと声をかけたと、言うふうに言ったんです。
それで拉致をしたと。
現場に行ってご家族からお話を聞きますと、その日たまたまそこの地点の近くに網をかけたと。
今まではそこの場所に網をかけたことはなかったと、いうことですし。
そこは岩が多い所なんです。
ですからまさか工作船がそんな岩の多い所から入ってくる事はないだろうな、と思われる地域なんですね。
そういう点でも全く地理が様子が一致している。

その寺越さんたちを拉致したオ・グホ教官たちと言うのは、政治軍事大学の中でも7~8人しかいない、共和国英雄称号を受けた人なんですね。
共和国英雄称号と言うのは戦闘行為をして手柄を立てた人だけに与えられるそのような英雄称号で、その人が嘘を言うはずが無いと。
その人が実は日本担当の清津連絡所に約20年間勤務していて。
ずっと対日工作・侵入をしていて寺越さんだけではなくて、拉致された日本人と大変親しく付き合っていた。
彼の家へいくと日本人拉致被害者がそこへ出入りをしていたと。
日本人拉致被害者は外貨を貰って、外貨ショップで買い物が出来るんですが、そこでオ教官の子供に必要なカセットテープを買ってきてプレゼントしたり、あるいはカップラーメンを買ってきてオ教官にプレゼントしたりとかしていて。
それを私はオ教官の家に行った時に見ているんです。
自分が関係して拉致した人間に申し訳ないと思って付き合っていたのか?
愛着を持ってたのか良く分かりませんが、とにかく自分が清津にいた時代に拉致した人たちを良く知っていて、その人たちと付き合っていたのがオ教官です。

―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

西岡力氏による、安明進氏の経歴紹介

拉致被害者を救うぞ!東京集会

安さんのお話の前にまず私の方から簡単に安明進さんの事を紹介させていただきます。
安明進さん、1968生まれです。
そして87年に朝鮮労働党の工作員に選抜されました。
これは自分の意思は全く関係ないです。
工作員になるというのは、党が、労働党が決めるんですが。
そして金正日政治軍事大学、当時は学校の名前は、朝鮮労働党中央委員会直属政治学校と言う名前だったんですが、そこに87年の3月に入学しました。

そして93年の5月にその大学を卒業して、朝鮮労働党の3号庁舎の作戦部という拉致を担当した工作員の所属する所です。
その作戦部の715連絡所、これは陸上の工作員の連絡所ですね。
海の工作員ではなくてですね。
陸上から韓国に侵入する工作員の連絡所に所属になりまして、そして93年の5月に卒業して所属になって、その年の9月にその最初の作戦で韓国に偵察任務のために韓国軍の軍服を着て入る。
と言う偵察任務があって、韓国の軍事境界線を越えたこちら側にそのままこちらに来てしまった、という形で韓国に亡命をしています。

実はこれは安さんがじゃあなぜ亡命したかと言いますと、これは金賢姫事件と関係があるんです。
金賢姫が毒薬を飲んだんですけれど、生き残ったんですね。
韓国に行って、自白をしてしまったと。
金正日は大変怒ったんです。
なんで自白をしたんだと。
で教育が悪かったって、いう事になったわけですが、その時に教育の仕方に問題があったという事になったんです。
韓国に入る事が想定される工作員に、韓国の実情を教えてなかった。

これはこの間ここでもお話したかもしれませんけど、金賢姫がなぜ自白をしたのかというと拷問にあったんではなくてですね。
韓国の実情を知ってしまったから。
北朝鮮にいる時教育を受けたのは、韓国が北朝鮮より貧しい。
アメリカ帝国主義の植民地で苦しい生活をしていると言われてたのが、実は韓国の方が豊かだったというのを見て、自白してしまったから。
安さんたちの代からは韓国のことを正しく教えると、いうことになって、安さんは韓国の新聞を毎日自由に見れると。
韓国のテレビも録画したビデオが来て見れると、いう生活をしていたんですね。
そのうちに韓国に憧れちゃったんです。
自由な世界が良いと思った。
夢の中でソウルの町を自由に歩いてる自分の夢を見たんです。

そしてもう一つのショックは金賢姫が死刑にならなかった。
115人をテロで殺した犯人なのに、韓国政府は恩赦をしたと。
で、自分が絶対に殺されない。
思って、つまり、普通はですね。
ソウルに何回も入って疑って逃げる人はいるんですけれど、(何回も)入らないで最初の作戦で来ちゃったんです。
その理由は政治軍事大学の中に居るときから韓国の事を知っていたから。
それは金賢姫が生き残った、からなんですね。
彼女が生き残らなければ、めぐみさんを目撃した安さんもこちら側に来なかった、言う事なんですが。

安さんは政治軍事大学の中で今までは15人について、目撃したり確実な情報があると。
この間の国会でも言ったんですけれど、先ほどちょっと打ち合わせして、後二人は知っていると言う事で17人と。
今日はその17人についてお話をしてもらおうと思っています。
それではよろしくお願いします。



―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月14日 (水)

拉致を矮小化しているのは誰か

荒木和博さんの主張

(略)
これまで何人もの警察関係者から、直接間接に、現場では拉致だと考えた失踪事件であったのに上にあげると潰されたと言う話を聞かされているのである。

私は「拉致問題の全貌が明らかになったとき、日本の近代史は書き直しを迫られる」と言ってきた。
拉致問題はそれほど根の深い問題である。だからこそ政府はその実態を明らかにしないのだろう。あるいは帰国者5人の声が聞こえてこない理由もそこにあるのかもしれない。

もちろん今でも拉致が行われている可能性はあるのだが、長期間経過した事件の場合、名納得できる証拠の出てくるケースは拉致事件全体のごく一部にすぎないはずだ。この問題はそもそも個別に見るべきものではなく、安全保障上の問題、主権侵害、もっとはっきり言えば「戦争」ととらえるべきことなのである。

政府の中枢はこの点が分かっていると思う。だからこそ、その本質を見つめることを避け、逆に個々の事件、家族の問題に矮小化して乗り切ろうとしているのである。

「エコノミスト」より抜粋

―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。



| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年9月 9日 (金)

投票に行こう~愛する人のために~

投票用紙には、ダイヤモンドの輝きもなければ
パソコンの便利さもありません。

けれど、たった一枚のこの用紙には、人間の血をかよわせることができます。
日本の未来への、切ない望みと願いをこめることができます。

平和と安全は投票だけでは得ることができません。
けれども投票用紙にその願いと愛情をこめることができます。

もし、愛するものを取り戻すために、
誇りある未来を作り上げるために、
投票の出来ないめぐみさんの変わりに
あなたがこの投票用紙を使うならば、必ず日本を変えることができます。
拉致被害者を取り戻すこともできます。

投票に行こう。

谷川俊太郎作 『愛する人のために』を選挙用に変詩

―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005年9月 5日 (月)

松原仁さんの挨拶

緊急集会!―郵政と拉致と教育を考える―
日本会議主催
9月4日 五反田ゆうぽうとにて


只今ご紹介頂きました、松原仁でございます。今日は飛び入りでございまして、こういった機会を頂きましてありがとうございました。

翻ってみれば、日本の国は戦後の間、ある意味で眠れる獅子であったと思います。その眠れる獅子日本を呼び覚ましたのが、目を覚まさせた稲、実はこの拉致事件の問題の発覚であったと思っております。

私達の日本の国の憲法に置いては、近くの国々、そして世界の諸国家は善人である。-人間にも性善説、性悪説があるわけですが-たとえて言えば【国家性善説】というようなまさに現実離れした発想の中で日本の国の憲法は出来ていたわけであります。

諸国民は間違いないんだ、だから、諸国民は間違いないんだから、戦争する武器も放棄すると書いてあった訳なんです。しかし、みなさん、現実はどうだったんでしょうか?
世界の国々、わけても北朝鮮を含めて、私達が信じるような【国家性善説】で語れる国であったのでしょうか?

残念ながら我々は裏切られた。私達は今の日本の国の憲法の精神であるところの【国家性善説】にたって諸国民、諸外国を見てきたが、実際はそうではなかった-当たり前でありますが。-

そのことが北朝鮮の国家テロともいえる国ぐるみの拉致事件によって明らかになったわけであります。日本の国の国民の意識が大きく変わったことは、言を待ちません。

この【国家性善説】が崩れ、そして実際北朝鮮が国家ぐるみで犯罪行為を行っていたということ知って、日本国民の意識の底流に大きく『憲法改正すべし』と。また憲法改正と同時に『教育基本法のあり方、教育のあり方を見直すべきだ』と。そう言った思いがフツフツとして湧き起こってきたのは、むべなるかなと私はおもっております。(拍手)

私はこの状況というのは戦後60年において一番の大きな盛り上がりを示している。本来であれば、この日本国民が目覚め、眠れる獅子日本が目覚めたこの状況で、間髪を入れずに憲法改正の論議を深め、教育基本法の改正を断行するのが、私は国のリーダーがするべき使命だったのではないかいうことを申し上げたい。(拍手)

私は小泉さんに対しても、ある意味、期待をした時期があります。8月13日で非常にがくっとしたのは事実でありました。

しかし、この拉致問題の解決に対しても、未だに政治的メッセージとも言える、経済制裁の発動をしない、そして教育基本法に関しても、結果として中途半端。そう言った正に基本的な日本の国の魂の、日本の国の心の構造改革をやらずにして、郵政民営化と言う。これも実態としてはきわめて怪しい、アメリカの禿げ鷹ファンドにお金を取られてしまうんではないか、現実には融資する能力がありませんから、そうなることは間違いないでしょう。

私はその郵政民営化という彼の言葉のキャッチフレーズとアジテ-ションの中に、今やるべき日本の国の『精神の構造改革』が正に置き去りにされているのではないかと、この危惧と大きな怒りを感じております。会場の皆さんもその意同じ怒りを共有していると思います。みなさん、いかがでしょうか?(拍手)

私は磯の意味に置いて、今の内閣に対してはきわめて強い怒りを禁じ得ない。
今がタイミングなんです。

こないだこちらにいらっしゃる椛島さんともご一緒に、イギリスの、サッチャーの教育改革をみに行きました。。なぜサッチャーがあの教育改革が出来たのか?イギリスはある意味で誇りを失いかけて
、『名誉ある没落でいい』と皆、思っていた。国民の一人一人は自信を失っていた。今の日本もそうであります。一人一人の青少年、7割の子ども達が自信を失っている。「一体自分が何か分からなくなることがある」と多くの子どもが言っている。こういった状況になっているのであります。

かつてのイギリスもそうだった。そして、その時サッチャーが現れた。時あたかも、フォークランド紛争が起こり、アルゼンチンは「イギリスはもう、『名誉ある没落』をするんだから、フォークランドを取っても何もやってこないだろう」と思ったところが、イギリスは国威をあげて、大英帝国の時の思いを持ちながらフォークランドにおいて、イギリスの国家の名誉と主権を明らかに下のであります。その時の大きな波動が、そのエネルギーが、結果としてイギリスの教育改革を実行させ、そしてイギリスの精神的復興に繋がったことは、象徴的であります。

翻って、我々の日本を見るならば、まさに、多くの青少年が自信を失っている。教育現場に置いての問題ももちろんあるでしょう?しかし、それ以上に国が外交に置いて、毅然とした外交を展開しないことが、教育おける自信の喪失、自信を失わせしめているのではないかと、私は思うわけであります。

そう言ったことも含め、今日本が毅然たる外交を展開し、同時に正にイギリスに置いてフォークランドがあって大きなイギリスの復興があったように、拉致問題をしっかりと解決することを通し、(今日は西岡さんもここにおられますけれど)拉致問題は日本における人権問題、主権問題である。この拉致事件をきちんと解決して、その勢いを持って、私達は憲法問題、教育基本法問題、さまざまな戦後60年の積み残しの問題を解決していかなければいけないのであります。

まさにその時に置いて、今の政治が一番大事なこの部分=精神の構造改革が進むならば、他の様々な構造改革は、容易に進むんだと。どんなに他の構造改革をしようとも、日本人の戦後60年の精神の構造改革を、今やるべきこのタイミングに、今チャンスであるこの時にやらなければ、私達の国、日本という国が将来にわたって誇りと名誉を維持することは出来ないと私は思っております。

エドモンド・バークというイギリスの保守派の政治家が言っていたように、「政治というものは私達だけがやるものではない。過去の人たちと、未来の人たちと、私達の共同作業である」そう言った思いを介して考えるなら、今回この大きなうねりの中で、拉致のうねりを含めてのこの段階で、私達は大きく精神の構造改革をするための動きをしていかなければならない。

その動きをするために、どうかみなさん、私、戦う庶民派、松原仁をもう一度国政に送って頂きたい。
国政で活動する機会を与えて頂きたい。このようにお願いする次第であります。
拉致問題を解決するためには内閣に「拉致対策室」を作らなければならない。拉致対策室をを作るためにもう一度戦わせて頂きたい。このことをお願いしながら、皆様と共に、過去と、今の私達と、未来の永劫の日本の子ども達、未来の為に戦うことをお誓い申し上げて、私松原仁の訴えとさせて頂きます。よろしくお願い致します。ありがとうございました。

―――――――――――――――――――
◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 4日 (日)

緊急集会!―郵政と拉致と教育を考える― 写真レポート

とりあえず写真レポートです。
追って、一部テキストをご紹介します。
 
西尾さん   

松原さん


エコーくん

椛島さん


資料
____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

再び五人揃っての旅を

※拉致問題を選挙の争点のひとつにするためにも、2002年9月17日を忘れないためにも、この文章をお読み下さい。

ドキュメンタリー漫画:めぐみ(後編)より

めぐみ13年間のアルバム~再び五人揃っての旅を~
取材・文 小山唯史
横田家は一家でよく旅をした。左下の写真は、佐渡へ旅行したときのもの。めぐみは小学校6年生だった。1976年夏。新潟に引っ越してきてすぐの夏休みだ。
佐渡における船の玄関口・両津港に近い加茂湖の国民宿舎に泊まり、翌日は島の西北部の相川方面へ。金の採掘で有名な佐渡金山を訪ね、尖閣湾では遊覧船を楽しんだ。

しかし、この旅が、一家揃った最後の旅となってしまう。翌年秋、めぐみは忽然と姿を消してしまったのだ。

自殺や家出の可能性も考えて、警察は、佐渡汽船の乗客名簿まで調べた。家族で旅した想いでの地を選んだかもしれないと。だが、名簿に、それらしき名は見あたらなかった。

北朝鮮による拉致だと分かるのはsっひっそうから20年もあとのことだ。それまでの間、滋も早紀江も、生殺しのような年月を生きてきた。事件が事故か。あるいは自殺か家出か。てがかりは何ひとつない。霧の中を手さぐりで歩むような無限の日々。滋も早紀江も、悲しみぬき苦しみぬいた。

失踪は1977年11月15日。めぐみは13歳。その時から横田家は旅をしない一家になった。「いつ、めぐみが戻ってくるかもしれない。そのときは、必ず家に居てあげたい」

滋も早紀江も思いは同じだった。

知り合いの結婚式、葬式・・・・どんな用事でも、夫婦一緒に出かけることはなくなった。どちらかが必ず家に残った。めぐみが何時帰ってきてもいいように、門灯は明るいものに換え、一晩中、つけっぱなしにした。新潟に住んでいるあいだ、一日もかかさず。

新潟に来る前の広島時代は、周辺の観光地へ、一家で本当によく旅をした。萩、津和野、宍道湖、浜田、大山・・・・・。計画は滋が立てた。「一番楽しかった時代」
滋も早紀江も、そして当時まだ幼かった双子の弟たちも、そう口をそろえる。そんなある年。バスに乗って山陰地方の海岸に行き、民宿に泊まって海水浴を楽しんだ帰りのこと。めぐみが、杭に鎖で繋がれている猿を長い棒でからかったことがある。まねして手を出した弟たちは、棒が短すぎたので猿につかまってしまった。頭の上に乗られて帽子を取られたり、ひっかかれたり。

めぐみは、その光景に大笑いしながらも、あわてて両親を呼んだ。哲也の膝には、いまもその傷が残っている。

そんな“痛い”体験も含め、旅の記憶の全てが輝いている。ただ一人“見知らぬ北の国”へ、自分の意思とは無関係に連れ去られためぐみの、今も帰路に付けずにいるその“長い旅”だけを除いて。

そして今、横田家は日本中を“旅”する一家となった、1997年、めぐみが北朝鮮にいると分かったときから。滋のメモ用紙には細かな文字で予定がびっしり記されている。どんな遠くの、どんな小さな集会にも駆けつけ、マイクを握り拉致問題を忘れないで」と訴える。

横田家の旅は終わらない。滋のメモ用紙に、五人揃った家族旅行の予定が、書き込まれる、その日までは。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 3日 (土)

1977年という年

ドキュメンタリー漫画:めぐみ(後編)より
めぐみ13年間のアルバム
取材・文 小山唯史

1977年という年
めぐみは卒業式の謝恩会で「流浪の民」を歌う。
独唱したソプラノの歌詞は「なれし故郷を放たれて」だった。

横田家にとって絶対忘れられない年・・・1977年、昭和52年。前年末に福田内閣が誕生し、北海道では有珠山が爆発、巨人の王貞治が796号の本塁打記録を作った年だ。

その1977年の始まりは、横田家にとっても穏やかなものだった。正月、めぐみは玄関前で雪を背景に和服姿の写真を撮っている。(下写真)早紀江が「お母さんの若い頃の着物があるから、お正月だし、それを着て写真に撮っておかない?と言い出して写したものだ。

赤と白の大きな市松模様。髪は和服用に後ろに束ねた。めぐみは「わあ、私って、こんなに素敵だったんだあ」と、はしゃぎ、早紀江は「あら、厚かましい」と笑った。小学校最後の冬休みのことだ。

3月、コーラス部だっためぐみは卒業式の謝恩会で『流浪の民』を歌う。独唱したソプラノの歌詞は「なれし故郷を放たれて」だった。

4月、新潟市立寄居中学校に入学。めぐみは風疹で入学式を欠席する。入学式と始業式の間の日曜、父親の滋は「さくらの散らないうちに」と記念撮影にめぐみを連れ出した。中学の制服姿で。その写真の中で、病後のめぐみは寂しげな顔をしている。

失踪後の捜索に使われたのは、その写真。明るかっためぐみが、内気そうな少女として人々の目に触れることになったのは、そのためだ。

中学ではバトミントン部に。長年習っていたバレエは、『花のワルツ』を踊った8月の公演を最後に、やめた。部活に専念するために。

新潟での二度目の夏。早紀江は中学生になっためぐみのために浴衣を縫う。紺地に赤と緑と黄色の花柄。

その浴衣を着て、めぐみは夏祭りに。佐渡おけさ、新潟甚句・・・・「新潟まつり」の大民謡流しは阿波踊りにも劣らない大規模なものだ。地元企業も会社ぐるみで参加する。滋も日銀新潟支店の一員として菅笠をかぶり、踊りの隊列に。だが、滋の菅笠のヒモがほどけてしまう。余り器用とは言えない滋は、なかなかヒモを結び直せない。

その光景を、電話ボックスの横で早紀江らと見つめていためぐみ。
「どうする?お父さん、まだ結べないよ。大丈夫?でも、ここでお母さんが出ていって結んであげたら、もっとカッコ悪いし・・・」

ハラハラし続けていた。母の手縫いの浴衣を着て、父を案ずる娘。大人への階段を上り始めていた。

やがてカレンダーは秋を告げる。

10月5日、めぐみの13才の誕生日。
11月14日、滋の45歳の誕生日には、携帯用の櫛をプレゼントした。「お父さん、これからはオシャレにも気をつけてね」という言葉を添えて。

その翌日のことだったのだ。めぐみが忽然と消えてしまったのは。

けなげに、他の多くの少女達と同じように、平凡ながら夢いっぱいに生きていた、めぐみ。その先にも続くはずだった。“未来の暦”を突然引きちぎった拉致━━

今早紀江は川崎の自宅で、季節ごとにめぐみの写真を選び、額に入れて居間置いている。いつでもめぐみと一緒にいるために。

正月に飾るのは、いつも和服姿のめぐみだ。1977年、あの年を希望の中で迎えためぐみだ。

 

____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 2日 (金)

失踪直前“最後の一枚”

ドキュメンタリー漫画:めぐみ(後編)より
めぐみ13年間のアルバム
    ~失踪直前“最後の一枚”~
 取材・文 小山唯史

この顔が一番似ていますっっこ
その亡命・元工作員は、はっきりと言った。拉致一ヶ月前に、新潟空港で撮っ、この写真がよく似ています」と。横田夫妻とは初対面だった。

新たな激動が幕を開けたのは、この対面より二ヶ月後のことだ。

1997年1月21日。行方不明のめぐみは拉致され北朝鮮にいる---思いもよらぬ情報がもたらされた。失踪から20年が経っていた。嵐にも似た日々の始まり。新聞や雑誌が一斉に実名報道し、国会でも取り上げられたのが2月3日。
さらに、その翌日たまたまソウルでその記事を見た安明進の口から、新たな証言が飛び出した。
「(記事の中の写真の)この女性に見覚えがある」と。
安明進は北朝鮮の工作員養成機関(金正日政治軍事大学)に在学中、そこで、めぐみに似た女性を何度か見たと、訪韓中の取材陣に語ったのだ。20代半ばに見えたという。目撃したのは拉致から10年以上経った時期。年齢的にも一致している。

その安明進に会うために横田夫妻はソウルへ飛んだ。記事とは別のめぐみの写真を携えて。勿論、空港で撮った写真も。それが、一番新しい、めぐみだ。父の滋にとって、自分で撮った一番最後のめぐみ。

対面が実現したのは3月15日。その席で、安明進ははっきり言ったのだ。自分が北朝鮮で見た女性は、他のどの写真より、この空港の女性に似ていると。めぐみが北朝鮮にいるという話は、やはり本当なんだ・・・・・夫妻は「拉致」への確信を深めた。

その空港の写真。めぐみが新潟空港を訪れたのは、札幌の自宅に帰る祖父(滋の父)を、一家で見送るためだった。1977年10月。拉致は翌月のことだ。めぐみの横に立っているのは見送りに駆けつけた叔父(滋の弟)。めぐみの双子の弟、拓也と哲也は野球帽をかぶっている。

広島カープの赤い帽子。横田家が広島に住んだのは、カープが初優勝し、「赤ヘル」ブームにわいた時期だった。その地を離れるとき、弟たちは見送りの人からカープの帽子をプレゼントされた。「広島のことを、いつまでも忘れないで」と。それを新潟でも愛用し続けていた。

めぐみの顔は、短く丸い髪に包まれて、やわらかく微笑んでいる。それまでずっと長くしていた髪を、直前の夏に切った。めぐみにとって初めての美容院体験。この短い髪のめぐみこそ、あの日以来、探し求める面影となった。疾走直後の日々、「めぐみちゃん、どこにいるの?」と町じゅうを探し回り、幼い弟たちの手を引いて海岸をどこまでも歩き続け、追い求めた面影---。

ソウルで安明進と会った横田夫妻が帰国して間もない3月25日。日本各地にいた拉致被害者の家族が、初めて結集した。「家族会」の結成。救出へ、新たな闘いの始まりだ。

まるでそれを見届けるかのように翌日、北海道で祖父が息を引き取った。行方不明となった孫を、ずっと案じ続けていた祖父。めぐみとは、新潟空港での別れが最後だった。

 

____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一本のラケット

一本のラケット
ドキュメンタリー漫画:めぐみ(後編)より
取材・文 小山 惟史

午後6時25分頃。めぐみはバトミントンの練習を終えて、寄居中学の正門をでた。部活の仲間と3人で。1977年11月15日、火曜日。いつものようにラケットを入れた赤いスポーツバックと学生カバンを手に。

帰宅の道は、日本海へと向かう直線の道路だ。途中で一人が右に折れた。次の交差点で、2人めがバイバイと言って左に曲がる。6時35分頃だった。家までは、あと3~4分。

だが、めぐみは遂に帰ってはこなかった。

中学になっためぐみは、クラブ活動として選んだバトミントン部で一生懸命、練習に取り組んでいた。当時、寄居中学は強豪として知られていた。失踪2日前の11月13日、めぐみは新潟市内の中学校新人戦に出場。ダブルスで5位に終わったが、市の強化選手に選ばれた。

身長はクラスで高い方から3番目。153センチの母・早紀江を既に1センチ上回っていた。その体格が見込まれたのか、思いがけず強化選手に選ばれて、めぐみはそのことを少し重荷に感じていた。勉強の成績は上位だったが、部活に時間を割く中で、二学期の中間テストは順位をやや下げていた。

行方不明となったとき、早紀江の頭に真っ先に浮かんだのは、ここ2~3日の、めぐみのそんな“迷い”だった。家出か?それとも思い詰めた果てに・・・。北朝鮮による拉致だなんて、想像もつかない時代だ。

前ページの写真(下部に表示)は、失踪後に顧問の先生がくれたもの。滋も早紀江も初めて見る写真だった。ピンクのラケットを手にしためぐみ(後列右から4番目)は、体をやや横に向けている。

その姿を目にしたとき、早紀江はとっさに思った。「ああ、めぐみちゃんは、私の言葉を覚えていたんだ」と。成長期で少し太り始めたことを気にしていためぐみに、早紀江はこうおしえたことがあったからだ。「写真を撮るときにはね、ちょっと体を斜めにするといいのよ。そうすれば少しスマートにみえるでしょ」今はいない娘とのやりとりが、まざまざと甦ってきた。

めぐみが中学を卒業するはずの時期、早紀江は一人でよく浜辺に立った。波間に浮かぶ遠いブイ。その赤い色を、いつまでも見つめ続けた日もある。あの日、めぐみが持って登校した、赤いスポーツバックに思えてしかたなかったからだ。

やがて寄居中学に入学した弟の拓也は、姉と同じバトミントン部を選び、それを大学まで続けた。

その頃、北朝鮮では楽器を習うように言われためぐみが、バイオリンを選んでいた。蓮池夫妻の証言によれば、その理由をめぐみは、こうかたったという。
「弟(小学生の拓也)が習っていたから」と。

---そして、あの、2002年9月7日。日本中に衝撃を与えた、小泉初訪朝の当日。

一本のラケットが、25年の時を隔て、海を越え、突然現れた。平壌のホテル。梅本和義公使と面会したキム・ヘギョンさんが持参したのだ。「母の思い出の品」として。

我々は、必ず取り戻さなければならない。そのラケットの真の持ち主を。海のこちら側に。




____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年9月 1日 (木)

9.17記者会見

9.17記者会見~拉致という犯罪 ~
また、秋が来る。
めぐみちゃんのお誕生日がくる。
9月17日がまた巡ってくる。
五人が帰国した10月15日がくる。
そしてめぐみちゃんが拉致された11月17日がくる。

忘れられない記憶の日がまた繰り返される。
電脳補完録で、改めて9月17日の様子をみた。

訪朝の朝、期待と不安を胸にホテルを出る横田夫妻、横田滋さんはニコニコとして「あと8時間ぐらいで待ちに待った消息がわかると思うと、そのときが早く来るのを待っております」と。

横田早紀江さんは「どっちになるのかというのは、あんまりこう、半々ですから、いつも思いが、希望のほうと、どうなるかという不安感とで。できるだけもう本当にいいようになってほしいという思いで一杯で、ただそれだけです。」
有本嘉代子さん「とにかく今日が本当に今までの19年間で一番待ちどうしい日です」と。

そして期待を一瞬にして奪う小泉首相の報告・・・

ぼろぼろと涙が出たあの記者会見。
横田滋さん
「私は良い結果がでるということを楽しみにしておりました。結果は・・・死亡という(咳き込む・・涙)・・・・残念なものでした。そして、めぐみは既に結婚しており、子供いる、女の子がいるということを聞かせていただきました。
しかし今まで北朝鮮は「拉致なんてありえない」とずっと言い続けてきたものが、最近になって経済的に困ったせいか、この拉致の問題について話し合うということになったわけですが、その結果というのがこういうことであったというのは、我々は必ずしもこの死亡ということを信じることができません。今回は先方からのリストをそのまま報告していただいたような形になりますが、具体的にどういう形で北朝鮮に行って、どういう形で結婚して、何故死亡したのかということを正確に調べていただきたいと思います。」

横田早紀江さん
「あの国のことですから何か一生懸命に仕事をさせられている者は簡単には出せないということだろうと私は思っております。

絶対に、この何もない、いつ死んだのかどうかさえもわからないような、そんなことを信じることはできません。

そしてこれまで長い間、本当にこのように放置されてきた日本の若者たちのことを、どうぞみなさま方もこれから本当に真心を持って報道してください。日本の国のために、このように犠牲になって苦しみ、又亡くなったかもしれない若い者たちの心の内を思ってください。

そしてこのようなことですけれども、私たちが一生懸命に支援の会の方々と力をあわせて戦ってきたこのことが、こうして大きな政治の中の大変な問題であることを暴露しました。このことは本当に日本にとって大事なことでした。北朝鮮にとっても大事なことです。

そのようなことのために本当にめぐみは犠牲になり、又使命を果たしたのではないかと、私は信じています。いずれ人はみな死んでいきます。本当に、濃厚な足跡を残していったのではないかと私はそう思うことで、これからもがんばってまいりますので、どうか本当に皆様と共に戦っていきたいと思います。」


この日の横田夫妻の態度に何人もの政治家が大きく心を動かされた。日本中がこの「不条理」に怒りを持ち、涙を流した。
私たちはこのことを絶対に忘れてはいけない。

3年前の9月17日からこの問題を注視してきた。何時になったら日本は『国家としての意思』を示すのだろうか?
____________

◆この記事が参考になった方は、下記バナーをクリックしてください。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »