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2005年11月23日 (水)

救出の為に日米韓連帯を!東京集会2

『李美一(リ・ミイル)朝鮮戦争拉北人士家族協議会理事長による、ご自身の家族のお話(通訳・西岡氏)』

朝鮮戦争拉致は1950年までさかのぼるわけです。
北朝鮮は1950年の6月25日夜明けに奇襲南進を仕掛けて来たのです。
当時の韓国政府は敵軍を迎え撃つ事ができず、ソウルは3日目に陥落してしまいました。
私たちの家族は父と母とそれから祖父と祖母がおりまして、そして5歳の私のお姉さん、それから1歳を過ぎた小さかった私と言う家族でした。

当時韓国政府はソウルは死守すると、避難に行くなと私たちに伝えておきながら南に逃げてしまい、そしてソウルと言うのは韓江というのが南側に流れているんですね。
南に避難する為にはその川を渡らなければならないのですが、北朝鮮軍が南下するのを防ぐ為に大韓民国政府が南に秘密に逃げた後、6月28日に韓江に架かっている橋を韓国政府が爆破してしまった。
私たちの家族はそのような爆破計画があると知らなくて、その前日の27日に南の方に逃げていこうと思ってその橋の所まで行きました。
その時韓国政府は軍とそれから軍の関係の装備だけは南に行かせる事を許して、一般人は南に逃げる事を許さないで家へ戻れと言いました。
それで27日の夜は橋の近くの友達の家で夜を過ごしたわけですけども、28日の朝、橋は爆破されてしまったんです。
仕方なく私たちは家に戻って過ごすしかなかったのです。

その中でうちのおじいさんのお兄さんが医学博士だったんですが、北朝鮮に拉致されたという消息が伝えられました。
その不幸は9月5日我が家にも襲ってきたんです。
政治保衛部員、いわゆる政治警察ですね。
政治保衛部員と言う人が我が家に来まして、その時家にいたお父さんと出会ったわけです。
当時の韓国は反共が最も重要な価値観であった為に、大韓民国の国民はなんらかの反共団体・愛国団体に所属しておりました。
政治保衛部員が最初に父に聞いたのは、もともとの故郷は北朝鮮地域だったのでいつ南に来たのか?と聞きました。
戦争前、つまり北朝鮮の政府が出来てから逃げてきたんではなくてその前に、日本の植民地時代に南に来たんだと言ってその質問には上手く切り抜ける事が出来たんだと。

次の質問は愛国団体に金一封を寄付した事についての質問でした。
少ししかしなかったと言ったんですが、じゃあちょっと調査しなければならないと言って連行して行ったのです。
しばらくしたら戻ってくると思っていたら中々戻ってこないので、うちの母が当時の北朝鮮の内務省、北の警察ですね。
に、うちの姉を連れて迎えに行きました。
中を見ると父が調査を受けていたんですが、その後しばらくして父が政治保衛部員に連れられて出てきて、そして路面電車に乗せられて行きました。
当時路面電車があったんです。
そこで母が駆け寄って「どうしたんですか?」と聞いたらば、真っ青に青ざめた父が「もう少し調査をすることがあるんだ」と言って「明日になれば帰れるだろう」と、母に言った言葉が最後の言葉になりました。

その後警察署に連れて行かれたと言うのですが、警察署に言ってみると一週間後には解放するといわれた。
一週間後にもう一度行って見ると北から指令が来て安全地帯に退避させる、と言うのが彼らの答えでした。
その後私たちの家族は父が帰って来る事だけを待って、連れて行かれた自宅、それをずっと守ってその家で今も暮らしています。
家族を本当に愛してくださった父のことを私は忘れる事はできません。

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