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2006年1月10日 (火)

辛光洙事件 顛末記①

蒼き星々掲示板
安倍貞任さんの投稿より

「北朝鮮データブック」(重村智計著)に触れられている「辛光洙事件」

Photo_22  北朝鮮が日本人を拉致している事実が明らかにされたのは、1985年5月28日であった。韓国の国家安全企画部は、日本のパスポートを利用し日本人と偽って韓国に入国した北朝鮮の工作員、辛光洙の逮捕を発表した。同時に、辛が日本人を北朝鮮に拉致した事実も明らかにされた。この拉致日本人は原敕晁さんであった。

 私は、当時毎日新聞のソウル特派員としてこの記事を送稿した。ところが、東京のデスクはなかなか信用してくれない。韓国の「でっち上げ」ではないか、というのだった。「問題ないから掲載して欲しい」と、私は強く要請した。それでも、夕刊社会面の左肩(ページ左側の上部をこう呼ぶ)に掲載されただけだった。今なら一面トップの大きな記事になる事件だが、当時は日本では注目を集めなかった。

 また、警察の捜査も冷たかった。もし、この時期に日本政府と警察・外務省、政治家が動いていたら多くの拉致日本人は救出されたかもしれない。だが、誰も動かなかった。また、韓国に留学していた在日韓国人学生の「スパイ事件」が摘発されたりした。北朝鮮の工作機関が、在日韓国人の留学生を利用した「工作活動」であった。しかし、こうした事実を日本の新聞はあまり大きく報じなかった。また、日本国内では社会党や岩波書店の雑誌「世界」などを中心に、武装工作員事件や留学生スパイ事件で、「でっち上げ」と非難する活動が繰り広げられた。

 当時の日本社会には「まさか北朝鮮が日本人を拉致するわけがない」との雰囲気が支配的であった。さらに当時は、日本の警察と韓国の情報機関・警察との捜査協力が、きわめて困難な状況にあった。これは、韓国側に多くの責任があった。

 韓国の国家安全企画部は、記者会見で原さん拉致に関する捜査資料を出した。この中には、原さんがコックをしていた大阪の中華料理店をはじめ、辛光洙が協力者と会合した喫茶店や食堂などに関する写真や資料がついていた。こうした資料は、国家安全企画部が日本国内で捜査活動を行ったことを意味している。外国の捜査機関が日本国内で勝手に捜査を行うのは、主権侵害である。なぜ、日本政府と日本の警察は抗議しなかったのか。

 実は、この捜査結果は安全企画部と大阪府警が同時に発表することになっていたという。ところが、功をあせった安全企画部が先に発表してしまったというのである。これでは、日本の警察は面子丸つぶれである。日本の警察と韓国の警察や情報当局の協力は、1973年に韓国中央情報部(KCIA)が東京のホテルから金大中前大統領候補(当時)を拉致して以来、中断していた。その協力関係が復活したのが、原さんを拉致した辛光洙事件であった。ところが、韓国側が先に発表してしまったことから、日韓の捜査協力は再び困難になってしまった。

 原さんは、辛光洙に無期懲役の刑が確定した(1986年6月)直後の7月19日に死亡した、と北朝鮮政府は通告した。この死亡の時期を確認するのは、北朝鮮が提出した1枚の死亡証明書だけである。きわめて不自然な死、というしかない。(本書p36~p40)

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辛光洙の事件について、重村氏は↓のように、考察しているようです。

・韓国の国家安全企画部が辛光洙の日本国内での工作活動を日本政府に極秘で捜査していた(主権侵害行為)

・(主権侵害行為ではあるが)国家安全企画部と大阪府警は、捜査結果を同時に発表することになっていた 。

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