辛光洙事件 顛末記②
蒼き星々 掲示板
安倍貞任さんの投稿より
「拉致はなぜ防げなかったのか」(川邊克郎著)に触れられている「辛光洙事件」
1985年6月28日の韓国国家安全企画部(NSP)の発表により、80年6月20日、大阪の日本人コック原敕晁さんが宮崎・青島海岸から北朝鮮に拉致されていたことがわかった。北朝鮮工作員・辛光洙は原さん本人に成り済まして日本に住み、対南工作のため原さん名義の旅券、運転免許証、国民保険証を持って渡韓した1985年2月24日に韓国当局に逮捕され、その後韓国の裁判で死刑判決を受けた。
「宇出津事件」をはじめ、それまでの拉致捜査では、実行犯の特定が出来なかったことが、立件への大きな壁となっていたが、この事件(=原さん拉致事件)では主犯の辛が北朝鮮のスパイとして逮捕・起訴されていた上、韓国の法廷で東京、大阪、横浜、長野在住の在日韓国、朝鮮人とともに拉致などに関与した事実を証言したため、日本におけるスパイ活動の一端が明らかになった。
この時の、日本の公安当局の立件に向けた行動は素早かった。まずは韓国の情報機関や日本政府の介入を避けるため、韓国の捜査当局が持っている資料の提供を外交ルートではなく、ICPO(国際刑事警察機構)を通じて依頼したが、順調に進むかに見えた拉致捜査は突然頓挫する。
辛光洙事件の場合、日韓で法制度が異なる上に全斗煥大統領率いる軍事政権下で(拷問を含む取調べで)得られた「辛供述」の証拠採用に当時の日本検察首脳らが否定的だったことが立件を見送った理由のひとつであったが、最大の要因は捜査指揮に当たっていたリーダーの突然の交替だったという。
韓国の辛光洙事件摘発の発表からわずか1ヶ月余の85年8月、警察庁警備局長・柴田善憲(1955年入庁)が近畿管区警察局長へ、柴田の後任と目されていた警視庁公安部長・福井與明(57年入庁)が埼玉県警本部長へと、揃って”放逐”された。
当時の警察庁内部では、政治家への接近を深めるいわゆる”政治派”と警察の政治からの独立を守ろうとする”独立派”の間で、警察庁始まって以来といわれるほどの熾烈な派閥抗争が展開されていた。
しかし、”独立派”のリーダー・三井脩警察庁長官(旧内務省1946年入省)が退官すると、その三井人脈に連なる柴田や福井らが一転”政治派”から「報復人事」(警察庁OB)を受けることになった。
そして後任の警備局長には三島健二郎(56年採用)が、警視庁公安部長には城内康光(58年採用、後に警察庁長官=落選した城内実前議員の父上、らしいです)がそれぞれ就いたが、捜査指揮を執るにはいずれも「非力」(前出OB) であった。特に、三島新警備局長は外事課長時代に、外交問題にまで発展した「文世光事件」で「かなり痛い目にあっているので、このときも再び政治に巻き込まれるのを嫌った」(警視庁OBの言)という。
また城内はその後警備局長に昇進する。88年3月26日参院・予算委員会で日本共産党・橋本敦委員から辛光洙事件の共犯として韓国当局に逮捕された安永奎(アンヨンギュ)の供述内容を問われ、「この北朝鮮工作員、安永奎が1978年に次のような指示を上部から受けておるということを承知しております。すなわち45歳から50歳の独身日本人男性と20歳代の日本人女性を北朝鮮に連れてくるようにという指示を受けていたということでございます」と、胸を張った。
当時(88年3月)は大韓航空機爆破事件の金賢姫の日本人化教育係とされる「李恩恵」捜しに日本中が狂奔している渦中で、この反北朝鮮ムードを追い風に、国会答弁としては一歩踏み込んだものとなっているが、もはや”出し遅れの証文”といった感は拭えない。2002年8月、警視庁公安部は旅券法違反などの容疑で辛光洙の逮捕状を執ったが、「この程度だったら、背乗りということで、当時も(立件)出来たはずだと思うが」と、現職の警察官僚たちは当時の先輩たちの捜査姿勢に極めて批判的である。
また、当時の捜査担当者らは「韓国の捜査協力を得て、日本に帰ってきたら、幹部が交替していた。もしこの拉致事件が正式に立件化されていたら、これを突破口に日本国内における北朝鮮スパイ人脈の解明が一気に進んだろう」「あの時ケジメをつけておけば87年の大韓機爆破事件などは起きなかっただろう」と、今も口を揃えて断言する。
そして拉致事件の中心人物である辛は、2000年6月に平壌で開催された初の南北首脳会談の”見返り”として同年9月2日に「非転向長期囚」のひとりとして北朝鮮に”凱旋帰国”することになるが、日本警察の拉致捜査は辛光洙事件の立件失敗(85年)により、それ以降完全に隘路に入ってしまったことになる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
重村本の「警察の捜査も冷たかった」という部分についてはより詳細に記述されています。
またNSPは極秘に捜査したのではなく、ICPOを経由して資料を提出すなどして、日韓の公安機関は捜査協力をしていた様子です。
辛光洙の捜査に件に関しては、両書を通じて日本側の事情により中途半端に終わったのかなという印象は拭えませんが、少なくとも韓国司法機関がめぐみさんのことを伏せて、辛光洙を起訴、死刑判決を下したとは考えられませんね。
日本の警察庁としてはいろいろと辛光洙事件では苦汁を飲まされていますので、「辛光洙」情報には必要以上に前のめりになってしまうかもしれません。
____________
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント