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2006年3月29日 (水)

李 昌成氏証言

衆議院会議録情報 第154回国会 安全保障委員会 第9号から 李 昌成氏証言

第154回国会 安全保障委員会 第9号

平成十四年七月二十五日(木曜日)  午後一時三十分開議

○李参考人
 私は、韓国から来ました李昌成と申します。どうぞよろしくお願いします。
 私がきょうここに来たのは、在日総連に訴える気持ちがいっぱいありまして、皆様方に私の意見を聞いてほしいと思っております。どうぞよろしくお願いします。
 私たちは北朝鮮から韓国まで脱出した人ですけれども、私は、日本から北朝鮮に帰国しました。

 その当時、在日総連から北朝鮮の宣伝をどういうようにやったかということを私がここでお話ししたいんですけれども、例えば言えば、総連で、今の北朝鮮は五〇年、五三年まで戦争をやり、六年間の間に建設をしたから、まだまだこの先建設をしなきゃいけないので、日本におる六十万人の中で北朝鮮に来て社会主義建設に励んでくれ、そういうように総連で宣伝したときは、私たちもそれが理解できて、そういうように苦しい状態にあったら、日本におる在日朝鮮人たちが北朝鮮に果たして帰国したのか。私たちはだれ一人も帰国したと思わないと思います。
 その当時は、在日総連では、北海道から九州までどこにも総連の会がありました。それで、総連の宣伝では、北朝鮮に行けば民族差別もないし、そこに到着すれば家もくれるし就職も立派なところもある、むしろ日本より発達しているんじゃないか、そういうように総連で宣伝したわけです。

 だれもが、私も総連に何日か努めて行ったんですけれども、北朝鮮は状態がどうですかと私は聞いたんですけれども、北朝鮮は日本よりも差別はないし、選挙もできるし、自分の自由に学校も行けるし、自分が行きたい就職もできる、日本よりももっと差別がないから、朝鮮に行けば立派にこの先は発達して立派な人間になれるんじゃないか、そういうように在日総連が六十万人の在日朝鮮人たちに宣伝したわけです。その中には、二千人足らずの日本の妻たちもおったと思います。
 総連でこの宣伝をしたのが、日本よりももっと発達したと、そういう人をおだて、うそをつき、そうやって行くから、まだその当時、日本に住む朝鮮人たちは歴史が長いから、その当時、成功して発展して、だれかは何億も金を持っている人もおったと思います。また、生活に少し困って、自分の家もなくて、人の家の横で暮らしている人もおったと思います、私が見た目では。その当時が六二年ごろだったんですけれども、私たちが日本で生まれ、日本で生活をしながら、六〇年、六二年には、日本はできるだけの世界的に発展ももう十分にできた、その当時もできたと、私たちは自分の目で見てそれはもうわかっております。
 私たちは、そういうように総連で言われて帰国をするようになって、親兄弟を置いて私は一人で帰国しました。日本の妻たちも、何人かは私の船で一緒に行った人もおります。

 だけれども、総連で宣伝するよりも、北朝鮮のチョンジンという港へ着いたときに、帰国者たちがその船から下を見るときに、果たしてどんなように感じをしたか。船から私はおりぬ、私は日本で生まれたのに、お父さん、お母さんが行こう行こうよ、私は日本に残る残ると言いながら、お父さん、お母さんが行くからついていったけれども、下を見れば、本当に自動車もない、自転車もない、オートバイもない。私は四月に行ったんですけれども、その国は風が強く吹くからほこりだらけで、風も吹くし、みんなの服装を見てびっくりしたわけですよ。日本に私たちが比べて、これでも果たして国なのか。

 総連の人たちはどうしてそう言うて、うそをついて私たちを北朝鮮に送ったのか。北朝鮮がこういう状態であれば、一人も行く人はおらぬじゃないですか。日本の妻たちは、自分の民族は日本人として親兄弟に殴られながら、総連の人たちが、里帰りもできる、日本よりももっといいからと言うて、そういうように宣伝し、子供もおるから、自分のだんなさんに連れられ、北朝鮮に行ったけれども、行ったそのときから、十年、二十年、三十年、四十年の期間、一日もお父さんや兄弟を忘れずに、私たちも帰国して苦しく生活はしましたけれども、日本人の奥さんたちを見てお話をすれば、涙から先に出るように、本当にちょっとかわいそうな気持ちがあって、当時、生活も困るけれども、何かあめ玉の一つでもあったら日本の奥さんにやったこともありました。

 それでも私たちは、北朝鮮の帰国者たち、日本生まれの帰国者たち、そして二つ目は日本生まれの日本の奥さんたちの代表として、ここまで来る人は一人もおらぬ。だれかが日本に行って、帰国者たちとか日本の妻たちが苦しく死んでいく、私たちが死んでいくこの歴史をだれが残してくれるのか。例えば私が来てこういう会議へ参加せずに、だれもこういうことを言わなかったら、あの国ではかごの鳥で、だれもこれを見ることも何もできないから、この先もそういう歴史が残らないじゃないですか。

 私は、この会議で皆様方に、はっきりとした、そういう北国の恐ろしい政治、開放もしない、その国の偉いさんたちは自分のことだけ考えて、下の労働者たちは死んでも知らぬ顔、食べ物はやらぬでもいい。日本からもアメリカからも韓国からも相当な食糧が行っても、労働者たちがその米をもらったのか。一日、二日くれて、その先はくれないんですよ。それは社会主義で、日本と違って自分で自由に商売をしたり食堂をしたり工場を持つ国じゃなくて、食堂とか何かは皆国が持っているから、個人ではないわけでありますので。

 それで、帰国者たちの、日本人の妻たちの残念な無念を、日本の政府に、私は代表として訴えるものです。だれもが、今まで日本人たちが、それはひどいひどいと言うても、北朝鮮がそんなにひどいのかそうは想像できない。実際にそこに行って暮らしてみた人は、人生は五十年で、私は、四十年で人生が皆そこで終わりました。昔は、人生は日本では五十年ですよ。皆終わり。

 果たして、あの国に対して、今帰国者たちがそこに残り、日本の妻、悲しい妻たちが残って、苦しんでから相当次々に死んでいく。九五年からは配給、給料も一銭もない。日本とかそういうほかの国では、自分で自由に働いて金をもうけ、米も買うことができるけれども、その国、社会主義の国は、国から米をくれなかったらどこでも食べ物が何もない、金もくれない、これはもうどうして暮らしていくのか。
 五〇年代は戦争のために何百人も死に、九〇年代の何年かの間は戦争よりももっと相当な人が飢え死にになって死んでいく。それを私たちは、地元の人はその運命に対してその国で生まれたから仕方がなく、私の人生はそういうものだけれども、日本から行き、帰国し、日本人妻たちが、何にも罪のない人間たちがそのように死んでいくのは、これはどういうことなのでしょうか。

 帰国者たちは朝鮮人として行ったとしても、日本の日本人は、総連の人たちはどうして、総連の人たちは罪があるんじゃないんですか。六〇年代の人たちがそういうように宣伝した、帰国者たちをおだてて、北朝鮮に帰り、総連はどんなに罪を持っているか。

 また、総連で働いていた人が、これは北朝鮮とか総連とかそういうものはだめだと。出た人に聞いてみれば、本当に、総連におるときにそういう宣伝をして、北朝鮮に行って死んで、何かと言うたらそういうふうに私は罪を犯した、そういうように出ている人は皆反省をしている。

 今、この日本の中に在日総連の人間たちは果たして何を考えて、何をしているのか。北朝鮮の子分か。米もくれぬ、食べ物もくれぬ、金もくれぬ、着る物もくれぬ、その国を何で応援をして、人を苦しめるのか。在日総連も朝鮮人として、帰国した人も朝鮮人として、残念な無念を、死んでいく残念な無念のことを私が代表として日本の政府に総連を訴えることしかありません。

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