日韓連帯東京集会(3)
『李美一 朝鮮戦争拉致被害者家族協議会代表 講演』
★司会 西岡力氏
それでは集会の本題に入りまして、まず韓国のご家族から訴えをして頂きたいと思います。
韓国の拉致は、何度も言いますように朝鮮戦争中の拉致と戦後の拉致があります。
朝鮮戦争中の拉致についてはそこに数字が出ておりますけれども、82959と。
これは韓国政府の調査の結果です。
その事について実はアメリカの議会は、今お話をしていただく李美一さんを横田早紀江さんと一緒に呼んで、証言を聞いています。
まず、朝鮮戦争のときの家族会の代表の李美一理事長にお話をお伺いしたいと思います。
★李美一 朝鮮戦争拉致被害者家族協議会代表(通訳:西岡力氏)
皆さんお会い出来て嬉しいです。
特にこの席には、日本の一般の国民の方というよりも、積極的に拉致問題解決運動に取り組んでいらっしゃる方々がいると聞いております。
韓国の拉致問題は、まだ積極的な世論が展開されるまでに至っていない背景について説明します。
まず過去の問題から話したいと思います。
私たち朝鮮戦争中の拉致の被害者は主として1950年の6月25日の戦争勃発から同じ年の9月28日、ソウルが再び国連軍によって奪還されるまでの間に、拉致された被害者が大部分です。
1952年に韓国政府がその期間に拉致された人たちの調査をしまして、そこにある82959人と言う名簿を作りました。
その名簿を今日いらっしゃった趙甲済社長の月刊朝鮮から本として出版しました。
何故このような多くの拉致被害者が出たか?と言う事ですが、まず終戦になった後、北では社会主義体制がそして南では自由民主主義体制が出来たわけです。
そして北では私有財産を没収すると言う事が起きました。
地主や企業家、あるいは言論人・宗教人に対する粛清が始まり、その結果300万人と言う人たちが難民となって南に逃げてきました。
1946年に金日成は自分の名前を付けた金日成大学と言う大学を作りましたが、学者が足りないといって南から学者を連れて来いという指示を1946年7月30日付で出しております。
ですから戦争前に彼らは連れてくるべき有名人士の名簿を作っていたわけです。
戦争が勃発した後最初にした事が、政治家それから有名人の拉致でした。
そしてその後は戦争の後の国土開発に使う労働力、あるいは北朝鮮兵として前線に送るための所謂義勇兵の募集という形で青年たちに対する拉致が行われました。
今のような家族会は実は1954年の9月に、ソウルが再び修復された後に集まり始めて、57年に正式に発足しました。
そして家族会はまず、名簿作成から作業を始めたわけです。
そしてその名簿を国会議長に送ったり、あるいは在韓米大使に送ったり、国連に送ったりしました。
休戦会談の中で南側が拉致被害者を送還せよと何回も要求したにも拘らず、北側は拉致などしていないと拒否したのです。
その時の韓国の家族会は実は母親が中心だったんです。
私の母親の世代で、夫を取られた人・息子を取られた母親が立ち上がって53年7月に休戦協定が成立した後ですね。
数千人規模のデモを二回行っています。
韓国の国会にも請願書を出したりですね。
あるいは国連の代表が韓国を訪れた時に、その人たちに食事の接待をしてそこで家族の気持ちを聞いて頂いたりなどの活動をしたということです。
その後新しい局面が生まれます。
それは北朝鮮が若者・青年たちを拉致していった、その青年たちをスパイ教育をして南に再び送って来たという事です。
50年年代の末からそういうことが起きます。
そうしましたらば、韓国政府は我々を助けてくれるどころか、我々がスパイの関係者だと言う事で家族連座制を適用して監視と差別を受けるようになりました。
ですから私たちは、北朝鮮から拉致されそしてスパイにされるという二重の被害を受け、そして南からは監視されるという三重の被害を受けたということです。
これが朝鮮半島で起きた冷戦時代の状況でした。
私たちはその様な特殊状況を受け入れるしかなかったのです。
1964年、赤十字社とそして朝鮮日報が、拉致被害者救出のための国民署名運動を行って、その署名を国連に送りました。
その時でも、実は大統領から始まって各界の代表的な方々がみんな署名をしてくれました。
私たちのその様な問題が、しかし表面から出なくなってしまった理由は、第一に冷戦時代の構造があったということです。
そして二つ目の理由は北朝鮮が休戦後も新しい拉致を始めたということです。
当然政府としては現在進行形で起きている拉致についてまず対処せざるを得なくなって、戦中の拉致の問題は忘れ去られていったのです。
当時の家族会の運動の記録が政府の資料館から出てきたんですが、それを見ますと当時の家族会は在日朝鮮人の北送反対運動にも参加していますし、拉致被害者が何人か帰って来たときの歓迎大会にも参加しています。
そして80年代の中盤に(家族)連座制が解除されるまで、私たちはその様な状況に置かれていたわけです。
私たちはまた冷戦の中でそのような状況をある程度理解する事が出来たんです。
それは戦争を経験した世代として、共産主義がいかに恐ろしい物であるか?と言う事を体で体験した世代だったからです。
当時はそして南北で対話が無かったわけですが、2000年代になって金大中政権で南北首脳会談が開かれたと。
ここで話題になるんじゃないか?と私たちは大変期待をしたわけです。
なぜなら金大中大統領は戦争も体験した方だし、自分自身も拉致を体験した方なので、拉致された者とその家族の苦しみがどのようなものなのかと言う事を、よく理解してくださっているだろうと期待したからです。
しかし大統領は戦中の拉致被害者については一言も、言及さえもしなかったのです。
480何人の戦後の拉致被害者だけ言及されたという事です。
我々が訴えたところですね。
あなた方の問題は南北の和解が進んで対話が進み、一番最後に取り上げるという回答が来ただけでした。
韓国の拉致問題が何故このように支離滅裂で成果が上げられないのか?と。
それは現時点の政権に問題があると思っています。
もちろん日本の拉致救出運動のように、このような組織的な運動が無いということもひとつの理由でしょう。
そしてここにいらっしゃる皆さんのように、他人の人権についても本当に大切だと思ってくださる方たちが、韓国にはまだ少ないと言う事です。
しかし幸いな事に、戦後の拉致被害者家族と日本の家族会との連帯・交流が韓国のマスコミに報道される事によって、韓国国民の関心が高まって来ています。
一番大切なのは国民の声です。
国民の心・国民の願いがどこにあるか?ですが、実は戦争中の拉致被害者については言論の報道が無いのです。
言論はいつも問題を探し、そして特ダネを追います。
戦争中の拉致被害者は自力で脱出した人はまだ一人もいません。
私たちは重要な資料をこの4年間、多く発掘いたしました。
資料を発掘しましてマスコミに公開しますと、その資料の価値その物よりも、これは特ダネなのか?そうではないのか?と言うところにばかり関心を持ちます。
まだ韓国では資料の大切さ・重要さを分かっていないのです。
私の以上の説明で韓国で、何故?拉致救出運動が盛り上がらないか?という事の背景がご理解頂けたのではないかと思います。
私は今後も韓国で多くのNGOと協力をし団結をしながら、ひとつの組織の責任者として努力を続けていくことを約束致します。
皆さんの関心に大変感謝いたします。(拍手)
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参考過去記事
救出のために日米韓連帯を!東京集会より
05.11.23 友愛会館にて
★『李美一(リ・ミイル)朝鮮戦争拉北人士家族協議会理事長による、ご自身の家族のお話(通訳・西岡氏)』
http://piron326.seesaa.net/article/10683736.html
★『李美一 朝鮮戦争拉北者人士家族協議会理事長のお話(通訳・西岡氏)』
http://piron326.seesaa.net/article/10719896.html
このテキストは話しの花束ぴろんさんの労作です。
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