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2006年6月 6日 (火)

飯塚耕一郎さんの想い(群馬集会)

田口八重子さん長男:飯塚耕一郎さんの講演

    ~お母さんと呼ばせてください~


  「あなたも拉致の現実を知ってください」       

    2006年5月20日(土)群馬県前橋にて

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群馬のみなさんこんにちは。はじめまして。田口八重子の長男であります、また飯塚繁雄の次男であります飯塚耕一郎と申します。

先ほど副代表の方から、今回の訪米関する報告等が出てきましたので、私のお話としては、田口八重子の拉致の話をもうちょっと掘り下げた形でお話しさせていただきたいと思います。

まず、小さくて大変申し訳ないんですが、ここに一枚の写真があります。これは私が以前公の場にでたあとで、まぁ、あるテレビ局を通じて、昔、田口八重子さんの近所に住まれていた方が撮って頂いた、かつて28年前に撮って頂いた写真です。
何故この写真をお見せしたのかというと実は、先ほどの親父の話にもあったように母が1978年に拉致をされたとき、まだ一歳という年であって、全く記憶がありません。ですので、お話の中でも、<お母さん>ではなくて<田口八重子さん>とどうしても言ってしまう部分があるんですけれども、この写真は、本当に母親が優しい顔をしているところを初めて見た写真なんですよね。この写真に関しては、母親が本当に優しい顔をしているのを初めて見た写真なんですね。

私それまで母に関する情報というのは、実は親父から聴く話と、金賢姫さんが書いた『忘れられない人』と言う本がありますけれど、そこの話と、こちらの写真と、大きく三つの情報しか、母につながる情報を持っていないんですよね。

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この写真に関しては、すごい私の方を向いてほほえましくしている写真であって、その写真を初めて昔の知り合いの方から頂いたときは、『やっぱりボクのお母さんなんだなぁ』と思ってホットするの半分、やっぱり哀しい悔しいと言う気持ちが半分湧いたのを、感じたことを覚えています。

そもそも私は・・さっき親父の方からもありましたけれど、かつて28年前に、田口八重子が、夫婦が別れ、女手一つで、私と私より2つ上の姉を育てるのになりふり構わず一生懸命頑張ってくれていたのだと思います。実際それだけ苦労をして、なんとか二人の子供を育てようとしていたにも関わらず、この拉致という問題が発生して、ごく普通にある当たり前のような家族を切り裂くような形で、そのまま30年近く放置されている、これは国家としてはとても問題だと私は思っています。

私の方は、実際記憶がなかったので、一歳の時に飯塚家に引き取られてからは、もうそこの子供だとずっと私は思っていましたから、飯塚家に引き取られてからは何も知らずにそのまま二十四年近く育ってきました。

ある時私が仕事の関係で外国に行くことになり、その時に戸籍謄本というのを初めて取ったんですが、そこの私の部分の続柄は<養子>となっていたんですね。『なんだろう』と最初はびっくりしたことはびっくりしたんですけれど、結構、その時22だったんですけれど、その時、22と言うと年まで何で隠し続けなければならなかったんだろうと、私は思っていたんですけれども。

うちの親父は<誇れる親父>ですから、その親父が、たとえば二十歳ですとか、会社に入った二二歳の時とか、そう言うタイミングに切り出さなかったのは、きっと何かがあると思って、正直、そのまま、発覚したその日には聞けませんで、ちょっと親父の方に、一週間後、日曜の昼下がりぐらいに話をしたんですけれども。

その時に言われたのが端的に言って、『おまえの母は北朝鮮に拉致をされたらしい。』と言う風に言われたんですよね。その時、そもそも普通の日本人だと北朝鮮という国は、たいした情報というのは特に持っていないと思うんですよ。韓国の上にあって、訳のわからない指導者がいて、未だに残っている共産主義系の国だとしか、私はその時知識としてなかったんですけれども。その国に拉致をされたと言うことがどういう事か、全くわからない訳なんですよね。イメージとして、何とも想像できないわけで、ものすごく心が混乱してしまったことをよく覚えているんですけれども。

ただ、それを言われたときにまず思ったことは、じゃぁ、母親を助けるためには、我々はどうしたらいいかと言うことをその時に私は親父と話しました。親父からの回答としては、『我々に今できることはない』という絶望的な回答でした。

もちろんそうだと思います。大韓航空機爆破事件で、非情に事件性のある、家族会の中でもかなり事件性のある家族ですし、その時、公の場にも出ていなかったわけですし、また過去には、大韓航空機爆破の教育係として殺人の幇助をしていた女性だという見解でマスコミからだいぶ叩かれていた状況ですし、そう言う状況で、他の家族会の方と同じように、公の場に出て助けを求めるというのは、とてつもない勇気のいることですし、また逆に、『犯罪者の家族が何を言っているんだ』という見方にもなりかねない状況でした。その時は何もできずに、ただ単に絶望感ではないですけれど、やりきれない気持ちというのが心の中にたまっていた状況でした。

それから、お話を、時間がそんなにないので、はしょらせていただきますが、2002年の9.17の時、5人のかたが帰っていらっしゃいましたが、その時は田口八重子に関しての情報というのは、<1986年の7月30日に死亡されています>と言う報告でした。

その時私は日本にはいなくて仕事で海外の方に行ってたんですけれども、(その時朝仕事をする前に、ニュースのチェックというのは常に毎日欠かさなかった訳なんですけれども)その時ニュースのチェックをしたときに、結果として<死亡>となっているということで、大変い驚いてそのまま親父の方に国際電話かけたんですけれども。

その時親父はは飯倉公館の方には行っていませんでしたので、後日改めて外務省の方に確認をするという話でした。その時に、すごい思ったのが(海外に行っていて日本人が誰もいないという環境もある程度、雰囲気として出てしまったんでしょうけれども)その時やはり23年、母と別れて23年たって、その母の最新の情報として出てきたのが<死亡>というあまりにも過酷すぎる、残酷すぎるような情報を突きつけられたということです。

その時に、やはり日本に帰るかどうかは迷ったんですけれども、その時親父の方が『どういう情報が出てくるかわからないから。待て』と言うお話でしたから、ちょっとまぁ我慢をして、何とか平静さを保とうと思ったんですが。

その時に私の育ての母=飯塚繁雄の奥さんですけれども、その親父と話したときにうちの母と話したときに、うちの母は号泣なわけなんですね。もう何も言えずに、ただ俺(耕一郎さん)が心配だから電話変わってくれたらしいんですけれども。ただ母親の方が号泣なわけで、自分の息子のように育てた子供がまた厳しい現実に直面しなければならないというこの惨さというのをやはり彼女は我慢できなかったわけですよね。

それで、泣いて一言。『そう言うことだから、じゃぁ、がんばってね』としか言えないんですね。その時僕は本当に訳もわからず泣いてしまったんですけれども。やはりそこの部分というのは、この拉致問題が家族に与えている惨さ酷さの一端のひとつなんですよね。

その後2004年の5月の22日に小泉さんが第二回の訪朝を行って、その時にもまた<田口八重子は死亡している>という情報しか出てきません。もう、情報として何も変わらないわけですよね。9.17の時には、こちらのパンフレットにもありますが死亡確認書と言われるものが出てきて、実際もうはんこの部分とか、記載されている部分とか、汚れの部分とかが、全く他の家族と一緒のようなものが出てきて、まぁ日付なり名前形が変わっているようなもの。こんなばかげたものが9.17の時に出てきた。

その時の聞いたお話ですと、外務省の方が、『死亡という一言では家族に何の報告もできない。何か証拠を持ってこい』と言って、向こうの担当官が一時間ぐらい席を外して、出てきたのが死亡確認書です。

2004年5月の22の時には<交通事故を起こしました>と言う事件報告書が提示されてきたんですけれども、それを外務省の方から提示された後で、ボランティアの方に頼んで翻訳をしてもらったんですけれども、田口八重子の<た>の字も八重子の<や>の字も、何も載っていないんですよ。僕が記憶している限りでも、15~6ページある文書なんですけれども、1ページ、1ページの4分の一、5分の一近くが塗りつぶされていて、何が書いてあるのかわからない。翻訳した結果は、結局<軍部の車と一般の乗用車がぶつかって、その一般の乗用車が谷底に転落しました。その女性と男性が死亡しました。>みたいなことがかいてあるだけなんですよね。それをもって田口八重子の名前も載っていないような死亡報告書を見て、『何を信じれば良いんだ?』と外務省の方には、ちょっときつめの言葉で言ってしまった事があるんですけれども。

この二点にあるように、<田口八重子が死亡している、母親が28年たって死亡している>という状況を否定するような情報というのはいくらでも出てくるわけですよね。帰国された五名の方々とお話したときも、『実はこういうところでこういう話を聴いています』と。具体的に言うと1987年7月30日に死亡しているよと言われているにも関わらず、その年の10月に外貨ショップで(地村さんのところのかな?ちょっと忘れてしまったんですが)元運転手の方が、田口八重子さんを外貨ショップで見かけている。

情報というのは、あとは、安明進さんという北朝鮮の元工作員の方がいるんですけれども、その方の情報からすれば、91年に金正日総合大学で、金賢姫の元教官お方が、が一時期、86年か87年にだいぶ脅えていたと言うんですよね。その理由は、大韓航空機爆破事件を実施して結局金賢姫さんは自決ができなかったと。そこから北朝鮮の情報が漏れることは、北にとって大打撃なわけなんですよ。金賢姫さんは実際韓国に捕まっていますから、その矛先は元金賢姫を教えていた教官に当てられるわけですよね。要するにその教官の指導がなっていないから自決もできない。自白もしてしまう。北朝鮮にとって大打撃になるだろうと。で、『私は殺されるかもしれない』と、そのハム(?)教官というのはだいぶ脅えていたらしいんですけれども。その後日、いくつか年月がたって91年に、また安明進さんがその教官と会ったときは、だいぶ元気にしていたと。その教官が言うには『金賢姫の日本語の教育係をやっていた女性が何も処罰されないのだから自分も処罰さるわけがないという結論に至っている』と。この発言のうらを取れば、逆にこの時点では生きているというので、結局は北朝鮮の報告というのはウソになる訳なんですよね。

そういういろいろな北朝鮮の報告を覆すような情報というのは、私の家族にとってはとても情報自体少ないんですけれども。この少ない情報の中でも、覆すような情報というのは、いくつか出てきています。

そこの部分で結局私が何を言いたいのかと言いますと『人の母親を勝手に拉致しておきながら勝手に殺すな。』と。勝手に殺したあげくに、日朝国交正常化を行って自国に食料を入れさせてくれというのは、人としておかしい。言語道断だと私は思っています。

自分たちが困るという部分というのは、やはり人としてあるべき部分を保てていないから困っているだけの話だと僕は思っているんですよね。人としてちゃんと誠意を持って、過去に犯罪を犯したとしてもその誠意をもって対応する。すべきことをすれば周りの人も認めてくれるはずなんですよ。それは国も人も関わらないと僕は思います。

そう言う対応を今北朝鮮に対して求めるのはとても難しい状況です。
細かい政治的なお話というのは私の方からするより平田さんの方から行っていただいた方が良いと思うので。

北朝鮮に対して<対話と圧力を使って被害者を救出する>とうたっている日本政府というのは、とても厳しい状況だと思います。

先ほど親父も言いましたけれども、2004年12月24日にに細田官房長官が(このパンフレットの裏にも書いてありますけれども)『北朝鮮側が迅速かつ誠意ある態度を取らないければ、経済制裁をおこないますよ』という発言をされていますけれど、結局一年半もたっても、何もできない状況なんですよね。やはり日本の国内の中では、いろいろなしがらみがあって動けない。もちろん政治的な要素というのが多々あって動けない部分というのがあるからこそ、家族会が、わざわざ海を渡ってラオスに行ったり(タイの誤り?)今回訪米したり、韓国に行ったり、グローバルになっているわけですよね。

決して日本の中の救出活動に対して何か不満があるとか、そういうわけではですよね。海外的な視野を含めてこの活動を広めていかないと、日本政府というのは今とても動きづらいからこそ、アメリカを含めてグローバルな形で解決して行かなくてはならない。

それに当たって一番のポイントというのは、本当に僕の中では、とても不思議というか驚きなんですけれども、やはり国民の皆様が一人一人の御協力というのがとても重要なんですよね。たとえば、例を一つあげると、小泉さんが2004年の5月の22日に訪朝をしたときの家族会がだいぶバッシングされました。その時は訪朝してある程度成果を持ってきたにも関わらず、お礼の言葉も差し上げないで、何非難をしているだというよな報道がされました。
ただあの時発言している家族ひとつひとつというのは全て小泉さんに『首相、大変お疲れのところ申し訳ありません』とか『ご苦労様でした』とか敬意を持った発言しているにも関わらず、ああいう形に取られてしまったんですよね。ただ、その非難というのは結局長く続かないわけですよ。何故かというと、日本の中でみなさんがちゃんと理解をしてくだっているから非難というのは長く続かないんですよね。そこの一端で訳ですよ。

そう言うみなさんの理解があるからこそ、高齢な家族会の方々もアメリカに行ったり、毎週毎週各地方で公演をしてお話をさせていただいたりしているので、拉致を許さないんだという気持ちを根付かせている訳ですよね。

今回私は」群馬という地に初めて来ましたけれど、群馬のみなさんの中でもより深い理解と広い理解を求めるような活動を頂きたいかなと心の片隅で思っています。

親父の方が先ほど言いましたけれども、この問題に対して動かすというのは日本政府を動かすため、最終的な部分は日本政府を動かすためには、手紙なりFAXなり、メールなりをを送るというのは実はかなり結構有効です。
家族会の今事務局次長をなさっている横田拓也さんはかつては安倍さんに対して毎月のように送っていたらしいんですけれども、安倍さんに初めてあったときに、『君が横田拓也君か?メールは何回も見てるよ。』とおっしゃっていただきました。

日本政府は見てないようで見ているんです。見てないふりをすることは、結構しばしばあるんだと、そう言うことなんだと思うんですね。でも、日本全国から、もう背けないような状況になれば、日本という国も、この問題に対してアプローチができるのかなと思っています。

最後に個人的になりますけれど、私が田口八重子さんに対して<お母さん>という一言はを直接言ってあげていないんですよね。<お母さん>という一言というのは、一般に日常の家族の生活の中で、普通に言っていることにも関わらず、僕は言えないと。ただ田口八重子さんに直接言えたときと言うのは、拉致問題が収束し始めている兆候であり、また田口八重子と僕の家族という図式が始められるときだと思っています。

ですので、是非、本当に個人的な部分で言わせていただければ、<お母さん>と言わせていただけるように、みなさんの御協力を得られればなぁと思っています。
以上です。ありがとうございました。 ◆―――――――――――――――――――――――――◆
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