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2006年8月11日 (金)

脱北者への質疑応答(1)

北朝鮮の帰国者の命と人権を守る会の集会より

      質疑応答

北朝鮮難民救援基金加藤博さんから金英順(キム・ヨンスン)さんへの質問

加藤博さん
ご自身が耀徳(ヨドック)収容所で、経験されたことをお聞きします。
その中で日本人の帰国者及び日本人妻で構成された第十作業班というのがあったとお話がありましたが、その事についてもう少し詳しくお話しいただけますか?

金英順(キム・ヨンスン)さん

私は耀徳(ヨドック)収容所に入ったのが1970年です。すでに10世帯の日本人家族がおりまして、そのうち純粋な日本人は女性でひとりいました。その女性は私より少し年上で、その夫はカン・ウォンシュクという在日朝鮮人の俳優でした。収容所に入った理由は、カン・ウォンシュク氏が日本の映画に出演した罪でした。

カン・ウォンシュク氏は役者で、奥さんは純粋な日本人でした。終戦の頃に北朝鮮に来たと覚えています。
カン・ウォンシュク氏は私が収容所に入った一年後に亡くなったのですが、その奥さんは、1975年に罪を解除され、ヤンガンドンという場所に配置されたというふうに聞いています。

そして帰国者=在日の帰国者達はたくさん入っていました。その中で、姜哲煥(カンチョルファン)さんはちょうど私が出る一年前1977年に耀徳(ヨドック)収容所に入ってきました。私達は、三作業班、四作業班があったんですが、その間に十作業団という組織を作り、そこは食糧工場をやっていました。だいたい在日帰国者達はその食糧工場で主に働いていまして、たまに百姓仕事=田んぼや畑の仕事もさせられましたが、帰国者達は畑仕事余り慣れていなくて、苦労していたのを覚えています。

そう言った帰国者達には日本の親戚から、いろんな物が送られてきていたんですが、そういうものは保衛部のほうで、セイコーの時計、カメラなど、貴重品みんな保衛部のほうでとってしまい、本人に渡るのは衣料品、服などが渡されただけでした。

帰国者達は日本である程度資本主義の中で、豊かな生活をしておりました。そして北に帰った後も、日本の親戚から支援ですね、いろんな物が送られてきたりしてそれなりに豊かな生活をしていた中で耀徳(ヨドック)収容所の悪い環境に着てしまって、栄養が不十分であり、ビタミンBT欠乏症といいますか、・・・病気にかかってたくさんの帰国者が・・・のを目撃しました。

自分の故郷に戻るために玄界灘を渡って帰ったのに、本当に自分の故郷に帰りたいという心で帰った人たちを、そういう悪い環境の収容所にいれた金正日にたいして本当に胸の怒りがこみ上げてきます。

中には何故政治犯収容所に送られたかというと市場や商店街に物があまり内のを見て『何故こんなに物が少ないんだ』と言ったその一言で、政治犯収容所に送られた人もいます。

またある人は、ハンシ・・というところに住んでいた人ですが、日本から訪問団が来ていて、その三日間、日本のビデオを見たために政治犯収容所に送られた人も私は目撃しました。日本からお父さんとおねいさんが来て、その間は目をつぶったのですが、三日の訪問団期間が終わり訪問団が帰った次の日に、ソンブルタン(?)というところに連れて行かれたのを私は見ました。

そのような帰国者達がたくさんの財産及びお金を北朝鮮に寄付したにも関わらず、少しの罪、過ちでそのようなひどい扱いを受けるのは本当にどうかと思いました。そのような過ちでも許してあげたり、また直してくれるのが普通なのにすぐ田舎に送り込んだり、ひどい扱いを受けることで、帰国者達からは『私達は騙された。来るべきじゃなかった』と言う後悔の声があがっていたのを私は覚えています。


写真1 司会の三浦小太郎さん


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写真2 挨拶をする小川晴久先生

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