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2006年10月 8日 (日)

須藤監督の挨拶(藤沢集会2006/10/7)

須藤監督の挨拶(藤沢集会2006/10/7)

~日本で拉致映画制作を目指す、須藤監督の思い~

          参照: 拉致映画制作委員会


 
 
 
 
 
 

どうも、みなさんこんにちは。

えーと、映画を作ると言うことは、なかなか信用していただけませんで、「拉致制作映画後援会」という話をしても、まず家族のみなさんに「へたなものを作るなら許可しないよ」みたいな反応の方が先に出てきまして、「そうですか、頑張ってください」と言う言葉より先にですね、そのくらい家族のみなさんがぴりぴりしているのが、よくわかります。

で、まぁそういうふうに、映画監督なり、映画界が信用がないのは私たちの責任でありまして。ただですね、映画監督にもいろいろいるということだけは、みなさんにわかってほしい。

まぁ、この飽食の時代にさまざまの映画が、しかも最近は、シネコンというのもできましたので、映画人口も少しはジりっと、あがてきたと言われていますが、そこに登場する(映画、監督?)、私たちの仲間が作るものですから、あまりこう良いことは言いたくないんですが。これは、ある評論家も言っていますけれども、≪最近は映像がほとんど社会とのつながりを失っている≫と。

で、じゃぁ、おまえはいったいどの辺に位置している男なのかということで、自分でちょっと説明をいたしますと、日本にはだいたい商業映画の流れと、それから、ご存じと思いますが、独立プロのの流れというものがありまして、独立プロの第一次、第二次、第三次まであります。

第一次は、みなさんもご存じのように、主に左翼系の監督たち山本薩夫さん今井正さん、家城己代治さん、その他のみなさんが頑張って一時期、戦後頑張られた時期。

それから、ここは藤沢でありますが、第二次独立プロの時代は、ヌーベルバーグ大島渚、 吉田喜重篠田正浩たちの、このころは、フランスの方でも、ヌーベルバーグがありまして、日本の方がまねをしたのかもしれませんが。まぁヌーベルバーグという、第二次独立プロと言う時代がありました。

ここまでは映画の制作費用は、ほとんど会社からでる。大島さんに言わせると、「会社を騙して作った。」これを彼は会社を≪犯す≫といってますが。そこまでは映画の制作費は、そう言う時代がありました。

こんどはその次ぎに、70年代第三次独立プロというふうになってきます。
これはみなさんご存じのように、同輩をあげますと、亡くなりましたけれど三里塚というあの大空港闘争を、延々と8年間も現地でとり続けた、<A HREF="小川紳介 、これが、第三次独立プロのまぁ看板であります。

※参考小川紳介

もうひとり私の同士、土本(典昭)という人が、水俣病にかかりまして、えーと、最近病気だと言うことをきいたんですが、これも地をはうように、12年も13年も水俣に取りかかると。
私はたまたまいろんな事もありましたが、自分の出生も兼ねまして、被差別部落に、だいたい7年半~8年ぐらいカメラを持ち込んだというふうな、そういう第三次独立プロのグループの中の一員と言うことであります。

この第三次独立プロからは、全部映画の資金も自分たちで作るというふうなのがこの特色でありまして。
最も、これは三里塚の映画にお金を出す企業というの全くいわけでありまして。70年から80年で、だいたい第三次独立プロというのは、みなさん年を取られましたし、収束していって、今のような、ちょっとこう、何とも言えないような、映画の世界が生まれてきて、その中で社会とのつながりを失った映像作品がいっぱいあるんでしょうが、ここで、「拉致問題の映画を撮るぞ」いうふうにと申し上げると「ん?」というふうな形で考えられるという現状であります。

でも、今私がそういう風なことを言ったのは、<映画をやり>ものには、いろいろありまして、家族や救う会のみなさんが命をかけてこれをやっていらっしゃるように、作家というのもですね、自分の作品には命をかけているんです。いや、かけてない奴がいっぱい多いから「ん?」という目で見られるんだと思うんですが、作品だってですね、良い映像をつくろうという人間は、それなりに覚悟をして望む者だと言うことを、判っていただきたいと思います。

で、まぁ、具体的なことですけれども、私がこれをやろうというふうに思い始めましたのは、福岡のほうですね、毎年一回デモがあります。そこに参加したときに、九州中の救う会の幹部の人たちが集まっていて、あとの懇親会のようなところで、「映画が欲しい」と。

私は、非常に、自分たちでお金を作るというのが、どんなに難しいかというのを、ちょっと知っておりますので、なかなかそこで「うん」とはは言えなかったんですけれども。

その後山口県で、県議会の中に拉致議連とうのができまして、そこの世話をしている人が、例の安倍晋三総理大臣の(言葉は下品ですが)選挙区で現金を握っている人という関係もありましてですね、そこで一生懸命、協力もしてもらい、はっぱをかけられる中で、「よし、この映画、やるべし」と。「資金作り難しいのはわかっているけど、やろう」と、それが、去年の2月から3月ぐらいの話です。

そういうわけで始めましたけれども、そのころの私の危機感は、政府認定の家族会のみなさんと、さっきお話のあった調査会のほうの未認定者(特定失踪者)がどっかで区分けされて、16人のみなさんのことだけであとはおしまいと言うことになるのではないのかという非常な危機感がありましたので、、『そうはいかないよ』という映画をつくるということで、拉致議連のみなさんと話をしながら、そのためにはどうしても、調査会の荒木さんのお話を聞かなくてはいけません。

荒木さんとは、映画をやりたいから知り合ったのではありません。映画の話の前から、荒木さんの本を読み、私も又本をお送りして、お互いがお互いの本の読者として交流がありまして、その中で、私は彼を盟友だと思っておりますが、そう言うことがあったので、「では相談しよう」ということになって、荒木さんに相談をし、こんどの映画のシナリオは荒木さんと共同で考えると言うことで、大変忙しい彼を、もう再三再四にわたって襲って、時間を奪ってですね、いまだかって完成しておりませんが。

荒木さんは、良い意味ですが、何をやらかすか判らん人です。
ですから私たちはこの拉致問題が、どう転がっていくかというのを、なかなかシナリオが端的にかけないんですね。で、もう、撮影に入る寸前までラストがかけない。何が起こるか判らない。

荒木さんも「何が起こるかわかりませんよ」とおっしゃるんでですね、そこんとこだけ、ラストがまだ決まりませんが、彼に食いつきながら、彼の意見を聞きながら、ラストは撮影直前に決めたいなーというふうに思っています。

ただですね、映画は、私たちは、劇映画ですから、≪後追いだけ≫では意味がありません。こうなって、こうなって、こういうふうになりましたということを、改めて劇にしたってそれは意味もないんでありまして。

映画はたとえばドキュメンタリーであり、劇映画であれ、『未来を予感するもの無ければならない』というのが、私の持論であります。

従って、私も荒木さんに負けないように、彼がいかなるどういう行動を起こそうといえども、俺たちの方にもやる気があるぞというふうな映画を考えています。

ただ、まぁ、制作資金の全くめどが立っていないのが、玉にきずでありまして、そっちの方、今鋭意いろいろと手を尽くして努力してる最中です。そういうことで、ご報告を終わります。宜しくお願いします。

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