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2007年2月18日 (日)

増元照明さんのお話(1)

和光市集会(1)

北朝鮮に拉致された日本人を救出するための4市協議会・講演会

07.2.11 和光市民文化センター・サンアゼリア小ホールにて

『増元照明さんの訴え その1』

~~拉致から29年 家族の思い~~

みなさんこんにちは。
ただ今ご紹介をいただきました、家族会事務局長の増元です。
非常にプライベートな事ですが、お騒がせしております。
最初、このところ暗い話と言うかあまりいい話が無いもので、フライデーの親しい記者に「是非掲載させていただきたい」といわれまして、それじゃしょうがないかなと思ったんですが、まさか新聞があんなに反応するとは思ってなかったんですね。
新聞・テレビがあんなに反応されるとは思っていなくて、ちょっと今町を歩けない状況に陥っています。
申し訳ありませんでした。

今とにかく、ご紹介いただきましたように、私たちは今年こそはと言う非常に強い思いを持って動いております。
昨年の1月警察の漆間長官が「今年は拉致の勝負の年である」というふうに1月の年頭の挨拶で言われました。
その言葉を受けて我々も期待はしていたんですが、結局前半は小泉総理の下、経済制裁を科す時期を中々逸してしまいまして、北朝鮮のミサイル発射まで日本独自の経済制裁を出すことが出来ませんでした。
ただ、一昨年から行なわれているアメリカの製剤制裁、これに北朝鮮が異常な反応を示してだいぶ政権が揺らいでいるという話を聞いておりましたので、ここで日本が単独で経済制裁をすれば、もっと北朝鮮の体制が揺らいで、そして私たちの家族を取り戻す時期が早まると思っていますので、昨年は多少期待していたんですけれど、結局何も起こらずにここまで来てしまいました。

でも今年は安倍さんが昨年の9月総理になられて、すぐ対策本部を立ち上げられました。
そしてご自身が本部長になり、官房長官は拉致問題担当兼任大臣となり、そして対策本部の副部長。
そして中山恭子さん、非常に外交官として有能な人でしたけども、彼女の事を北朝鮮サイドはなんと言ったか?
私たちはこれは救う会の佐藤会長から聞いたんですが、「日本にもまだあんな外交のプロがいたのか?」と非常に北朝鮮サイドから評価された女性であります。
あんな完璧に、ジェンキンスさんのことに関してもそうですが、完璧に完膚なきまでにやられてしまったというふうに北朝鮮サイド側は中山恭子さんを評価し、そしてその年の9月に結局辞任に追い込んだというか、どこから来たのか分かりませんが。
とにかく北朝鮮からの評価があったゆえに中山恭子さんの参与の立場から、日本政府は離さざるを得ない何らかがあったのではないか?と私は思っています。

それは飯島秘書官と朝鮮総連の責任副議長の間からも考えられます。
強いパイプの下に朝鮮総連からそのような話が行ったのかもしれない。
私は中山さんの辞任というのは非常に不可解な辞任でありますし、いまだに納得しておりません。
でも中山さんご自身がこの事を多く語らないので、私たちは想像するしかないんですが、その方が首相補佐官として拉致問題担当そして対策本部事務局長になられて、今本気で北朝鮮にいる私たちの家族を取り戻そうとしているその姿勢は評価しておりますし、この組織がもっと固まればさらにスピードアップされるのではないかと言う思いをしております。

私の姉、るみ子は1978年昭和53年に拉致されました。
当時は本当に何も分からない状況、何がなんだか分からない状況で、一緒に暮らしていた家族のしかも中心になっていた姉がいなくなったものですから、家族は狼狽しそして悲嘆に暮れたんです。
私もすぐ上の姉でしたので、本当に愛してそして可愛がってくれたので、その姉がいなくなったことが自分の中でまだ納得できず、一年くらいはぼ~っとした暮らしをしておりました。
人間と言うのはなぜ真面目に暮らして、そして本当に明るく暮らしていた姉がそのような事件に巻き込まれるのか?
突然にいなくなるような事になってしまったのか、自分の中で納得できないし、咀嚼できない。

そういう状況がずっと続いて苦しい思いをしてきておりましたが、それが1年半後の阿部さんと言う産経新聞の若い記者の地道な取材により、北朝鮮による拉致の可能性が高いという事を言われました。
しかし、そのときでも半信半疑ではあります。
当然北朝鮮がなぜ、私の姉は全く北朝鮮を批判しているわけでもなく、北朝鮮サイドにとっても何の利益にもならない事務員でしたから、そんな人間をなぜ拉致するのか?
全く理由が分からずに半信半疑でありましたが、1年半、全く状況が分からずどこにいるのか分からないよりも、北朝鮮に拉致されていると言う情報があるだけでも、家族にとってはまだいいんです。

これは本当に矛盾した形なんですけども、北朝鮮が拉致しているのであれば、むやみには殺さないだろうし、そして生きていれば必ず会えるというその思いで、いくらかの光明を見出した。
そういう思いを強くしながら徐々に徐々に半信半疑であった北朝鮮による拉致を、自分の中で北朝鮮に姉はいるんだという思いに変えていった。
それが決定的になったのはやはり1987年の大韓航空機爆破事件で、88年に金賢姫が証言したリ・ウネの存在でしょう。
あのときにアベック3組の女性。
奥土祐木子さん、浜本富貴恵さん、増元るみ子、この3人の中の誰かでは無いか?ということで、一斉にメディアが騒ぎ始めました。
あのときに確実に北朝鮮は私たちの家族を拉致しているという確信を得ました。

で、その時何を思ったか?
やはりそういう北朝鮮と言う国ですから、私たちの姉の存在を日本で騒げば騒ぐほど、北朝鮮は当時拉致はでっち上げだと拉致などしていないというふうにずっと言い続けていたので、ですからこちらが騒げば姉の身に危険が起きるという非常に怖い思いで、1週間くらいを騒動の中におりました。
早く沈静化して欲しい。
その思いで1週間を暮らしました。
その時すでに私は北朝鮮に拉致されているんだというふうに思っておりました。

ただ、その姉を救出するためにどう動けばいいのか?全く分からず、あまり騒がない方がいいという話もされておりました。
騒いだら向こうで殺される可能性もあると感じておりましたので、きっと日本政府の救出の手をじっと待つ状況が続きました。
それもまた10年経って、1997年横田めぐみさんの拉致が明らかになって、初めて家族会が結成されるまで私は19年間、姉の事は一日たりとも忘れておりません。
ただ、一日の中で仕事をしながら自分の生活もしながらやっておりましたので、姉の事を忘れる瞬間もありました。
ただ、一日も忘れた事はありません。
どこかで姉の事を必ず思い出してしまいました。
そうすると心の底から笑う事が出来なくなっている自分に気付きます。

19年間、結局自分が積極的に姉を救出しようというその動きを出来なかった、して来なかった事が、ずっと自分の負い目になって。
19年間の空白、私たちがずっと我慢をして来た19年間が、全く無駄だったという事が家族会を結成して分かりましたので、それ以降は私たちが出来る限りの事はやっていかなければならないと思っております。
19年間の負い目、姉を救出したときにはおそらく私は姉に謝らなければならないと思っています。
19年間もっと早く動いていれば、もっと早くに救出できたかもしれない。
でも動けなかった、動かなかった自分を姉に対して謝らなければならないというふうに思っています。

1997年家族会が結成以降、政府にいろいろ働きかけましたけれども、結局日本政府は何もしていなかったし積極的に拉致被害者を救出しようとする姿勢は見えなかったのが、私たちに徐々に怒りを増幅させる結果になりました。
1988年に参議院の予算委員会の中で、当時の梶山静六国家公安委員長が、北朝鮮と言う固有名詞を出して、そして拉致の疑いが濃厚であるといった6件9人、当時は6件9人です。
を、はっきりと明言したにも拘らず、メディアはその後追いをせず、政府も彼らを救出するために何の動きもしていなかった。

1990年に金丸さんが訪朝されました。
そして日朝国交正常化のための日朝交渉がはじまりましたが、その日朝交渉の中でさえ9人の名前を北朝鮮にぶつけていません。
4回目くらいの交渉の中で、ようやく埼玉県警がリ・ウネは田口八重子さんだと公表をし、そしてその時初めて拉致被害者リ・ウネ、田口八重子さんを知らないか?と北朝鮮にぶつけた。
これが日本政府だったんです。

6件9人は認めています。
6件9人は認めておりながらも、一回目の交渉から6件9人の名前を相手にぶつけることも無く、国交正常化の話をずっとし始めていたんです。
そしておそらく私は埼玉県警の勇気ある判断だと思いますが、外務省にも報告をするときにも田口八重子さんと言う名前を単独で出した、公表した。
これは外務省が先行する日朝国交正常化の流れをどこかで止めたいという、警察の思いがあったのでは無いか?と思っています。

その当時外務省が、埼玉県警の捜査に対し何を思っていたか?
日朝交渉に当たって非常に障害になると思っていた外務官僚が大勢居たという事を、私は後々聞いています。
外務官僚、すなわち国外にいる邦人を守るべき外務官僚が、日本から拉致された日本人を全く守ろうとするときに、国交正常化を優先しようとしたという事。
こういう流れが私たちにとって、本当に28年も結局は家族を取り戻せない状況が続いているわけです。

今埼玉でも上映されているかもう終ったか分かりませんが、「めぐみ 引き裂かれた家族の30年」という映画が上映されて、ご覧になっている方もいらっしゃると思いますが、私が森総理のときに土下座をしたのはあの官邸で土下座をしたんですが。
森総理のときにも日朝の国交正常化を優先し、国交正常化をなそうとした流れがありました。
当時平沢勝栄さんが、確か旧(拉致)議連の事務局長か何かだったと思いますが、平沢勝栄さんの肝入りで中川秀直、時の官房長官が家族会に会うという話があって、そして官邸に家族会が赴きます。
その時に森さんがたまたまその場所の近くを通りかかって家族に会うという設定になりますから、それでも総理が会っていただけるのでお会いしましょうという事で全国から集まったんです。

集まって、前日に佐藤会長の方から現状報告を受けたんですが、どうも森内閣のうちに森内閣のうちに森さんは、アメリカで、ニューヨークで開かれたんですかね。
北朝鮮のパク・エイナム(?)と思いますが、彼と密かに会って、そして日朝国交正常化の流れを作って、さらに森総理自身が北朝鮮・平壌に飛んで金正日と会って、日ソ共同宣言方式で日朝の国交正常化の流れを打ち上げると。
その前に家族会と会って、会ったというアリバイを作って、そして出口論が当時は多かったんです。
国交正常化をしてから北朝鮮に拉致された人たちを解放してもらえばいいじゃないか?
国交正常化をしてから彼らを捜せばいいじゃないか?
人が自由に出入りできるんだから、そうすれば彼らを取り戻すことが出来るという出口論を、共産党や社民党を中心に流れていました。
で、森さんもその方向で動いているという事を、我々はこれは本当のことか分かりませんでしたが、佐藤会長からはそう言われました。

ですから、私たちと会うのはアリバイ。
結局、会って家族の気持ちを聞いた。
でも上で平壌に飛んで国交正常化を成し得ようとした流れを聞いて、私たちはこれは絶対に止めなければならない。
もし、家族を取り戻す前に国交正常化なんて事をやられたら、私たちの家族の命はもう彼らの手によってすべて抹殺される可能性のほうが高いと思っておりました。

それは当然です。
彼らの存在が日本との国交正常化のための餌になろうとすると、国交正常化をして日本から多額の金が流れていけば彼らはいる必要が無いですし、北朝鮮はテロ国家としてアメリカのリストに乗っていますが、それを解除されたい。
アメリカのテロ支援国リストの中に入っている北朝鮮の名前を排除したいという思いでずっと言っていましたので、北朝鮮が日本人拉致を認めるという事は、テロ国家であるという事を証明するわけですから、それだけは出来ない。
ですから国交正常化さえしてしまえば、人質のような日本人拉致被害者の存在はいらないという事になります。
ですから彼らをおそらく抹殺する動きになっていたと思います。

実際帰って来られた5人の方に聞いた事があるんです。
「あなた達が帰ってくる前に国交正常化なされていたらどうなっていましたか?と言ったら、「自分たちはお山に行ったでしょう」と言うふうに5人ともそうやって答えられております。
それほど北朝鮮の国内の状況と言うのは厳しいものであり、それを全く分かっていない日本の政治家や日本のマスメディアの方たちが、国交正常化優先と言う流れを作ってしまっていた。
だからあの時は非常に危機感を私は持って、とにかく森総理の言質を取らなければならない。
国交正常化より拉致被害者の救出を優先させなければならない。
その言質を取らなければならないと思って、カメラの方列の中で何らかの衝撃的な行動を取らないといけないというのが、前の晩に集まった家族の合意事項だったんです。

ただ、皆さんやはり両親の世代とか、浜本さんはご兄弟ですがそれでもだいぶ高齢の方で、どうしてもお偉いさんの前に出ると「よろしくお願いします」と言うふうになるんですね。
心の中では怒っているんですけども、やはりあの世代は礼儀正しい方ですから、どうしても「よろしくお願いします」となるんです。
あの方たちにそのような事をさせるわけには行かない。
結局話し合いの中で、一番若い増元さん何かやってくれないか?という話になりまして、私もどうしようか?と思ったんですが。

一応総理と会う前にはカメラがば~っと並ぶんです。
でも最初の冒頭の挨拶だけでカメラを全部引っ込めて、そして話をするんですが、カメラのいる中で何をやればいいのか?
机を叩いて森総理に強く抗議をするのを出すのか?
それともやはり究極のお願いである土下座の姿勢でお願いをするか?
この二者を選んで最後の最後まで悩みましたが、結局私も普通の一般市民な者ですから、そんなに総理を批判するわけにはいかない。
土下座の方を選びました。

でも必死の思いでした。
家族の命がかかっているそのときでしたから、私自身も非常にカメラの前で官邸で土下座をするなんて自分でも出来るのかな?と思いながら、その場に行ったんですが結構すんなり出来ました。
びっくりしました、自分でも。
ただ、言っている事は緊張のあまり今でもハッキリと何を言ったか覚えていないんですが、映画を観ているとそんなに明確な言葉ではなかったと思います。

・・・その2に続く・・・

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