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2007年4月 6日 (金)

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の詳言】(3)祖国解放

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】(3)祖国解放

http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070405/kra070405002.htm

 ~~Sankei WEBより、記録として保存~~

 黄長燁・元朝鮮労働党書記は、日本統治下の1922年、現在の北朝鮮・平安南道で私塾を営む一家に生まれた。苦学して日本の中央大学に学ぶが44年、朝鮮に送還されて徴用工として終戦を迎えた。祖国が解放されたが、喜びより将来の国の行方を心配したという。混乱の中、人々の前に現れたのが、対日パルチザン闘争の英雄「金日成将軍」だった。(ソウル 久保田るり子)

座ったまま眠る

 「私は平壌にあった5年制の商業学校に学んだ。数学や物理学に興味があったが、色盲だから理工系には適していなかった。4年生のとき『このまま一生、人のカネを勘定するのか』と面白くなくなり商業学校もいやになった。苦学すれば日本留学ができると知り、(現在の東京都千代田区にあった)中央大学法学部の夜間部に進学した」

 「東京・神田の『主婦の友社』の隣に3畳の部屋を借りた。(現千代田区)九段坂の食堂で玄米ご飯とみそ汁が20銭だった。朝早く(同港区)芝浦の労働者が集まる事務所に行き、トラックに乗って荷役をすれば1日6円稼げた。船積みで1回だけ10銭もらったこともあった」

 「奨学生試験に落ち、授業は面白くなく、朝から晩まで図書館で自習した。哲学から自然科学書、儒教から宗教と手当たり次第読んだ。1日1回しか食べなかった。6カ月間、生米だけ食べたこともある。夜も座ったまま、平壌から持ってきた厚い木綿の布団をかぶって眠った。人生観をつかみたかった。人はなぜ生きるか。私の学問の出発点だ」

 「日本は滅びると考えていた。天皇中心制は必ず失敗し敗戦は疑いないと思っていた。だが、日本人の友人や個人的な関係では日本に対し悪い感情はなかった。苦学していれば労働でいろんな人に会う。ほかの人が盗んだミカンをくれたので、私も食べた。日本人の親方が来て皆のほっぺたを殴ったが、それでおしまいだった。さっぱりしたものだ。私の引っ込み思案の性格が完全になくなったのは、あの労働生活の収穫だと思う」

 「ある朝、警官がやってきて徴用で朝鮮に送るという。下関まで汽車で行き、小さな留置部屋に詰め込まれ、連絡船で釜山に帰った。私は(現韓国東部)江原道三陟(サムチョク)のセメント工場に送られ、徴用工として1年6カ月間働いた」

「将軍は偽物だ」

 「(1945年)8月15日、日本が降伏した。(玉音放送の)ラジオはよく聞き取れなかった。朝鮮は独立した。その翌日、三陟市内では大衆の集会があった。行くと白い服を着た朝鮮人がたくさん集まって『万歳』を叫んでいた。工場でも従業員を集め、会議を開き友人らが演説をした。私はただ聞いていた」

 「そのときの気分というのは、喜びというより心配が先に立った。『このように命を拾ったが、これからどうするのか』と。人々はしきりに『米国についていくべきか』とか『貧しいわれわれはソ連を模範にすべきだ』などと論争していた。私は、なぜ米国なのか、なぜソ連なのか、“他の国の服”を借りる必要があるのかと考えた」

 「10月14日、金日成将軍が運動場に現れて演説をした。(『金日成将軍』という名は、抗日パルチザン闘争での英雄として当時の朝鮮半島では有名だったが)多くの人が『あれは偽者だ』『若すぎる』と言っていた。私は関心がなかった。広場にも行かなかった」

ヨブ=火へんに華

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