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2007年4月 8日 (日)

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】激動の70年代

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】激動の70年代

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】激動の70年代

 北朝鮮の金正日総書記は、1974年党中央委員会第5期第8次全体会議で政治局委員となり、金日成の後継者の地位を確実なものとした。70年代は、日本赤軍による「よど号ハイジャック事件」などで、日本国民が北朝鮮を意識した時代だが、同時期に北朝鮮が密かに日本人拉致を続けていた。(ソウル 久保田るり子)

世襲反対なし

 「70年代以前から金日成の金正日への偏愛は目立っていた。金日成は人間的には俗物なのだ。当時の北朝鮮の要職は、知識水準の低いパルチザン(ゲリラ)出身者で占められ、高いポストにつけるだけで感謝し、金日成に異議を唱える人物などいない。世襲に公式に反対するものは1人もいなかった」

 「(金日成の出生など)神話作りは70年代から金正日が始めた。党中央の歴史研究所が担当した。金正日は神話作りで金日成への忠誠心を示した。金日成は自分の経歴を公開しなかった。抗日ゲリラ闘争などの歴史が偽造された」

 「(よど号で北朝鮮に入った日本赤軍は)対南工作の統一戦線部が担当し、手先として利用することを考えた。日本人拉致も対南工作だ。日本人だけでなく、いろいろな国から拉致し、利用するため配偶者も求めてやることが必要だった。彼らの身分を使って日本を迂回(うかい)して南朝鮮(韓国)に工作するため、彼らを日本に送り、そこから南朝鮮に入らせて地下工作をさせる。そのために、教育が必要だった。対南工作では、地下党を組織することが重要で、他の国の国籍を取得する必要があった。こうした工作は北朝鮮の独特のアイデアだ。金正日が得意になってやっていた」

信用度基準は宴会

 「当時、私は金正日(母は金正淑)の異母兄弟(母は金聖愛)を金日成総合大学で教育していた。金平日、金英一、金敬珍(女性)だ。金平日は頭もよく人民への思いやりもあった。金正日は平日を警戒し、誰とも握手できないようにしていた。平日はその後、フィンランド、ポーランド大使に出た。(亡命後)私は手紙を送ったが、返事はない」

 「金正日の妹、金敬姫は金正日と同じ型の人間で、だれのいうことも聞かなかった。実母の金正淑に似ているという話だ。金正淑は夫婦げんかで、金日成にピストルを突きつけたほどの女性と聞いている」

 「金正日は主体思想を『金日成主義』と名付けた。別荘を建て、自分の基盤を強くするための宴会を開き、側近を集めては外貨を浪費した。私は酒も飲めないのであまり行かなかったが、他の人は宴会を信用度の基準と考えた。金容淳(国際担当書記で日朝関係担当、故人)は宴会でよく踊り歌った。イタリア民謡が得意で、彼がいなければ、パーティーが面白くなかった。金正日は金容淳をけなし、よく罵倒(ばとう)したが、のちには許した。外交に優れた人だったが、へつらいが目立ち、同僚に憎まれた」

(2007/04/08 )

Sankei WEBより

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