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2007年4月 8日 (日)

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】理論書記時代

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】理論書記時代
 

【北北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】理論書記時代

朝鮮戦争(1950~53年)後、北朝鮮は金日成主席による「政敵粛清」と社会主義革命の建設に邁進(まいしん)する。そのなかで「主体思想」を理論づけした黄長●氏は学者として重用され、出世していった。突然失脚の危機に見舞われたが、黄氏は金日成に頭を下げることで生き残った。黄氏には、秘めたる野心があった。(ソウル 久保田るり子)

主体思想」に肉付け

 「私は49年秋、モスクワ総合大学哲学研究院に留学することになった。朝鮮戦争前のソ連では通常、朝鮮人は『日本のスパイだ』と総合大学に入れない時代だった。朝から夜10時半までぶっ通しで熱心に勉強した。金日成の弟、金英柱が党の責任者としてモスクワに派遣されており、彼が私を学生委員長に推した。私は『政治には不向きだ』と言ったが、金英柱には、私に野心がないことが良かったのかもしれない」

 「朝鮮戦争が起こった。同じ民族が戦うことに疑問はなかった。南朝鮮(韓国)は資本家が支配しており、階級闘争の理論で攻撃するのは革命であると考えた。ただ、『負けるのではないか』という予感もあった。中国の共産主義の勝利をみて金日成はソ連と中国にねだって戦争を起こした。しかし、私は『成功のあとを追えば反撃に遭う』と考えた」

 「私は(ソ連)留学で学問的知識に自信を持ち、53年秋に平壌の金日成総合大学に戻った。金英柱たちが私を金日成の理論書記に決定した。主体思想は50年代後半に金日成が言い出した、ソ連の隷属から独立するという考えだ。マルクス主義を朝鮮の実情に合うようにしただけで何も新しい思想ではない。私が理論的な衣を付け整理し、論文集も書き直した」 

 「中ソのイデオロギー論争が激化するなか、60年にモスクワで1カ月にわたる81カ国共産党会議が開かれ、私は理論顧問として参加した。65年に私は金日成総合大学総長になった。42歳だった」

 「ところが、総長として書いた論文が修正主義的と全党的な批判を浴びた。資本主義国家では想像できないだろう。党中央委員会で幹部に、金日成が私を批判した文書が回され、自己批判する。生きた心地はしない。完全に孤立し、批判は2年間続いた。失脚を覚悟した」

 「金日成から電話がかかってきた。『朝鮮革命は完成していないのに、なぜ、抽象的な理論で世論を騒がせるか』という。私は『恐れ入ります』と受けいれた。なぜ許されたのか、分からない。ただ、私はそれまで本当に金日成を支持していた。だが、事件と中ソ論争を通じてマルクス主義の誤謬(ごびゅう)、民主主義と独裁との関係を深刻に考えた。私の『人間中心の哲学』はその苦悩から生まれた。主体思想には哲学的な原理がなかったから金日成は喜んだ。当時の金日成は確かに自信にあふれ、よく働いた。私はマルクス主義との決別を決心した。何とか、この社会主義の誤った方向を和らげたいと思った」

●=火へんに華

【中ソ対立】 1956年2月、ソ連共産党第20回党大会でフルシチョフ第1書記(当時)が行ったスターリンを批判する秘密報告「個人崇拝とその結果について」を機に、スターリンを偉大な革命家ととらえる中国共産党との間でイデオロギー対立が表面化した。中国はソ連の平和共存政策に象徴される政策や理論を「修正主義」と批判し、ソ連技術者の中国からの引き揚げや国境での武力衝突へと発展した。中国が改革開放に転じた後の80年代に入って政府間交渉が始まり、89年5月にゴルバチョフ書記長が最高指導者として30年ぶりに訪中、和解が成立した。

Sankei WEB2007年4月7日朝刊より

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