« 【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の詳言】(3)祖国解放 | トップページ | 飯塚耕一郎さんの訴え(大宮) »

2007年4月 6日 (金)

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】共産主義社会

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】共産主義社会

http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070406/kra070406000.htm

  ~~Sankei WEBより、記録として保存~~

 日本の敗戦とともに朝鮮半島の日本統治が終わった。なお学問を続けたいという希望を抱いていた黄長●氏は、解放直後の首都ソウルにも行った。しかし、混乱がひどく、黄氏はわずかに滞在しただけで、平壌に戻る。こうしたなか、日々の暮らしの生活向上や統率を掲げて人々の前に現れた朝鮮労働党は、植民地時代と戦争の荒廃に疲れていた北朝鮮の住民に浸透していった。(ソウル 久保田るり子)

太極旗振りながら

 「様子をみようと1945年8月17日か18日、(徴用され働いていた現韓国東部江原道三陟のセメント)工場の労働者たちとトラックに乗り、太極旗を振りながらソウルに向かった。トラックには工場でわれわれを監視していた朝鮮人の刑事も乗っていた。それで仲間内で『あいつは朝鮮人なのになぜわれわれに敵対していたのか』という声が上がり『松林で刑事を殺してしまおう』ということになった。われわれの武器はナイフだが、刑事はピストルを持っていたので、(日本に従った刑事を殺すという)“抗日闘争”は実現しなかった」

 「(トラックで乗り込んだ)ソウルは混乱していた。私は8月20日に両親がいる平壌に戻った。23日には南北分界線(北緯38度線)を越えるのは自由でなくなってしまった。私は勇敢ではないから突破しようという積極性はなかったし、何より老父母がいた。行くところもないので母校の商業学校を訪ね、教師を始めた」

 「日本の軍隊に行ってきた大学生などは、日本の武装解除に動員され、威張っていた。平壌を占領していたソ連兵士は囚人部隊で規律などなく、話にならなかった。泥棒や婦女暴行は公然で、用心棒がいなければ一人では歩けなかった。のちに部隊は交代した」

一大転機

 「私の学校に毛沢東の根拠地、延安の朝鮮人部隊で独立運動をしていた人たちがやってきて、その一人が校長になった。校長が私にしきりに党(朝鮮労働党)に入れという。これからは党に入らなければ教師もできないという。46年11月16日入党した。2カ月後には学校の党書記になった。学校で2番目の地位だ。毎晩、区域党の会議に出た。集まりでは『ネズミをどういう風に取る』『火事をどう防ぐか』などを夜明けまで討議した」

 「教師は『知識分子』だから(共産主義については)自習するようにいわれた。私は区域党の命令を不平を言わずに伝達し、『積極分子』になっていった。ロシア語の講習会も作った。私は信用され、学校の党書記として認められて、党中央委員会の学校で勉強するよう推薦された。これは一大転機だった」

 「大衆は土地の没収に反対していた。共産主義社会には恐怖心も持っていた。私も半分、疑問を持っていた。利己主義もなく自分のためでなく、能動的に働けるのだろうかと。しかし、彼ら(党員)は、しきりに労働の質と量に従い配給、待遇も違うと宣伝した」

 「市場には新しい品物がたくさん出ていた。私に『日本人が悪い』という考えだったから、これから植民地の貧しい生活とは違う、皆が一緒に働き、裕福になるのだという未来があると思った。開放とは重しがなくなり背が天に伸びるようなものだ。それが実感だった」

●=火へんに華

(2007/04/06 )

|

« 【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の詳言】(3)祖国解放 | トップページ | 飯塚耕一郎さんの訴え(大宮) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の詳言】(3)祖国解放 | トップページ | 飯塚耕一郎さんの訴え(大宮) »