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2007年4月 3日 (火)

まず、ベトナムを考える

蒼き星々掲示板メインボードより

燕山の声さんの投稿より
まず、ベトナムを考える

 
  投稿日: 3月31日(土)
 
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  【ベトナム戦争と日本人】
「また戦争が始まったのう・・・」と親たちが話していたのを覚えている。私が幼稚園の頃の記憶だ。太平洋戦争の終結からまだ20年足らず、朝鮮戦争から10年、当時は「また始まった・・・」と感じるくらい、戦争の記憶がまだ生々しく残っていたのだろう。私の小学校時代はベトナムのニュースといえば戦争だった。ベトコン、北爆、テト攻勢、ベ平連などの言葉は小学生でも知っていた。その戦争が終わって30余年たつ。

対仏独立戦争(第1次インドシナ戦争)に続く対米戦争(第2次インドシナ戦争)が終わり、北軍がサイゴンを占拠、国家統一を果たした後もベトナム人たちはしばらく西側の援助は受けられず(もちろんアメリカは論外)、カンボジアに侵攻して世界から孤立し中国の侵略とも戦い(第3次インドシナ戦争)、戦争で荒れた国家基盤を苦労しながら整えていった。社会主義計画経済の挫折から、全方位外交と市場経済を二本柱とするドイモイ路線に転じ、旧ソ連の影響を抑え、中国、米国とも国交回復した1990年代半ば頃から経済は急速に発展し、今では周辺のアジア諸国とさほど変わらない、まだ決して豊かではないが平穏な自分たちの国を、ベトナム人たちは手に入れた。

最後の宗主国ソ連(ロシア)との関係は今も残るが、政策的影響は殆ど無い。ドイモイ政策で経済が急速に成長する中で、昨年度のベトナムの最大の貿易相手国はかつて殺しあった米国と中国、ついで日本と韓国だ。米国との経済関係は今、貿易摩擦が生じるほどの"深い仲"にある。その対米貿易をウラで支えているのが、かつて難民(ボートピープル)として国土の赤化占領から逃げ出した越系米国人(越僑)たちだ。時代は変わった。今もベトナムは共産党一党独裁体制であり、最終目標が社会主義国家建設設にあることに変わりはなく、目標達成の方便としてドイモイという市場経済政策を一時的に取り込んでいるにすぎない。

しかし、社会主義体制だろうがドイモイだろうが、そういう政治体制の前に、ベトナム人はいつもベトナム人だったとういうこと、対米戦争に限らず抗仏独立戦争時代も対中紛争でも、彼らは彼ら自身であろうとして大国の思惑に抗ってきた。古くは秦・漢への反乱に始まり二千年以上も続いてきた民族独立への戦いと執念。対米戦争でも彼らはアメリカ人が憎かったのではなく、ただ自分たちの国家が欲しかったのだ。長い戦火の記憶は薄れてしまったかのように今は街頭にのんびりとたむろする人たち、一見大人しそうな彼らの気質の中に垣間見る強さとしたたかさ、それが彼らの抵抗運動を支え続けてきたのだろう。

彼らは自分たち自身の国でありたかっただけ、そう思ったとき、今から40年前の日本の一部に線香花火のように一時的に燃え盛り落ちていったベトナム反戦平和運動、あれはいったい何だったのかと考えた。

パリ協定で1973年に米軍が撤退した時私は中学生だった。本来なら喜ぶべきベ平連の事務所が閑散として、小田実が憮然とした表情でテレビインタビューに答えていたのが印象に残っている。彼らはベトナムの反戦平和を謳いながら、ベトナム人の独立へ賭けた思いを何も理解してなかったのだろう。"奴隷の平和"を拒否し民族独立のために抗仏戦争を始めたのはベトミンのほうなのだから「反戦平和」とはむしろ仏帝・米帝の言い分だろうに。本当にベトナム人と連帯したつもりなら、米軍を追い出した後の彼らの建国の苦闘を日本の反戦平和学生たちは何かサポートしたのか、そして今何をしているのか、ジジイバンドで反戦歌のノスタルジアに酔う前に。

ニッポンというタコツボの中にいた彼らは米帝・日帝と佐藤政権を批判したかっただけ、米軍に虐殺されるベトコンや農民たちは格好のダシであり、逆にベトコンに捕まり一族まとめ処刑されるサイゴン市民は無視した。ベトナム人たちは日本のそういうタコツボサヨク運動を知らず興味も示さぬ。タコツボのヌシは対米戦が終わったベトナムには背を向け北朝鮮に入れ込んで腐り、堕ち、廃人と化した、これが、頭から入ったタメにする日本的政治運動ごっこの限界だった。

ベ平連の名を知らずとも、1945年8月15日の敗戦とともにホーチミン率いる抗仏独立闘争に火器弾薬を携えて合流し農民兵を訓練しベトナム独立のためにベトミンと共に戦い散っていった多くの残留日本兵たち「ニッポン・ベトミン」のことをベトナム人は忘れず、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。いま日本の防衛大学校には十数人のベトナム留学生が在籍している。

日本人はあのベヘーレン的視点から卒業できたのか、自らを総括し、変わったのか。世界中からの情報伝達が質・量・機能ともに桁違いに発達した今日でさえ、イスラエルとヒズボラの戦いを、グローバリズムと南米の左派政権の相次ぐ誕生を、反米二項対立構造に帰納して満足する論評が目に付く。しかしプロの社会評論は民青学生のレポートではない、現実社会は正も負も虚数解もある多項対立構造高次方程式であり簡単ラクチンには解けぬ、「民族・国境を越えた連帯」は言うは易しく美しく、行なうは困難で醜い、それは40年前のベトナム戦争当時も同じだったはずだ。

ベトナムの過去を辿り今の姿を見て感じるのは、日本のこと。世界を語る前に、我々はこれまでそして今、如何にして如何なる日本人であり、あろうとしてきたのかということ。私が外地で他民族と接し、しばしば否応無く意識し考え込まされるのは、彼らとの相対化の中で浮かび上がる自分自身の姿、自分の中の日本人の姿と、そのあり方である。それが定まらなくては答えも考えも定まらぬ、式の解はいくつもあるのだから。

【ベトナム戦争とベトナム人】
あの対米戦争は善が悪に、正が邪に、労働者が資本家に、ベトコンが米帝に、社会主義が資本主義に勝ったのではなく、ある意味で、「北部ベトナム人が南部ベトナム人に勝った」のである。南北に細長いベトナム国土の長さは1600km、日本の津軽半島から大隈半島までの距離に相当し、北部(トンキン:東京)と中部(アンナン:安南)と南部(コーチシナ:交趾支那)とでは気候条件だけでなく、住む人の言葉・風貌とともに気質文化が大きく違う。ベトナムは南北二つ、あるいは南中北三つの国でできているといってよい。

対米戦争のさなか、劣悪な条件下で戦いを続けた北軍将兵らを支えていたのは「義務感と名誉」だった。特に決まった作業を一定時間ずっと継続することにおいて北部の人たちは南部よりも優れているという。北軍の兵士は最後の一人になるまで投降しなかったが、南軍は誰かが逃げるとみんな雪崩をうって逃げ始めて布陣が壊れ米軍が大損害を被ることがよくあった。北の気質は南よりも間違いなく戦闘にむいていた。南が米韓の正規軍を直接大量投入したのに、北は中ソからの武器供与だけで足り、そして勝った。イデオロギーによる南北分断は20年間だ。それよりも長い30年間の社会主義統一体制を経た今も南北の差は変わらない、いや、イデオロギー分断のはるか昔から、南北の民族差異は顕著だったのである。

今も進出企業の労務管理の心得のひとつが「サイゴン(南)は給与、ハノイ(北)は名誉」。南は如才なく融通が効き商業に適し、北は官僚的だが精密さを要する機械産業は北部への進出が望ましい。

戦争当時日本のマスコミ等で多用された「"同じ民族"が敵味方に別れ殺しあう悲劇」という表現も恣意的と言える。南部開放の立役者ベトコンは統一後に北の社会主義政府から冷遇、弾圧された。東西冷戦構造の代理戦争の意味合いは確かにあったがそれもひとつの側面に過ぎない、戦いの主体はベトナム人だった。紀元前からさまざまな強大帝国主義を相手に2000年間戦い続けてきた彼らを、20世紀限定アブクのような東西対立構造のコマのひとつに扱うのは失礼である、現に彼らは東西の双璧国相手に冷戦終結後の今も経済戦で"戦って"いるのだから。

この南北の気質差を生み出した背景の一つとして、1000年以上続いた中国の侵略・虐殺が北部に偏っていたことが関係しているかもしれない。

【漢の侵略】
紀元前1世紀、漢からの侵略支配で夫を殺されたチュン夫人は妹とともに蜂起、象部隊を率いて漢軍と果敢に戦うも力尽き二人とも殺された。それから1000年にわたりベトナムは中国歴代王朝の支配下に置かれることになる。その間もベトナム人たちは何度も反乱蜂起するが悉く潰されていく。遣唐留学生で科挙に合格し唐の官吏となった8世紀奈良時代の日本人阿倍仲麻呂も安南総督としてベトナムの反乱鎮圧にあたっている。チュン姉妹は今も国民の人気が最も高いベトナム抗戦史上の英雄であり、ハノイ、サイゴン(ホーチミン)など各地の街路に「ハイバーチュン(二人のチュン夫人の意)通り」の名がある。

【ベトナムの元寇】
ベトナム史上最大の国難は13世紀における元寇であった。宋を滅ぼした元は東海の日本、そして南へ地続きのベトナムへ狙いを定める。日本の元寇は二度だったがベトナムは三度やられた。1274、81年の文永・弘安の役を二度とも嵐で潰されたフビライは日本進攻をあきらめ、標的をベトナムに絞り体勢を立て直し、1287年に三度目のベトナム攻撃を仕掛けた。迎え撃つ越版北条時宗、チャン・クォック・トアン司令官率いるベトナム軍は、首都(ハノイ)を陥されながら巧妙に権謀・術策をめぐらして反撃に転じついに元軍を殲滅・撃退、かくしてチャンは救国の英雄となる。 

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