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2007年4月 1日 (日)

石高健次さん講演-(1)

2007年3月10日、大宮で行われた
日本再生フォーラム 第20回 記念講演会
拉致問題を通して日本のあり方を考える・第9弾

第1部 講演
演題:私は、こうして横田めぐみさん拉致を突き止めた!
~拉致事件を掘り起こしたジャーナリストが語る真実と今後の展開~

上記の講演内容を録音からテキストしましたのでご紹介します。
尚、このテキスト化に当たっては石高健次さんの了解を頂き、ご本人に確認していただき、校正していただいております。

拉致発掘の原点を語るもので、石高さんご本人により丁寧に校正されて、読みやすくなっています。
 
 この中で、石高さんは、原点での政治家の無責任、官僚の事なかれ主義が、拉致解決を阻んできたと語っています。そして日本には牙がない と。
 
 私たちが乗り越えなければならない壁を認識すること、日本が正当な牙を持つべきだ という論を世論全体が共有することが絶対に拉致解決には必要だと思いました。
 
 
 
  みなさん、こんにちは。(会場から こんにちは!の声) 再生フォーラム方に、去年(12月北朝鮮人権週間のとき 参照「映像とシンポジウムで語る北朝鮮」)に、埼玉、彩(さい)の里で幾つかのシンポジウムがありまして、取材にきました。その際の懇親会で、『一回講演で来ていただきたい』という話がでました。『3月だ』と。『だいぶ先の話だなー』とこっちは目先のことに追われる毎日なんで、先のことだなーと思っていたんですが、今年に入って、竹本さんから電話がかかってきました。その電話に非常に力が込められていまして、『これはもう、3月の今日の10日はいかなくてはいけないな』と思って参りました。石高です。どうぞ宜しくお願いします。(拍手)
 
  私は一(いち)ジャーナリスト、一記者ですので、いろんな日本の外交、政治のこと、専門家ではございません。ただ、マスコミの一端におりますので、社会に埋もれた事実を発掘して、不特定多数の人に、それを知ってもらう、そういうことで、もう、32年ほど記者をやってきました。今、拉致問題というのは、厚い壁にぶつかっています。横田めぐみさんの拉致を突き止めて、報道したのが、ちょうど、10年前です。10年経って、まだ先が見えないときに、原点に返ってもう一度考えてみるというのも、大切ではないかと思いまして、その原点で、動かせていただいた私の話が、何かの、みなさんの力づけなり役に立てばと、そういう気持ちで大宮に参りました。
 
  ジャーナリストというのは船でいうと、ウォッチといいますか、ブリッジの上にいて前方周囲を監視する。双眼鏡を用いたり肉眼で見たり道具を駆使して、船が進む前方に何があるかを、しっかり見る役割なんですね。船を操船するのは船長なり機関士がおります。いわば、船長が今は安倍総理で、私なんかは、右の方になにか氷山の固まりがあれば、タイタニックみたいにならんように、『右の方にあるぞ』と言ったり、左の方に、何か、狭い浅瀬があるようだったら、それを知らせる。船長は、うまく船を操って、ぶつからんようにするのが役割。 そんな仕事の中でいろんな偶然から、横田めぐみさん拉致というのを突き止めまして、世の中に知らせたわけです。
 
  それが船長=総理大臣はじめ政治家の知るところになったんですが、未だに先が見えない。めぐみちゃんが生きているのか死んでいるのか、北が死亡と言った8人の状況が全くわからない。向こうには、おそらく100人を超す拉致被害者がいるであろうと思います。彼らも含め、どう解決して良いのかということがわからない。 今日は、拉致問題の発端の最初の話。どうやって、めぐみさんの拉致が出てきたのか、その時の日本の政治、あるいは外務省、警察官僚たちはどうだったのか。その原点の話を、まずさせていただきます。その後、今の状況、これから一体、どうしたらこれは解決できるのかという、そういう内容で、私なりに話をさせていただきます。
 
  世の中が拉致というのをはっきりと認識するのは、2002年に小泉総理が平壌に行って、金正日がそれを認めて、謝ったあの時からだと思います。まず拉致された被害者本人5人が帰ってきて、日本の人は、ほとんどが『あ、拉致というものが本当にあったんだ』というふうに、気づいたのだと思うんです。 実は、私が拉致を頭の中で意識して、これがあるのかないのか。拉致というのは、いったい何のために行われるのかと。全くそういうことがわからない状態で始めたのが、94年なんです。
 
  97年、めぐみちゃんにたどり着くまでは、本当に、<孤立無援>と言いますか、全く誰も振り向かない状態で、取材をしておりました。その一番とっかかりが、91年。日曜朝の「サンデープロジェクト」が、89年に立ち上がって、その当時、特集コーナーのスタッフをしておりました。今は、担当ははずれておりまして、さっき紹介の時に、前に出した本に書いてあったからそういわれたのでしょうが、その点、訂正させていただきます。 まさに、正にこのサンプロがはじまった2年後の91年、最初の北朝鮮による核疑惑というのがおきたんですね。寧辺(よんびょん)というところで、フランスの偵察衛星が、核研究施設を撮って、それを解析をしたら、やっぱり核開発をやっているじゃないかと。
 
  91年にソウルに取材に行きました。何故かと言いますと、その当時、公(おおやけ)に表に出ていました、北朝鮮政府の一番の高官、高英煥(コヨンファン)という、アフリカのある国の書記官だった人が亡命してソウルにいたんです。当時は“脱北”という言葉もなかったと思います。亡命者という言い方をしていました。この人なら何か知っているだろうということで、インタビューに行きました。 これは笑い話のようなんですけれど、非常に極秘で進められているはずの北の核開発というのが、ある部分、秘密が漏れて、口コミで伝わっているという風なことを、彼は言うんですね。科学者たちはもちろん厳重な監視の下に、アパートに住まわせられている。
 
  しかし、家に帰ってご飯食べながら子供にしゃべる。子供がそれを学校でしゃべる。そういうのからどんどん広がっていって、『あ、あそこは、ああいう人が住んでいるんだ』と。そうして広まっていった。さらに、彼が外務官僚として知りうることを聞きました。こういう亡命者を保護管理しているのは、今の国情院、当時の国家安全企画部、いわゆる韓国の情報機関、CIAですね。 そういう人と打ち合わせでメシを喰ったりしたときに、担当者が、ふと、こういう事を漏らしたんですね。『大阪出身で、北朝鮮に渡って、そのあと、亡命して、今ソウルにいる一人の朝鮮人がいます。』 金秀幸(キムスヘン)という十代で、北朝鮮に渡って、仕事をした後に亡命して、今ソウルにいる。『それは一体どういう人なんですか』、と聞いたら、『いわゆる、北朝鮮帰国者の一人だ』と。91年の12月のことです。
 
  “帰国者”というのは、私も、うろ覚えながら、吉永小百合さんの映画、『キューポラのある街』、舞台の川口はここから近いんですよね。その中で北朝鮮に在日朝鮮人が帰って行くシーンがあった。駅で、みんなが万歳、万歳をして、当時“地上の楽園”と宣伝された、北朝鮮に帰って行く。ある家族が、帰るかどうか、迷っている、そういうシーンもあったように思いまして・・それくらいしか、帰国者についての知識はなかったんです。
 
  ここで視聴率調査をさせていただきます。 『キューポラのある街』を見たことある人、ちょっと手を挙げてください。あーやっぱり、四分の一五分の一ぐらいですね。だいたい今手を挙げた人は、50代半ば以上だと思います。(会場笑い) 帰国者という言葉を聞き、初めて北朝鮮の人権ということを意識した。この北朝鮮帰国者が、あとで調べて、9万3000人いる。その中には1831人の日本人妻がいる。日本人夫もいましたけれども。
 
  その帰国者の一人で亡命した金秀幸さんに会って話を聞いた。彼から出てきた言葉ですね。『北朝鮮を理想の地上の楽園と宣伝され、そういう夢を抱いて帰った。そのうち数千人が、行方不明になっている。とんでもない国だ。』と。
 
  その頃は、北朝鮮に関する情報が、あまりにも乏しかったために、どんな国だかわからない。うっすらと、なんとなく地上の楽園とか、みんなが共産主義とか言って、金日成とかいう人が指導しているこじんまりとした国なんだなというようなイメージしかありませんでした。正直言いまして。 10万人の帰国者というのは、100%新潟の港から出港していました。
 
  清津という北朝鮮の東海岸の北の方にある港についたわけですね。その着いた瞬間にこの人は、騙されたと。これはみんなそうだと思います。10万人全部そうだと思います。 当時は、日本いる彼等、在日朝鮮人から見たら、韓国の方が経済的には下の方で、北朝鮮というのは、日本の留学生に、あの当時1950年後半で、一億円、あるいは年によっては二億円というお金が奨学金として送られていた。
 
  今考えれば、当時のソ連、東欧の工業発展による援助によって潤っていただけなんですが。 金秀幸さんが言うには、船が着いて、デッキから下を見たら、ボロをまとった、顔色の悪い、痩せこけた人たちばっかりだった。背景を見たらくすんだ、その灰色の世界で、港の倉庫とか、そういうものが本当にみすぼらしい。これ、全く話が違うと彼は思った。もちろんその時、出迎えのおそらく数百人だったですけれど、北朝鮮の人たちも、騙されたと思ったようだと彼は言いました。
 
  というのは、資本主義の敵国であった日本で虐げられた朝鮮人が、我が金日成首相率いる朝鮮民主主義共和国にきてホッとしていると思ったところが、デッキに見えるみんなの顔色は良い、腕時計はしている、体格は良い、良い服は着ている。これは、どういうことなのか、こっちはこっちで騙されていたと。 そして、下に降りていったら、まぁ非常に奇妙な雰囲気があって、その後は、みなさんが、ご存じのように、とんでもない人権弾圧。文句を言えば銃殺刑にされると。
 
  そういうような国だったんですね。 このことを聞いて、本当なのか、日本へ帰って調べたら、ちょっと前に、正に帰国船を送り出した新潟の朝鮮総連の副委員長だった張明秀(チャン・ミョンス)さん、みなさんお聞きになったことがあると思います。この人の親も兄弟も帰っているんですけど、とんでもない国だと、本で書かれていました。『裏切られた楽土』。
 
  この人がホントに、私が考えますに、北朝鮮という国はとんでもないということを実証で、広く世に訴えた最初の人だと思います。この人の本がなければ、『楽園から消えた人人々』という私の番組はなかった。
 
  張明秀さんの所に飛んでいきまして、いろいろ事情を聞いた。これはとんでもない国だということがわかりました。 在日朝鮮人10万が北へ渡っている。当時の在日はだいたい60万ですから、6人に1人が北朝鮮に渡っているんですね。身内、同級生、近所の人、誰かいる。 それが、その後の、北朝鮮による南朝鮮革命のための対南工作の一環として、日本を中継基地としての工作員活動を容易にしていた。
 
  つまり、帰国者は北の人質だったとわけです。 そんな在日の人のところを回りました。みんな、喉元まで出かかっていたんですね。自分の弟が、従兄弟が、あるいは、親が、向こうで、行方不明になっている。収容所で拷問され殺されたとか行方がわからないとか。半分位は実名、顔を出してしゃべってもらった。あとの半分は、しゃべると、まだ元気な、他の身内までやられちゃう。だから顔は隠してくれといわれました。
 
  そうしてできたドキュメンタリーが、皆さんにお配りした資料に出ています。『人脈記』という朝日新聞の記事。92年、『楽園から消えた人々 ~北朝鮮帰国者の悲劇~』という、ドキュメンタリーをやりました。これはサンデープロジェクトの特集でまず、92年の2月にやった。それで30分の全国放送、5月には、1時間15分ぐらいで放送しました。 これで、もう私と北朝鮮との縁というのは、切れたと思っていた。
 
  すると94年の夏、番組で証言をしていただいたパクという在日朝鮮人女性から、電話がかかってきたんですね。『会いたい』と。番組では匿名で、背中からインタビューしていました。会った時に彼女が『私の北朝鮮にわたって銃殺されたお兄さんはね、あのときはいわなかったけれど、実は私が北朝鮮から潜入してきた大物スパイ辛光洙と同居していたことが元で、銃殺刑になったの』と言う。
 
  その時に、正直言って、この人、大丈夫かなーと思いました。何のことを言っているのかなと。スパイが潜入してきたとか。私のお兄さんは、北朝鮮にわたって、平壌放送の日本語のアナウンサーをして、それを東京でラジオで聞くのが本当に楽しみだった。彼女たちその時みんな、いわゆる総連系で、金日成を尊敬している。そのラジオのお兄さんの声が消えて、85年にお兄さんは、銃殺になっていました。それを知ったのは、5年後の90年。それも銃殺されて死んだと。向こうの帰国者を担当する局の課長から聞いた。
 
  お兄さんが銃殺になった本当の原因は、私が辛光洙というスパイと同棲していた。そこで生じた行き違いの結果として、平壌の兄が監視の対象にされた。その後、辛光洙が85年、逮捕されたとき、おそらく私と平壌の兄が、辛光洙を売ったんだろうと北の当局が理解したのでしょう。辛光洙という男と一緒におったことで、兄は楽園から消えてしまった。
 
  それに続いて出てきたのが、この辛光洙という人は、原敕晁さんという大阪のコックを拉致し、再び潜入して、その人のアパートに住み、引っ越しを繰り返し、住民票を取って、免許証、パスポートを取得した・・・そう言うんです。
 
  ここで、初めて「拉致」という言葉を聴いたのです。そのとき、何て言いますか、衝撃ではありますが、半信半疑でした。拉致なんて、いったい何のためにやるのか? スパイ小説スパイ映画でもそんな話聞いたことがない。ただ、嘘を言っても彼女のためになるわけではない。とにかくその日は別れて、調べてみたら、85年の6月の新聞に、ソウルの安企部発表で、言うとおりの事が割と大きめに載っていました。 
 
  『大物スパイ辛光洙逮捕・日本人の原敕晁さんを(名前も入ってます)拉致して、なりすます』 とそういう記事があったですね。
 
  彼女の話は、嘘じゃないと思うと、なんか大きな闇に首を突っ込んだような気がしました。ただ、当時の報道は記事を見る限り、一過性のもので終わっていました。 一体どういう事なのかと。全体像が見えないわけです。それでも、何をどうやって良いか解らないまま、闇雲に拉致ということを頭において取材を始めました。94年の夏ですね。おそらくこの時点で記者として拉致の取材をしていたのは、私一人だったと思います。
 
  取材に出向く私の気持ちというのはですね、当時は今以上に、南北朝鮮の対立が激しかったですから、北朝鮮を貶めるために、韓国が、わざとこういう話をでっち上げて、パクさんとかを私の前に出現させているのではないかと疑心暗鬼にとらわれたこともありました。 拉致は、今でこそみなさん周知の事実なんですけど、その当時はそうなんです。
 
  私がこういう事を言いますのは当時の政治家と官僚のの姿勢・態度がいかにいい加減だったかを知ってもらいたいからなんです。拉致被害者家族との付き合いが始まったのが94年の暮れです。
 
  神戸の有本明弘・嘉代子さん夫妻。 娘の恵子ちゃんが、平壌から手紙が来ていましたから。すでにいろいろ動いていらした。それで1月初めにご自宅に行きまして、色々事情を聞いて、これは「よど号」の連中に騙されて拉致されたと確信しました。
 
  ご両親は何とかしたいと、非常に思っていらっしゃるんだけれども、誰も相手にしてくれない。警察庁も、外務省も相手にしてくれない。マスコミに訴えても、誰も来てくれない。そういうところに神戸のご自宅に伺いまして、1月の17日に外務省に一緒に動いてくれと要請に行こうという約束をして、それがまぁ、あの阪神大震災で流れるんですけれど、3月になって一緒に行きました。
 
  その時の状況、出てきた相手が、北東アジア課の地域調整官といいまして、まぁずーーっと下っ端の役人なのです。その人が、どういったかというと。これがとんでもないんです。 有本さんは、すでに一部週刊誌には名前が出ているから実名を出して、娘を助けてくれと言ったのにたいして、その役人は、『実名を出して、安否の照会をすると、命に関わる。だから出来ません。あの国は何をやるかわからんから』 と言いました。
 
  つまり外務省としては何も出来ない、何もやりませんと。 その後、海岸から消えたカップルの家族のところへ行きました。家族の皆さんの当時の心境ですが、皆さん諦めかけておられたのは事実です。
 
  95年当時、蓮池さんや奥土さんは、取材拒否だった。電話をしまして、『どういう状況で消えたのか、親のその後の思いとかを聞かせて欲しい。世間に訴えたい、政治が動いて欲しいから、聞かしてくれ』と言いましたけれど、当時、お母さんのハツイさんが、体調を崩されていたこともあって、『取材に応じられません』と。その理由を聞いて愕然とした。
 
  愕然というのは、国に対してなんですけれど。蓮池秀量さんは『今更、薫のことを、どうのこうの訴えても、国が動いてくれるとは思えない。取り返せるとは思えない。そう考えること自体が辛いのです』と。自分も年をとってきたし、妻ハツイさんも体をこわされて、体がきつい。取材に応じることは、辛いこれまでを又思い出すことですから、その重圧に耐えられないという。
 
  私にたいして話すことで、辛くなるんですね。 それを聞いて、そのときは引き下がりましたが、逆に、家族をここまで苦しめている拉致をなんとかしなければと強く思いました。

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