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2007年8月

2007年8月30日 (木)

消えた277人より 岩佐虎雄さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。   

(30)岩佐寅雄(いわさ とらお)さん

大正15(1926)年12月8日生れ。身長170センチ。
昭和36(1961)年12月20日、神奈川県鎌倉市の魚屋から失踪。
当時35歳、魚屋店員。
勤めていた魚屋の人に黙っていなくなった。その後、横須賀のいとこが四方八方捜し回ったが消息はつかめず。
寅雄さんは板前もこなした。

「新宿で楽しいデートをしましたね」   竹川朋子さん(親戚)から
寅雄おじさまへ。
今あなたはどこにどうしておられるの。
当時、渋谷の広尾のおばの家に私を迎えに来られて新宿で楽しいデートをしましたね。
おいしいものを沢山いただきショッピングをして、広尾まで送り届けて帰りましたね。
私も夫が病に倒れて実家の近くに引っ越して1年7カ月になります。
「えなお」祖父さんも十年前に亡くなり、今は兄弟だけ取り残されています。
正男おじさんだけ子どものいる横浜にいます。
おばは亡くなりました。
私の二人の子どもも成長し孫も三人います。
主人にも早く会わせてあげたい、そして皆仲良く暮したいです。
私もそれを願いつつ生きています。
夫は今病気と闘っています。
兄弟も体調を崩し入退院を繰り返しています。
兄の長男は外交官になり頑張っております。
岩佐家の初孫も誕生します。もうすぐです。
早く帰ってきてください。
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失踪当時35才 46年  12月に 81才になる・・・

それでも、家族は待っている。

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消えた277人より 巽 敏一さん

「消えた277人」より
  ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。
 

(29)巽 敏一(たつみとしかず)さん

昭和18(1943)年8月15日生れ。身長170センチ。
がっちりした体格だが、太ってはいない。顔は柔和な感じ。
スポーツはとくにやらないが、野球観戦が好きだった。
昭和35(1960)年7月3日、大阪府大阪市の自宅を出たのち失踪。
当時16歳、エ業高校機械科在学。
当日、高校の映画鑑賞会があり、正午頃、自宅から映画館へ向かったはずだったのだが、そこには現れず、そのまま行方不明となった。

「敏一ちゃんも諦めないで、頑張って!」  巽直江さん(姉)から

敏一ちゃん、元気にしていますか?   「映画を観に行く」と家を出たまま帰らず、あれから45年も経ってしまいましたね。
私に映画に行く前に、玄関で「姉ちゃん、映画を観に梅田まで行くんだけれども、バスで行こうか、電車で行こうか、どっちがいい?」と聞いてくれましたね。
でも「電車の方は京橋に出て危ないからバスにしなさい」と姉ちゃんが言ったために、あれ以来別れることになってしまいました。
あれから四十五年も経ってしまいました。家族みんな必死に捜しました。
警察の方も、みなさんも、一所懸命捜してくれました。でも見つけられませんでした。
長い間助けてあげられなくて、ごめんね。
いま日本の政府、国民の皆ざんが敏一ちゃんたちを救出しようとカを尽くして下さっています。
だから敏一ちゃんも諦めないで、頑張って!
遅くなったけれども、もうすぐ会えるから。絶対に会えるからね。
姉ちゃんたちも頑張るからね。
敏一ちゃん、それまで体に気をつけて待っててね。
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失踪当時16才  失踪から47年  現在64才

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消えた277人より 尾方晃さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

(28)尾方晃(おがたあきら)さん

昭和30(1955)年12月12日生れ。身長168センチ、体重65キロ。
右胸部と右背中にリンパ腺炎の縦型の手術痕がある。右手中指第三関節の骨が突起している。
昭和54(1979)年2月14日、京都府京都市北区の下宿先から失踪。当時23歳、立命館大学学生。
家族が晃さんの下宿先に行くと晃さんの姿はなく、荷物や現金がそのまま残されていた。
2月13日に預金を引き出した形跡がある。

「待つてるよ、母一人で待つてるよ」  尾方美恵子さん(母)から
昭和54年2月、京都でいなくなった尾方晃の母美恵子です。晃がいなくなって27年たちます。
お父さんと一緒にいろいろと手を尽くしましたが、何の手掛かりも得られませんでした。
大学の下宿もお父さんと一緒に行きましたが、荷物はそのままで晃の体だけがいませんでした。
どこでどうしているのか心配しています。
平成4年7月、57歳でお父さんが晃のことを心配して亡くなりました。
光恵も兄さんのことを心配していろいろと手を尽くしてくれていますよ。
妹たちも、きよこ、みちよも名古屋に嫁ぎましたわよ。
拉致被害者救う会の集会には夫婦で来てくれているよ。
親戚の方々も晃のことを本当に心配してくれているよ。
地域の方々も、同級生のみなさんも晃のことを心配してくれているよ。
いまどこにどうして、元気でいるのか。母は心配でなりません。
毎日心配しているよ。
母も歳になり、体力が衰えてきました。
今日一日一人で暮らしているよ。
晃のことは一日として忘れたことはないよ。
晃の元気な顔が見られるの日を待っているのよ。
早く晃と会える日を楽しみに待っているよ。
このしおかぜを聞いていたら消息を知らせてちょうだいね。
待っているよ。母一人で待っているよ。
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失踪当時23才 失踪から28年  今年12月52才になる。

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消えた277人より 加瀬テル子さん

「消えた277人」よりご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。   (27)加瀬テル子(かせてるこ)さん 

昭和19(1944)年5月4日生まれ。身長158センチ。細面。             
昭和37(1962)年4月、千葉県海上郡海上町で失踪。
当時17歳、家事手伝い。
午後、自宅から美容院に出かけてそのまま行方不明になった。所持金はパーマ代のみ。
翌日には叔母と新宿コマ劇場へ観劇に行く約束をしていた。
最近になり、脱北者が北朝鮮から持ち出したとされる写真が、鑑定の結果、テル子さんである可能性が極めて高いことが判明。また、同じ脱北者が所持していた「同一人物」とするもう一枚の写真も、テル子さんであるとみられている。

 「少女のままなのが、悲しい」 加瀬淑子さん(叔母)から 

テコ、元気でいてくれますか。
横浜にいた叔母さんだよ。
利江のこと覚えているよね。
夫の人がテコのこと心配して動いてくれています。
マサ子もおばあちゃんとなり、難しい資格を取り仕事、頑張っています。
房子さんが還暦の記念に鬼怒川で同窓会をやり、テコの写真を大きく引き伸ばし皆さんと一緒に写して送ってくれました。
皆さん、それ柏応に歳を重ねた中でテコだけが少女のままなのが悲しく思われます。
マサ子をはじめ同級生の皆さんがテコの帰りを待っています。
房子さんといつも唄った美空ひばりの「車やさん」覚えていますか。
会いたいねテコ。一目だけでも会いたいよテコ。
友達が送ってくれた写真に、季節の果物や好物を「せめて届け」と、かげ膳を供えて待っています。
テコ、会いたい。元気な顔が見たい。
写真に向かい何度も呼びかけ、その度に胸が痛みます。
近くて遠い国、何故に仲良く出来ないのでしょう。
  でも必ず会えるよね。
  その日まで命かけて待っています。
  元気でいてね。
  会える日、その日を待ちわびて。

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失踪当時17才  拉致から45年 現在63才

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2007年8月29日 (水)

消え277人より 増元るみ子さん

(26)増元るみ子(ますもとるみこ)さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

昭和28(1953)年11月1日生れ。
昭和53(1978)年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜で市川修一さん(前述)とともに失踪。
当時24歳、事務員。
修一さんとともに吹上浜で消息を絶った。現場付近に残されていた修一さんの車には、るみ子さんのバッグとカメラが置いてあり、バッグの中のサングラス、財布、化粧道具などはそのままだった。
北朝鮮側は、昭和54年7月に二人は結婚し、るみ子さんは昭和56年に心臓麻痺で死亡したとしているが、修一さんと同様、これを裏付ける資料などは提供されていない。

「父ちやんも天国であなたを見守つている」

   平野文子さん(姉)から

るみ子 元気ですか?
私の声分かる?姉ちやんよ。
あなたが突然いなくなってから27年もたってしまいましたね。
あなたが北朝鮮にいるということがわかって、みんなで救出のための運動をしていますが、まだあなたを助けることができません。
ごめんね。
でもきっと必ず日本に帰れる日が来るから、希望を捨てずに、ガンバレ!
父ちやんもあなたの帰りを待っていたけど、待てなかったみたい。きっと天国であなたを見守ってくれていると思います。安心してね。
母ちやんも膝の具ムロが悪いけど、あなたの帰りをクビを長くして待っているからね。
国際世論に訴えています。
もうすぐだから。日本国の人たちが応援してくれています。体を大事にして、帰れるその日
を待っていてね。
じやあね。

「必ず、必ず助ける!」  増元照明さん(弟)から

るみ姉、まず、末だに救出できないことをすまないと思う。
るみ姉がいなくなったとき、何が起きたのか全然理解できなくて、自分ではどうすることもできなくて、虚無感心碗なまれていました。
北にいるという話が出てきたとき、もっと早く、もっとそれを強く信じて動いていれば、こんなに長くかかることはなかったかも知らん。そう思うと悲しくなってしまう。
でもいま日本では多くの人たちがるみ姉の帰りを待っている。清水中の同級生たちが懸命に
救出運動をしてくれていますよ。
必ず救出するから、希望を捨てないで、耐えて、そしてもうすぐ暖かい鹿児島で暮らす事ができることを思って、我慢していて下さい。
お袋は、るみ姉が帰ってくるまで元気でいると言っている。
必ず、必ず助けるから、だから待っていてくれ!
最後にこの放送を聞いている北朝鮮政府関係者、北朝鮮人民に伝える。
日本政府は日本人拉致被害者を傷つけたり、そして殺したりした場合、一切の経済協力はしない。
これだけは私は断言して言う。
必ず日本国民の拉致被害者を守って、そして生きて返す。
このことを肝に銘じてこの放送を聞いていてほしい。
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失踪時24才 失踪から29年  今年の秋、54才になる

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消えた277人より 市川修一さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。    市川修一(いちかわしゅぅいち)さん

昭和29(1954)年10月20日生れ。
昭和53(1978)年八8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜で増元るみ子さん (後述)とともに失踪。当時23歳、電電公社(現NTT)職員。
「吹上浜にタ日を見に行く」と言って出かけたまま消息を絶った。吹上浜には修一さんの車や、履いていたサンダルの片方が残されていた。車はロックされ、助手席にはるみ子さんのバッグとカメラが置いてあり、荒らされた形跡はなかったという。
北朝鮮側は、昭和54年7月に二人は結婚し、修一さんは同年九月に心臓麻痒で死亡したとしているが、これを裏付ける資料などは提供されていない。

「ガンバレよ! 負けるなよ! 生き抜けよ!」 市川健一さん(兄)から

修一、元気か? 兄ちゃんだよ。27年も会っていないんだよね。早く会いたいね。
るみ子さんと二人で出かけ、行方が分からなくなったその日、どんなに捜したことか。
大勢の人たちが協力して一生懸命に捜したんだよ。
兄ちゃんは修一の23の当時の顔しか思い浮かばないんだよね。
長いこと助けてあげることができずに本当にごめんね。もう少し待ってくれ。必ず帰国できるようにするからね。
お父さんもお母さんも姉ちゃんも、修一の帰国をクビを長くして待っているよ。修一と必ず会えるんだと、強い確信で毎朝毎晩家族で祈っているよ。
修一、お父さんとお母さんに修一の子供を見せてやれよ。きっと喜ぶぞ。北朝鮮は寒いところだと聞いています。サマーセーター1枚の格好で行方不明になり、毛糸のセーターを送ってやりたい気持ちでいっぱいです。
日本人全員が無事に帰国できるようにと、全国民が力を貸してくれています。
また国際社会も各国が協力の声をあげています。修一の同級生のカオルちゃんやコウちゃんたちも、に動いてくれているよ。
ガンバレよ!  負けるなよ! 生き抜けよ!

「涙が滝のように吹き出してきます」  市川トミさん(母)から
「修ちやん、修ちやん」と名をよび続けて、もう27年も過ぎました。
お母さんには23歳の修ちやんの顔しかない。
どんなに苦労しているだろうかと思うと、涙が滝のように吹き出てきます。
お父さんお母さんももう年寄りになって、お爺ちやんお婆ちやんとなってしまいま
した。月日が長いものね。
修ちゃん、るみ子さんとカを合わせて、体を大切に元気でいて下さい。
必ず会える日が来ますよ。
修ちゃんたちが帰って来るときは、大元気で修ちやんたちを迎えにいこうと決意して、体に十分気をつけて頑張っていますよ。
修ちゃん、るみ子さん、一家必ず、必ず元気でいて下さい。

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失踪時23才  失踪から29年  この秋53才になる。

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消えた277人より 小西能幸さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。   

小西能幸(こにし よしゆき)さん

昭和 8(1933)年 9月21日生まれ
昭和29(1954)年4月22日、石川県穴水町駅付近で失踪。
当時20歳、家業の旅館手伝い。
当日能幸さんは自宅を出る際、ゲタ履きで荷物も持たず、母と目を合わせたが行き先など一言も告げなかったので、家族は近所にでも出かけたものと思っていた。
その日、七尾線輪島駅から午前七時三十分頃の金沢行きに乗り、三つ目の穴水町駅で下車した能幸さんの姿を近所の人が見たという。
前日の夜、能辛さんの自室で小銭を数えているような音がしていたのを旅館の従業員が聞いている。
小遣いをもらっていなかったので失踪時の所持金は小銭程度と思われる。
身障者の兄がよそで働かなくても生活できるようにと、母は旅館を開業していた。
そんななか能幸さんは、自分が邪魔であると感じていたようで、チヤンスがあれば家を出ようと思っていたようだ。

「どれだけ泣いたでしょう」 黒川敏枝さん(姉)から

能ちやん、姉の敏枝です。元気で生きているのでしょうか。皆で心配いたしました。五十年はとてもとても長かったです。あなたが急にいなくなり何がなんだかわからなくて皆でどれだけ心配したことでしょう。どんなにか苦労しただろぅかと思うと可哀想で不欄で泣けてなりません。どれだけ泣いたでしょう。
このたび特定失瞬者問題調査会で北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」で拉致被害者救出の努力をしてくださり、こんなに嬉しくありがたいことはありません。感謝と嬉しさで夢のようです。
この放送を聴いてくださいね。放送を聴いてその指示に従ってくださいね。きっと日本に帰ってこれるんです。そして会える日を心待ちに待っています。
私は東京都世田谷区に住んでいます。元気です。小西は全員亡くなり私一人になりました。
みんな貴方のことを案じていました。帰国してからのことは心配しないで帰ってきてくださいね。その日の一日も早からんことを念ずるのみです。
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失踪時20才   失踪から52年  今年秋、74才になる

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2007年8月27日 (月)

消えた277人より 日高満男さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

日高満男(ひだかみつお)さん
  昭和33(1958)年8月16日生れ。身長155センチ、体重50キロ。
右手人差し指第二関節と中指第一関節を欠損している。
  平成元(1989)年2月23日、鹿児島県鹿児島郡十島村諏訪瀬島周辺海域で失掠。
当時30歳、トローリング漁の漁船員。
満男さんは、一人で漁船「大昭丸」に乗り込み、元浦港南西漁場で操業。午後二時頃、他の漁船に目撃されたのを最後に消息を絶った。
日没後も帰港しなかったため、諏訪瀬島の漁船、海上保安庁巡視船、航空機が捜索を行い、翌二十四日、諏訪瀬島切石港沖合で無人のまま漂流している「大昭丸」が発見された。燃料は切れていたが、トローリングをしたままの状態だった。
満男さんが行方不明となって1~2年後、自宅にぬ当口電話がかかってくるようになった。そのほとんどが夜の十二時から一時の間で、約1力月、毎日続いた。無言なのだが無線(モールス信口互のような音が聞こえたという。
失蹟当日に出漁してぃた船は15~6隻。

「タラップを降りてくるあなたの姿を見るまでは」
               
田中恵美子さん(姉)から

みつへ
あなたが私達の前から消えてから、はやいもので17年が過ぎました。
今まで何もしてあげられなくて、ごめんね。
ちゃんと食事はしていますか? 
寒くはないですか? 
いつも貴方のことを案じています。
子どもたちも24歳と22歳になります。あなたそっくりになってきました。
お父さん、お母さんも高齢になっています。
1日も早く私たちのもとへ帰って来てください。
必ず、助け出される日が来ると信じて元気でいてください。
希望を捨てないで下さいね。
さびしがりやのみつですが、帰る日を夢見て、今の境遇に負けないで、昔の元気なみつで帰ってきてくれると信じています。
あなたのことは一日も忘れたことはありません。
二人きりの姉弟ですもの。
タラップから降りてくるあなたの姿を見るまでは、あきらめません。
どうぞやけにならないで、体だけは大切にしていてください。
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失踪当時30才 失踪から18年 現在48才

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消えた277人より 渡邊晃佐さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。
    
 

渡邊晃佐(わたなべこうすけ)さん

           昭和 7(1933)年1月18日生れ。身長163センチ、体重56キロ。
           昭和27(1952)年10月27日、京都府京都市右京区で失踪。
当時20歳、立命館大学学生。
当日、自宅を出て行方不明となり、その後、連絡は一切ない。

「今日か明日かと毎日待っています」 渡漣訓秀さん(弟から)

昭和27年十月に失踪して以来、もう五十数年になりました。
家族全員帰りを今日か、明日かと毎日待って今になりました。
祖父及び、父母はすでにこの世を去っています。
父は白バイによる交通事故で、母は病死です。祖父及び父は45年、母は19年になります。
さぞかし両親は一目、会いたかったと思います。
北朝鮮での生活はいかがなものですか。外電の情報ではあまり良いとは思えないです。
日本は高度成長して現在は世界第二の経済大国です。町内もずいぶん変化しました。
分区になって、現在は西京区となっています。何とか日本に帰ってきてください。
兄弟四人は元気に暮らしています。
会えばどんなに喜ぶか計り知れないと思います。
日本の国民も政府も一生懸命になって拉致された人々を救い出そうと頑張っていますので、必ず会える日が来ることを楽しみにして、神仏にお祈りをしています。

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失踪当時20才   失踪から55年  現在 75才

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2007年8月26日 (日)

消えた277人より 徳永陽一郎さん

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

徳永 陽一郎(とくなが よういちろう)さん
昭和10(1935)年1月14日生れ。右肩に子供の頃鎌で切った傷痕がある。
昭和28(1953)年10月7日、長崎県長崎市で失蹉。当時18歳、店員。
新しい勤務先へ提出する履歴書を書いている途中、突然姿を消した。
10月17日、家族へ借金を返すため、現金書留が福岡県門司市より家族宛てに送られてきた。
同封されていた手紙には「いい仕事があった」「歩いてでも帰ってきます」などと書かれていたが、それ以来連絡が途絶えてしまった。

「どうして、どうしてと思っていました」  森川洋子さん(姉)から

徳永陽一郎。徳永陽一郎。陽一郎。聞いていますか、姉の徳永洋子です。日本の長崎から呼んでいます。
洋一郎のことは父さん、母さん、ずーーと案じて捜していました。
弟妹も洋一郎兄ちゃんの事心配しています。洋一郎は昭和28年10月長崎から突然いなくなりました。門司からの手紙が最後でした。

陽一郎の行きたい化学の会社に決まりかけていたのにどうして、どうしてと思ってました。
陽一郎、陽一郎、長崎の大浦のおじいちゃんのお家に洋子姉ちやん、陽一郎、けんちやんと3人で暮らしてましたね。
陽一郎、陽一郎、七人兄弟でした。
洋子姉と陽一郎、けんちやん、すみちやん、よっちん、ひでちやん、松ちやんと五島に中学校出る迄いました。
陽一郎、陽一郎の肩の傷は五島にいる時つけたんですよね。
陽一郎。陽一郎。生きている間に是非会いたいです。
姉より
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当時18才  現在72才  失踪から54年  

家族の想いは、失踪した、その時の面影に向かって呼びかけられている。
 18才のままの陽一郎さんに呼びかける姉は時を経て、限りある命を繋いで再会を待っている。

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消えた277人より 平山政子さん

平山政子(ひらやままさこ)さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

 

昭和21(1946)年9月4日生れ。 (注、奇術はプロ級の腕前)。
昭和47(1972)年3月24日、青森県青森市で失踪。
     当時25歳、飲食店従業員。
当日政子さんは、絵のコンクールに人賞した姉と、そのお祝いをするために待ち合わせていたが、そこには現れなかった。
アパートを訪ねてみると、とくに身辺整理した様子もなく、普段の生活状況のまま。
それまで無断欠勤をしたことのない政子さんが、丸二日も職場に連絡せず失踪となった。
趣味の手品のメンバーとしてステージに立つこともあった政子さんは、ハワイで行われるマジックの世界大会に参加する予定だった。そのための打ち合わせが同日あった。

「絶対に青森へ帰って来るんだよ」  平山勲さん(兄)から
昭和47年3月24日、当時25歳,青森のキャバレー「ゴールド」で働いていて、お店から帰る途中、行方不明になって早35年になりましたね。政子の年齢も六十歳近くになっていますね!  どこでどう生きているのか分かりませんが、いつも家族みんなで政子は必ず生きていると信じていますよ。どんな方法でもいいからとにかく連絡ください。待ってますよ!  新渡戸先生は平成十八年三月十七日、九十六歳で亡くなりました。先生は生前ひまわりともう一度マジックをやってみたいといっていました。
またお母さんは今年で九十五歳になって今もとっても元気で政子の帰りを待っていますよ。
最後になるけどとにかく元気で政子!
絶対に青森へ帰って来るんだよ。
                       平成28年4月1日 平山勲。

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失踪当時25才  失踪から35年  現在60才

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消えた277人より 山本美保さん

「消えた277人」より
ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

   山本美保(やまもと みほ)さん 

昭和39(1964)年3月3日生れ。
身長160センチ、体重51キロ。左目の下に三針の縫合痕、左手にはしもやけによるわずかなケロイド痕がある。靴のサイズは23.5センチ。
昭和59年(1984年)6月4日、山梨県甲府市の自宅を出てから失踪。当時20歳、大学受験生。
図書館に行く」と言ってバイクで出かけたまま戻らなかった。その後、バイクは甲府駅で発見され、四日後には新潟県柏崎市の荒浜海岸で美保さんのセカンドバッグが見つかった。
1月6日から4年半ほどの間、自宅に無言電話が続いた。そのほとんどは数秒で切れるものだったが、失踪から3年4力月後と3年6力月後の二回の電話は10~15分ほど続き、柏手はこちらの呼びかけをただじっと聞いている様子だった。3年6ヶ月後の電話では、すすり泣くような声が聞こえたという。
なお、集められた支援の署名は20万筆に達している。

 「父と母は街頭に立ち、二十万人の署名を集めました」 森本美砂さん(妹)から 

美保ちゃん、今まで捜してあげられなくてごめんなさい。でもきっと元気でいると信じています。
昭和59年6月4日、「図書館に行ってくる」といつものようにバイクで出かけたきり帰ってこなかった日から22年がたってしまいました。日本女子大への進学を反対したことを父さんも母さんも私も、ずっと後悔してきました。美保ちゃんがいなくなった理由をずっと考えながら……。でも今は目撃情報のあった北朝鮮にいると信じています。
三年前の2002年、小泉総理大臣が訪朝したのを機に、日本では美保ちゃんが拉致されたのではと大きな報道になりました。それ以来、同級生や先生方が大きな支援をしてくださり、美保ちゃんを救う会を立ち上げてくれました。父さんや母さんも街頭に立ち、20万人以上の署名を集め、政府に二度提出しました。
いろんなことがありましたが、美保ちゃんに元気な姿で会えると信じています。必ず助け出しますから、信じて待っていてください。

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 失踪当時20才 失踪から23年   現在43才 

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2007年8月25日 (土)

消えた277人より 田口八重子さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。     

田口八重子(たぐちやえこ)さん

昭和30(1955)年8月10日生まれ
昭和53(1978)年6月頃、東京都で失踪。当時22才、飲食店店員。

東京都高田馬場のべビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま消息を絶った。
昭和62年の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮の元工作員・金賢姫(キムヒョンヒ)は、李恩恵(リウ乙という女性から日本語や日本人の振る舞い方を学んだと証言。
この女性の似顔絵が八重子さんに酷似、また、会話内容などからも八重子さんの当時の状況と合致したことから北朝鮮による拉致が発覚した。
北朝鮮側は、八重子さんは昭和55年に拉致された原救昆さん(後述)と結婚し、その数年後に自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料などの提供はなされていない。
なお最近になって、八重子さんは宮崎県の青島海岸で拉致されたとする報道がなされた。(2007年3月8日付け「日本経済新聞」)。

「子供と抱き合う姿を早く見たい」  飯塚繁雄さん(兄から)

日本から北朝鮮につれて行かれた田口八重子へ。
                                       、
朝群名はコ・ヘオクと呼ばれているよぅですが、また一時李恩恵ともいう名前でこちらにはシラされています。
私はあなたの兄の飯塚繁雄です。1978年6月に八重子がいなくなって、1989年に北朝鮮にいると分かったとき、とても驚きました。それ以降、日本に帰国させるための活動をいろいろやってきましたけれども、北朝鮮は断固として返してくれません。八重子がいなくなってから27年も経ってしまい、毎日毎日北の国でどうしているか、心配でたまりません。
話したいことは山ほどありますが、まず八重予が一番心配しているお前の子供のことですが、長男の耕一郎はもう28歳、長女のあやは二十9歳になって、とても元気に育ちました。
耕一郎は私繁雄の養子として人れ、他の子供たちと何隔たりもなく仲良く生活し、本人も21歳になるまで養子であることも気がつかず、また実の母である八重子の状況も話してありませんでした。耕一郎はその全てを知ったときに、大変大きなショックと戸惑いを感じ、心の中で自分の置かれている不幸を悲しみ、また母である八重子の姿を全て話してあげましたけれども、全く記憶にない八重子を母と呼べない心境でおります。
この実態を理解しつつ、逆に母である八重子のことを気にかけ、自分の意思でなく強引に北朝鮮に連れて行かれた母を何としても日本に取り戻したいという気持ちでいっぱいです。そしていま現在でも、私とともに救出活動に力を注いでいます。
耕一郎はまだ結婚していませんが、会社の仕事は一生懸命に頑張り、いまでは優秀な技術者として立派に独り立ちしています。
一方長女のあやは、お前の姉が養予にとり、この年まで元気に育てました。やはりまだ結婚 はしていませんが、自分で全てが判断できる大人になりました。女であるということで、この
母親の救出問題では表には出しておりませんが、二人とも実の母である八重子との生活を夢見て、結婚もせずに待っているのだと思っています。
  私たち兄弟はいまも健在で、八重子の帰りを待っています。お前ももう50歳になってしま いましたね。
ですから兄弟たちも歳をとって、私は67歳にもなってしまいました。
  私たち兄弟の母親であるはなも、13年前にお前の帰りを待ち佳びながらあの世に逝ってし まいました。
八重子の人生の最も大切な27年間という長い時間を北朝鮮に奪われてしまっ たのは本当に哀しいことでもあり、大きな怒りでもあります。
またこんなに長い間日本に帰国 させることができなかった日本国の対応も非常に残念です。
北朝鮮で一緒に暮らしていた地村富貫恵さん家族、蓮池さん家族、そして曽我ひとみさん家族は三午前に帰って来ました。その 人たちの話で、八重子はとても明るく頑張っていたと聞いています。
しかし夜になると予供たちのことを思い泣いていたとも聞いています。
いろいろつらいことも多かったが、それでも北 朝鮮の言うことを聞いて、いつかは帰れることを祈って頑張っているということも聞きました。
  同じ拉致被害者である5人が帰れて、なぜ八重子や横田めぐみさんや増元るみ予さんや市川さんや有本恵子さんが日本に帰れないのか?まだまだ多くの日本人が北に連れて行かれているのが実態です。
多分八重子も他の日本人を見たことがあると思います。
北朝鮮は「それらの人たちは皆亡くなった」と言っていますけれども、その報告は全て嘘であり、私たちは皆生存していると堅く信じています。
  もう少しです。頑張って下さい。
きっと日本に帰ってこられるよう、日本の多くの国民もあらゆる手段をもって活動しています。
そして八重子とお前の愛する二人の子供たちが日本で抱き合う姿を早く見たい。
私たち兄弟も、皆がそれを待ち焦がれています。
このラジオ放送が八重子の耳にぜひ聞こえるよぅに祈ります。本当に、迎えに行くまで頑張ってね。

「きっとお前を取り返すから」  本間勝さん(兄から)
私は八重子の兄の勝です。
八重子が何らかの事情で昭和五十三年に北朝鮮に連れて行かれてから長い年月が過ぎてしまいました。
八重子の兄弟たちみんな、帰ってくるのを何よりも待っています。
八重子たち日本人が多数北朝鮮に連れて行かれ、そのまま帰れなくなってしまった人々を、日本の国民、政府が「今すぐ全員返せ」と救出運動を北朝鮮・金正日政権に対して行っています。
いつ帰れるだろうかと待っていると思います。体に気をつけて頑張って下さい。八重子の子供も立派に大きくなりお母さんの帰ってくるのを1日も早く待っています。
早く帰ってきて!きっとお前を取り戻すからね。

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失踪当時22才 拉致されてから29年  現在52才

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消えた277人より 平本兄弟

(17)平本兄弟

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。     

平木和丸(ひらもと かずまる)さん 左写真

 昭和 3(1928)年1月2日生れ。身長165~7センチ。
昭和23(1948)年7月、九州で失踪。当時20歳、終戦後は大洋漁業のトロール船乗務、
   昭和23年頃から本社勤め。
7月20日以降、和丸さんは「船で遠洋に出るため当分会えない。お別れに来た」と、当時広島県安芸郡に居住していた実弟・敏昭さん(後述)を訪ね、そこに7~10日間滞在した。
 その後、大分県中津市の朝鮮在住時代の友人宅に行き何日か逗留したのち、行方がわからなくなった。
勤務していた会社にも何の連絡もなかった。
和丸さんは朝鮮からの引き揚げ者で、中学まで朝鮮半島北東部の威鏡南道成興に居住してい
たが、親の反対を押し切って海軍予科練に日本で人隊し、終戦を迎えている。

平本敏昭(ひらもと としあき)さん 右写真
  昭和 4(1929)年6月19日生れ。身長180センチ。 昭和25(1950)年9月21日、大分県中津市で失踪。
   当時21歳、広島県内の小学校教諭。

8月17日午後10時頃、小学校に向かったまま行方がわからなくなり、9月7~8日頃、学校からの電話で敏昭さんが出勤していないことを家族は知った。その後しばらくして、大分県中津市の朝鮮在住時代の友人宅に9月21日頃まで逗留していたことが判月。前述の兄・和丸さんを捜していたという。

「お願い この呼び力けにこたえて!」--平本和丸さんと平本敏昭さんへ、末永直子さん(姉)から

私は姉直子です。貴方達が昭和二十三年より二十五年、忽として姿を消してより昭和も終わり平成も十八年たちました。和丸も敏昭も七十をとぅに過ぎ、最後まで二人を案じた父も母の許に旅立ちました。お浄土で貴方達を見守っているか、それとも親子でかたらっているか、私には不明です。
両親の写真の前で夢ででも知らせてと幾度念じた事か。北鮮に眠る母を思ぅと、つれて帰りたいと胸が痛みます。
生きていたら、せめて声だけでも聞かせて!  私も八十です。貴方達を見つけるまでどうしても死ぬわけには参りません。私は今大阪府寝屋川におります。呉市吉浦町の村田松若、呉市音戸町の大盛干佐子、二人とも貫方達を忘れられない人で、皆捜しています。
お願い、この呼びかけになんとしても答えて下さい。寒い北鮮でどんな生活をしているかと、私に出来るのはただ祈るだけです。体に気をつけて生き抜いてください。

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和丸さん  失踪当時20才  失踪から  59年  現在    79才
敏昭さん  失踪当時21才  失踪から  57年        78才

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2007年8月24日 (金)

消えた277人より 坂本とし子さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。   

坂本とし子さん
昭和17(1942)年11月22日生まれ。新潮155センチ。
昭和40(1960)年6月9日、東京都北区で失踪。当時22才。
実家の浴場行手伝い。店は十畳と千葉にあった。
自宅から20分位の編み物教室に行くと言って普段と同じように家を出てから消息を絶った。
とし子さんは普段、東十条と千葉を行ったり来たりして家パを手伝っていた。
北朝鮮でとし子さんを見たと複数の脱北者が証言している。

「うらやましいほど光り輝いていたあなたへ」  亀山葉子さん(姉から)

坂本とし子へ。
風のごとく私たちの前から忽然と姿を消して41年。
姉の私から見てもうらやましいほど光り輝いていた妹、とし子。
親戚一同であんなに捜したとし子がなぜ北朝鮮に……。
北朝鮮の炭鉱の町でとし子を見たという脱北者の証言にただただ驚いています。それも今回で二人目です。
行けるものなら、今すぐ行きたい。異国の地に長い年月をどんな思いで生きているのでしょうか?
胸が痛みます。

日本から北朝鮮に連れて行かれたのはとし子だけではないのです。ほかに大勢の人がいます。
この人たちを救おうと日本全国の方々や政府の方々が、一生懸命になってくださっています。
一日も早く日本の土を踏ませてあげたいのです。東十条の家に帰るまでは絶対生きててね。
必ず逢える日を信じて! とし子! 頑張れ。
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   失踪当時22才 失踪から42年   今年11月、65才になる  

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消えた277人より 生島孝子さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

  
 

  生島孝子(いくしまたかこ)さん 

           昭和16(1942)年6月14日生れ。
           昭和47(1972)年11月1日、東京都渋谷区で失踪。
     当時33歳、港区役所麻布支所交換手。
失踪当日、一日の休暇届を出して勤め先を休んでいた。朝、同居していた妹に「タ方に電話があったら出かける」と話していたという。
衣類の入れ替えをし、タ方、クリーニング店に衣服を出した孝子さんは、翌日出勤時に着る服を揃えてから外出した。夜になっても何の連絡もなく、ついには帰宅してこなかった。
翌11月2日夜、自宅に電話があり、しばらく無言ののち、「いまさら仕方ないだろ」という男性の声とともに切れた。

 「33年の年月は長過ぎました」    生島馨子さん(姉)から

孝チヤン元気ですか。今、どのように暮らしていますか。貴方が突然行方不明になってもう35年過ぎてしまいました。貴方とお母さんが最後に別れた日は木枯しの吹き荒れた十月末、目の手術で入院していたお母さんの病室でした。眼帯で覆われ、貴方の顔を、見ることができず貴女は「またくるね」の一言を残して帰って行きましたね。まさか、この日が、お母さんと孝チャンの永遠の別れになるとは、誰も信じませんでした。

眼帯がとれ、「とてもよく見えるようになったのに、孝ちゃんは何処に行ったのかしら」と地図を広げ、電話のベルまって・・・・・。徐々に体力が付くと、居ても立ってもいられず、あてもないのに全国を捜し歩いていました。「孝ちゃんは、きっと何処かで元気で過ごしている。尾は阿讃を幸せにしてあげるって言ってたんだから」と待っていました。                                  

二年前の北朝鮮での目撃証言にとても喜び、リハビリに励み、胃ろうという胃に栄養物を入れる手術をしてまでも頑張ったのに、三十三年の年月は長過ぎました。
とうとう昨年2月7日に天国に召されてしまいました。どんなに再会を待ち望んでいたか知れないのに、この世に引き止められずゴメンナサイ。
貴方の帰還を信じた母さんや身寄りの無い私に、多くの力を貸して下さる方が増えました。
日本だけでなく外国でも心配し支援をして下さる方がいます。
皆さんの支援を支えに待っていますので早く帰ってきて下さい。お母さんにお線香を上げてください。
今、日本は大きく変わりかけています。行政も動きかけていますし、内閣も頼もしい陣容となりました。もう少し頑張って過ごしてください。
身体に気をつけて、元気で会える日を迎えましょう。

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 失踪時33才 現在 66才 失踪から35年になる 

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消えた277人より 井上克美さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

井上克美(いのうえかつよし)さん
 

         
           昭和25(1950)年6月8日生れ。
           昭和46(1971)年12月29日、埼玉県川口市で失綜。
当時21歳、電気工事店勤務。
失蹉当日は会社の忘年会があり、それが終わると川口市内の飲食店に足を向け午前0時~1時まで飲み、すし屋で食事をしたのち、友人と別れた。このときはかなり酔っていたという。
夜になっても帰宅しない夫を案じた妻は実家に電話、しかし実家にも帰っておらず、消息不明となった。克美さんは正月は実家に行くと言っていた。
その後、運転免許証の更新もされず、連絡も一切なし。
長男が生まれる直前だった。

「占いにまで行きました」  井上イトノさん(母)から
克美、お母さんですよ。
昭和46年12月29日夜、突然いなくなってた井上克美の母のイトノですよ。
克美、今何処で何をしているのですか。
今年で34年目、文男、一男も心配しているよ。
あの日、正日には前橋に来るといぅ話だったので待っていました。
31日の夜、千恵子さんから電話で、「29日夜、忘年会にいって帰ってこない」と聞いて、1月1日、お父さんと蕨のアパートに行きました。
干恵子さんが大きなお腹をして困っていました。
それからお母さんはいろんな所に行き、捜しました。
占い師の所にも行きました。
お母さんも八十二歳になりました。
一男も文男も待つているから早く日本に帰ってきてください。
お前の子供の克則君も、前橋にいるよ。
お前も頑張ってください。
待っているよ。
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失踪時 21才  現在57才  失踪から36年

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消えた277人より 益田ひろみさん

益田ひろみ(ますだひろみ)さん   

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

  

昭和27(1952)年8月27日生れ。身長155センチ位。
昭和48(1973)年3月頃、島根県益田市で失瞬。当時二十歳、
会社員(呉服販売)
失蹉当日、ひろみさんは寝坊してしまい、父親が自転車で山口線東青原駅まで送り、電車に
間に合い、益田駅で降りた。会社のシャッターを開ける担当だったが、そ・のまま行方不明にな
った。団体旅行のお土産が勤務先の裏口に置いてあった。

 「一人さびしく待っているお母ちゃんより」 益田シゲ子さん(母)から

  なつかしい、そして大好きなひろみちゃん。
お元気ですか。お母さんはとても心配しています。
お母さんももう八十になりました。歳には勝てません。
足腰が悪くなって何もやれません。一度会いたいね。
ひろみちゃんが益田の高島屋から失蹉して何年になるかなあ。
近所の人は皆北朝鮮に拉致されたのではないかと心配しています。
お母さんもそう思っています。北朝鮮でいったい何をしているの。教えて。
お母さんは心配なの。景子姉さんも大阪で元気で頑張って心配しているのよ。
ひろみちゃんはいつか絶対元気で帰ってくると待っています。お母さんも毎日毎日ひろみちゃんのことを忘れることなく今日まできました。
お父さんはひろみちゃんのことを心配してとうとう亡くなりました。四年位前になります。
この放送を聴いたら連絡をしてね。待っています。
なつかしい、そして大好きなひろみちゃんを 一人さびしく待っているお母ちゃんより。

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失踪時、20才  失踪から34年   現在55才 

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2007年8月23日 (木)

消えた277人より 大屋敷正行さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

 ・・・    
 
 

大屋敷正行(おおやしき まさゆき)さん

昭和27(1952)年12月5日生まれ。新潮165~8センチ。やせ形。
昭和44(1969)年7月27日、静岡県沼津市大瀬崎海岸で失踪。
当時16才、江東商業高校二年生。
東京都江戸川区に在住していた正行さんは失踪当日、パイク仲間数人と沼津市の大瀬崎海岸へ海水浴に出かけていた。夜中に「トイレに行く」と言って外へ出て、枕元に腕時計、財布、免許証などを残したまま戻らなかった。 楽しいはずの夏休みの思い出が一転して不可解な事態となった。

正行、ずっと待っていたことでしょう」… 山口幸子さん(姉)から

正行、聞こえますか、姉の幸子です。長い間探してあげられずにごめんなさい。ずっと待っていたことでしょう。
信博兄さん、敏ちやん、姉さんの娘の直美、佐々木のおばさん、皆一日も早く正行に会いたいと願っています。
正行と同級生の土橋俊夫さんから高校生活では卓球部だった事、土橋さんのアパートによく泊まりに行った事、八人で静岡県の大瀬崎海岸へ海水浴に行った事など沢山話を聞いています。
一緒に海へ行ったお友達も帰りを待っています。
三十六年もの間、辛く悲しい思いをさせてしまいましたね。もっと早く捜してあげたかった。
日本には正行のように行方不明になっている人が大勢いて、その人たちを助けるために沢山の方が活動してくれています。正行も必ず日本に帰れますから絶対にあきらめずに頑張っていて下さい。姉さんも正行が日本に帰れる日を祈り活動しています。
あなたの帰りを心から待っていますので体に気をつけて希望を捨てずに待っていてください。

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16才だった大屋敷さんは、現在55才  失踪から38年

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消えた277人より 鈴木清江さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

  

◆鈴木清江(すずききよえ)さん

昭和33(1958)年3月27日生れ。身長156センチ、体重43キロ。丸顔。
昭和57(1982)年2月5日、静岡県袋井市で失瞬。当時二十三歳、会社事務員。

失蹄当日、車で帰宅途中の清江さんを、別の車に乗っていた母と妹が見かけている。清江さんの車の前に、追い越すように走っできた別の車が停まり、そこから降りてきた男性と清江さんは何やら話し込んでいる様子だったという。
清江さんはそのまま帰らず、翌朝、道路横の空き地で、鍵をかけたまま放置されている清江さんの車を発見。車中を調べると、バッグはなくなっていたが、財布と買い物をした商品は残されていた。
家族や知人、友人も家出するような理由は思い当たらないという。警察の捜査によっても、何ら有力な情報は得られなかった。

「お姉ちゃんの写真を握りしめて待っています」 酒井とよみさん(妹から) 

姉ちやん覚えていますか、お姉ちやんが見た夢、私に話してくれた事、80過ぎても私達は二人暮し、お姉ちやんの保険証には、扶養者「妹とよみ」と書いてあると笑った日の事、京都から帰っても二人ひとつの布団で寝ていた時の事、私が夜遅くお風呂に人っていた時にはずっと起きて待っていてくれた事。
私はお姉ちやんが大好きでした。そして今はお姉ちゃんとの再会の日を待ちわびています。
お姉ちやん信じて下さい。こちらには、お姉ちやんたちを助けようと力を尽くしてくださる方々がたくさんいます。きっと会える日が来ます。その日までどうか無事でいてください。
民江さんも、幸ちやんも、みんなお姉ちやんの写真を握りしめて待っています。

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失踪時23才 現在49才 失踪から25年

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2007年8月22日 (水)

消えた277人より 大澤孝司さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。
 
 

大澤孝司(おおさわたかし)さん

昭和21(1946)年2月24日、生れ。
昭和49(1974)年6月21日新潟県佐渡郡新穂村で失踪。
当時27歳、新潟県佐渡農地事務所勤務。

当時住んでいた独身寮から約四ごこメートル難れた飲食店でタ食を済ませ、知人宅に寄ったあと行方不明となった,この時期は観光のオフシーズンだったため、住民も警察もかなり大規佐渡農地事務所では、失蹉後まもなく「北朝鮮にやられたのではないか」との話で持ちきりになったという。
同僚の話では「失瞬のニー三日前、一緒の船で新潟から帰ってきた。船中では飲む話、食べる話などをしていて、自殺や失蹉のそぶりは全くなかった」とのこと。
佐渡農地事務所には五十|六十人が勤務していて、うち十五|二十人程度が本土からの単身赴任。当日、食事を終えた孝司さんのあとをつける不審な男たちが目撃されている。
なお、北朝鮮製と思われるマッチが寮の前あたりに落ちていたという。同島では四年後に、曽我ひとみさん母子が拉致されている。
平成14年、新潟県知事が孝司さんは拉致の可能性があると発表した。

◆「君が植えた銀杏の木も、主の帰りを待っている」  大津昭一さん(兄から)  

孝司元気だろうね。このたび北朝鮮の君達にお話が出来るようになりました。
そちらも寒いでしょうが、新潟も冷たく山手の小出などは「三八豪雪」よりも多い雪です。
孝司が新穂の街はずれから忽然と姿を消して以来三十年、お袋は二十年前に旅立ったが、親父は九十六歳になるも孝司との再会を張り合いに毎日テレビ、新聞を見て元気で暮らしている。ボケもまだない。
昭一と茂樹は小中学校の友人、高校、大学の友人の強い支援に支えてもらって孝司の救出運動を続けている。
孝司が庭に植えた銀杏の木も三十年の月日で大きく育ち、秋に毎度黄金色に輝き主の帰りを待っている。
親父ももう少し頑張るそうだから、孝司も体に気をつけて頑張ってくれ。
総理は日本の国の総理として拉致日本人の全員救出を必ずやるぞ、今年こそ日本人全員を必ず救出するぞ、日本の国だって強いんだぞ。
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 現在61才 失踪から33年 

参照記事

大沢孝司さんの救出を求め、兄昭一さん(右)らが署名を呼び掛けた=19日、新潟市中央区の古町十字路
 

 北朝鮮に拉致された疑いが濃厚な新潟市西蒲区出身の特定失踪(しっそう)者大沢孝司さん=失踪当時(27)=の早期救出を目指し、同級生らでつくる支援団体「再会を果たす会」が19日、新潟市中央区の古町十字路で署名活動を行った。

 これまで同会は西蒲区などを中心に活動を行ってきたが、この日は初めて市街地で実施。街頭には、孝司さんの兄昭一さん(71)や同級生らが立ち、買い物客らに協力を呼び掛けた。

 同会は今年2月から、孝司さんの母校東京農業大学OB会の協力を得て、例年の3倍に当たる約3万人分の署名を既に集めている。こうした動きを受けて、県内でも取り組みを強化。孝司さんの父福一郎さんが98歳の誕生日を迎える11月までに、10万人分の署名を集めて政府に提出、拉致被害者として認定されることを目指す。

 昭一さんは「拉致問題が進展しない上に、特定失踪者のままでは世間から忘れ去られてしまう。父が元気なうちに弟を取り戻したい」と力を込めた。

(リンク先の画像、間違っています)

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消えた277人より 小林 榮さん

小林 榮(こばやし さかえ)さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

   

昭和18(1943)年4月29日生れ。身長160センチ、体重60キロ。
昭和41年頃、ボクシングのジムに人りたいと言っていた。
活動的で、中学時代は陸上部に所属、マラソンなどをしていた。

昭和41(1966)年8月21日、東京都千代田区で失蹉。当時23歳、印刷会社社員。

栄さんは数日来、体調を崩し仕事を休んでいて、住み込みで働いていた印刷会社から、「医者に行く」と会社の者に言い残し外出したまま行方不明となった。失掠するような心当たりはなく、身の回りのもの、荷物などはいつも通りの状態だった。
失蹉後一力月ばかりして、勤務先の社長から失踪した旨の手紙が実家に届いた。
栄さんは昭和三十五年頃からこの印刷会社で働いていた。

「父母は兄さんに会いたいと最期まで念じていました」  小林七郎さん(弟)から
 
栄兄、元気ですか。栄兄、どうしてますか。栄兄が、北朝鮮にいうことをしり必ず元気で頑張っていると思い特定失踪者問題調査会にお願いし手を尽くして探してもらっています。
どうか栄兄元気でいてください。
栄兄がいなくなって一力月もしてから会社の方から手紙が届き、栄兄がいなくなったことを知りました。それから皆であっちこっち捜しました。会社にも何度も足を運びました。社長に何度も会って栄兄のことを聞きましたが、何の手がかりもなく三十七年の月日が経ってしまいました。
この三十七年の間には父母は栄兄に会いたいと念じながら他界しました。保夫兄、静江姉、辰治兄は元気です。衛兄は二人、光江姉は三人、七郎は一人それぞれ子供がいます。八郎だけ独身で実家の傍に住んでいます。皆元気で生活しています。栄兄も皆と会えるまで頑張ってください。
こちらも兄弟が全員揃って栄兄に一日も早く会えることを祈っています。
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現在64才
失踪から41年、長すぎる不在

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2007年8月21日 (火)

消えた277人より 上田英司さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

 

 ◆ 上田英司(うえたえいじ)さん  

 

昭和24(1949)年7月25日生れ。身長175センチ。
読書が趣味。
昭和44(1969)年11月4日、東京都もしくは京都府で失踪。
当時二十歳、予備校に通いながらアルバイトをしていた。
失蹊当日「京都へ行ってくる」と家主に言い残して東京都内の下宿を出ていったまま行方不明に。
黒いコートを着て、荷物は手提げの紙袋一つだったという。

 「君が愛した故郷の山は昔のままです」  上田貞子さん(母)からのメッセージ 

英司、元気にしていますか。あの日から永い永い年月が過ぎたね。
お母さんですよ。
英司、母は思い出して、英司のこと毎日心配して過ごしています。
父も英司君の事を大変心配して必ず英司は帰ってくる、と神に誓って楽しみにしていたのに脳梗塞で倒れ、三年間頑張ったけど、英司に会う夢もかなえられず残念で悲しい思いです。
母も足腰が悪くて思うように外出も出来なくて英司君の件でいろいろお世話になっています。
英司君、三十六年の間、顧みれば言い尽くせぬほどの道のりだったね。
東京にも何回と行って尋ねました。あの頃は母も若かったし、皆様、友達にもお世話になりました。
昔のこと色々と話をしたいですね。この手紙を聴いたら、すぐお知らせください。お願いします。
英司君、永い間、色々なことがあったでしょう。故郷も変わりましたよ。
でも英司君が愛した大山は昔のままです。懐かしいでしょう、兄さんも家族皆会える日を楽しみに待ってい
ます。英司君、からだに気をつけて一日も早く元気で会える日を楽しみにしています。

                                 母より 英司君へ。
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 現在58才   拉致から38年  

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2007年8月20日 (月)

消えた277人より 屋木 しのぶさん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

 
 
 

屋木しのぶさん

昭和23(1948)年1月27日生れ。身長158センチ。
 中肉だが骨太でがっしりした感じにも見える。目がくっきりした二重でかわいい顔立ち。
編み物、裁縫をするなど手先が器用。読書が好きだった。
昭和43(1968)年一月中旬、富山県朝日町の母の実家を出たのち失踪。
当時19歳、美容師で、インターンとして人善町の美容院に勤務していた。
失踪当日、しのぶさんは働いていた美容院から休みをもらい、母の実家である人善町新屋の叔母の家で双子の赤ちゃんの帽子と靴下を編んでいた。
そして、それが出来上がるとしのぶさんは、タ方六時三十分頃、新屋のバス停に向かった。
この日は大雪だったので叔母は家から見送ったのだが、それを最後にしのぶさんは消息を絶ってしまった。現金や荷物は持たず、運転免許証も実家に置いたままだった。
なお、昭和四十年頃、しのぶさんのいとこに編み物を習っていた若い女の子が、トラックに引き上げられそうになる事件が起こっている。

◆「もう一度「姉ちゃん」って呼んでみたい」  板谷春美さん(妹)から 
 

 姉ちゃん、 会いたいです。
一緒にご飯食べたり、 買い物に行きたいです。お風呂にも入りたいです。
お姉ちやん 会いたいです。
父ちやんも母ちやんも亡くなりました。
姉ちやんのこと とても心配しながら 生きていると信じながら。
姉ちやん 会いたいです お花を持って 一緒にお墓参りに行こう。
「ただいま」って 「待たせてごめんね」つて 手をあわせようね。
姉ちやん 会いたいです 生きて会いたいです。
もう一度「姉ちやん」って呼んでみたいです。
みんな待つているから 何も心配いらないから 絶対助けに行くから、生きて 帰ってきてほしい。
姉ちやん 会いたいです 生きて 会いたいです。

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  現在 59才  失踪から39年

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消えた277人より 堺 弘美さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

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  ◆堺 弘美(さかい ひろみ)さん 

 

昭和34(1959)年10月22日生れ。盲腸の手術痕がある。
ハスキーな声が特徴的。
昭和57(1982)年4月2日、東京都新宿区北新宿の自宅アパートから失踪。
当時二十二歳、飲食店で働きながら美容学校に通っていた。
四月二日、弘美さんの職場から「弘美さんが仕事に来ていない。これまで無断欠勤したこともなかったのだが」と家族に連絡があり、失踪が判明した。
失踪数日前、弘美さんは母に、「北新宿の自宅アパートを引き払って、実家(母の住む杉並区上井草)に移り住む」と電話してきたのだが、その数日後、ふたたび電話で、今度は「やはりもう少しこちらに残る」と言ってきたという。
失踪当日か翌日に弘美さんのアパートに行ってみると、部屋はとくに変わった様子はなく、引っ越しの準備をしていたようにも見えず、不動産屋にも転居の話はしていなかった。
部屋からは、茶色っぽいチャイナ服(ドレスというより普段の外出用)友人から借りた赤いブレザーと、財布がなくなっていた。

 ◆「美容師になるのが夢だったね」 堺シズさん(母から)

弘美、元気でいますか。24年前、私に「アパートを引き払い実家に移る」「もう少し残る」とただそれだけ電話で言い残したまま、私の前から突然姿を消してしまいました。
以後、毎日毎日弘美のことが気になり夜も眠れない日々が続いています。
このたびこの電波で弘美とお話しすることが出来ることになり、大変うれしいことです。
弘美、そちらでは、どんな生活をしているの、結婚して子供は何人いるの、自分の好きな美容師はやっているの、お母さんは大変心配だし、知りたいし弘美に会いたいし、声も聞きたいし、孫にも会いたいです。
弘美からの連絡もほしいですね。現在、特定失蹉者問題調査会が中心となり、弘美の早急な日本帰国にむけて、日本の皆さんと日本政府が中心になり、頑張っております。お母さんも七十四歳になり一刻も早く日本に帰れる日を待っております。弘美に会えるまで私も身体に気をつけて、会えるまで、いつまでも、いつまでも、待っております。

                         日本の地、母シズより。

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  現在48才 失踪から25年

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2007年8月19日 (日)

消えた277人より 河嶋功一さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

河嶋功一(かわしまこういち)さん

昭和33(1958)年5月5日生れ。身長168センチ、体重58~60キロ。
野球のピッチャーをしていたので、右腕が手のひら半分位左腕より長い。
ケガで左手中指を縫合ビ、少し内側に曲がっている。
膝上よりふくらはぎにかけてケロィド状の火傷痕がある。歩き方に特徴があり、少しうつむき加減につま先に力をかけて早足で歩く。
昭和57(1982)年3月22日、神奈川県横浜市金沢区洲崎で失蹟。当時23歳。
関東学院大学機械エ学科卒業直後。静岡県浜松市の会社に就職が決まっていた。
失蹉当日、功一さんの引っ越しを手伝うため、浜松から父親たちが車で下宿先に来ていた。
父親は荷物を積んだ車で、功一さんは汽車で浜松に帰ることになり、功一さんは「先に浜松に向かう」と、午前九時三十分頃下宿を出た。その際、父親が少し先の角まで見送っている。
まもなく父も車を走らせたが、途中で渋滞に遭い、「交通渋滞で遅れる」と浜松の実家に電話、そのとき、もう着いているはずの功一さんはまだ帰っていなかった。
実家で荷物を降ろし終えた父親は、戻らない功一さんの身を案じ、夜ふたたび横浜の下宿へ引き返したが、そこにも功一さんの姿はなかった。
失蹉時、所持金は電車賃と小遣い程度、荷物は小雨が降っていたため傘を一本持っていただけだった。

 「あなたの友達が口捜す会しを立ち上げてくれました」  河嶋愛子さん(母)から 
功一元気でいますか?
横浜の下宿で別れてから手を尽くして捜したけれども誰も行方を知る人がなく、どうしているかずっと心配していました。北朝鮮に拉致されていた人たち三家族が2002年日本に帰ってきました。そのニュースをみて功一も拉致されたと思い、特定失蹉者問題調査会に連絡し調査を依頼しました。今ではそちらで不自由な生活をしていないかとても心配しています。
拉致のことを報道で知った高校の同級生の光部君たちが、先輩で二期生の脊古さんという方と大変心配して「捜す会」を立ち上げ毎月二回家に集っていろいろな活動をしてくれています。
この放送を聴いていたら自分も必ず日本に帰ることができると信じて希望を持って頑張ってください。
生きて必ず逢えると信じています。功一がどんなに変わっていてもわかるように「カツ」の印を身に付けてマークにしてください。身体にはくれぐれも気をつけて、一日も早く家族と一緒に無事に日本に帰ってくることを祈っています。
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  現在49才、失踪から25年

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2007年8月18日 (土)

消えた277人より 山下春夫さん

「消えた277人」より


 

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

◆山下春夫(やましたはるお)さん 
     昭和21(1946)年3月25日生れ。泳ぎが得意だった。
     昭和49(1974)年8月、福井県小浜市一番町で失瞬。当時二十八歳、会社員。

朝八時の仕事始業時間前に、春夫さんと同居していた大工から「山下さんが昨夜、夜釣りに
出かけたまま戻らない」と報告があった。会社前方の岸壁で本人の作業靴が発見されている。

「健在を祈っている」  山下寛久さん(兄から)現在86才
末弟の山下春夫は昭和四十九年八月、小浜港の堤防で魚釣りに行くと出かけ姿を消しました。
春夫は海辺育ちで水泳も達者で、小浜郵便局近くの岸壁にあった小浜ドックという造船会社に、住み込み職人として四国から働きに来ていた大工さんたち五人の方と寝泊りをしていました。
夏の暑い晩のことで、魚釣りに行ったまま行方不明となりました。会社や市民の大勢の皆さん方に海川の捜索をしてもらった。また海では網を引いてもらったが発見されなかった。
会社にもなれ、仕事もなれ、積送も分かってきたといって、喜んで私に話をしていた者が自ら死を考えるということはない。私は必ず生きていると信じております。平成十四年九月十七
日、金総書記が拉致を認め謝罪し、二十五年ぶりに地村さん夫妻たちが日本に帰ってきた。春夫も北朝鮮に拉致されたのではないかと思っています。日本には多くの拉致された若者がおります。春夫、日本の放送を聞いたら
何かの答えを出してくれ、健在を祈っている。

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現在61才、失踪から33年
山下春夫さんは、末っ子。お兄さんたちは、80才を越えていますが、地元小浜でも、群馬でも一生懸命活動なさっています。
しおかぜの声が届きますように!

参照リンク 群馬に住む山下さんのお兄さんの言葉(Blue jewelアーカイブ) 「早く戻ってきて」 小浜、山下さん失踪日のつどい

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消えた277人より 木村かほるさん

「消えた277人」より」

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。

木村かほる(きむらかおる)さん 
昭和十三(一九三八)年八月二十七日生れ。中肉中背、色白、優しい 柱格で、いつも微笑みをたたえていた。

 

昭和35年(1960)年2月27日、秋田県秋田市内で失踪。
当時21才、日赤秋田高等看護学校三年生。
卒業を10日後に控えた2月27日、「ちょっと出かけてくる」と料の同室の数人に言ってでたまま戻らなかった。
戸籍上は、かをるだが、日常は、かほるとしていた。

「絶対死んでなんかいない」        天内みどりさん(姉) から

かほるちゃん 元気にしていますか ちゃんと食べていますか?
毎日こうして問いかけながら四十五年が過ぎてしまいました。1960年二月二十七日、秋田の日赤の寮を出たかほるちゃんの身にいったい何が起こったたのですか。
警察、家族、友人たちであんなに捜しても何の手がかりも得られなかったかほるちゃんは絶対に死んでなんかいないのです。
難民収容所や引き揚げ途中の山の中であんなに多くの人の死を見てきたかほるちゃんが自分で死を選んだりはしない。
これがお姉ちゃんの確信です。
かほるちゃん、お姉ちゃんは夫に先立たれ一人暮らしをしています。
かほるちゃんを必ず捜し出してまた一緒に暮らすのだと決めています。お兄さんも洋二さんもあなたを待っています。
生きていれば百二歳のお父さんと九十五歳のお母さんは、故郷のお墓の中で木村家代々に守られてかほるちゃんの帰る日をひたすら待っているのです。

かほるちゃん、かならず元気で会える日がくるはずです。
がんばってね。

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2007年8月27日で、69才になる。
失踪から47年。
長い不在である。

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2007年8月 3日 (金)

心を繋ぎ合わせたキルト

ブルーリボンキルトの会の活動に、いつも、感動している、不器用な私です。

いつも、手先が器用な人に憧れています。
この活動を応援したいと思っている私は、なんとか、このことをお知らせしたいと思っていました。

 

今回の選挙結果についても、増元さんは、HPで落胆の色を隠せない様子ですね。
拉致を忘れない日本人がいること、関心が薄れているのではないことを、何とかご家族にお伝えして、少しでも気持ちを安らげるようにと思って、今日、早紀江たちに、キルトのの画像を印刷してお持ちしました。

早紀江さんや、飯塚繁雄さんにおみせしました。とっても喜んでくださいました。

早紀江さんは、めぐみさんのお洋服もよく縫われたと聞いています。
手作りの温かさ  をよく知っていらっしゃるから、みんなの気持ちを感じ取れるんだと思います。

私達は、決して拉致を忘れない!
全員取り戻すまで、応援し続けるという気持ちが、きっと伝わったと思います。

安倍さんの北朝鮮政策は間違っていません。
民主党は、議席を伸ばした以上、外交、北朝鮮問題について、きちんとしたビジョンを出すべきだと思います。

それは、きっと安倍さんの政策と大きくは変わらないでしょう。そうであれば、民主党は、外交、北朝鮮問題については、安倍政権を支える立場に立つべきです。

そう言う意味でも、年金だけでなく、民主党は、そのビジョンを問われています!

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2007年8月 1日 (水)

戦略情報研究所講演 (後藤光征・元海上保安庁警備救難監)-(1)

7月20日に行われた戦略情報研究所講演の原稿を紹介します。

後藤光征(みつゆき)・元海上保安庁警備救難監 による「わが国における海上警備の現状と問題点」 と題した講演でした。

※講師は昭和17年生まれ、秋田県のご出身で巡視船くにさきの船長、第3管区海上保安本部警備救難部長、本庁警備救難部警備第二課長、第4管区海上保安本部長などを歴任された方で、わが国の海を身をもって守ってきた経験に基づき貴重なお話です。

几帳面に原稿を用意され、静かで丁寧な語り口で、日本の海の現状をお話になりました。
落ち着いた話し方でしたが、現場の生の臨場感も伝わってきました。
無駄な言葉が一つもない、充実したお話でした。

調査会荒木代表に申し入れ、後藤光征氏の了解を頂き、当日の原稿をそのままご紹介させていただくことになりましたので、海上保安庁の仕事、日本の海上警備について関心のある方は、ぜひ、お読みいただければと思います。

 
  戦略情報研究所講演会 
 
                                                        平成19年7月20日
 
 わが国における海上警備の現状と問題点

海上保安庁は、昭和23年に創設されて以来、多様かつ複雑化する日本の海の情勢に対応するために、様々な対策を採ってきました。
昨今の日本の海は、排他的経済水域や尖閣諸島周辺海域における海洋権益の保全、テロの脅威、不審船の徘徊等様々な問題が散在しています。
四海を海で囲まれたわが国は、古くから様々な海の恩恵を受けて繁栄を続け、近年、海洋に対する国民の関心が高まる中で、このような問題は極めて憂慮すべきことであり、今や皆さんが海洋国家日本を考える上で、身近な問題として捉えられていると思っております。
海からの多くの恩恵の主なものには、経済活動として漁業、海底資源、海上輸送、マリンレジャーなどがあります。
輸送活動を見れば、
わが国の海上貿易量 約9億4999万トンは世界の約14パーセント
国際貨物の約71パーセント(金額ベース)
       約99パーセント(重量ベース)が海上を利用
食料の   約60パーセントを輸入に依存
エネルギーの約90パーセントを輸入に依存など
日本の海が国民生活に密着していることがわかります。

豊かな恵みを受ける海も、一方では世界でも屈指の厳しい海洋気象の海でもあります。皆様は、春一番、夏から秋の台風、冬の大陸からの季節風によって起きる海難のニュースに頻繁に接しております。

恩恵を受ける海と、国民が生活する領土との関係については、わが国の
領土の面積         約38万平方km           世界第61位
領海の面積         約43万平方km
領海・排他的経済水域の面積 約447万平方km(領土の12倍)  世界第6位
体積 約1,580万立方km        世界第4位
海岸線の延長        約3.5万km            世界第6位
    国の面積当たりの海岸線延長 約92m/平方km          世界第1位
    国の人口当たりの海岸線延長 約27m/百人         世界第1位
となっております。
つまり、わが国は、世界でも有数の広くて深くて海岸線の長い海に取り囲まれている訳です。

この海の利用については、国連海洋法条約によって、領海や排他的経済水域の定義、沿岸国の権利や義務、大陸棚や深海底の資源開発、船舶の通行に関する様々の取り決めがなされています。
国連海洋法条約は、H6年発効、平成16年に145カ国が批准しました。
  我が国は、領海12海里を採用。(領海及び接続水域に関する法律第1条)
・領海の地位は
   沿岸国の主権が上空(領空)、海底、海底の下まで及び生物・鉱物資源の採取に独占権。完全な主権が及ぶ内水とは異なり、沿岸国の平和、秩序、安全を害さない限り無害通航権あり。
  ・排他的経済水域200海里(限定的、機能的な管轄権)
   天然資源の探査・開発等に関する主権的権利。科学的調査に関する管轄権。海洋環
   境の保護・保全。
などについて取り決められています。

このような環境の下、わが国周辺の海洋を巡る諸問題として、
  尖閣諸島、北方領土、竹島の周辺海域警備
  排他的経済水域内の外国海洋調査船監視
  外国漁船不法操業取締り
  東シナ海エネルギー資源開発
  東南アジア航路の海賊対策
  不審船・工作船警備等があります。
これらの諸問題について、海上保安庁がどのような業務を行っているか、事例を加えながら紹介します。

尖閣諸島領海警備

尖閣諸島は、沖縄群島西南西の東シナ海に位置し、魚釣島、南小島、北小島など5つの島と3つの岩礁からなり、魚釣島からは、石垣島まで170km、沖縄本島まで410km、台湾まで170km、中国大陸まで330kmの距離があります。この帰属については、日本はわが国の領土であるとして、問題としていませんが、昭和46年以降、中国、台湾が領有権を公式に主張し始めました。それは、昭和43年日本、韓国、台湾の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会の協力を得て、東シナ海海底の学術調査を行った結果、東シナ海の大陸棚には、豊富な石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘されたためです。さらに、平成8年7月に国連海洋法条約がわが国について発効し、排他的経済水域が設定されたことに伴い、台湾・香港等で漁業活動への影響が生じたことに対する不満や、北小島に日本の政治団体が灯台としての構築物を設置したことを背景に、「保釣活動」と呼ばれる領有権主張活動が活発となり、尖閣諸島周辺の領海に侵入するなどの大規模な活動が行われる様になりました。近年では、中国において新たな活動団体が台頭し、急激に勢力を拡大し、領有権主張活動を展開しています。平成16年には、巡視船の間隙を縫って中国人活動家7名が魚釣島に不法上陸する事案が発生しました。18年には、台湾と香港から活動家の乗った船が出港し領海内へ不法侵入しました。

海上保安庁は巡視船等の部隊を派遣し、関係省庁とも協力して警備し、島への上陸を阻止しています。
尖閣諸島は、遠隔地の上、台風の常襲海域という地理的条件にあり、かつ付近に巡視船艇の避難港、補給港が無いため、大規模な警備を行うには、全管区から巡視船艇・航空機を長期に亘り派遣する体制をとらざるを得ないこと、巡視船隊が活動家の船舶を規制・退去させる際に、荒れる海上で巡視船と活動家船舶が衝突・接触した場合には、小さな活動家船舶が大きなダメージを受ける可能性が大きいため、双方に人身事故が起きないように慎重な規制をする必要があることなどから、尖閣諸島領海警備は、極めて大規模、かつ慎重な体制で行うことになります。海上保安庁は、政府方針に基づき常時周辺海域に巡視船を配備し、航空機による哨戒を行っていますが更に警備体制を磐石とするため、新しい巡視船の整備などを進めています。

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戦略情報研究所講演 (後藤光征・元海上保安庁警備救難監)-(2)

北方四島問題

わが国固有の領土である北方四島を不法占拠しているロシアは、これらの島々の沿岸12海里を自国の領海と主張しています。北方四島周辺海域は、水産資源の豊かなことで世界的にも有名な海域であり、納沙布岬から貝殻島まで3.7km、一番遠い択捉島まで144kmしか離れていないことから、小型漁船が容易に出漁できる距離にあります。ソ連時代から現在に至るまで、ソ連・ロシアが主張する領海において無許可で操業したなどとして、拿捕される日本漁船が後を絶たず、平成14年から18年までの間に21隻245人が拿捕されています。18年8月には発砲を受け昭和38年以来となる死亡者が出ています。このため、海上保安庁は、ロシア連邦保安庁国境警備局との間で、累次に亘る協議をし、18年12月、同種事案の再発防止のため、両機関間の連携強化について合意しました。海上保安庁は拿捕などの発生が予想される根室海峡周辺海域に常時巡視船艇を配備し、出漁船に対し直接、または漁業協同組合を通じて、被拿捕の防止の指導と漁業関係法令の遵守指導を行っています。

 竹島問題

 竹島は、島根県隠岐諸島の北西約160kmに位置し、2つの島と周辺の数十の岩礁からなり、総面積は約0.2平方Kmで日比谷公園とほぼ同じ広さです。政府は歴史的事実に照らしても、国際法上もわが国の領土であるという立場を堅持する一方、竹島問題は平和的に解決されるべきであり、外交ルートを通じて粘り強く解決を図る方針を示しています。海上保安庁は、政府方針に従い、竹島周辺海域に常時巡視船を配備して監視を続けるとともに、わが国漁業者の安全確保の見地から、被拿捕の防止指導を行っています。

 東シナ海における資源開発

 豊富な地下資源が埋蔵されているといわれる東シナ海では、日中両国の間で排他的経済水域および大陸棚について、境界を画定するには至っていません。我が国は地理的中間線により、境界を画定すべきとしているのに対し、中国は、中国大陸から自然延長の終点である沖縄トラフが日中間の大陸棚の境界であると主張しています。
 中国は、既に東シナ海の日中地理的中間腺付近に存在する油ガス田に、採掘用の海洋構築物を設置し、一部では生産を開始させています。資源エネルギー庁によると、これら油ガス田の一部は、地下構造上、地理的中間線の日本側にも連続しており、このまま中国が開発を続ければ日本側の資源が吸い取られてしまうことになります。
 我が国は、資源開発問題について話し合う日中協議等において中止を求めています。19年4月の日中首脳会談の際には、双方が受け入れ可能な比較的広い海域において共同開発を行い、19年秋に具体的方策を首脳に報告することを目指すこととされています。
 海上保安庁は、東シナ海で航空機による哨戒を行い中国の開発状況を把握し、情報提供しています。

 外国海洋調査船

 中国は、近年、東シナ海などの我が国の排他的経済水域において、調査活動を活発に行っています。平成11年には、33隻の中国海洋調査船を確認しました。この中には、我が国の領海内に進入して調査活動を行う事案もありました。こうした東シナ海における無秩序な状況を解決するため、13年、中国との間で、東シナ海における相手国の近海で海洋の科学的調査を行う場合は、調査開始予定日の2ヶ月前までに、外交ルートを通じ通報することを内容とする「海洋調査活動の相互事前通報の枠組み」について合意し、同年2月から運用が開始されました。その結果、近年は東シナ海において我が国の同意の無い調査活動は減少し続け、17年には確認されませんでしたが、再び18年には7件の我が国の同意の無い調査活動が確認されました。
19年2月は、我が国に事前通報した海域の外である尖閣諸島魚釣島周辺の我が国EEZにおいて、航行・漂白を繰り返しつつ、科学的調査と思われる調査を断続的に行うという事案が発生しています。
海上保安庁は、これら海域において、巡視船、航空機による監視を行い、我が国の同意が無い調査活動を行う外国海洋調査船を確認した場合には、外務省が外交ルートで中止要求、厳重抗議を行うとともに、現場においても、巡視船艇・航空機により無線等を通じた中止要求を行い、海洋権益の保全に努めています。

 外国漁船による不法操業の取締り

九州に基地を置くある1,000トン型巡視船は、日本海から対馬海峡、五島列島沖の東シナ海の領海・経済水域の監視取締りを主任務としておりました。対象となる外国漁船や不審船は、夜間、しかも深夜から早朝に掛けて侵入してきます。夕刻、数百隻に上る対馬周辺の日本漁船群・外国漁船団が煌々と集魚灯、航海灯を点灯して活動を始めると、海上保安官は巡視船の舷窓を閉じて、航海灯を消し全ての灯火が外に漏れないようにし、肉眼では巡視船が全く闇の中に溶けるようにして、全速力で対馬の北から、五島列島の沖までレーダーと肉眼の見張りを厳重にして、衝突事故は絶対に起こさない、しかし少しの異常な動きも見落とさないという態勢で、一晩で領海線の内外を哨戒します。覆面の1,000トンの船が、19ノットで対馬海峡の通航船と漁船集団群の中を、相手に気づかれないように旋回航走し密漁船・不審船を確認するということが、いかに緊張と覚悟のいる哨戒か、夜の対馬海峡を航行した経験のある方なら判ると思います。何も不審なことが無く緊張の一夜が過ぎると海上保安官達は「今夜の対馬海峡一帯は治安が保たれたか」と自問自答し、次の当直に引き継ぎます。
 この様な哨戒の結果、多くの完全無灯火で操業する外国漁船の領海侵犯操業を発見し、暗闇の中で激しい公務執行妨害を受けながら強行接舷して停船させ、まさに身の危険を犯して拿捕し、また国際海峡でしばしば起こる外国船が絡む不審事象を確認し、海上治安機関として蓄積しているのです。

 ある夜の哨戒は、対馬海峡が200-300mの視界の深い霧でした。夜明け前、上空が少し白み、海上はまだ暗く深い霧の中で、レーダー監視員が「2~3海里先の船影が、中型トロールの動きをしている。」と報告。船長は直ちに総員立入検査・検挙体制を発令。
この海域でこのような動きをするのは外国の密漁底引船以外は無いからです。巡視船の船首先端部、船橋等に見張り監視・ビデオ採証担当保安官を配置し、巡視船に積んでいる高速ボートに立ち入り検査班8名が乗り組みいつでも発進できる準備をし、レーダーで相手の動きを見ながら静かに接近しました。200mくらいの距離で濃い霧の中に、ぼんやりと船の形が見えましたが、相手船の明かりは一切見えません。真っ暗闇の中で明かりの無い2つの船影が次第に近づいていく状態です。突然、船首の監視員から「火花2箇所。グラインダーの切断音。エンジンの加速音。前方船影のもの。」と報告。船橋で指揮していた船長にも火花とチャリン、チャリンというグラインダーでワイヤーロープを切断する音が聞こえてきました。引いている網を漁船の上に引き上げていたのでは巡視船に捕まるので、一瞬のうちに2本のワイヤーロープを切断して網を捨て、身軽になって逃げるためで、密漁のプロの手口です。
 直ちに拿捕体制に入り、高速ボートを発進させ、2隻での挟み撃ちに入りました。相手は、200トン位の中型底引きトロール漁船。国籍を示すものはありませんが一目瞭然、韓国船による領海内侵犯底引き密漁です。相手も必死で、最大速力でジグザグに逃げ回ります。巡視船は1、000トン、長さ70m、速力35km時。巡視船の甲板上には完全装備の立ち入り検査班が一瞬でも接舷したら、密漁船の甲板に飛び込もうと身構えています。しかし、大型巡視船と小回りの効く漁船では、逃げ回るほうが断然有利です。高速ボートの立ち入り検査班は、ジュラルミンの大盾を構えて身を守りながら接舷した瞬間飛び移ろうと機会を窺っていますが、密漁船から高速ボートに向けて乾電池、ビン、ビス、ナット、などあらゆるものが投擲されて、大盾がカンカン音を発てているのが聞こえ、なかなか挟み撃ちができません。其の内韓国の領海が近くなりました。此の時、応援のため、高速で小回りが利く対馬海上保安部の巡視艇が夜明けの海面をすべるように接近して来ました。これに気づいた密漁船は、このままでは拿捕されると思い最後の逃走方法と思ったのか、突然、平行して走っていた巡視船の直前に直角に突進し、反対側に逃げ出そうとしました。巡視船の船長は、瞬間、避けきれないと判断し「後進全速」を令しました。時速35キロで走っている1,000トンの船体が直に停止することはできません。船体が壊れるほどの急激な振動と同時に船橋の不安定なものは全て落下し、乗組員は皆前のめりになり、急激にスピードが落ちましたが、密漁船は、なお前を潜り抜けようと全速で突っ込んできました。密漁船の船橋のすぐ後ろの船体が少し低くなった所に、巡視船の船首が当たり、そのまま食い込んで、ゆっくりと密漁船を横に押しながら急激に速力が落ち、停止しました。現場にいた海上保安官は皆、一瞬、密漁船は巡視船に直角に圧し掛かられて、横倒しになり、転覆すると思ったそうです。密漁船の乗組員全員が甲板上で呆然と巡視船のへさきを見上げていました。幸い、韓国船は、フレームが少し曲がっただけで、怪我人も、損傷も無く、拿捕しました。
 誰も意図して、このような状況を作り出したものではありません。深夜から早朝に掛けた領海侵犯で、他国の資源を密漁しようとする者は必死です。韓国の領海に逃げ込んでしまえば絶対安全となるわけですから、逃げ方も操船の常識の範囲外にあります。捕まえる側の巡視船の保安官も全員その覚悟で、それでも人身事故は双方に絶対出さない、という決意と、経験からくる自信と、何よりも海保が行動することによってのみ、両国間の紛争の原因が減り、この海域の治安が保たれるという使命感が無くては、この任務は果たせないのです。
 この頃、対馬海峡の領海侵犯密漁取締りでは、石、出刃包丁を投げつけられるだけではなく、立ち入り検査のため飛び乗った海上保安官が海上に突き落とされる事件も起きており、極めて困難で危険を伴う外国密漁船の取締りが、厳格に行われていました。

 公海上外国船内暴動

 韓国からオーストラリアに向かう8万トンのパナマ籍鉱石運搬船「EBキャリア」において発生した、フィリピン人乗組員が英国人幹部船員に対し待遇改善を求めた船内暴動事件では、船長からの切迫した救助要請無線が、直接海上保安庁に入りました。公海上の事件であり、出港地、仕向地、船舶所有者、乗組員の国籍等全て我が国との関係は無かったのですが、現場が那覇の南100海里で、付近に暴動を鎮圧できる関係国の実力部隊が存在せず、台風の発生も懸念され、英国人の生命に危険が切迫している状況下、関係国から日本政府に救助要請が出され、巡視船隊と大阪の特殊部隊が派遣されました。救助要請は、「刃物を突きつけられ、幹部数名が船長室に逃げ込み、入り口にバリゲートを作っているが、斧でドアを破壊している。銃の有無はわからない。」と言うものです。
現場では、暴動者に対する母国語と英語の無線による説得。武器による抵抗に備えて、ヘリコプターから海面上18メートルの高さの「EBキャリア」の甲板へ完全装備の特殊部隊を降下させ、多数の完全装備の保安官を送り込み、その周囲では巡視船隊による威圧を行い、説得を受け入れれば両者の仲裁を行なうが暴動を続ければ実力で制圧する旨通告し、硬軟両方の交渉を行いながら、海上保安官の部隊が船内の暴動区域に入り込んで両者を隔離し、暴動の原因を調査し、痕跡を証拠化し、那覇港での両国の関係者による話し合いを確約させ、保安官の警備の下那覇港に回航させ、死傷者を出すことなく解決しました。これは国際的視点での治安確保が求められた顕著な事例ですが、実際に海上保安官が鎮圧のため実力を行使せざるを得なかった場合の法的問題や、複数国間の問題を包含した「今ここにある人命の危機」に対して、海上保安庁が蓄積した現場の経験を下に様々な難問を乗り越えながら、人命の救助を行なった一つの例です。
日本はどの点からも当事国では無かったが、海上という特殊性から発生した、緊急かつ人命に係る重大な国際協力事案として、当事国の要請を受け対応しました。
海に国民生活を委ねている我が国は、今後もこの様な事態が発生した場合には、海上保安庁の蓄積した経験を活かして、的確に対応する必要があります。

 海賊対策
 
マラッカ海峡における海賊は以前から在りましたが、我が国において大きな関心を呼んだのは、平成10年日本の会社が所有する便宜置籍船「テンユー号」海賊事件と同じく11年、便宜置籍線「アランドラ・レインボー号」海賊事件です.国際商業会議所国際海事局に報告された、平成18年の東南アジアにおける海賊の発生件数は、17年の122件から88件と減少しており、マラッカ・シンガポール海峡における発生件数は、19件から16件と減少しています。けれども、17年3月マラッカ海峡を航行中の日本籍タグボートが、武装集団に襲撃され、日本人2人を含む乗組員3人が誘拐されるという事件が発生した外、19年4月インドネシアベネット湾で、外国貨物船が10隻の高速ボートの武装集団から発砲を受けるなど、依然として凶悪な事件が発生しています。
東南アジアにおける海賊の発生件数は、引き続き減少傾向で、これは、海上保安庁と沿岸国海上保安機関の連携協力体制の強化と沿岸国海上保安機関自らの積極的な取り組みの成果によるものと思います。
海上保安庁では、巡視船の東南アジア派遣、現地での人材育成、わが国と複数国間での連携訓練、「アジア海賊対策地域協力協定」に基づく情報ネットワークの構築、「東南アジアにおける海上セキュリテイ・海賊セミナー」、海保大への留学生の受け入れなどを実施しています。
協定に基づきシンガポールに設置された情報共有センターには、海上保安大学での留学を経験したフィリピン沿岸警備隊員が勤務しているなど、海上保安庁の人材育成は確実に成果を挙げてきています。海上保安庁では、今後も積極的に東南アジア各国海上保安機関の人材育成支援を行っていきます。

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戦略情報研究所講演 (後藤光征・元海上保安庁警備救難監)-(3)

0707203
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 不審船・工作船事

 平成13年9月11日に発生した「米国同時多発テロ事件」では、多くの命が奪われ、我が国の国民にも大きな衝撃を与えました。このため海上保安庁は、米海軍施設、原子力発電所等テロの標的となりうるものの周辺海域に巡視船艇・航空機を配備して警備を強化しました。

 このような状況下の12月22日「九州南西海域における工作船事件」が発生し、海上保安庁航空機による発見から、巡視船による追跡、停船命令、威嚇射撃、強行接舷挟撃、工作船からの自動小銃・ロケットによる攻撃、正当防衛射撃そして工作船の爆発・沈没に至るまでの間の現場の映像が長時間に亘り放映され、巡視船の被弾・破壊、海上保安官の負傷、工作船乗組員の死亡等、国民にとって衝撃的な事実があらゆる報道機関によって内外に伝えられました。
 さらに、海底から引き上げられた工作船の実態は、我が国周辺海域に武装した極めて特異な構造の工作船が徘徊し、拉致、薬物の密輸、密出入国等重大な犯罪を行なっているという不安感を国民に植え付けました。

 この事実は、工作船による拉致の手段を明らかにすると共に、この後の我が国における危機管理体制の在り方を大きく変えることになりました。

 この事件に海上保安庁はどう対応し、我が国の安全保障に如何なる意義を与えたのでしょうか。

 12月21日は、いわゆる花金でした。このとき官公庁は予算案の内示が一段落して、22日,23日は土日、月曜はクリスマスイヴという状況で、世間は非常に華やかで賑わっていたと記憶しています。海上保安庁はこの頃激増していた麻薬・覚せい剤の密輸、蛇頭による密航の取締りに加え、9,11テロの後の沿岸警備で、現場は疲れきっていました。土日も花金も無関係という状態だったと思います。22日の午前1時10分過ぎに宿舎で、本庁オペレーションからの不審船情報を受けた私が「手配はいいか」と聞くと、電話の向こうの保安官からは「全管区の出動を指示している」「しかし、海上は大時化で、日本海側管区の巡視船は遅れるかもしれない」と答えました。この夜、東京の上空も強い北風が吹き荒れていました。私はすぐに出勤し危機管理センターへ入りました。この時既にオペレーションには警備救難部の残業組が入り、本庁職員の非常呼集、全管区本部に対する出動指示等マニュアルに沿って淡々と進められていました。
この段階で、北朝鮮工作船にどう対応するべきか、大筋で海上保安庁は腹を決めたことになります。センターに詰めた職員はさしたる混乱も無く、この段階ではまだ不審船であった工作船の拿捕を目指して作業を進めた訳です。

 この工作船拿捕に関する海上保安庁の一連の行動は、対処方針に則ったものでした。事前に準備されていた方針に基づいて巡視船と航空機、大阪特殊部隊が出動して停船させるための手続きを行い、威嚇射撃を船体まで行なって、工作船の武器による抵抗に対して正当防衛を行なったのです。自爆した後の乗組員の身柄救助については、韓国で拿捕された北朝鮮工作船の情報を得ておりましたから、保安官と共に自爆される恐れが極めて強いため、本庁から現場に対し安全を確保した上での工作船乗組員の身柄確保を指示しました。

 この後、海上保安庁は多数の国民や内外の広範な関係者から、数え切れないほどの賞賛と労いと今後の期待の声を頂きました。捜査と以後の工作船対策を進める過程でしばしば問われたのは、「あのような危険な事態に至ることを予測していたのか。何故あのような手段を執ったのか」と言う事でした。海上保安官よくぞやった、という反面、殉職者が出なかったのが不思議なくらい危険な行動を何故執ったのだろう、という国民の戸惑いも感じました。

 漁船を装った工作船の立入検査を行うには、船体に威嚇射撃をしなければ結局逃げ切られてしまうということが、能登半島沖事件でも明確になりました。しかし、船体に威嚇射撃をすれば必ず武器による抵抗がある。巡視船側に最悪の事態も起こり得る。これが工作船拿捕作業の唯一の関門です。
 あの夜、現場に立入検査の指示を出す時点で、我々には海上保安官の安全を確保した上で拿捕できるという確信がありました。この作業で、巡視船の安全を図るには、工作船の武器の射程外、遠距離から船体に向けて威嚇射撃を行なえばよいのです。しかし、遠距離から射撃すると、着弾のばらつきがあまりにも大きくて、工作船の乗組員の身体に危害を与える恐れがあります。このため、接近もやむなしと言う状態になったのです。けれどもこの時点で、安全が確保されると信じた理由は、時化です。当時、海上は冬の季節風による大時化で4~5メートルの波がありました。この中では工作船が持っている手動式のロケットや機関銃は、接舷するほど接近しても正確な照準は捉えられません。我々は長年巡視船の武器で訓練をしているのでこのことが直感的に判っていました。一方、工作船に比べ2隻の巡視船に装備された遠隔自動照準付きの20ミリバルカン機銃は、巡視船の船体が激しいピッチング、ローリングに遭っても、目標をピタッと狙って正確な射撃ができることが判っていました。これは、工作船の方からすれば、巡視船の海上保安官を攻撃した場合、反対に自分たちも致命的な打撃を被ることを意味し、逃げ切りか、攻撃かという二者択一の選択肢以外は与えられていなかったであろう工作船が、最後まで中国船を装ったのもこのためだろうと思われます。

本庁で、この事件の処理に参画した私は、第十管区本部長を指揮官とし、工作船と対峙している現場第一線の次のような強い意志を感じていました。

 武器による抵抗を予測しながら、工作船を追跡中の指揮官と4隻の巡視船と大阪特殊警備隊の海上保安官の意思を支えていたのは、「これは自分たちの任務だ。今回工作船を取り逃がせば、国民は海上保安庁に対して絶望し、そしてそれは、我が国の安全保障体制に対する絶望に変わって、その次に来るのは想像し難い国家への不信感」という思いです。
 第一線の海上保安官の意識を突き動かして、この様な毅然とした勇気ある行動をとらしめたのは、拉致と組織的な覚せい剤大量密輸という犯罪に対し、海上の治安を司る職業人としての「許せない」という素朴な正義感であったと思います。

 国民の安全を守る責務を職業としているものが、凶悪な犯罪者と対峙したとき「自らの安全を優先し、国民の安全を蔑ろにする事への、恐ろしいほど素朴な罪悪感」を持っていることが、この様な凛然たる姿を可能にしたのです。

 この様な現場第一線における海上保安官が持つ使命感は、領海警備・経済水域取締り、海賊取締り、欧州からの核燃料輸送護衛、蛇頭・暴力団による密航の取締り、内外の無法組織による麻薬・覚せい剤・拳銃・船舶密輸などの犯罪取締まり、国内業者と暴力団による悪質密漁の取締まり、シージャック・テロ・船内暴動を対象とした数々の警備出動、対馬海峡等国境沿岸での外国船密漁取締り等の全国周辺海域での実践で鍛えた能力、たとえば夜間の大時化の現場での相手との駆け引き、拿捕のための操船技術、乗り込んだ船舶の甲板上での逮捕制圧術、事実を証拠化する捜査、爾後の被疑者の取調べ等の事件処理、犯罪の背景にある国内外の政治・経済・社会情勢の分析等から、海上保安官として法を執行するということは、自らに危険を伴う任務でありことの覚悟と、海上の治安を維持し国民の生命・財産を守る警察任務を、国民から負託されている唯一の機関であることの深い意味を飲み込んで、各人の経験の中で醸成されたものです。

 多くの実績の中から、外国人に関するものを挙げると、漁業水域暫定措置法に基づき200海里内の海域における漁業取締りが始まった昭和52年以降の外国船舶取締りでは、領海・経済水域における外国船舶立ち入る検査件数約24万3千件、外国船舶・外国人に係る殺人等海上暴力事犯や密出入国、漁業、公害法令違反等の検挙件数約5千5百件、これらに係る罰金・担保金の合計約7億円であり、最近5年間の薬物・銃器事犯の摘発では、覚せい剤・大麻等の押収量0.5トン、銃砲37丁となっています。また、国際テロを未然に防止するため、国際船舶・港湾保安法に基づき、平成16年7月1日以降昨年末までの間で、外国船約17万6千隻の入港事前通報を受理し、その船の保安措置の実施状況をチェックすると共に約1万4千隻に立入検査を行い厳格な入港規制を行なっています。

この様な、恒常的な警察業務処理が、工作船事件の際、2昼夜に亘る追跡の間、大時化のため激しくピッチング、ローリングする巡視船内で、食事も休息もとれずに、人間の気力・体力の限界にありながら、工作船の武器と対峙するための配置について、指揮官の命令を確実に実行することのみに専念し、巡視船「きりしま」の身を挺した強行接舷により日本政府の強い意思を示し、更に挟撃しようとした巡視船「あまみ」に対して加えられた自動小銃・機銃の激しい乱射の中、ビデオカメラで冷静沈着な採証撮影を行い、巡視船「いなさ」が適正的確に実施した正当防衛射撃を正確に録音録画し、そして、上空で監視中の海上保安庁航空機からロケット弾の攻撃痕を的確に撮影するという行動を海上保安官に執らせ、海上保安庁の行為の正当性(日本国政府の行動の正当性)を国内外に示すことを、可能にしたのです。

巡視船・海上保安庁航空機とその対象船舶という当事者以外が存在しない海上では、法の手続きに則った適正な実力行使と、これを証拠化する高い能力が必須であり、これを欠く場合には直ちに国内外の非難を招き、場合によっては国際紛争を招きかねないものであり、主権と国益を守る領海・経済水域の警備業務には、確固たる使命感と高度な処理能力を持った海上警察機関が必要とされる所以です。

 海上警備の特殊性の一つは、外国領海という追跡権に対する主権の壁が存在することにあり、このため、巡視船にとって相手船の行動が読めないという不確定要素の存在する状況であっても、法の手続きを踏んで現行犯で拿捕するほかに選択肢は無いということであり、海上に於ける警察業務の厳しさと困難性が此処にある、ということです。

 海上保安庁が外国船に対して武器を使用する場合は、厳格な法の手続きを踏むのは当然として、関係国に与える国際的影響を考慮すると、工作船対処のように他に手段が無い場合であり、この様な実力行使は、軍事紛争と海上保安事件の境界を挟んで、海上保安側の最も端にあることから、一歩対応を違えれば、軍事紛争へ発展する可能性が高いのです。だからこそ、我が国の安全保障体制の領海線と二百海里経済水域の外縁にはめられた緩衝装置、車で言えば外からは見えないショックアブソーバの役割をする海上保安官が、自己の危険を顧みず水平線の遥か彼方の国民の知らない洋上で、黙々と領海警備・経済水域警備に従事し、我が国周辺海域の治安を維持し、平時の事件が軍事紛争に発展しないように現場で対処してきているのです。

この事件が、我が国の安全保障に与えた意義は、
1 工作船の様な武装不審船に対する抑止力を確立したこと
2 拉致の手段である工作船を押収し、北朝鮮が拉致・覚せい剤密輸を認めたこと
3 日本周辺の治安・安全保障上の問題が顕在化し、安全保障体制の見直がされたこと
   我が国周辺海域に武装した極めて特異な構造の工作船が徘徊し、拉致、薬物の密輸、密出入国等重大な犯罪を行なっているという不安感が現実に立証されたため、内閣官房、海上保安庁、防衛庁、外務省、警察庁等関係省庁の危機管理体制の見直しを行い、工作船対応のみならず我が国周辺海域と国内における危機管理体制全般の強化を進めるとともに、不審船・工作船対策として、巡視船・航空機などを強化したことであると考えます。


 
  海上警備の課題について

最後に海上警備の課題についてお話します。
海上保安庁は、領海・経済水域の現場第一線で、巡視船艇・航空機等の部隊を運用して、外国船舶の監視、犯罪の取締り等を行い我が国の主権と国益を守ることを国民から負託されています。
海上保安庁の現場第一線の海上保安官は、政府の方針に従って、外国船の監視取締りを行い、必要な場合は外国人を逮捕しその船舶を拿捕します。従って、海上保安庁の実力が現場の巡視船艇・航空機等によって示され、その能力の限界が我が国の海上における警察業務の処理限界となることが多く、また、これは、我が国政府、世論、法律、相手国・現場にある外国船の対応によって、事案毎に異なった対応となります。

6月2日青森県深浦に入港した北朝鮮人の事案では、小さな木造の船が監視網にチェックされなかった訳ですが、広大な海洋の中でのこの種の船の発見の困難性は置くとして、先に話した広大な監視対象海域と長い海岸線を持つ海上保安官の負担について、少し数字化すると、

外国海上保安機関との比較では
                  海上保安庁   米国CG    韓国海洋警察
職員1人当り海岸線延長       2.8km  0.4km    1.2km
職員1人当り経済水域面積     363平方km 166平方km  46平方km

国内治安機関との比較では
                海上保安庁      警察      海上自衛隊
定員 (人)        12,441      288,451     45、812
                           (1/ 23)       (1/4)
    職員1人当り国民数     10,364        442    2,788
                            (23)    (4)

予算           1、891億円  3兆6,046億円  1兆892億円
                        (1/19)    (1/6)
となっており、
予算・定員について、まだまだ国民の皆様の理解とご支援が必要であると思います。

九州南西沖工作船事件の際は、様々な状況から、工作船を拿捕できると確信して行動したものですが、工作船からの激しい抵抗で被弾した3隻の巡視船のうち2隻は、正当防衛手段である武器と防弾装備が工作船対応機能を持たないにもかかわらず、武器による抵抗が必至の拿捕作業を命じなければならなかった、海上保安庁の窮状を考えるとき、海上警備の現場の実態は、国益、相手国との関係、人権、警備手法の秘匿、捜査上の秘匿から、総ての事実が公表されるものではなく、報道機関にとっては物理的に取材困難な場合が多いということ、海に対する国民の関心の低さもあって、日本の安全のために今、水平線の彼方で何が行なわれているのか、そのためには何が必要かについて、国民の間で語られることは少なく、したがって海上保安官の応援団も極めて少数の方々であり、工作船に対応可能な巡視船・防弾等の装備も乏しかっと思わざるを得ません。

その意味で、九州南西沖工作船事件の後、日本財団の強い意思で「海守」が発足したことは、海上保安官にとって多数の理解・協力者が増えることとなり、沿岸警備の面からも国民にとっても心強いことだと思います。

現在、海上保安庁は、切実な問題に直面しております。今後、更に増大し複雑化する海上警備の実態を考えるとき、海上保安官にとって、海上保安庁の体制が米国コーストガード、日本の警察、海上自衛隊に比べると、明らかに重い負担であり、確固たる使命感でのぞんでも、国民の期待に十分に応えられる体制が整っていないのではないか、といわざるを得ない現状、例えば、巡視船の46%、巡視艇の28%、航空機の41%が、耐用年数を経過し、深刻な老朽化問題に直面していることなどです。

それでも海上保安庁は、一人の海上保安官が、海洋権益の保全、犯罪の監視取締り、海難救助、海洋汚染の防止、船舶交通の安全等、何役もこなしている極めて効率的な組織として運用されていることを国民の皆様に理解して頂き、後ろから海上保安官のご家族とともに、支えて応援していただきたいのです。

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