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2007年11月14日 (水)

連載【漂揺の30年(2)】「あの子は今、どこで…」

連載【漂揺の30年(2)】 めぐみさん拉致事件 

 「あの子は今、どこで…」   

 MSN産経ニュースより

北朝鮮から提供された、拉致された直後とみられる横田めぐみさんの写真。おびえたような表情に、家族全員が涙した 「めぐみちゃんは今ごろどうしているんだろう、どうしたら助けられるんだろうって、イライラして…」。横田めぐみさん=拉致当時(13)=の母、早紀江さん(71)は、ため息混じりに語る。

 《1993年3月13日、平壌市の49号予防院で死去。朝鮮名は「リュ・ミョンスク」。77年11月から86年7月まで招待所で朝鮮語などを学び…》。拉致を認めた北朝鮮は5年前、こう伝えてきた。


【横田めぐみさんの写真展はこちら】

 ところが、帰国した拉致被害者らの複数の証言で、めぐみさんがその後も生きていることが分かると、北は「死亡したのは94年だった」と訂正。あまりに不誠実で、つじつま合わせの対応をしている様子を浮かび上がらせた。

 「95年ごろの2年間は金正日総書記の妻、高英姫氏(故人)の2人の息子のうち、どちらか1人の日本語の家庭教師をしていた」。金総書記の元側近で韓国に亡命した幹部は韓国当局に対し、こうも証言している。

 支援組織「救う会」の西岡力副会長は「めぐみさんは工作機関から金総書記の近くに呼ばれたため、北はめぐみさんの消息をそれ以上出せないのかもしれない」と推測する。

 「朝顔の花を押し花にして『記念にしてね』と渡してくれたり、一緒に『故郷(ふるさと)』を歌った」

 帰国した拉致被害者の曽我ひとみさん(48)の証言からは、北でのめぐみさんの様子がおぼろげながら浮かんでくる。昭和53年8月に拉致された曽我さんは、すぐ平壌の招待所に入れられ、まもなく違う招待所に移動。そこにいたのがめぐみさんだった。

 「めぐみさんは元気で、朝鮮語を一緒に勉強した。その年の12月まで一緒におり、2人ともその招待所を出て別々になった」

 曽我さんは別の招待所を転々とするうち、めぐみさんと再会する。

 「このときは7カ月間一緒にいて、一緒にピンポンやバドミントン、バレーボールもした」

 工作員による教育、厳しい監視。ときには地村保志さん(52)、富貴恵さん(52)夫妻を拉致した実行犯として、国際手配されている辛光洙(シン・グァンス)容疑者(78)がめぐみさんらを教育したこともあったという。日本語を話すことも禁じられた生活。「夜、寝るときに2人で日本語で会話した」(曽我さん)。

 北朝鮮側の説明によれば、めぐみさんは86年8月13日、韓国人拉致被害者、金英男氏と結婚、翌年9月13日に長女、ヘギョン(ウンギョン)さんを出産した。

 曽我さんの夫、チャールズ・ジェンキンスさん(67)は「『ヘギョン』はひとみの北朝鮮での名前。親友の名前をつけたのでは」と語った。早紀江さんは「ひとみさんのことを思って娘に名付けた心境を思うと、やりきれない気持ちになる」と苦痛の表情を浮かべる。
「めぐみちゃん、こんな所にいたのね」

 早紀江さんは、北が提供してきた写真に、涙を流しながら話しかけた。おびえたような表情でじっとカメラの方を見つめた、拉致直後とみられる姿。その後、成人後の写真も出てきた。探し求めていためぐみさんの“証”だった。

 父、滋さん(75)は「孫の姿、大人になってからの写真、結婚の様子など信じられないものが出てきた」と話すが、「(北から)帰ってきた人も、一緒に暮らしてたという人もいるのに…。大事な核心的なところ、聞きたいと思うところは、何も分かっていない」(早紀江さん)。

 横田夫妻は「本当の情報が分からない。それが一番つらい」と口をそろえる。「帰国した被害者の方は、いろんな理由で話せないことがあるのかもしれない。あの人たちも苦しいし、私たちも苦しいのです」。北による拉致の非道な現実がここにある。

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