« 渋谷街頭活動 鈴木智さん(2007/9/17) | トップページ | 連載【漂揺の30年(2)】「あの子は今、どこで…」 »

2007年11月14日 (水)

連載【漂揺の30年(1)】 「人ひとりの命は…」

連載【漂揺の30年(1)】 

「人ひとりの命は…」
 
  
MSN産経ニュースより

拉致された昭和52年の正月に自宅玄関前で写真に写る横田めぐみさん(横田滋さん撮影)  日本海に記録的な大雪が降った年だった。人気絶頂だったキャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と突然引退を宣言し、街中には森田公一とトップギャランの「青春時代」が盛んに流れた。一番流行(はや)った映画は「幸福の黄色いハンカチ」。

 政治は今年と同様、参院選があり、ロッキード事件の影響を受けた自民党が過半数を割った。自民党から分裂した新自由クラブを合わせて、かろうじて過半数を確保したが、福田康夫首相の父、故福田赳夫元首相は厳しい政権運営を強いられた。

 日本赤軍メンバー5人がパリ発東京行き日航機をインド上空で乗っ取り、バングラデシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本で勾留、服役中の仲間の釈放と身代金600万ドルを要求した「ダッカ事件」もこの年のこと。福田元首相は「人ひとりの命は地球より重い」と、連続企業爆破事件の犯人など6人を超法規的措置で釈放し、身代金を払った。

 ちょうど30年前の昭和52年はこんな年だった。
晩秋の新潟は、厚い雲に覆われる日が多い。

 「レインコートはいらない?」

 「どうしようかなあ…。今日はやめる」

 玄関で白いレインコートを持ったまま、当時41歳だった横田早紀江さん(71)は、中1だった長女、めぐみさん=当時(13)=を送り出した。それっきり、娘の肉声を聞いていない。

 夕方、バドミントン部の練習を終えて帰宅する途中、めぐみさんは友人と別れた直後に北朝鮮工作員に拉致された。連れ去られたのは、自宅からわずか50メートルの地点。

 「あの日の5日以上前、北朝鮮工作船から発信される電波が把握されていた」。ある捜査幹部はこう明かし、「あの電波がめぐみさん拉致に関係していたはずだ」と確信を深めている。ただ、当初は電波把握と拉致実行の日にちにずれがあり、北が日本の主権を侵害する事件が起きていたことは見逃されてしまった。

 なぜ、めぐみさんが失跡したのか、分からなかった早紀江さんら家族は悲しみのどん底に追いやられた。時間だけが流れ、焦燥感を通り越し、ただ打ちひしがれた日々。早紀江さんの頭には「死」がよぎったこともあった。

 「私がいなくなったら、めぐみちゃんが帰ってきたときにどうするの」。早紀江さんはその度に自分にそう言い聞かせ、思いとどまった。

 どれだけの年月が経過しただろう。朝鮮労働党の現職幹部が第三国で韓国情報機関と接触した際の情報、脱北工作員証言、電波、捜査状況を総合的に判断した結果、「北」の影がようやく見えてくるまでに、失跡から20年を要した。

 「でっちあげ」と否定し続けていた北が、めぐみさんら日本人拉致を認め、謝罪したのも、もう5年前だ。めぐみさんは「死亡」と伝えられたが、「偽遺骨」に象徴されるように「子供だましのストーリー」をもってめぐみさんの「死亡」が確認されるわけはなく、説得力は皆無だ。

 「めぐみちゃんがいる場所が分かって、あの子が持っていた物も写真で出てきて、子供ができていて、あんな大きくなっている。形としてはっきりと認められるものがある。何も分からなかった20年間と今は違う」。早紀江さんはそう話す。

 「何のために子供たちはこんなにひどい目に遭っているのか。大変な問題が日本に起きているのに…」。早紀江さんが各地の講演で語りかける言葉には、一人でも多くの国民が関心を持ち続けてほしいという願いが込められている。民意が政治を動かす力になると信じているからだ。

 先月末の家族会と福田首相の面会で、早紀江さんは「子供たちは海におぼれている状態のまま長い間助けを求めています。泳いでなり、ブイを投げてくれるなり、必ず救出していただきたい」と懇願した。ダッカ事件とは別の次元で、早紀江さんら家族が福田首相に伝えたかったのは「人ひとりの命は…」という気持ちだった。

|

« 渋谷街頭活動 鈴木智さん(2007/9/17) | トップページ | 連載【漂揺の30年(2)】「あの子は今、どこで…」 »