カテゴリー「東京集会27(2007/4/10)」の記事

2007年5月20日 (日)

東京連続集会27(11) 質疑応答

   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『質疑応答』

★質問者1

この間ですね。
警察の情報なんですが、在日韓国人(=高姉弟の事)の人が拉致されていると言うような状況がありますよね?
西岡さん、その件についてはどう考えているんですか?

★質問者2

すみません、○○と申します。
4月22日の国民大集会はなるべく多くのメディア、全世界から呼んでいただけるような方法を考えていただくと、これが凄いチャンスだと思いますので、ルーマニアの方と韓国・タイの拉致の被害者のご家族がお出でになると聞いておりますので、是非より多くの外国メディアですね。
それを呼んでいただけるように、働きかけをお願いしたいなと思います。(拍手)

★西岡力氏

先ほどのご質問についてですけど、後者の外国のメディアの人に4月22日に来てもらえないか?という事ですけども、実はルーマニアのですね。
最初にこの事を書いた記者がガブリエルさんの同行取材をしたいと、今そんな話がありまして、来てもらえれば良いなと思って、何か協力できることがあればと思っています。

それから韓国は東京に特派員がいますし、実はこの東京集会で6者協議の事を取り上げたときの事はですね。
朝鮮日報と言う韓国の一番最大手の新聞が記事にしまして、この集会が記事になったりしていますので、この次のことも案内はいつも出しているんですけども、来てくれるんじゃないか?と期待しています。

タイの方はちょっとどうすれば良いんでしょうね?
タイのマスコミは日本にいるんでしょうか?(笑い声)
いないんですか?(笑い声)

★海老原智治氏

タイの方では、この前の12月の国際会議にも私の方から「同行してくれないか?」という事を彼らに話したんですけども、これまで先ほど申し上げました家族がテレビを見たという、そのテレビ局ですね。
これがタイ国で一番拉致問題を扱っておりまして、2005年の国民大集会には同行してくれたわけですけど、今後はアノーチャ拉致について明確な情報の進展が得られるのでなければ、招聘側が経費を持ってくるんじゃなければ行けないと言っておりまして(笑い声)、そのような状況にあります。

★西岡力氏

後、高さんたちの件については私ちょっとルーマニアに行っていましたので、最近の情報をあまり見ていないんですけど、それ以前からこの話は雑誌に出たりしているのは知っていますが、渡辺さん、お母さんについては殺されたという話はあるんですね。
工作員が日本に上陸してきて身分を騙すために偽装結婚をして、必要なくなったから殺してしまったという事ですから、これは大変な主権侵害で酷い人権侵害なわけですね。
工作員と結婚したというケースは小住健三さんのケースも、小住健三さんに成りすました朴と言うのが日本人女性と結婚していたわけですよね。

そういう事がありますので、拉致という事だけがじゃあ北朝鮮による主権侵害なのか?
殺人はしても認定されなくて、拉致だけが認定される。
その場合子供の国籍は何か?と言うのが議論になっているんですけど、お母さんが日本人が、北朝鮮の工作活動の一環で殺されたか連れて行かれたかしていることについて、大問題にならなかったと言う、今までならなかったという事自体重大な問題だと思うんですね。

寺越さんの事件についても中々政府は認定をしないわけですけども、認定と言うのは立件して告発して裁判を起こすよりずっと低いですよね?
裁判所の、なんかは必要ないわけですよね。
総理大臣が決めればいいんですから、だから拉致という事の定義をですね。
法律を変えれば良いのか、「拉致等」とすれば良いのか。
「工作活動の中で日本の主権が侵されて日本人の人権が侵されている事案」と、それが「拉致等」と考えるべきじゃないかと。

それについては主権が侵されているわけですから、殺人なら良いのか?と言う話は絶対に無いわけで。
寺越昭二さんは殺されたという疑いはあるわけですね。
殺されたという事が証明されたら逆に認定されないのか?
変なことになってしまうわけですね。
拉致される途中で殺されたらそうならないのか?という事になるわけで、やっぱり非合法の工作活動が長い間ですね。
そして広い領域で行なわれていて、それが主権侵害・人権侵害があったぞと言う観点からですね。
もう一度それを見直さなくちゃいけない。

そしてもう一つ今回のことで意外なのは、あの問題になっている会社は朝鮮総連の今でも幹部である人が経営している会社であるという事ですね。
日本政府は今その幹部の人に対して、再入国許可を出さないという事で北朝鮮との自由往来を停止している制裁の対象になっている人でありますけども、その人が実際にじゃあ拉致あるいは殺人あるいは工作に関係していたのか?と。
今までは北朝鮮の人間が上陸してきて、一部の一本釣りされた・・・(聞き取れず)の在日朝鮮人を使って拉致をしたという事までは分かっていたんですが、朝鮮総連の組織全体としてですね。
あるいはその実態にある学習組と言う非公然組織を北朝鮮の、日本における工作活動非合法活動の関係と言うものが明らかになりつつあると。

そういう点では大変重大な事件であって、多分これは安倍政権になって今の体勢だからこそ踏み込んだ部分では無いか?と思いますけども、大変注目をして尚且つ国会などでですね。
拉致だけを取り上げていて良いのか?と言う観点からもですね。
北朝鮮が一体どれくらい日本の中で非合法な活動をしてきて今もしているのか?と。
それに対してなんで対応出来ていないのか?と議論していただかなくちゃいけないんじゃないかなと私は思います。

・・・集会終了・・・

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東京連続集会27(10)横田早紀江さん

   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『横田早紀江さんのお話』

本当に今日はご苦労様でございます。
本当に長い長い年月なんですけども、今日もタイの皆様の話やルーマニアの話を聞きまして、本当に金正日そのものの、本当にこの人の悪政のために全ての多くの人たちがどんなにか苦しい人生を終えていかなければならないのか?と言うような事に尽きるので。
私たちはアメリカのブッシュさんにも一生懸命お話をして来たんですけども、外交問題と・・・(聞き取れず)はいろいろと難しい問題がそれぞれの中にあって、すんなりとは行かないのかな?と言う思いで、本当に残念な思いをしておりますけども。

北朝鮮の本当にこのどうにもならないこの悪いものに対して、どんな事があっても世界中が一つになって言い続けないと、解決しない。
やっと動きが取れないところまでみんなで言い続けて、そしてあなたと喧嘩したいと思っているんじゃないと。
本当はみんな仲良く暮らしたいんだよという事を言いながら、メッセージをしっかりと全部の国々が、せめて5者と言うのは大事で一丸となってやっていくために、本当にさっき本間さんも仰ったようにせっかく首相がいらっしゃるんですから中国からその方にハッキリと、政府の安倍さんなり上の方がしっかりと本気になって思いを伝えていただきたいと思っています。
これしか、あの人が何とかならない限りはどうにもならないんですね。
こうやってやって来ても、どんなに頑張ってきても頑張ってきても、こういう事に尽きると私は本当に思っていますので、これからはどうなっていくのか分かりませんけども、最後まで頑張らなければと思っております。

それから、アメリカのナショナル・ジオグラフィー・ソサエティというところの社長さん、アブダクションという映画の試写会をしたときに、そちらの方からブッシュ大統領の方にそのDVDを送ってくださったらしいですね
そしてブッシュ大統領がブッシュと言うサイン入りで、そこの今の会社のところに「私のローラ夫人と一緒にしっかりとこれを観ました」というお返事が来まして、私は前にお会いした時の事をもう一度思い出して書いてくださったというお話で、それのコピーが早速入りました。

そういうふうにいろんな所で働いてくださっている方がたくさんいらっしゃいますし、さっき主人が申しましたようにポールさんのこともありますし映画もそうですけども、いろんな方がめぐみを、あの子は13歳という事でどうしても名前がめぐみめぐみという形で捉えてものですから、どうしてもめぐみという個人とお受け取りになるかもしれない人が、私は気がかりでいつも思うんですけど、必ずこれはめぐみだけの事ではなくて本当にいつも講演でも言っていますけど、全部の被害者。
めぐみと言う名前に一緒にくっついた全部の苦しんでる人たちという事ですので、その点だけはよろしくお願いいたします。(拍手)

★横田滋さん

それから映画がDVDになるという話は、アメリカのカーベィさんからFAXで頂いたんですけど、日本では6月1日からDVDが発売される事が決定になりました。

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東京連続集会27(9)本間勝さん

   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『本間勝さんのお話』

0001146m


 
 
 
 
 
 
 
 
 

今日はタイから海老原先生、遠いところご苦労様でした。
本当にアノーチャさんの環境を、今兄貴も言われたとおりですね。
うちの八重子と本当に同じような年代、境遇。
ただ違うのは八重子は3歳と1歳の子供を残して連れて行かれた。
悲惨な結果になっているわけです。
これが大きな違いですね。

それで大韓航空機爆破というものは、ソウルオリンピックの妨害のために北朝鮮が仕掛けた大きなテロですね。
で、今度恩家宝首相が中国から来日されますけども、この機会を捉まえてね。
是非、北京オリンピックを成功させたいのならば、北東アジアからこの悲惨な拉致問題を是非解決させて、その時真に平和な祭典にさせてくれと、首相じゃないかと。
そういう言葉をね。
是非安倍さんが恩家宝さんに発していただきたいと思います。

そうすればね。
北朝鮮もこの拉致問題を解決させなければ、とても世界の祭典の仲間入りには出て行く顔が無いんだという事をね。
本当に思わしてやりたいと思います。
以上です。(拍手)

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東京連続集会27(8) 横田滋さん

   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『横田滋さんのお話』

0001145m

 
 
 
 
 
 
 
 
 

今の問題に特に家族会が発言はありませんので。
最近の我々の動きと言いますと、体調が悪くて講演会を余りやっていませんけど、1日の日に新潟県の上越市に行ってきました。
上越市の一番大きな文化会館、定員1500人のところに1800人の方が来られて、第二会場を作ってやりましたんですけど、非常に盛況と言いますか。

それから青学会館で、今度ポール・ストーキーさんのコンサートが5月の18日・19の二日間行なわれます。
そしてこの19日の分については「めぐみさんコンサートと銘打って、二日間の収益金をめぐみ基金と言う、これはどんな形にするか誰が管理するとか何に使うかとか決まっていないんですけど、そんなふうに振り込んでくださるという事です。
そしてこの曲は日本人でもエイベックスのクミコさんと言う人がカバー曲を歌いたいという事で、それは了解を取ったという事ですが、こういうようなポスターが出来まして。
そして今はこういうチケットは、チケットぴあとローソンとイープラスと言うところが扱っているそうですが、このケースですと新星堂と言うレコード店も店舗が協力してくださっているという事です。

それから今日は、後で平田さんの方から話があると思いますけど、前から日本政府は制裁法で万景号が来るのを止めていますけど、延長するという事が新聞に出ていましたんですが今日の閣議で決定しましたので、青学会館での記者会見の後で囲みがありまして、その席で我々も意見を発表しております。
それから明後日には諸君と言う文藝春秋の雑誌に、櫻井(よしこ)さんが「家族会の10年」という事で、対談をすることになっております。
以上です。(拍手)

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東京連続集会27(7) 西岡力氏・海老原智治氏


   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『西岡力氏・海老原智治氏の講演』

★西岡力氏

お二人の話で特に無いんですけど、二つだけ補足をしたいと思います。
タイの何人かの疑惑があると今飯塚さん話してくれたんですが、報道されている件で週刊文春がかなり詳しくやってくれたんですが、タイ人の女性たちが平壌にあるカラオケ店で働いていたということですね。
藤本さんと言う金正日の料理人が勤めていた寿司屋の同じところにあるカラオケ店で、日本の銀座からのママも女性もいるという話でして、その人たちは全員帰国しているんです。
ですから、ただし平壌で働くといわれてなくて、東京で働くといわれていたらしいので、騙されて連れて行かれてお客があまりいなくてお金が動かなくて怒っていたと、そういう事はあったようですが。

アノーチャさんが拉致された後80年代の話なので、同じタイ人という事でアノーチャさんの事を知らないか?と、そういう観点からタイ政府も関心を持っていて、実は海老原さんと私とは去年藤本さんと会いまして、その話を聞いたんですけども、藤本さんからも全員帰国しているという事を確認をしました。
藤本さんもそれ以外のタイ人、アノーチャさんの事は知らないという事でした。
それ以上そこから情報が進んではいないという事で、海老原さんはその帰った人たちが今どこに住んでいるか?捜して、そのうち何人かの人に接触して、藤本さんからではなくて直接その帰った人に会って、本当に平壌でアノーチャさんにあった事はないか?噂を聞いた事はなかったか?とそういう調査をされています。
そういう段階ですね。

それからもう一つの事は国連の対北朝鮮人権非難決議の件ですが、今飯塚副代表の方から少しお話があったんですけども、タイの外務省に行きました時にですね。
向こうから、「タイ政府は国連安保理事会の対北朝鮮制裁決議には忠実に従って出来る事はやっています」という話があったんですね。
タイは今安保理の常任理事国でも非常任理事国でもないんですけど、安保理事会で決まりますと国連の加盟国はそれに従う義務があるんですけども。

そこで私の方からは、それは大変良いことでありがたいことだと思うけれど、去年ですね。
国連の総会で北朝鮮人権非難決議と言うのが採択されたと。
丁度飯塚さんと島田さんと増元さんと一緒に我々ニューヨークに行った時に、その審議が国連の中でされていまして、日本側が北朝鮮の拉致問題を取り上げると北朝鮮側が強制連行800万人、200万人虐殺、20万人セックス・スレイブと言う話を総会の場でやっていましてですね。
そして日本側が反論権を行使して、人数が多すぎると、日本は謝っているとかって言っている。

もう少し事実に踏み込んで反論して欲しいと話をしていたんですが、そういう事についてタイ政府は実は去年その決議に賛成しなかったんです。
その決議の中には日本の外務省が外交努力をしまして、元々はヨーロッパのEUが出して来た決議で、北朝鮮内部の人権問題。
政治犯収容所の問題ですとか、信教の自由の問題ですとか、あるいは脱北者に対する問題だとかがメインだったんですけど、そこに「北朝鮮が外国人に対して行なっている人権侵害も入れるべきだ」というもので、諸外国に対する拉致問題もその中にきちんと入っているんですね。

それについてタイ政府は賛成しないで棄権した。
「タイ政府は拉致問題を認識して日本と協力して対応すると言っているけど、国連総会の場で拉致が書いてある問題について棄権するのは如何なものでしょうか?」と、「来年は是非賛成してくれませんか?」みたいな話を私がしたんです。
もう少し直接的ではなくてソフトな言い方で。
そうしたらば向こうが言ったのは、「タイ政府は国連の場で国の名前が出ている決議、国を名指しした決議には原則的に棄権する事にしているんだ」と。
「これは北朝鮮の人権状況が悪くないとタイ政府が認識しているという意味ではないんだ」と。
「国連の場で一国の内政問題について、名指しで何かすること事態に反対なんだ」と、言う外交方針を説明したんですね。

自国に人権問題を抱えている国と言うのは、いつ国連が自国の名前を出した決議をしてくるか分からないという事があってですね。
そういう反応を一般論としてする事があるんですね。
それに対して私らでは、「それはだから一般的な非難決議で北朝鮮の内政の事を言うならそれはそうかもしれないけれど、これはタイ国の主権が侵されてタイ人の人権が侵されているんだから、タイの一般的な外交方針とは別にこのケースについては、タイとして自国民を守るという観点から賛成すべきじゃないでしょうか?」と言う話をもう一回したんです。
そしたら、「担当部署と検討します」という外交官らしい答えが返って来ましたけど。(笑い声)

担当のシントン(?)さんと言う人は東京の在タイ大使館で公使をされていたので、「私は佐渡まで行ってジェンキンスさんに会いました」と。
「この問題は酷い」と。
「大体13歳の少女を連れて行くのは許されることでは無いでしょう」という話をしていらっしゃって、日本人拉致についても大変関心の高い方ではありました。
ただ、タイ政府の方針がそうだったという事で、飯塚さんはちょっと忘れられたという、前の日に在タイ日本大使館の公使の方が夕食をご馳走してくださった時に、その話題がちょっと出たものですから、そういう事になったという事でした。
私からは以上です。

では、海老原さんにこの後を。

★海老原智治氏

若干補足させてください。
タイ政府の拉致問題に対する姿勢という事はあまりお話をしないですけども、タイ政府は一貫して今まで正式に「拉致被害者」と言う言葉を使った事はありません。
「行方不明者」という事を公式に言っております。
これは革命以後の政権になってもこの件についてはきっちりと継続されています。
これは担当者が常に言っておりますのは、「これはタイと北朝鮮の二国間問題である」と。
ですから「二国間交渉の枠組みで対話で問題を解決したい」

その一方で「拉致問題一般の情報と言う意味では、日本に蓄積されている情報は多い。
それを是非提供いただきたいし、我々が提供出来るものは日本に提供したい。
しかしそれは日本と共同戦線を組んで統一的に当たっていくという事ではなくて、あくまでも対話、北朝鮮との二国間関係の間で交渉して行きたい。」
そのようなスタンスが一貫しております。

そのような中で去る7月にクーデター前の前外相が北朝鮮の亡くなった外相にですね。
地域フォーラムの後に二国間会談を行ないまして、アノーチャの問題に関するタイと北朝鮮の二国間作業部会を設置しようと提案を具体的に行ないました。
タイ側は第一回の会談で平壌に行く準備は出来ている。
ただ北朝鮮の返事待ちだという事で提案をしまして、これを拉致問題に関して日本以外の国が、具体的な提案を北朝鮮に行なった国と言うのはほとんど、まぁレバノンがいますが、無い事だと思っていまして画期的であったわけですけども、それがのらりくらりと回答を引き延ばすうちにタイではクーデターとなりまして、今現在まで北からどうするか?と言う回答は得られていない。

それから拉致被害者ですけど、アノーチャ以外の拉致被害者ですけどももう一件気になる案件がありまして、7月31日に韓国において、初めてタイの偽のパスポートを使った北朝鮮工作員が拘束されたと。
これはニューヨークタイムスをはじめ、かなり大きく記事になっております。
これがどういう案件でなったか?と言うと、その時には拘束されたときにはタイ人に偽装したわけでは無いんですけども、逮捕された後に分かったのはかつてタイにも入国していたと。
原子力発電所の写真・米軍基地の写真を撮って、それをバンコクの北朝鮮大使館に持って行っては送っていたと。
名前はマノウ・スギンというタイ人の男性の名前を使ったと分かっております。

私の方でもちょっとこの案件を追っておりまして、マノウとは実在した男性で亡くなっているのは分かっています。
(西岡氏より「実在したんですか?成りすましという事ですか?」の声)
マノウとは何者なのか?
拉致されたのか?
それとも知らないうちに身分を使われてしまったのか?
それとも協力した人なのか?
そういうのも、まだ分かっておりません。

そのような形で北朝鮮の不正規な活動によってタイの国民および国家の安全が脅かされているという事例、これは先ほどの8人のタイ人女性が騙された案件も、これは「東京に連れて行く」といわれてどういう経路を辿ったのかと言うと、・・・(聞き取れず)に連れて行かれた。
飛行機を乗り換えてモスクワに連れて行かれた。
モスクワから平壌に来られた。
そんなに乗り継いたのは何故かと言うのは、足取りを消すためらしいですね。

工作員を疑われる人間が日本人を名乗って騙して連れて行った。
平壌にいた間も、・・・(聞き取れず)に連絡は出来たと。
しかしそれは完全に日本にいることを偽って日本に行くという会社の名前で日本に手紙を書かせれば、日本から平壌に転送して受け取って、もちろん内容も検閲されるわけですけど。
そのようなことで、これは返しましたから拉致ではなかったですけども、そのような北朝鮮の不正規な活動で、国民の安全・国家の安全が脅かされた事例としてアノーチャの案件、この8人の案件、それから7月31日の案件。
これ一セットにしまして、私の方では早速今回統一的にあたるという事。
また私の方でも出来る事はしたいと、・・・(聞き取れず)しているところでございます。
私の方は以上でございます。

★西岡力氏

今の話と一つだけ関連してですけど、ルーマニア政府がドイナさんの問題についてどう対応しているか?と言う事を先ほど報告するのを忘れましたけど、もう一度いいますけども。
ルーマニア政府はジェンキンスさんの本が出た数ヵ月後に、北朝鮮にそういう人物がいるのかどうか?情報を求める事を外交ルートでやった。
そして去年の12月の国際会議のレセプションで、在東京のルーマニア大使ご本人がレセプションに出て来てくださいまして、私ちょっと話をしたんですけども、しかし「ドイナと言う名前はありふれた名前なので苗字が分からないからまだ特定出来ていないんだ」と。
「我々はジェンキンスさんにも会って情報を貰ったんだ」と大使が言っていたんですね。

ですから、「そういう人がいるかどうか調べてくれと言う事で、拉致と断定して返してくれと言っている段階では無い」という事を言って、タイ政府と大体似ているかなぁと。
そして今回ガブリエルさんに会って分かったんですが、ガブリエルさんのところにルーマニア政府は全く接触をしていないと。
怒っているんですよ、ガブリエルさん。
このようにマスコミは報道して日本はですね。
実は我々が行った時に、在ルーマニア日本国大使本人が4時間かけて一緒に行ってくれまして、それで事情聴取をする時にいてくれたんですけども、「日本は大使も来てくれて家族会も救う会も来てくれているのに、ルーマニア政府はまだ私のところに接触が無い」と言っていました。

次の日にルーマニアの次官に会った時に、「ルーマニアとしてはまだ被害者の身元を確認出来ていない」と。
「その作業をしている段階である」と。
「その作業として北朝鮮から本当にドイナと言う女性がいたのかどうか?を情報提供を求めてるが返事が来ない」と言う言い方をしていました。
その点ではタイ政府は、アノーチャさんの家族が名乗り出た直後に、辞められたクーデター前の外務大臣が面会をしてくださり、総理大臣も国会でですね。
あれは記者会見でしたかね?
大使と会った時ですね。
この問題を政府として取り上げると直後に言及したりしているんですね。

タイ政府の取り組み、タイは対外的には認定したとは言いませんけど、家族にも会ってそして現場の郡長さんはタイ政府として認定したんだと言ってましたよね?
という事ですけども、認定した後北朝鮮に対して行方不明者と言う単語を使って、話し合いで何とかしてもらおうとしていると。
2000年の頃の河野外務大臣を思い出すような(笑い声)、姿勢だなぁと思って飯塚さんと私で、「大体日本でもそんな事をやったんですけど上手く行かなかったんです」と、「やっぱり圧力をかけなければ駄目だと思います」と、言う話をしたんですけども。
タイのシントン(?)さんと言う方は、アノーチャと言う女性が北朝鮮に拉致された疑いがあって、今行方不明になっていると。
この問題が解決されな限り北朝鮮とタイの関係は正常とは言えませんと。
そういう点では我々も一定の圧力はかけているんですという言い方をしていました。

日本人拉致被害については2ヶ国ともけしからんと言うふうに言っているんですね。
ルーマニアの政府も日本人拉致については大変同情すると、けしからんと、雄弁に話されていましたから、事情をずいぶん日本の外務省も説明しているんだなという事は分かったんですが、逆に自国民についてはどうするのか?と言う事の姿勢でまだちょっと大変弱くて、実はルーマニアもタイも北朝鮮と今国交があるわけです。
通常ならば自国民が拉致されていることが本当に分かったら、断交するという事があっても良いくらいの重大なことだと思うんですけども、そういう事まで話は行っていない。
そういう事のようですけども。

ただ、タイでもルーマニアでもマスコミが一定程度報道し始めていますし、タイは今イ人が入っている協会が講演会をやる。
半分以上、バンコクでやったのは聞いているのはタイ人で、全部彼に通訳していただいたんですけど、そういう点でタイの人たちも自分たちの問題としてこの問題を考え始めていると、いう点で少し状況は変わって来て。
今度はガブリエルさんに来てもらって、タイの活動なども聞いてもらってもう少し勉強したいなと思っていまして、ルーマニアでも海老原さんみたいな人が出てくれば良いなと思って、ルーマニアの日本人から電話が来ていて、「通訳したいとか拉致はけしからん」と言っている人がいたみたいで、その人と連絡を取って、ルーマニアの中で何か活動が出来ないかな?と今思っているところです。

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2007年5月14日 (月)

東京連続集会27(6) 飯塚繁雄さん

   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
                  07.4.10 友愛会館にて

『飯塚繁雄さんのタイ訪問報告』

0001143m 皆さん、こんばんは。
いつもお世話になっております。

今説明があったように、私と西岡先生と3月の20日から24日まで、タイへ行って参りました。
もちろん目的は拉致被害者がいるタイ国、並びにその家族の方と連携をとりながら、北に対して国際的な包囲網をがっちり固めていこうという気持ちでおりまして、早く被害者を救出したいという目的でございます。
今海老原先生から事細かく説明がありましたので、私の方からはそこに無い話を若干かいつまんでご報告します。

このアノーチャさんの実家、スカムさんの家はですね。
大体チェンマイ市内から28キロと言っていましたね。
非常な田舎でしてね。
写真にもありましたように、いわゆる高床式の住宅なんですね。
風通しが良くて、上の部屋は窓を開ければ光が入ってくる。
風も入る。
そういう事で昔からそういう知恵を集めた住宅でした。

そこではスカムさんはもちろん、甥っ子のバンジョイさん、それからその奥さんたちにも会いまして、私たちが来るという事で地元のマスコミ・日本のマスコミもいましたけども、相当数来ましてですね。
回りはびっくりしていたという状況なんですが、先ほどもちょっと説明ありましたように、スカムさん非常に気の毒でこの短期間に衰えてしまってですね。
私よりも9歳若いんですけど、頭真っ白、それから耳が聞こえない。
それから足もですね、その高床式の階段を上がるのがやっとだと。
2~3日前までは全然降りて来られなかったという話も聞いていますけども、結局そういう状況の中で、お父さんも平成5年亡くなりましたし、早く妹が帰ってくることを望んでいると非常に毎日毎日のように思っていると。

私たちが行ったときにですね。
「わざわざ遠く日本から家まで訪問していただいて本当にありがとう」と、涙を流しながら言っておりましたけども、「これによって私も体が弱っているけれども非常に勇気付けられた」と、「元気付けられた」という事で非常に感動しておられました。
やはりその中でも「これからも皆さんと共に、一緒になって家族が帰ってくるまで戦っていきたい」と、気持ちだけはしっかりして強いものを感じております。

それとアノーチャさんが残していったポータブルラジオと言うのがありまして、写真が小さくて見えないんですけども、このラジオをですね。
お父さんがいつも身近において、「アノーチャ、早く帰ってきて欲しい」という念願を込めながら、いつも傍に置いていたと、いう事を聞かされました。
それからアノーチャさんが買ってきたいろんなお土産とか写真とかですね。
部屋においてありまして、いつもそれを眺めながら毎日毎日帰国を待ち焦がれていたという状況を聞いております。

丁度このデータを見ますとですね。
話は変わりますけど、うちの田口八重子の状況とかなり似ているんですね。
拉致された年代も1978年、年齢も22。
うちは22、アノーチャさんは23ですけど、そういった事ですとか、それから働きに出ていた状況とかですね。
非常にそういった面ではアノーチャさん非常に若い時からきれいで、22歳の時の写真もきれいで、そういった関係でも狙われていたかな?と言うそんなことも思いました。
4月22日に先ほども仰いました「国民大集会にも来てください」というようにお願いもしてきましたし、当然ながらスカムさんは無理なので甥っ子のバンジョイさんが来てくれることになりまして、2回目ですけどもさらに皆さんと一緒にこういった活動を是非していきたいという強い意思でございます。

たまたまさっきも出ましたけど、青パパイヤのサラダですね。
さすがに私と西岡先生、食べられなかったです。(笑い声)
一口頂いたんですけどね。
何か異様な味がしまして、酸っぱいのか何か、ちょっと、もちろんそういうお国柄の食事ですからそれなりに好きな人もいると思うんですけども、わざわざ私たちが来るというんで、前の晩作って出してくれたんですね。
「是非食べてください」と。
「これはアノーチャがいつも帰ってくるたび作ってあげているんだ」と。
ちょっと食べたんですけど、残念ながら本当に一口だけで終りました。(笑い声)

アノーチャさんの家族の話は先ほど詳しくしましたので、午後からですね。
チェンマイの県庁に行きまして、チェンマイの副知事に面会しました。
知事は何かいなかったらしいんですけども、話したところ、県庁と言うのはあくまでも内政・内務の関係だけで、外務との関係は一切分からないし、何も出来ないと。
「地元のアノーチャさんの身辺状況をつぶさに調べて政府に報告します」と、「外務省に報告しています」というような事だけだったんですね。

我々がわざわざチェンマイまで来たという事については、非常に日本の活動も更なる理解が深まったし、出来れば何かお役に立ちたいというそういう気持ちはありましたけど、具体的にはあまり活動の中では入り込む感じがしませんでした。
もちろん状況はすでに調べちゃたわけですね。
ですから後は「何か変わった情報があればそれにしてはきちんと報告したい」という事でした。

夕方6時半からタイと日本の友好フォーラムという組織がありまして、先ほど先生が仰ったような支援者の団体もあるんですけど、そこで講演という事で、そこにはバンジョイさん、海老原先生、それからタマサート大学のワリントンさん、女性の先生ですけども来てくださって、それで私と西岡先生が若干お話をしたと。
海老原先生に全部段取りから通訳から何から全部やっていただいて、本当に大変だなぁと言う感じはしたんですけども。
もちろん来てくださった方々は話をいろいろ聞いて、特に拉致が国際的になってきた事を西岡さんの話を感銘を受けて聞いておりましたけど、さらに日本での拉致の実態ですとか、あるいは拉致の解決のための実態ですとか、そういったものを非常にその状況は理解できたという事を言っていましたし、タイ国としましてもですね。
そういったある程度追いつくように私たちも出来ることは何でもしますと、言うような参加者の話もありました。

後は先ほどの出身地の郡長さん、名前ちょっと忘れましたけども、その人が若干お話しまして、その人がアノーチャさんの拉致に関する状況を調べて特定まで持って行った人で、非常にはっきりとその内容が整っておりまして、日本にも行ったんですよね?(西岡氏「はい、そうですねの声)
日本の集会でも挨拶をしましたけど、そういったときにもいつも参加をして頂いているようです。

それからその前ですがバンコクに移動しまして、行った夜は日本大使館の藤原公使の招待で夕食会を開いたんですが、そこには小山一等書記官、それから先ほどのワリントン先生と海老原先生含めて懇談を致しました。
懇談の内容は忘れました。(笑い声)
要するに、こういう一切含めてですね。
国際的にこういった問題がクローズアップされていく中で、とにかく捨てておけない問題だという事で認識を深めていただいたという事になると思います。

その後23日にタイの外務省に行きまして、先ほどちょっとお話がありましたように、タイ政府の拉致問題の担当者と言うのがおりまして、それぞれ面会しましたけども、その中でシン・トンウン(?)日本部長さんが面会されまして、特にその日本部長の話によりますと日本とのこの問題に関する情報交換はしょっちゅうしてますと。
それからどういう取り組みをしているのか?
あるいはタイとしてもどういうふうにしていかなければならないか?と言うことを考えています。
一貫してこの問題が明確になってからそれぞれ対応しているところですと、言う話がありました。
先ほど話したクーデターが起こって無政府状態のはずですけども、政府が変わっても北の大使館を通じて交渉を続けていくと。

これはタイと北朝鮮は国交があるわけですね。
外務省から大使館を通じてそういった話は持ち込める。
しかしながら、我々の感想としてはですね。
一応話は聞くようなんですけども、全くコメントは無いと。
この問題の共同作業部会を作ろうという事を、提案・要求しても北はこの話をただ持ち帰っていくだけで何の返答もないという事で、タイの外務省としては北との交渉は非常に難しいと。
明日、明後日に解決するような簡単な問題では無いという事を理解と言うか、認識しているようです。

それから私もおや?と思ったのは、タイに7名の拉致疑惑者がいると言う話をしましてね。
これは明確では無いんですけどもそういった人たちもいてですね。
その情報も取りたいんですけど中々取れないと。
何人かの関係者に連絡すると、「協力したくない」と言う返事が返ってくるようなんですね。
ですからそれらを考えてもまだまだ北の拉致に関する被害者と言うか、たくさん出てくると予測されるんですね。

丁度アノーチャさんが拉致されたのは北朝鮮とタイが国交を結んだ後なんですね。
国交を結んでもそんなこと関係なくその国の人を拉致して連れ去る。
いう事が一つ言えるのと、それからもう一つ30周年に再度申し入れたけど返答が無い。
だから国交があっても北朝鮮は正常な状態ではない、というのがタイ政府の外務省がハッキリと認識しているようです。
そういう中でさらにこの問題の追及については、強く解決に結びつくような事柄を要求していくという強い態度は示しておりました。

何か4月に首相が日本に来たんですね。
ちょっと私うっかりしましたけど、その時にもタイ国としての役割をきちっと果たすべく、日本の政府・外務省と協力してやっていきたいと。
タイとしては取りあえずアノーチャ問題について、引き続きやるという強い意思を示していたようです。

それから話はちょっと変わりますが、国連の安保理事会、これは前回北朝鮮非難決議については、いわゆる1718決議ですけど可決されましたけども、タイ国としてはですね。
いろいろ伝統がありましてね。
特定の国を名指す議案については棄権をする。
反対をしないという事よりはいいんでしょうけれども、賛成はしないんですね。
棄権をするという事をハッキリと言っていますが、これの背景とか考え方とか良く聞きませんでしたけども、そういう態度を貫いているようです。

それから午後はですね。
バンコクでのタイ日友好フォーラム、これも拉致問題の講演会を開催しまして、約60名くらいの方が参加されましたけども、主に西岡先生の拉致問題の国際化という事について詳しく説明をし、みんなで手を組んでこの問題を何とか解決して行こうと言うそういった話でしたけども。
ナロンさんですね。
このフォーラムの副会長さんもお見えになっていて、そこでもやはりこの問題については放ってはおけないと。
強い態度で臨んでいくという態度でお話も伺っています。

日本人の方が多かったんですけども、在タイ日本人ですね。
その他、若い方もいまして、こういった拉致問題に対する理解を深めたと。
日本とかあるいは他国の北による拉致の実態だとか、その辺の解決への取り組みだとか、いう事が良く分かったと。
私たちもやれる事があれば努力を惜しまないつもりですというような話も聞いております。

その後は私たちの泊まっているホテルで現地の報道陣と記者会見をしまして、今回の訪問についての目的あるいは成果を思い、今後の方針等を聞かれましたけど。
要するに一人でもそういった被害者を抱えている国としては、もっともっと怒って欲しいというような事も含めながら、ともかくさっきも出ました北に対する拉致に関する件での強い包囲網を作っていくんだと、言う事をちょっとお話しておきましたけど。
もちろんそういった目的で行っておりますので、そういったお話でコメントをしておきました。

後は余談ですけど、バンコクって言うのは気温が39度なんですね。
我々成田を出た時は17度だった。
20度以上も気温の差があってですね。
ちょっと急に行くとまいりますね。
ですからさっきのワリントン先生の日傘を借りまして、それで西岡先生と町を歩いて。
そうしないととってもじゃないけどね、歩けないというか、慣れないせいもあるんですけども。

そういう状態の中で皆さんいろいろ活動していただいて、特に今回海老原先生につきましてはピンからキリまで全部お世話になりまして、本当に助かりましたしお礼申し上げたいと思います。
私の方からは以上です。
ありがとうございました。(拍手)

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この集会の録音・写真撮影・ネット公開に関しては主催者の同意を頂いております。 

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東京連続集会27(5)海老原氏タイ報告3

   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
                            07.4.10 友愛会館にて

『海老原智治氏 タイ人拉致被害者アノーチャさん救出運動報告 その3』

511

ジェンキンスさんの本の中の記述から、それから証言から北朝鮮でのアノーチャさんの情報をまとめますと、概略次のような事になっております。
1978年にマカオで失踪します。
拉致です。
その同じ年に78年に23歳から24歳の時、元米兵のラリー・アブシャーと結婚をします。
その2年後、1980年には平壌市内の立石里(リプソクリ)ある家に住む。
この立石里にある家と言うのが曽我さん・ジェンキンスさんが住んでいたのと同じ区域でして、ジェンキンスさんの家とは50メートルと離れていない近いところだったという事です。

しかしその3年後1983年には夫のラリー・アブシャーが家で死去してしまいます。
その為にアノーチャは独身に戻るわけですけれども、1984年、今度は北朝鮮の中で転居をします。
立石里にある新しい4世帯用の住宅と言うのが出来まして、アパートですね。
下に2部屋、2階に2部屋。
1階の2部屋にはやはり米兵のパリッシュさんの一家と、ドレスノクさんの一家が住んでいる。
2階の2部屋にはアノーチャさんと曽我さん・ジェンキンスさんが住んでいる。
アノーチャは一人だったのでそこには指導員が同居していたと。

そのような状況にあったわけですけども、1989年にはどこかへ転居することになってしまった。
これはどこに行ったのかはジェンキンスさんは分からないと言っております。
聞くことも出来ない。
この数ヶ月前に、北朝鮮当局によって在北朝鮮のドイツ人と結婚させられることになっていたという事です。
この1989年に転居しまして、転居した後に一度ばったり、ジェンキンスさん・曽我さんが同じ年に平壌市内の外貨ショップでアノーチャさん一度だけ会っているというんですけど、それが最後の出会いであったという事です。

512これが北朝鮮からジェンキンスさん・曽我さんが持ち帰りましたアノーチャさんの写真です。
この左の小さく写っている女性、この後ろの女性がアノーチャさんであるという事で、この女性についてはタイ国内の人物鑑定において、重要な根拠となった写真でして、これをタイ当局の政府。
具体的にはアノーチャさんの出身地の郡を統括している郡役所と言うのがありまして、郡役所の方が家族・友人・関係者と言う方にこの写真を見せて証言を取ったんですけど、ことごとく「これはアノーチャに間違いない」と言う証言が取れたと言います。
人物鑑定の大きな決め手になった写真でございます。

513
 
 
 
 
 
 
 
 
  このような事がありまして、2005年12月にはジェンキンスさん・曽我さんと東京で面談致しました時の写真がこれですね。

514

同じ年麻生外相とも、他の国の拉致被害者家族の皆さんと共に、家族会と共に面会しています。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

515 これはタイ国内での活動の様子なんですけれども、私どもタイ国内でもこのタイ人拉致というものをタイ社会に発信したいと考えまして各地でこの活動を行なっております。
まだ微々たるものでして、またタイ社会の関心も低いものですから、困難も多いのですけど、これは私の方の勤務大学で学生向けの講演会を開催した時の写真です。

 
 
 
 

516

また市民集会と言う事も開催しております。
これは初めてチェンマイで開催した時の市民集会の写真です。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

517 2006年2月には、タイの首相に直接私どもから救出の嘆願書を手渡す事をしました。
当時の首相と言うのは、今はもう首相では無いですけどタクシン首相と言う方で、これは報道でご存知の方もいるかと思いますけど2006年9月にはタイでクーデターが発生しました。
それで政権転覆したわけですけども、そのクーデターで追われた首相がこのタクシン氏でして、実はアノーチャの出身郡と同じところの出身者なんですね。
そのようなことから家族としても首相に頼めば、クーデター前は首相は物凄い権限を持っておりまして、首相に頼めば何か進展があるのでは無いか?と期待も持っていたんですが、具体的なアクションが起こる前に首相はクーデターで追われるという事になってしまいました。

518 これはつい先日です。
西岡副会長、飯塚副代表がいらっしゃった時のスカムさんとの面会の写真です。
これ、この時にですね。
アノーチャさんの実家の方である料理を準備してもてなしました。
それと言いますのはこの左手にある青パパイヤのサラダ、これはアノーチャさんの好物であったと。
それのために家族の方ではアノーチャが帰ったとしたら、まずこれを真っ先に食べて貰いたい。
そういう料理なんだと、それを準備して飯塚副代表の方に振舞ったわけです。
味の方は、分かりません。
西岡副会長の方で後で。   

 
  そのときにですね。
これまであまりスカムさんも、このスカムさんがお父さんも亡くなっているので家族を代表する形で、アノーチャの拉致問題に対処してきたんですけど、かなり強い発言をするようになってまいりました。
これはこの前のテレビの画面から撮った映像ですけど、「アノーチャ早く帰ってきて欲しい。こんな政府は間違っている。北朝鮮は間違っている。」
実際話した時はもっと長い論調でありまして、「こんな事をやる指導者・国、これが正しい国なのか?そんなものが存在して良いのであろうか?」
かなり強い口調で思いを表現したわけです。

521

 
 
 
 
 
 
 
 
  522

で、このちょっと髪がですね。
すみません、前の写真と比べますと髪がですね。
このように真っ白になっているんですけども、2006年の写真を見ますとまだ真っ黒い髪をしているんですね。
染めていたわけではありませんで、これですね。
こんな、若々しいというかまだ、それが1年後には真っ白になっていまして、実は2006年の8月に急に血液の感染症になってしまいまして、突然危篤と言う事になってしまいました。

意識不明になりまして、私もその日に飛んで行って病院に行きましたら、医者の方が「どうなるかは今日・明日が山だ。もちろん50%50%で分からない」という状況でありまして、それが幸い回復しまして、このように歩けるようになったんですけども、実は今耳が聞こえません。
話せば自分の言いたい事は言えるんですけど、こちらのいう事は分からないので、今回の飯塚副代表の話も息子のバンジョイさんがですね。
私がタイ語で通訳した事を一生懸命紙に書いて、書くと父に見せて、それを読んだスカムさんがそれで急いで返事を言うと、そのようなわけだったんでありますけども。
家族もこのような健康、この問題長引かせてはいけない。
そういう思いを私も支援者として強く思います。

これちょっと映像が・・・(聞き取れず)なってますけどすみません。
それから私どもの活動なんですが家族と共に社会的働きかけの一環としまして、政府の方にも願い出る事を繰り返しております。
前のスライドでは写真ありませんでしたけども、クーデター前の外相に面会を申し出まして、外相の方からも強い言葉でこの問題を重視すると言われました。

しかしその外相も2006年の9月のクーデターで首相ともども政権を追われまして、私どもの心配の一つはそのような政治の混乱の中で拉致問題の対策がどのように取り扱っていくのか?
内政に手一杯になっている中で問題が消し去られてしまうのか?
またこれまでに北朝鮮がタイ政府に対して積み上げた事柄、これが引き継がれるんであろろうか?

523 この辺非常に不安だったんですけども、2006年の12月に外相に会いましたときにも、「クーデターの後も政府の姿勢には全く変わりは無い」という事が明言されました。
それはマスコミにも外相が同じ言葉を伝えております。
さらに外相の方からこの問題は「私のスケジュールに組み込んでいく」という強い言葉がありまして、「政策変更は無い。アノーチャの問題にもタイ政府は一貫して取り組んでいく。」
そのような事が改めて革命後の現暫定政権からも表明されたわけです。

私どもの方ではそのようにタイ政府への働きかけ、タイ社会への発信、それから家族の支援、そういう事を支援活動として行なっています。
その中でも私どもで重視しておりますのは、この出版活動がございます。
これですね。
これのちょっと前置きをいたしますと、タイにおいて拉致問題を語るのに非常に困難な点、いろいろあるんですけども、ひとつはですね。
北朝鮮と言っても分からない。
韓国と一緒なんです。

そのような中で「北朝鮮に拉致される」と言いますというと、はなはだしい場合は「あの韓国でしょ?ああいうところに行くんだったらいいんじゃない、帰ってこないのよ、アハハ」とそんな印象が非常に多い。
これは実は北朝鮮と言うのはどういう国なのか?
そこで行なわれている人権侵害の実情、これを体系立ててタイ社会に問わない限りは、この問題は十分に理解されないだろう。
そのような思いを強く持っております。

そうしますと個別の拉致問題と言う事を発信しますのと同時に北朝鮮の人権状況、これを体系立ててきちんとタイ社会に問う。
これが極めて重要な救援活動のための要素となってくると考えております。
その為に一つはこのジェンキンスさんの本、これの版権を取得いたしまして、タイ語で出す準備を行なっております。

524 それからこちらは、この本は英語の本なんですけど、脱北者の面接集です。
脱北者の人が北朝鮮内でどんなに酷い人権侵害を遭ってきたのか?また目にしてきたのか?
これは強制収容所みたいなものも含めまして、そういう著書なんですけど、私の方で版権取得しまして、つい1月にですね。
翻訳が終了しました。
これも7月くらいにはタイ社会に問いたいものと考えております。

脱北について若干申し上げますと、タイは今現在脱北者がおそらく中国を別とすれば、もっとも発生している国の一つであろうと思います。
私どもが把握している情報では、昨年1年間でタイ当局に拘束された脱北者が約1000名。
今年1月から4月までの数値が昨年度の1月から4月のペースをはるかに上回るペースになっている。
今年においてはおそらく1・5倍から2倍くらいの脱北者が入っている可能性があります。

これの人権侵害、拉致は外国人に対する人権侵害ですけども、脱北は自国民に対する人権侵害の結果として発生していると考えましたなら、北朝鮮による人権侵害と言うのは、タイには脱北で非常に関わりが深いわけですけども、そういったことも含めてタイ社会には何も認識されない。
脱北者と言っても何で来ているんだろう?
それで終わりです。

また報道の傾向を見ましても、日本のマスコミの方とは全く違いまして、非常に個別の一つ一つの事件を気にするだけで、その背景を掘り下げるという事も全くありませんので、そういった事も含めて北朝鮮で何が起こっているのか?
これを体系立ててタイ社会に問うという事、これを私どもの支援団体の大きな使命であると考えております。

スライドはここまでです。
私どもの支援団体、まだまだ人も少なくて、また活動も非常に限られているんですけども、家族と非常に密接な関係を保ちながら、草の根レベルですけどもかなり動きを出しております。
今後とも日本国内の皆様を含めましてご支援をいただければと考えております。
また今回明らかになりましたルーマニアの家族、この4月22日にはタイの家族もこちらに参りまして、タイの家族もルーマニアの家族と会うこと。
そして連携する事を非常に期待する事をしたいと言明しておりますので、タイとルーマニア、タイと韓国と言った連携も今後進められればと考えております。
私の方、長くなりましたがここまでとさせていただきます。(拍手)

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東京連続集会27(4)海老原氏タイ報告2

  「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『海老原智治氏 タイ人拉致被害者アノーチャさん救出運動報告 その2』
411 412

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 これはアノーチャさんが卒業しましたノーンセ寺小学校の現在の様子です。
これはやはりノーンセ寺小学校ですけれども、古い校舎が残っています。
30年くらい前からあるという話で、アノーチャさんもここで学んだのかどうか。
ノーンセ寺と言うのは名前の通り、お寺に併設されています。
タイの学校と言うのは日本の寺子屋と同じでして、由来がお寺に発祥があるわけですけど、今現在もお寺の境内に隣接しているというケースが非常に多くてですね。
名前もなんとか寺学校と言うんですけども、ここも同じようなケースでして、そこの本堂がこのようになっているわけです。
ここは家族のいつも行くお寺であって、馴染みのお寺であったという事です。413 414
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 これはアノーチャさんの家がある集落の中の様子です。
これは典型的な北タイの集落の様子でしてずいぶん静かな町なんです。
これも同じ町並みです。415
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここまではアノーチャさんがチェンマイにいたときのだったわけですけど、続きましてバンコクに出稼ぎに出た時の事をお話します。
 前後して恐縮ですけど、19歳くらいまではこのように実家で家業の手伝いをしていたわけですけども、その後心機一転してバンコクに出稼ぎに行くことにしたという事です。
 理由は何なのかあまり家族は言わないんですけど、その頃のその集落の一般的な考えとして、ちょっと家計が苦しい人はバンコクへ出稼ぎに行くのが非常にその辺では一般的だったから、アノーチャもそのような次元の一人だったというような言い方を家族はしています。
 
  それが1973年から78年の間、19歳から24歳までであったわけです。
 アノーチャさんの出稼ぎの経緯、村の女性2~3人とバンコクへ出稼ぎに行くということにしたと。
 行く前はどこで働くかも何も決めずにとにかくバンコクに出て、あちらに出た後に仕事を見つけたと言っております。
 しかしそれで運よくあちらで仕事が見つかったんですけれども、実家の方には仕事は何で職場はどこだという事はついぞ言わなかったという事を家族は言っております。
 
  その後、我々が当たったところ、風俗関係の仕事をしていたという事が分かっております。
 家族の方はそういう事は口幅ったいのでそんな言い方をしたんでは無いかと思います。
 それで年に2~3回は実家に帰って来たといいます。
 そうしますとたくさんお土産を持ってきて、家族や親戚や近所に分けていったという事です。
 そのお土産には当時タイでは最高級デパートであった大丸デパート、これは日本の大丸の支店ですけれども、そこの袋を抱えて持ってくることが度々あったということです。
 
  非常に父親に愛情を持っておりまして、実家に帰るたびに父親とは非常に親しくいろんな話をしていたと。
 このときアノーチャさんはもう母親を亡くしておりまして、母親は非常に幼い頃亡くなっているので、記憶にもほとんど無いらしいですね。
 そのような為に肉親として親として残されているのはお父さんだけだという事なので、非常にお父さんと親密な関係にあるようです。
 バンコクでどんな暮らしをしているのかと言うのも、お父さんとは非常に詳しくいろいろ話をしていたらしいんですけど、そういった内容は他のきょうだいですとか親戚には話さなかったという事を言っております。
 
  その中で非常に大きなお金をアノーチャさんはバンコクで稼いでいたようです。
 家族にとっても稼ぎ頭であった。
 この時期サンカンペーンで実家の月収がタイバーツで500~600バーツでしかなかった。
 これを日本の金銭価値に直してもちょっと今のレートにしても何とも言い難いんですけれども、そのような収入であったのが、アノーチャさんが毎月実家にバンコクから仕送りした額が、一回に1000から2000バーツであった。家族みんなで実家が働いても一ヶ月に500~600バーツなのに、アノーチャ一人が毎月1000~2000。倍から4倍の金をもって来たということです。
 非常に大金を送ってきましたから、生活上頼りにされていたんだろうという事が分かります。
 また非常に大きな大金を送ってきた事がありまして、1977年には1万1千バーツ、2万4千バーツ、そういう記録が残っております。
 
  この当時タイの公務員の初任給が3000バーツですとか、その程度であった時代ですから、それを上回るこのような大きなお金をアノーチャはバンコクで稼いでは実家に送ってきていたわけであります。
 非常に家族思いだったと思います。
 それからには1977年、22歳には名前をブアパーと言う名前からアノーチャと言う名前に替えたと言っております。
 ここまでがアノーチャさんのバンコク時代の主な事象ですね。 
  
 

416

 写真をご覧ください。これがバンコク時代のアノーチャの写真です。1977年ごろ、21歳。これはパスポートを作るために撮った写真であるという事です。おそらくマカオに出稼ぎに行く事が決まった後に撮影したのだろうと思われます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

417 アノーチャさんがバンコクでかつて住んでいたという場所の現在の様子です。
今現在はこんな状態で工事現場みたいになって何もないんですけど、以前はここにですね。
アノーチャさんは風俗関係に従事していたということで、この界隈はかつてその職業に従事する女性がもっぱら住む長屋のような借家があって、そこに50人から60人の女性が細い道に住んでいたという事です。
その借家そのものは取り壊されてしまって残っておりません。

421
 続きまして、アノーチャさんの最後の帰郷。
1978年の月は不明ですけど、年の頭の頃であったという事です。
そこで家族3~4人と食事をする中でお兄さんのお嫁さん、兄嫁に次のように話したといいます。
「私はバンコクに出稼ぎに行っている間に、これまで3回外国に仕事に行っている。今度バンコクに戻ったらマカオに行く予定になっている。これが外国で仕事をする最後でこれが終ればもう行かない。その後はずっとバンコクで仕事をしながら時々また実家に来るから行き来をするから、だからお姉さん、それまでは父の面倒をよろしく頼みます。」
こういう事をお兄さんのお嫁さんに託したんだそうです。
そういう話をしてバンコクに戻ったアノーチャですけども、それから連絡がなく、今現在まで全く連絡が無いという事になっております。422
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 これが失踪先のマカオで1978年に撮影されたと思われます写真です。
22歳ごろだろうという事です。
そのようにして1978年の5月ないし7月に拉致をされてしまったわけです。
拉致の経緯についてはまた別途お話をしますが、それを家族が知ったのは次のような経緯であるという事です
もちろん拉致されたという事は知らないわけですけども、いなくなったという事自体は78年に知っていたという事です。
それがですね、次のような事情です。423
 
 
 
 

 
マカオに同行した友人から実家に手紙が届いたと。
その手紙にはこのように書いてある。
「お父さんとスカムさん、私と話すためにバンコクに来てください。」
大事な話があるというわけです。
その為に出て行きましたら、バンコクでこういう話をした。
「私とアノーチャはマカオに仕事に行った。1978年5月21日にアノーチャはマカオで姿が見えなくなった。失踪するこの日、アノーチャは友人と昼飯を食べに行った。その友人に『もし私が2~3時間姿が見えなくなったら警察に届けてくれ』というちょっと謎めいた話をして、その日本当に帰って来なかった」という話です。

この友人がアノーチャの家族に続けたところでは、「その時私はアノーチャが本当に失踪したとは思わなかったので、マカオで警察にも届けなかったし、実家にも知らせなかった。」
ちょっとどこかに行って帰ってくるだけだろうと思っていただけだったんですね。
「しかし6ヶ月今経ってしまって本当に行方が分からなくなったと思われるので、今こうして私が実家にお話しすることにししたんだと。
要するに概略このような話があったわけです。
これをもちまして実家の方でもアノーチャがマカオでいなくなったという事を、1978年11月、分かったわけです。

しかし、分かったのはこれだけでして、どうしていなくなったのか?どこへ行ってしまったのか?何一つ分からず、それがようやくまた情報が得られたのは2005年、テレビのニュースで初めて分かったという事になったわけです。
それからですね。
バンコクでの話に行った時にこういう話を聞かされたと。
「アノーチャがいなくなったときと同じ時間に香港人も二人いなくなっている。一人は香港の宝石店のオーナーの娘で、もう一人はおそらくその従業員のようだ。」
何でそんな事が分かったのかと言うと、「マカオではその3人の行方不明者の尋ね人の張り紙が今町中に出ているんだよ」と、そんな事を聞かされたという事です。

424_1

 
 
 
 
 
 
 
 
 

それ以来全く78年以来情報がなかったものが、2005年になりましてテレビニュースで突然、また消息に触れることになったわけですけども、きっかけになった重要な本がこれです。
ジェンキンスさんがですね。
ジェンキンスさんの本はそのようにタイ人拉致の、まさにこの本から始まったというくらいの重要文献という事で、私の方では是非この本をタイ社会に問いたいという事で、本の版権を取得しましてすでにタイ語の翻訳を終えたところです。
現在出版のために準備にかかっております。
この7月くらいにはタイ国内で頒布できるのではないかという状況になっております。425

 
 
 
 
 
 
 
 
 

ジェンキンスさんの方からアノーチャの拉致の経緯と言うものが詳細に証言されております。
これは本の方には詳しくないんですけど、2005年の12月にですね。
アノーチャの家族と私の方で東京の国民大集会に参加した折に、ジェンキンスさんに面接の機会を救う会・家族会の方でアレンジして頂きまして、その中でジェンキンスさんから語られたアノーチャの拉致の経緯は次のようなものです。

マカオのアノーチャの店、これはマッサージ店、ここに2~3人の男が数度訪れて「一緒に外に写真を撮りに行かないか?」と何度も頼まれたと。
アノーチャはどうも乗り気がしなかったようなんですけども、店のオーナーが、これはポルトガル人。
アノーチャに「お前、一緒に行けよ」と命令したわけです。
ボスが言うんでしょうがないんでアノーチャは行くことになるんですが、日中町を歩いて海岸で写真を撮っているうちに夕方になった。
浜辺に来たところで突然アノーチャを縛って猿ぐつわをはめた。
注射を打って、外から見えないような長い草が繁っているところにとりあえず寝かされたと。
その状態にした後犯人たちは、一旦車でどこかに去っていきまして、数時間経ったらまた戻ってきた。

戻ってきた犯人はアノーチャを担ぎ上げてですね、歩いて運んでいったと。
丘のようなところを越えていって農村の近くを通ったわけですけども、その時には「もし少しでも声を出したら、打ちのめしてお前を失神させるからな、絶対声を出すなよ。」
まぁそういう脅し文句を言ったと。
そしてマカオで船に乗せられます。
そうしましたら船の上に二人のアジア系の女性がいた。
2~3日船の上にいまして北朝鮮に到着した。

アノーチャは船が北朝鮮のどこに着いたかは分からなかった。
そのまま平壌の招待所に連れてていかれて、ある日当局が招待所にいる人を庭に集めて一人ひとりを選抜したと。
「アノーチャ、お前はここの部署に行け」という事を言われまして、そこがジェンキンスさんのいる部署と言うのか、居住区域だったわけです。
このような事がジェンキンスさんの方からお話の中で分かってきました。

・・・その3に続く・・・

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この集会の録音・写真撮影・ネット公開に関しては主催者の同意を頂いております。

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2007年5月12日 (土)

東京連続集会27(3) 海老原智治氏-1


   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
07.4.10 友愛会館にて

『海老原智治氏 タイ人拉致被害者アノーチャさん救出運動報告 その1』

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タイから参りました海老原と申します。
タイの方で、「北朝鮮に拉致された人々を救援する会・チェンマイ」という支援団体を立ち上げまして主宰しています。
救う会の方ではタイの連絡調査員という事で・・・(聞き取れず)いただいております。
今日はタイ人拉致、今現在判明しておりますのはアノーチャ・パンジョイさん1名ですけども、それにつきましてアノーチャさんの生い立ちを写真等を含めまして紹介いたしまして、それからタイ人拉致が判明した経緯、それから最近のタイにおける拉致に関する動きに関しまして約1時間ほどお話させていただこうと思います。

タイ人拉致被害者、今申し上げましたけども、判明しておりますのが1名です。
タイ人の女性、北部タイのチェンマイの出身でアノーチャ・パンジョイさん。
1954年4月12日生まれですので、今現在52歳になります。
4月になりましたらば53歳になります。

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1978年ですね。5月の21日または7月2日に、出稼ぎ先のマカオから拉致されたことが明らかになっております。
 この拉致が明らかになった経緯を若干振り返りますと、次のようなことです。
 西岡先生からもお話ありましたジェンキンスさんの証言。
 ジェンキンスさんと曽我さんが1980年から1989年まで9年間、平壌郊外に住んでいたときに、そこで米兵のラリー・アブシャーさんの妻として1980年にやって来たタイ人女性、それがアノーチャ・パンジョイさんである、という事です。
 
  約9年間に亘って曽我さん・ジェンキンスさんと非常に親密な交際を続けて、89年に、ちょっと前後しますけども、最初の夫が米兵のラリー・アブシャーさんですけど、結婚後2~3年で亡くなります。
 ずっと独身時代を続けた後、1989年にドイツ人と結婚するという事になって、このドイツ人と言うのは北朝鮮に在住するドイツ人、名前も分からないという事ですけども、結婚することになってそのために北朝鮮当局によってどこかに転居させられた。
 それがジェンキンスさん・曽我さんとの別れだったという事です。
 
  それを曽我さん・ジェンキンスさんが2005年の5月に救う会・家族会の面接によって証言しまして、北朝鮮から持ち帰った写真もある。
 それを示したわけです。
 それがですね、2005年の10月にジェンキンスさんの「告白」と言う本が出まして、ベストセラーになったんですけども、そこに非常に詳細にアノーチャとの交際が記されていたわけです。
 それが大きなニュースになりましたために、これがテレビのニュースになりまして2005年の10月の末に、タイのテレビで「アノーチャと言う女性について拉致されたのでは無いか?」と言う報道がタイで大きくなされました。
 テレビがこれを取り上げた、そして写真も取り上げられました。
  それを偶然アノーチャの家族がそのテレビ番組を見ておりまして、「これは私の家のアノーチャに違いない」ということでテレビ局に名乗りでまして、それがきっかけとなって身元が判明したという事になります。
 従いまして2005年の11月に身元が判明致しまして、それから今までですから身元が判明してから1年半という事になっております。
 
 私の方の活動を若干申し上げますと2005年の11月に、アノーチャさんの身元確認のために西岡副会長と増元事務局長がチェンマイの方でアノーチャの家族に面接をするという事をしまして、その際に私の方でお目にかかりまして「タイの方で何かお手伝いできる事はないか?」と申し出たことで、私がこの問題に関与し始めたきっかけとなっております。
 
 その直後に支援団体を立ち上げまして現在に至っているわけです。
 
  それではこれがこれまでのタイ人拉致被害者アノーチャのごく大雑把な経緯なんですけど、ちょっと写真を見ていただきながらアノーチャと言う人の半生を説明させていただこうと思います。
 これはアノーチャさんの実家の写真です。
 

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 今実家にいますのは実兄のスカムさんと言う方です。
スカムさんの写真写っていませんけど、ご両親はすでに亡くなっておりまして、特にお父さんは2005年にアノーチャの拉致が判明するわずか4ヶ月か5ヶ月前に94歳で亡くなっております。
今実家を守っていますのは長兄のスカムさんで、この方は2年前の国民集会にも参加しております。
このような木造の家で典型的な北タイの農村のごく一般的な家庭という感じです。

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アノーチャの個人情報ですけれども整理いたします。姓がパンジョイさん、で名前がアノーチャ。なぜかアノーチャと言う名前を改名しておりまして、これは元々はブアパーと言う名前であったという事です。
 これは拉致の1年前、1977年にアノーチャに改名しております。
 ニックネームはイット。生年月日が1954年7月12日。ずっとチェンマイに生まれてからずっといたわけなんですけど、その後バンコクに出稼ぎに出てまいりました。
 失踪年月日が1978年の5月21日または7月2日、23歳の時。この日取りですけれども、ちょっとまだ情報が錯綜しております。確定しておりません。これは失踪地マカオに同行した友人がおりまして、私どもも直接電話で何度か話をして直接聞いているんですけども、そこで言うのは5月21日だというんですね。
 その人たちが言うには、アノーチャのビザが5月の30日で切れる予定であった。ビザだかパスポートだかちょっと忘れてしまいましたが、だけどアノーチャは「もう延長しないよ、タイに戻るからと言っていたので21日で間違いないといっているんですけど、マカオ当局の情報では新聞の方にですね。
 二人のマカオ人女性と失踪したタイ人女性がいるという事が大きく報道されていまして、7月2日と言われていましてこの齟齬がちょっと情報を取っているんですけど、まだ分かっていません。

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アノーチャさんの家族構成、このようになっております。両親がおりまして、お父さんソンさん、1911年生まれの方で2005年に先ほど申し上げましたけども、アノーチャさんの件がニュースになるものの数ヶ月前にですね、 94歳で亡くなっております。
 この件、今実家を守っておりますスカムさんが言いますと、まさにですね、「あと数ヶ月で娘の消息を伝えられたのに本当に残念だ」と繰り返し繰り返しスカムさん言っておられます。
 お母さんのノイさん、この方はかなり早くに亡くなっておりまして、あまりアノーチャさんにはお母さんの印象というのはほとんど無いだろうという話です。
 長子、3番、お姉さんがいます、ブンユアンさん。
 この方は早くに亡くなっておられます。
 で、第2子、4番目スカムさんですけど、これがアノーチャさんのお兄さん。アノーチャさんは、ブユンアン、スカム、アノーチャの3人兄妹の末っ子であるという事です。6、7、8はスカムさんの奥さん、それから息子さんになります。

 

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  これがその家族の写真です。
一番左が甥のバンジョンさん。
その隣がスカム・パンジョイさん、アノーチャさんのお兄さんになります。
私を挟みましてスカムさんの奥さんのトーンさん。
これがスカムさんの孫ですね。
アノーチャさんとは面識のない、かなり下の世代になります。

 
 
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 アノーチャさんがどんな人であったのか?
私ども何度も何度も尋ねているんですけども、家族あるいは友人と言う人が口を揃えて言うのは、次のようなことです。
非常に優しくて親切気のある人である。
それから友人が多い、社交的で友人が多い。
様々な物事に関心がある、知りたがりである。
度胸があって人を恐れない。
それから化粧をしたりして身なりを綺麗にするのを大事にする人。
移動や旅行が好きである。
このようなことが伝えられております。
そんな性格背景もあって失踪地・マカオに出稼ぎに行ったのでは無いか?と思われます。
 
 
  

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ではアノーチャさんが拉致されるまでの半生をちょっと 詳しく見てみることに致します。
1954年にチェンマイ県のサンカンペーン郡のファイサーイ村と言うところで出生致しました。
出生時の名前はブアパーと言う名前だそうです。
1961年に同じ村にあります、ノーンセ寺小学校に入学いたしました。
1964年にここを卒業と言うのか修了していると。
これは小学校4年生なんですけど、当時タイでは小学校4年生までが義務教育でして、それをして卒業という事では無いんですけど、当時金銭的に豊かでなかった方は4年生修了で教育は終ったという方が多数いまして、義務教育修了という事でみなしております。

アノーチャさんもそのような経緯だったんですけど、それが終りましてすぐにもう10歳の頃からですね。
家業の手伝いに入りました。
初期のころは実家が農家であったために農業の手伝い、これは田んぼを作ったり果物を作ったりそれから葉タバコを作ったりという事を家がやっておりまして、その手伝いをわずか10歳の頃から行っていたという事です。
その後タバコ工場の雇われ人としまして、北部タイの各地の工場に行ったと。
これも極めて幼い頃でして、わずか10代の12~3歳くらいの頃からそんな事をやっていました。
しかしタバコ工場の労働と言うのは非常にきつい労働でして、それは幼い女性には辛いという事でもうそういうのは辞めようと言う事で、家業の手伝いに専念してまた家に戻ってきたという事です。

そのようなことで家業の手伝いを中心に仕事をしていたんですけども、チェンマイ市内の職業技術学校に若干通いまして、美容ですね。
美容師になろうと思って美容を習ったと。
そんな事をした後には、今度は実家にいながら様々な農業関係の物品の販売を行なうこともあったと聞いています。

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これが小学生ごろのアノーチャさんの写真です。
それからこれが実業学校で美容を習っていた頃の写真だというのですが、すみません。
どれが、写真自体がきれいに出来ていないのですみません。

 
 これが先ほどの実家の写真に戻りました。
これは実家の家ですけども、この家につきましては甥のバンジョンさんがこのような事を言っています。
「1978年にアノーチャがいなくなってから、家は何度も建て直している」と。
しかし祖父、祖父と言うのはバンジョンさんの祖父ですからアノーチャの父、それからアノーチャの兄はそのたびに、「アノーチャが帰ってきてどこに帰って来たか分からなくならないように同じ形で直そう」という事で階段の形ですとか階段の前ちょっとベンチのようなところがあったりするんですが、それをまったく同じ形で直し続けてきたという事です。
  

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2007年5月 7日 (月)

東京連続集会27(2)

   「タイ人拉致被害者アノーチャーさんを救うぞ!東京連続集会27」
                         07.4.10 友愛会館にて

『西岡力救う会副会長のルーマニア訪問報告』

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今の話とマスコミの報道で大体お分かりと思いますけど、後でお話があると思いますが私たちはジェンキンスさんの本が出る半年くらい前に曽我さんに会ってですね。
日本の政府を通じてそれぞれの国の政府に情報提供をしたんですけれど、中々政府がたくさんいる失踪者から該当者を見つけ出すという作業は難しくてですね。
中々家族に辿り着けなかったんですが、タイではテレビの力で、ルーマニアではインターネットの力で、そして家族の人たちが諦めていなくて捜し続けていたという事があって、離れたところにある情報が結びついて家族が名乗り出ることになったという事を目の当たりにしました。

ルーマニアの場合は、一昨年の10月にジェンキンスさんの本が出まして、その直後にルーマニアの新聞が「ルーマニア人の被害者がいると本に書いてある」と言う記事を書いたんです。
しかしその記事を、ブカレストから4時間くらいの田舎に住んでいるガブリエルさんは気付かなくて、分からなかったんですね。
その記者はその記事を書いた後ですね。
いろいろ情報収集をしていたと。
我々は我々でルーマニア政府に情報を外務省を通じてお話していただいて、日本政府もそういう情報提供をしていたという事だったんですが、実はそのルーマニアの新聞記者が救う会のHPを見ていてですね。
救う会にメールを書いたというんですが、我々はそれに気がつかなくてですね。
返事が出せなかったと。

こちらは政府ルートで捜そうとしていたんですけども、向こうは個人的にしていて、それを我々が気がつかなかったという事もあってですね。
向こうも捜していてこちらも捜していたんだけども、気付かなかったと。
ガブリエルさんは新聞の紙は見なかったようですけども、仕事でコンピューターの修理をやっている方で、去年になってですね。
いろいろとネットをやっていたら、どうもルーマニア人の被害者がいるようだという事がだんだん分かってきて、それで自分ひとりでいろいろ情報を集めていらっしゃったようですけども。

一方ルーマニア人の新聞記者は、イギリスのドキュメンタリー監督が北朝鮮に入って、ドレスノクさんと言う人のインタビューをしていると言うのをネットで知って、イギリスのテレビドキュメンタリー監督に電話を直接かけたりして「情報をくれ」と。
「ルーマニア人に関することだけでいいんだ」と言ったけども、「いや我々もその映画が公表されるまでは取材の事を外に出せないんだ」と言われて、情報をもらえないでいたと。
そしたらですね。
今年の3月にそのイギリスの監督が作ったドキュメンタリー映画がアメリカのテレビで放映された。
それを家族のガブリエルさんがインターネットで、アメリカのテレビ局のサイトに入ってそれを見たんですね。

それで自分のお姉さんの名前と同じ名前の、ある程度ネットで情報を集めていましたから同じ名前だと思ってたわけですけども、その息子が、北朝鮮で生まれた息子の名前が自分と同じ名前だと。
ガブリエルと言う同じ名前で、尚且つその写真がフィルムに映ったもんですから、それがお姉さんの顔に似ているということで、これは間違いないんじゃないか?と思って、そこでルーマニアの記者の記事を過去に遡って辿りついていましたから、ルーマニアの記者に話をしたと。
ただルーマニアの記者の方もイギリスのフィルムを作っているという話は聞いていたから、それで確認をしてみてこれで間違いないと思って、家族が名乗り出たという記事を今年の3月に書いています。

ですから北朝鮮はですね。
多分イギリスの映画監督を北に入れてドレスノクさんのインタビューを取らせたのは、ジェンキンスさんが嘘を言っていると。
ジェンキンスさんが日本に来て、北朝鮮がタイ人を拉致しているとかルーマニア人を拉致しているとか酷い目に遭ったとか言っていると。
そんな事はないんだと。
脱走米兵は待遇を良くしていて、脱走兵が主体思想を信奉しているんだという事を言わせるために取材させたんですね。
ドレスノク氏はそういう事を言っているんです。
北朝鮮としてはジェンキンスさんの情報を否定しようとして取材させていて、それによってフィルムが出来てアメリカで放送されたと。

ところがそれをルーマニアで見ている。
ルーマニアでは放映されていないんだけど、そしてその一部に写った甥の写真を見て間違いないとなって、ルーマニアで新聞記事が出て。
それを我々はルーマニアで新聞記事が出たのを分からなかったんですけど、そしたらワシントンにあるですね。
自由アジア放送と言う、これはアメリカ政府がお金を出してやっている北朝鮮向けの短波放送なんですね。
外の情報を北朝鮮の中に入れるという放送局が、ルーマニアの新聞がそれを書いたのを情報を入手して、ラジオ放送でそれを流して、そのラジオ放送でやったものをまたネットで出るわけですね。

それを見て韓国の韓国日報と朝鮮日報が韓国語で報道して、それが韓国日報と朝鮮日報は日本語のサイトがありますから、それが日本語のサイトを見ていた人が分かって日本でも報道されて、その時私は丁度タイにいて、海老原君と一緒にいたんですけど、私のところに電話がかかってきて、そしてもう一回東京の社会部の私の知り合いの記者に「調べてよ」と言って電話したりしている間にどんどん話が進んで、日本のジャーナリストではNHKが一番最初にガブリエルさんのところへ行って、その後テレビ朝日が行って、朝日新聞が行ってインタビューを取って。

そこでその後、そこで多分朝日新聞だと思うんですけど、朝日新聞の記者の人からブカレストから救う会に電話がかかってきて、「ガブリエルさんが来週家族会と救う会の人が来るといっているんですけど、いつ来るんですか?」と言われて。
まだ連絡先も分かっていなくて行くことも決めてなかったんですけども、多分私たちがバンコクで記者会見をしたときに、「それが本当ならいかなくちゃならないと思います」とかと言ったら、それが報道されたのが、向こうはネットを見ていますから来てくれると思ってしまったみたいで、それ出来てくれるというふうに言われたと電話がかかってきたりして、それで我々は行くようになったという事で、情報がですね。

だからルーマニアと佐渡にある情報が、ルーマニアと佐渡が直結しないでロンドンがあったりワシントンがあったりしてですね。
韓国があったりしながら飛んで結局結びついて、調べてみたらば名前もドイナと言う名前で、家族もお父さんは軍人ということで、そして78年に拉致された。
大体アノーチャさんも78年、同じ年で。

それから後今回ですね。
ジェンキンスさんの本に書いてないことで我々確認しようと思ったのは、島田さんとですけども、去年の12月に東京で国際会議をやりまして、その為にジェンキンスさんに話を聞きに行ったんですね。
「ドイナさんについてもっと詳しく教えてください」と言って教えてもらった情報は、ドイナさんのお父さんが軍隊を辞めるきっかけについて教えてくれたんですね。
「軍隊の中であるパーティーが開かれて、そして軍の自分の上司の将軍との間でちょっとトラブルが起きて、それで軍を辞めさせられた」という話だったんです。

それで私もこの事が頭にあったもんですから、今回お母さんと弟さんに会って「お父さんが軍隊を辞めたいきさつを聞かせて欲しい」と言ったら、1958年に、ずいぶん早く辞めているんですね。
「軍隊の中でお父さんの意見と上司の意見が合わなくて辞めさせられた」と。
その後運転手をやったり、いろんな職業を転々としたと。
軍関係の職業には就いてないんですね。

トラブルがあって辞めさせられたというのと、意見の違いでというのは主観的な物の言い方の違いで、実態としては同じ事を言っていると思いまして、その事は本にも書いてないわけですから、事前に準備することができない情報も一致しまして、間違いないなという事ですね。
ジェンキンスさんと曽我さんが、ドイナさんのいろいろ写している写真を見て、ジェンキンスさんが「これは間違いない」と言っていることがありまして、間違いないと思ってるわけです。

後すみません、話がちょっと前後しましたけど、拉致された経緯。
イタリアに行って結婚して離婚して絵の勉強をしていたところ、香港で個展を開かせてやるとか。
私がジェンキンスさんから聞いたのは、「日本で絵の勉強をさせてやる」とか言われて騙されて北朝鮮に連れて行かれたというんですけども。
現場で聞いてきたのは、「イタリア人と恋愛をして美術学校の1年生の時に結婚をしてイタリアに行って、そこで絵の勉強を続けていて離婚をして、そして絵の勉強を続けていた時ある日本人を名乗る男性が近づいてきて、日本で画廊を持たせてやる」と言ったんです。
お母さんに「大変これはいい話だ」と言って、「うちの経済的な問題は全部解決する」と言って喜んで電話をして来たと。
そのいきさつも一致するわけです。

という事で、間違いないだろうというふうに思いまして、アノーチャさんのときもそうだったんですけど、間違いなければ一番心配なのは向こうでどういう暮らしをしているのだろうという事だと思いまして、行く前に曽我さんに電話をしてドイナさんの思い出を教えてくださいといったらば、「大変手先が器用な人だ」と。
「料理が上手くて、ミシンを買ってきて生地を買ってきて自分で型紙を作って服を作っていた」と。
「ロールキャベツとイタリア風サラダとピザの作り方を私は習ったんだ」と。
「それから生地からワンピースを作ってもらった」と。
「曽我さんと曽我さんの娘二人全部に作ってくれた」と。

いう話を聞いてその話をそこでしましたら、お母さんが涙が出てくるんですね。
どういう暮らしをしていたかと言うのが分かると思い出してしまうんですね。
そしたらガブリエルさんが「いや実はそのロールキャベツはうちのお母さんの得意な料理なんだ」と。
そして「うちの母もミシンで裁縫が上手いんだよ」と。
「それはうちの母から習ったんですよ」というふうに弟さんが言って、そしたらお母さんは、急に思い出を話してくださいといったら、「良い子で話を良く聞いてくれて、実は17歳年下のガブリエルが生まれた時、妊娠して歳が離れているから恥ずかしい」と思っていたら、ドイナが「お母さんそんなに恥ずかしがる必要は無い」と。
「可愛い子が生まれてくるから産みなさい」と。

「そして生まれてきた子に名前を実は娘のドイナがガブリエルとつけたんだ」と。
「私が裁縫の仕事をしていたり料理の仕事をしていたりすると、美術学校の勉強で忙しいにも拘らず、朝早く起きていつも手伝ってくれた」とか、わぁ~と思い出を我々の前で話すわけですよね。
ここでもそれぞれの家族に思い出を語っていただきましたけど、それと同じで親は自分の子供の事をずっと覚えていているんだな、と。
そして一番やっぱり残酷なのは、どうなったか分からないでず~っといると言うのは、文化とか体制とか関係なく本当に家族を苦しめていることなんだなと、拉致と言うのは本当に酷いことだなと実感して帰ってまいりました。

「ジェンキンスさんに会えるでしょうか?」と言う話をしましたものですから、「22日に国民大集会をします」と。
「そこに来てくださるのならば、是非我々の方で招待をしたい」と話をしまして、是非ガブリエルさんはという事で来てくださるということになりました。
以上です。(拍手)

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この集会の録音・写真撮影・ネット公開に関しては主催者の同意を頂いております。
   

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