カテゴリー「ファン・ジョンヨブ氏の証言」の記事

2007年4月11日 (水)

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】韓国での10年

北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】韓国での10年

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】韓国での10年

 かつて北朝鮮で金日成、金正日親子に側近として仕えた黄長●氏(85)は亡命から10年が経った今も、韓国内で北朝鮮民主化活動を行う脱北者団体のシンボルとして講演や講義、執筆活動に多忙な日々を送っている。金大中、盧武鉉政権の対北融和政策を批判する舌鋒(ぜっぽう)は鋭く、親米反北勢力の代表格でもある。その黄氏が韓国の現状や今年の大統領選挙、自身の今後について語った。(ソウル 久保田るり子)

6カ国協議は惨敗

 「私が南(韓国)に行くことを決意したとき、北(朝鮮)は5年も持ちこたえないと考えていた。一刻も早く現状を知らせ、金正日体制打倒を働きかけなければならないと思った。しかし現実はそうではなかった」

 「(対北政策の)何が間違っており、誰が責任を負うべきかを問題にすれば、限りがない。民主主義的な戦略とは、目的を成功させるための行動だ。独裁の暴力に正義の暴力で応えるべきだが、それは必勝不敗ではない。民主主義の最大の弱点は団結が弱いことなのだ。かつて米国のケネディ大統領は、キューバ危機を断固とした態度で克服した。こういう態度が重要なのだ。しかし冷戦崩壊後、民主主義側の団結は弱まっている。イラクや北朝鮮は孤立させ内部崩壊させるべきだが、同盟の弱体化でそれに失敗した」

 「6カ国協議は惨敗だ。韓国は(米韓関係より南北融和を優先し)道徳的に問題がある。しかし(6カ国協議の)責任は米国にある。米国は旧ソ連の核兵器を抑え込んだではないか。何を恐れるのか。核を問題にすることは金正日の価値を高めるだけだ」

民族に反逆的な行為

 「なぜ、脱北者たちは(中朝国境の)鴨緑江、豆満江を越えなければならないのか。米国が彼ら脱北者を救い、保護するだけで(北朝鮮は)滅びるだろう。独裁側に暴力を使わせず南北分界線(南北軍事境界線)の韓国側で彼らを受け入れてやるだけで、北は滅びてしまう。100万、200万の人間が越えてくれば崩壊する。北朝鮮人民軍はそれを阻止できない。いま、(韓国に)渡ってきた脱北者はたった1万人だ。これ自体が(韓国の)恥だ。(中朝国境を)越えてきた人たちは(中国東北部に)数十万人もいるというのに…」

 「韓国は民主主義を戦略的に使い、日本や米国と協調関係を深めて(南北の)経済、科学技術の格差を高め北朝鮮同胞を覚醒(かくせい)させる必要がある。そのためにも日本や米国との同盟を強化しなければならない。日本は第二次大戦や(東西)冷戦で大きな経験を積んだ国だ。アジアや世界の民主化のための役割は大きい。朝鮮半島の南北統一はまず、北朝鮮の改革開放からだ」

 「韓国は今年の大統領選挙で、民主主義に忠実な人物を選ばなければならない。金正日と妥協して米国に反対し、金正日と協調するのは民族に反逆的な行為だ。ややこしい問題はひとつもない。韓国は太陽政策と手を切らなければならない。私は脱北者の組織化、意識化、その教育に責任を感じている。彼らは北の解放のために働かなくてはならない人たちだからだ。そのことに私は力を尽くしたい」

●=火へんに華

■キューバ危機 1962年10月、ソ連がキューバにミサイル基地を建設したことをめぐり米ソが軍事衝突の一歩手前まで緊張した。当時のケネディ米大統領はソ連のミサイルがキューバに向かっていることを知り、海上封鎖などの手段で阻止することを決定、全世界向けテレビ放送でキューバ情勢を説明するとともに、米政府の強硬方針を公表。フルシチョフ・ソ連書記長はミサイル輸送を断念した。

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>【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】二つの悪…一つ消えた 金日成急死

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言 】二つの悪…一つ消えた 金日成急死

 北朝鮮を半世紀近く統治してきた独裁者、金日成は1994年7月8日に急死した。北朝鮮の核開発をめぐる米朝間の緊張が高まり、6月に訪朝したカーター元米大統領との会談で、核開発凍結に合意した直後だった。7月25日には韓国の金泳三大統領との南北首脳会談を目前にした死だった。(ソウル 久保田るり子)

戦争はしたくない

 「94年の春だった。金日成とド・ムオイ・ベトナム共産党書記長との会談が決まり報告すると、金日成は『それは困った。私は入院して治療を受けなくてはならない』という。会談を秋に延期した。金日成は耳も遠くなり、放屁(ほうひ)も我慢できなくなっていた。あとで分かったことだが5月に緑内障の目の手術を受け、療養が必要だった」

 「米国は北朝鮮を攻撃できないと考えていた。われわれは南を人質に取っている。攻撃するなら、やってみろという雰囲気だった。金日成はカーター元大統領が訪問することを喜んだ。戦争はしたくなかった。金日成は妻とともに体に無理をしてカーター元大統領をもてなし、疲労を蓄積させた」

 「私は、金日成が死亡する10日ほど前に会った。金日成は金泳三大統領との南北首脳会談について喜び、はしゃいでいた。興奮して、『彼らが来て、ここに座って話すだけで10億ドルぐらい入ってくる』と言い、そのカネで『何々を建設する』とか、『(南北)鉄道は無条件で開通する』などと話していた。『ソウルを訪問する』とも言っていた。金正日は『南朝鮮は完全に赤化(共産化)しており、住民(韓国国民)は金日成を崇拝している』と報告していたのだ。金日成は、ソウルに行けば少なくとも100万人に歓迎されると思いこんでいた」

金正日のロボット

 「国家保衛部の責任者が私に、『首領様(金日成)はソウルを訪問すると言い、将軍様(金正日)は反対している。困った話だ』という。私は『心配するな。金正日が反対しているのに(金日成が)行くことはあり得ない』と言った。金日成は金正日のロボットにすぎない老人だった」

 「(金日成が死んだとき)私は外遊中で、キューバのハバナ国際空港に到着して金日成死亡の電報を受け取った。平壌に戻ったのは7月13日だった。何の感慨があろうか。二つの悪のうち一つの悪が消えた。何の意味もない。ただ、それだけのことだった」

■第1次北朝鮮核危機0 1993年2月、国際原子力機関(IAEA)が北朝鮮の核疑惑施設への特別査察を要求したのに対し、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言した。この結果、米朝間の緊張が高まり、米国は北朝鮮の核施設攻撃を計画。しかし、94年6月にカーター元大統領が米特使として訪朝、金日成主席と会談した際、金日成は核開発凍結を表明。同年10月に核開発の凍結と引き換えに軽水炉2基と年間50万トンの重油を供給する「米朝枠組み合意」が締結された。

(2007/04/10 08:13)

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2007年4月 8日 (日)

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】激動の70年代

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】激動の70年代

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】激動の70年代

 北朝鮮の金正日総書記は、1974年党中央委員会第5期第8次全体会議で政治局委員となり、金日成の後継者の地位を確実なものとした。70年代は、日本赤軍による「よど号ハイジャック事件」などで、日本国民が北朝鮮を意識した時代だが、同時期に北朝鮮が密かに日本人拉致を続けていた。(ソウル 久保田るり子)

世襲反対なし

 「70年代以前から金日成の金正日への偏愛は目立っていた。金日成は人間的には俗物なのだ。当時の北朝鮮の要職は、知識水準の低いパルチザン(ゲリラ)出身者で占められ、高いポストにつけるだけで感謝し、金日成に異議を唱える人物などいない。世襲に公式に反対するものは1人もいなかった」

 「(金日成の出生など)神話作りは70年代から金正日が始めた。党中央の歴史研究所が担当した。金正日は神話作りで金日成への忠誠心を示した。金日成は自分の経歴を公開しなかった。抗日ゲリラ闘争などの歴史が偽造された」

 「(よど号で北朝鮮に入った日本赤軍は)対南工作の統一戦線部が担当し、手先として利用することを考えた。日本人拉致も対南工作だ。日本人だけでなく、いろいろな国から拉致し、利用するため配偶者も求めてやることが必要だった。彼らの身分を使って日本を迂回(うかい)して南朝鮮(韓国)に工作するため、彼らを日本に送り、そこから南朝鮮に入らせて地下工作をさせる。そのために、教育が必要だった。対南工作では、地下党を組織することが重要で、他の国の国籍を取得する必要があった。こうした工作は北朝鮮の独特のアイデアだ。金正日が得意になってやっていた」

信用度基準は宴会

 「当時、私は金正日(母は金正淑)の異母兄弟(母は金聖愛)を金日成総合大学で教育していた。金平日、金英一、金敬珍(女性)だ。金平日は頭もよく人民への思いやりもあった。金正日は平日を警戒し、誰とも握手できないようにしていた。平日はその後、フィンランド、ポーランド大使に出た。(亡命後)私は手紙を送ったが、返事はない」

 「金正日の妹、金敬姫は金正日と同じ型の人間で、だれのいうことも聞かなかった。実母の金正淑に似ているという話だ。金正淑は夫婦げんかで、金日成にピストルを突きつけたほどの女性と聞いている」

 「金正日は主体思想を『金日成主義』と名付けた。別荘を建て、自分の基盤を強くするための宴会を開き、側近を集めては外貨を浪費した。私は酒も飲めないのであまり行かなかったが、他の人は宴会を信用度の基準と考えた。金容淳(国際担当書記で日朝関係担当、故人)は宴会でよく踊り歌った。イタリア民謡が得意で、彼がいなければ、パーティーが面白くなかった。金正日は金容淳をけなし、よく罵倒(ばとう)したが、のちには許した。外交に優れた人だったが、へつらいが目立ち、同僚に憎まれた」

(2007/04/08 )

Sankei WEBより

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【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】理論書記時代

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】理論書記時代
 

【北北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】理論書記時代

朝鮮戦争(1950~53年)後、北朝鮮は金日成主席による「政敵粛清」と社会主義革命の建設に邁進(まいしん)する。そのなかで「主体思想」を理論づけした黄長●氏は学者として重用され、出世していった。突然失脚の危機に見舞われたが、黄氏は金日成に頭を下げることで生き残った。黄氏には、秘めたる野心があった。(ソウル 久保田るり子)

主体思想」に肉付け

 「私は49年秋、モスクワ総合大学哲学研究院に留学することになった。朝鮮戦争前のソ連では通常、朝鮮人は『日本のスパイだ』と総合大学に入れない時代だった。朝から夜10時半までぶっ通しで熱心に勉強した。金日成の弟、金英柱が党の責任者としてモスクワに派遣されており、彼が私を学生委員長に推した。私は『政治には不向きだ』と言ったが、金英柱には、私に野心がないことが良かったのかもしれない」

 「朝鮮戦争が起こった。同じ民族が戦うことに疑問はなかった。南朝鮮(韓国)は資本家が支配しており、階級闘争の理論で攻撃するのは革命であると考えた。ただ、『負けるのではないか』という予感もあった。中国の共産主義の勝利をみて金日成はソ連と中国にねだって戦争を起こした。しかし、私は『成功のあとを追えば反撃に遭う』と考えた」

 「私は(ソ連)留学で学問的知識に自信を持ち、53年秋に平壌の金日成総合大学に戻った。金英柱たちが私を金日成の理論書記に決定した。主体思想は50年代後半に金日成が言い出した、ソ連の隷属から独立するという考えだ。マルクス主義を朝鮮の実情に合うようにしただけで何も新しい思想ではない。私が理論的な衣を付け整理し、論文集も書き直した」 

 「中ソのイデオロギー論争が激化するなか、60年にモスクワで1カ月にわたる81カ国共産党会議が開かれ、私は理論顧問として参加した。65年に私は金日成総合大学総長になった。42歳だった」

 「ところが、総長として書いた論文が修正主義的と全党的な批判を浴びた。資本主義国家では想像できないだろう。党中央委員会で幹部に、金日成が私を批判した文書が回され、自己批判する。生きた心地はしない。完全に孤立し、批判は2年間続いた。失脚を覚悟した」

 「金日成から電話がかかってきた。『朝鮮革命は完成していないのに、なぜ、抽象的な理論で世論を騒がせるか』という。私は『恐れ入ります』と受けいれた。なぜ許されたのか、分からない。ただ、私はそれまで本当に金日成を支持していた。だが、事件と中ソ論争を通じてマルクス主義の誤謬(ごびゅう)、民主主義と独裁との関係を深刻に考えた。私の『人間中心の哲学』はその苦悩から生まれた。主体思想には哲学的な原理がなかったから金日成は喜んだ。当時の金日成は確かに自信にあふれ、よく働いた。私はマルクス主義との決別を決心した。何とか、この社会主義の誤った方向を和らげたいと思った」

●=火へんに華

【中ソ対立】 1956年2月、ソ連共産党第20回党大会でフルシチョフ第1書記(当時)が行ったスターリンを批判する秘密報告「個人崇拝とその結果について」を機に、スターリンを偉大な革命家ととらえる中国共産党との間でイデオロギー対立が表面化した。中国はソ連の平和共存政策に象徴される政策や理論を「修正主義」と批判し、ソ連技術者の中国からの引き揚げや国境での武力衝突へと発展した。中国が改革開放に転じた後の80年代に入って政府間交渉が始まり、89年5月にゴルバチョフ書記長が最高指導者として30年ぶりに訪中、和解が成立した。

Sankei WEB2007年4月7日朝刊より

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2007年4月 6日 (金)

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】共産主義社会

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】共産主義社会

http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070406/kra070406000.htm

  ~~Sankei WEBより、記録として保存~~

 日本の敗戦とともに朝鮮半島の日本統治が終わった。なお学問を続けたいという希望を抱いていた黄長●氏は、解放直後の首都ソウルにも行った。しかし、混乱がひどく、黄氏はわずかに滞在しただけで、平壌に戻る。こうしたなか、日々の暮らしの生活向上や統率を掲げて人々の前に現れた朝鮮労働党は、植民地時代と戦争の荒廃に疲れていた北朝鮮の住民に浸透していった。(ソウル 久保田るり子)

太極旗振りながら

 「様子をみようと1945年8月17日か18日、(徴用され働いていた現韓国東部江原道三陟のセメント)工場の労働者たちとトラックに乗り、太極旗を振りながらソウルに向かった。トラックには工場でわれわれを監視していた朝鮮人の刑事も乗っていた。それで仲間内で『あいつは朝鮮人なのになぜわれわれに敵対していたのか』という声が上がり『松林で刑事を殺してしまおう』ということになった。われわれの武器はナイフだが、刑事はピストルを持っていたので、(日本に従った刑事を殺すという)“抗日闘争”は実現しなかった」

 「(トラックで乗り込んだ)ソウルは混乱していた。私は8月20日に両親がいる平壌に戻った。23日には南北分界線(北緯38度線)を越えるのは自由でなくなってしまった。私は勇敢ではないから突破しようという積極性はなかったし、何より老父母がいた。行くところもないので母校の商業学校を訪ね、教師を始めた」

 「日本の軍隊に行ってきた大学生などは、日本の武装解除に動員され、威張っていた。平壌を占領していたソ連兵士は囚人部隊で規律などなく、話にならなかった。泥棒や婦女暴行は公然で、用心棒がいなければ一人では歩けなかった。のちに部隊は交代した」

一大転機

 「私の学校に毛沢東の根拠地、延安の朝鮮人部隊で独立運動をしていた人たちがやってきて、その一人が校長になった。校長が私にしきりに党(朝鮮労働党)に入れという。これからは党に入らなければ教師もできないという。46年11月16日入党した。2カ月後には学校の党書記になった。学校で2番目の地位だ。毎晩、区域党の会議に出た。集まりでは『ネズミをどういう風に取る』『火事をどう防ぐか』などを夜明けまで討議した」

 「教師は『知識分子』だから(共産主義については)自習するようにいわれた。私は区域党の命令を不平を言わずに伝達し、『積極分子』になっていった。ロシア語の講習会も作った。私は信用され、学校の党書記として認められて、党中央委員会の学校で勉強するよう推薦された。これは一大転機だった」

 「大衆は土地の没収に反対していた。共産主義社会には恐怖心も持っていた。私も半分、疑問を持っていた。利己主義もなく自分のためでなく、能動的に働けるのだろうかと。しかし、彼ら(党員)は、しきりに労働の質と量に従い配給、待遇も違うと宣伝した」

 「市場には新しい品物がたくさん出ていた。私に『日本人が悪い』という考えだったから、これから植民地の貧しい生活とは違う、皆が一緒に働き、裕福になるのだという未来があると思った。開放とは重しがなくなり背が天に伸びるようなものだ。それが実感だった」

●=火へんに華

(2007/04/06 )

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【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の詳言】(3)祖国解放

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】(3)祖国解放

http://www.sankei.co.jp/kokusai/korea/070405/kra070405002.htm

 ~~Sankei WEBより、記録として保存~~

 黄長燁・元朝鮮労働党書記は、日本統治下の1922年、現在の北朝鮮・平安南道で私塾を営む一家に生まれた。苦学して日本の中央大学に学ぶが44年、朝鮮に送還されて徴用工として終戦を迎えた。祖国が解放されたが、喜びより将来の国の行方を心配したという。混乱の中、人々の前に現れたのが、対日パルチザン闘争の英雄「金日成将軍」だった。(ソウル 久保田るり子)

座ったまま眠る

 「私は平壌にあった5年制の商業学校に学んだ。数学や物理学に興味があったが、色盲だから理工系には適していなかった。4年生のとき『このまま一生、人のカネを勘定するのか』と面白くなくなり商業学校もいやになった。苦学すれば日本留学ができると知り、(現在の東京都千代田区にあった)中央大学法学部の夜間部に進学した」

 「東京・神田の『主婦の友社』の隣に3畳の部屋を借りた。(現千代田区)九段坂の食堂で玄米ご飯とみそ汁が20銭だった。朝早く(同港区)芝浦の労働者が集まる事務所に行き、トラックに乗って荷役をすれば1日6円稼げた。船積みで1回だけ10銭もらったこともあった」

 「奨学生試験に落ち、授業は面白くなく、朝から晩まで図書館で自習した。哲学から自然科学書、儒教から宗教と手当たり次第読んだ。1日1回しか食べなかった。6カ月間、生米だけ食べたこともある。夜も座ったまま、平壌から持ってきた厚い木綿の布団をかぶって眠った。人生観をつかみたかった。人はなぜ生きるか。私の学問の出発点だ」

 「日本は滅びると考えていた。天皇中心制は必ず失敗し敗戦は疑いないと思っていた。だが、日本人の友人や個人的な関係では日本に対し悪い感情はなかった。苦学していれば労働でいろんな人に会う。ほかの人が盗んだミカンをくれたので、私も食べた。日本人の親方が来て皆のほっぺたを殴ったが、それでおしまいだった。さっぱりしたものだ。私の引っ込み思案の性格が完全になくなったのは、あの労働生活の収穫だと思う」

 「ある朝、警官がやってきて徴用で朝鮮に送るという。下関まで汽車で行き、小さな留置部屋に詰め込まれ、連絡船で釜山に帰った。私は(現韓国東部)江原道三陟(サムチョク)のセメント工場に送られ、徴用工として1年6カ月間働いた」

「将軍は偽物だ」

 「(1945年)8月15日、日本が降伏した。(玉音放送の)ラジオはよく聞き取れなかった。朝鮮は独立した。その翌日、三陟市内では大衆の集会があった。行くと白い服を着た朝鮮人がたくさん集まって『万歳』を叫んでいた。工場でも従業員を集め、会議を開き友人らが演説をした。私はただ聞いていた」

 「そのときの気分というのは、喜びというより心配が先に立った。『このように命を拾ったが、これからどうするのか』と。人々はしきりに『米国についていくべきか』とか『貧しいわれわれはソ連を模範にすべきだ』などと論争していた。私は、なぜ米国なのか、なぜソ連なのか、“他の国の服”を借りる必要があるのかと考えた」

 「10月14日、金日成将軍が運動場に現れて演説をした。(『金日成将軍』という名は、抗日パルチザン闘争での英雄として当時の朝鮮半島では有名だったが)多くの人が『あれは偽者だ』『若すぎる』と言っていた。私は関心がなかった。広場にも行かなかった」

ヨブ=火へんに華

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 【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】(2)妻への遺書

 【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】(2)妻への遺書

~~Sankei WEBより、記録として保存~~

 
 □自分のため家族は死んだ

 黄長●氏は亡命のため駆け込んだ北京の韓国大使館で、妻の朴承玉さんにあてて遺書を書いた。「わたしのために君や愛する息子、娘たちがひどい迫害のなかで死んでいくのだと思うと、自分の罪がどれだけ大きいかを骨身にしみて感じている」。だが、遺書は夫人の手には渡らず、亡命後に知らされたのは夫人と娘の死だった。(ソウル 久保田るり子)

一切話せない

 「家族には一切、話すことはできなかった。ただ、それまでタイプしてあった原稿がトランク2個分ぐらいあったのを焼却した。妻は『なぜ、焼き捨てるのですか』と聞いた。私はただ『必要でないからだ』と言った」

 「そのころは悲惨な状態だった。ある日曜の朝、台所に弁当を取りにいくと妻が食事をしていた。飯は少しであとは大根だった。私にはたくさん食べろといいながら、なぜ君の食事はそんなに貧しいのかと聞いたら、『あなたは人民の生活を知らないのです。この食事でも(豪華すぎて)弁当に持っていくことができない。他の人たちの弁当には草しか入っていないのです』という。妻は(社会階層が高い)外国向けの本の出版社に勤めていたが、状況は本当にひどかった」

 「3番目の娘のところに、平壌から140キロ離れた南浦から飢えで親を失った子供たちが、食料を求めて歩いてやってきた。私の家はとても大きかった。私の車が通れば道の警官らが敬礼をした。しかし、私は黙ってここに、これ以上いることは犯罪だと思った」

別れの時

 「1997年1月30日、家を出る時がきた。見送りに出てくれた妻が『いつお帰りですか』と聞くので、『2月12日ごろだろう』と言ったのが(妻と会った)最後となった」

 「北京にはわれわれが世話になった拠点があった。南朝鮮(韓国)の国家安全企画部(情報機関)だ。そこから南朝鮮に自分の必要品を送るように手配した。それから東京へ行き、(新宿の)京王プラザホテルに泊まった。私たちは日本で亡命するつもりだった。18階の部屋から朝早く5時ごろ下に降りていき、(東京の)韓国大使館に入る約束だった。ところが降りていくと、多数の日本の警察官だけでなく、朝鮮総連の保衛部隊が何重にも取り巻いており、ホテルを出て(韓国大使館へ)行くことは不可能だった。何日も待ったがダメだった。(なぜ亡命の約束が知られたのか)理由はいまもわからない」

 「私たちは北京に戻った。そのころ中国と金正日の関係は最悪だった。金日成の死後、金正日が中国の話を聞かなかったからだ。だが、北朝鮮と同盟関係にある中国が私を北朝鮮に送り返すかもしれない。そうなれば持参していた毒薬で死ぬつもりだった。(韓国の)安全企画部の人たちから『北朝鮮の国家保衛部(秘密警察)が後を付けている』と聞かされた。選択肢はなかった。われわれは急いで(北京の)韓国大使館に入った」

 「妻は自殺し、2番目の娘も収容所に送られる途中、トラックから飛び降り自殺したと聞いた。命がある家族も死んでいるのと同様だ。私は家族に最大の罪を犯したと、常に思っている」

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【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】(1)決断

【北朝鮮亡命高官 黄元労働党書記の証言】(1)決断

          ~~Sankei WEBより、記録として保存~~

ソウル市内で長時間インタビューに答える黄氏(久保田るり子撮影)
 北朝鮮を支配する朝鮮労働党の書記だった黄長●氏が祖国と決別し、韓国・金浦空港に降り立った1997年4月20日からまもなく10年になる。金日成、金正日という独裁者父子の側近の地位を捨て、黄氏はなぜ政治亡命を決断したのか。それを問い続けると、「核」を振りかざして国際社会を揺さぶる北朝鮮の実像が見えてくる。「証言」第2部では、黄氏が自らの体験から独裁国家の舞台裏を語る。(ソウル 久保田るり子)

大量餓死者

 「金日成が死亡(1994年7月8日)して、葬式が終わったあと、金正日は私に電話をかけてきた。『事態が変わった。助けてくれ』という。私は金日成への義理もあると考え、金正日に(今考えると)非現実的な希望も持った」

 「ところが彼の態度はますます悪い方向に向かった。軍事独裁は何倍も強化され、露骨になり、95年からは大量の餓死者が出始めた。この年コペンハーゲンで開かれた主体思想の会議に出ようとすると、金正日は会議に参加するロシア代表に『100万ドルを与えよう』といい出した。その人物が金日成の葬式で『金正日将軍の宣伝に協力する』と約束したという。私は『もう一度会って試しましょう』とやんわり拒んだ。自分のためには莫大(ばくだい)な外貨を使い、飢えた人民のことなど気にかけなかった」

 「金正日にへつらう駐スイス大使が『スイスには草だけ食べて大きく育つ家畜が多い。穀物は必要ない』と手紙を送ってきた。金正日は党中央委員会にこの手紙を『文献』として出し、各道ごとに草を植え牧場を作り、家畜を育成するように命じた。飢えた農民を見て『彼らはなぜはちみつを食べないのだ』と言ったロシア皇帝と同じだった」

 「私は欧州からの帰路に中国の北京で、ある人物を通じ、『金剛山を開放すれば入山料を出す。施設は全部、南朝鮮が担当する』という(韓国側の)相談を受けた。95年末のことだ。飢餓と経済難を救うには外貨獲得しかないと思った。金正日に金剛山開放の話を提起すると『案を作って送れ』というので、軍、内閣、観光総局の責任者らを集め相談した。みな賛成だった。国家保衛部が案内役を担当すると協力を申し出た。しかし金正日から返事はない」

 「金正日に一番近い者に聞いてみた。彼は『なぜそのような提起をするのか』と言って、しきりに戦争の話をする。『釜山までは進軍できるが、その後が問題だから(金正日が)決心できない』というのだ。私が建設的な意見を言っても一切、通じなかった。私は『もう、だめだ』と思った」

自殺も考え

 「北京の部下(一緒に亡命した朝鮮労働党傘下の貿易会社元社長、金徳弘)に自殺用の毒薬を持ってくるように頼んだ。このまま死ぬか…。しかし自殺したら家族がただでは済まない。朝鮮労働党の指導理念を管理してきた私が自殺すれば反革命だ。反逆者の家族となるからだ。だが、このままでは朝鮮民族はただの一人も金正日に反対する人間がいなかったことになる。それは民族に対する侮辱だ。家族なら他の人たちにも家族がある。自分の家族だけを考える場合なのかと思った。私は北京の部下にここ(韓国)の人たちと相談するよう連絡した。私は、この状態を南朝鮮に知らせるため亡命を決心した」

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