カテゴリー「消えた277人」の記事

2007年9月 5日 (水)

消えた277人より 横田めぐみさん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

 (37)横田めぐみ(よこためぐみ)さん 
昭和39(1964)年10月5日生れ。
昭和52(1977)年11月15日、中学校の部活動を終えて下校途中、新潟市内の自宅近くで友人と別れたのち失踪。当時13歳、新潟市立寄居中学校一年生。
この事件は当初、帰宅途中のめぐみさんと海岸付近で遭遇してしまった北朝鮮工作員が、工作作活動の発覚をおそれて拉致したとされていた。しかしその後の調査によると、遭遇ではなく、自宅近くで待ち伏せされて拉致された可能性が高いという。
平成16年11月の第三回実務者協議において北朝鮮側は、めぐみさんは死亡しているとして「遺骨」を提出したが、めぐみさんの「遺骨」とされた骨の一部からは、同人のものとは異,なるDNAが検出されたとの鑑定結果を得ている。
また、平成18年4月、日本政府が実施したDNA検査により、めぐみさんの夫であったとされる人物が、以前韓国より拉致された当時高校生の韓国人拉致被害者・金英男(キムョンナム)氏である可能性が高いことが判明した。

 
「めぐみちやん。あのままのめぐみちやん」  横田早紀江さん(母)から

 
  北朝鮮にいる横田めぐみちゃん。元気にしていますか。お母さんですよ。
あなたがいなくなって長い間本当に捜しました。どんなに皆が悲しんだか分かりません。
けれどもあなたがそこにいるということが分かって、私たちは、必ずめぐみちやんを日本に帰そうと一所懸命にがんばってきました。
ただ、身体を壊さないでほしいのです。必ず会えるから。家族皆があなたの帰ってくるのを待っていますし、沢山の日本の方も、一所懸命にそれを願っています。
めぐみちやん。明るいあのめぐみちやんが、あのままのめぐみちやんが、元気で帰ってくることを、毎日毎日沢山の人と一緒に神様にお祈りしていますよ。必ず、そのことが実現するのがもうすぐだと、お母さんは確信しています。
がんばってね。元気でいてくださいよ。お願いします。
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 失踪時13才 失踪から 30年     10月5日に43才になってしまう。

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2007年9月 3日 (月)

消えた277人より 宮内和也さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

 (35)宮内和也(みやうちかずや)さん 


昭和40(1965)年1月27日生れ。
平成 9(1997)年4月24日、福井県三方郡三方町世久見の世久見漁港で失踪。
当時30歳、公務員。
当日和也さんは、ナホトカ号重油流出事故の影響で海が汚れていないか、調査のために出かけていた。
世久見岸壁で海を見ている和也さんの姿が目撃されているが、その日の夜になっても帰宅しなかった。
翌月には、B&G海洋センターでの研修に参加する予定だった。

「孫たちがかわいそうでなりません」  宮内和見さん(父)から 
宮内和也君、元気ですか。家族皆元気ですよ。君がいなくなってからは毎日君のことを心配しています。
望君も六年生で第一小学校の児童会長、優希ちゃんは高校二年生、沙希ちゃんは高校一年生でそれぞれ元気で頑張っていますよ。関係各位、親類全員が君の元気な姿と声とお便りを毎日待ち望んでいます。じいちゃんたちは孫たちがかわいそうでいじらしくてなりません。
でも三人の子供達は立派に成長し元気で頑張ってお便りを待ち焦がれています。一刻も早くお父さんを見せてやってください。会える日を一日も早く、神仏様にお願いしています。私達家族の所は、隣の上中町と合併をして若狭町となり、君の支援の会を作ってもらい、町民の方々がひとつになって、一日も早い帰国の実現を願って大会や運動や活動を何回も開催して、多くの方々が声援をしてくれています。
私も全国的に早期帰国の運動をして活動をしています。どぅか体を大切に充分気をつけて頑張ってください。がんばれ!
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失踪当時31才  失踪から10年 42才 

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消えた277人より 新木 章さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。


  

(34)新木 章(あらきあきら)さん
 

昭和22(1947)年10月16日生れ。中肉中背。眼鏡使。
昭和52(1977)年 5月21日、埼玉県川口市で失踪。

当時29歳、銀行員で、コンピューターを使ぅ事務系の仕事をしていた。
「買い物に行く。午後六時か七時には帰る」と川口市の自宅を出たまま行方不明に。
家を出る際、財布しか持っていなかった。
財布には免許証、クレジットヵードが人っていたが一失踪後免許証は更新されておらず、カードも使われていない。
川口市では他にも拉致の疑いがある事件が起きている。

「全国民が協力してくれています」  新木博さん(弟)から
 章兄貴へ、私は弟の博です。昭和52年5月21日以来ご無沙汰しております。
お元気で暮らしていることを願っています。姉の二人と、私は元気でいます。
そして、兄貴の帰ってくるのを心待ちにしています。
すぐには、日本に帰れないかもしれませんが、手を尽くして早く元気で日本に帰れるように、日本全国民が願い協力してくれていますので、どうか気を取り直して、あきらめずに、帰れることを願っていてください。
そして、日本に帰ってこられても生活できるように準備はしていますので、どうぞご安心下さい。
寒い時期になってしまいましたが、どぅぞお休を大切に頑張ってください。
平成17年12月吉日 新木博。

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  失踪当時29才  失踪から  30年      現在60才

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2007年9月 1日 (土)

消えた277人より 菊池寛史さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

(32)菊地寛史(きくちひろし)さん
 昭和52(1977)年11月22日生れ。身長166センチ、体重56キロ。
平成10(1998)年 4月 5日、研修用の宿泊施設(長野県長野市サイタリングターミナル)から失踪。
当時20歳、自動車会社勤務。
新人研修中、同じ部屋に宿泊していた同僚に「ジュースを買ってきてくれ」と頼み、同僚がジュースを買って部屋に戻ると、寛史さんはいなくなっていた。
荷物、免許証、財布、スーツ、靴などは残されたままだった。
平成十年から平成十三年位までの間、数回だけべルが鳴って切れるという電話が、たびたび家族のもとへかかってきた。そのぼとんどが非通知で、こちらが出たとたんに切れる電話などもあったが、平成15年になると、それもなくなった。

 「バス停で見送ったのが別れになるなんて」  菊地恵子さん(母)から
平成十年四月一日、社会人としてスタートを切る日、白田の高速バスのバス停までおくったのが、8年以上にもわたる寛史との別れになるなど想像もつかない出来事だった。
それから4日後の4月5日の夜10時、研修先からの電話で、寛史の行方がわからないことを知らされたが、信じがたい思いで翌朝早く父さんと二人で長野の現地へと向かった。
そこにはスーツもカバンも財布や免許証、その後捜索中に見つかった眼鏡も含め全てそのまま残っていた。
そこから寛史がいなくなったことだけは受け人れざるを得なかった。
寛史のことをかわいがっていた祖母は平成12年2月、祖父は17年7月になくなってしまった。
寛史からの連絡を待ち望んで心配しながら逝ってしまった。
あの頃中高生だった妹たちもそれぞれに働きながら頑張っています。
私たちはもちろん親戚や友人も皆、心配しながら寛史からの一日も早い連絡を待っています。

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失踪当時20才 失踪から9年 今年29才になる。

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消えた277人より 安西正博さん

消えた277人」より
  ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

    

(31)安西正博(あんざいまさひろ)さん  

昭和43(1968)年9月19日生まれ。。身長173センチ。色白。
笑うと八重歯が見える。髪はくせ毛。近視で眼鏡をかけている。
平成 8(1996)年4月14日、愛知県名古屋市で失踪。当時27歳、荏原製作所勤務の会社員。
会社の寮から出かけ、そのまま行方不明になった。最後に正博さんの姿を目撃したのは寮の管理人。

この日は日曜日だったため、寮の玄関で管理人が「安西君食事はどうする」と声をかけると、「食べます」と答え、近所に買い物に行くような感じで、車で出かけたという。
行方不明になる一週間前、正博さんは実家に電話し、「4月下旬に大学時代の友人の結婚式が九州であり、それに出席してから帰省するのでゴールデンウィーク後半に帰る。お土産を買っていく」と話していた。
部屋の机には、失踪前日に買った単行本3冊がレシートを挟んだ状態で置かれていた。
また、3カ月後、寮を引き揚げるために家族が正博さんの荷物を整理していると、礼服の内ポケットに祝儀袋が人っていた。
自ら消息を絶つとは考えられない。

「九十歳のおばあちやんも頑張って待っています」・・・ 安西茂雄さん(父)から
正博が名古屋から突然姿を消して十年の月日が流れてしまいましたね。
父さん、母さん、兄ちゃんみな元気です。
斉藤のおばあちゃんは九十歳。正博の元気な顔を見るまでは、と頑張って帰りを待っています。
幼稚園の雅子先生、美奈子先生、また、小、中、高校の元担任の先生、クラスメート、みな心配しています。
救出できる日が必ず来ます。その日まで元気でいて下さい。

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失踪当時 27才 失踪から11年 この9月39才

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2007年8月30日 (木)

消えた277人より 岩佐虎雄さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。   

(30)岩佐寅雄(いわさ とらお)さん

大正15(1926)年12月8日生れ。身長170センチ。
昭和36(1961)年12月20日、神奈川県鎌倉市の魚屋から失踪。
当時35歳、魚屋店員。
勤めていた魚屋の人に黙っていなくなった。その後、横須賀のいとこが四方八方捜し回ったが消息はつかめず。
寅雄さんは板前もこなした。

「新宿で楽しいデートをしましたね」   竹川朋子さん(親戚)から
寅雄おじさまへ。
今あなたはどこにどうしておられるの。
当時、渋谷の広尾のおばの家に私を迎えに来られて新宿で楽しいデートをしましたね。
おいしいものを沢山いただきショッピングをして、広尾まで送り届けて帰りましたね。
私も夫が病に倒れて実家の近くに引っ越して1年7カ月になります。
「えなお」祖父さんも十年前に亡くなり、今は兄弟だけ取り残されています。
正男おじさんだけ子どものいる横浜にいます。
おばは亡くなりました。
私の二人の子どもも成長し孫も三人います。
主人にも早く会わせてあげたい、そして皆仲良く暮したいです。
私もそれを願いつつ生きています。
夫は今病気と闘っています。
兄弟も体調を崩し入退院を繰り返しています。
兄の長男は外交官になり頑張っております。
岩佐家の初孫も誕生します。もうすぐです。
早く帰ってきてください。
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失踪当時35才 46年  12月に 81才になる・・・

それでも、家族は待っている。

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消えた277人より 巽 敏一さん

「消えた277人」より
  ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。
 

(29)巽 敏一(たつみとしかず)さん

昭和18(1943)年8月15日生れ。身長170センチ。
がっちりした体格だが、太ってはいない。顔は柔和な感じ。
スポーツはとくにやらないが、野球観戦が好きだった。
昭和35(1960)年7月3日、大阪府大阪市の自宅を出たのち失踪。
当時16歳、エ業高校機械科在学。
当日、高校の映画鑑賞会があり、正午頃、自宅から映画館へ向かったはずだったのだが、そこには現れず、そのまま行方不明となった。

「敏一ちゃんも諦めないで、頑張って!」  巽直江さん(姉)から

敏一ちゃん、元気にしていますか?   「映画を観に行く」と家を出たまま帰らず、あれから45年も経ってしまいましたね。
私に映画に行く前に、玄関で「姉ちゃん、映画を観に梅田まで行くんだけれども、バスで行こうか、電車で行こうか、どっちがいい?」と聞いてくれましたね。
でも「電車の方は京橋に出て危ないからバスにしなさい」と姉ちゃんが言ったために、あれ以来別れることになってしまいました。
あれから四十五年も経ってしまいました。家族みんな必死に捜しました。
警察の方も、みなさんも、一所懸命捜してくれました。でも見つけられませんでした。
長い間助けてあげられなくて、ごめんね。
いま日本の政府、国民の皆ざんが敏一ちゃんたちを救出しようとカを尽くして下さっています。
だから敏一ちゃんも諦めないで、頑張って!
遅くなったけれども、もうすぐ会えるから。絶対に会えるからね。
姉ちゃんたちも頑張るからね。
敏一ちゃん、それまで体に気をつけて待っててね。
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失踪当時16才  失踪から47年  現在64才

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消えた277人より 尾方晃さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

(28)尾方晃(おがたあきら)さん

昭和30(1955)年12月12日生れ。身長168センチ、体重65キロ。
右胸部と右背中にリンパ腺炎の縦型の手術痕がある。右手中指第三関節の骨が突起している。
昭和54(1979)年2月14日、京都府京都市北区の下宿先から失踪。当時23歳、立命館大学学生。
家族が晃さんの下宿先に行くと晃さんの姿はなく、荷物や現金がそのまま残されていた。
2月13日に預金を引き出した形跡がある。

「待つてるよ、母一人で待つてるよ」  尾方美恵子さん(母)から
昭和54年2月、京都でいなくなった尾方晃の母美恵子です。晃がいなくなって27年たちます。
お父さんと一緒にいろいろと手を尽くしましたが、何の手掛かりも得られませんでした。
大学の下宿もお父さんと一緒に行きましたが、荷物はそのままで晃の体だけがいませんでした。
どこでどうしているのか心配しています。
平成4年7月、57歳でお父さんが晃のことを心配して亡くなりました。
光恵も兄さんのことを心配していろいろと手を尽くしてくれていますよ。
妹たちも、きよこ、みちよも名古屋に嫁ぎましたわよ。
拉致被害者救う会の集会には夫婦で来てくれているよ。
親戚の方々も晃のことを本当に心配してくれているよ。
地域の方々も、同級生のみなさんも晃のことを心配してくれているよ。
いまどこにどうして、元気でいるのか。母は心配でなりません。
毎日心配しているよ。
母も歳になり、体力が衰えてきました。
今日一日一人で暮らしているよ。
晃のことは一日として忘れたことはないよ。
晃の元気な顔が見られるの日を待っているのよ。
早く晃と会える日を楽しみに待っているよ。
このしおかぜを聞いていたら消息を知らせてちょうだいね。
待っているよ。母一人で待っているよ。
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失踪当時23才 失踪から28年  今年12月52才になる。

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消えた277人より 加瀬テル子さん

「消えた277人」よりご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。   (27)加瀬テル子(かせてるこ)さん 

昭和19(1944)年5月4日生まれ。身長158センチ。細面。             
昭和37(1962)年4月、千葉県海上郡海上町で失踪。
当時17歳、家事手伝い。
午後、自宅から美容院に出かけてそのまま行方不明になった。所持金はパーマ代のみ。
翌日には叔母と新宿コマ劇場へ観劇に行く約束をしていた。
最近になり、脱北者が北朝鮮から持ち出したとされる写真が、鑑定の結果、テル子さんである可能性が極めて高いことが判明。また、同じ脱北者が所持していた「同一人物」とするもう一枚の写真も、テル子さんであるとみられている。

 「少女のままなのが、悲しい」 加瀬淑子さん(叔母)から 

テコ、元気でいてくれますか。
横浜にいた叔母さんだよ。
利江のこと覚えているよね。
夫の人がテコのこと心配して動いてくれています。
マサ子もおばあちゃんとなり、難しい資格を取り仕事、頑張っています。
房子さんが還暦の記念に鬼怒川で同窓会をやり、テコの写真を大きく引き伸ばし皆さんと一緒に写して送ってくれました。
皆さん、それ柏応に歳を重ねた中でテコだけが少女のままなのが悲しく思われます。
マサ子をはじめ同級生の皆さんがテコの帰りを待っています。
房子さんといつも唄った美空ひばりの「車やさん」覚えていますか。
会いたいねテコ。一目だけでも会いたいよテコ。
友達が送ってくれた写真に、季節の果物や好物を「せめて届け」と、かげ膳を供えて待っています。
テコ、会いたい。元気な顔が見たい。
写真に向かい何度も呼びかけ、その度に胸が痛みます。
近くて遠い国、何故に仲良く出来ないのでしょう。
  でも必ず会えるよね。
  その日まで命かけて待っています。
  元気でいてね。
  会える日、その日を待ちわびて。

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失踪当時17才  拉致から45年 現在63才

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2007年8月29日 (水)

消え277人より 増元るみ子さん

(26)増元るみ子(ますもとるみこ)さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

昭和28(1953)年11月1日生れ。
昭和53(1978)年8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜で市川修一さん(前述)とともに失踪。
当時24歳、事務員。
修一さんとともに吹上浜で消息を絶った。現場付近に残されていた修一さんの車には、るみ子さんのバッグとカメラが置いてあり、バッグの中のサングラス、財布、化粧道具などはそのままだった。
北朝鮮側は、昭和54年7月に二人は結婚し、るみ子さんは昭和56年に心臓麻痺で死亡したとしているが、修一さんと同様、これを裏付ける資料などは提供されていない。

「父ちやんも天国であなたを見守つている」

   平野文子さん(姉)から

るみ子 元気ですか?
私の声分かる?姉ちやんよ。
あなたが突然いなくなってから27年もたってしまいましたね。
あなたが北朝鮮にいるということがわかって、みんなで救出のための運動をしていますが、まだあなたを助けることができません。
ごめんね。
でもきっと必ず日本に帰れる日が来るから、希望を捨てずに、ガンバレ!
父ちやんもあなたの帰りを待っていたけど、待てなかったみたい。きっと天国であなたを見守ってくれていると思います。安心してね。
母ちやんも膝の具ムロが悪いけど、あなたの帰りをクビを長くして待っているからね。
国際世論に訴えています。
もうすぐだから。日本国の人たちが応援してくれています。体を大事にして、帰れるその日
を待っていてね。
じやあね。

「必ず、必ず助ける!」  増元照明さん(弟)から

るみ姉、まず、末だに救出できないことをすまないと思う。
るみ姉がいなくなったとき、何が起きたのか全然理解できなくて、自分ではどうすることもできなくて、虚無感心碗なまれていました。
北にいるという話が出てきたとき、もっと早く、もっとそれを強く信じて動いていれば、こんなに長くかかることはなかったかも知らん。そう思うと悲しくなってしまう。
でもいま日本では多くの人たちがるみ姉の帰りを待っている。清水中の同級生たちが懸命に
救出運動をしてくれていますよ。
必ず救出するから、希望を捨てないで、耐えて、そしてもうすぐ暖かい鹿児島で暮らす事ができることを思って、我慢していて下さい。
お袋は、るみ姉が帰ってくるまで元気でいると言っている。
必ず、必ず助けるから、だから待っていてくれ!
最後にこの放送を聞いている北朝鮮政府関係者、北朝鮮人民に伝える。
日本政府は日本人拉致被害者を傷つけたり、そして殺したりした場合、一切の経済協力はしない。
これだけは私は断言して言う。
必ず日本国民の拉致被害者を守って、そして生きて返す。
このことを肝に銘じてこの放送を聞いていてほしい。
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失踪時24才 失踪から29年  今年の秋、54才になる

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消えた277人より 市川修一さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。    市川修一(いちかわしゅぅいち)さん

昭和29(1954)年10月20日生れ。
昭和53(1978)年八8月12日、鹿児島県日置郡吹上町の吹上浜で増元るみ子さん (後述)とともに失踪。当時23歳、電電公社(現NTT)職員。
「吹上浜にタ日を見に行く」と言って出かけたまま消息を絶った。吹上浜には修一さんの車や、履いていたサンダルの片方が残されていた。車はロックされ、助手席にはるみ子さんのバッグとカメラが置いてあり、荒らされた形跡はなかったという。
北朝鮮側は、昭和54年7月に二人は結婚し、修一さんは同年九月に心臓麻痒で死亡したとしているが、これを裏付ける資料などは提供されていない。

「ガンバレよ! 負けるなよ! 生き抜けよ!」 市川健一さん(兄)から

修一、元気か? 兄ちゃんだよ。27年も会っていないんだよね。早く会いたいね。
るみ子さんと二人で出かけ、行方が分からなくなったその日、どんなに捜したことか。
大勢の人たちが協力して一生懸命に捜したんだよ。
兄ちゃんは修一の23の当時の顔しか思い浮かばないんだよね。
長いこと助けてあげることができずに本当にごめんね。もう少し待ってくれ。必ず帰国できるようにするからね。
お父さんもお母さんも姉ちゃんも、修一の帰国をクビを長くして待っているよ。修一と必ず会えるんだと、強い確信で毎朝毎晩家族で祈っているよ。
修一、お父さんとお母さんに修一の子供を見せてやれよ。きっと喜ぶぞ。北朝鮮は寒いところだと聞いています。サマーセーター1枚の格好で行方不明になり、毛糸のセーターを送ってやりたい気持ちでいっぱいです。
日本人全員が無事に帰国できるようにと、全国民が力を貸してくれています。
また国際社会も各国が協力の声をあげています。修一の同級生のカオルちゃんやコウちゃんたちも、に動いてくれているよ。
ガンバレよ!  負けるなよ! 生き抜けよ!

「涙が滝のように吹き出してきます」  市川トミさん(母)から
「修ちやん、修ちやん」と名をよび続けて、もう27年も過ぎました。
お母さんには23歳の修ちやんの顔しかない。
どんなに苦労しているだろうかと思うと、涙が滝のように吹き出てきます。
お父さんお母さんももう年寄りになって、お爺ちやんお婆ちやんとなってしまいま
した。月日が長いものね。
修ちゃん、るみ子さんとカを合わせて、体を大切に元気でいて下さい。
必ず会える日が来ますよ。
修ちゃんたちが帰って来るときは、大元気で修ちやんたちを迎えにいこうと決意して、体に十分気をつけて頑張っていますよ。
修ちゃん、るみ子さん、一家必ず、必ず元気でいて下さい。

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失踪時23才  失踪から29年  この秋53才になる。

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消えた277人より 小西能幸さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。   

小西能幸(こにし よしゆき)さん

昭和 8(1933)年 9月21日生まれ
昭和29(1954)年4月22日、石川県穴水町駅付近で失踪。
当時20歳、家業の旅館手伝い。
当日能幸さんは自宅を出る際、ゲタ履きで荷物も持たず、母と目を合わせたが行き先など一言も告げなかったので、家族は近所にでも出かけたものと思っていた。
その日、七尾線輪島駅から午前七時三十分頃の金沢行きに乗り、三つ目の穴水町駅で下車した能幸さんの姿を近所の人が見たという。
前日の夜、能辛さんの自室で小銭を数えているような音がしていたのを旅館の従業員が聞いている。
小遣いをもらっていなかったので失踪時の所持金は小銭程度と思われる。
身障者の兄がよそで働かなくても生活できるようにと、母は旅館を開業していた。
そんななか能幸さんは、自分が邪魔であると感じていたようで、チヤンスがあれば家を出ようと思っていたようだ。

「どれだけ泣いたでしょう」 黒川敏枝さん(姉)から

能ちやん、姉の敏枝です。元気で生きているのでしょうか。皆で心配いたしました。五十年はとてもとても長かったです。あなたが急にいなくなり何がなんだかわからなくて皆でどれだけ心配したことでしょう。どんなにか苦労しただろぅかと思うと可哀想で不欄で泣けてなりません。どれだけ泣いたでしょう。
このたび特定失瞬者問題調査会で北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」で拉致被害者救出の努力をしてくださり、こんなに嬉しくありがたいことはありません。感謝と嬉しさで夢のようです。
この放送を聴いてくださいね。放送を聴いてその指示に従ってくださいね。きっと日本に帰ってこれるんです。そして会える日を心待ちに待っています。
私は東京都世田谷区に住んでいます。元気です。小西は全員亡くなり私一人になりました。
みんな貴方のことを案じていました。帰国してからのことは心配しないで帰ってきてくださいね。その日の一日も早からんことを念ずるのみです。
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失踪時20才   失踪から52年  今年秋、74才になる

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2007年8月27日 (月)

消えた277人より 日高満男さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

日高満男(ひだかみつお)さん
  昭和33(1958)年8月16日生れ。身長155センチ、体重50キロ。
右手人差し指第二関節と中指第一関節を欠損している。
  平成元(1989)年2月23日、鹿児島県鹿児島郡十島村諏訪瀬島周辺海域で失掠。
当時30歳、トローリング漁の漁船員。
満男さんは、一人で漁船「大昭丸」に乗り込み、元浦港南西漁場で操業。午後二時頃、他の漁船に目撃されたのを最後に消息を絶った。
日没後も帰港しなかったため、諏訪瀬島の漁船、海上保安庁巡視船、航空機が捜索を行い、翌二十四日、諏訪瀬島切石港沖合で無人のまま漂流している「大昭丸」が発見された。燃料は切れていたが、トローリングをしたままの状態だった。
満男さんが行方不明となって1~2年後、自宅にぬ当口電話がかかってくるようになった。そのほとんどが夜の十二時から一時の間で、約1力月、毎日続いた。無言なのだが無線(モールス信口互のような音が聞こえたという。
失蹟当日に出漁してぃた船は15~6隻。

「タラップを降りてくるあなたの姿を見るまでは」
               
田中恵美子さん(姉)から

みつへ
あなたが私達の前から消えてから、はやいもので17年が過ぎました。
今まで何もしてあげられなくて、ごめんね。
ちゃんと食事はしていますか? 
寒くはないですか? 
いつも貴方のことを案じています。
子どもたちも24歳と22歳になります。あなたそっくりになってきました。
お父さん、お母さんも高齢になっています。
1日も早く私たちのもとへ帰って来てください。
必ず、助け出される日が来ると信じて元気でいてください。
希望を捨てないで下さいね。
さびしがりやのみつですが、帰る日を夢見て、今の境遇に負けないで、昔の元気なみつで帰ってきてくれると信じています。
あなたのことは一日も忘れたことはありません。
二人きりの姉弟ですもの。
タラップから降りてくるあなたの姿を見るまでは、あきらめません。
どうぞやけにならないで、体だけは大切にしていてください。
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失踪当時30才 失踪から18年 現在48才

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消えた277人より 渡邊晃佐さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。
    
 

渡邊晃佐(わたなべこうすけ)さん

           昭和 7(1933)年1月18日生れ。身長163センチ、体重56キロ。
           昭和27(1952)年10月27日、京都府京都市右京区で失踪。
当時20歳、立命館大学学生。
当日、自宅を出て行方不明となり、その後、連絡は一切ない。

「今日か明日かと毎日待っています」 渡漣訓秀さん(弟から)

昭和27年十月に失踪して以来、もう五十数年になりました。
家族全員帰りを今日か、明日かと毎日待って今になりました。
祖父及び、父母はすでにこの世を去っています。
父は白バイによる交通事故で、母は病死です。祖父及び父は45年、母は19年になります。
さぞかし両親は一目、会いたかったと思います。
北朝鮮での生活はいかがなものですか。外電の情報ではあまり良いとは思えないです。
日本は高度成長して現在は世界第二の経済大国です。町内もずいぶん変化しました。
分区になって、現在は西京区となっています。何とか日本に帰ってきてください。
兄弟四人は元気に暮らしています。
会えばどんなに喜ぶか計り知れないと思います。
日本の国民も政府も一生懸命になって拉致された人々を救い出そうと頑張っていますので、必ず会える日が来ることを楽しみにして、神仏にお祈りをしています。

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失踪当時20才   失踪から55年  現在 75才

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2007年8月26日 (日)

消えた277人より 徳永陽一郎さん

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

徳永 陽一郎(とくなが よういちろう)さん
昭和10(1935)年1月14日生れ。右肩に子供の頃鎌で切った傷痕がある。
昭和28(1953)年10月7日、長崎県長崎市で失蹉。当時18歳、店員。
新しい勤務先へ提出する履歴書を書いている途中、突然姿を消した。
10月17日、家族へ借金を返すため、現金書留が福岡県門司市より家族宛てに送られてきた。
同封されていた手紙には「いい仕事があった」「歩いてでも帰ってきます」などと書かれていたが、それ以来連絡が途絶えてしまった。

「どうして、どうしてと思っていました」  森川洋子さん(姉)から

徳永陽一郎。徳永陽一郎。陽一郎。聞いていますか、姉の徳永洋子です。日本の長崎から呼んでいます。
洋一郎のことは父さん、母さん、ずーーと案じて捜していました。
弟妹も洋一郎兄ちゃんの事心配しています。洋一郎は昭和28年10月長崎から突然いなくなりました。門司からの手紙が最後でした。

陽一郎の行きたい化学の会社に決まりかけていたのにどうして、どうしてと思ってました。
陽一郎、陽一郎、長崎の大浦のおじいちゃんのお家に洋子姉ちやん、陽一郎、けんちやんと3人で暮らしてましたね。
陽一郎、陽一郎、七人兄弟でした。
洋子姉と陽一郎、けんちやん、すみちやん、よっちん、ひでちやん、松ちやんと五島に中学校出る迄いました。
陽一郎、陽一郎の肩の傷は五島にいる時つけたんですよね。
陽一郎。陽一郎。生きている間に是非会いたいです。
姉より
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当時18才  現在72才  失踪から54年  

家族の想いは、失踪した、その時の面影に向かって呼びかけられている。
 18才のままの陽一郎さんに呼びかける姉は時を経て、限りある命を繋いで再会を待っている。

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消えた277人より 平山政子さん

平山政子(ひらやままさこ)さん

「消えた277人」より

ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

  

 

昭和21(1946)年9月4日生れ。 (注、奇術はプロ級の腕前)。
昭和47(1972)年3月24日、青森県青森市で失踪。
     当時25歳、飲食店従業員。
当日政子さんは、絵のコンクールに人賞した姉と、そのお祝いをするために待ち合わせていたが、そこには現れなかった。
アパートを訪ねてみると、とくに身辺整理した様子もなく、普段の生活状況のまま。
それまで無断欠勤をしたことのない政子さんが、丸二日も職場に連絡せず失踪となった。
趣味の手品のメンバーとしてステージに立つこともあった政子さんは、ハワイで行われるマジックの世界大会に参加する予定だった。そのための打ち合わせが同日あった。

「絶対に青森へ帰って来るんだよ」  平山勲さん(兄)から
昭和47年3月24日、当時25歳,青森のキャバレー「ゴールド」で働いていて、お店から帰る途中、行方不明になって早35年になりましたね。政子の年齢も六十歳近くになっていますね!  どこでどう生きているのか分かりませんが、いつも家族みんなで政子は必ず生きていると信じていますよ。どんな方法でもいいからとにかく連絡ください。待ってますよ!  新渡戸先生は平成十八年三月十七日、九十六歳で亡くなりました。先生は生前ひまわりともう一度マジックをやってみたいといっていました。
またお母さんは今年で九十五歳になって今もとっても元気で政子の帰りを待っていますよ。
最後になるけどとにかく元気で政子!
絶対に青森へ帰って来るんだよ。
                       平成28年4月1日 平山勲。

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失踪当時25才  失踪から35年  現在60才

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消えた277人より 山本美保さん

「消えた277人」より
ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。

   山本美保(やまもと みほ)さん 

昭和39(1964)年3月3日生れ。
身長160センチ、体重51キロ。左目の下に三針の縫合痕、左手にはしもやけによるわずかなケロイド痕がある。靴のサイズは23.5センチ。
昭和59年(1984年)6月4日、山梨県甲府市の自宅を出てから失踪。当時20歳、大学受験生。
図書館に行く」と言ってバイクで出かけたまま戻らなかった。その後、バイクは甲府駅で発見され、四日後には新潟県柏崎市の荒浜海岸で美保さんのセカンドバッグが見つかった。
1月6日から4年半ほどの間、自宅に無言電話が続いた。そのほとんどは数秒で切れるものだったが、失踪から3年4力月後と3年6力月後の二回の電話は10~15分ほど続き、柏手はこちらの呼びかけをただじっと聞いている様子だった。3年6ヶ月後の電話では、すすり泣くような声が聞こえたという。
なお、集められた支援の署名は20万筆に達している。

 「父と母は街頭に立ち、二十万人の署名を集めました」 森本美砂さん(妹)から 

美保ちゃん、今まで捜してあげられなくてごめんなさい。でもきっと元気でいると信じています。
昭和59年6月4日、「図書館に行ってくる」といつものようにバイクで出かけたきり帰ってこなかった日から22年がたってしまいました。日本女子大への進学を反対したことを父さんも母さんも私も、ずっと後悔してきました。美保ちゃんがいなくなった理由をずっと考えながら……。でも今は目撃情報のあった北朝鮮にいると信じています。
三年前の2002年、小泉総理大臣が訪朝したのを機に、日本では美保ちゃんが拉致されたのではと大きな報道になりました。それ以来、同級生や先生方が大きな支援をしてくださり、美保ちゃんを救う会を立ち上げてくれました。父さんや母さんも街頭に立ち、20万人以上の署名を集め、政府に二度提出しました。
いろんなことがありましたが、美保ちゃんに元気な姿で会えると信じています。必ず助け出しますから、信じて待っていてください。

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 失踪当時20才 失踪から23年   現在43才 

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2007年8月25日 (土)

消えた277人より 田口八重子さん

「消えた277人」より ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。     

田口八重子(たぐちやえこ)さん

昭和30(1955)年8月10日生まれ
昭和53(1978)年6月頃、東京都で失踪。当時22才、飲食店店員。

東京都高田馬場のべビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま消息を絶った。
昭和62年の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮の元工作員・金賢姫(キムヒョンヒ)は、李恩恵(リウ乙という女性から日本語や日本人の振る舞い方を学んだと証言。
この女性の似顔絵が八重子さんに酷似、また、会話内容などからも八重子さんの当時の状況と合致したことから北朝鮮による拉致が発覚した。
北朝鮮側は、八重子さんは昭和55年に拉致された原救昆さん(後述)と結婚し、その数年後に自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料などの提供はなされていない。
なお最近になって、八重子さんは宮崎県の青島海岸で拉致されたとする報道がなされた。(2007年3月8日付け「日本経済新聞」)。

「子供と抱き合う姿を早く見たい」  飯塚繁雄さん(兄から)

日本から北朝鮮につれて行かれた田口八重子へ。
                                       、
朝群名はコ・ヘオクと呼ばれているよぅですが、また一時李恩恵ともいう名前でこちらにはシラされています。
私はあなたの兄の飯塚繁雄です。1978年6月に八重子がいなくなって、1989年に北朝鮮にいると分かったとき、とても驚きました。それ以降、日本に帰国させるための活動をいろいろやってきましたけれども、北朝鮮は断固として返してくれません。八重子がいなくなってから27年も経ってしまい、毎日毎日北の国でどうしているか、心配でたまりません。
話したいことは山ほどありますが、まず八重予が一番心配しているお前の子供のことですが、長男の耕一郎はもう28歳、長女のあやは二十9歳になって、とても元気に育ちました。
耕一郎は私繁雄の養子として人れ、他の子供たちと何隔たりもなく仲良く生活し、本人も21歳になるまで養子であることも気がつかず、また実の母である八重子の状況も話してありませんでした。耕一郎はその全てを知ったときに、大変大きなショックと戸惑いを感じ、心の中で自分の置かれている不幸を悲しみ、また母である八重子の姿を全て話してあげましたけれども、全く記憶にない八重子を母と呼べない心境でおります。
この実態を理解しつつ、逆に母である八重子のことを気にかけ、自分の意思でなく強引に北朝鮮に連れて行かれた母を何としても日本に取り戻したいという気持ちでいっぱいです。そしていま現在でも、私とともに救出活動に力を注いでいます。
耕一郎はまだ結婚していませんが、会社の仕事は一生懸命に頑張り、いまでは優秀な技術者として立派に独り立ちしています。
一方長女のあやは、お前の姉が養予にとり、この年まで元気に育てました。やはりまだ結婚 はしていませんが、自分で全てが判断できる大人になりました。女であるということで、この
母親の救出問題では表には出しておりませんが、二人とも実の母である八重子との生活を夢見て、結婚もせずに待っているのだと思っています。
  私たち兄弟はいまも健在で、八重子の帰りを待っています。お前ももう50歳になってしま いましたね。
ですから兄弟たちも歳をとって、私は67歳にもなってしまいました。
  私たち兄弟の母親であるはなも、13年前にお前の帰りを待ち佳びながら