カテゴリー「横田めぐみさんを救うぞ東京集会」の記事

2004年10月14日 (木)

横田めぐみさんを救うぞ東京集会(1)

横田滋さんのお話

皆さん、こんばんは。(会場よりこんばんはの声)
お忙しいところをお出でいただいてありがとうございました。

めぐみは東京オリンピックが始まる直前の昭和39年の10月5日に生まれました。その日は朝早くから早紀江の方に陣痛があって、あんまりタクシーも通ってない時間だったのですが病院に入れました。名古屋の聖霊病院と言う名前でキリスト教関係の病院でした。それで銀行に行って休暇届を出したんですけど、それからカメラ等を持って病院に行きました。もう、生まれているかと思ったんですが、まだまだその時は落ち着いていまして、夕方になってやっと生まれました。非常に大きい子供で、女の子で例えが悪いんですけど、金太郎さんのような感じの女の子でした。私は女の子を望んでいましたので、すごく喜びました。

家に帰ってからも非常に元気な子供でしたのですが、いろんな病院に行きました。病院に行ったと言うのは、ひとつは大きすぎたので生まれる時に首のところに斜頸って言われましたんですが、筋肉にしこりが出来たり、整形外科でマッサージなどしました。それ以外は目を爪で怪我して眼科に行ったり、階段から落ちて外科に行ったり、ガラスを足で踏んで切ったり、元気なためにいろんな病院に行きまして、精神科と産婦人科以外は全部行ったと言われるくらい、病院には通いました。

めぐみが生まれましたのは名古屋ですが、1歳ちょっとで東京に転勤になりました。住んでいた所は品川の大井6丁目で、皆さん京浜東北線で大森貝塚が大森と大井町の間にあるのをご存知だと思いますが、あの近くに住みました。そこに6年間過ごした訳なんです。幼稚園はウノ学園、小学校は大井第一小学校へ行きました。近所の方はほとんどは近くのお寺の幼稚園に行きましたが、丁度その時は下の弟が生まれておりましてとても送り迎えが出来ないので、通学バスが迎えに来てくれるというのでそこの幼稚園を選びました。

非常にしっかりしているもんですから、学校の先生が何か話をしても、お子さんによっては帰ってからお母さんが話を聞いても良く分からない時は、めぐみさんの所へ聞きに行けば分かると言われるくらいにしっかりした子供でした。小さいときから本を読むのが大好きで、童話の本なんかを読みますとすぐに覚えていました。話すときには「えーと」とか「あのー」とか言わないで、本当に本の通りをきちんと何も見ないで読んで、そういう点では割に理解力は小さいときから優れておりました。

銀行のアパートに住んでいたわけなんですけども、そこの庭に大きなガマガエルを捕まえて手ぬぐいに包んで持ち歩いたり、そのころは乗用車などを乗ってる方はあんまりいなかったんですが、屋根の上に載ってトランポリンみたいにポンポンと跳ねて、屋根が潰れてしまった。(笑い声)中からポンと押したら戻ったんですけども、非常に活発な子供でした。

拓也・哲也が生まれましたのは佐々木病院て言いまして、今は大井中央病院と言って、沿線からも見える所にある病院です。そこに双子ですから早くから早紀江が入院したわけですから、そこまで、家から隣の家の奥さんの妹さん、大学生だったんですけど、その人を連れて病院まで行ったり。

それから大井町の阪急で迷子になった事も。家では絶対迷子になったら外に出るな、と教えてありました。もし外に出たら探せないから、中にいれば必ず見つかるからと言って、二手に分かれてひとりは玄関、ひとりはフロアの方を探したわけなんです。そしたらアナウンスがありまして「横田めぐみさんがお父さんお母さんを探しています」(笑い声)という事で。売り場に行きましたらレジのところに座って、リボンをつけてもらって、ちょこんと座って、なにかここにいたの?と言う感じで迷子になったと言う様子は全く無かったわけです。

動物園なんかに行きましても、前に大人がたくさんいますと背が小さいと見えないわけです。そういう時は、大人の間を掻き分けて行って十分に観察してから後ろに戻ってくるわけです。水族館に行っても、絶対にこの部屋から出るなと言っておいて自由に見て、そして終わったら次の部屋に移るという、ほとんど自主的に行動して、あんまり親に引っ付いていると言う事はありませんでした。

子供の時は踊るほうのバレエをやりました。大井町にババヨシエ先生と言うバレエスクールがありまして、そこへ通ってました。今はもう覚えてないかもしれませんけど、昔はコマーシャルでクリハラユカリさんと言う、後に女優さんになった人も同じバレエスクールには通ってました。

昭和47年には広島に転校しました。広島時代ってのは我々にとって一番幸せな時代で、家族でいろんな所に旅行しまして、近くにあります山口県では萩とか津和野とか。それから一番多く行ったのは松江の方で、山陰方面でも浜田とか宍道湖、大山へもいろんな所へ行きました。

瀬戸内海の水ってのは汚いもんですから、山陰の方にバスに乗って、民宿なんかに泊まって泳ぎに行きました。めぐみは、拓也・哲也を連れて帰る途中に猿がいた訳です。猿にいたずらしたもんです。(笑い)パッと逃げたんですが、その猿が拓也・哲也の頭の上に飛び乗って帽子をとって逃げたりしたんですが、めぐみはそれを見て自分が猿を最初にからかったのが何か大喜びで笑っていた、という事もありました。

広島時代ですが絵が非常に上手で、当時「ベルサイユのバラ」とか池田理代子さんの漫画とかそういったものを非常に好んでおりまして、家にも全部そういった漫画はそろえました。自分でも非常に上手なイラストを描いて、それから友達とも交換をしたり。例えば一冊のノートに1ページだけストーリーを描いて、その次の人に渡してその続きを描いて、戻ってくるときにはどんなふうに展開になっているか分からないわけですけど、そういったイラストを描いたりする事が好きでした。ですから、広島に「ベルサイユのバラ」の宝塚公演がありました時に、その時は安奈淳とか榛名由梨とか上原まりとか非常にいい組み合わせだったですけれども、めぐみを連れて行ったことがあります。

小学校の6年生の1学期が終わったところで新潟に転校になりました。私は札幌の生まれ育ちで、雪国の生活は長いわけですけども、早紀江や子供たちは雪国の生活と言うのは知らないので、どんな所かと非常に心配していました。私は北の方の支店に転勤すると言う内示を受けていたので「これは釧路か小樽か青森かなぁ?」と思っていたら、それが新潟だったんです。近いところに転勤になったと喜びましたんですが、子供たちから見れば雪国は初めてだったんです。

8月に転勤になったので、まだもちろんその時は雪がありませんでしたが、広島より涼しいし、海の水もきれいだし、なかなか良い所に来たと感じました。しかし秋になりますと雷がなって、雪起こしとか雪下ろしとか言うんですが、雪が降るといわれています。そんな事になってくると「嫌な所に来たなぁ」と子供たちが言って「大体どれくらいで転勤出来るの?」「まぁ、3年位もいれば、どこか次のところに移るかも知れないよ」という事を言ってました。

そして、めぐみは6年生の2学期に転校して、1学期が終わったところで転校したわけなんですが。そこで一般の人に比べれば3分の2の期間で、その年の図書館で図書を借りた冊数が学年で一番だったわけです。いかにたくさんの本を読んでいたかと言う事が分かります。特別なジャンルはありませんので、難しい本も読むし、漫画の本からスリラーから何でも読みました。話をさせますと、同じくらいの子供と比べますとずいぶんしっかりした感じを受けるんですけど。

その反面に私がちょっと甘やかして育てたんで、どこか旅行をするといっても切符を買うとか、お小遣いをもらってもそれを貯金したり下ろしたりは全くした事がありませんでしたので、生活面という意味では子供のままだったわけです。子供に家事をさせるなんて事も必要かもしれませんけど、子供の内は勉強するのが主なのであまり仕事もさせませんでしたし、世間で見れば甘いと思われたかも知れません。ほとんど叱った事もありませんし、甘やかして育てました。小学校の卒業の時は後でお話があると思いますが、今日お見えの馬場先生が新潟小学校の最後の卒業証書を渡してくださったと言う事なんです。その学年が全体が最後と言えるんですけど、めぐみの組が4組ぐらいありました。一番後ろの組で「よ」だったら遅くなる訳ですけども、転校生ですからさらに後ろになります。本当の意味での一番最後の例となってました。
だから先生が1組から順々に卒業証書をお渡しになって、本当の意味で一番最後に卒業証書を贈られた生徒なんです。

近くにあります寄居中学校と言うところに行きまして、そこはだいたい二つの小学校が集まってひとつの中学校が出来るわけですが、だいたい一学年400人くらいありました。
当時入学式の直前に風疹にかかって、お医者さんから他の人にうつったら困るからと言うことで休むように言われて欠席しましたんで、私が代わりに入学式に出て先生方のお話などを聞いて、4月の始業式の直前に桜が咲いているところで制服を着てめぐみの記念写真を撮りました。

ちょうど今いろんなポスター出てますけど、ポスターの写真がその時の写真で。ちょっと顔が病み上がりなもんですから、弱々しい感じもするわけなんですけども、いなくなった時の服装そのままなんです。
夏服にいったん着替えてますけど、あの頃はまた春の服に戻ってますから、同じものを着てますので、あの洋服を着て、靴もあのまま、それから鞄も同じ物。

そういった形でいなくなりましたので、警察が聞き込みに行く場合は、1日か2日で生きてるか死んでるか分からないけど、見つかるだろうと思いまして。「この子を見ませんでしたか?」と聞き込みに回る場合には、ちょっと顔色が悪いとか何とか言っても、実際出て行ったままの服装の写真が一番捜査のためには必要なわけです。それが現在まで何となくめぐみのイメージになってしまって、何となく弱々しい感じがしますが、実際は非常に明るい子でとても賑やかな子供でした。

うちでは下の男の子二人がどうしても母親と一緒に行動する事が多いので、だからめぐみは私が連れて歩くと言うのがいつものパターンでした。ですからいなくなる少し前にも、映画を観に行こうと言う事になったんですが、拓也・哲也は「スター・ウォーズ」を観たいといいますけど、めぐみはその時は「ラスト・コンサート」と「カサンドラ・クロス」と言う映画が来てまして、そっちの方を観たいと言う事で二手に分かれて行ったりしました。だからめぐみは、どちらかと言うと母親よりも父親の方に一緒に行動する事が多いので、そういった点では父親っ子と言えると思います。

めぐみがいなくなる前日、私の誕生日が11月14日でその時めぐみが櫛をプレゼントしてくれました。やっぱりお洒落を自分も気を使うようになったんで、お父さんもキチンとして欲しいという意味で櫛をプレゼントしてくれたんだと思います。

めぐみは中学に入って部活動をやる時、音楽をやったり絵を書いたりする事をやるのかと思ったら、意外にバトミントン部に入りました。おそらくは部活動すると言うより、同好会みたいなつもりで入っていたんじゃないかと思います。新潟のバトミントンは女子は全国一という位のレベルだそうです。新潟のセイリョウ短大を出た方が、たくさんユーバ杯など出場していまして、レベルが非常に高いところだったわけです。

そんなところで同じような環境で、その寄居中学というのはバトミントンの強い学校だったわけです。夏休みが終わってから新人戦が開かれて、そこにめぐみも出場したわけなんですが、正確な数字は覚えてませんけども優勝は出来なかったんです。しかし、優勝した人がいたにもかかわらず何人か選ばれて、新潟市の強化選手にめぐみが入ってしまったわけです。

それは非常に名誉な事なんですが、そんな高い水準のところで、自分が今までの学校の成績が維持できるか?と心配して「どうしようか?どうしようか?」と悩んでいました。だからいなくなった時に、私はそういうふうには思わなかったですけど、早紀江の方は「バトミントンの悩みって言う所で家出をしたんじゃないか?」と思ったそうです。しかし、私の方は、今まで帰りに寄り道をした事もないし、今まで学校を休んだ事も全然無かったわけですから家出と言う事は全く考えませんでした。
警察と同じように身代金目的の誘拐か、交通事故を考えました。

警察の方は新潟県警始まって以来と言われるくらいの大捜索をやりまして、この間も10月5日の日にテレビを見てましたら12チャンネルで、警察官がボートをたくさん出して海の中を探している所が映りましたんですが。よくもここまでやって下さったという事で、ヘリコプターを飛ばしたり、船を出したり、ちょっと時間が経って影になったんですけど、テトラポットのところをダイバーが潜って探してくれたりということで。

後でアベックの方がいなくなったんですけど、だいたい事件とは思わないので捜索願を出すといっても、みなさん一番早い人で2日目、遅い人だと3日目くらいに出してまして。
めぐみの場合は当初から事件だと言う事でやって下さいまして、大規模な聞き込みとか捜索とかをやって頂いたんですが、めぐみの姿はもちろん遺留品も見つける事は出来ませんでしたし、いろんな所へ聞き込みに行っても情報は全く入りませんでした。

テレビの人探し番組にも5回出たわけですが、テレビの力と言うのは非常に大きくて、家出をしたって言うケースなら例えば「バイクが好きだった」とかいろんなヒントがあって、殆どの人が当日のうちに見つかります。放送が終わっても受付をやってますので、ほぼ全員当日に見つかります。しかし、めぐみについては何も情報が入りませんでした。
テレビ局の方にも「本当はこれは事件に巻き込まれたかもしれない。だから家出であって欲しい」というようなことを言って紹介してくれたテレビ局もありましたけど、全く情報が入りませんでした。

警察の方は、だいたい犯人は同じような事を繰り返しますので、もし少女を連れ去ったような事件があってそれが解決した時に余罪として解決を図るしかない。そんな事しか出来ない。待つだけのような状態になりました。我々の方では、行方不明者とか死亡事件とかありますと、一般の方以上に注意をしていましたんです。

アベックの方がいなくなったと言うことを昭和55年の産経新聞に報道されたときも、私のところは産経新聞を当時取ってなかったんですけども「これと関連は無いだろうか?」と持って来てくださった方があったんですけども、全くそれは関係ないと感じました。それは、アベックの方がいなくなったのは翌年の7月8月の日本海が鏡のようにと言われる位静かなときですし、めぐみがいなくなった時は11月で波が荒いわけです。めぐみが北朝鮮にいることが分かった時は、警察が寄居浜の漁師さんに話を聞いたら「その時期はここからゴムボートで出られない」と言ったそうです。全く関係ないと思いました。

しいて関係があると思いましたのは、皆さんもご存知だと思いますが、新潟の三条市で小学校の女の子が行方不明になって、9年くらい経って柏崎で見つかった事件をご存知だと思いますが。あの人とは歳がひとつ違い、そしていなくなった日が3日くらいしか違わないので、学校の帰りとか非常に共通点が多いので、あの子の事件が解決したらその余罪で見つかるかと思ったら、その先にめぐみの方が先に北朝鮮にいるらしいと分かって、そしてあの女の子の事件が解決したわけです。
すると北朝鮮側は日本にもそういう事件があるんだから「めぐみさんもきっと国内にいるはずだ」と、新聞に出したと言う事を我々も見た事があります。

北朝鮮だと言う事はまったく考えもしませんでした。そして、平成9年の1月の下旬に「めぐみは北朝鮮にいるらしい」という情報が、参議院議員の橋本敦さんの秘書の兵本さんから連絡がありました。その時「お宅のお嬢さんは北朝鮮の工作員に拉致されてピョンヤンにいるらしい事と、それについては写真を見せたいし、それからいなくなった時の状況を聞かせて欲しい」ということで議員会館に向ったわけなんです。一瞬、それを聞いた時に「あ、これで解決した」と思ったんですが、やはり実際は北朝鮮にいるということが分かっても、なかなか帰る事は難しいと言う事を思いはじめ感じました。

平成9年の2月3日に産経新聞、それからアエラでめぐみの拉致事件が報道されまして、その日の午後の衆議院予算委員会で西村眞悟代議士が、橋本総理大臣に少女拉致事件という事で・・・・・・・(聞き取れず)日本人拉致という事が日本国中に知れ渡りました。

日本の方は殆どの方が、その時に日本人拉致という事が分かったと思います。しかし、実際は先ほどもいいましたように、昭和55年でもアベックの事件についても産経新聞が報じてますが、その時は北朝鮮と言う名前は出してませんけども、外国の情報機関が関与してるんじゃないか?と言うことでしたが、まあ読めば北朝鮮とは分かります。

昭和63年には国会で3件のアベック事件と1件の未遂、それから大韓航空機を爆破した金賢姫に、日本語とか日本の習慣を教えた李恩恵(リ・ウネ)について質問してます。それに対して梶山静六国家公安委員長が「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である」と国会の場で北朝鮮と言う事を話しています。外務大臣の宇野(宗佑)さんも「現在調査中であるが、事実であれば断固たる処置を取る」というふうに答弁なさっている。政府の方はそのときから知ってる訳です。

しかしその時新聞が、産経新聞と読売新聞に小さく報道されただけで、日本の人はほとんど気がつかなかったわけです。気がつかないと、救出運動というのも起きませんし、親の方もここで名乗り上げたら子供たちが殺されるかも知れないと黙ってたのと、やはり政府の方が家族が動かなくてもしてくれるだろうと思って何にもしなかったわけです。

結局、家族が騒がないと国民も騒がないとなると、政府は後から記憶を呼んで見ますと何もあの時しないで。李恩恵については北朝鮮に照会しても、そんな人はいないと突っぱねられたわけです。アベックについてはなんの事もやってないわけです。

めぐみのことで明らかになった平成11年でも、アジア大洋州局長の槙田(邦彦)さんという人が「たった10人くらいの拉致のことで騒いで、国交正常化が進捗しないのは国益に反する」と話をして顰蹙を買った事もありましたけど。やはり親が騒いで国民が騒がなければ、やっぱり拉致の人を救出すると言う事よりも、日朝国交正常化交渉を優先させようとするのが、外務省の体質じゃないかと思います。

ですから、現在でも非常に国民の世論が高まってますから、拉致の問題を解決しないまま、国交正常化交渉はするべきではないという声が出たり。
それから小泉総理は5月に25万トンの食糧援助を約束したわけなんですけども、それが半分は実行されたわけなんですけども、残りは凍結すべきだと言う声が高まって、それで現在は止まってるわけなんです。

国民が5人の方が帰ってきて、その子供さん7人が帰ってきて、ジェンキンスさんのことは完全な解決ではありませんけども、まあほぼ解決の見通しが立ちますから。これで一段落したんだということで、国交正常化を進めるべきだと言う世論になってしまいますと、政府は拉致の解決と言う事よりも国交正常化を急ぐんで無いか?と心配しております。

昨日も新しい町村外務大臣とお目にかかったんですが、町村大臣は再調査には期限をつけてそれでも進展がなかったら、制裁と言う事も念頭に置いて考えるということもおっしゃってましたので、従来の川口外務大臣と比べてますと、やはりちょっと政府のやり方も変わって来たのかと思います。

平成14年の9月17日の事と、最近の小泉総理再訪朝の事については早紀江の方からも話があると思いますので、もう時間が参りましたので、私の話はこの辺で終わらせていただきたいと思います。(拍手)

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横田めぐみさんを救うぞ東京集会(2)

  横田早紀江さんのお話

横田めぐみの母でございます。
本当に北朝鮮に連れて行かれてからの活動の中で本当にたくさんの方に助けていただきまして、署名やカンパ、それぞれのひとりひとりの心遣いを私たちに寄せていただいて、今日まで元気でやってくる事が出来ました。ありがとうございます。

今日はいつものお話と違ってめぐみのことを話してくださいという会なんだそうで、初めての事なんですが。
今、主人が話しましたように、初めての女の子でした。私は自分が兄と二人兄妹なもんですから、男の兄妹が上にいるってのがとても良かったものですから、先に男の子が生まれて、そして女の子が生まれたら、お兄ちゃんのお友達が良い人と結婚できるかもしれない(笑い声)とか、そんな事まで思ったりして、最初男の子が良いと思ってたんですね。

主人は女の子が良いと思っていたんですね。何人女の子が生まれても良いと言ってて、双子の時も女の子だったらいいね、と言うてる位でした。私はやはり最初に男の子が生まれて、3つほど離れて女の子が生まれるのが ちょうどお兄ちゃんのお友達とかね、そういうなんか(結婚できて)良いなとか、母親って馬鹿な事を考えるんですが(会場にはずっとクスクス笑いが続く)そうした事を考えていました。

そうしたところが大きな女の子が生まれました。生まれた時も「拓也」と言う名前しか考えていなかったんです。(大きな笑い声)恥ずかしいんですけど、絶対男の子が生まれると思って「拓也」と言う名前だけ考えていましたら、「お嬢さんですよ」と言われて、どうしようと思ったんですけど。(大きな笑い声)

「名前が無い、早くつけなきゃ」と思って、私は早紀江と言う1字1字見ると簡単に見えるんでけど、非常に書くのが3字で漢字で大変な思いをしてきたもんですから、(笑い声)「早は「さ」と読むんですか?」とか、いちいち言わなきゃならなかったので。平仮名で誰でも書けるような簡単な可愛い名前がいいなと言う事で、「大変だ、早く名前付けなきゃ」と言って、ベッドの上で一生懸命二人で考えていたんですね。
ひろみさんとかあけみさんとかあゆみさんとか・・・・いろいろ平仮名の名前を挙げたんですけども。「めぐみ」と言うのは名前としても良いし、とても良い意味があるので「めぐみ」にしようと言う事で、それで「めぐみ」と付けたわけです。

今度、男の子が生まれたら「拓也」にしようと思ったら、今度はふたり生まれて(大きな笑い声)また名前が無い(笑い声)ということで、大急ぎで、同じ「也」と付けた方が良いと言う事で、「きん也」とか「てつ也」とかいろいろ「也」が合う名前を考えて、最終的には拓也・哲也という名前を付けました。
名前から言ってもそういう面白いいわれがあるんです。

親ですから本当に子供が生まれた時の事は鮮明に覚えておりますし、どなたでもそうだと思うんですが。
ようやく生まれてきたんですが、すぐに洗ってくるんでくださって「初めての赤ちゃんですよ、どうぞ」と言って、婦長さんがドイツ人の方だったんですね、聖霊病院でしたから。その方が私のお腹の上にボンと置かれたんです。

その時一番感じたのは、赤ちゃんと言うのは非常に柔らかくてもろくて軽いものだと思っていたんです。
ところがめぐみは3260グラムくらいあったんですけど、お腹の上にボンと置かれた時に「ああ、重いんだぁ」と思ったんですね。「あぁ、赤ちゃんてこんなに重たいのかなぁ?」と思って「小さいのになぁ」というくらい・・・・・「重いんですねぇ?」って言ったのを覚えてるんですけども。

生まれる時になかなか生まれなくて、私の郷里の母が病院に詰めてまして、隣の方の部屋で一生懸命お祈りをしてくれていたのを覚えてるんですけども、元気な赤ちゃんが生まれてくれて。先ほど主人が言いましたような、本当に活発な。小さいときは、あの御所人形と言うのがありますよね京都の方に。細い目で丸い顔に白い・・・・・(聞き取れず)で「御所ちゃん御所ちゃん」と看護婦さんが言ってくれたり。

段々大きくなってきたら、金太郎さんのような感じになって来まして。ものすごく血色が良い雰囲気で、いつも野原を駆け回っていると言うようなイメージが強いような女の子で、元気いっぱいで庭で遊んでいました。

あの頃は今のように素晴らしい玩具なんて沢山ありませんでしたし、私は特にあんまり物を何でもかんでもめぐみに与えるというような事はしない主義でした。めぐみの着る物も、たいてい私が自分が着ていた物で着られなくなった物を、きれいに洗って、きれいに解いて、裏側を表にして、刺繍を付けてあげて、そんな感じで古いものを利用してワンピースとかスカートとか刺繍をしたブラウスとか。それが非常に楽しくて、こんなものでもこんなに素敵なものが出来るんだって。

その頃、(めぐみさんの事を)みーちゃんって言ってたんですけど。「みーちゃん、こんな良い物が出来たよ」と言うと「あ、これ、ママが着てたスカートだよね、こんなの出来るの?黒い色だけど」とか言ってたんですけど、ほんとに素敵に自分の思ったようなのが出来て・・・・・よくいたしました。よく写真に出てます、萩に行った時に4人で歩いているオレンジ色の服が出てますけど。あれは旅行に行く前に新しい布を買ってきて、自分で一生懸命作ってあげたのを着たのですけど。そういう事がとても好きだったもんで、いつもめぐみは見ていたと思うんですね。

たいてい外で、庭の石ころだとか木の枝とか葉っぱと土とか、男の子みたいですけど、そういう物で遊ぶのが好きな子で。いつも近所で誰も触れないような、さっき主人も話しましたような、大きなガマガエルなんかでも、ミミズでも何でも怖がらなくて、そういうのを捕まえても気持ち悪いとかあまり言わない。

主人がタオルって言ったんですが、それは違ってて「たっくん、てっちゃんの古くなったオシメでいいから、ママ頂戴」と言って入ってきたんですね。で「何にするの?」って(聞いたら)「いいの、いいの」って言うんで、ちょっとボロになってるのがあったので、昔は布で使ってましたから、それを出したらそれを持って下に降りて行ったんですね。

私も忘れていたんですけど、そしたら、同じアパートのママから電話がかかってて、「横田さん、大変!めぐみちゃんがすごい事して歩いてるけど大丈夫かなぁ?上から見てごらん」と言うから「なんだかなぁ?」と思って(窓を)開けて見ました。それに黒いものをくるんで顔だけ見えてるんですけど、かなり大きなもので、それを抱っこしてて。

赤ちゃんが生まれた時の抱っこするのをいつも見てて、哺乳瓶でミルクをあげたいあげたいって言ってましたから、そのせいだったと思うんですけど。それを歩いている時に、寮の小さいお子さんたちが全部後ろにアヒルの行列のように、触れないんですけど面白いんでずらーっと並んで、その一番前で歩いてるのが見えたんですね。

「毒のカエルかもしれないから、あんなの大変な事になっちゃう。早く言わなきゃ。」て言われて、飛んで下に降りて、「そんなの触って、毒でも付いてたら大変だから止めなさい」って言って、自分でもびっくりして。「離して庭にもどしておきなさい」って言ったんですけど。

小さな猫の子を良く拾ってきて、本にも書いてますけど、自転車とか入れていた小さな小屋があって、そこでちょこんと入れて置いてたりしたんですけど。朝になるとミルクを持って「どこ行くの?」と言うと「いいの、いいの」と言って降りていって。そして、ちゃんとミルクをあげてたりとか。そういう事がよくあるもんですから、猫が鳴くんですね、そこから途中出て来たりして。よそのベランダでニャーニャー猫が鳴くと、絶対にみーちゃんが持って来たに違いない、とよく言われたり。そういうような事をいつもしている子でした。

石蹴りだとか庭に線を引いて陣取り遊びだとか、そういう遊びが好きでした。ほんとに、「めぐみちゃんは遊びの天才ね」と、よその家のお母さんがめぐみが面白そうに遊んでるのを見て、私におっしゃった事があって。本当にこちらは双子の世話で精一杯で、よそのお嬢さんがめぐみちゃんを見てくれるので助るし、こっちのことで精一杯で、本を読むくらいの事しか出来なかったんですけど。

小さい頃から本が大好きで。私が忙しいので「足の裏がすり切れるってこういう事ね」と郷里の母が口癖に言うくらい。あのころはオシメの洗濯だけでくたびれて、ベランダがいっぱいオシメで旗のようにひらめいてまして、洗っても洗ってもという感じだったもんですから。なかなか、ひとりだけで遊んであげる事が出来なかったんですけども。けっこう友達が多いんで外で遊んでましたし。

かならず日本昔話って今も・・・・・・(聞き取れず)字がいっぱいの小さな母にもらった赤い本を、こうやってこうやって(読んでもらいたくて)私の後ろを追いかけて「洗濯が終わった?何が終わった?まだ?」とか言って、いつもくっついて歩いてたんですね。めぐみちゃんが「ちょっとだけ読んでくれ」って言うんで、壁にもたれて足投げ出して、民話とか面白い本を読んであげました。そのころでも物語の中身を聞くのが好きで、一生懸命聞いて「どうなのどうなの?なんでそうなるの?」といつも質問して、細かいところまで聞いていました。

下の男の子は読みなさいといってもあんまり読まなかったんですけど、大きくなってからよく読んでるようですけど。子供って小さいときの姿だけじゃ分からないんだなぁ、と3人の子供を育てて思います。めぐみはとにかく元気で、本当に皆さんに可愛がっていただいて、夕方まで庭で遊んでいて、お父さん方が寮に帰ってくると「おじちゃーん、お帰りなさーい」と言って抱っこしていただくような、そんな感じだったんです。

下のふたりは、拓也は今はなかなか厳しい事を言ってますけど、幼稚園の頃はふたりともおとなしくて、めぐみちゃんと全然違って、むこうから 「あら、たっくん、てっちゃーん」とお母さん達から声をかけられると、サッーと私の後ろに隠れてこうやって覗くようなおとなしい感じで。大きくなってくると、全然違ってくるので、本当に人間ていうのは小さい時にいろいろ隠れている才能が沢山あって、大きくなったら皆それぞれ違うようになるんだなぁって。

特にめぐみは本が好きでしたから。中学のあの頃のテストでも、「ドロップ」という、何か芥川龍之介の本ですとか、をよく読んでまして。そういうのが、テストに出て難しい質問が出て、いつも国語は非常に良かったんですけど、その時は非常に点数が悪くて「私は絶対に間違ってはいないと思うんだけど?お母さんなんでこれはおかしい?」と、テストを持ってきまして、一緒に読んで「こういう風に質問してるでしょ?だから私はこういう風に書いてるのに、どうして間違ってるの?」よく読んでみると、ものすごくもっと深く解釈してるんですね。「あ、それは考えすぎだから、間違っちゃうんだ」と言うと「あー、そうなんだ」
そういうような形で非常に話が面白くなってきて、大人の話をしていろんな事が話せるようになってきて。

芥川龍之介の「秋山図」と言う小品があるんですが、それを読んでいて。「芥川龍之介って難しいでしょう?」「でも面白いんだよ」って「一番何が面白いの?杜子春というのもあるし蜘蛛の糸も面白かったでしょう?」と聞いたら、 「あれも面白いけども、秋山図が面白かった」というんですね。

私は読んでなかったので、そんな難しいのがあったかしら?と思って私も読んでみましたら、日本画の画家が描いた、本当にその画家が描いた真の絵か?真贋って言うんですけども、面白い話し合いの場面があるような本なんですけども、それが面白かったって言うんですね。「難しい事が面白いのね?こんな難しいもの、あなた良く分かるね?」って言ったんですけど、そういう所があって、物を見たり、読んだり、理解したり、人の気持ちを何となくよく分かる子だったなぁって。

※注:早紀江さんは本当は「山水図」とおっしゃっていましたが、芥川作品に「山水図」という作品は見当たりません。お話の内容からおそらく「秋山図・しゅうざんず」の間違いでは無いかと思われますので、「秋山図」でテキスト起こししました。

とっても良い様に育ってくれて、私は双子で手一杯で、出来損ないの母親なのに・・・・・・・(聞き取れず)病気もほとんどしませんでしたし、怪我は確かに良くしましたけど、やんちゃなので。そういう子だったので、この事が起きた事が、物凄い衝撃で本当に死んでしまいたいと思いました。こんなに苦しい思いをしなければならない人生なのかと思って、どうして見つからないのかと思って。本当に毎日毎日泣きわめいて、雪の中を泣きながら、何度も何度も歩いて帰ったりとか。

あの日の事は、新潟の景色を思い出すだけで、もう切なくなりますし。本人は、海も大好きだったんですけど、桜の花も大好きだったんですけども、雪もそれなりに好きだったんですけども、雪も桜吹雪も、私にとっては残酷な思い出になっていまいました。北朝鮮にいると言う事が分かって、元気でいてくれたと言う事が本当に嬉しくて、とにかく生きてたという事は喜びでした。

クラシックバレエでかなり厳しいレッスンを受けてましたし、何年に一回かの公演もあってその時はちゃんとした男性のバレエの人とプリマになれる人、その人たちの、本当のプロの人と一緒に・・・その他大勢、めぐみはあんまり上手ではなかったんですけども。

いつも写真には良くつま先だって写しているですんですけども、膝がまっすぐに立てつま先立ってやらなきゃいけないんですけど、バレエって。でも膝が曲がっちゃうんですね。「レッスンだけでやってるだけじゃ駄目だから、下手な人はいつもつま先立ちしてなさい」って先生に言われてたもんで、旅行に行ってもどこに行っても写真を撮るときはつま先立ちしてたんです。それでも膝が曲がってるんですけども。そういう感じでいつも一生懸命やってました。

物凄く厳しいレッスンに耐えて、小学校4年生のときも5年生のときも「くるみ割り人形」とかそういうのに出て一生懸命に踊ってました。最後に踊ったのは、いなくなった11月の前の8月のおわりに大きな公演会がありまして、その時「花のワルツ(「くるみ割り人形」第2幕の中に出てくる小品のひとつ)」を踊りました。一生懸命に家で練習して、「完璧に出来るね」って、喜んでたんですけど、それが最後のバレエの踊りになりました。

あの子の13年間としては、どこのうちでも同じでしょうけど、良い事も悪い事もみんないろいろあるでしょうけども、一生懸命にそれなりに一生懸命に育てた私達。そして一生懸命がんばってきためぐみ、そのなかでみなさんに可愛がっていただいためぐみ。そして突然、消えてしまったわけです。

そして考えられないような人生があちらの国で送ってたわけで、今もこの間出てきました実務協議のあれも、入退院を繰り返すというようなことが書かれてありますし。1993年3月13日死亡と言われてきましたけれど、あの時出てきた死亡台帳というものがいかに嘘だったかと言う事も、ハッキリ今度しまして。
ここに書いてある中では93年の4月から6月まで、また同年8月から10月8日にも入院と言う感じで出てきていますけども。

蓮池さんなんかは横田さんは1994年も元気でいました、とハッキリおっしゃってますから、この事がどこまで本当なのか?これが全部嘘で、蓮池さんや地村さんやまだ出してきた北朝鮮側が全部がひとつの事として、本気で伝えましょうと言うことで言っているのか?その部分のどこからが本当なのか?

そしてキムヘギョンちゃんという、元気な女の子があちらで生まれていたと言う事も、私達にとっては考えられないような本当にびっくり仰天するような事で。めぐみの13年間は皆様と同じように、普通の主婦であり普通の夫であり、姉弟であり家族でありましたけども。突然いなくなったそのときから、私たちは物語のような人生を歩んでいるなぁ、と思っております。

めぐみは19年間耐え忍んでやっと生きていて良かった、と思ったら、今度はなかなか帰れない。死亡とか言われてまた愕然として、だけど絶対生きていると今でも思ってますし。それだけいろいろな事に耐えてきた子だから、どこへ行っても絶対可愛がられているだろうし、自分も人にいろいろ優しくしているだろうと、信じていますし。

これからも何が起こるかわかりませんけど、これは日本の国の物凄い大変な問題で。めぐみがどうのるみ子さんがどうの、帰ってこられた方が何人だの言う事じゃなくて、拉致された方がこれだけいる。何年と言う長い間、それが北朝鮮に繰り返され続けていたと言う事に対して、日本は何をしてきたのか?

そして向こうが認めてきた後も、なんでこんな年老いた家族が皆で一生懸命になって、クタクタになるまで訴え続けなければならないのか?本当にこれはおかしい、とお思いになりませんでしょうか?誰もこれは許す事が出来ない事なんです。

本当に皆が国民がひとつになって、政府も外務省もそして家族も誰も彼もがこんな事許せないんだと。これはどんな事あっても許せないことなんだという毅然とした姿勢を示して行かなければ、日本と言う姿はどんな風に映るんでしょうか?私たちはその事を考えて最後までめぐみちゃんが、皆さんが帰ってきたように、タラップから元気で帰ってきて。

今日も来て下さっている馬場先生や、めぐみちゃんの親友だったお母さん、皆さんのことを本当に覚えていると思います。

曾我さんがいつも言ってらしたように、「毎日、お月様を眺めて小さな声で日本の歌を歌ってたんですよ」と、言ってらしたことを。その事をまだ続いている人が、あんなに沢山の人がいるということを私たちは絶対に忘れてはいけないですし。

私はもう、めぐみちゃんの事だけではなくて本当にひとりひとりの命が、こうして大事に育てられたものが、何の罪も無いのに袋をかぶせられたり、船の底に投げ込まれたりして。そして全く違った気の狂うような悲しい人生に変えられていく。

こんな事を捨てておいてはいけないという事を、私は最後まで言い続けて、どんなことがあるか分かりませんけど、最後まで戦いたいと思っています。
ありがとうございました。(拍手)

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横田めぐみさんを救うぞ東京集会(3)

横田拓也さんのお話

皆様方こんばんは。(会場よりこんばんはの声)
横田めぐみの弟の横田拓也と申します。今、(司会の)平田さんの方から話がありましたが、危うく「横田きん也」だったかも知れません。(笑い声)双子の上の方になります。

私が、姉がいなくなったのは小学校の低学年でございますから、正直言って物理的に記憶している事は親がここでしゃべった事より長く記憶している事ではございませんので、皆様方にお話できる事はかなり対比すると限定的になると言う事を、ご承知の上で聞いていただけたらと、思っています。

すでにご承知の事と思いますが、私の姉は13歳でこの日本から拉致されたわけですから、今月の10月を持って40歳の誕生日を迎えましたから。すでに人生の3分の2以上をですね、日本から離されそして家族の元から引き離されて、地獄以下の北朝鮮で生活を強いられていると。この事実はどう見ても変えられない事実であると言う事を、私たちは忘れてはならないと言う風に思います。

どこにいても、家族から一方的に強制的に離されると言う事自体が異常だと思うんですが、離された土地が民主主義の国家では無い。自由が無い!食料も無い!未来も無い!思想も発言も許されない!こういった過酷な状況の中でですね、生活を強いられていると言う事は、本当に異常な事態であると。人権的にも人道的にも本当にこの上ない異常な事態の中で、この人生を強いられていると言う事を、私たちは認識していく必要があると思います。

たまたま私は姉の弟、もしくは横田家のひとりとして申し上げてるわけなんですが、これは横田家だから言う話ではなくてですね。人間として、私たちが人類として受けた生と役割としてですね。この事は声高に訴えていかくてはならないのかな、と思っています。(拍手)

先般、後ほど西岡先生の方からもお話があると思うんですが、アメリカの方で人権法案が通ったと言うような事があります。
後はブッシュ大統領が署名するだけと伺っておりますけども。これは世界的に見てもどう考えてもおかしいと言う事は、厳然たる事実なんですね。

私たちは隣の日本海を越えた朝鮮半島の中で怪しい国であると。だから日本はもう少し毅然と構えなくてはいけないと言う事だけではなくて。異常事態がテポドンで言えば10分くらいのところですけども、そこで起きていることを私たちは忘れてはならないわけなんです。

人類の歴史としては、過去にアウシュビッツの強制収容所とかがあって、人類はそこに一時目をつぶっていた時があったのかもしれません。そして歴史は今になって、その事はおかしかったと言ってるわけなんです。

私たちの今生きてる現実のこの世界で、隣の国でですね、まあ、私たちは国とは認定してませんけども、このとなりの地域においてですね。私の姉を含めた日本人、そして韓国の方々、そしてなんといっても朝鮮人のご本人達がですね、生活を犠牲にして、人類が人として扱われないで過ごさせられている。

そして、もしくは生きた心地がしないというのはこの事かも知れませんけども、そういった時間を強いられていると言う事を、強く受け止めてあげる必要があると思います。

ある脱北者のお話だったと思います。これは安さんの方が一番お詳しいかと思うんですけども「自分が死んだら初めて天国があると思う」とおっしゃった方があるそうです。本当に一日寝て起きていつも地獄、といった環境なわけなんですね。
こういった異常事態、本当に信じられないですし。そういった時間をですね、私の姉が、こうしてお話している今現在でも強いられていると言う事が、本当に私としては許せないし悔しい思いがしてなりません。

今私の話の前に両親が、過去の小さい頃の姉の輝かしい楽しい話を皆様方にお伝えしてますけども、姉弟の身としてはとてもつらくてならないです。今この時点で楽しいお話をお伝えできれば、この上ないお話です。しかし今お話した事は、過去の話ですから。本当に悔しくてなりません。

失われた時間は確かに取り戻す事は出来ないかも知れませんけども、これからの時間を私たちは作ってあげる事は出来ます。それは横田家のひとりとしてではなく、日本人の責任として、この問題を片付けていく。北朝鮮に対して毅然とした態度で迫っていくことが本当に大事だと、いう風に思います。(拍手)

姉の思い出と言う事でいくつかお話したいんですが、先ほど両親がお話しましたように確かに元気な子です。
一言で私から例えて言うならば、イメージは「快活」と言う言葉がすごく合う訳なんです。
元気で朗らかでいつも笑っていると言う格好でした。
食卓では本当に華というか、太陽のような存在でしたから、いつも主役なんですね。

私と弟が小学校の低学年ですから、食卓で、まぁ何が欲しいとか突っつく訳なんですけど良く喧嘩してたんですね。同じ年ですけど、若干体が大きいものですから、私の方が多少強かったようなんです。そうすると弟はわめくんですけど、そうすると必ずそういった負けの方に姉が付いてですね。弟と姉、私というこの不利な三角形(笑い声)の中で、いつも食卓を囲んでいたと言う事は、多分両親も目撃していたんでは無いかと思います。

私が一番印象深いのは、新聞だったか本だったかでご紹介した事があるんですが、姉の玩具を壊した事があります。実は小さいこれくらい(ティッシュペーパーの箱ほどの大きさを示す)の木の玩具でベットの形でその中に人形が入ってる玩具なんですが。仲良く過ごしてるんですけど、どこの家庭でもあるように姉弟ですから喧嘩はしょっちゅうしました。私は男で姉は女性ですが、ちっちゃい頃なんて男も女も関係ないですから、喧嘩する時はお互い本気で喧嘩してました。

悔し紛れに、私どうしても小さいですから、姉の玩具を投げたんですね。そうすると、多分姉はとても大事にしてたんだと思うんですが、その玩具が壊れてしまいましてですね。ホントに姉が泣いて悔しくて涙を流してですね。私に突っかかって来た記憶があります。

その時もそうだったんですが、必ず私を力で抑えるような事はしなくてですね。いつも我慢をしててですね、歯を食いしばって涙流して、親に「拓也・哲也にやられた」と言うような話をしながら耐え忍んでいたと言う風景を良く覚えていまして。そのイメージがあるせいか、今こうして日本に帰って来られない状況をどんな顔してるんだろうな?というのは、当時の私が玩具を壊したときのですね。歯をクッっと食いしばった顔であり、涙を流して「何でなんだ」と「悔しい」と言ったような顔が印象で浮かび上がって来るわけです。

今北朝鮮から提示された、ちょっと年取ったときの捏造されたような写真が、私たちの日本の社会に流通してますけども。あの写真が真実だったとしてもですね、私なんかの記憶にはああいう姿はもちろん無くて。そういった喧嘩した当時の、若い頃の中学1年生の頃の印象しかない訳なんです。

当時いなくなった時は小さい頃でしたから、先ほどテレビに何本か出たという話がありましたけど。私も朝早く新潟からですね、東京のどこのチャンネルか覚えておりませんけども、「小川宏モーニング・ショー」なんてのが昔ありましたよね。ああいう所に出たりなんかして、失踪者プログラムと言うのに出た事があります。

で、そういった事に、何にも知らない中で子供として出るわけですから、すごく大人の世界にいきなり飛び込むわけですよね。ですから拒否感のようなものがすごくありましてですね。今でも実はこうして何気なく話している感じなんですが、放送局のカメラの前では物凄く抵抗感があるわけなんです。子供の頃のトラウマになって今でも消えないわけなんです。

でもやっぱり家族だからこそですね、日本国民だからこそ、男児だからこそ、これは悪には打ち勝つしかない!正義は貫かなくてはいけない!という事で私は精一杯出来る限りお話をしているつもりですし。私達がこうして元気でおかげさまでいられるのは、実は本当に皆様のおひとりおひとりのお支え、お力、のおかげなんです。

本当に私が小学校の頃、今新潟救う会の会長の馬場先生がお見えになってますけども。本当は馬場会長と言わなければならない。でも私は馬場先生、やっぱり校長先生だったわけなんです。こういった大きな事件に巻き込まれてしまうと、当時は行方不明とか自殺とかいろんな線で言われてたんですが。子供としては挫折感をすごく味わってですね。いろんなその非行とか、走ってた可能性が十分あったと思うんです。

で、そこで本当に支えて下さったのは、先生方でしたから。本当に今こうして、皆さん方から見て私が本当に良い大人になってるかどうか、というのはちょっと私からいう事じゃないんですけども。本当に間違った道に走らなかったのは、おひとりおひとりの先生ですとか、皆様方のお支えによって今がある、と言う格好です。

そしてこの拉致問題が1997年に公になってからですね。私たちが何度も挫けながら、いろんな捏造された情報に振り回されながらも、間違いなくここまでこられたのも、皆さん方のお力であり、怒りの声であり、北朝鮮に対峙しようという気持ちであり、こういったものが、私たちが挫けそうになった時に、本当に踏ん張ってここまで来られたと言うのが実情でございます。

さきほど姉の思い出、玩具の話もしたんですが、後何点かお話したいんですけども。当時、バレーボールじゃない方のバレエをしていたと言う話が、両親からありましたけれども。私も小さい頃、姉が通っていたバレエの楽屋って言うんですか、裏の着替えるところに連れて行ってもらったりとか。こんな小さい頃なんですけども、「あなた男だから楽屋から見ちゃ駄目」(笑い声)とか言われてた事があったりとか。

あとバトミントンを姉はやってました。あちらからの写真の中にもバトミントンのラケットのカバーとかありましたけども、私もそれに続いたわけでは無いんですけど、バトミントン同じ寄居中学校で始めたわけなんです。小さい頃は母が今申し上げたように、自分が試合前で大変だみたいな、肉体的な疲れより精神的な疲れで悩んでいたようなことは本当に今でも覚えています。

私自身がつらかったのはですね、姉の話でもあり、私の話でもあるんですが。やっぱり今だからこそ、いなくなった事実と結果が何か?と言うのが、北朝鮮による拉致ということが分かってるわけなんですが。当時は誘拐なのか自殺なのか何なのか、全く分からなかったんですね。

で、これはいろんな所で私もお話してるんですけども、当時親はご近所の方々から監督不行き届きだということを言われていたと思います。私自身もそれは耳にしたことがありますし、本当にいわれない事をですね、親は言われてたと思います。これは子供から見てて、辛かったですし、どうしていいのかが分からなかったわけです。

小学校、私小さいですから、子供たちは正直ですから、原因が分からなくて姉が突然家庭からいなくなりましたから、「横田めぐみ、いないじゃないか!横田めぐみ!横田めぐみ!」とかって、意味不明の中で「横田めぐみ」と言う言葉を連発しましてですね。本当にその中では傷ついた思い出があります。

それは中学校に行っても同じでした。「横田めぐみ」だっていう話は言われてまして、それ以来家族の事をあまり自ら口にする事は少なくなりましたし、仲良い人だけにしか話さない。中学校でも知ってる人はいなかったですし、高校でも担任の先生しか姉のことは知らなかったという話で。

この話が公になってから「君がそうだったのか?」と言う話はいろんな方面の方々から言われまして、そういう意味では逆に罪悪感というか、今まで言ってこなかった事はごめんなさいという気持ちがあるわけなんですが。そういう歴史の中で、辛い中で時間を過ごしてきた結果になるわけなんです。私が大きく言うとそれくらいの思い出が、もっと他にもあるんですけど、そういう事にしかならないんですが。

気持ちとしては、やっぱり怒りと悔しさで抑えきれない状態なんですね。家族の話を、って言う話なんですが、どうしても言いたいし言わなければいけないと思うんですが。ここに来て日本の今の外交のあり方は、間違ってるんだという事を突きつけなきゃ駄目だと思うんですね。(拍手)

いつも対話と圧力、対話と圧力と言ってですね、圧力なんかした事も無いわけなんです。(拍手)
小泉首相はですね、一度たりとも自らの口で「日本人を帰せ」と言って怒った事も無いじゃないですか。(拍手)

これはやはり、国の責任者としては私は適格なのかどうか?という疑問を私達は投げかけていいと思います。自分の国の国民が拉致されているんですから、アメリカの高官たちがですね、拉致の問題を真剣に考えて法まで通しているのに、何故自分の国のさらわれている責任者が一言も口にされないのか?というのが、本当に疑問でなりません。(拍手)今回、外務大臣がようやく顔の見える外務大臣になられたと言う事で、私たちは大きな期待をしています。

私は昨日ちょっとご一緒させていただく事は出来ませんでしたけども、本当に報道の皆様方の前でですね、「制裁をする必要があるんじゃないか」といったような事を、具体的に口になさった方です。アメリカのアーミテージ国務副長官も「横田めぐみが帰ってくる事を望む」と固有名詞をあげて私たちをバックアップしていただいてるんです。こういった現実があるのに、小泉首相だけが、首相官邸だけが、私たちの民意に反している。という事を、私たちは受け止めていく必要があると思います。(拍手)

私たちはまとめて言うと、加害者が誰で被害者が誰かを考えれば、私たちは明らかに被害者なんですから、私たちが当然の事を強い事を言って然るべきなんですね。いろんなテレビ・新聞各社のアンケート・世論調査を見てみますと、7割以上の方がもう経済制裁していいじゃないかという事に決してるわけなんですね。日本の国会、つまり私たち国民が決めた法案としての経済制裁法案を2項持ってるわけなんです。それは国民の民意じゃないですか。

いろんな方々がアメリカを含めて、それをして良いじゃないかというところまで来てるのに、小泉首相はそれをなさろうとはされない。やっぱり私たち国民の民意を無視してるとしか思えない。(拍手)私たちはもっと口にして、もっと行動して、日本政府に正しい事をしてもらう。悪の北朝鮮に対して毅然とした態度をとってもらう。これをしていく必要があると思います。(拍手)

拉致問題は私の姉の問題だけでなくて、もしくは政府が認定している方々だけではなくて、すでに100人を超える方々、もしくは400人を越える方々がいるかもしれないといういことを、忘れてはならないんです。その方々が、仮にご結婚をされてご家族を持っているとすれば、その2倍~2.5倍もしくは3倍くらいの日本人の方々があちらに抑留されている可能性があるんです。

私たちは日々何にも感じないですが不自由なく、安心して眠れて、ご飯食べれて、明るい朝が来て、人といろんな意見が交換できて、という事に慣れ親しんでいますけど。これは私達の世界では自然ですけども、その800人もしくは900人と言うご家族の方々には、そういった自由を与えられていないんです。その事を私たちは厳しくあるんだと言う事を認識して、日本政府を動かしていく、北朝鮮に対して対峙していく、と言う事が大事だと思います。(拍手)

あと、横田家の話しだけで申し上げると、キムヘギョンさんの問題があります。当時2002年の12月くらいでしょうか。うちの父が訪朝するべきではないかどうか?と言う話がマスコミの偏重報道の中で一部あったんですが、そういう議論が巻き起こりました。

私はもう、大反対を唱えました。それは思う壺じゃないですか、と。北朝鮮が出してくる情報はすべて嘘です。ここを前提で考えないと、この嘘情報を是と思っていいとか悪いとかいう話は大間違いなんです。騙される大元なんです。すべて疑ってかかって、彼らが出して来る情報はすべて彼らにとって都合の良いことです。

ジェンキンスさんの話も北京でやろうと言ったのは、彼らがうまくやり遂げとげるための方策だったと聞いています。ですからもうそれは、おかしいと。父が行ってしまえば、もうあらゆるお金が無い、国家として食料も何も無い、それでもお金をあらゆる所にかけてですね。いろんな報道合戦をして、父が納得したと言う報道を繰り広げていたと思います。

こういうことを私たちは危険だと言う事で、父を何とか押しとどめて、行かなかったわけです。しかし、これは家族会の横田拓也として申し上げている事ですけれども、横田家の滋の息子として申し上げれば、本当にこれ以上辛い事は無いです、ハッキリ言って。本当に19年間見えてこなかった、姉の軌跡、がですねようやくヘギョンちゃんという形で見えてきた。姉が生きていたと言う証拠が分かって、本当にあんな可愛い子供がいると言う事が分かったわけなんですね。

普通の親なら会いに行きたいですよね。

でも、それが出来ないんですよ。そこの苦しみを、私たちは実名報道すると言うときもですね、今のヘギョンちゃんの話もそうですけど、本当に口にしたい事が出来ない。した場合はいろんな政治的影響力がある。今でも、もしかしたら、小泉首相や当時の福田官房長官、今の細田官房長官以上にですね。その言動ってのは、政治的にも外交的にも影響力が大きいんです。

そういう中で父は表面的には優しい顔をしていますけど、家に帰れば怒ってる時は怒っています。というのは本当に悔しいと思うんですね。それはやっぱり横田さんのところじゃなくて、我が事として考えていただいて、この怒りを政府に対して、北朝鮮に対してぶつけていくと、いうことが大事なんだと思います。(拍手)

それから先ほど、父の方から、めぐみの事を甘やかしたという風に言ってますけど、私は決してそうでは無いと思っています。
確かに優しいお父さんだったかもしれません。私も小さい頃、厳しく怒られたのは母親から怒られたのを良く覚えてますけども(笑い声)

ただですね、どちらがどっちという話ではなくてですね。躾と子供という部分では親どっちでもいいんです。その中で間違った事を教えられていない。例えば虫でもちっちゃな蟻でも踏んだらいけないよ、とか、道理とか道徳みたいなものはキッチリ私も含めて教わったつもりでいます。

そういう意味では、私が小泉さんが訪朝した時に翌日テレビで申し上げたと思うんですが、そんな毅然とした姉が自ら命を絶つなんて、まず有り得ません。(拍手)後ほど西岡先生がですね、物的証拠の見地からそういう