横田早紀江さんの訴え(2006/12/14)
拉致問題を考える国民の集いより
06.12.14 日比谷公会堂にて
音声はBlue jewel Voiceで、聞くことが出来ます。
『横田早紀江さんの訴え』
皆さま、こんにちは。
今日はお寒い中をこんなにたくさんの方がお集まりいただいて、ありがとうございます。
もうほとんど主人の方が事細かに拉致の経過を話してくれましたので、特に無いんですけれども。
本当に今日、このように政府主催で拉致問題を取り上げていただいて、人権問題として皆さんに聞いていただくような、こんなに大きな会を催していただいた事を思いますと、本当に10年。
約10年と言う活動を続けてまいりました。
本当に何も分からなかった頃からです。
先ほど主人が申しましたように、20年間と言うものは、全く何の情報も無ければ電話もかかってこない。
何も分からない。
どんなに警察が大捜索をしても、めぐみの事は何一つ分からない。
どうしてこんなに鮮やかに一人の人が、すぐ近くの街角で煙のように消えてしまうんだろう?という事が、非常に私は不思議でどうしたんだろう?と。
本当に苦しくて苦しくて、もう毎日畳を掻きまして大声を上げて絶叫するように泣いておりましたので、隣のおばちゃまがいつも心配して「大丈夫だから、大丈夫だから」と言って、きれいな水仙とか紫陽花の花とか、一生懸命慰めに持ってきてくださった事がありました。
そして活動を始めるに当たり家族会が結成された後、今日もお見えになっている多くの方と本当に心を一つにして協議しながらお互い信じあいながら、今日までやってきました。
そして背後には、先ほども主人が話していましたように救う会と言う会が結成されて、今日もお見えになっています佐藤会長はじめ、西岡先生や前は一緒にしてくれておられた荒木先生や、今もたくさんの全国の救う会の方々が。
私たち本当に庶民、何も分からないただ普通の、単純な普通の母親でしかありません。
父親でしかありません。
非常に難しいこの問題を良くご存知の先生方が、いろんなふうに計画をしてくださり、北朝鮮外交というのは難しいですし、そして私たちが政府に「このようにしてください、このようにしてください」とお願いするにしても、個人では難しくてとてもそのようなところへ出て行くわけにもいきません。
けれども家族会を一つの輪にして、救う会の多くの方々が本当にここまで、もう10年かかっているんです。
この長い間、どれだけご本を書いて発表してくださったり、そして今度はアメリカへ行って訴えよう、今度はジュネーブの国連へ行って訴えよう、今度は韓国の皆さん家族会の皆さんと一緒に会を開いて力を合わせよう、韓国の政府の人にも訴えよう。
いろんな事を隅々計画してくださって、今日まで支えてくださったんです。
本当に私はいつもこのたくさんの方々に、温かい支援の輪と言うものを心から感謝しております。
そしてめぐみの事が分かりますまでの私たち自身は、本当に日本の中での事件だと思っておりましたので、いつもいつも話していて同じことばかりお話しているんですけども、新潟県内でも市内でもいろんな事件がありました。
一番最初にいなくなって一週間、とっても苦しい時間のときに、焼却炉の中から女性の焼死体が出てきました。
「あぁ、これはめぐみちゃんかも知れない」と、すぐに連絡がありまして、ましてや「めぐみちゃんは今日腕時計をして出ていますか?」という質問があって、すぐに机の中を捜してみましたら、バドミントンの強化選手に選ばれたりもして練習量も激しいものですから、「ちょっとしばらく置いていくわ」と確か言っていたなぁと思って引き出しを開けましたら、案の定腕時計がありましたので、「うちのはあります」と言いましたら、「それでは違うかもしれない」と言うことで。
「よく調べてみます」という事で調べていただきました結果、たまたまそれは60歳代の女の方のご遺体であって、違った腕時計が発見されたので、「めぐみちゃんのものではなかった、良かったね」という事で、本当に体が全身がこんなに震えるのか?と思うほど、止まらないんですね。
震えが恐ろしくて悲しさと恐ろしさで。
歯もガタガタガタガタ、どこに行っても震えっぱなしと言う悲しい時間を過ごしておりました。
そして日本海がすぐ近かったもんですから、日本海のちょっと沖に漁船の網にちょっと小さめの女の人の頭蓋骨が引っかかって上がってきました。
「あぁ、これはひょっとしてめぐみさんかもしれない」「誰かにやられて捨てられたのかもしれない」とまた警察から連絡があって、それで前任地の広島の歯科医にすぐカルテを取り寄せてくださいと言われて、それで電話をかけて「こういう事ですので大急ぎでカルテをください」といって、向かいました。
すぐに速達でカルテを送ってくださいました。
それを警察に届けるのに自転車に乗って、本当に足がこんなにもガタガタガタガタ震えて、ペダルが踏めないんです。
怖くて、もう恐ろしくて。
赤信号なのにもう何にも分からないで、皆に大きな声で怒鳴られながら、「わぁ目障りだなぁ、何を言っているんだろう?」と思ったら平気で赤信号を渡っているような、そんな状態で警察へ届けました。
大井埠頭からも若い女の人の遺体が上がってきましたが、そんなのを見て、もう耐え切れないほどの悲しい中を、私たちは通ってきました。
雪が降っても、何とかあの子が雪が降るまでに何とか見つかって欲しいといつも願っていたんですけど、大きなボタン雪が降ってきてもめぐみちゃんの行方は全く分かりませんでした。
電話が鳴るたびに「ひょっとしたらめぐみかもしれない」と飛んで出るようにいつもしていたんですけど、いつも違うんですけど、あの子の声はあれっきり今も30年経っても聞く事が出来ません。
そんな中でこうして救う会が全国の皆様方の温かいご支援を頂いて、そしてたくさんの500万名を越えるような署名を頂き、そしてたくさんの活動資金をこのような会のために、またアメリカへ行ったりジュネーブへ行ったりするいろんなことのために必要な経費のために使ってくださいと。
本当にたくさんの方が小学生の子供たちまで、バスに乗っていると「横田さんのおばちゃん、僕のお小遣いだけど使ってください」といって50円を渡してくれたり、「今日今回は何も買わないから使ってね」といって500円をすぐ手渡してくれたり、そして多くの方がいつも今でも家族会にそうしたたくさんのカンパを送っていただいております。
そのおかげさまでこうしてたくさんの活動を、本当に安心してさせてくることが出来たんです。
そして私たちは講演会もたくさん頼まれて、あちこちでこういう話をしていますけども、家の中は本当に異常な状態にありまして事務所のようになってしまいまして、あらゆる書類とか本とか手紙の山とか凄いものが山積にのようになっておりますが。
頂くものに対しては必ずすぐにどんなに金額の多い少ないに関わらず、全部家族会に入れさせていただいて、そして必ず領収証を書いて判子を押して、本当に遅くまで私たちは大体1時2時頃まで事務的な仕事をしながら、皆さんの本当にありがたいお心に応えて、そうやって伝えてまいりました。
そして私たちは一緒に活動してます中で、いつもこれもお話しするんですけども、署名活動をいろんな県で展開しておりました。
今は亡くなられてしまわれて悲しみは今も忘れないんですけど、増元さんのお父様。
元気なお父さんでした。
九州男児で本当に大きな声で明るい声で、「いやぁ、横田さん元気だったぁ?」と言って出迎えてくださったお父様と一緒に、るみ子さんの写真やめぐみの写真を大きくして、そして街角に立って「署名をお願いしま~す」と何度も何度もお願いしていたんですけども、本当に初めの頃と言うのは今のような関心度は無くて、拉致疑惑と言うような形でしたから、ほとんどの方がさぁ~っと素通りなさるんです。
チラシを出しても全然、手を振って受け取ってくださらない時期が多くありました。
そして「どうか一人でもいいから書いてくださいと、娘を助けてください、るみ子を助けてあげてください、めぐみを助けてください」と、私たちは必死で大きな声で叫んでました。
るみ子さんのお父さんが言われたその時の言葉を私はいつでも胸の中にしまって、この事が本当に大きな根源なのでは無いか?といつも講演会で話させていただいております。
るみ子さんのお父さんはあまりにも通り過ぎる人が多いので、仰っていました。
「本当にこんなに大変な大事件が日本の中でたくさん起きているのに、この24年間と言う長い年月、一体日本の政府は何をしていたんだ」と涙を流して叫んだんです。
私はその時横におりましたので、その時の言葉を忘れる事が出来ないんです。
そしてあのときに、るみ子さんのお父さんに本当にるみ子さんを会わせて上げたいな、と思いました。
私もめぐみに会いたい。
皆がそれぞれの家族に会いたいと思っています。
けれどもるみ子さんの姿はあのタラップからは現れなかったんです。
めぐみもそうです。
たくさんの、有本恵子さんも、皆そうして街角に立って頑張ってこられたんですけども、タラップから降りてこられたのは、本当にあれだけの方だったんです。
そしてその時に、今今日も来てらっしゃいますけどるみ子さんの弟さんは帰ってこられた方に、お父さんがご病気で入院をされていて非常に重体でありましたので、「何でもいいから北朝鮮でるみ子に会わなかったか?るみ子がどんなふうにしていたか?どんな些細なことでも良いから教えてください」と「父に話してやりたいんです」と、一生懸命に回られたんですけども、あの時はまだ帰られたばかりで非常に緊張感もおありだったのか、「見たこともありません、知りません」と「全然知りません」」という事で、もう本当にがっかりなさって、照明さんは大急ぎでお父様のところに鹿児島に帰られました。
そして病床にあってもう酸素マスクをなさっていて、もう非常にあの頃の元気なお姿は無くて、本当にやせてしまわれたお父様が、酸素マスクをしている姿をビデオに録って、この度の映画にも出ていてくださいますけども。
お父さんはそれでもその中で、一生懸命に仰っていました。
「俺は日本を信じる、だからお前も日本を信じろ」と、照明さんに仰ったんです。
「日本を信じる、だから日本を信じろ」
これはどういう意味なんでしょうか?
外務省を信じろという意味でしょうか?
総理大臣を信じろという意味でしょうか?
警察を信じろという意味なんでしょうか?
これはもっと深い意味があると思うんです。
日本の全部の父親・母親がこのようなことになったとき、自分はいったいどうするか?という事では無いでしょうか?
みんなの心を信じて、日本中の人が力を合わせて心を合わせて、このような悪魔のような残酷なことになっている者たちを、絶対に助けようと思う気持ちになることだと、その事を国民全部を信じて頑張りなさいと、言い残されたんだと私は思っているんです。
私はあのときに叫んでいた街角でのお父さんの声と、そして照明さんに残された最期の言葉がいつも私は頭の中にこびりついて離れないんです。
そして今までどんなにふうに・・・(聞き取れず)されてきたか?という事。
10年間の間、いろんな事がありました。
私たちは何も知らない、本当に平凡な庶民でしかありませんから、政府を信じ警察を信じ外務省を信じ、テレビとか新聞に出ることくらいでしか、国民の皆さんもそうですけども、理解する事は出来ませんけども。
私たちはどんなに小さなことでも子供たちの命を助けるためになることなら、どんな事でもしてくださるだろうと信じてきました。
そして金正日の息子であるという金正男さんという、息子さんがこちらに不法入国された事があったけれども、あのときはもう「これで子供たちが帰れるんじゃないか?」と本当に家族は皆思ったんです。
「絶対にこれで政府はこの人をカードにして、こんな大切な人を返すんだから、拉致をした人を全部返しなさい」ときっと取引をしてくれる。
「これで帰れるよね」と本当に喜んでいたんです。
けれどもその時の外務大臣(=田中真紀子:当時)と言う方は、「早く返しなさい返しなさい」と、北に送ってしまわれたという事を聞きました。
そして外務省の方々が、今は外務省の方々もたくさん来ていらっしゃって、こんな事をお聞きになるのは非常に不快だと思いますけど、現実にあったと思って私は申し上げますが、6人もの上の方々が・・・・(聞き取れず)で金正男と言う人を飛行機に乗せて送還してしまったと。
どこに連れて行ったかは、ちょっと私覚えていませんけども、そういう事がありました。
それでも家族の方はまだ一縷の希望を持っていました。
外務省だから、日本の外務省だから、絶対にこんな事を蔑ろにするはずが無い。
私たちには言えないでしょう。
国民には知らせられなくても、この人たちを助けるためにこんな大事なカードを向こうに送るならば、飛行機の中で6人もの人が付いて行ったのなら、必ず中で一生懸命にどういうふうにしているか?という事を、計画してくださっているよねと。
このまんまでは絶対に置かれないでしょうと希望を持って頑張っていたんです。
けれども、あの事はそのまんまで消えてしまいました。
いろんな事がありました。
本当に私たちはいつもこういうふうな分からないことが状況が時々あっても、いつも今でもどうしてだったのか?という事が何も知らされません。
国民にも家族にも知らせていただく事が出来ません。
こんなに大事に私たちが、大事な大事な子供たちを取り返すために、どんなに本当に命がけで戦っているのか?という事を分かっていてくださるんだろうか?と思いました。
そして昔から、もっと、私たちの子供が連れて行かれる前から拉致が行われていましたけれども、その時々でも、あの時こうしていれば次のこの人は拉致をされることは無かったんじゃないか?という事も、たくさん出てきております。
そしてその事はあの時もう少しすれば良かったと、終るようなことではいけないと思うんです。
私はいつも思います。
今日、私はここで家族代表として、救出のために皆様方に娘たちを助けてくださいとお願いをしておりますけども、この拉致と言う問題は、誰の身に起きたか分からない。
本当に恐ろしい大事件なんです。
日本の平和な国の中で、誰も信じもしない様な事が、30年間も待たなければならないほどの大変な問題が、長い長い間起き続けている。
そしてその子供たちは、向こうで今も、今日も、昨日も明日も、お月様を見ながらいつ助けに来てくれるの?と、早く来てと、助けを求めているんです。
蓮池さんや曽我ひとみさんも帰って来られて仰っていました。
誰かがきっと助けに来てくれる。
そう信じて待って待っていたけれども、誰も来てくれなかった。
だから私たちはもうこの国の人たちになって、北朝鮮人になって生きていくしかないと諦めて、180度心を入れ替えて住んで来たんですと、蓮池さんご夫妻は仰っていました。
ひとみさんは、私は必ず誰かが助けに来てくれると思って待っていましたと。
それぞれに思いは違いますけども、どんなに本当に残酷なこの悲しい悲惨な思いを心に持って、あちらに生きている人たちが今もいるかと思うと、ひょっとして今日ここに来て私たちの話を聞いてくださっている皆様方のどなたかが、どなたかの大事なご子息またお嬢様、またご家族の誰かがこのようになっていたかもしれません。
今日その方が誰かがここで、私たちがこちらから聞いて「助けてくださいと訴えられていたかもしれない。
このような大変な問題なんです。
拉致問題だけでなく核まで持つようになったあの国が、麻薬や偽ドルや不審船・テポドンミサイル、ありとあらゆる悪行を本当にやり続けて、そして多くの強制収容所では罪も無い人が今も、私たちの子供たちもどこにいるか分からないんですから、そんな所にいるかもしれません。
どこにいるか、私たちは嫌な事は思わないことにしているから、生きていると思って頑張っているだけのことで本当の事は分かりません。
その中で何の罪も無いのに物凄い虐待を受けながら労役をさせられて、叫びを求めて、早く助けてくださいと嘆いている北朝鮮の国民が一杯いるという事も、私たちは知らなければなりません。
そしてそのような強制収容所から、必死の思いで、9歳から親たちとそこに入れられて、非常に悲惨な恐ろしい状況を見続けてきた青年が一人、青年になってから上手く逃げて、今韓国で北朝鮮の人権問題を一生懸命に取り上げておられますが、その方と一緒に私たちは一度このような講演会をさせていただいたことがあります。
姜哲煥さんという本当に素晴らしい青年ですけども、本当にこのような残酷な事があるという事。
あの国で僕たちが経験した事はこんなことだったという事を、今こんなに平和な日本の国の皆様方に話したって信じていただけないと思います。
けれどもこれは現実であり真実でありますと、仰っていました。
このような事を世界中の人に知ってもらいたい。
まだ私たちのおじいさんとかもそこに放り込まれたままで、今も助けを求めている人が一杯いる。
それがどんなに苦しい生活か?
もう、言うに言えないほどのことなんだと仰っていました。
涙をその方は流しながら、だから私は逃げて、この事を世界中の人に訴えなければいけないと思って逃げてきたのですと、仰ってました。
そして本当に死に至る苦しさって言う意味では、ドイツのガス室でたくさんの方が虐殺されましたけども、そのような方の方がまだ北朝鮮でのあの強制収容所での死を味わう過程と言う意味では、どれほど良いと言うか楽だと言うか、へんな言い方だけどと仰っていましたけど、まだ楽だったかと思いますと。
ガス室は一瞬にして命が絶たれますが、あそこにいる間はもう生きていたくないほど苦しくて、死んだような状態であっても働かされるし、殴られるし、冷たい氷の上に放り出されるし、赤ちゃんを産んでもすぐにその赤ちゃんはビニール袋に入れられて、氷の上に捨てられてしまう。
そしてそのお母さんもすぐに働け働けと言われるような、こんな恐ろしいところが現実にあるんだという事を本にも書いていらっしゃいますし、本当に多くの人間として知らなければならない大事なことだと思うのです。
私たちは拉致問題だけでなく、こんなに悪魔のような事を平然とやり続けている。
たくさんの人たちを苦しめ続けているその国が核を持ったという事は、どういう事が起きるんでしょうか?
これはもう日本の問題だけではありません。
近い韓国、またどこまでも飛んでいくか分からないものを作り続けていたとき、時間稼ぎをする事はもう出来ません。
必ずそこに制裁を加えてでも、戦争をするわけにはいきませんから、制裁をかけて物資を止めお金を止めて、もうどうにも何も出来ないようにするしかないんで、私たちは制裁をお願いしているんです。
皆が幸せになって欲しいと思っているんです。
あちらの国の方々もそんなところから皆出していただいて、本当に自由を得ていただきたいと思っているんです。
めぐみたちも早く、有本さんもるみ子さんもたくさんの、たくさんや市川修一さんも皆元気で。
田口八重子さんも本当に皆があそこのタラップから元気で降りて帰って、この自由の今の、こんなに裕福になった日本の国の中の本当に自由を味わわせてあげたいと思っているんです。
どうか全部が元気で、もっともっと多くの特定失踪者の分からない、名前さえも分からない・知らないでここにつれてこられて、私はいったいなんだろう?と嘆いている人もいると思います。
そういう人たちも一緒に皆元気で帰ってくることが出来るように、私たちは一生懸命に頑張っています。
どこまで体が持つか分かりませんけども、本当に多くの方々のご支援をおかげさまで今日までやってくる事が出来ました事を感謝しまして、そして日本中が一人一人があらゆる人が、国が、政府が、警察が、そして国会議員が、あらゆるすべての人が父親として母親として、こんなことはいけないんだと。
何とかしようと団結していただきたいと願っております。
本当に今日はありがとうございました。(拍手)
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