カテゴリー「横田家のことば」の記事

2007年1月18日 (木)

横田早紀江さんの訴え(2006/12/14)

拉致問題を考える国民の集いより
 

06.12.14 日比谷公会堂にて
  

音声はBlue jewel Voiceで、聞くことが出来ます。

『横田早紀江さんの訴え』

皆さま、こんにちは。
今日はお寒い中をこんなにたくさんの方がお集まりいただいて、ありがとうございます。
もうほとんど主人の方が事細かに拉致の経過を話してくれましたので、特に無いんですけれども。
本当に今日、このように政府主催で拉致問題を取り上げていただいて、人権問題として皆さんに聞いていただくような、こんなに大きな会を催していただいた事を思いますと、本当に10年。
約10年と言う活動を続けてまいりました。
本当に何も分からなかった頃からです。

先ほど主人が申しましたように、20年間と言うものは、全く何の情報も無ければ電話もかかってこない。
何も分からない。
どんなに警察が大捜索をしても、めぐみの事は何一つ分からない。
どうしてこんなに鮮やかに一人の人が、すぐ近くの街角で煙のように消えてしまうんだろう?という事が、非常に私は不思議でどうしたんだろう?と。
本当に苦しくて苦しくて、もう毎日畳を掻きまして大声を上げて絶叫するように泣いておりましたので、隣のおばちゃまがいつも心配して「大丈夫だから、大丈夫だから」と言って、きれいな水仙とか紫陽花の花とか、一生懸命慰めに持ってきてくださった事がありました。

そして活動を始めるに当たり家族会が結成された後、今日もお見えになっている多くの方と本当に心を一つにして協議しながらお互い信じあいながら、今日までやってきました。
そして背後には、先ほども主人が話していましたように救う会と言う会が結成されて、今日もお見えになっています佐藤会長はじめ、西岡先生や前は一緒にしてくれておられた荒木先生や、今もたくさんの全国の救う会の方々が。
私たち本当に庶民、何も分からないただ普通の、単純な普通の母親でしかありません。
父親でしかありません。

非常に難しいこの問題を良くご存知の先生方が、いろんなふうに計画をしてくださり、北朝鮮外交というのは難しいですし、そして私たちが政府に「このようにしてください、このようにしてください」とお願いするにしても、個人では難しくてとてもそのようなところへ出て行くわけにもいきません。
けれども家族会を一つの輪にして、救う会の多くの方々が本当にここまで、もう10年かかっているんです。
この長い間、どれだけご本を書いて発表してくださったり、そして今度はアメリカへ行って訴えよう、今度はジュネーブの国連へ行って訴えよう、今度は韓国の皆さん家族会の皆さんと一緒に会を開いて力を合わせよう、韓国の政府の人にも訴えよう。
いろんな事を隅々計画してくださって、今日まで支えてくださったんです。
本当に私はいつもこのたくさんの方々に、温かい支援の輪と言うものを心から感謝しております。

そしてめぐみの事が分かりますまでの私たち自身は、本当に日本の中での事件だと思っておりましたので、いつもいつも話していて同じことばかりお話しているんですけども、新潟県内でも市内でもいろんな事件がありました。
一番最初にいなくなって一週間、とっても苦しい時間のときに、焼却炉の中から女性の焼死体が出てきました。
「あぁ、これはめぐみちゃんかも知れない」と、すぐに連絡がありまして、ましてや「めぐみちゃんは今日腕時計をして出ていますか?」という質問があって、すぐに机の中を捜してみましたら、バドミントンの強化選手に選ばれたりもして練習量も激しいものですから、「ちょっとしばらく置いていくわ」と確か言っていたなぁと思って引き出しを開けましたら、案の定腕時計がありましたので、「うちのはあります」と言いましたら、「それでは違うかもしれない」と言うことで。

「よく調べてみます」という事で調べていただきました結果、たまたまそれは60歳代の女の方のご遺体であって、違った腕時計が発見されたので、「めぐみちゃんのものではなかった、良かったね」という事で、本当に体が全身がこんなに震えるのか?と思うほど、止まらないんですね。
震えが恐ろしくて悲しさと恐ろしさで。
歯もガタガタガタガタ、どこに行っても震えっぱなしと言う悲しい時間を過ごしておりました。

そして日本海がすぐ近かったもんですから、日本海のちょっと沖に漁船の網にちょっと小さめの女の人の頭蓋骨が引っかかって上がってきました。
「あぁ、これはひょっとしてめぐみさんかもしれない」「誰かにやられて捨てられたのかもしれない」とまた警察から連絡があって、それで前任地の広島の歯科医にすぐカルテを取り寄せてくださいと言われて、それで電話をかけて「こういう事ですので大急ぎでカルテをください」といって、向かいました。
すぐに速達でカルテを送ってくださいました。
それを警察に届けるのに自転車に乗って、本当に足がこんなにもガタガタガタガタ震えて、ペダルが踏めないんです。
怖くて、もう恐ろしくて。
赤信号なのにもう何にも分からないで、皆に大きな声で怒鳴られながら、「わぁ目障りだなぁ、何を言っているんだろう?」と思ったら平気で赤信号を渡っているような、そんな状態で警察へ届けました。

大井埠頭からも若い女の人の遺体が上がってきましたが、そんなのを見て、もう耐え切れないほどの悲しい中を、私たちは通ってきました。
雪が降っても、何とかあの子が雪が降るまでに何とか見つかって欲しいといつも願っていたんですけど、大きなボタン雪が降ってきてもめぐみちゃんの行方は全く分かりませんでした。
電話が鳴るたびに「ひょっとしたらめぐみかもしれない」と飛んで出るようにいつもしていたんですけど、いつも違うんですけど、あの子の声はあれっきり今も30年経っても聞く事が出来ません。

そんな中でこうして救う会が全国の皆様方の温かいご支援を頂いて、そしてたくさんの500万名を越えるような署名を頂き、そしてたくさんの活動資金をこのような会のために、またアメリカへ行ったりジュネーブへ行ったりするいろんなことのために必要な経費のために使ってくださいと。
本当にたくさんの方が小学生の子供たちまで、バスに乗っていると「横田さんのおばちゃん、僕のお小遣いだけど使ってください」といって50円を渡してくれたり、「今日今回は何も買わないから使ってね」といって500円をすぐ手渡してくれたり、そして多くの方がいつも今でも家族会にそうしたたくさんのカンパを送っていただいております。
そのおかげさまでこうしてたくさんの活動を、本当に安心してさせてくることが出来たんです。

そして私たちは講演会もたくさん頼まれて、あちこちでこういう話をしていますけども、家の中は本当に異常な状態にありまして事務所のようになってしまいまして、あらゆる書類とか本とか手紙の山とか凄いものが山積にのようになっておりますが。
頂くものに対しては必ずすぐにどんなに金額の多い少ないに関わらず、全部家族会に入れさせていただいて、そして必ず領収証を書いて判子を押して、本当に遅くまで私たちは大体1時2時頃まで事務的な仕事をしながら、皆さんの本当にありがたいお心に応えて、そうやって伝えてまいりました。

そして私たちは一緒に活動してます中で、いつもこれもお話しするんですけども、署名活動をいろんな県で展開しておりました。
今は亡くなられてしまわれて悲しみは今も忘れないんですけど、増元さんのお父様。
元気なお父さんでした。
九州男児で本当に大きな声で明るい声で、「いやぁ、横田さん元気だったぁ?」と言って出迎えてくださったお父様と一緒に、るみ子さんの写真やめぐみの写真を大きくして、そして街角に立って「署名をお願いしま~す」と何度も何度もお願いしていたんですけども、本当に初めの頃と言うのは今のような関心度は無くて、拉致疑惑と言うような形でしたから、ほとんどの方がさぁ~っと素通りなさるんです。
チラシを出しても全然、手を振って受け取ってくださらない時期が多くありました。

そして「どうか一人でもいいから書いてくださいと、娘を助けてください、るみ子を助けてあげてください、めぐみを助けてください」と、私たちは必死で大きな声で叫んでました。
るみ子さんのお父さんが言われたその時の言葉を私はいつでも胸の中にしまって、この事が本当に大きな根源なのでは無いか?といつも講演会で話させていただいております。
るみ子さんのお父さんはあまりにも通り過ぎる人が多いので、仰っていました。
「本当にこんなに大変な大事件が日本の中でたくさん起きているのに、この24年間と言う長い年月、一体日本の政府は何をしていたんだ」と涙を流して叫んだんです。

私はその時横におりましたので、その時の言葉を忘れる事が出来ないんです。
そしてあのときに、るみ子さんのお父さんに本当にるみ子さんを会わせて上げたいな、と思いました。
私もめぐみに会いたい。
皆がそれぞれの家族に会いたいと思っています。
けれどもるみ子さんの姿はあのタラップからは現れなかったんです。
めぐみもそうです。
たくさんの、有本恵子さんも、皆そうして街角に立って頑張ってこられたんですけども、タラップから降りてこられたのは、本当にあれだけの方だったんです。

そしてその時に、今今日も来てらっしゃいますけどるみ子さんの弟さんは帰ってこられた方に、お父さんがご病気で入院をされていて非常に重体でありましたので、「何でもいいから北朝鮮でるみ子に会わなかったか?るみ子がどんなふうにしていたか?どんな些細なことでも良いから教えてください」と「父に話してやりたいんです」と、一生懸命に回られたんですけども、あの時はまだ帰られたばかりで非常に緊張感もおありだったのか、「見たこともありません、知りません」と「全然知りません」」という事で、もう本当にがっかりなさって、照明さんは大急ぎでお父様のところに鹿児島に帰られました。
そして病床にあってもう酸素マスクをなさっていて、もう非常にあの頃の元気なお姿は無くて、本当にやせてしまわれたお父様が、酸素マスクをしている姿をビデオに録って、この度の映画にも出ていてくださいますけども。
お父さんはそれでもその中で、一生懸命に仰っていました。

「俺は日本を信じる、だからお前も日本を信じろ」と、照明さんに仰ったんです。
「日本を信じる、だから日本を信じろ」
これはどういう意味なんでしょうか?
外務省を信じろという意味でしょうか?
総理大臣を信じろという意味でしょうか?
警察を信じろという意味なんでしょうか?

これはもっと深い意味があると思うんです。
日本の全部の父親・母親がこのようなことになったとき、自分はいったいどうするか?という事では無いでしょうか?
みんなの心を信じて、日本中の人が力を合わせて心を合わせて、このような悪魔のような残酷なことになっている者たちを、絶対に助けようと思う気持ちになることだと、その事を国民全部を信じて頑張りなさいと、言い残されたんだと私は思っているんです。
私はあのときに叫んでいた街角でのお父さんの声と、そして照明さんに残された最期の言葉がいつも私は頭の中にこびりついて離れないんです。

そして今までどんなにふうに・・・(聞き取れず)されてきたか?という事。
10年間の間、いろんな事がありました。
私たちは何も知らない、本当に平凡な庶民でしかありませんから、政府を信じ警察を信じ外務省を信じ、テレビとか新聞に出ることくらいでしか、国民の皆さんもそうですけども、理解する事は出来ませんけども。
私たちはどんなに小さなことでも子供たちの命を助けるためになることなら、どんな事でもしてくださるだろうと信じてきました。

そして金正日の息子であるという金正男さんという、息子さんがこちらに不法入国された事があったけれども、あのときはもう「これで子供たちが帰れるんじゃないか?」と本当に家族は皆思ったんです。
「絶対にこれで政府はこの人をカードにして、こんな大切な人を返すんだから、拉致をした人を全部返しなさい」ときっと取引をしてくれる。
「これで帰れるよね」と本当に喜んでいたんです。
けれどもその時の外務大臣(=田中真紀子:当時)と言う方は、「早く返しなさい返しなさい」と、北に送ってしまわれたという事を聞きました。
そして外務省の方々が、今は外務省の方々もたくさん来ていらっしゃって、こんな事をお聞きになるのは非常に不快だと思いますけど、現実にあったと思って私は申し上げますが、6人もの上の方々が・・・・(聞き取れず)で金正男と言う人を飛行機に乗せて送還してしまったと。
どこに連れて行ったかは、ちょっと私覚えていませんけども、そういう事がありました。

それでも家族の方はまだ一縷の希望を持っていました。
外務省だから、日本の外務省だから、絶対にこんな事を蔑ろにするはずが無い。
私たちには言えないでしょう。
国民には知らせられなくても、この人たちを助けるためにこんな大事なカードを向こうに送るならば、飛行機の中で6人もの人が付いて行ったのなら、必ず中で一生懸命にどういうふうにしているか?という事を、計画してくださっているよねと。
このまんまでは絶対に置かれないでしょうと希望を持って頑張っていたんです。
けれども、あの事はそのまんまで消えてしまいました。

いろんな事がありました。
本当に私たちはいつもこういうふうな分からないことが状況が時々あっても、いつも今でもどうしてだったのか?という事が何も知らされません。
国民にも家族にも知らせていただく事が出来ません。
こんなに大事に私たちが、大事な大事な子供たちを取り返すために、どんなに本当に命がけで戦っているのか?という事を分かっていてくださるんだろうか?と思いました。
そして昔から、もっと、私たちの子供が連れて行かれる前から拉致が行われていましたけれども、その時々でも、あの時こうしていれば次のこの人は拉致をされることは無かったんじゃないか?という事も、たくさん出てきております。
そしてその事はあの時もう少しすれば良かったと、終るようなことではいけないと思うんです。

私はいつも思います。
今日、私はここで家族代表として、救出のために皆様方に娘たちを助けてくださいとお願いをしておりますけども、この拉致と言う問題は、誰の身に起きたか分からない。
本当に恐ろしい大事件なんです。
日本の平和な国の中で、誰も信じもしない様な事が、30年間も待たなければならないほどの大変な問題が、長い長い間起き続けている。
そしてその子供たちは、向こうで今も、今日も、昨日も明日も、お月様を見ながらいつ助けに来てくれるの?と、早く来てと、助けを求めているんです。

蓮池さんや曽我ひとみさんも帰って来られて仰っていました。
誰かがきっと助けに来てくれる。
そう信じて待って待っていたけれども、誰も来てくれなかった。
だから私たちはもうこの国の人たちになって、北朝鮮人になって生きていくしかないと諦めて、180度心を入れ替えて住んで来たんですと、蓮池さんご夫妻は仰っていました。
ひとみさんは、私は必ず誰かが助けに来てくれると思って待っていましたと。

それぞれに思いは違いますけども、どんなに本当に残酷なこの悲しい悲惨な思いを心に持って、あちらに生きている人たちが今もいるかと思うと、ひょっとして今日ここに来て私たちの話を聞いてくださっている皆様方のどなたかが、どなたかの大事なご子息またお嬢様、またご家族の誰かがこのようになっていたかもしれません。
今日その方が誰かがここで、私たちがこちらから聞いて「助けてくださいと訴えられていたかもしれない。
このような大変な問題なんです。

拉致問題だけでなく核まで持つようになったあの国が、麻薬や偽ドルや不審船・テポドンミサイル、ありとあらゆる悪行を本当にやり続けて、そして多くの強制収容所では罪も無い人が今も、私たちの子供たちもどこにいるか分からないんですから、そんな所にいるかもしれません。
どこにいるか、私たちは嫌な事は思わないことにしているから、生きていると思って頑張っているだけのことで本当の事は分かりません。
その中で何の罪も無いのに物凄い虐待を受けながら労役をさせられて、叫びを求めて、早く助けてくださいと嘆いている北朝鮮の国民が一杯いるという事も、私たちは知らなければなりません。

そしてそのような強制収容所から、必死の思いで、9歳から親たちとそこに入れられて、非常に悲惨な恐ろしい状況を見続けてきた青年が一人、青年になってから上手く逃げて、今韓国で北朝鮮の人権問題を一生懸命に取り上げておられますが、その方と一緒に私たちは一度このような講演会をさせていただいたことがあります。
姜哲煥さんという本当に素晴らしい青年ですけども、本当にこのような残酷な事があるという事。
あの国で僕たちが経験した事はこんなことだったという事を、今こんなに平和な日本の国の皆様方に話したって信じていただけないと思います。
けれどもこれは現実であり真実でありますと、仰っていました。

このような事を世界中の人に知ってもらいたい。
まだ私たちのおじいさんとかもそこに放り込まれたままで、今も助けを求めている人が一杯いる。
それがどんなに苦しい生活か?
もう、言うに言えないほどのことなんだと仰っていました。
涙をその方は流しながら、だから私は逃げて、この事を世界中の人に訴えなければいけないと思って逃げてきたのですと、仰ってました。

そして本当に死に至る苦しさって言う意味では、ドイツのガス室でたくさんの方が虐殺されましたけども、そのような方の方がまだ北朝鮮でのあの強制収容所での死を味わう過程と言う意味では、どれほど良いと言うか楽だと言うか、へんな言い方だけどと仰っていましたけど、まだ楽だったかと思いますと。
ガス室は一瞬にして命が絶たれますが、あそこにいる間はもう生きていたくないほど苦しくて、死んだような状態であっても働かされるし、殴られるし、冷たい氷の上に放り出されるし、赤ちゃんを産んでもすぐにその赤ちゃんはビニール袋に入れられて、氷の上に捨てられてしまう。
そしてそのお母さんもすぐに働け働けと言われるような、こんな恐ろしいところが現実にあるんだという事を本にも書いていらっしゃいますし、本当に多くの人間として知らなければならない大事なことだと思うのです。

私たちは拉致問題だけでなく、こんなに悪魔のような事を平然とやり続けている。
たくさんの人たちを苦しめ続けているその国が核を持ったという事は、どういう事が起きるんでしょうか?
これはもう日本の問題だけではありません。
近い韓国、またどこまでも飛んでいくか分からないものを作り続けていたとき、時間稼ぎをする事はもう出来ません。
必ずそこに制裁を加えてでも、戦争をするわけにはいきませんから、制裁をかけて物資を止めお金を止めて、もうどうにも何も出来ないようにするしかないんで、私たちは制裁をお願いしているんです。

皆が幸せになって欲しいと思っているんです。
あちらの国の方々もそんなところから皆出していただいて、本当に自由を得ていただきたいと思っているんです。
めぐみたちも早く、有本さんもるみ子さんもたくさんの、たくさんや市川修一さんも皆元気で。
田口八重子さんも本当に皆があそこのタラップから元気で降りて帰って、この自由の今の、こんなに裕福になった日本の国の中の本当に自由を味わわせてあげたいと思っているんです。
どうか全部が元気で、もっともっと多くの特定失踪者の分からない、名前さえも分からない・知らないでここにつれてこられて、私はいったいなんだろう?と嘆いている人もいると思います。
そういう人たちも一緒に皆元気で帰ってくることが出来るように、私たちは一生懸命に頑張っています。

どこまで体が持つか分かりませんけども、本当に多くの方々のご支援をおかげさまで今日までやってくる事が出来ました事を感謝しまして、そして日本中が一人一人があらゆる人が、国が、政府が、警察が、そして国会議員が、あらゆるすべての人が父親として母親として、こんなことはいけないんだと。
何とかしようと団結していただきたいと願っております。
本当に今日はありがとうございました。(拍手) 

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2006年6月20日 (火)

横田早紀江さんの訴え(20006/5/28水戸にて)

【2006年5月28日、茨城県民集会 水戸市民会館にて】

  ◆横田早紀江さんの訴え

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みなさんこんにちは。今日は本当にこうしてたくさんの方がお集まりくださいましてありがとうございます。

私たちは、10年ほど前になりますが、安明進さんが(一部不明)めぐみが北朝鮮で生きているということをはじめて知らされて、本当に20年間何にもわからなかった、子供の消息が、突然北朝鮮というところにいるということがわかったんです。

それから「あぁ、めぐみちゃん、生きていたんだ」と思って二、三年のうちに会えるんだと思ったことが、こんなに長くかかって、そして全国のみなさん方のたくさんの署名を頂きまして、初めのうちは、だれもチラシすら受け取ってくださらなくて、『そんなことって本当ですか?』てこうやって(手を振る様子を示して)通り過ぎる方がほとんどでしたけれども、そんな中から、今は500万名以上の署名を官邸に提出することができましたし、そして皆様のお一人、お一人の暖かい浄財を、家族会の活動のために、全国津々浦々からが、お一人お一人が心を込めて「がんばってください」と家族会の方に振り込んでいただいたおかげで、今回のような訪米、訪韓、以前に行きましたジュネーブの国連への要請とか、前にも二度ワシントンに行きましたけれど、そのようなたいへんな数の費用とか宿泊料とかは、私達普通の庶民ですから、本当にそのようなことできるわけないんですが、本当に皆様方の暖かいお心の中で支えられて、今日まで、こんなに大きなところまで動いて来ることができましたことを、本当に心から感謝いたします。(大きな拍手)

私は平凡で普通の主婦でしかない、このような人の前でお話しすることなど苦手で、逃げることしかなかったようなものが、こんな本当に大変な人生を歩むことになったことすら不思議なんですが、今回、三度目の訪米なんですが、その中で米国の議会の公聴会の証言ということで、日本の家族から、横田早紀江さんということで、初めてそのような場で証言をさせていただく機会を与えていただきました。

本当にどんなことになるのかと思っておりましたけれど、西岡先生とか、島田先生とか、荒木先生とか本当にたくさんの方がこの10年間、・・・以後、どんなに心を砕いて一つ一つ小さく計画を立ててくださり、知恵を働かせてくださり、私たちにできないようなことをこうして実現させていただいたことを、心から感謝しています。

公聴会に行く前の日には、国防総省というところに参りまして、そちらのほうで、みなさまよくご存知のラムズフェルド長官がちょうどイラクにいらしてそこにこられないということがわかりまた時にして、イングランド副長官という方、さっと来てくださって、ローレンス副次官とか、よくテレビで記者会見をなさっているヒルさんという方がいらっしゃいますね・・・そういういろんな方が来てくだしましてそして私達の話をお一人お一人が一生懸命聞いてくださいました。

いつも、アメリカでは感じますが、これはその時だけと思えないほど、お一人お一人のお気持ちがですね、<私達が遠いところをおして訴えに来たんだ>ということを本当にしっかり受け止めてくださって、「本当にこれは大変な問題なんだ。許せないんだ。絶対にアメリカはこの拉致問題を見捨てることはありません。必ず拉致問題のことをきちっと表に出して、忘れませんよ』という強いお言葉をいただきまして、本当に有り難く思いました。

いよいよ27日の公聴会の時間が参りまして本当にドキドキしていましたけれども、それも非常に長い文章を書いていましたので、全部言いたいと思って。『そんなに無理です、ひとり5分しかないんですよ』と言われて、先生方も徹夜のように直してくださって、通訳のスーザンさんという方が、それを訳してくださって、二人で掛け合いをしながら何度も練習をいたしまして、そしてその日の望みました。

本当にスーザンさんは前のときの訪米のときも通訳をしてくださった方で、このとてもよく拉致のことをご存知で、ただ表現する、読むというだけではなくて、通訳すると言うだけじゃなくて、本当に、私がめぐみが船に乗せられて「お母さん助けて!お母さん、助けて! 」と呼びながら壁をかきむしって、爪がはがれそうになって血だらけでしたと言う話をしたときにも、女性でいらっしゃいますから、私の気持ちと同じように、「ヘルプ、マザー!、マザー!、セイブ、マザー!」と本当に上手に、感動的に話していただいて、とてもよいことだったと思っています。

委員長だったスミスさんとか、リーチさんという方も私達が持っていったブルーバッチをすぐにつけてくださいまして、そして壇上に座ってくださって、真剣に聞いて考えてくださって、そして「キムヘギョンさんという子供と会うことはできないですか?会う気持ちがありますか?」という質問をなさって、私達は会いたい気持ちは、本当に今すぐにでも飛んでいって抱きしめてあげたい思っていますけれども、そのようなことに、いろんな謀略を仕掛けてくるのが北朝鮮であると言うことがよくわかっていますから、そのことのためにめぐみをはじめ多くの方々が・・・ですよということで、今も言っているような結末になってしまって拉致問題が本当にこれで終わりになるということを考えたときに、非常に恐ろしい決断だと思いますから、私達は絶対にどうなっているということがはっきりと証明されるまでは、絶対にヘギョンちゃんに会うことはしないと、一生懸命にこらえてすごしてまいりました。

そして28日いよいよ公聴会の時にそれが終わりまして、その夕方にホテルに帰ってきました時に、「明日ブッシュさんとお会いできますよ」という連絡が入りました。もしかしたら会えるのかなと思っていたんですが、「本当にそんなことあるんですか」と言ったら「ホントですよ」ということで、拓也と言う息子がおりますが、一緒に行ってくれましたけれど、その子とお母さんと二人がブッシュさんに会えますよ、ということで、前に中国でハンミちゃんというかわいい女の子が、(親御さんが引きずり出されたことを覚えていらっしゃると思いますが、)そのご一家が、ハンミちゃんと一緒に3人で私達の前にいらっしゃいました。もうひとりの名前をちょっと忘れましたが(キム・ソンミンさんのこと)北朝鮮の放送のほうをやっている方とがいらして、そこでブッシュさんとお会いすることができました。

『本当にこんなにお忙しい時間をとっていただいて、私たちのためにお会いいただいてありがとうございます。』とまずまず握手する手を出しました。ブッシュさんは「私は人権という問題と自由と命という問題に関しては忙しくて会えないという、そんなことはない」とはっきり、「どんなことがあっても時間を作って会います」という表現で、・・・私達に話してくださったときには、本当に前に小泉さんにお会いしたときに、みなさん遠いところから、福井とか鹿児島とか、たくさんのところから年を取った方々がわざわざ面会にあいにきたときも、「1150~12:00までです」ということで、「こんなに短い時間で何が話せるのかしら」、「どうしてこんな時間を決めたのかしら」とみんなで不思議がっていたんですが、そう言うことが思い出されたんです。心があればどんなことでも聞いてあげましょう、私達の国の問題だと、特にそういう思いが募るのが本当だと思いました。
こないだのブッシュさん時なんか、すぐに感じ取れました。

そして座って、質問をしました。本当にどうにもならないんだと、ものすごい忍耐と苦しさと悲しさと絶望が付きまといますけれども、私達はたくさんの苦しんでいる人たちを娘を含めて全部取り戻すためにこうやってがんばってきました。だからどうか、これからもしっかりやってくださいと申し上げたら、「そのとおりだ」

はっきりと、みんなの前で、北朝鮮に向かってメッセージを出されまして、「北朝鮮の国に言いたいのは、このお母さんは何にもほしいものはないんだ。娘を元に戻して、抱きしめたいだけなんだ。この親子を抱きしめさせるべきなんだ。」ということをはっきりとおっしゃってくださいましたし、そして≪北朝鮮が、世界から尊敬される国になりたいんならば、本当に拉致問題を解決するべきだし、このようなことを犯罪として指導していると言うことは許せない≫ということをはっkりとみんなの前でおっしゃってくださいました。

拓也は(皆様ご覧になっているかと思いますが)めぐみの白いブラウスを着た哀しい写真を北朝鮮からだされてきたのをちょっとパネルの大きさにして、、4人で写した萩の楽しそうな写真と二枚を持っていきまして、『これが北朝鮮から出された写真なんです。姉はこんな悲しい顔をしたことがないんです。』といって息子が言いましたら、ブッシュさんはよく見ていらしたのでしょうか、「ふんふん」とおっしゃってすぐそれを受け取られて、そして『この子は、体としてはこの部屋にいないんだけれども、この子の心を私達と一緒にここにおきましょう。』とそう言う言葉で言って自分の横のテーブルの上に置いてくださいました。

さっきの女の子(ハンミちゃん)の泣き叫んでいる写真も持ってきてらっしゃいましたので、「それもだしなさい」ということで、「一緒にここにみんな並べておきましょう。みんなで写してもらいましょう」ということで、きちっとそう言う態度で示してくださったことは私達にとっては本当に嬉しくてたまらないことでした。

どうして、もっと日本の国民が、こんなにたくさんの人たちが闇の中にかき消されたまま、親子が離され、親族兄弟が引き裂かれて、何故自分がここに来たかもわからない、しかも袋に入れられて、船底に詰められて、40時間も日本海の海を漂いながら、そして30年間もの間、監禁されたような状態で、何かひとことでも反発すれば、銃殺されてしまうかもしれない、何か言えば、それこそ強制収容所に送られてしまうかもしれない、・・のような生活をしなければならない、絶対に苦しくても帰るまで頑張らなくてはならない、何があってもと思って、めぐみも今、増元るみこさんも、有本恵子さんも、田口八重子さんも、市川修一さんも、松木薫さんも、みんあ死亡と言われた人たちは、「あ~曽我さん帰っちゃった。蓮池さんも何で帰れたんだろう。私たちは何で帰れないんだろう?」どんな思いであの飛行機を見ていたんだろうと思います。悔しかったと思います。「どうして?」と思って、「毎日毎日明日は必ず来てくれる」そのことだけを願ってみなさんの助けを待っているんだと思います。

日本の国家するべき事です。
家族がこんなに何十年も、動き回ることはないはずなんです!
誰がなってもそんなことではいけないんです。
「私がこの国を背負っていきますから、私を当選させてください」と言った方がしっかりとそれをやらなければならないのです。(拍手で一部聞き取れず)・・・

(拍手で一部聞き取れず)・・・私達は国民を守ってくださいと委ねたんです。その方々が今、一体今をしているんでしょうか?
毎日毎日、いろんな本当に考えられないような、お金、汚職とかとか言うことのために、こんなに立派な人たちが、こんなことばっかりして「お許しください」と頭を下げなければならないんだろうかと本当に悲しくなります。

大切なことは真心が清くなければ、絶対にいけないんです。
何にもいらないから、一生懸命生み出された命を、自分で守って国家が守ってよい人たちを育てていく。そうしたところに、本当に素晴らしい国が、暖かい国ができると私は思っています。(大きな拍手)

(拍手で一部聞き取れず)・・・本当に、神様は、大事なお仕事を、こんな最終的年齢になって、させてくださっているなーということを感謝しています。

どうかこれからも宜しくお願いいたします。(大きな拍手)

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2006年4月28日 (金)

早紀江さんの証言

電脳補完禄さんのご厚意で、サイドバーに、アメリカ公聴会での早紀江さんの証言動画を掲載しました。
是非ご覧ください。

そして、私達が何ができるか、考えていきましょう。

早紀江さんの証言全文も、電脳補完禄さんからお借りして掲載します。
――――――――――――――
  早紀江さんの証言全文
――――――――――――――
本日はこのような貴重な機会を与えて下さったリーチ委員長、スミス委員長を初めとする米国議会の先生方に感謝いたします。

私は今から29年前、1977年11月に13歳で北朝鮮に拉致された横田めぐみの母、横田早紀江でございます。めぐみが中学校からの下校途中に行方不明になってから、どうしていなくなったのかわからない長い長い二十年間の苦悩の日々を過ごして参りました。めぐみが北朝鮮の工作員によって拉致をされたという情報が入ったのは、1977年のことでした。

私たちはめぐみが生きていたのだ、すぐにでも会える、という思いで大変喜びました。けれども北朝鮮にいることがわかって、それから9年以上が過ぎたのにまだ救出出来ません。なぜ助けられないのか、悔しくて、悲しくてたまりません。

金正日は2002年9月の日朝首脳会談で一転して13人だけの拉致を認めました。北朝鮮が拉致した日本人は13人どころではありませんが、彼らは数多くの被害者について、いまだに拉致したことさえ認めていません。拉致の疑いのあるケースは450人以上あります。

娘めぐみと、本日家族がこの席に来ています田口八重子さん、増元るみ子さん、市川修一さんら8人は死亡と通告されましたが、めぐみの骨とされるものなど北朝鮮が8人の死亡の根拠として提供したものは、日本政府の精査の結果、全て信じるに値しないものでした。

これは1年半前にニセ遺骨と一緒に日本政府に提供された拉致直後のめぐみの写真です。めぐみは歌の好きな明るい少女でした。この淋しそうな顔見て私たちは思わず写真をなでながら、「めぐみちゃん、こんな所にいたの? どれほど不安だったでしょう。まだ助けてあげられなくてごめんなさい」と話しかけました。

めぐみの娘、私たちの孫であるキム・ヘギョンさんの存在が明らかになり、今年4月にヘギョンさんの父親が韓国の拉致被害者キム・ヨンナムさんであることがDNA鑑定で証明されました。ヨンナムさんは16歳、高校生で拉致されました。北朝鮮による拉致被害者は日本、韓国だけでなく、中国、タイ、レバノン、フランスなど12ヶ国に及んでいます。

亡命工作員の証言によると、娘めぐみは工作船の暗い船底に閉じこめられて、「お母さん助けて、お母さん助けて」と壁をかきむしって絶叫し続けて暗い海を運ばれたと言います。

めぐみたちはまだ元気であちらにいるのです。本当にもう心身疲れ果てておりますけれども、子供達が助けを求めている間は、どんなことがあっても倒れることは出来ません。

子供達の失われた年月は取り戻せません。世界各国から拉致された全ての被害者たちを助け出し、これからの人生を自由の地で過ごさせてやりたい。ひどい人権侵害に苦しんでいる北朝鮮の人々も助けなくてはなりません。

世界が心を合わせて、「拉致は許せない。全被害者をすぐ返しなさい。それがないなら経済制裁を発動します」とはっきりと言っていただきたいのです。それが私たち家族の心からのお願いでございます。

米国議会、政府、国民の皆様のお力添えをお願いします。
本当に今日はありがとうございました。

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2006年4月19日 (水)

横田早紀江さんの叫び(2006/4/16)

悲鳴とも、絶叫とも聞こえる、この声を、皆さんにも聞いていただきたいと思います。


2006年4月16日横浜開港記念館にて

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 横田早紀江さんの叫び
―――――――――――――

Imgp0568
みなさんこんにちは、長い本当に長い年月ですけれども、この活動の中で本当に沢山のご支援を頂き、カンパを頂き、大変な活動ではありますが、多くの皆さんに支えられ、今日も私のマンションのお住まいになっている皆さま方が、本当に沢山手伝いに来てくださり、始めから終わるまでボランティアとして活躍してくださる方に支えられて今日までくることができました。

     本当にありがとうございます。(拍手)

様々なショックを受けながら、めぐみが消えた52年の11月15日のあの夕方から今日まで。
いよいよ、こんどは、めぐみの夫であったと言われる人の金英男(キム・ヨンナム)さんというという方が出てくる。そしてそれがキム・ヘギョンさんのお父さんであろうと、ほとんど確実なまでのものがでる。またこれも、喜びのショックでありますけれども。

ヘギョンちゃんが現れたことや、めぐみが死亡とされたこと。そして白い骨が、骨壷が私たちの前に現れたこと。そして探し続けていた、めぐみのあの13才の白いブラウスの写真が、本当にどんなに探しても20年間見つからなかった、めぐみの姿が、あの時に、骨の壺と同じ時に、白いブラウスの哀しい目のめぐみが、私たちの目の前に、忽然として現れました。

さまざまなショックがこれでもか、これでもかと、私たち家族を打ちのめしながら、この拉致問題が展開されて参りました。

9年前、私たちが立ち上がって家族会を作って、そして、有楽町や池袋、新宿と、いろんなところに、日本中の元気な若者達、沢山の裕福な方々が、何の苦労もなく、右往左往して歩いていらっしゃる中で、(注:何の苦労もなさそうに、楽しそうに応対する姿を言いたかったのだと思います)『助けてください』『助けてください!』と、署名活動をお願いしましたけれども、その頃の日本の皆様は本当に『何のことやってるんですか』『こんな事、本当なんですか?』と(言って)、みんな、片手をあげて素通りをなさったんです。

雨が降ってカッパを着て、一生懸命声をだして言いましたけれど、こんなことをしていて本当に何になるんだろうと思っておりました。

けれども、いつも私たちは、めぐみをはじめ、たくさんの、何の罪もなく、あの海を渡って、船底に閉じこめられて、連れて行かれたまま、長い長い年月、親を想い、兄弟を想い、日本の国を恋しがって、思い、
『助けて!』
『いつ助けてくれるの?』
『明日ですか?』
『あさってですか?』


と、毎日毎日お月様を眺め、星を見ながら、助けを求めている。

またそれは日本の国だけでなく、先ほどもお立ちになった崔祐英(チェ・ウヨン)さんのお父様他、沢山の韓国の拉致被害者の方。

またあるいは、ジェンキンスさんや、いろんな方からの証言がありまして、各国、12カ国ほどの、沢山の国々からも、何の罪もなく沢山の人たちが、いろんな形で、あの北朝鮮に連れ去られて。

全く違った人と結婚させられて、『私はこの人と結婚したくなんかありません』と日本の国のように一言でも言おうものならどんなところに追いやられるかもわからない、本当に恐ろしい監視の中で、『はい』と言うしかないんです。

めぐみのあの哀しい目は、そのことを物語っていました。

私は本当にあの写真を出されたとき---

--骨の壺を見たときは、『この骨は私のめぐみのものだとは思っておりません』と『めぐみは生きている』と『お母さんそれを信じないで、私はここにいるのよ、助けて!』と言っている声が聞こえるようでした。

---けれども、あの写真は本当に酷いものでありました。

あんなに明るかった、元気だった、大きな声で『今日はね、お母さんこんな事があったのよ』と毎日玄関から大きな声で、学校での内緒も明るい声で教えてくれた、また大きな声で歌を歌い続けていた、あの子が脅えた目で哀しい目で、『どうしたらいいの?お母さん』『お母さん、私はどうしたらいいの』と言う目で、私たちを見つめていました。

『あーぁ、めぐみちゃん、こんなところにいたのね』と私は思わずあの写真をさすって、涙が止まりませんでした。ふたりの弟たちも本当に声をだして泣きました。

こんな酷いことを、長い長い年月、拉致をしたこともない、そんな人は一人も入ってきたことはない、見たこともないと言い続けていた北朝鮮が、拉致を認め、挙げ句の果てに、このような無惨な姿のかわいそうな娘の姿を、平然と家族の前に出してくるわけです。

そのようなものしか持って帰ってくることのできなかった、政府の方たちも本当に大変だったと思いますけれども。

この拉致問題というのは、誰がこのようなめにあっていたかわからないような、大変な問題が日本の中で長い年月、行われ続けていたということがようやく今、わかりました。

今私たちの目の前にお座りになっていらっしゃる皆様が、私のようにここに立って、『助けてください。皆さん聞いてください。』とおっしゃっていたかもしれなません。。私がその場に座って、涙を流していたかもしれません。

めぐみの問題だけではないのです。
増元るみ子さんだけの問題ではないのです。
特定失踪者の名前もわからない方達が、まだ北朝鮮の土地で、『私は探してももらっていないんだ。だーれも母も父も、ここにいることを知らないんだ』と『どうしたら日本に帰れるんだろうか』と、嘆いている方がたくさんいらっしゃるのです。

この問題を解決するためには、人間全部の、魂の強さが必用です。家族だけでは有りません。家族は我が子ですから。我が父ですから。何とか助けてあげたいという気持ちが必然的にありますけれど。

これは国民全部の大切な問題であります。政治家の問題であります。警察の問題でもあります。

官邸も外務省もあらゆる日本中の人の心が本気で、この人達を助けるのが当たり前のことなんだという想いで、一つになって熱を持って戦って行かなければ、このことは絶対に解決していかないのだと思います。(拍手)

北朝鮮は様々なことを言ってきます。
めぐみの夫であろうと言う人が、現れたとたんに、その金英夫という人とめぐみの娘であるキム・ヘギョンちゃんという人たちを、軟禁しているというニュースが入ってきました。
私は、もともと北朝鮮の国そのものが、国民の全部の皆様が軟禁されているような状態であるんだと私ども思っておりますから、『あぁ、またこんな風なことを言っているんだな』というような想いで受け止めておりますけれど。
本当に何をするかわからない国なんだなと言うことも、恐怖の素になっています。

日本にはたくさんの在日の方々もお住まいになっています。
この方々はこの方々で様々なご苦労をなさっていたと思っています。

北朝鮮に沢山の身内の方を、帰国させられて、その人達を人質に使って、『もっと、これだけもののをよこしなさい。』『たくさんの金銭とこれだけのものをもってきなさい。』『これだけのものを持ってきなさい、そうでなければ、あなたたちの家族もどうなるかわからない』というような恐ろしいことを言われて、なさって、一生懸命にその貢物をしてこられて、苦労してやってこられた方が沢山いらっしゃるんじゃないかと、私たちは、本を読んだり、お話を聞いたりして思っています。

    みーんな犠牲者なんです。

たった一人の罪深いもののために、これだけたくさんの人が、世界中の人たちが苦しみ続け、たくさんの北朝鮮の善良な、純真な国民のみなさまが、何の罪もないのに、食べる物もなく、餓死に追いやられている。その体は、どこともわからないところに、押しつぶされて、ブルドーザーで埋め込まれているような、そのような国に対して、どれだけの世界中の人々が立ち上がって、『そんな恐ろしいことは、人のすることではありません。もっとあなた方の平和な、本当に自由な生活をしようと思いませんか?暖かい交渉をしながら、あなた方もまっすぐにたくさんの世界の中に出てきて、本当の話をして、助け合って行きませんか』と言うことを、世界中の沢山の人たちが、声を一つにして、北朝鮮にメッセージしていかなければならないのではないかと思っています。(拍手)

訪米をしまして、下院議員の公聴会に出席をさせていただきことになりました。
私のような、学歴もない、英語もはなせないこのような難しい問題なんて何にも知らなかった、普通の主婦である私が、こんなようなことが、本当にできるんだろうかと、プレッシャーでいっぱいですけれども、本当に今お話しましたような事を、いつも心のおいて、あちらの公聴会この問題を、世界の人の知っていただきたいと、お話をさせていただきたいと思います。(拍手)

シーファーさんも、この間、新潟のめぐみのいなくなった現場にわざわざ足を運んでくださいました。
そして私たちにおっしゃいました。『テレビや新聞などで、報道で聞いているのと違って、本当にこの町で、本当にうちが近いこの角で、あんなに小さかっためぐみちゃんが、どうしてあんなむごい目にあうのか、なんと酷いことが行われていたんだろうと、哀しくなります』と涙を流してくださいました。

『私はブッシュさんととても仲がいい。ブッシュさんは大統領ですから、向こうのブッシュさんはじめ、多くの高官のみなさまに、この問題をしっかりお届けしておきますよ』と言ってくださいました。『だからあなた方も、訪米をしてお話をするときに私のことを忘れないでください。』とまで言ってくださいました。

日本のマスコミの方々も、私たちに今は一生懸命付き従ってくださって、しっかりこのことの解決のために、本気でずーっと、長い10年近く、本当に懐かしい顔を見せてくださって、私たちを助けてくださいますけれども。

今でもまだ、こないだの、金英男(キム・ヨンナム)さんのことが出たときに、すぐに、ある新聞社たちは、たくさんの新聞社達が、すぐに平壌に行って、宋日昊(ソンイルホ)という人たちに面会をし、あちらが言っている、『全くそんなことは知らない』というそういうことをすぐに聞いて、それを報道なさるようなことはしていただきたくありません!(拍手)

その方達も・・・日本人であります。
そのような、向こうの、北朝鮮にそこの(支)局が新設されると思って、みなさん活動なさると言うことも聞きますけれど、

そんなことのために私たちの同胞のたくさんの命がないがしろにされて、あのような国で、埃にまみれたままで、あの土の中に埋め込まれてしまうようなことだけは、絶対に止めてください。(拍手)

本当に全世界の拉致された人たち。そしてあちらに離別していらっしゃる韓国の方達。北朝鮮の国で苦しんでいる多くの国民方が本当に、自由な人間らしい生活ができ、そして良い国として、世界に認められるような国になっていただきたいと、私は思うので、こうして、一生懸命お願いしております。
どうかこれから、よろしくお願いいたします。

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2006年3月10日 (金)

早紀江さんのことばを英文で!

街頭活動でお知り合いになった方が、座り込みの時の早紀江さんのことばを英訳してくださいました。
掲示板をごらんになっている方で外国人のお友達がいらっしゃる方は、是非この文章を印刷して、お友達に読んでもらってください。

原文日本語はBlue jewel2005/6/26早紀江のことば 
蒼き星々:座り込み記録にも保存してあります。

英訳について、御協力いただいた方は、「日本語をそのまま訳すと、英語表現ではきつい言葉になりがち」との感想を持たれたそうです。
説明に当たっては、そのことも、あなたのことばで添えて、横田早紀江さんの気持ちを伝えていただきたいと思います。
国際的理解が更に深まることを祈って、ここに紹介します。
尚、蒼き星々、Blue jewelにも追って保存します。

この場をお借りして、英訳をしてくださったSさんに心からの感謝を申し上げます。

――――――――――――――――――――――――――
Dear you all,be sharing the prayerI appreciate youFor very,very long time and in the severely high temperature, you have been sitting in this way together with us.

Although today is the last sitin, persons of the families, we, have appealed eagerly to Prime Minister Koizumi for these three days.

"Let's see reality.It continues now , at this time.
My daughter Megumi, she has been captured at the age of 13. She was completely innocent. Suddenly taken on the way from the school. Put on the ship. Have been living, longing for the hometown, under authorities' watch in North Korea. Megumi has been confined in North Korea for about 30 years. Not only Megumi, each oneMs.Rumiko (Masumoto), Ms.Keiko (Arimoto) ,Ms.Yaeko Taguchi, and Mr. Shuichi Ichikawa (Mr.Kaoru Matsuki and Mrs.Miyoshi Soga) in addition to them many many kidnaped victimsThey, in the land over the sea, just at this time, looking up early evening sky which we are just looking up here and they be considering ""My hometown, Japan, in which how the sky will be ? in which the heat of daytime still remains? My father be getting old and whether my family are fine?"" Everyone should be living, longing for a hometown every day."


I wish children should be released to their original circumstances in the earliest date.

In order to realize it, (what should we do?) The Diet members who had visited North Korea repeatedly until now many members had visited Especially, Ms. Takako Doi, Mr. Hiromu Nonaka and Mr.Ryutaro Hashimoto, they were continually calling "Abduction cannot be believed. Such a thing could not be found. " And Mrs. Makiko Tanaka, she is said that when Kim Jongnam was restrained for illegal immigration, she called, "Return him in a hurry, Return. Should him return in a hurry". Thus, although I am exposing their name, I don't know whether it is suited for good sense. But we are sad truly.

Supposing your children were actually in such circumstances, then . (since I think that those people might not be able to suppose) I want to take out anyone's name to call. Now, in the stage North Korea accepts the abduction problem clearly I want to ask them, "How do you think? How do you consider? How do you feel us, victims' families? " and "What have you considered of the victims who are left in North Korea?" I always think that they should stop hiding, they should appear on television and they should speak before people clearly.

And I want to ask the workers of mass communication to help through the job. (why don't they cover to the politicians those things). Of course those Diet members are same Japanese as us and they've visited there repeatedly. I suspect they will surely know various things. Many times, I've felt they've known but tell nothing.


At the time of meeting the officials of the Ministry of Foreign Affairs or highranking government officials, "There is no your statement any but, do you get to know anything?" "Whether is she alive, is dead, what has happened, and where is she, or you know about someone's things?" I may sometimes ask them. However, their statement is "No, nothing are known."

Actually, this problem, the abduction problem of North Korea has been hidden into darkness. Although three families returned, other person's things are not known at all.

"This is Ms. Megumi's ashes, " they said and the bones were taken out , but those are completely different as a result of identification those belonged to two others. North Korea is a country has been performing such fearful cruel things. I feel sadness with why our government dose not face firmly to North Korea.
I think that ,as a matter of course, Japan should say clearly to them, ""We can't allow any longer,we will carry out sanctions."" "

People who came back might have many experiences for 24 years their living in North Korea. Since they returned through much trouble, Prime Minister Koizumi, the National Police Agency, the Ministry of Foreign Affairs and the government, these officials must cooperate with the families of people who returned, to save them firmly, to protect them harmlessly. And then, please, all cooperate together to rescue the remained people. "What's a good way?""So how can we overcome to this problem?" like this, making plans, sharing the wisdom, I hope the Japanese government will carry out to solution with responsibility. ( otherwise the victims can't return to Japan. )
"They may have come back with precious knowledge. ( I guess that there are many things which haven't been informed us. Speaking with them, sometimes I feel they might know something.)
What's the way we can use their knowledge effectively? I'm sure it is necessary that all of us cooperate together, unite and unite the heart to solve the problem. ""The information means thus, so how should we do to rescue the people who are left"", like this, please make plans and perform concretely. Otherwise it cannot progress."

They returned with much trouble,really overcoming many troublesSo the Nation has the responsibility and duty which guard them safely. Actually it is possible that some harms are added to them, so they must be protected carefully, of course. But on the other hand, I wish everybody may share the duty to make plans and to carry out them ,uniting all together, steadily,until truths are clarified.

Now, if economic sanctions are not carried out, I cannot think except it means that Japan, our country do not anything for its people. I want keenly Japan not to be such a deplorable country.
Prime Minister Koizumi it is a wish from us. Please help children. Thank you for your consideration.

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2005年10月16日 (日)

早紀江さんのことば (2005/10/16福島)

第3回拉致被害者救うフォーラムinふくしま
       2005年10月16日福島市公会堂にて


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   2005年10月16日福島

今日は、このようにお集まり頂きまして、私たちの何の罪もなく北朝鮮に連れて行かれた子どもたちを、一刻も早く救出するために、この問題に関心を持って集まってくださいましたことに感謝いたします。
そしてまた、これまでの8年過ぎました救出活動の中で、福島の菅野会長はじめ、福島の皆様にも本当にたく2さんの署名やカンパを頂戴いたしまして、今日まで、なんの心配もなく、活動を続けてくることができました。本当にお礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

この拉致ということが、私たちのこのような平和な日本の国の中で、誰もが自由で、何を食べ、何を着、何を話してもいい、ほんとに豊かなものに恵まれている平和なこの日本の中で、誰も知らない間に、30年も35年も近くの間、全国の津々浦々から、めぐみもそうですけれども、町の中から、家のすぐ近くから、浜辺から、たくさんの何の罪もない、これから希望に燃えた日本の若者たちが、あっという間に、北朝鮮の工作員に捕まえられて、夜の闇にまぎれて、ぐるぐる巻きにされて、目隠しをされ、猿轡をはめられ、そして袋をかぶせられて、あの暗い波間を、船に乗せられて、日本海を、連れ去られていったというこのような恐ろしい出来事が、長い、長い年月、ほ・ん・と・に、こんなことが日本の中でおきていたとだれも信じることができない・・・・。

私たち、当事者自信でさえも、9年前に「めぐみが北朝鮮に拉致をされて平壌にいるということがわかりました」 っていうような話を聞いても、20年間、あの52年の11月15日の夕方、めぐみはまっすぐに帰ってきて、この家のすぐ曲がり角のところで、めぐみのにおいは消えてしまっておりました。犬が来ても、何度かこうして回って、そこからどこへもいかないという状況があったので、ここで何が起きたんだろうと思いました。

そのようなことが、ほんとに日本の中で起きていたのです。そして私たちは、北朝鮮という国を、あまり知りませんでしたので、「なんともいえない不気味な国だな」とぐらいしか思っておりませんでした。実際にこのような問題が起きて、当事者になってはじめて、たくさんの専門的な方々のお話の中で、勉強会を開いてくださったり、私たちがたくさんの本を読んで、ようやくこの国がとんでもないことをやっている国だと言うことが、ようやくわかりました。

そのような国が、さきほど主人がもうしましたように、偽ドルを作ったり、麻薬を作ったり、そして拉致もその中の一つとして、大変な罪をいっぱい犯している。その国がすぐ近くにあるわけです。そして、その国が、今回、核を持ったと宣言をしています。そのような恐ろしい国が、ほんとに核を持って、その核があちこちの国に売りさばかれて、そしてその核がどのような形で、私たちのこの平和な日本の中を、あっという間に灰に化してしまうかもしれない。

そのような恐ろしさがもう今、私たちの身の回りに迫ってくるような、身の毛もよだつようなことが段々に迫ってきているということを、私たちはこの拉致を通して、めぐみたちの、ほんとにこのかわいそうな犠牲者を通して、ようやくわかってくるようになりました。

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そしてたくさんの方がこのようなことをようやく理解してくださるようになりました。そして私達は家族会を作って、拉致をされた多くの方たちと一緒に「子どもたちを救ってください」「政府の方が外交の上でやって下さらなければ私たちは何の力もありませんから」「事実をはっきり言うだけですからお願いします」と全国を歩きまわって、署名活動をしてまいりました。

いつもお話しますけれども、鹿児島の増元るみ子さんも死亡宣告をされているおひとりです。
そのお父様も、鹿児島県人であり、九州男児であり、明るい大きな声のお父さまでした。お父さまも一緒に私達は、めぐみの写真も大きくして、るみ子さんの写真も大きくして、有本恵子さんの写真も大きくして、熊本や鹿児島の町に立って、「皆様、通り過ぎないでください」「署名活動、お願いいたします」チラシを配り、「ここに、お一人でも書いてください、助けてください」と訴えておりましたけれど、当初はほんとに誰もが「そんなことがほんとに日本にあるんですか?」「ほんとなんですか?」そしてある方は、「北朝鮮というような不気味な国のことには、関わりたくありません」というかたちで、ほとんどの方が、片手を振りながら、通り過ぎてしまわれたんです。

その時に増元さんのお父様は叫んでおられました。「こんなに大変な大事件が、大変なことがこの日本の中で起こっていたのに、24年間も一体政府は、何をしていたんだー!」と大きな声で涙を流しながら叫んでいたことを、私は今も忘れることができないんです。

一緒に活動していた蓮池さんや地村さん、そしてまだ名前もあがっていなかった曽我さんが帰国なさった、ほんとうに奇跡のようなことが起きました。そしてあのタラップから降りてこられました。「あ~、あの後ろから、めぐみちゃんや恵子ちゃんが現れてくれないかな。。」と。

死亡宣告されても尚、私たちは、ひょこっと現れてくれるんじゃないかと、扉の向こうを一生懸命眺めていましたけれど、その時は私たちの子どもたちは、ほんとに影も形も見えませんでした。

増元さんのお父様は、「なんとかるみ子のことを知りたい」と、お帰りになった方々に、息子さんの照明さんが一生懸命、次の日に、部屋を回って、「どーんな小さなことでもいいから、るみ子のことを知っていませんか。なんか話したことありませんか」「何処にいたか知りませんか。なんでも教えてください。お父さんは、もうあぶないから、大変な病気で臥せっているんですから何でもいいから。。。」

もうその頃、増元さんのお父様は酸素マスクをなさって、病院のベットで臥せっておられました。ほんとにもう、何日も危ないという状況でありました。

照明さんは必死でまわられましたけれど、あの時は、不思議なことに、めぐみのことばっかり出てきました。「このような招待所で、このようにして、めぐみちゃんの家族と私たちは暮らしていました」
「めぐみちゃんの結婚式には行きませんでしたけれど、めぐみちゃんは、大きなスイカを持ってきてくれたんですよ。」とか、そのような生活の一端を、いろんなことを、思いもかけないそのような状況を教えてくれて、もう、びっくりしたんです。

けれども、るみ子さんのことは何ひとつもわからなかったんです。「見た事もありません。その人と話したことも、聞いたこともありません」とその時に、帰ってこられた方は照明さんにおっしゃいました。

照明さんはがっかりして、飛んでお父さんのところに帰られました。「何にもわからなかったけれど、絶対にめぐみちゃんも、るみ子も生きているからね、頑張ろうね。私たちも頑張るからね」とお父さんを励まされていたんです。お父さんは、本当に力のない、酸素マスクをした体をやっと持ち上げて、

「るみ子、もう、お父さんは、お前を探してあげられんようになってしもうたけれど、絶対、元気でいなさい。」そして「俺は日本を信じる、だから、お前も日本を信じろ」と、照明さんにおっしゃって、旅立っていかれたんです。

みなさまがお帰りになった2日あとでした。

あれだけ長い間待ち続けて、「るみ子、るみ子ー!」と街角で泣き叫んで、叫んでいらしたお父様。。。
私達家族はみんな、いろんな形ではありますけれど、なんの罪もなく、そのように連れ去られた子どもたち、なんで、こんなに苦しい目に、なんという恐ろしい人生に変えられてしまったんだと思います。

今、ジェンキンスさんの著書が出ました。その中で私は、初めて知ったことがありました。
ジェンキンスさんと(曽我さん)ひとみさんご夫妻が、一緒に暮らされるちょっと前に、めぐみと曽我さんは一緒に招待所で暮らしていました。ほんとうにめぐみにとっては同じぐらいの年の、ほんとうに寂しい、苦しい、辛い中で初めて出会った日本人の女性でした。

曽我さんが招待所に連れてこられた時「めぐみちゃんは、にっこりと笑って私を迎えてくれたんですよ」
と曽我さんは言っていました。「私はその笑顔に、どんなに私は、ほっとしたかわかりません」と言ってらっしゃいました。そして二年ほどの間でしょうか、何度か引越しをさせられながら、二人で暮らして、勉強させられて、朝鮮史、朝鮮語、物理、数学、化学、いろんなものを教わったと言っていました。

そして、その後になって「今日あなたはこの人と別れて、めぐみと別れて、こちらに行かなければならない所がある」と連れて行かれたところが、ジェンキンスさんがいらした所だったそうです。そしてそこで一緒に暮らしようになって、初めは警戒をなさっていらしたんですけれど、本当に寂しい中で、アメリカの人ではありましたけれど、そこで心が結ばれて結婚をなさったと言っていらしました。
本当にあちらの国は、「あなたはここに行きなさい!」「この人を変えなさい」「この人と結婚しなさい!」と言われれば、「嫌です」と逃げ出すわけにも行かない所です。

監視の厳しい、いつもいつも、24時間、毎日毎日誰かが行動を監視しています。盗聴器が備え付けられています。本当に恐ろしい、監獄のような国の中で、何の罪もないたくさんの私たちの子どもたちが、180度人生を変えられて、あちらの思想を埋め込まれて、あちらの国のためにそのような仕事をさせられて、今も曽我さんとめぐみたちがあの頃に歌っていた。。。

~日本の唱歌を、寝床の中で小さな声で<ふるさと>や<もみじ>を歌いながら泣いていたと言っています。お月様を見ながら「明日、誰かが来てくれる、必ず来てくれる」と。「親が来てくれる。政府が来てくれる。」と思い続けて。。。~

蓮池さんたちも帰ってこられておっしゃっていましたけれど「3年間待っても、だれも来てくれなかったので、私たちは、もうあきらめるしかなかった。だから、これからはもう北朝鮮人として生きて行くしかないと、心を180度転換してあちらで住んできたんです」とおっしゃっていました。

曽我さんは帰られるあの前の日まで「私は誰かが来てくれる、必ず来てくれると信じていたんです」とおっしゃってました。

それぞれが、どんな想いで、今も。。。今はめぐみは一緒に暮らしていた曽我さんも、そして蓮池さん、地村さん、同じ集落で暮らしていた(へギョンちゃんも一緒に暮らしていたといいますけれど)そのような人たちがみんな、飛行機に乗って帰ってしまった。

「何で私だけ、かえれないんだろう?」
「何で私だけたすけてくれないの?」と
今日も、お月様を見ながら泣くに違いありません! 
(会場すすり泣き)

「助けてください」と!


みんなあそこにいる囚われた人たちは本当に、海に溺れている、状態なんです。
私は、いつもこれを話に出させて頂きますが、海に溺れて、もがいているんです。

「早くもとの所に帰りたい。」「陸に上がりたい」と「助けて~」「助けて~」と片手を挙げて溺れそうになっているんです。
本当にこの人たちの命を助ける気があれば、泳げる人は急いで飛び込むんではないでしょうか!
泳げない人は、ロープを投げるんじゃないでしょうか?
小さなボールでも投げて「これにつかまりなさい」と投げてあげるんじゃないでしょうか?
大きな声で「もうちょっと我慢しなさい」と、言ってあげるんじゃないんでしょうか?


それが人間の本当の心だと、私は思っているんです。

それがめぐみだけではなく、特定失踪者と言われる方が、まだ400名を超える方が、まだ名前もあがらないで、何処から連れて行かれたか、どのようになったかも判らないまま、お父さんお母さんは、丁度9年前の私たちと同じように「誰が連れて行ったんだろう」「海の中にはまって死んでしまったんだろうか」「どこかに家出して、誰か悪い者に捕まってしまったんだろうか」「あそこの畑の、あのようなところに埋められたんだろうか」「あの雪の山に埋められたんだろうか」「雪が解けたら、来年は必ずあそこを探しに行こう」

私達はあらゆることをあの子のために、一生懸命に戦ってきました。それと同じような状況が今も、特定失踪者の方は続いていらっしゃるんです。80歳代、90歳代になっても、まだ、ご両親は子どもたちが帰ってくることを信じています。

それが北朝鮮の国家犯罪として「拉致はわが国がやったことである」とあちらの一番の指導者が認めたにも関わらず、相変わらず、めぐみの偽の骨が出されたり、出してきたものをこちらが鑑定して、違ったものだと言えば「そのようなことは日本がでっち上げたんだから、その骨を返せ」と言ってきます。

どこまで、このような残酷、非道なことをし続けるんでしょうか?

いつも思います。私たちも、あの52年の11月15日の夕方、あのようなことになるとは誰も考えた事もありませんでした。「元気で行って参りまーす」とお友達と一緒にラケットを持って出かけためぐみ。

その子が28年間も、別れたまま、助けを求めている、その場がわかっているのに。

そしてめぐみちゃんが持っていた赤いスポーツバックをひとみさんが「頂いたんです」とこのたび初めてジェンキンスさんの本にも書かれていました。別れる時にめぐみが「私だと思ってこの赤いバックを大事に持っててください」とひとみさんに渡したと初めて知りました。

あんなに一緒に、私たちがふたりで赤いバックを買いに行って、そこに運動着を入れて、元気で通っていたあの赤いバックは何処に行ったんだろうと、いつも思っていました。

ひとみさんはまだお話は、なさらなかったんですが、「いつか言おう言おうと思っていたんですけど、長いこといえなくてごめんなさい」ということでようやくそのことがはっきりいたしまして、ひとみさんが大事に持っていたんだとおっしゃっておりました。

けれどもその大事なものさえも、何一つ。。めぐみちゃんからいろいろと絵を描いてもらったり、手を写生してくれたり、朝顔の押し花を作ってくれて、言葉を入れてしおりをつくってくれたり、「いろんなことをめぐみちゃんはしてくれたんですよ」といってましたけれども。「そのどの一つも日本にもって帰ることができなかった。お父さん、お母さんに見せてあげることができなかった。本当に残念でなりません」とおっしゃっています。

本当にめぐみはそうやって一生懸命、そうやって、生きているんです。

今もどこかで、助けを求めながら、誰かにまた絵を描いてあげているかもしれません。


このような、犠牲者が、400名にも上る人たちが(全部が全部でないかもしれませんが)北朝鮮の国家犯罪によってなされいた事。現在もそれが解決していないという事。今も何処かで、皆様方のように、ごく平凡な、普通のご家庭の誰かが、何処からかひょこっと消えてしまうかもしれないと言う、現在進行形のこのような恐ろしいことを、こんなに苦しみ続けている、子供たちのことを忘れないで頂きたいと思うんです。

どうかこの問題が、今現在私たちの、この時代に、私たちの子どもたちや、孫たちがこれから住んでいくこの日本が、こんなにいい加減に、あいまいにしたままで、この事を引きずって、まだまだそのことが連なっていくことになっては、決していけないと思っています。

どんなになっても、私たちは、倒れるまで、子どもたちを、日本の土地に、この国に連れ戻す為に、政府に訴え続け、小泉さんに、「父親の思いになってください、あなたの大事な幸太郎さんがもしこのような状態になっても、あなたはいつも『まだまだ、対話と圧力ですね』と言って片手をあげていらっしゃるんですか」と私達は本当に訴えてきています。

ほんとにどうして、こんなに速やかに毅然とした姿勢を貫いて、怒って、「国際的にも声を出して怒ってください」と、お願いをしていることができないのが私たちはわからないんです。

小さな国民にとって、力がありません。たくさんの小さな国民の力が結集されて、そしてそれが世論となって、波のように官邸に押し寄せて、そして国際的にも多くの方々に、知っていただいて、北朝鮮のこの人権問題全てが、北朝鮮の苦しんでいるたくさんの国民の、餓死をしている子どもたちや国民たちも含めて、こんなに悪いことを、はっきりと表明して行くものになりたいと思っています。

どうかよろしくご支援ください。お願いいたします。(拍手)
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2005年6月17日 (金)

横田 滋さん参議院で証言(2005/6/10)

 平成17年6月10日、横田滋・早紀江家族会代表夫妻が、参議院拉致特別委員会に参考人として招かれ証言した。以下は横田夫妻の冒頭発言である。

■横田夫妻が参議院で証言
 横田滋さん
 ただいまご紹介いただきました、昭和52年11月15日、新潟市で北朝鮮の工作員に拉致された横田めぐみの父、横田滋でございます。そして、現在は北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の代表を務めております。

 金正日が、2002年9月17日、拉致を認め、謝罪してから既に2年9か月近くが経過しているのにもかかわらず、死亡されたと言われている人につきましては安否が確認されない状態が続いております。被害者家族の高齢化が進み、家族と再会できないまま亡くなられた方が多数おられ、被害者の所在を一日も早く確認すべきだと思っております。

 第三回日朝実務者協議でめぐみのものとして提供された遺骨は、帝京大学がDNA鑑定した結果、12月8日、別人のものということが判明いたしました。我々は、この鑑定結果を伺いまして非常に安堵をしたしました。北朝鮮側は、この遺骨は第三者の手を経ずに直接薮中団長に提供されたもので、本人のものに間違いないということで持ってきたわけなんですが、しかしこれが幸いにも別人のものだとの鑑定ができたからよかったものの、そうでなければ、「これはもう夫が持ってきたもので間違いないものだ。しかし、科学的には鑑定できなかったものである」。そして、同時に提供されました写真を示して、「こんな不安そうな顔をしている中学生をわが国が立派な大人に育てて、車も使えるような身分にもなったんだけれども、本人が体が弱くて入院して自殺したんだ。もうこれ以上のものを出せないから納得してほしい」というようなことが言われれば、私たちだけでなくて、政府としてもそれを反論する材料というのが全くなくて、結局それで納得されてしまう恐れもあったわけですが、しかし、別人のものと鑑定した結果、我々としましてはめぐみが生存している可能性が強いということを確信いたしました。国家間の交渉で、おそらく1200度で焼けばDNA鑑定はできないだろうと見越して別人の骨を持ち出すということは、もう我々親だけでなくて日本政府全体をばかにしたものだと思っております。

 この12月の8日に別人のものと分かった時に、我々家族会、救う会は経済制裁の発動をお願いしたいというような声明を発表いたしました。そして、翌9日に拉致議連の総会が開かれまして、その席でも経済制裁をするしかない、ということが決議されております。また、私はその翌日の10日の自民党の拉致対策委員会、それからまた同じ日に開かれました衆議院の拉致特別委員会にも傍聴に参りましたが、いずれも制裁をすべきだ、という意見が決議されております。

 しかし、小泉総理は、対話の窓口が閉ざされるということを理由に慎重な姿勢を崩しておりません。

 そして、この段階ではめぐみのものだけだったわけですが、しかし、その後持ち帰った資料の精査をして、24日の日に家族に対しても説明がありましたし、同日、細田官房長官が、「北朝鮮側が迅速かつ誠意ある対応をしない場合、日本政府として厳しい対応を取らざるをえない」という立場を、制裁の予告ともとれる談話を発表いたしました。それから、日本政府は北朝鮮側に対して抗議をし、そして鑑定の説明はいつでも説明をするというふうに言っておりますが、北朝鮮側はそれを拒否して、鑑定は捏造であるとか遺骨を返せとかって言うだけで、現在は全く電話をかけても出てこないというような状態だというふうに説明を受けております。

 もう6か月経ちましてもまだ何の説明もないということは、迅速かつ誠意ある対応、態度を取っているとはとても考えられません。それで4月に開かれました国民大集会でも制裁ということを決議しておりますし、家族会、救う会は、ちょうど官房長官談話から半年になります6月24日から26日まで3日間、官邸周辺で静かに座込みをするということを計画しています。

 それで、政府に対するお願いでございますが、やはり、もし北朝鮮側に何か異変が起きた場合、被害者がどこにいるかといった情報が必要になっておりますので、ぜひ情報収集に努めていだだければと思います。情報収集というのは人脈づくり等ですぐにはできないとおっしゃっていましたんですが、しかし小泉総理の訪朝からはもう2年以上も経っておりますし、やはり一日も早く収集していただきたいと思いますし、それと、現在も拉致の専門幹事会といって各省庁の局長クラスの方が集まって横の連絡をとっていただいていますが、しかし、それぞれが情報をもっているというようなことだと思いますし、それからそういった方は通常はそれぞれの省庁の仕事をなさっておりますので、拉致のことだけをやっているというところは、部署はございませんので、一日も早くこの専門幹事会を拉致の対策本部というような形で常時拉致問題について対応がとれるようなシステム
を作っていただければと思っております。

 一日も早い解決を家族は望んでおります。以上でございます。

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2005年6月13日 (月)

横田早紀江さんのことば(2005/6/10)

参議院拉致特別委員会 参考人として(平成17年6月10日)

私は、横田めぐみの母でございます。

めぐみが行方不明になって20年という長い間、ほんとうにめぐみの姿は消えたままで、どうしてめぐみがいなくなったのかと言うことが判らない、長い、長い苦悩の日々をすごして参りました。
そして考えたこともない「北朝鮮の工作員によって拉致をされて平壌にめぐみさんがいます」と言う情報がはいったのが20年たってからのことでした。

「どうしてこんなに長い間、このように大変なことがわからなかったんだろう」と、私たちはそれでも「めぐみが生きていたんだ」と言う喜びで、「すぐにでもあえる」という想いで大変喜びましたけれども、今日のようにもう、9年目になる救出活動の中でまだ、これから24日、座り込みというような~年老いた皆様が一生懸命に、遠いところからお出かけになって、3日間も座り込みをしなければならない~このような状況がどうしていつまでも続いていくのかということが不思議でなりません。

私たちは増元さんのお父様がおっしゃったことば「私は日本を信じる、だからお前も日本を信じろ」と増元輝明さんに病の中からおっしゃった、言葉が忘れられないのです。

これは、ほんとに国民全部が思わなければならない言葉だとだと思います。
 

そしてめぐみたちはまだ元気であちらにいるはずです。そして、あの国が如何に凶暴であり人の命をなんとも思っていないような国であるかということは、もう世界中がわかっています。ブッシュさんが「悪の枢軸」といわれるとおり、ほんとに人の命など何とも思っていない国に、たくさんの日本の何の罪もない若者たちが29年間も監視をされ、そして向こうの思ったように動かなければ、強制収容所なり、それこそ銃殺刑にされるかもしれないような状況の中で、一刻、一刻を、助けを待っているのです。

まだまだおぼれたままでいるのです。おぼれた人がいれば、私たちはすぐにでも手を差し伸べるのではないでしょうか?ほかのいろんな用事をまず於いて、大事な用事があっても、それを於いて、まず飛び込んで助けるのが人の心ではないでしょうか?

どうしてこんなに立派なお父様お母様がこの国にいらっしゃるのに、そして、外交官や政治家、首相、いろんな方がその役職の中にあって、ひとつひとつの大事なときにチャンスしっかりと捉えて外交をしてくださり、日朝実務者協議の時でもやはりそうすし、首脳会談の時でもやはり、小泉さんがお一人の人として、父親として言うべき事を言い、しっかりと「子供たちを返しなさい」と「許せない」とはっきりと言葉に出して、金正日に迫って、怒ってほしかったとわたしは思っています。

そして骨が返ってきたときも、このようなことがウソであったら、~自分の子供がとなりのおじさんに連れて行かれて、そのような形で表されたら、そのお父さんはどうするでしょうか?そのおうちの窓を蹴破り、ドアを蹴飛ばしてでも、そのお父さんに食って掛かって首筋を捕まえて、ものすごい勢いで怒るのが本当ではないでしょうか?

  命は同じです。  
見えるところにあっても、見えないところにあっても、
救いを求めているひとりの大切な命が、
今も、わめいて、叫んで助けを求めているのです。

 
お米を支援したとき、また、金正男がこちらに不法入国したとき。。。
また、私たちがジュネーブの強制失踪者調査会に伺ってお話をさせて頂いたとき、出された書面はたった一枚でありました。11行に簡単に書いてあるだけでした。北朝鮮からは何枚も日本を誹謗する書類が届いておりました。

このような大事なとき、ひとつひとつのチャンスを一人一人のそれにかかわっている方々が、本当に命がけで、「自分の子供だったら」という思いで、助けを求めているものを救わなければという思いで、必死に動いていただけば、こんなに長い間助けることが出来なかったと言うことは無かったと私は思っています。

私たちはほんとうに心身疲れ果てておりますけれども、子供たちが助けを求めている間は、どんなことがあっても、たおれることは出来ません。そして小泉さんにしっかりと怒っていただきたい。「経済制裁を発動いたします」と、はっきりと言って頂きたい。「日本の国民の総意での怒りを、私が負って怒っているんです」と北朝鮮に態度を示していただきたいと、私は思っています。

そのような毅然とした姿勢がなければ外国の諸国はなんと思うでしょうか?一人二人の命でも必死になるアメリカ、こんなにたくさんの人がまだ嘆いても動かない、真剣さを感じられない、そのような国(日本)を世界はどのように見るでしょうか?

私たちは、普通の主婦でしかありませんでしたけれど、このことを通して本当にめぐみたちのこの苦しみを通して、たくさんのことを学ばせていただくことができました。

必ずこの拉致問題がかわいそうなことだけで終わってしまったという事がないように今からでも遅くはないのです。一人ひとりが力を合わせて、心を込めて、日本のこと思って頑張れば必ず成功に導かれると私は信じています。

国際的なお力を借りながら、ひとつひとつのチャンスを、どんなときでも大事に扱って動いていただけることをお願いしたいと思います。

ありがとうございました 。

ビデオライブラリーから、参議院の拉致問題特別委員会 日付6月10日で検索してください。(金木犀)

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2005年5月24日 (火)

横田早紀江さん(2005/5/24水曜日・渋谷駅頭にて)

※めぐみちゃんの偽遺骨に関して細田官房長官から北朝鮮へ制裁を含むメッセージが送られて5ヶ月、被害者家族は渋谷ハチ公前で訴えた。


横田早紀江さん(2005/5/24水曜日午後渋谷駅頭にて)

渋谷の皆様こんにちは、今日は内閣府に参りまして小泉総理に私たちの気持ちをもう一度お伝えするために5つのことを出してきました。
私たちは、ほんとうに考えられないような、恐ろしい事件に巻き込まれてしまいました。
これは、めぐみより一足先に帰った人であったかもしれない、めぐみより一足あとで学校から帰ってきた人かもしれない。誰がこのような目にあったかもわからない。どの人がこの拉致問題の罠におかれたかもしれないという本当に限りないほど恐ろしい問題が日本の中で行われ続けていたということなんです。

私のめぐみは、28年前に学校の帰りに、すぐ家の近くで拉致をされました。
私たちは、日本の中での何かの事件であろうとしか思いませんでしたし、警察も大変な大捜索をしてくださって、めぐみを捜し求めて、どんな細かいことまでも捜索をしてくださいましたけれども、めぐみの行方は米粒ほども得ることができませんでした。

そして、私たちは、20年近くの間、家族で探し続けて、泣きながら、ほんとに悲しい中を必死で生きてきました。

そして「どうしてこんなに、煙のように一人の人間が(不明)のように消えてしまうのだろうね」と毎日毎日、話し合っていました。

そして、9年前、突然めぐみちゃんが、北朝鮮の工作員に拉致をされて、北朝鮮の平壌にいるらしいという情報が入りました。もう、信じられない事でした。こんなこと、何でそんなところにいるのかと思いましたけれど、そのあといろいろと北朝鮮の勉強をしたり、いろいろな外交の中で私たちは本当に恐ろしい現実を目の当たりにいたしました。

けれども、めぐみちゃんが本当にあの国に生きていたのだという証拠が、キム・ヘギョンちゃんという、私たちが考えてもみなかった、これも不思議な孫が元気に育っておりました。

そして私たちのめぐみは、帰って来られた方、五名以外の8名の死亡とといわれる中に入れられておりました。

あんなに明るく、元気で歌をを歌ったり、そしてバトミントンの選手になって、これから頑張ろうとしていた子どもが、ただ学校から帰るその道で、何で何の罪もないのに袋に入れられて、あの不審船の船底に入れられて、連れて行かれなければならないのか?

そしてそのことはめぐみだけではなく、蓮池さんも地村さんも、そして、曾我ひとみさんも、みんな同じような状況の中で、突然襲われてそして袋に詰められて、あの不審船の船底に入れられ、泣き叫びながら北朝鮮に連れて行かれ、そして30年近くの間、あの国に監禁されて、どこかわからない、私たちにまだ見えない。どこに居るのでしょうか。山の中でしょうか。それとも平壌の大変難しい政治の中の一部に入れられて、そちらで仕事をさせられているのでしょうか。(私達には)わかりませんが、とにかくあの子どもたちは「元気で生きている」と私たちは信じて、このように闘ってまいりました。

そして昨年、めぐみの骨と言われるものが持ち帰られました。せっかく頑張って行ってくださった実務者協議の方々が「これは、めぐみさんと言われる骨を、夫と言われるキム・チョルジュさんが大切に大切にしていたものを、前の日になってやっと持って来ました」ということで持ち帰られました。
それでも私はその骨壷を見た時に「めぐみはこんなものではありません。元気でいます。こんなもの信じておりません」と言いました。

けれども、私たちがあの28年前、忽然と消えた、あの学生姿の白いブラウスと紺のスカートを着ためぐみの写真が、成人した2枚の写真と一緒に提出されました時は、骨以上に愕然と致しました。

あんなに捜し求めて、新潟の海岸を泣き叫びながら「めぐみちゃん、何処にいったの。何処にいるの」と「どこにいるのか教えて」と叫びながら、小さな弟たちと一緒に捜しまわっためぐみが、あの時の、あの姿が、そのままで写されて、出されてきたのです。

何と悲しい顔をしていたでしょうか。


寂しくて苦しくて恐ろしくて、「お母さん、どうしたらいいの?私は何でこんなところにいなければならないの?」という、何ともいえない眼差しで、その写真は私たち家族を見つめていました。弟たちも思わず男泣きに泣きました。私たちも涙を禁じることができませんでした。

そして骨が鑑定に出されるときも「この骨は公になってもよろしいでしょうか?」と薮中さんがおっしゃいましたが、「どうぞ出してください。そしてこの鑑定をしっかりとしていただいて、日本国民の皆さま方、全部にそれをはっきりとお知らせください」と申し上げました。

そして骨は鑑定されましたけれども、その骨は2人の他人のものでありました。まったく違う骨、そしてその骨壷に入れられた、北朝鮮の誰かわからないおふたりのその方々に対しても、私は本当に申し訳なくてなりません。身代わりとなってこのような政治の道具に使われて、遠い所まで骨壷に入れられて運ばれて来た名のないおふたりの方々の事をいつも想っています。

骨はめぐみのものではないということがはっきりと証明されました。北朝鮮がどんなに嘘をついて、次から次から私たちを、また、日本国民を欺こうとしているかということが、はっきりと表された瞬間でした。

それなのに、小泉総理は未だに「対話と圧力ですね」と、軽く手を振っていつも話をしていらっしゃいます。もしご自分のお子様が、お隣か、一軒隣のご主人に連れて行かれて、そしてこのような思いをさせられている時、みなさまは自分の子どものために何をなさるのでしょうか。その家の玄関まで行ってドアを打ち破ってでも蹴飛ばしてでも、その家に入り込んで、「何をするんだ」と怒鳴り込むんじゃないでしょうか。

(不明)国家犯罪として遠い国の中で行われていることですから北朝鮮に拉致をされた。誘拐をされたんだとわかっていても、それが現在見えない状況の中に置かれているために、なかなか、国民の皆さま方に見えないために、本気になっていただくことができないのかもしれません。

けれども、このような恐ろしいことがまだ解決されない、もっともっと多くの人たちが、若者たちが(拉致されているのです。)

今渋谷の街でこうしてお元気で、何にも考えないで平和だと思い込んで歩いていらっしゃる皆さまが、突然その角で夕方に拉致をされていっても、やはりこのようになっていくのでしょうか。

これは私たち家族だけの問題ではありません。日本国民の全部の大事な問題なんです。そして政治は、この時にはっきりとこの問題を解決するために、北朝鮮に毅然とした態度を示し、どんなことがあっても制裁をしてでも、「子どもたち全部を取り返すんだ」という姿勢を、私たち家族も、外務省も、警察も、官邸も、すべての国民全部が一つの心になってこのことと闘わなければ、多くの国の人たちは何と見ているでしょうか。

「日本は頼りないね、何をこんなに大変な命が囚われてしまって、30年近くも苦しんで助けを待っていても、何にもできないんだな、何だ、こんな国なんだったら何とでもできるから、こういうふうに交渉しなさい、ああいうふうにしなさい」ということで、あらゆる外交問題に日本の政治は馬鹿にされ続けていくことははっきりとしています。

この拉致問題のために、どんなに苦しくあちらの国で待ちわびている子どもたち。
曽我さんはお帰りになって言っておりました。「いつもめぐみちゃんと2人で一緒に勉強し、そして眠る時に誰もいなくなると、お布団の中で日本を想って泣きました。小さな小さな声で、日本語で、<埴生の宿>や<故郷>を歌って、早く誰かが助けに来てくれないか、と泣いたのですよ」と言ってらっしゃいました。

曽我さんは帰って来られましたが、まだまだ多くの日本の人たちが-めぐみもまだ-「ああ、曽我さんは帰ってしまった。私はいつ助けに来てくれるのだろうか」と毎日待ち望んでいると思います。

この大変な拉致問題を解決するために、総理を始め、政府の議員の方々、警察庁、官邸から、それからあらゆるこの国の全部(の機関)国民の方々が一つの心になって、「私が家族だったら、私だってこうしますよ」という想いを持って、この拉致問題を解決のために、頑張って頂きたいとお願いしております。

どうか皆さま、この拉致問題を(私達の)後の子どもたちや孫たちに、何の解決もなく残していくことはできません。

私たちはもう今年で70歳になろうとしております。いつまでこのような活動が続けられるかわかりませんが、元気な間は一生懸命に闘ってまいります。

どうか皆さま、私たちに力を貸してください。


力を貸して下さいというだけでなくて、皆さまご自身の問題として、日本の国家の大変な問題として取り扱っていただき、一緒に私たちに声を頂きたいと思います。

小泉総理も、その行動が、一日も早く日本の国家国民のためになるような方向に動いてくださいますように、そしてそれが取りも直さず、この国を本当に正しい国に導いてくださることなんだということを認識して頂きたいと願っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。
ありがとうございます。

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2005年4月14日 (木)

横田早紀江さんの祈り

~横田早紀江さんの祈り~ (偽遺骨にかき乱された家族の苦しみ)
               2004年11月20日東京にて

どんなにめぐみがぼろぼろになっていても、必ず命を与えたままでかえしてください、と私は藪中さんにもお願いして、どうかあちらの人たちにそう言って下さいとお願いしてきましたけれども、出てきたものは、めぐみの骨つぶでありました。「お母さん、私は必ずお母さんの所に帰るんだから待っててね」と言っていると私は思っています。

骨壺と一緒に向こうから持ち帰られた写真が突然、私達の目の前に置かれました。一枚の写真を見た時、私達は絶句しました。あの52年11月15日のあの夜に「めぐみちゃん、どこに行ったの」と神社の中や海辺やいろんな所を探し回った、あの白いブラウスと紺のスカートをはいたあのころのめぐみが、なんとも言えない寂しげな顔でそして悲しいまなざしで一生懸命に写されている写真がありました。息子の拓也、哲也は思わず声をあげて泣きました。私達夫婦も、「めぐみちゃん、こんなところにどうしていたの」と写真に手を置いて泣きました。

そのような国に連れて行かれて、毎晩毎晩、月を見ながら、どうしたら助けてくれるんですかと、曽我さんと一緒になった時に「一緒に暮らしながら二人で小さな声で日本の唱歌を日本語で歌ってたんです」と曽我さんはおっしゃいました。日本の国や兄弟や親を思いながら助けを待っている多くの人たち、この人たちを救わなければならないのです。たくさんの被害者が一日も早く北朝鮮から解き放たれ家族の元に戻れるよう祈って下さい。
 
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