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2005年2月10日 (木)

有本恵子さんを救うぞ東京集会(1)

有本恵子さんを救うぞ東京集会
2005年2月10日(木)東京友愛会館で行われた集会の模様、ぴろんさんのレポートです。

有本嘉代子さんのお話 1

皆さんこんばんは。
こんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。 この問題は一言で言って長くかかり過ぎております。
皆さんはご承知だろうと思いますけども、私どもの恵子は国内からではなくて、ヨーロッパの方から、よど号の奥さんたちの手によって連れて行かれたという形なんですけども。

当初から申し上げますと、小さいときからわり方おとなしい子だったんです。
人の前にバッと出にくい、物の言いにくい、どっちか言うたら後ろへ後ろへ寄るような子なんですね。
幼稚園の頃なんかはちょっと小柄でしたので、一番前に並んでいるんですけれども。
小さい子供って、先生が「きちっと並んで行きなさいよ」って言われても後ろからく~っと掻き分けて行きますよね?
いつも一番前にいますのに一番最後に出てくるんですね。
そんなような子だったんです。
有本嘉代子さん
おぎゃ~っと産まれて、赤ん坊の時分からそんなにわ~わ~と泣かない。
おしめを代えて気持ちが良かったら、す~す~と寝るような子で。
本当に(子育て)しやすくて、全然手がかからなかった。
ちょっと物心付いてからでもわり方聞き分けのいい子供で、こちらのことは言うことは理解できたようで。
普通のほかの子よりも。

私は女の子5人男の子1人と6人あるんです。
私がきょうだいはあるんですけど、家庭の事情で私一人で育ったもんですから、子供はたくさん産んで賑やかなのがいいなと言う感じでおりましたので、6人なんです。
その3番目なんですけども。
非常におとなしい聞き分けのいい、本当に手のかからない子だったんですけれども。
最後に一番手がかかって(笑い声)本当にどうしたらいいのかと思って、毎日思い悩んでおります。外国へ行くときでも1人で行くって言ったんですね。

そんな知らんところへ行って、水も変わるし、体もきょうだいの中で一番弱かったもんですから、それが心配だったんです。
でもこんなことが起こるなんて夢にも思わなかったですけど。
向こうに行ってる間に病気になったらどうするの?ってそれが一番の心配でした。

1982年に学校を卒業しまして、3月に。
あの子は神戸市立外大の2部を出てるんです。
ここはお昼行こう思ったら非常に難しい学校なんです。
ちょっと入れないんです。
それで2部の方に行きまして、お昼はね、自分でアルバイトをしてました。
ですから小さい時分からそんなにお金も無駄に使わないし、きちっと自分のことは自分でするような子供でしたから、お金もきっちり貯めてたんですね。

主人のきょうだいが3人いまして。
姉と妹と真ん中なんですね、主人と。
どちらも子供たちは良く可愛がってくれました。
本当に、上も下も義姉も義妹も良くしてくれました。
義妹と恵子は偶然にも生まれた月日が一緒なんです。
誕生日が一緒だからと言うわけじゃないんですけれども、たくさんいる中で特に恵子が可愛かったみたい
です。

小さい時分から、次に出来ましたのが1年2ヵ月ぐらいですぐに次が出来たんです。
私が下に手がいるもんですから、下が出来た時点で義妹が自分が夜になったらずっと抱っこして寝てくれたんですね。
そんなんで、私以上に恵子のことは叔母の方が良く知ってると思います。
そんな関係で高校に入りました時点で、英語が小学校の時分からわりと好きで、ちょっと昔習いに行ったこともありますし。
高校に入った時点で元町にファルマーって学校があるんですね。
職業人の方も大勢来ておられました。
その夜間に行く言うことで、お昼高校で夜そこへ行ってたんです。

たまたまその学校が義妹が買いましたマンションのすぐ端にあったんです。
「遠いところだったら通うのも大変だから、私が迎えに行くわ」って、5分くらいの所でしたから、いつも夜間のときだけは迎えに行ってくれてたんです。
そしたら「そないするのが面倒だから、とにかくずっと家におって一緒に暮らそう」と言うことになって高校の時点から私どもの手から離れて、義妹と一緒に暮らしてたんです。
よく叔母ちゃんが世話してくれましたし、恵子のことは良く知ってると思います。

自分が外国へ行くと言うたんも事後承諾で、私ども全然お金出さなかったんです。
自分が4年間に夜の学校ですから、お昼アルバイトをして(お金を)貯めてましてね。
全部申し込んで、何もかも手続き済ましてて事後承諾みたいに。
義妹はやりたくなかったから、「親が止めてくれると思ってた」といまだに怒ってるんですけども。
止まらなかったんです。
いつでも素直に言うことを聞くのに、これに関しては一歩も譲らなかったんです。
泣いて「行かしてくれ」て言うたんですね。

最初は半年と言う約束だったもんですから、半年くらいだったらすぐ済むわという感じで、半年経ったらすぐ帰ってらっしゃいよって言うたんですけれど。
それがもう半年経った時点で。
手紙はねもう本当にこまめに、毎月に最低でも1回、多いときは2回3遍と来てました。
「今日はこんなところ行ったのよ」とか、一年間いたんですけど、一年間おる間本当に楽しくて仕方がないといった感じですね。
手紙が来たらそんな感じがするんですね。
だからちょっと帰りたくなかったんだろうと思います。

やっと翌年の1983年の6月の末に、「もう帰るわ」と手紙が来たんですから。
私もやれやれ思いまして、そしたら「夏の2ヶ月くらいは旅行しもって帰るから」という手紙でして。
すぐに帰ってくればいいのにと思って、私もすぐに手紙出したんですけど、ちょっと行き違いになってたんじゃないかなと思うんですね。
2ヶ月くらいは旅行しもって、こんなゆっくりなかなか来られないからいうんで、その時ちょっとまとまってお金も出してたんじゃないかと思います。

丁度私は弟が東京銀行に勤めておりましたんで、後輩の人がちょうどロンドン支店に勤務しておられたので、その人にくれぐれも頼んでくれてね。
「なにか相談に来たら相談に乗ってやってくれ」って、お願いしてくださったんですけど、「いっぺんも来てなかったよ」と言うことだったらしいです。
そこでちょっとお金を引き出して、2ヶ月くらい回るつもりでしてたんだろうと思うんですけれども。
そのときは八尾さんのことなんか全然分かりませんから、「8月の9日に帰る」ってと手紙が来たもんですから、そのときはああ良かったやれやれ帰ってくると思ったんですが。

義妹が8月の9日に一緒に迎えに行こうというつもりだったんですけど、義妹はちょっと私は気になることがあるからと。
あのひとはピンと霊感が働くことがあるんですね。
「とにかくいっぺん伊丹に電話してみるわい」って空港に電話してみたんです。
「その方ね、キャンセルしておられますよ」って、そない言われたんですね。
それが今も覚えておりますが、キャンセルした人があの、なんせ横文字でしたわ。
そんな全然聞いたこともないし、その前に「どうしてキャンセルしたんだろう?」と私たちもドキッとしたんですけど。

追ってその日のうちに電報が来ました。
今日も確認したんですが、8月8日付で出してるんですね。 そのときに今思いましたら、電報全然出せないんです。
だからこれは多分よど号関係の人が出したんだと思います。
後になって分かったんですけれども、西側の警察の方が、キム・ユウチョルいう北朝鮮の工作員をずっとチェックしてたんですね。
たまたまその人をコペンハーゲンの空港で見つけて写真を撮ったんですって。
そのときに恵子が端にいたんです。

それでそれは早い時期に(日本の)警察にその写真が来てたみたいです。
だけど私どもは全然分かりませんし、とにかく帰ってくる言うたまんま帰ってこないし。
本当(時間が)経っても連絡がないし、手紙は「市場調査みたいな仕事が見つかって、ちょっとしたいんだけれど」と言う手紙だったんですけれど。
一ヶ所にいないですからね。
方々行きますから、行った所から手紙出しますっていうような、だから本当にイライラしましたんですけど。
片便りでこちらからはどうすることも出来なかったんです。

それで、そうですね、8月の中ごろにいっぺん手紙届きました。
「また行った所から手紙出すからね」って感じで。
10月の中ごろに来てるんですけど、これはいつもあの子は日にちをきちっと書くんですけど、書いてないんです。
これはおかしいな?と思ったんですけど。
だからこれは多分、八尾さんが書かせたんだろうと思いますけど。
「手紙出しておいてあげるから」って言うたん違いますかね?
手は恵子のでしたから、恵子の字で、ただ日にちだけ入れんと書いてました。
それが私がいつだったか日にちを覚えてなかったもんですから、10月の中ごろと私が自分のこれに書いてあるんです。
それを最後にばたっと来なくなったんですね。

それでも何ヶ月も経つもんですから、そうですね、10月に来なくなって翌年の年明けてから初めて警察に届け出しました。
「こんな状態で・・・見てたんですけどもいまだに帰って来ないんです」言うことを、警察に届け出したんです。
警察から、そうですね、3回か4回くらい足運んだと思います。
「ちょっと来てください」言われまして行きますとね。
いろいろ、「身長はどれぐらいですか?どんなものを好んで着られますか?」とか「足は何文くらいの靴を履かれますか?」とか。
ひょっとしたらこれ外国で死んだ人じゃないかな?と思いまして。
「ひょっとしたらこの人、東洋人らしき人が外国で亡くなった人の照会違いますか?」って聞いたら、「そうです」っておっしゃる。

「そんなのあんまり私聞きたくないです」って言うた記憶はあります。
そしたら警察はそのとき「私が調査しなくていいと断った」っておっしゃってました。
そういうように取られてたんですね。
そんなんでそのまま、5年間は本当にどうしようもなかったですね。
手も打ちようが無かったんです。
1983年の最後の手紙で、今度は1988年に北海道の石岡さんという方の所へ手紙が参りまして、それで手紙とそれから写真が入ってたんですね。
これが入ってた写真を引き伸ばしてもらったんです。
(恵子さんと石岡さん、赤ちゃんの3枚のモノクロ写真を会場に向けて披露する)
そしてもうひとつ子供の写真とね、3枚入ってたんです。
文面が、「北海道の石岡さんと恵子とそれから九州の松木さんと3人が、一緒に力合わせもって平壌に暮らしております」いうような手紙でした。
だから私はずっと子供の写真はね、松木さんだと思ってたんです。
松木さん、どうして外国に行かれるのにこんな子供の頃の写真をずっと持ち歩いてたんかなぁ?と。
二人は見たことあるのでこれは北朝鮮で撮った写真だなぁ、と思ったんですけど。
これは松木さん松木さんとずっと思ってたんですね。かなり経ってから、「宿命」という本を書いた高沢皓司さんという方があるんですけど。この方が、ちょうど震災の年でした。
あのときに突然訪ねて来られて、一度来られたんですけど、私も全然面識が無いもんですから、ちょっと不安だったもんですから、主人にちょっと外で会ってきてって。
どんな人か分からないからということで、ちょっと外で会ってもらって。

二度目に来られたときは朝日放送の石高さんていう方が、拉致問題にずっと取り組んできた人なんですけど、この方がご一緒してうちまで来てくれたんです。
そのときに初めて子供の写真のことを説明なさいました。
「これは石岡さんと恵子の間に出来た子供だと思いますよ」とおっしゃって。
「あ、そういえばそうだな」と納得いったんですね。
その時点までは松木さんだ松木さんだと思ってたんですね。
結局(手紙を書くのに)用紙も何も無かったんだと思います。
これは伊丹を出るときに入った保険の用紙に、これはずっとも持ってたんだろうと思います。

そこに字を書いてある上に自分の手で住所と名前と書いて、両親の名前と書いて、電話番号を書いておりました。
石岡さんも自分の手で書いておられました。
ところが松木さんは、そのとき一緒にいなかったんじゃないかな?と思うんです。
松木薫さんと書いてあるんですけど、これは石岡さんの手で、熊本県熊本市までしか書いてないんです。
だから松木さんには長い間連絡できなかったんです。
住所がキッチリ分からなかったもんですから。
ボブヘアーの恵子さんの写真 そんな状態で、一応北朝鮮におると言うことが分かったもんですから。
とにかく私はそう思います。
この写真がやつれてます。
だからこの間から特定失踪者の方の写真がいろいろ出てきてますけど、全然他人さんが見てはったら分からないと思うんです。
これが恵子の、(写真立てに入ったボブヘアの恵子さんの写真を掲げる)この顔しか私知らないんです。大学行ってる、ちょうど入学する頃はこんな顔だったんです。
私が入学式のときは付いていったもんですから、最寄の駅で待ち合わせして、一緒に行ったんです。
私はこの顔しか記憶にありません。
全然顔が変わってますからね。
特定失踪者の方でもあんなに変わっていたら、全然。
親だから分かります、特徴のあるところはありますから。
全然分からないだろうと思います。

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有本惠子さんを救うぞ東京集会(2)

有本嘉代子さんのお話 2

とにかく主人と二人、必死の思いで手紙をよこしたんだろうから、どうしても助けてやらなければいけないと動いたんです。
9年間。
私は動いていません。
子育てで大変ですから、よう動きしませんから。
主人が外務省の方なり政治家の方なり、一所懸命できる方があったらそこへ行って、9年間は二人で動きました。
外務省に行った記憶の中で、私は本当にいつ行っても私は座って話した記憶がありません。
3遍ほど行きましたけど。
入り口までばっと出てこられるんです。
立ったまま「国交が無いですからね」って感じですね。

ですから一番最初土井さんのところに行きましたけど、土井さんのとこも「先生に言うときます」て秘書の方が言われて。
そのまま何の返事もありませんでした。
それが1983年のまだ暑い時分でしたからね。
手紙が来たのが9月6日でしたから。
まだ9月中に多分行ったと思います。
でも(土井さんから)便りが無かったから、仕方が無いと思って、主人も「政権を取ってるのは自民党だから、これは社会党行っても駄目や」と言うことで。
それではじめて安倍先生のところだけコンタクト取れたんです。
で、「とにかくどうなるか分からないけど、とにかく一遍来てください、手紙持ってきてください」って言うてくれたんですね、秘書の方が。

それで最初は私その手紙を持って安倍先生の議員会館の事務所へ行きました。
今もいらっしゃいますけど、飯塚さんて秘書の方が、「どこいったらいいかなぁ?」言うて、事務所の中たくさんいろんな方が来ていらっしゃって、皆で相談して、「警察行かなきゃ仕方が無いかな?」ということで警察署へ連れて行ってくれたんです。
そこではかなり、1時間くらい私が話することを、いろいろこういう経緯でいなくなったんですということを、1時間あまりかかって1人の人がきちっとしてくださいました。
「これはでもね、国内の事だったら何とかなるけど、外国のことだからね」っておっしゃったもんですから。
そしたら「外務省行かな仕方ないな」ということで、また外務省へ車で連れて行ってくれまして。
外務省は5分ほどでした。
そのときから外務省、おかしかったんですね。

表から出てこられて立ったまま、5分くらいで「国交が無いからね」て言われました。
その以降、また主人と同じ道をたどって、警察へ行ってまた外務省へ行って。
その外務省へ行ったときは、2度目に行ったときは、「これは難しい国ですので、これが表に出ますと娘さんに危害を蒙ることがあったらいかんので、この話は伏せておきましょう」って言われたんです。
そのときは主人も納得して「この時期だったら黙ってな仕方ないかな」って思って黙ってたんですよね。

それ以降はもうどうしようもなくて黙ってたんですけども。
19・・・ちょうどね地震が起こったときですよね。
地震が起こる前ですから1990年90年の末に、とにかくマスコミの方がわ~っともう、何社もね、一番最初は文春の方が来られたんです。
それから各社が、もう本当に、年末だったんです。
もう20日過ぎてたと思うんですけど、年末までず~っと来られるんですよ。
「これ隠しておこうと言ったのに、どこから漏れたんですか?」って言うたら皆おっしゃらないんですよ。
「こんなに表に出てしまったら、これ表に出な、しようがないかな?」と思って、北海道の方と相談して。

翌年の1月の16日くらいだったですかね。
外務省の方に正式にお願いに上がろうということで文書にして持っていったんですね。
そのときに表に出すべしって、名前もきちっと明らかにするべしで行ったんですけれども。
記者会見が始まりまして。
本当にそういうのは生まれてはじめてですから、記者の方がたくさん来られてますし、テレビの方もずらっと後ろに並んでらっしゃいますし。
そこで、いざこれから私たちが話ししようというその直前に接触してこられた方があったんです。

マスコミの幹事社言うんですか?
代表して仕事してくださったのは、そのときはNHKなんです。
NHKの記者の方が来られて「ちょっと会ってほしい人があるんですけど」と言われるので、別室へ行って会ったんですね。
その方がそのときは名前も何もおっしゃらないし、どこから来られたか分からないんですけども。
「私が金正日と太いパイプを持った人を知っておりますので、水面下で必ず娘さんが帰れるようにしますから私に任せてください」っておっしゃったんです。
それが後になって分かったんですけれども、ウニタ書房言いまして、よど号の機関紙を売ってらっしゃっる方らしいです。

その人が「水面下で必ず取り戻す」って言うてくださったんで、「それだったら帰りさえしたらいいんだから」と。
「どうしたらいいんですか?」って聞いたら、「今から記者会見始まりますけども、そこで氏名と住所を一切言わないでください」言うてはったんですね。
それが言わないことがどういうことなのか全然分からなかったです。
とにかく(記者会見で)名前言う段になったら「急に言えなくなったんです」って言うたら、記者の方がものすごく怒られたんです。
「早くから来てこないしてるのに、住所と名前と言うてもらわんかったら何にも出来ない」って。
というのはその翌日湾岸戦争が始まったんです。

明日湾岸戦争が始まるっていうて、「こんな急がしい最中に来てるのに、こんなこと言うたら困る」ってすごく怒ってはったんですけど。
そのままとうとう言えずに終わってしまったんです。
私どもはその遠藤さんと1年あまりお付き合いしました。
だけど北海道の方はハッキリ申し上げたら、得体の分からない方だから私は付き合いようせんて、私はこのまま置いて行きますって。
私どもはその方と1年ほどお付き合いしました。
なにか大阪に絵本を仕入れにいくて言われたら、ちょっと神戸へ来て会いましょうか、と言うことで3遍くらい神戸の駅の近くのホテルで会いました。

だけどそれがいまだに誰のツテで来られたのか全然分からなかったんですけども。
金丸さんが逮捕されたんです。
あの時点から全然連絡してこられなくなったんです。
だから政治家のほうから来てはったのか、どこから来てはったのか。
それでも外務省ともなにか関係があったみたいです。
主人が外務省がおかしなことをしてると「そんなことしてもらったら困るやないか」って文句言うていきますと、あくる日必ず連絡が入るんです。(笑い)
「あれはちゃんと生きております、ちゃんと動いておりますから、必ず水面下で助け出しますから」と。
そのときに第三国発言なさったんです。
森首相が第三国発言なさいましたね?
北京に連れてきてそこで会わせる、それを聞いたとき、私は驚きませんでした。
「ああ、遠藤さんと同じこと言うてるわ」と思って。(笑い声)

だけど遠藤さんが「北京に娘さんたちを連れてきてもらって、お母さんたちと会って、それで日本に帰ればいいような、そんな形も取れるんですよ?」って遠藤さん言いました。
最後にあの方はずっと見てましたらね。
「でもこれはどこかで行き詰ってるような感じがするなぁ、絶対これでは解決しないような感じがするなぁ、あの人もいつまでもこの人たちを自分が騙してるのいかんなぁ」というふうに私は取れたんですね。
「そんなような気持ちでおってる違うかな?」というような一遍バッとしたんです。 そのときになにか一番最後にね、「とにかく手紙を書いてください。手紙を必ず持っていくルートがありますから、娘さんにまで届けてあげますから」と言うことでしたので。
差し支えの無いことだけを書いて、家族全員が一筆ずつでも妹たちは「元気にしてる?」と言ったり。
長女がちょうど(恵子さんがロンドンに)行くときに子供を身ごもってましたので。
向こうからも知ってるんでね。
「(長女に子供が)出来てるだろうな?一遍会いたいわ」って手紙が来てましたからね。
長女が「(子供は)元気に大きくなってるよ」とか、いろんなことを各自が5人の子供が書いて、私たち二人も書いて送ったんですね。

それは先ほども申し上げた高沢皓司さんという方がはじめて私どものところに訪ねて下さって、震災の年なんですけど、そのときに「その手紙は私が言付かりました」っておっしゃいました。
「私が平壌に行きまして、田宮さんの手までは渡してきましたよ」って。
田宮さんていうのはよど号乗っ取りのリーダーですね。
「この方までは渡してきましたよ」って。
「そこから先、娘さんの手に入ったかどうかは分かりませんけども、ともかく田宮さんまでは私届けてきました」っておっしゃいました。
そのときに田宮さんは「よど号の私たちの手で、20人くらいはこの国に連れて入ってる。これは私たちがここにおる間に絶対に日本の国に帰すようにせなならん」って田宮さんが言うてるてことは聞いております。
それから間無しに、田宮さんは心臓麻痺で亡くなりました。
私は粛清されたんじゃないかな?と今でも思ってますけどね。

本当にそんな辿りもって来たんですけども、本当に何の進展も無くて。
はじめて横田(めぐみ)さんが北朝鮮にいる言うことがわかりまして。
それも朝日放送の石高さんがたまたまソウルに行かれたとき、そういう情報をこちらに持って帰られて。
それをこちらで佐藤先生が新潟でお話なさったときに、そこで初めて「めぐみさんじゃないかな?」ということが分かって。
予算委員会のときでしたかね。
西村先生が国会の場でめぐみさんのことをおっしゃって。

それで横田さんもおっしゃってました。
はじめてお会いしたときに、「今年で19年目にしてやっと、めぐみのいるところが分かったんですよ」っておっしゃいました。
「だけどね、19年間めぐみが北朝鮮のあんな国でも元気で暮らしているゆうことが分かったんですけど、私らが表に出ることによってめぐみにもしものことがあったらどうしよう?と、かなり悩みました」とおっしゃいました。
同じです。
私らもかなり悩みました。
本当に、初めて新聞に出るいうときは本当に夜眠れませんでした。
どうなるかしら?と思いましたけど、同じ思いで横田さんも思い切って表に出てくれたんですね。

それによって初めて1997年ですね、3月に家族会が出来たんです。
初めて運動始めましたらね。
外務省に行きましたらね、当時局長さんが会ってくれました。
私らが行ってるときは「なんとかもうちょっと上に人にお目にかかれませんか?」とお願いしても、課長どまりでね。
「私で辛抱してくださいって言うんです。
数の力って本当に大きなものだな、ってつくづく思いました。

今も問題は前に進んでませんけれども家族会が出来て、やっと2002年9月17日、5人の方が帰って来られて。
だからそういう経緯で、家族会の方とお目にかかるんですけども、そんなにゆっくり話す間も無かったんですけども。
「家族」って言う本を出しましたね。
あのことによってずっと読ましていただいて、はじめて「皆さん同じ思いで長いこと暮らしてきたんだなぁ」とつくづく思いました。
今から先どうなるか不安ですけどもね。
やはり、必死の思いで私は助けを求めてきたんだろうと思いますから、出来る限りのことはせないかんと思うてますし。
家族会でも横田さんも一所懸命、毎日のように北から南からずっと全国走り回って、訴え続けておられますのでね。
だから私どもも今訴え続けるより他に道が無いんです。

これを本当に外務省の方々が、交渉に当たる方がしっかりと受け止めていただいてね。
日本の国のことなんですからね。
特定失踪者の人も、やはり400人からの方が言って来られてる。
この方も同じ思いなんですよね。
だからその、分かりませんものね。
本当にそうなのかどうなのか?言う、証拠が無いもんですから、動くに動かれなかったんですけども。
長い間みな同じ思いで暮らしておられたと思うんです。

全員の方が帰って来ないと、私はいつもそう思ってますけども。
解決しないです。
拉致問題の解決と言うことは、やはり全員が全部日本人なんですからね。
この方たち全部が日本の国の土を踏まないと、解決しないと思っております。
これからも皆と力を合わせて、家族会の皆さんと力を合わせて一所懸命頑張っていこうと思いますので、皆様方もどうぞ、これを最後まで、とにかく立ち消えになってしまったら困りますので。
皆様関心を持ち続けていただいて。

一緒に、国のためなんですから、日本の国がおかしくなってるなとずっと思ってましたけれども。
若い人たちがたくさん連れて行かれて犠牲になってますけども。
この人たちの拉致問題があったことによって、日本の国が国民の皆様方が日本をきちっと見直してくださって、それでこれではいかんと言うことで私たちに応援してくださっています。
道を歩いていても何人かの方が必ず声をかけてくださって、「頑張ってくださいよ」「私たちもずっと関心を持って見てますからね」と、それが一番の励みになっています。
親なんだから、絶対に最後までこれをやらなければいけないと思っております。
どうぞ皆様よろしくお願いいたします。(拍手)

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有本惠子さんを救うぞ東京集会(3)

 有本明弘さんのお話 1

皆さんこんばんは。
恵子の父親の有本明弘です。
よろしくお願いします。
ま、家内が言ったとおりの方法で私たちはやってきました。
その中でこの拉致の問題は、一番先に日本の国で国民の皆さんに広まった、分かってきたのが今度のこの子供が北海道の実家に手紙を送ってきたのが、88年の9月なんです。
88年の2月かな?
くらいには共産党は国会で質問してるんです。
(隣の西岡氏より「3月です」の声)
3月か?
そういういきさつもあって、私らの問題も国会へ持って行った。
この時点で政府は拉致されているということは、もうハッキリと分かってるんですよ。
で、それの2年後、その手紙を持っていった明くる年に竹下さんが北朝鮮に対して「前提条件をつけずに話し合う用意がある」と、その一言唐突にしゃべった。
有本明弘さん  腕組みする西岡力さん

そのときには手紙持っていたところが安倍晋三さんのところやったから、その秘書の飯塚さん言う人とね、その人と話をした。
ちょっと国は動いてくれるのとちゃうか?と。
そういうやり取りをしました、当時はね。

そしてそれから北朝鮮へ行くと言うような政治家が2~3人名乗りを上げました。
その結果、最終的に残ったのが当時の金丸さんです。
1990年の9月に金丸さんが行くようになったんです。
だから私らはこのときは当然手紙が来てるし。
1年2年前には国会で質問して、政府と共産党の橋本さんとやり取りしてる。
そういう状況をあんのやから、当然外務省と同行する自社、田辺さんと自民党は石井さん、この人が外務省も何べんか折衝を持ってるんです。
当時の新聞にはそういうふうに出てるんです。

だから、当然私は先遣団でむこうに行った議員団は、当然この問題を提起して、あんたとこはこれをどないするんや?と言う折衝は当然やって来るんもんやと思ってた。
当然やらなおかしいんです。
これやってないんです。
だから僕はこれはおかしいやないかと。
スタート時点からおかしいと、追及するんですが。
当然でしょ?

そういうことが全然メディアの情報に載らんのですよ、これ。
取材しとって分かっとるんやからね?もう。
全然載ってないですよ?
もう、僕らは悔しかった。
当然そのときに、先遣団だった議員団が「過去の償いをしましょ」って海部さんの親書まで持っていったんですよ?
でもそれだけでこの拉致の問題は一言も触れずに帰ってきた。
だから今家内が言ったように9月に行った訪朝の、その12月の年末に、警察がこれはマスコミにリークしたと。
僕はそういうふうに解釈してるんです。

だからマスコミが私どものほうへ来るようになった。
裏事情は分かってるからね、私も。
こんな外交しとるから、警察が出てきたな、と。
だから、こっちも腹が決まってるから、もう(名前を)出してもええという判断を決めた。
その前にも何かのときに協力してくれと、毎日の記者とかなり話をして状況も説明しておった。
別にしとこうということやから、私がどこに住んでどんな人間やということは言わなかった。
ただ状況だけを説明して、ここら辺の話になっとると。

文春が来て上がりこんで帰りひん。
そういう事態になってきた時点で毎日の記者に言うて、実はこういう状況になっとるさかいに。
もう本当にしゃあないからうちに呼んで、そんで事情を説明して、そしたらこの毎日が先にば~んとスクープを出した。
産経さんが一日遅れて付いて、かなり大きな一面トップで出した。
それが今家内が言ったように遠藤というのが出てきて、記者会見を抑えてしまった。
そうした中で私たちは、その遠藤が「ふた月くらい待ってくれたら、必ずいい結果を持ってきます」と言うことを言いよったけども、その人はぜんぜん約束を守れなかった。

そういう時点で北海道のほうの拉致したよど号の嫁さんと二人で写ってる写真があるんですね。
それがまた文春からば~っと出てきた。
だから、そういう新しい情報が出てきたから、もう一回記者会見したいので協力して欲しいとNHKにお願いしたんです。
そしたら一回出たもんはもうニュース性が無いから協力でけんと、ば~んと引いてしもうた。
そりゃあ、そんときは腹立つよ。
人間やから。

遠藤とは、そのときにはNHKの神戸の記者・東京の記者、立会いの下に遠藤がどういうこと言うとうか聞いてるのよ?
それでも引いてしまった。
その裏事情は、分からん。
そうして、この問題がもうマスコミが受け付けない、政治家も受け付けない。
それで県なんかへ行ったら、言うて来てくれという部署があります。
そういうとこ行ったって、国のことに関して私らどないもできません、とそんな話。
そういう話、持っていくところがなくて、最終的に共産党いったら、皆嫌いやないですか?誰でもね。(会場笑い声、しかし明弘さん笑わず。会場から笑い声が上がっても明弘さんはお話の最後まで一度も笑わず)

でもそこまで行った、その橋本さんと言う人のところへね。
すでに質問してるんやから。
議事録を後から持ってきてくれて、その議事録を持って行った。
1人だけ行ったんじゃ、これは相手にされないと思うたから、そんなやからブンヤさんもたくさん知ってる。
だからそのときは毎日新聞と産経さんと共同さんか。
この3社の人、3人に一緒に付いてってもうて、共産党の事務所行って議事録も見せてこんなこと質問してると。

田口八重子さんの件も共産党のやつは質問しとるのよ。
当時は該当者もおらんというので、ずっとそのままになってたけど。
ある時点で警察は田口八重子さんのことだと、韓国へ行って実際に国内に親族がおると言うことも。
韓国へ行って金賢姫にこの人やというふうに、写真見せてそれから選ばせて、この人だと国内で実在を発表した。
これもなぜやったか?
これも裏事情いうたらこの遠藤がでて記者会見をばっと抑えてしまった。
私の敗因だったからね。

それからえ~と、半年経ったか経たんかでしょ?
田口八重子さんのことが明らかにしたのは。
なぜやったか?
私らにしたら、裏事情分かっとるから、遠藤が私らの拉致の問題抑えた。
だから黙っとるしかない問題を警察が新たにぼ~んと出してきた。
裏事情を推察したら、あ、やったな?と。
何でそう思ったか?言うと、警察もそりゃ何だわ、ずっとわしらに付きっ切りや。
情報収集するからね。
そんなんで拉致の問題を伏せて、あの人等は外交しようとしたんでしょ?そうでしょ?

警察は私らの問題を出してきた。
それを抑えるもんがおったからね。
だから田口八重子さんのもんを出してきた。
これは出してきたもんは警察や言うことは丸分かりだからね、状況から見て。
さすがにこれにはよう手をかけなかった。
そしたら向こうの方からこんなこと言うならやめてやる、とむこうから交渉を打ち切った。
新聞で見たらそうなってると思う。

そのときに私は外務省へ行った。
田口八重子さんのことは出た時点で。
そしたら外務省は外交は田口八重子さんのことで向こうに物言うていきよった。
ほかの事言わんとね。
僕としたら、これはおかしいやないか?国としてはね。
そやから行って「そりゃあんたとこ、これ田口八重子さんのことだけ物言うのはおかしいやないか?」と。
そういうことから始まった。
けんか腰みたいなもんよ、腹ではね。
言葉ではそこそこ物言いよるけどね。

そやから、警察がここまで踏み込んだ以上は、あんたとこはすべての人を名簿を出せとか、それかすぐ帰せとかそれしかないやろと、言ったんです。
当然でしょ?これは、人間として。
そしたら遠藤いうのが一週間も経たんうちに電話がかかってきよった。
「前にいうとった話は生きとるさかいに、まぁ黙っとっててくれ、すぐにそちらへ行きますから」と。
そういうような調子。
拉致というものに関しては裏でいろんな人間がうごめいて、問題を抑えよう抑えようとしていた。
恐ろしい話。

そういう事情で私はこの問題に関しては戦後の60年間の間に、朝鮮総連。
これが日本の国の政治に食い込んできて、どうしようも無いような状況になっとる。
それも分かってきた。
政治家が、拉致の問題を取り上げないのよ。
もう朝鮮総連の影響としか考えられないのよ。
だからそういうことも分かっとったから、え~っと中山さん。
前の拉致議連の会長の中山さん。
これと一番最初に拉致議連の会長になったとき会うた。
だからそのとき言うた。
僕ひとりじゃなくて、中山さんの親戚同士の付き合いしてると言う支援の人ね、それと大阪の救う会の人と、4ったりで会うた。
私らはそういう思いがあるから、その席で朝鮮総連の人はおかしいと。
それの影響下で政治家はおかしいなっとると言うたら、あの先生どう言うたかと言うと。
あれ、ふたりとも嫁さんみな朝鮮人やねと。
それはじめて聞くことや。
在日の人やと。
中山さんからそういうふうに聞いた。
そこまで言う人やから、ま、これは間違いないやろと、やるんじゃないかと。
これは期待を持った。
でも2~3遍会うたら、あの人も変わってしまった。

この問題に関しては、どういうルートでそうなるのか分からんけども、まぁ朝鮮総連の力というのは、素晴らしい時代なもんよ。(笑い声)
そうでしょ?
これちょっと話が飛ぶけど、今現在、小泉さんかてこれ怪しいよ?(笑い)
皆さんそう思わない?(拍手)
山崎さん、平沢さん、これ秘密外交にポンと出したのよ?
これバレてもうてマスコミに。

だから僕らは拉致議連の総会に呼ばれて、平沼さんあたりに家族としての意見を言うてくれと言われた。
だから言うた。
そんな秘密外交がバレた以上はこれは白紙に戻すべきだと。
でまあ、平沼さんもその意見も、筋やからね。
で、声明も書いた。
5人の子供連れに行くだけやったら総理が行くべきもんではない、と。
適当な人が行けばいいと。
適当な人がおらなければ私が行きましょうと、そこまで声明文書きよった、出してくれたんや。
そして小泉さんに会うてくれて言うたって、15分しか会わない。
平沼さんは講演でようそういうことも言うてた。

そんな人なのよ、小泉さんは。
誰の話も耳貸さんのよ。(笑い声)
おとろしいよ。(う~んとうなずく声)
・・・(聞き取れず)さんあたりもつんぼ桟敷よ。
行くときには外務省も全然つんぼ桟敷よ、一言も言うてないのよ?
誰が話いったか?
自分の秘書官、あれ飯島言う人と朝鮮総連の幹部と話をして北朝鮮行ったのよ?
これとんでもない話でしょうが?(拍手)

自民党総裁のすることとちゃうのよ?
これ、言っていいことか?
「自分の任期の間に2年間の間に国交正常化しやないか」と。
これどういうことや?きちがい沙汰や。(拍手)
これに対して自民党が物言わんのよ、これ。

行ったときは選挙あったでしょ?参議院選挙。
それを目指して、え~と平沢さんが帰ってきて、平沢メモ言うのがマスコミが持っとるのよ。
選挙のときそれが暴露された。
神戸の関西テレビのがね。
参議院選大勝利やと、子供連れて帰ってきたら。
そこまで思うとるのよ?・・・(聞き取れず)(笑い声)
そういうことも思ったけど、議連の総会やからそこまで言われへんがな。
野党の先生も仰山おるんやからね。
そやけど秘密外交がバレた以上はこれはもう白紙に戻すべきやと、当然の話でしょ?

でもそんな向こうも漏れとるんやから、この間の国会え~、原口言うたかな?
朝鮮外交を政治に利用したと、それぐらいしかしゃべれへん。
この野党が。
おかしいでしょ?
そこまで突っ込んでいって、な、小泉さん引き摺り下ろす、出来るのよ国民の目の前で。
あんたおかしいやろ、自民党総裁やろと。
アメリカと関係を重視するんだったらそういうこと出来へんやろ?と。
返す言葉が無いのよ?
でもやらんのよ、この野党が。(笑い声)

仰山むこうに、世の中いっぱいだめなのがあるのよ。
そういうことしか野党は・・・(聞き取れず)北朝鮮に金正日に迫らなならんでしょ。
そんなこと、有りへんがな。
日本の国の政治状況。
お粗末そのもの。

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有本惠子さんを救うぞ東京集会(4)

でも国民の皆様はしっかりしてる。
この2年間ほどの、テレビ映像見て子供帰ってきた。
外務省の外交のやり方見て、もう国民の皆様は正当な判断下してる。
もう80%くらいの人が制裁をやってよろしいという、判断をしてくれてる。
誰がよう判断しないのか?(笑い声と拍手)
ハッキリしないでしょ?
だから私はこの人に一ヶ月でも二ヶ月でも出来るだけ早い時期に、政治の世界から去ってもらう。(笑い声と大きな拍手)
これが誰が言うんや?という今そういう関心でもって見てるんです。
でもやるなら、自民党が選んだ人やからね。
選んだ人たちが降ろすのが筋やろ、と思うてるんやけどね。(拍手)
そこまでの勇気がないんです。

それでもこの問題が国として国民の生命の安全と言うのは、国の一番重要な問題で。
また政治家としても政治の目的とは何か?
地域の人の利害を訴える。
それもひとつあるかも知れんけど、政治家と言うものは、国家と言うものに対しての国民の生命の安全、これが一番の重大な事項なんです。(拍手)
これは第一義に政治の目的としてあげないかん。
これに対して日本の政治家は全然無関心と言うてもいいくらい。
政党もね。
日本の国の政党は全部お払い箱にして更地にして(笑い声と拍手)、大阪で西村先生と懇親会のときに一杯になって越境しようって言われたんや。
有本さん、あんた最右翼やでと。(笑い声)
あの西村先生にこないに言われたんです。

でもそうなんですよ。
拉致の問題に関わってる人は、党派を抜けて皆入ってきてくれてる。
共産党・社会党はよう来いひんけどもね。(笑い声)
だからそういう中で日本の国を変えていかなければならない。
ということは、おかしいことはおかしいと、言う者がおらな改革できない。(拍手)
もっと自由にやらなかったら、私は報道の自由をあてがわれている、名誉な仕事だと常々言ってるんです。
このおかしい状況が出来たのは政治かも悪いけれど、マスコミが一番悪いと。(ひときわ大きな拍手、「そうだ!の声)
いまだにそれが続いている。
ついこの間ありましたでしょ?
安倍さんがしゃべってる、あの通りなんですよ。
それをこの拉致の問題のシンボルに標的にして、朝日がば~んと攻撃かけてきた。
これは安倍さんだけでなくて、西村慎吾いうのも防衛政務次官のときにちょっと勇ましいことを言うた。(笑い声)
そしたら朝日が一発ば~っと来られてしもうた。
もうひとつ、あれはなんやったかな?
ここだけの話や~!って言うてしゃべった大臣がおる。
それがまた朝日にぱっとやられてやで。
ここだけの話やで~って言うてるのにやられてもうて(笑い声)
それが今の日本の国の十何年くらいの流れの中の、もう名前が分からんけど2~3人首が飛んだ人がおります。

そういうような流れの中でず~っと日本の国を操った。
いまここでそんなことをしとる間がないんですよ、日本の国は。
ひとつに団結せなあかん。
野党も与党も、国民も、マスコミも。
これが全然出来てないんです。
いまやっと国民だけは正直に気が付いて、制裁せいと言うてる。
マスコミはどうか?
そういうマスコミがおって、拉致の問題に一番熱心にやってる人に攻撃かけてきた。
これは恐ろしいことなんですよ?よく考えてみたら。
こんなん、許せる?(拍手)

彼らがどう言うか?
放送法を大上段に振り上げてくるのよ。
これに弱いのよ、政治家が。
絶対にようこれに逆らわない。
これがものすごう強みになる。
だから安倍さんも、朝日新聞にかなり攻撃してるけどね。
5へんも6っぺんも、まぁ文句あるか反吐でもないわ。(笑い)

僕が言いたいのは、私らが小泉さんが帰ってきた時点で私ら小泉さんに面会して、それぞれが思い思いのことを小泉さんにぶつけたのよ。
そのときにマスコミが我々のことを放映したらしい。
私らは現場におったから、どんなことを放映したか知らんのよ。
帰ってきたら、全然。
家族会が小泉さんに噛み付いたって事をいいよった。
それに対して帰った時点で、彼は「官邸サイドから最後まで撮れと指示があった」と、そういう情報が私たちに入ってきた。
神戸に帰った時点でね。

ホントよ。
2~3日置いて、関西の記者が取材に来よった。
これ、いろいろ話しよったよ?
その関西の記者もそういう話知ってるのよ、関西の記者ね。
だから言うのよ。
そんだけ分かっておったら、あんたらなんで大きくこれを報道せぇへんのや?と。
三社来て三社とも知っておったのよ?
当然でしょ?そんだけ分かっておったらなんで言わへんのや?と。
来るのは皆社会部の人が来よった、取材にね。
「いや政治部の人だからね、私らようとやかく言わへんのや」って、そういう弁解の仕方や。
だからそしたら政治部の官邸記者クラブ。
これが一番おかしいでしょ?
報道の自由を振りかざす限りは、自分たちも報道の倫理を弁えなければ、放送法云々とは言われない。(拍手)
一方的なのよ。
だから、今日は一番言いたいのは官邸の記者クラブ。
これがおかしいのよ。
これ官邸の記者クラブゆうのは朝日新聞は入ってるし、大手は全部入ってるはずなのよ。
これが皆ひとつの談合になって、真実をしゃべってるメディア、ひとつもないのよ。
だから、安倍さんが攻撃されてる。
攻撃するんだったら、あんたら自分らの権利を全うしてるのか?
してないでしょ?これは、誰が考えても。
これは誰が制裁したらいいのよ?(笑い声)

NHKは皆さん制裁できるのよ。(笑い声)
金払わん、言うて。(笑い声)
新聞は(「買わない!」の声)朝日新聞取っとう人は、あるいは朝日新聞取らないと。
それしかないのよ。
だから、NHKを我々の国民のほんまの報道機関として更生させたら、ここは政治家のおかしいとこポンポン突けるわけよ。
政治家は絶対おかしなこと出来ない。

皆政治のおかしいこと、皆隠蔽してきた。
これはやはり力が働いているはずなのよ。
マスコミ言うたら仰山あんのやからね。
思い思い問題に関しては、表現する温度差はそれぞれの特徴があって違いますけども、よう聞かなならんことは言うはずなのよ。
でも肝心なことは国民の前に広げない。
これを正さなければ、日本の国のおかしな状況。
ハッキリ言えば今も言ったように、日本国中ひとつの思いのひとつの旗の下に集まらないかんのよ。
それが出来てないのよ。

この拉致の問題制裁せいと言うたら、制裁しても効果が上がらへんとかどうのこうの、ね。
結果が効くかどうか分からへんとか、そういうやつが出てくるのよ。
今そういうやつが一番テレビに出るのよ。
ぱっと反論して、その場で物言うやつ出て来てないのよ。
そんなもん、制裁効果云々ちゃうのよ。
国としてやらなければならんことは効果があるなしに関わらず、やるしかないのよ。(拍手)
小泉やる気あるのか手ごたえが無い。
でも小泉は絶対やらないよ。
もう行って約束してるからね金正日と、ね、制裁しないと。

だから総理大臣やからね、一国の。
言葉翻す、こんなことはみっともなくて出来ない。
もう、ハッキリ言うて辞めてもらうしかない。(拍手)
この小泉さんは郵政やのうて、この朝鮮外交で辞任してもらう。
これが一番いいのよ。(拍手)
なぜか言うとね。
自分らの仲間内の人の言うことを振り切って、自分の思うたとおりのことをやったのよ。
だから総理大臣言うのは何でも出来るのよ。
法律にこだわらない。
やれることは何でもやるんだ。

だけど、結果が悪ければ、それに対しては政治責任というのが付いて回るのよ。(拍手)
今結果が悪いでしょ? (拍手)
政治責任とらなあかんのよ。
そういう声が日本の国から上がらん言うのがおかしいのよ。
それは国民一人ひとりは皆そない思うてるよ。
でもメディアがしっかりしてくれな!
小泉駄目なのよ!
だからメディアがしっかりしてくれたら、良くなると。

今も言ったように十数年間の姿見てきたら、悪いやつばっかりや。(笑い声)
一番悪いのはメディアやと。(拍手)
メディアはしっかしなあかんと。
そういうことを私はずっと言ってる。
だから外務省の偉い人とも、帰ってきた人とね、皆会うた。
それでいっぺんお話した。
国民の大多数の人は経済制裁せよと言ってる。
日本の多くが口をそろえて、小泉さんの朝鮮外交の口をそろえて変えてもらわなあかん。
経済制裁せよと言ってる人たちは、小泉やめろと一夜にしてこの声に変わるんですよと、外務省の人に俺言いました。
物を言えるところでは、恐れることなく物を言っております。
以上です。(拍手)

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有本惠子さんを救うぞ東京集会(5)

西岡力副会長のお話1
 
ちょっと風邪をひいてますのでお聞き苦しいところがありますがご了承ください。
今のお話を聞きながらいろいろ思い出していたんですけど。
実は私はいろいろな所で書いたりしゃべったりしてまして。
97年の3月の家族会結成までは、日本は国家として、そしてマスコミも国民も拉致被害者北に囚われてきた人とその家族を見捨てて来たと思うんですけども。
97年の3月に至るまでの過程で、大きく2段階があったんだなと、今も思い出しながら頭を整理してたんですけど。

77年から78年に拉致が多発する訳ですね。
めぐみさんの事件は77年で、78年には蓮池さんたちや曽我さんがやられていく訳ですけども。
それ以前にどれくらいのものがあったのかということが、まだ分からないので私の分析は今かなり明らかになってる物だけの分析なんです。
これはまたその枠組みが大きく変わるかも知れないんですけど、その前提でお聞きいただきたいんですけども。

77、78年くらいに多発して発生したわけです。
日本政府が認定しているものもそこが多いわけです。
10年間は何もしなかったわけです。
日本政府は今認定できてる77年78年の拉致については、事件直後から拉致であることを知っていたんです。
だから認定できてるんです。
後になってから証拠が出て来たんじゃなくて、当初から拉致であることについて分かっていたから、認定できてるんです。
分かってなかった拉致もあるんです。
それはもっともっと時間が経てば証拠が出てこないですから、認定は難しいですね。

具体的にいうと電波です。
工作船が来てるとき電波を出してるわけです。
暗号がかかってるんですけども、この電波帯を日本は掴んでいたわけです。
電波が日本海を飛び交えば北朝鮮から船が来てる。
何ヶ所かで傍受しますと、場所が分かるわけです。
来てるというと、警戒をするわけです。
警備警報と言いまして、警察がコリアンボート警報というのをかけるわけです。
1978年の8月には何回もコリアンボート警報というのがかかっていたんです。

警察庁の中でその電波を傍受していた実務責任者の幹部が、2002年の年末にある大手の新聞のインタビューに答えて、「当時私は徹夜で家に帰らなくて泊り込みで仕事をしていた」と。
そして福井沖に来てると。
工作船が来てると言って警戒していると、福井県警からおかしなアベック失踪事件が起きたという報告が上がったと。
その後新潟沖に来てると。
分かって警戒していたらば、またおかしなアベック失踪事件が起きたと報告が上がってると。
そしてその次に鹿児島から来たと。
北朝鮮による拉致だと報告書を書いたと。
その時点ですね。
と言うことをある大手の新聞にしゃべっているんです。
もう辞めてらっしゃる方ですけども。

私はそのことに付いて関心がありましたのでいろいろ調べたんですが。
その記事には無いんですけども、その報告書は警察庁の長官まで読んでた。
その上の政治家まで読んでたかどうかは分からないですけども。
それから富山で未遂事件があったんです。
曽我さんの事件についてまでは分かってたのかどうか分かりません。
その時に分かってたのかどうか、分かりません。
その人の証言には出てきてないです。

ただ、3組6人の失踪事件と1件の拉致未遂事件については、発生時から北朝鮮によるものだと言うふうに、警察のごく少数の幹部たちは知ってたんです。
そして79年の初めに東京で会議が開かれるんです。
そこには鹿児島県警、富山県警、福井県警、新潟県警からも来るんです。
これをどう処理するか?と言うことになるわけです。
公開しないことが決められるんです。(「え~?」と言うささやき声)
その目的は何なのか?と言うことについていろいろ議論があったそうです。
当時は日本人になりすますための身分を取得するためじゃないか?と思われていたんで。 
戸籍が謄本が取られることがないか?チェックしろと言うことになったんですね。
多分そのことを知ってた何人かの内の誰かが、産経新聞にリークしたんだと思います。
80年の1月に産経新聞が書くわけです。

ですから蓮池さんたち、地村さんたち、増元さんたちの拉致については最初から分かっていたんです。
分かっていたけれど会議をして公にしないと決めたんです。
田口さんのことについてはちょっと分からないですね。
曽我さんのことについても分からない。
めぐみさんのことについてはどうも電波情報があったらしい、と。
でもあまりにも子供なので、と、いうことだったか?のようです。
でもこれは分かりません。
まだ情報が少なすぎて断定的なことはまだ言えません。

しかし少なくとも、あの6人についてと、久米さんについては分かってたんです。
現場で犯人捕まえたですからね。
富山の未遂事件が起きて、海岸でメチャクチャやるような拉致は少なくなったですね。
そのあともちろん、原さん型の国内にいる協力者がおびき出してやる拉致が始まった。
それから日本人に日本人が拉致される、と言うものが今度80年から始まるんです。
今お話があったように海外で日本人に日本人が拉致されるという、犯人のリーダーが20人って言ってるわけですね。
あと17人についてはまだ分からないんです。

海外でいなくなった場合は、家族も特定失踪者のところに訴えようとはなかなか思わな