カテゴリー「市川修一さんを救うぞ東京集会」の記事

2005年3月10日 (木)

市川修一さんを救うぞ東京集会(1)

 市川健一さんのお話 1
 
皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
鹿児島から来ました市川修一の兄です。
皆様方にはいつも変わらぬ支援を賜り、心からお礼申し上げます。
ありがとうございます。
あの~、私は標準語を話せないんです。(少しくすくす笑い)
鹿児島弁的標準語になりますので、あの、聞いてください。

弟修一が北朝鮮に、北朝鮮の工作員に拉致されて27年目になります。
私たち家族にとっては長く本当に辛く苦しい歳月で、現在もその苦しみは続いております。
1978年・昭和53年8月12日。
増元るみ子さんと鹿児島市内から1時間ほど行ったところの吹上浜海岸に「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」と言うことで、二人はね、楽しく出かけていきました。
ところがそのまま行方不明になってしまったんです。

当時、修一は(私の)妹、修一の姉夫婦のところに間借りをしておりました。
その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。
本当に二人は交際して3ヶ月ほどだったと思うんです。
その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。
約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。
妹はあの時のね、修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて、泣くんですよ。
本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね?
本当に顔が、もう忘れることが出来ないと言っておりました。

で10日間ぐらい、10日間ですか。
延べ1500名の人たちが捜索してくださいました。
空にはビーチクラフト、海の沖には巡視船。
浜辺の近くでは漁船が網を引いてくれ、陸地では松林の中を4~5人が並んで、殺されて埋められているかも知れないということで、皆棒を持って突きながら捜索しました。

私は3人きょうだいなんです。
一番下が修一で本当に家族みんなにね、可愛がられていました。
私と修一は9つの年の差があります。
ですから修一の生まれた時は私は小学3年生で。
で私小学生中学生、あの~学校から帰ってくると修一を遊ばせるのは日課でした。
修一をね、背負って遠くで遊び呆けていました。

たまには「修一、お兄ちゃんは友達と遊びに行くから、ここにいなさいよ。ここから絶対動いてはいけないよ」と言って私は遊びに行って。
暗くなっても修一をそこに置いたのを忘れちゃって。
慌ててね、そこに行ったら修一は黙ってなにかひとりで遊んでいました。
私の言うことは何でも聞く修一なんですよ。
風呂にもね私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。(会場より小さな笑い声)
そしたら手が抜けちゃって、でもそれでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。

父も仕入れですとか配達の時なんかに修一を車に乗せまして、連れ回しておりました。
修一が高校時代だったと思うんです。
こっそりと運転させて練習させておりました。
本当に高校3年になった時はすっごく上手になってたんですよね。
今そんなことしたら大変なんですけども、まぁその頃私どもの田舎ではそんなに厳しい取り締まりは無かったからそれを利用して上手になったんだと思います。
修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。
親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、いろいろと手伝いをしておりました。

そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。
大捜索にも関わらず、何も見つからず何も進展しないまま、捜索が打ち切られてしまいました。
日々悶々とした思いで月日が過ぎていきましたけども。
私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。
兄である私がこういう気持ちですがね。
ですから親としては本当に身を切られる思いだったと思います。

それから失踪からですね、2年後だったと思うんです。
東京の新聞記者の方(産経新聞の阿部雅美氏)から聞かされ、その時初めて私は全国各地でアベック失踪事件が起きているのを知りました。

それまでは修一は神隠しにあったんじゃないか?
あるいはUFOに連れて行かれたんじゃないか?
そういうことばかり思っておりました。
富山県でのアベック未遂事件で残された遺留品。
これから見て、おそらく修一さんも北朝鮮に拉致されている可能性が強いと言われました。
以前から拉致、北朝鮮に連れて行かれたんじゃないだろうか?と言う疑惑はありましたけれども、この話を聞いて絶対に北朝鮮に拉致されたんだと、確信を持ちました。なぜ?北朝鮮に連れて行かれたのか?
何の目的なのか?
全然分かりませんでした。
北朝鮮に拉致されたとしても、生きているのか?死んでいるのか?
本当に生死の分からない、これほど辛いものはありません。
弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私のね家では一切、あの~皆思ってるんですけども口には出しませんでした。
口に出していうとお袋が涙をいっぱい流し、また悲しそうな顔をするもので、本当にね長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。

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市川修一さんを救うぞ東京集会(2)

事件から17年後1995年、確か11月の終わりだったと思います。
私が父と店を代わり昼食を取っていたところ、電話が鳴りました。
韓国から国際電話が入ったんです。
以前私の家に取材に来られたテレビ局の記者の方(大阪・朝日放送の石高健次氏)でした。
「韓国へ亡命した北朝鮮の元工作員・安明進さんという方に取材をすることが出来た。
何枚かの行方不明者の写真を見せたところ、その中からこの男性は何回も目撃している。
おそらく修一さんは北朝鮮で生きている可能性が強いです」
と言うお電話をいただいたんです。

お袋がその時はテレビを見ておりましたですけども、私が修一と言う言葉を出したもんですから、サッとこっちの方を見ておりました。
私が電話を切ってから「お母さん、修一が北朝鮮で生きているよ」と言った途端みるみる大きな粒の涙を流し
「どこへねおってもいい、元気でいてくれればそれでいい」
本当にね、私もびっくりするぐらいの大きな大声で泣いておりました。
私も初めてね、母親があのように大きな声で泣くのを見て、本当に母親の愛というものは海よりも深く広いなぁと理解しました。
それからお袋の顔も笑顔が戻り、修一の話をしてもそんなに悲しい顔をしなくなりました。
本当に安明進さんの証言と言うものは家族にとっては本当に大きな光が、希望の光が差し込んだような思いがしました。
それから修一が帰って来ても困らないように、着れもしない20代の頃のスーツを取り出して虫干ししている母親の姿を見ると本当にたまらない気持ちですよね。(少し声を詰まらせ涙声で語る)

それからですね、まもなく家族会が発足したんです。
私は国は国民の生命を守る義務があります。
修一たちを全員を必ずいつかは政府が取り戻してくれるだろうと。
私は期待し、絶対に取り戻してくれるんだと、いつも思っておったんです。
ところが20年間政府は何もしてくれませんでした。
拉致被害者をね、完全に見捨てていたわけなんです。

皆様方もご承知のように2002年・平成14年、世論の力で小泉総理が訪朝されました。
日朝首脳会談が行われました。
私たちは外務省の飯倉公館に集められて、「5人生存8人死亡2人が未入国」と通知されました。
家族は個別に呼ばれ、私と妻とそれと長男3人に植竹外務副大臣より
「命に関わる問題です。
政府としては慎重に確認作業をいたしました。
ところが残念なことに修一さんは死亡されております」

その時私はね、死亡というのは頭に無かったんです。
最悪でも行方不明のままだろうかなぁ?おそらくその方が強いかなぁ?と思っておりました。
ところが死亡と言われたもので、頭の中真っ白になったんです。
そこで・・・あの・・・あの・・・植竹副外務大臣に
「修一は殺されたのですか?病死なんですか?死んだのはいつなんですか?」
と矢継ぎ早にね質問したところ
「何も分かりません」
ただそれを繰り返されるばかりでした。
市川健一さんのお話 4
妻も怒って
「何も分かりませんでは、私は両親にどう説明したらいいんですか?大臣・副大臣は知っていらっしゃるんでしょ?知っているんだったらここで教えてくださいよ!」
物凄い剣幕でね、副大臣に迫っていました。
長男も目を真っ赤にして妻の肩を抱いて
「お母さん、もういいよ、もういいよ」
ってね、一生懸命ね、母親の肩を抱いておりました。(このあたり少し声を詰まらせながら語る)

私はその時安明進さんの証言がありました、っていうのもそれも頭に全然無かったんです。
「親にどう説明したらいいのか。そうだやはり行方不明のままで知らせた方がいい。高齢の90歳の身だからどういうことか何かあったら大変だ」
そう言おうと思いましたらね、なんとちゃんとテレビで放映されておりましてね。
で私は心配して電話したら、家じゃあ妹が、
「一時はしょげ込んでいたけども、元気だよ。兄ちゃん大丈夫だよ」
と言ってくれてね、やっとそれで安心しました。

それで後で分かったんですけど、政府は死亡確認はやっていなかったわけなんです。
北朝鮮の一方的通知をそのまま私たちに伝えただけだったんです。
後日政府の訪朝団が訪朝し、北朝鮮側からの聞き取り調査を行いまして、私たちにその調査書と言うのを下さいました。
その内容を見てとても納得できる内容ではありませんでした。
1979年9月4日元山海水浴場で溺死と書いてありました。
私はえっ?修一は、あの私の田舎は私のときもでしたけど修一の時も小学校・中学校もプールが無く、また山間に住んでいましたからほとんど海水浴に行ったことが無いわけなんですよ。
で家族でも海水浴に言行ったこともないし、修一が泳ぎに行ったことも全然聞いたこともありませんでした。

あぁ、これは嘘だな。
泳げない者がわざわざ海水浴に行くはずが無い。
それと9月4日、水は冷たいですよね?
その水の冷たい時期に海水浴するはずが無い。
それと元山海岸から緯度をたどっていくと東北の岩手県に当たります。
岩手県でも9月になって海が冷たくて泳いでいる人はいないですよね。
それなのに海水浴で死亡としてあるわけなんです。
元山海水浴場には台風も近づいていた訳なんですよね?

私には目撃証言者の安明進さんがいらっしゃいました。
1988年から1991年、あの~修一をね、金正日政治軍事大学で何回も目撃しているわけなんです。
修一の特長なりすべて話されたこと、また赤いネクタイなんかも修一に間違い無いという証言も頂いておりましたから。
それなのに北朝鮮は拉致の次の年には死亡としているわけなんですよね。
本当に全てが矛盾と不自然な点が多く、とても信憑性があるものではなく、捏造と嘘に嘘を重ねるのが北朝鮮の常套手段だと思っております。

昨年5月22日小泉総理が訪朝されました。
私たち家族は10名の未帰還者、それから100人以上ともいわれる北朝鮮に拉致された可能性の強い特定失踪者。
この人たちの救出の道筋を立てて来られることを本当に心から強く切望しておりましたけども。
ところが総理は被害者の国・日本が、加害者の国・北朝鮮に対して、食糧支援の約束をなさる。
また国民の意思で成立した経済制裁法も発動しない、ということをね、約束されてこられたんです。
本当に唖然としてしまいました。
 市川健一さんのお話 5
日本は北朝鮮から主権侵害・人権侵害され続けているのに、なぜ?
なぜ毅然とした態度で交渉が出来ないのか?
本当にね、情けない!腰抜け外交!日本はどうなっているんだ!と怒りがふつふつと湧いてきました。
日本人の拉致を指令したのは金正日なんです。
その金正日は自国民にも恐怖を与えて食料も与えずして、餓死させ続けている極悪の独裁者なんです。
だから日本政府がどんなに誠意を持って米支援しても、特定階層の人あるいは軍人などにそれがまわって国民のね、口には入らないんです。
だから祖国を捨てて脱北者がどんどんどんどん後を続いておりますよね?

独裁者には誠意は通じません。
独裁者の考えることは得か損だけなんです。
私たち家族は北朝鮮に対して経済制裁の発動をして欲しいと強く強く要請しております。
対話の出来ない相手にはもう制裁の圧力しかないと思います。
圧力と言っても軍事力ではありません。
経済封鎖でもありません。
北朝鮮の国民が困らない、金正日が困る人・物・金を止めればいいわけなんです。
それをね、総理は絶対やって欲しいと思うんです。

でなければ、ただ時間だけが過ぎ去っていきます。
私のね、両親はもう90歳なんです。
一刻でも早く弟に会わせたい。
私はその一念でね、気が張っております。
本当に時間が無いんです。
朝私は早く起きるんですけど、両親今日も元気で起きてきてくれるかなぁ?
それだけが毎日心配しております。

今父は足が痛くて、自宅と店は隣同士なんですけど。
私なんかが歩けば何歩かで店に着くのに、親父はそこまで来るのに30分も時間がかかるわけなんです。
本当に歩けば歩くほど足が痛い痛いと言ってね、ほとんど寝ているわけなんです。
あんまり寝ているとボケてしまいますんで心配しております。

北朝鮮の国民もね、金正日の独裁から解放されることを信じております。
皆様方もこの拉致問題を忘れないで下さい。
関心を持ち続けてください。
世論の力ほどね、強いものはありません。
5人の被害者、まずはその家族が帰って来られたのも世論の力です。
私たち10人の未帰還者、また400人以上と言われる特定失踪者、この人たちが全員が祖国の土を踏むまでは戦わなくてはいけません。

頼りにしているのはね、皆様方のね、世論の力なんです。
どうかね、私たちと一緒に戦ってください。
そしてね友達、友人なんかにこの拉致問題の話をしてください。
悪いのはね、金正日です。
よろしくお願いします。(拍手)

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市川修一さんを救うぞ東京集会(3)

市川龍子さんのお話 1
皆様こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
いつもご支援ありがとうございます。
私は修一の義理の姉に当たります。
修一は48年の3月に隣町の県立岩川高校の機械科を卒業しております。
私たち夫婦が横浜から引き上げてきたのが47年10月なので、あまり修一とは長くは住んでおりませんでしたけども。

私の長男と、修一の姉に当たります孝子って言うんですが。
主人から(みると)妹ですね、修一からは実の姉に当たるんですけど。
その姉孝子の長男と私たちとの長男が初節句が同時期だったもんですから。
そのときは修一は臨時職員として働いていたと思います。
郵便局に働いていたんですが。
なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな冑の置物ですか?
節句の、あれをプレゼントしてくれたことがあります。
修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。
それでも可愛い甥っ子のためにと言うことで、修一が贈ってプレゼントしてくれました。
また母にはですね。
初ボーナスで、もう見たくないんですけどここに持ってきました。
修一が初ボーナスで母に大島紬ですね。
これをプレゼントしてくれたそうなんです。(大島紬の着物を広げて見せる。会場より「あぁ素敵」と言う声)
これは一度も母は袖を通しておりません。
もう見ると涙が出るからって言って。
ずっとタンスの中にしまってありました。 今日初めてですね。
取材の方がいらっしゃったので母が初めてこの紬を抱いたんです。
初めてです。
27年にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。
もう本当にですね、酷だったかなぁと思ったんですがここに持ってくるということで。
母が初めて大島紬を手にとって泣いた時の姿は。
早く修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないと言う気持ちがまた決意が、ずんずんと湧いてきたんですけど。(会場のあちこちですすり泣く声、以後最後まですすり泣き続く)
修一さんが初ボーナスでお母様にプレゼントした
大島紬
また私の長女が2歳の時ですか。
修一は、そのうちの女の子がですね。
本当の兄ちゃんがいるのに、修一のことを「兄ちゃん兄ちゃん」というんですね。
まつわりついて、その、うちの長女も修一になついて可愛がってくれていました。

拉致されてからほとんど修一のことを話すことも無かったんです。
さっき主人が言いましたように、本当に禁句でした。
修一に関することはですね。
うちはお店をしているものですから、スーパーの方に切り替えた時にですね。
新装開店をしたのが58年の7月なんですが、盆とか暮れとかですね。
今は下火になってますけども当時は本当にですね、忙しいお店だったんです。
かき入れ時なんかはですね。
鹿児島市内からわざわざから帰ってきて、レジに立ったり、またお客様を送っていったり。

田舎はよく砂糖が出るんですよ。
砂糖の進物って言うんですか?
砂糖が2キロくらい箱詰めで、その当時はその箱詰めもきれいに包装して売り出してましたので。
修一はその箱詰めをですね。
嫌とも言わずに、物凄い数で進物としてね。
砂糖とか進物類を包装してくれたのを、私は覚えています。
お店が国道沿いにあるもんですから、道路を横切る近所のおばあちゃんたちをですね。
お買い物してくださった荷物を、沢山の荷物をですね。
持って、一緒に道を横切って交通安全に気をつけてですね。
おばあちゃんたちの安全を確認して一緒に渡っていって、よくしておりました。

話が飛び飛びになりますけども、また母の話によりますと魚釣りが好きでですね。
近くに大隈湖ってあるんです。
その大隈湖とかですね、錦江湾の方に良く釣りにも行っていたよ、と言って母が見せてくれたのがこのリールなんです。(リールを見せる)
釣竿もあったんですけどちょっと長いから持って来れなかったんですけど、これも修一が帰ってきたら返そうと思っています。

ボクシングの時にあの、大きな袋詰めのものを下げ・・・なんていうんですか?(会場より「サンドバッグ」の声)
私知らないんですが、そのサンドバッグっていうんですか。
それをベランダにぶら下げてよく叩いておりましたね。
そしてあと鉄の塊のこっちとこっちの、(会場より「ダンベル、鉄アレイ」の声)鉄アレイ、それからバネになってるぐぃ~んと伸ばすような、ああいうものをよく使って体を鍛えておりましたね。
目に浮かびます。
ボーナスと貯金をはたいてですね。
修一にとっては一世一代かと思います。
聞きましたら60万とか70万とか言ってましたけど、そんな豪華なステレオですか?
縦式に、あの当時は縦式にステレオを回すところがあって、なんかアンプがあってこう、なんか知らないけど機械がずらっと縦に並んだセットがありましたよね?
スピーカーも大きなスピーカーを4台そろえて、そしてここにこうしてですね。
LP盤って分かりますか?
ドーナツ盤って分かりますか?(笑い声)
レコードなんです、要するに。
CDとかMDとか知りませんからね。
そういうのを良くここにつけて(ヘッドフォンをつける仕草)静かに聴き入ってましたね。
今もLP盤とかドーナツ盤とかは金(かね)で出来たレコード差しって言うんですか?
若い方は知ってらっしゃらないと思います。
それが大事に置いてあります。
それも早く返さなきゃ、家が狭いです。(笑い声)
大きなですね、ガラス張りの書籍棚を自分で買ったんでしょう。
さっき言ってました妹孝子の敷地内に間借りしてたもんですから、そこにちゃんとあったんでしょう。
持って来ましたが。
その書棚の中には世界史とか日本史とか単行本とかいろんな本がね、ずら~っと並んでるんです。
レジを手伝ってくれる時はいつもレジで本を見てたよ、と近所の方が教えてくださいましたけども。
そういう面もあって、目撃証言にもあったようにいつも片手に何かをね。
辞書か何か知りませんが、いつも何かを持っていた。
市川先生はチョン、チョンなんでしたっけ?
なんとか先生はいつも片手に辞書か何かを持っていつも静かに本を読んでました、寡黙な方でしたよ、といわれたんですが。
確かにそうだと思います。
確かに余り余計なことはしゃべりませんでした。

私は義理の姉と言うこともあったんでしょうが、またその時は修一は若いですから、恥ずかしさとか遠慮さもあったんだと思います。
私も当時はまだ若かったですからね。(笑い声)
余計なことはしゃべりませんでしたけども、本当にその通り寡黙な青年だったと思います。
でも同級生によると、今日はですねその同級生もここに来るのをですね。
楽しみにしていたんですけど、なんか議会が始まってどうしても出られない、申し訳ない申し訳ないといってですね。
今日は欠席しておりますけども。
その同級生が言うには、反面悪いこともしてましたよと教えてくれましたけども。
バイクで学校へ行くまでいろんな抜け道をしながら近道を通りながら、遅刻をしたりとかそんなこともしてましたよって、修一の一面を教えてくれました。
横浜からですね、鹿児島へ主人と一時帰省した時があるんですが、そのとき主人と父と修一とで霧島の方にドライブにいったときの写真があるんです。
これは私がたった一枚です。
修一と共に写った写真はこれ一枚なんですよ。(手帳から写真を取り出す)
これは私がいつも手帳の中に入れて持ち歩いているんですけども、私もミニスカートはいてます。(笑い声)
考えられないんですが。
高校2年生くらいだったと思います。
修一と父と主人とで霧島の方にドライブに行ったことがあります。

修一は母が30代後半の頃に生まれた子ですので、歳をとって出来た子は特に可愛い、まぁ子供に変わりはないんですけども、特に可愛かったんだろうと思います。
当時はお店が忙しくてですね。
母はいつも嘆いております。
「余りかまってやれなかった、かまってやれなかった」といっております。
でも子供たちのために一生懸命、本当に一生懸命あの働いていた母でしたね。
修一が社会人になってからですね、それはそれは本当に親思いの修一だったよって、修一の姉の孝子が言っておりました。

主人とは9つも歳が離れていますから怖い存在だったかもしれないし、話が合わなかったかもしれませんけども4歳違いの姉、孝子って言うんですけども。
「姉ちゃん姉ちゃん」と何でも相談していたと聞いております。
鹿児島市内に住んでいた、姉のところから修一はいなくなったんですけども。
当時は電電公社に通勤しておりました。
食事も姉家族と一緒にとっていたんですけども、今日のこの日にですね。
姉の孝子も「出席して語りたい」と言ってたんですけど、今病に伏せっております。

修一が北朝鮮にいると分かってから、母はですね、(昭和)60年だったですかね。
韓国の38度線の鉄柵の前でですね、言っても聞き苦しいかも知れませんけども。
鉄柵の前でですね、あらん限りの声で叫びましたよ?
「修一どこにいるの~!顔を見せて~!声を聞かせて~~!」
ってですね。
むこうの方では断髪的に号砲がなり響くんです。
聞こえるはずも届くはずも無いんですけども、それでも母は叫び続けました。

今にも鉄柵を乗り越えてですね、修一を探したい、連れ戻したい。
そんな心境だったんでしょう。
もう後を振り返り振り返り、空しく国境線38度線を後にして日本に帰ってきましたけども。
子を思う親の気持ちは何処の国でも本当に同じです。
気が狂ってもおかしくないぐらいの状況の中で27年過ぎます。
私だったら気が狂っておりますね。
よく耐えてくれていると思います。
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市川修一さんを救うぞ東京集会(4)

市川龍子さんのお話 2
ご存知のように2002年の9月17日、本当に私たちにとっては大打撃でした。
植竹(外務)副大臣に本当に食って掛かりました。
主人はちょっと穏やかって皆さんおっしゃるんですが、私はもう怒りがもう頂点突き抜けてるんです、本当。
だから植竹さんにも食って掛かりました。
「殺したんでしょうが!」
ってですね。
植竹さんに言ってもどうしようもないんですけど、それくらいどこに怒りをぶつけていいか分からなかったんです。
2002年10月15日ですか、5人の方は帰って来られました。
あのメンバーのなかに修一がいたらなぁって。
もしかしたら安倍さんの後ろから出てくるんじゃないか?
誰か一人降りてくるんじゃないか?修一が降りてくるんじゃないか?って。
そういうかすかな期待もその時ありました。
でも残念でした。
その時は帰国者の喜びの涙と、無念の涙が入り混じった15日でした。

いつも私が歌を言うんですけどもこれも皆様ご存知でしょうか?
 どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
 すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
 星も凍てつく雪山に 母はひな鳥捨て置かぬ
 腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
 千里万里はいとわない 可愛い我が子に会えるなら
 親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯がゆさよ
 これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
 生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ 
この歌があります。
本当に早紀江さんの心情、有本恵子ちゃんのお母さんの心情、うちの母の心情を本当に歌った歌だと思います。

でも安明進さんの目撃証言の後から、さっき主人が言いましたように母は修一の衣装箱を開けるようになりました。
毎年虫干しをするようになったんです。
今となっては着れる状態の服じゃないです。
センスも違いますし。
それでも毎年毎年、母は衣装箱の中から虫干しするようになったんです。
母はもちろんですけども、私たち夫婦も23歳のあの修一のこの顔しか私たちには思い浮かびません。
また私は自国民の救出に手をこまねいている日本国にあきれ果てて、腹を立てて、情けなくて。
拉致の実態を知ってもらうために横田代表たちと一緒にロスまで行かせて頂きました。
ロスの市民は怒っておりましたよ?
「それでも日本国か?日本国民か?どうしてあなたたちがここまで来なくちゃいけないんだ!」
と言ってですね、怒り狂っていらっしゃいました。
でも同情の涙、共感の涙に変わって、「ロスから修一さんたちを助け出してみせる」といってですね、固い約束もしていただきました。

ブッシュ大統領に3回手紙を書きました。

 ・助けてと頼みの綱はただ一人 三度(みたび)の便りに願いをこめて

本当に3回手紙を出しました。
それから自負かどうか知りません。
その、まあ、ブッシュの態度もちょっとこう、変わってきてるんじゃないか?と思ってるんですけども。(笑い声)

胡錦濤さんにも手紙を書きました。
でも中国に今馬鹿にされている状態ですよね?
これで日本国国家と言えますか?
私はこの後いつも主人に怒られるんです。
「お前は言い過ぎだ」と言われるんですよ。(笑い声)
「もう国のこと政府のことは西岡先生らに任せておけばいい」って言うんですけど、私は怒りが収まらないんです。
本当ですよ?
分かっていただけますよね?(拍手)

主人の父も90になるんです
ただひたすらわが子の帰りを待っているんです。
毎朝発する言葉はですね。
「お父さん、修一が帰ってくるまでは何としても元気な体で修一を迎えてやりましょうね」って言って。
自分で無農薬の野菜を作って食べていますよ?
お互いに食事に気をつけてですね。
お互いに二人で一人前だって言ってかばい合いながら、頑張っています。
30年同居しています、30年以上です。
もう手に取るようにわかります、私には。

もう切なくなってくるんです。
朝に夕な仏壇に手を合わせております。
母の背中もだんだんだんだん小さくなってきております。
食卓や部屋のあちこちとか庭の池の周りとかには、可愛い蛙の人形がですね、あちこちに置いてあるんです。
「修ちゃん帰る。必ず帰る」って私が全部、どんなちっちゃな蛙にでもですね。
もう何百個ってあります。
ちっちゃな蛙にも、手書きをしてですね。
その文句を入れて、あちこちに蛙が置いてあるんです。

最初この蛙を見たとき、母が泣き出したんです。
「泣くんだったら蛙引っ込めるよ、私は!」って私言ったんです。
そしたら
「いやそうじゃない龍子さん、このおどけた蛙の顔を見て、ちょっと慰められて笑みが出てくる」
って言ってですね。
泣き笑いをしております。
もう本当にもう私はたまりません、もう。

署名活動なんかでですね。
小さな子らが署名してくれたり、たどたどしい字で署名してくれたり、なけなしのお小遣いをポトンと入れたりしてくれます。
私はそんな子供たちが、子供や孫やひ孫がですね。
「安心して安全に遊べる日本列島にしてあげるからね、必ずするからね」って約束します。
それでなければ400人以上と言われてますが。
その400人が「日本人は目を覚ましてくれ!」って叫んでるんじゃないかな?って私は思ってるんです。(拍手)

るみ子ちゃんのお父さんが残念ながら亡くなりました。
私はるみ子ちゃんの(お父さんの)霊前で弔辞を読ませていただきました。
「お父さん、絶対に世界の世論を高めてるみ子ちゃんを助け出してみせるから、安心して逝ってね」
って、私は弔辞を読ませていただきました。
その通り今ボチボチとですが、北朝鮮の人権問題に世界が注視するようになっております。
なんとしてもこの独裁政権は打倒しなければ。
私たちは北朝鮮全体を打ちのめせって言ってるんじゃないんです。
むしろ北朝鮮の一般民衆を救ってやるのは今だと私たちは思って、この活動を続けているんです。(拍手)

今はですね、話は飛び飛びになりますが。
歩くことも困難になった父ですが私は車椅子を押してでもですね、羽田のタラップの下で修一を迎えさせてやりたい。
また母にはこの大島紬を着せてですね、修一を迎えさせてやりたい。
ただその一心で夫婦して頑張っておりますが。

いつも母が、私もお勤めしております。
お勤めの休みを返上して署名活動とかいろんなところに出かけて行きます。
母がいつも言う言葉は、
「気を付けて行ってね、頑張ってね、ご苦労さんね、お願いしますね、頼みますね」
って言って送り出すんです。
しっかり留守を守ってくれています。
本来ならば子や孫やひ孫に囲まれて楽しい余生を送っている歳です。
一日も早くこの母にですね、一刻も早くです。
母の胸に、病に伏せっている姉の胸に、弟修一を抱かせてやりたいただそれ一心なんです。
そして拉致被害者、特定失踪者、日本人全員の無事の帰国を、その日まで本当に皆さん今一度もう一歩、皆さんの声で世論の高まりで助けていただきたいと思います。(拍手)

短歌が好きなので詠ませてください。
これも聞かれたと思いますが、極寒の地でまた27年目の冬を迎えました。

 ・巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け春を信じて
 ・北の果て木々(木々だと思うのですがここだけはっきり聞き取れず)を偲びて
  幾年(いくとせ)か 老いたる母のしわの重さよ
 ・故郷(ふるさと)に想いを馳せる弟よ 救いの手立てにいらだち募る
 ・遅々として進まぬ異国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は
 ・彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
 ・老いていくわが身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱く(いだく)夢見て
 ・彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして
 ・またしても騙され続ける日本国 国家の誇り取り戻せ今

皆さんもう一度、今一歩ご協力お願いいたします。
ありがとうございます。(拍手)

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