カテゴリー「寺越一家を救うぞ東京集会」の記事

2005年4月14日 (木)

寺越家を救うぞ東京集会(1)寺越昭男さん

寺越家を救うぞ!東京集会
         2005年4月14日(木)

※ぴろんさんによる、丁寧なテキストです。会場の雰囲気を感じ取ってください。


 寺越昭男さん(寺越昭二さんの長男)のお話

皆様こんばんは。
私は今から42年前、昭和38年。
能登沖で、わずか海岸から200メートルのところから拉致をされた寺越昭二の息子です。
長男です。
ここにおるのは次男で名前は北野になりますけども。
養子に行きましたんで、北野になります。

事件は、私らはあの、本当にわずか海岸から200メートルのところから、何で800キロも離れた北朝鮮の清津というところに行ったか?と言う疑問。
そして父親が本当に北朝鮮で死んだんか?と言う疑問。
事件の真相を知りたいと言うことから2002年10月に政府に対して、寺越事件の真相究明と拉致認定・遺骨の返還を求めて声を上げさせていただいたわけです。

事件の当時は私は中学校の2年になったばかりでした。
5月の12日、私が中学校の2年で弟が小学校の6年、三男が小学校の4年でした。
小さかったせいもあるけども、本当に何で死んだんか?と。
何でこういう事になったんか?という思いというのは、今までずっと持ち続けて来たことなんですけども。
ひょっとしたら当てた船の当てた犯人が、怖くなって3人をどこかに殺して埋めたんじゃないか?とか。
常にそんなことを思っていましたんですけども。

17年後に突然北朝鮮から手紙が、叔母の栗原豊子さんのところへ来たわけですね。
それまでは本当に死んだとばっかり思ってたわけなんですけども。
突然北朝鮮から手紙が来たと言うことで、死んだ人間が生き返ったというような思い。
でもこの手紙には一番最初の手紙には父親のことは何も書いて無いんです。
「あるとき突然3人で北朝鮮で暮らすことになりました」と。
その後、「外雄さん・武志は結婚して幸せに暮らしております」と。
で父のことは何も書いてないんです。
3人で一緒に北朝鮮に来たのになんで父のことが書いてないのか?と。
そのこともきちんとと言うか、そういう思いはあったんですけども。

取りあえず北朝鮮から手紙が来た言うことで本当に大騒ぎになりました。
どういうふうに対応していいかというのは、やっぱり北朝鮮がどういう国か分からない国。
それから手紙なんかもおそらく検閲されているんじゃないか?とか。
こっちから変なことを書いたら武志とか外雄さんに何かあるんじゃないか?とかっていう。
そういう意見というか議論をして、差し障りの無いように、「うちの親父がどうしているか?」とかいう返事を書いたわけなんですね。
まぁ私は書いてませんけど、その手紙が来た栗原さんの所から手紙を出して。

2通目の返事にうちの親父は5年後に病気で亡くなったということで。
私らはその時に、ああやっぱり親父は死んでたか、と。
親父は心臓が悪くて、弁膜症とかって言う病気を持っとって。
力仕事なんかすると心臓の発作で苦しくなったりして自分で動脈注射をしてかってやってたんですね。
もし北朝鮮に行ったのなら私はそんなに長生きはしなかったやろな、とは思っていたんですが。
まぁ、とにかく死んだと言うことを手紙で知らされまして。

それから私らはなんと言うかな。
武志・友枝さん親子のことを見守って。
北朝鮮の方に私らが目を向けると言うことは、情けないと言う思いがあったんでとにかく沈黙をして行こうと。
これは私の考え方ですけども、弟たちも多分それと同じ考え方ではなかったんではないかなと思うんですけど。
一生懸命友枝さんは運動しながら、外務省行ったり警察行ったり、まぁあちこち苦労しているのを私らは見てました。
まぁ応援出来れば良かったんやけども、私らも経済的に余裕がなかったと言うか。
子供が出来て小さい子やったもんやし、本当に申し訳ないと思いながら、見守るしかなかったんですね。

お袋は昭和42年かな?
母親は親父なくしてから、いなくなってから私ら3人を育てるのに本当に苦労して。
42年に子宮筋腫になりまして手術をしたんですけども、それが元でホルモンのバランスを崩したんじゃないかなぁ、と思うんですけども。
寝たり起きたりの生活になったんですね。
それもあって経済的には本当に苦労してきました。

お袋は「親父の遺骨を見るまでは死んだとは信じられん」と、言うことで。
本家で葬式出したんですけども、葬式にも出なかったし。
その思いはやっぱり遺骨を見るまではと言うことで、淡い期待は持ちながら丁度2002年の2月に最後にはパーキンソン病で亡くなったんですね。
その2002年と言うのは私らにとっては2月にはお袋が亡くなり、そして9月に小泉訪朝、そして金正日が拉致を認めた。
そして武志が一時帰国したと。

ここが重なって私らは声を上げようという。
声を上げると言うのは親父の骨を返して、母親と一緒にお袋と一緒に墓に入れてあげたい。
そういう思いとそれから事件の真相と言うのをハッキリ知ってかって。
知る権利というのは私らにはあると思うし、お袋にもやっぱりそれを報告しなければいけないやろうし。
もし父親が本当に安明進さんの証言どおり殺されておったら、父親の無念と言うのを私らは晴らさにゃいかんと思うし。
いろんな思いから2002年の10月10日に声を上げさせていただいたんですけども。
この2002年と言う年ちゅうのは、いろんな事が重なって私らが声を上げるきっかけになったと思います。

2002年に政府に対して外務省には、事件の真相究明そして遺骨の返還・拉致認定を求めて声を上げさせていただいたんですけども。
まぁ本当に恥ずかしい話なんですけども、その時は私らは家族会というのも知らなかったし。
それから救う会も知らなかったし。
北朝鮮と言うものから目を背けながら生活してきたと言うような感じになっとるもんで。
東京へ出て来てから驚くことばかりでね。

拉致って言うのはやっぱり個人がすれば犯罪。
しかし一国のリーダーが拉致をさせたと言うことは犯罪じゃなくて政治問題なんですね。
その辺私らには一番歯がゆしいと言うかどうにもならんことなんで。
政治問題ではなくてやっぱり犯罪として日本の政府が北朝鮮に対して断固として解決を努力すべきだと思うし。
そのために圧力というものをかけなければいけないなぁと思います。
個人で拉致をすれば刑事罰があると思うんで、国が拉致をすればそれ相応の制裁というものがあって然るべきべきではないかと思います。

拉致問題と言うのはこの2002年から2年間ちょっとですけども活動して、奥が深いというか。
拉致だけでなくて教育問題とかそんないろんな問題が関わってくるもんで。
本当に個人では何も出来ない問題だと思ってます。
個人では出来ないというのは私らもそうやし、国会議員の先生方も一人一人は個人なんで。
拉致問題解決には全国民が一丸となって、活動って言うか。
解決に向けての運動をしていかなければならないんじゃないかな?と私自身は思っています。

今現在の私の心境は、寺越事件というのは私らが声を上げてから何一つ解決されてないんですね。
真相究明もまだ分かってない。
拉致の認定もされてない。
遺骨の返還もされてない。
本当に政府は私らに対して真剣に取り組んでくれているんかなぁ?と、いうふうに現在では思っています。
遺骨の返還としては外務省の斎木審議官が一生懸命取り組んでくれているので、私らとしては本当にありがたいなと感謝しております。
その他のことについては何一つ進展していないので、残念なことだなぁと思っております。

ちょっとまぁ写真の説明をさせていただきたいと思うんですけど。
この左の一番上が父の昭二です。
その下が叔父の外雄さんです。
親父の隣が従兄弟の武志です。
現在の武志がその下です。
その横が友枝伯母さんです。
事件の発端となったのが真ん中のあの船ですね。
清丸と言いまして大きさが1.5トン。
本当に小さい船です。
そしてその横が亀城(クソン)市にあると言われている父の墓なんですね。

この墓にはちょっと奇策がありまして。
2002年の10月に従兄弟の武志が始めて39年ぶりに日本に一時帰国。
それは寺越武志としてではなくて、北朝鮮の平壌市の職業総同盟副委員長としての役職と言うことで金 英浩(キム・ヨンホ)ということで一時帰国出来たわけなんですけども。

その時に私が武志と地元の歓迎会で話をすることがあったんですね。
わずか2~3分だったんですけども。
私は武志に「父親の墓には何と書いてあるんや?」と。
私としては父親が朝鮮籍を取ってないという認識があったもんですから。
寺越昭二の名前なのか?それとも北朝鮮の名前なのか?知りたくてそういう質問をしたんです。
武志は即座に「自分の名前を書いてある」と言ったんですね。
「どうや?死んでもおらんがに自分の名前を書いたがんな?」
という話をしとったら、そこへちょうど友枝さんが入って来て「ここの席でそういう話はするんでないから」と言ったもんで話はそこで終わったんですが。

その後武志が北朝鮮に帰って二週間後くらいですかね。
武志の妹の正枝さんが北朝鮮へ行ってこの墓の写真を撮ってきたんですね。
一番最初にこの墓の写真を見たとき、「えらい新しい墓やな?」と思ったんです。
帰ってすぐに作ったような墓じゃないかなぁ?と。
「この墓が何で新しい墓なんや?」と友枝さんに聞いたら、「武志は偉くなったんや」と。
「昔の墓やと恥ずかしいから新しい墓に作り変えたんがや」と言っておりました。

私らはその時には気が付かなかったんですけど。
ここには父の誕生日と死んだ日とが書いてあるんですね。
1927年3月30日生まれ。
1968年の3月30日死亡って書いてあるんです。
うちの父親は誕生日は3月31日なんです。
一日違うんです。
何で一日違うんか?と。

本人が生きとったらまず一日違うことなんて絶対に無いことなんですね。
生まれた日と誕生日とが違う人は広い世間には多分何人かおいでやと思います。
うちの嫁はんもそうです。
ましてうちの父の死んだのは、誕生日の前の日に外雄さんが「明日誕生日だから今晩祝いをしよう」と酒を買ってきたりして、皆で祝いをしてがって次の日の誕生日の朝にベッドから落ちて死んでたと、言うことなんですね。
北朝鮮では目上の人の誕生日は毎年するんやと。
ということは5年間おったんなら少なくとも5回はやっとるわけです。
で5回もやっとってがっておりながら尚且つ誕生日が一日違うというのはどういうことか?

親父が誕生日を間違うわけ無いし、武志は誕生日を知らんと思うんです。
子供の私らでさえ知らなかったんです、誕生日を。
うちの母親は知ってました。
そじゃけ誕生日を知ってる可能性があるのは、外雄さんか友枝さんか、ふたりのうちのどっちかなんですね。
どっちかが誕生日を勘違いして覚えておったと思うんです。
でこの墓が、なんで父親が北朝鮮で死んだということを工作するための材料なんですね。

私らは本当に遺骨があるんなら返して欲しい。
北朝鮮の政府も遺骨があるんならさっさと返せば寺越事件は救助で、多分私は落ち着くんで無いかな?と思うんです。
私らは納得しませんけども。
政府間ではおそらく寺越事件を本当に、今だかつて何にも進展してないってことは寺越事件はこのままうやむやにしておきたいと。
で、国交正常化がすればおそらく武志は今の体制では拉致だとは言えないから、寺越事件は救助でもう収まってしまうと思うんです。

そういう危険性というのは私たちも常に持ってますし。
そうならないためにも今一生懸命活動しているわけなんですけども。
政府に対して寺越事件が、真相究明するには拉致なのか?救助なのか?と言うことを北朝鮮に常にボールを投げつけんといかんと思うんですけど。
今だかつて全然そういうことは一度もしてはいないんじゃないか?と思います。
これが本当に残念と言うか。
拉致の特別委員会でも私らは寺越事件と言うものを本当にいっぺんでも取り扱って欲しいな、と今の思いですね。
真相究明に少しでもそれがつながるなら本当に嬉しいことやし。

もうひとつ大事なことは、武志が今の状態やといつ何時抹殺される可能性があるかも知れんということです。
北朝鮮が拉致を認めれば武志の命は絶対にまず保障されるでしょうけども。
日本の政府もやっぱり拉致を認定してがって武志の身の安全と言うものを北朝鮮に保障させなけりゃいかんと思います。
北朝鮮側に対してそういう意思表示をして欲しいと思います。
もしこのまま武志が死んでしまったら私らはそれで終わりですし。
寺越事件も永久に闇の中だと思います。
そうならないためにも一日も早く拉致認定、そういうものが大事になってくるんじゃないかなぁ?と思います。
私の考えは以上です。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京集会(2)北野政男さん

北野政男さん(寺越昭二さんの次男)のお話


次男の北野政男でございます。
今日こうして寺越事件だけを取り扱って発言させてもらえると言うこと、本当にありがたく思っています。
そして家族会・救う会・一般の方々こうやって多く集まっていただきありがとうございます。
うちの親父のこと兄弟二人で話すと言うとなかなかダブる面も多くあると思うんですけども、それはご理解していただきたいと言うことと、私も何分不慣れなものですから途中で頭の中が真っ白になるかもしれませんがよろしくお願いします。

今日は私は寺越事件の関係者5人。
うちの(兄弟)3人と友枝さんと武志との、「記憶」という面で寺越事件を考えて見たいと思います。
事故があったのはここにも書いてありますとおり、昭和38年ですよね。
記憶と言うのはこの38年を境としてそれ以前・それ以後という事に2分に分けられますよね?
うちら兄弟3人は当然子供ですから親父の記憶は持っております。

しかしながら親父は出稼ぎ漁師といいますか、1年に数ヶ月しかいなかったんです。
あとは大きい船で漁に出てて、それが38年から以前の記憶は4多分~5年しかないと思います。
その4~5年の間の3~4ヶ月親父と一緒に暮らした日で、通算して1年前後しかありません。
でも記憶は生活した記憶やとか、親父の特徴やとか、親父が身に着けてたものとか、と言うものはうちらでも二人は覚えております。
お風呂へ行って3人で行って体を流してもらって、親父のごつい手で頭をが~っとやられるのが痛いもんやから親父が嫌でお袋で。
そういうなんていうか生活感に溢れた記憶は持っております。
13歳前後の前の記憶で持っております。
ところが弟の美津夫は親父の記は一切持っておりません。
うちらの記憶の中の会話には入れないと言うことです。
仮に、ここに名前書いてもらったんですけど、兄貴と俺がゴルフボールかピンポン玉くらいの記憶を持ってると仮定しますと、美津夫は全く無しなんです。
38年以前の友枝さんはもう大人ですよね?
家が隣同士ですので嫁同士話をしていた。
だから親父のことはバレーボールかバスケットボールくらいの大きな記憶を持っているということです。

私たちは12~3歳の子供ですから大人の話には入れませんから。
この船はいくらで誰から買ったとか、いつ買ったとか、それから親父はどこの船に乗っていて何月に帰って何月に出かけたとか?
要するに大人の話は私たちは全く知らん。
それこそ親と子供の記憶しかありません。

武志はと言うと、当然別棟ですので叔父と甥の関係ですわね。
子供ですからしょちゅううちの親父とは会っていません。
船を買ったんも多分事故の半年前後前ですから、そんなに親父とは会ってない。
その中で土曜日・日曜日の休みに一緒に船に乗って何回か出かけた。
それくらいの記憶しかないはずです。
ですから極端な話、武志の(昭二さんの)思い出はビー玉かパチンコ玉それくらいの記憶しかないと思います。
一緒に住んでませんから。

これが38年以前の記憶ですよね?
それで事故後は武志の記憶と言うのは寺越昭二の記憶と言うのは、365日寝食を共にして5年間一緒にいたと言う。
13歳から5年間とすれば18まで、5年間共に生活をしていた。
そこの中に外雄さんもいた、ということですね。
と言うことは、バレーボールくらいの記憶よりももっと大きい、アドバルーンくらいの記憶を持っていなきゃならないということです。
うちらの子供の生活していたそんな細かい記憶も含めて、持っていなきゃならないという事です。

ところが武志のみが知りえる記憶ですよね?事故以後は。
うちらは全く知らないというわけですよね、朝鮮に渡っての記憶というのは。
私らは全く知らない。
友枝もいくら親父の記憶を持っていても、朝鮮へ渡ってからの記憶は当然ありません。
これが記憶の私の考え。

これはちょっと置いておいときまして。
次、ここに年表書いてもらったんですけど、38年に事故が起きた。
それで43年に昭二が死亡、墓を作って。
その後50年に亀城の共同墓地へ墓を入れたと。
多分昭和50年でそのままの墓なのか?
今の兄貴の言った新しく作り変えたのか?その後問題になってきますけど。

1987年に手紙が届いて、(友枝さんの)訪朝が始まりますよね。
友枝さんが訪朝して2回目の時に、友枝さんと(武志さんの)妹の正枝さんが訪朝しております。
遺骨の代わりと言って砂の袋を持って来ております。
その後私たまたまビデオに録ったものがありますけども、骨の代わりと言って砂袋を持ってきました。
その後友枝さんは何回も訪朝しております。
金正日が拉致を認めてその後、友枝さんの武志の戸籍復帰とかそれから武志の一時帰国の事とかありまして、2002年に武志が一時帰国を果たしました。
その時兄貴が言った帰国してから墓の話をしたら、こういう墓が出てきたと言うことですけど。

武志が帰国した時にもちょっといわくがありまして。
うちら家族、拉致を声を上げる上げないと言うことを話していたんですけども。
その時に友枝さんのところへ電話して「私たちも迎えに行きたいんですけども」と話をしたんです。
友枝さんから「警備が厳しくて小松空港へは入れませんから」とお断りでした。
でも一応無駄でも行きましょうということで、家族が行ったんですけども。
警備は厳重でしたけども、まぁ入れました。

入ったんですけども、武志は正面のロビーから出ませんでした。
私たちが迎えに行ってるときにロビーから出なくて横の通路。
まぁ非難通路という何か他の通路か、そこから出て行って友枝さん側の、あの人は旧姓ハタナカって言うんですけども。
ハタナカ一家の出迎えを受けて寺越一家の出迎えは受けずに、小松空港から出て行きました。

歓迎会が色々ある中ですけども、その中で兄貴が仕事の関係で歓迎会出たわけです。
そこで墓の話が出て、(武志さんが北朝鮮に)帰ってからこの墓が出てきたんです。
そういうことで友枝さん側の一家でパーティやら歓迎会やらやって、一週間ほど過ごしたんですかね?
それから何にも言わずに帰ったんです。
私たち寺越一家とは全く一切の面識無し。

手紙来てから寺越の人たちは皆から集めて借財を送って、生活の足しにということで何回か送ってるんです。
当然そういった御礼とか、少なくとも寺越の挨拶くらいはしなきゃいけない。
それなのに全く無かった。
そして帰った。

その前に雑誌の取材の中でうちの親父が手が器用だと言うことで話をした。
その後で出てきたのが確かにこういった折り紙細工。
これも私たちが声を上げてから出てきたことです。
しかしながら、今これ綺麗ですけども。
親父から教えられて作ったと言う紙細工なんですけども、38年当時の北朝鮮の紙質って言うのはこんなようなもんです。(一通の手紙をかざす)

これは向こうから外雄さんたちが送ってきた手紙なんです。
中身はって言いますと、昔のわら半紙のようなものに書いてあるんです。
これが当時の手紙なんです、実際の。
こんな時にこんな綺麗な、ね、なんていいます?折り紙?があったかどうか?です。
これを出してきています。
私たちが声を出してから。

ただ親父に教えられて作られたと持ってきていますけど。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志さんに教えたと」)
いや、親父から教えられて武志が作ったと。
ちょっと待ってください。
(隣に座る救う会石川事務局長大口さんの声 「武志君が教えてもらったやつを武志さんが折ったと)
そうです、で持って来ていますんですけど。
つまり言いたいのは、こんな紙質で昔はあったのかどうか?と言うことと。
それからいつから折り始めて、誰に売って、いくらになって、そのお金を何に使ってということが、生活に密着したことがまず出て来ていない。

(兄の寺越昭男さんがマイクを取る)
ちょっと補足させていただきます。
弟の言いたいことは、実は手紙が来てから17年間。
父に関しての情報っていうのは一切無かったんです。
2002年10月まで。
(友枝さんが)二回目の訪朝をして「外雄さんから託ったよ」と言って、「これは墓の土なんや」と土をあずかった、だけ。
後何回か訪朝してますけど、父に関する情報は一切無いんです。

それで2002年私らが声を上げてから私らが運動する中で、友枝さんが今の墓の写真を出してきたり、父親から武志が習ったいう折り紙細工を北朝鮮から持ってきたり。
いかにも父が生きとったよ、という要するに証明というかアリバイ作りの工作みたいなものをしてくるわけです。
で、これがもし本当なら今までにとっくにそういう話があってもいいんじゃないか?と私らは思ってるんですが。
そういうことを弟は言いたいんじゃないか?と思いますけども。

折り紙細工もそりゃ本当に父親から習ったのかもしれん。
しかし昭和38年、拉致された当時の北朝鮮の経済状態というものを、これは24年後に来たものやからそれ以前はもっともっと悪いわけです。
タバコの空き箱で作ってがって、売ってがって生活の足しにしたというけども、そんなもの折り紙細工の作ったものを、北朝鮮の人が買いますか?
全然私らにとっては「なんや?それ?」と言うことでしかないわけです。

私らは友枝さん・武志を批判してるんじゃないんです。
あくまでも北朝鮮側が友枝さん・武志に対してこういう工作をしなさいと。
生きとったという事を証明をしてということを、おそらく言われてると思うんですね。
それに対して私らはいちいちああやこうやと言うて反論はしません。
友枝さん・武志さんは被害者。
本当に逆に言うと本当にかわいそうやな、と。

42年経って武志は本当に日本に帰って生活もしたいやろうと思うけど、子供が出来て孫が出来て家族が大きくなればなるほど、大地に根っこが生えたみたいでどうにもならんわけです。
だから武志のことを考えると、日本政府は救助なら救助でいい。
どうして自由に行ったり来たりさせるように、北朝鮮に要求しないんですか?
そうでしょ?
もちろん前回来た時は、二人の通訳として北朝鮮から来た監視役が24時間付きっぱなしだったと思います。
そうではなくて自由に日本に来たい時に来て、帰りたい時に帰る。
そういうふうな環境に武志をしてやりたい。

もうひとつ忘れていかんのは外雄さんの家族もいるわけなんですね。
外雄さんの家族もやっぱり幸せになっていただきたいと思うし。
やっぱりそういうことを、私らは運動のひとつとして。
これは拉致の被害者全員に言えることやと思うんですね。 
おそらく早いうちに拉致された方は武志のような環境になってる人が多いかもしれん。
そうなった場合に日本の政府として本当に自由に日本に帰れるようにするのが、日本の政府の仕事やと思います。
このことも含めてこれから政府に要求していきたいと思います。

(北野政男さんにマイクが戻る)
元に戻って、ちょっと横道にそれましたけど。
これがうちの事件のあらましでしたね。
またちょっと記憶の方に戻っていきたいと思うんですけども。
本来なら武志が北朝鮮での5年間の生活を、大きいアドバルーンくらいの量を覚えていなきゃならない。

逆にうちの(三男の)美津夫は全く記憶がないと言いましたけど。
これは18歳前後の時に養子に行って他の姓に変わって、寺越のうちらの情報を全く受け入れる状態じゃなかった。
それで20年25年経ったら、親父の記憶を全部ポンと飛ばしたと。
思い出そうとしても思い出せないんです。
(兄)二人がやっていても思い出せない。
記憶が飛んでしまった。

もし寺越武志が事故の時に、うちの親父が事故で安明進氏の言うようにして海に捨てられたと。
銃殺されて重りを付けて海に沈められたという事になると、寺越武志はそれ以後の親父の記憶はないわけです。
さっきアドバルーンくらいの大きさの記憶があるといいましたけども、これが本当なら親父の記憶は全く持っていない。
当然。
そして尚、ああいう事件の後ですから、思い出したいと思っても思い出せない記憶ですから。
当然あれだけの出来事であれば忘れてしまいます。

そしてさっき記憶、(武志さんが)ビー玉かパチンコ玉かというくらいの記憶を事故の前の記憶を持ってるけど。
うちの美津夫でさえ石川県・日本に居て出さえ、記憶が飛んでいるのに、ちっさな記憶を武志が持ってるわけが無い。
当然親父が海に沈められた。
外雄さんと武志で二人で北朝鮮に渡ったと。
だから記憶は全く持っていけない。
ゼロだと考えられるわけです。

そのなかからこうやって親父の誕生日、それから器用だったと折り紙を出してくる。
北朝鮮も親父のことをまったく知りませんから、出してくることは不可能。
全てこれは友枝さんが北朝鮮に行って、北朝鮮と協議の上で墓を作り、こういう物を出して来ております。
もしうちの親父が北に向こうに渡ったら、まずこういうものは出てくるわけが無い。

これはちょっと貰ったんですけどもね。
この中で何月何日だ?
2002年の10月3日に武志が帰ってきて、小泉首相と面会しております。
その中で「故郷の記憶が出てこない」という発言をしております。
これは、小泉じゃない、森前首相だ。
それなのにうちの親父の記憶を持ってることはありえない、と思います。

それを裏付けるのはこれはちょっと出してもらったんですけども、皆さん報道の方は調べになれば分かると思うんですけども。
(友枝さんの)訪朝回数。
最初の頃は3年に1回とか、2年に1回とかっていうそういう回数でしたけども。
1999年くらいからだんだん多くなってきております。
この年数で3回。

そして2000年に2回。
3回4回とか2回とか、だんだん多くなってきて。
これは武志の書いた「人情の海」と言う本です。
こう言うものを書いたり。
それから友枝さんの本が出たりしてますので、そういった面でだんだん回数が多くなってるんじゃないかと。
ましてや武志が一時帰国を果たした後、5回6回と言う訪朝回数を重ねております。
これは帰国して墓石が出て折り紙が出て、それを製作するために友枝が行ってやってきた。
つまり親父は北朝鮮には全く上陸していないと言う証拠であります。

記憶の面から私はそういった推察が出来ると思っております。
墓が遺骨があるとか無いとか、当然なければ何だかんだ言って出してきません。
出せません。
出してこないんじゃなくて出せないんです。
一回目の帰国の際に私たちに会わなかった。
寺越家に会わなかった。
会わないんじゃないんです。
会えないんです。

寺越家から寺越昭二の質問をされると武志は何一つ答えることは出来ない。
だから、会えない。
この人情の本とか友枝の書いた本とか、島崎(譲 社会党代議士=当時)先生が書いた冊子とか、親父の生活感が溢れるものは何も無い。
これまで私たちは言ってきましたけど、この中にも出てこない。
書かないんじゃなくて書けない。

いくら友枝であっても5年間、向こうの5年間のこれは事故以後のことですよね?
事故以後のことであれば友枝はいくら逆立ちしても書けないんです。
武志でしか書けないんです。
だけども全然載ってない。
武志でも書けないんです。
と言うことが私は言えると思います。

最後にちょっとおかしいことになりましたけど。
私たちが声を上げたその日から、寺越友枝はうちらの声を静めようと色々工作をしております。
それに救う会の方にも色々工作をしております。
最近で私が一番新しく聞いたのは、うちらの家族の子供の仕事場にまであること無いこと電話をかけている、と言うことを私も聞いております。

先ほど兄貴は寺越友枝のことを恨んでないとか何とか話をしましたけど、私は反対なんです。
拉致問題が第一の被害とするならば、私は友枝がそうやって色々工作をしてくる。
これは私「第二の被害」だと思っています。
これは範囲が広いんです。
うちらの子供たちに関わるかもしれん。
それから救う会にも関わるかもしれん。
暴力があるかもしれん。
向こうの出て来方によっては。
物凄く範囲が広い。

それに友枝本人も「第二の被害者」だということです。
本来拉致被害者であるべき人間が、北朝鮮の救助と言うことにしようという工作に乗って、北朝鮮によって動かされている。
それがすでに第二の被害。
進行しているものと私は考えてます。
そしてその工作によって被害がもし出た場合は、誰が責任を取ってくれますか?

当然北朝鮮が悪い。
友枝も北朝鮮に動かされてスパイみたいなことをやらされて、こういうものを出して来てと言うのは友枝も悪い。
しかしながら悪いのは日本政府。
一時被害は当然食い止めることは出来ませんけども、二次被害というのは食い止めることは出来る。
政府が拉致認定をすることで、北朝鮮はこういうことをやっても意味が無いということです。
友枝もこういうことをやっては来れないということです。

そういう意味で、私は日本政府に対して速やかに一日も早く拉致認定をしていただきたい。
二次被害が出ないように、これは政府の責務であります。
これを強く政府に申し上げたいと思います。
ありがとうございます。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京集会(3)~救う会石川事務局長~

大口英夫 救う会石川事務局長のお話

皆様こんばんは。(「こんばんは」の声)
救う会石川の事務局長の大口と申します。
お時間もありますので、簡単に少しお話をさせていただきたいと思います。
救う会石川は2年前に設立しました。
ただ、私の方は今から8年前ですね。
救う会石川の設立の6年前から、実は寺越友枝さんと一緒にこの問題取り組んでまいりました。

寺越事件を語るときは大変ややこしいんです。
寺越さんと言う人、何人も出て来てて。(笑い声)
しかも寺越昭二さんの息子さん、長男・寺越昭男さん、御次男・北野政男さん、養子に行かれて。
三男さんの内田美津夫さんも養子に行かれてお名前が違うと。
拉致被害者の方も3人いらっしゃって、しかもお子さんとか、寺越友枝さんもいると大変ややこしいお話になるんですけども。
ただ事件としたらこんなに簡単でおかしな事件は無いんです。
それで2年前救う会石川が出来ました。
救う会石川が寺越さんたちとやってきた事、ひとつは石川県警に告訴をいたしました。
告訴・告発。
これは北朝鮮から亡命された安明進さんの証言を基にしまして作成しました。

まずひとつは寺越昭二さん。
これは「1968年3月30日北朝鮮で死亡」と言ってるのは、これは社会党の当時の代議士の島崎譲さんと言う人がごまかす為に作ったわけです。
安さんのお話によれば、昭和38年5月12日に事故に遭った時。
この時に寺越昭二さんは、寺越武志さんをかばって撃たれて海に捨てられた、という証言があります。
私たちこれを信じております。

そしてその撃った張本人の者の名前もオ・グホといいますが。
安さんの証言によってオ・グホという名前も分かっております。
この人を告訴いたしました。
合わせて外雄さんと武志さん、拉致と言うことで告発もいたしております。
これが私たちが救う会石川が出来てからやったことのひとつ。

もうひとつは先ほどのお話からあります。
昭二さん殺してはおらんと。
海難事故に遭ってるところを私たちが助けて、北朝鮮に住んでいて昭二さんは病気で亡くなったんだと。
その証拠に墓もあると。
生年月日違ってますけど、墓もあると。
しかも遺骨もある、って言ったんですね。
それであるなら遺骨を返せるものなら返してみろ、と。
出せるものなら出して見ろと、これを今一生懸命やっておるんです。

外務省にも言ってまいりました。
そして赤十字にも言っております。
そして斎木審議官の方が北朝鮮に再三言っております。
遺骨どうなった?遺骨どうなった?と。
その都度北朝鮮はごまかしていると言うのが現状です。
この2年間は告訴とそして遺骨の返還を強く求めております。

そしてもうひとつは拉致被害者認定してくれと、言っております。
誰がどう見ても聞いても拉致であります。
しかし日本の法律では拉致された寺越武志さん、またはそのご家族・寺越友枝さんが「息子が拉致された」と言わない限りは拉致とは認められませんというのが、今の日本の法律だそうです。
それで私平沢勝栄代議士にも食って掛かったんですけど、平沢さんは
「いやこれはそうなんだ、これは正しいんだ、そうじゃなかったら裁判勝てないんだ」
と、訳の分からんことを言ってますけども。

戦争状態みたいなものですよね?
日本のこんな法律はおかしいわけで。
だけどそれに基づいて拉致だと認められませんというのは私は大変おかしいと思います。
裸の王様の話みたいなもので、皆拉致だと思ってるのに拉致だと言えないと。
それが今の現状で、私たちは拉致被害者認定を強く求めてまいりました。

さてこの2年間、救う会石川が出来てから2年間のお話は以上なんですけど。
私8年前から寺腰友枝さんと一緒におりました。
当時寺越友枝さん、昭和38年拉致されて。
それから死んだものだと思ってたら、昭和62年に手紙が届いたんですね。
外雄さんから手紙届いたんです。
「私たち生きてます」と、「私と武志が生きてます」と届いたんです。

そして誰も話を聞いてくれないから、社会党の島崎譲代議士のところへ行って。
そしたら社会党の島崎譲代議士はご自身で書かれた本が2冊ございます。
「再会」という本と「再会2」と言う本がございます。
そこに「寺越さんたちは拉致ではなくて海難事故で助けていただいたんだ」と。
言うことでごまかして。
その時寺越友枝さんは、「息子が事故で死んだことになってるけど戸籍を回復してくれ」と言ったら「大変難しいから出来ません」とごまかしたんですね。
そしてそれからほったらかし。

それで8年前に当時の救う会の拉致問題を一生懸命やっていた荒木和博さん。
救う会の前の事務局長さんで、今調査会の代表であります荒木和博さんが私の方に電話して来まして。
「実はこういった人が居ると、寺越友枝さんと言う人がいるから私は石川県まで会いに行きます」とご連絡があったもんで、「私も何かお手伝いさせてください」と引っ付いていきました。
そして「寺越武志さんが生きてるにも関わらず戸籍が回復されないというのはこれは大変なことだ」と、荒木さんが言われて。
寺越友枝さんと私が活動をし始めたわけです。
戸籍は見事回復されました。

それまでは寺越友枝さん、「武志さんは拉致だぁ」と言ってたんです。
戸籍回復がされた時から、色々な力が動きました。
先ほどの森代議士のお話しもあります。
朝鮮総連も接触持って来ております。
要は寺越武志さん、それから急に偉くなったんですね、向こうで。
労働委員会の副委員長になったんです、急に。

簡単に言いますと寺越武志さん良い生活させてやる。
身の保証もさしてやる。
友枝さんあんたいつでも(北朝鮮に)来させてやる。
だから拉致だと言うな、と。
北朝鮮と朝鮮総連と、森代議士はじめ自民党の何人もの代議士もやり始めたんですね。
そこで友枝さんがコロッとここで考えが変わったんです。
それまでは「拉致だぁ~」と騒いでいたのがコロッと変わったんです。
で「拉致じゃない」と言い始めたんですね。

ですけども地村さんや蓮池さんたちが戻って来たとき。
武志さんが初めて帰国して帰った直後ですね。
やっぱり「うちの息子も拉致だ」とまた言ったんです。
平成14年にも一回言ってるんですね、また。
そしたらまぁまた向こうの国がまた慌てたんでしょう。
または自民党の先生方慌てたのかもしれません。
一回言ったけれども、またひっくり返して「やっぱり拉致じゃない」と言うんですね。
それが今の現状です。

石川県では寺越武志さんのお母さんの友枝さんは「拉致ではない」と言っております。
そして昭二さんの息子さんたち3名は「拉致だ」と。
そして救う会・私たちも「拉致だ」と言っております。
そういうちょっと特別な事情があるのが石川県です。

しかし誰が見ても聞いても拉致です。
その証拠はたくさんあります。
その島崎代議士が当時書かれた「再会」でも一杯矛盾した事がございます。
武志さんが書かれました「人情の海」という、北朝鮮で書いた本。
これにも一杯矛盾したところがあります。
お墓の生年月日も矛盾しております。
向こうが拉致ではないという証拠があるならたった一つ、遺骨の問題だけです。
返せるもんなら返して見ろと、言っておりますが。

大変分かりやすいようで、ちょっといろんなたくさんの人が絡んでおりますので分かり難い面もありますが。
しかし私は救う会石川としても、寺越さんの問題、これを拉致だと言わずしてごまかすわけにはいきません。
拉致だと一番分かりやすい、また向こうで生存しとるんですから、武志さん。
この問題を日本政府が拉致だとしたときに、きっと拉致被害者皆さんの事件がぐっと加速度をつけて進んでいくんじゃないか?と思っております。
こういったことで私たちも力足らずではありますけれども、石川県の方で少し頑張っております。
また全国の皆さんに応援していただきたいと思います。
ありがとうございます。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京集会(4)~飯塚繁雄さん~

飯塚繁雄副代表のお話

皆さんこんばんは。(拍手)
この集会も数を重ねるごとに、それぞれの家族の方のいろいろな今までの経過、あるいは状況。
そういうものがここに非常に良く分かってきて。
実を言うと私も寺越さん事件のことは良く分からなかったんですけども、今日色々聞いてなるほどと、そう思いました。

家族会としても3月の10日ですね。
支援室を通じて内閣総理大臣に、寺越事件を含めた特定失踪者の方の認定を求める申入書出しました。
小熊室長が継いだわけですけども、お話によれば「一生懸命やってると、捜査をしてますと、警察にもよく言ってある」と言う話でしたけども。
その結果はですね、各特定失踪者の方にお話をしてありますよという返事だったんですけども。
中々実態はそうもいってないようで。
一生懸命やるやると言いながら、中々結果が出ていない。
というじれったさがあります。

こういうものも含めて北朝鮮が今まで拉致してきた証拠その他報告に対して、日本政府は「誠意ある対応をしない限り厳しい対応をとる」とハッキリ申しましたが。
そう言っていながら3ヶ月以上3・5ヵ月ほど経ってますね。
一体どうなってるんだ?ということもあるんですが。
というような場面を見ますとこう着状態になってますが。
我々4月の24日国民大集会をやる前に全国で々浦々こういった集会を精力的に開いております。
参加者も以前よりも相当増えておりますし、力強いものを感じています。
そういった国民の力をですね、ぜひ24日に終結して強い態度で政府にも訴えかける。
ということにしたいと思いますので皆様のご協力を更にお願いします。
どうぞよろしくお願いします。(拍手)

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寺越家を救うぞ東京大会(5)~増元照明さん~

増元照明事務局次長のお話

皆さんご存知の通り、寺越さんの事件は我々も家族会結成して2年目くらいで友枝さんが確か来られて。
一緒に来られてやろうという話になってたんですが、母親として非常に心が揺れていたみたいで。
果たして拉致という被害者家族会に入られてそれが武志さんに何か被害が及ぶのではないか?と。
おそらく先ほど言ったように朝鮮総連とかいろんな代議士から色々な圧力がかかって心変わりをして、その後ほとんどお会いしておりません。

でも確か民放でしたけども、その中で武志さんが拉致かどうか聞いたら、涙ながらに「口が裂けても言えないし墓まで持って行く」と仰ってた。
これが拉致であることを物語ってるわけですけども。
そこまで苦しめている北朝鮮と言う、それに対して非常に私たちは怒りを持っておりますし。 現在拉致被害者は特定失踪者を含めて100人以上いるというふうに考えられております。
国民の皆さんに10件15人ではないということ。
100人以上下手をすればもっと、更に大勢の方が北朝鮮に連れて行かれていると言う事をもう一度認識していただいて。
北朝鮮の脅しには屈していただきたくない。
北朝鮮へ制裁を課せば宣戦布告とみなすと言ってますが、国家主権を侵して日本人を連れて行った時点で北朝鮮は日本に宣戦布告しているわけですから。
そんなことに怯えていてはこれから先また同じことをやられてしまうと。
本当に自覚していっていただきたいと私は思っています。

いま日本政府がやることは速やかに被害者を取り戻すことである。
それが当たり前のことだと私は思いますし。
寺越さんたちはお父さんの遺骨を返せと。
被害者家族として返せと、当たり前のことを言ってるんですけども、日本の政府も強く言ってませんし、そして赤十字もなかなかそれに対して動こうとしない。
北朝鮮は家族が反対するから返せない。
昭二さんの息子さんである昭男さんたちが返せと言ってるのに、それに対してそういう言い訳をしている。
非道な国に対して、政権に対して、私たちはここで怒りをぶつけるべきではないでしょうか?
冷静に怒りをぶつけてそれが拉致問題の解決につながるし。

先ほど副代表が仰ってましたように4月24日ぜひ溢れるように。
おそらく日比谷公会堂2000人くらいしか入れないので、外であふれる人の方がもしかして多いかもしれません。
そういう状況になっていただきたい。
中で2000人、外で5000人くらい。(笑い声)
それくらいの状況になるように私は望んでおりますので、ぜひ皆さん、お近くの人を誘い合わせて。
4月24日、日比谷公会堂、14時からやっておりますのでよろしくお願いします。(拍手)
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寺越家を救うぞ東京大会(6)横田拓也さん

『横田拓也氏のお話』

皆様こんばんは、いつもありがとうございます。
今お話を伺ってまして、本当にいろんな方面から過去からこれまで、現在進行形と言う形でいろんな圧力とか誘惑・だましの手口というものが私たちの周りにあるということを改めて認識いたしました。
こういったものに絶対に屈してならない。
家族を取り戻すという原点を大切にして行くということと、そして正義を守り通していくという事が本当に大事なんだと思います。
こういった中、人間として本当に基本的なことを私たちはお一人お一人の国民の皆様方に訴えて。
そして共感を得ていただいて、この厳しい現実を乗り越えていくことが出来ればと思っています。

今日はお話を聞いている内容とは別件なんですが、横田家の事としてひとつお話を申し上げられればと思っております。
これまでも私や国民の皆様のほぼ多くの方々の一致した認識といたしまして、北朝鮮政府の言ってる事柄というのは全て嘘である、ということは申し上げるまでも無いことなんですが。
ここで北朝鮮側がまた横暴なことを言ってるわけなんで、私も再度これまでの資料を読み返してまいりました。
で、そのなかで北朝鮮政府が言ってることの嘘を発見いたしましたので、お話が出来ればと思っております。

これは第3回日朝実務者協議の終わった後にですね。
北朝鮮政府が日本政府に説明したことを、日本政府が家族会の各家族に示した資料であります。
これはたまたま表紙が横田めぐみと書いてまして。
向こう側が話したことをここにまとめて各家庭に配ったということであります。
この資料、おそらく過去にこういった会合の中ででですね。
マスコミの方をはじめとしてご案内された資料かと思います。
ここに書いてあることをもう一度読み返してみたいと思います。
一部でございます。

「93年9月21日までは695病院で治療を受けた。
めぐみさんの精神状態を積極的に治療するため、95年3月平壌スンホ地区の49予防院に入院させた。
尚前日まで義州の精神病院に入院させることも検討されたが、少し様子を見ようということでこの49予防院に入院させた」

ということが書いてあるわけであります。
ここまでの情報はすでに皆様承知されている内容かと思います。
他方で私たちは日時のお話は避けたいと思いますが、蓮池ご夫妻からですね。
横田家としてお話を直接伺った機会がございます。
その場で彼らが私たちに何を証言してくれたか?という事をお話をしたいと思います。
まずはこれは全てを語るわけに行かないので一部、今のところに関連したお話を申し上げたいと思います。

「めぐみさんは新義州の隣の義州の病院」
これ何号病院ってある数字が付いた病院なんですが。
何々号、って例えば1号とか2号とか数字の付いた病院なんですが。
「新義州のとなりの義州の病院に行った」ということを言っておられました。
「めぐみさんの病院はテレビ一台と若い看護婦が付き添うという特別待遇のものであった」と言うことが書かれています。
そして「この話はめぐみさんを病院に送り届けた運転手からの話である」というふうに、蓮池ご夫妻は私たちに語って下さっております。

ここ先ほどともう一度読み比べてみますと、間違いがあるわけです。
彼らが話をしているのは義州に行くことは前日まで検討されたが行かなかったと。
私たちもしくは日本政府に公式な場で説明をしてるわけなんです。
しかし、実情を承知されている蓮池ご夫妻は、私たちに義州に行ってるんだということを言っておられるわけです。

つまりこの時点でもっと、日本政府は事態を把握しているわけですから、北朝鮮政府に対して「お前たちの言ってることは嘘じゃないか」と言う必要があったと思います。
今でも言えるわけなんです。
それは日本の政府・外務省も承知しているわけなんですから、対話対話と言うことを繰り返してますが。
先ほどから家族会のメンバーが申し上げてるように、何も圧力も加えていませんし、対話のひとつもしていません。
何も口にしていないに等しいわけなんです。

そういった意味では、こういった大きな偽の情報をつかまされて、嘘だとわかっているのであればもう少し日本政府は、黙ってるんではなくて大きく(口を)開けて。
お前たちのやってること言ってることは間違ってるんだと、実力的な行使を持ってですね。
態度に変えて言って欲しいと思っています。
私たちは先ほど言いましたように、4月24日に日比谷で国民大集会を開きます。
私たちは小泉総理になんとか自分たちの家族を取り戻すために、具体的な制裁の発動をして欲しいと言うことを訴えて、そして小泉総理にお願いする場にしたいと考えています。

また嘘の情報があるということを改めてお話をさせていただいくと共にですね。
本当に緊急に、どの家族も政府の認定・非認定に関わらず急ぎでやって欲しいということを思います。
こちらからは今日は寺越さんの日なので余り時間をとるつもりはありませんが。
ひとつ読み返しをいたしまして重大な事実がありますので、これは放っておくと生命に関わる問題ですのから。
日本政府が政府として国家の基本機能として、人間として親父のひとりとして総理が具体的な行動に出て欲しいというふうに思います。
以上でございます。(拍手)

すみません先ほどの病院の番号を言いませんでしたが、蓮池ご夫妻が言った病院も番号は、義州の39号病院だと言うふうに聞いております。
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寺越一家を救うぞ東京集会(7)西岡力さん-1

西岡です。
まず寺越事件について、今安明進さんの証言の話が、寺越さんたちからそして大口事務局長から出ていますが。
実は最近安明進さんが本を出しまして。
「新証言・拉致」と言うこの本の中にその証言が出てきています。
それはすでに私