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2006年6月28日 (水)

福留貴美子さん拉致事件を考える集い(7)

   『パネルディスカッション その1』

「福留貴美子さん拉致事件とよど号拉致事件」

★司会

川添友幸 救う会神奈川会長

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★パネリスト

野村旗守氏(ジャーナリスト)
荒木和博 特定失踪者問題調査会代表
斉藤文代さん
増元照明 家族会事務局長
岡田和典 特定失踪者問題調査会理事

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★司会 川添友幸氏

後半なんですがパネルディスカッション、今年の1月のよど号の集会のときにもパネルディスカッションやったんですが、今回もやりたいと思います。
よろしくお願い致します。
私が司会でちょっといろいろ質問をしていきますので、それでお答えをしていくような形で皆様お答え頂きたいと思います。

今日ですね。
急遽なんですが、拉致被害者家族会の事務局長である増元照明さんが今日来ていただきました。(拍手)
それではまず増元さんに早速なんですが、お伺いしたい事があって伺います。
増元さん自身、先ほど荒木先生が福留さんのお母さんと面識があったとお話をされましたが、増元さん自身お会いになられた事があるかな?と。
その時のエピソードのような事があれば教えて頂きたいと言うことと。

この福留さんの拉致事件に関してですね。
警察は拉致では無いというような事を言われましたが、それに関して拉致被害者家族としてどう思うか、と言うところを2点伺えればと思います。
よろしくお願い致します。

★増元照明氏

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あの、増元です。
何か勝手が違うので。(小さな笑い声)

先ほど荒木さんが仰っていたように確か多分荒木さんと同じ時に会ったんじゃないかと思うんです。
西村眞悟さんと一緒に会ったんですよね?
福留貴美子さんのお母さん、信子さんと仰るんですが、うちの母も信子と言う名前で全く字が一緒なんです。
その時は印象深いんですけれども、四国の片田舎から2000年だったと思うんですが出てこられて。
私たちも出て来られると言うのは全く知らずに横田ご夫妻と私と、たまたま西村先生と会うという事で永田町のあそこは赤坂見附だと思いましたけど、その事務所に行ったときに福留貴美子さん(のお母さん)がおられた。

それは荒木先生がアテンドして頂いたと私は記憶しておりますが、福留貴美子さんも拉致被害者であると言う思いが非常に強くて。
当時私たちは北朝鮮に拉致された可能性のある、というか殆ど間違いの無い寺越さんとかも一緒にやろうとしていましたし、当然よど号の松木さんとか石岡さんなどとも呼びかけはしておりました。
そして福留さんにも呼びかけを致しまして、で来られたんだと思います。
本当に体が弱ってられた中でも出てこられて、そして田舎の人間ですからそんなにお喋りになるような事は無いんですけど、必死の思いで貴美子さんを助けたいと言うその気持ちは非常に強く伝わった事を覚えています。

そして北朝鮮、福留さんは拉致では無いと言う警察の見解でしたね?
荒木さんが仰ったとおりのことでしょう。
とにかく北朝鮮に行って、どのような理由であれ北朝鮮に行って帰りたいと言うふうに思っても、帰れない状況になるならということです。
川添君が書いた福留貴美子さんのプロフィールに関してもそうですけど、モンゴルに行きたいと言う人が何故北朝鮮に行ったのか?という、全く不明ですから。
その辺は全く騙されていったのは間違いないと思います。

当初モンゴルに連れて行くという一緒に行くと言う予定で、どこかで・・・(聞き取れず)された。
そこでチュチェ思想の下に教え込まれた。
そしてよど号の妻となったと言う事でしょうけども、日本に帰ってきた事があって友達のところには行ってるわけですね?
実家には帰らなかったんですけども友達のところには行っている。
この辺をずっと監視体制の下で見ていた朝鮮総連もしくは、こちらの旗守さんが仰っていた日本の支援組織の人たちにばれたんですね。

で、無理矢理また連れて行かれたんですが、警察がいくら言っても日本で彼女が行動するためには、行動するには必ず監視されていたと言うのは、その一点を持って間違いが無いでしょう。
監視対象だと言う事は結局は無理矢理やらされていたというのは私たちの一般的に考える認識です。
ですから警察のその認識が自分達のおそらく捜査が今まで生温かった事を認めたくないという、案外官僚というのはそうなんです。
自分達の間違いを認めませんから。

田中均さんもずっと外務省の今までの拉致問題に対する対応を絶対に謝罪しませんでしたから。
悪くないと思ってるんですね、その官僚体制が、自分達が続けてきた事は。
ですからそういう何か悪い慣習というのかな?
あるのではないでしょうか?

私たちは自然に考えて無理矢理日本での監視対象であったと言う事は、まだ向こうの思想に染まっていないと言う、それでもう一回連れ戻された。
それで向こうで死亡とされているんですけども、私は多分内紛か何かあったんだろうと思っています。
高沢さんの「宿命」の中でもあまりにも不自然です。
岡本武と福留貴美子さんの死というのは余りにも不自然ですので、これは内紛があって処分されたのか?
それとも生きている事を隠なければならない何か事情があったのか?
とにかくよど号とは離されたと思いますね。

更に言わせて頂けば、田宮が死亡したというのも非常に不自然です。
高沢さんに田宮さんは「有本さんたちの返還を必ず成し遂げる」と言う風に約束されて、その数年後、一年後か二年後くらいに突然死亡していますので、何らかの画策をしてそれが発覚して処分されたのではないか?というふうに私は考えています。

あとチュチェ研の事を旗守さんが仰っていましたけど、チュチェ思想を作った張本人の黄先生が今韓国に亡命していますから。
黄長ヨプ(ヨプ=火へんに華)。
で彼に会って聞いたんですけども自分が作ったものですから、チュチェ思想は絶対に悪くは無い。
ただそれを使う人たちが悪いんだと言うふうには彼は言っておられた。
チュチェ思想は絶対に間違いの無い共産主義体制を支える北朝鮮では絶対的な思想であると、本当にパラダイスを作るための思想であると。
あれを使う人が悪いからああいう国になってしまったというふうに伺いましたので、その辺ではまだ主体研究というのに反省の無い残念な老人だなと私は思っております。
以上です。

★司会 川添氏

ありがとうございます。
次ですが、荒木先生に何点かお伺いしたい点があります。
今の荒木先生の、あと増元さんの話にもあったんですが、北朝鮮側が福留さんが死亡したと言う事をちょっと言われてまして、私自身もよど号を支援していた方から福留さんの遺骨があるとかお墓があるみたいな話を以前伺った事があるんですが、その辺のあたりというのはどうなんでしょうか?というのがまず一点。

次に先生、「しおかぜ」でですね。
何か福留さんの関係の放送とかそういうことはされたのかな?と、ちょっとお伺いできればと思います。
その2点、よろしくお願い致します。

★荒木和博氏

はい、え~とですね。
今川添さんが言ったようなことと具体的には変らないんですが、遺骨があるというような話を先ほど申しましたように、話があったというのは聞いています。
だから必要があればそれを出して来れば良いわけですけども、出して来れないというのは、やはり出して来れない理由があるのでは無いだろうかな?と考えざるを得ない。

松木薫さんの物にしても、もし本人が亡くなっておられるのであれば、北朝鮮でですね。
遺骨が出せないわけは無いわけでありまして、遺骨を出してしまえばですね。
それで納得せざるを得ないわけですが、わざわざ偽の遺骨を出してくると言う事事態に、そういう意味があるのだというふうに思うべきだろうと思います。

私、大学の授業でも良く学生には言うんですが、基本的には北朝鮮がする発表というのはですね。
最初からこれは全部嘘だと思って聞いた方が良いと。
その上で、なんでこの人たちはこういう嘘をつくんだろうか?というふうに考えると、だいたい向こうの言いたい事というのが以外に正直に出てきております。
ですからその偽の遺骨を出すと言うのはですね。
やはりその裏の意味がどういうことか?という事を考えていけば良いのではないだろうか?というふうに思います。

それから「しおかぜ」の中では、福留さんに関してはご家族からの声と言うのはお母さんがいなくなってしまって出せませんので、今全部の名前とそれから失踪時期のデータ読み上げの中で福留さんの事が一緒に入って毎回流れております。
今、ご案内の通り妨害電波が流れていますので中々聴き取り難いですが、今月中に周波数とか時間を変えてまた流しますので、また向こうが追っかけてくると思いますが、とりあえずまた聴こえるようにはなると思います。
以上です。

★司会 川添氏

ありがとうございます。
そうしますと次、野村先生にちょっと何点かお伺いしたい点があるのですが。
チュチェ研とよど号グループの妻以外の連携というか関係というか、妻たちの話では伺ったんですが、連携みたいな物。
例えば福留さんがこちらに戻られた時に監視されたという話があったんですが、その辺の監視体制はどうだったのか?という事がまず一点。

次にやはりよど号のご家族の問題を考えるのに社会党とかですね。
あの辺の責任といった物が出てくるのではと思いますので、チュチェ思想とかチュチェ研と関係のある社会党の国会議員とかの事をもしご存知であれば教えて頂きたいと思います。
その2点、よろしくお願い致します。

★野村旗守氏

チュチェ研に関しましては主にですね。
入り込んでいってるのはアカデミズムの分野だと思いますね。
先ほど言った労働者組織の他にアカデミズムの世界、特に大学教授あるいはそうそうたる法曹界のメンバーであるとか、そういったところのなんて言いますか。
非常に知的な人たちがなぜか知らないけれど、こういうわけの分かったような分からないような、学問なのか思想なのか良く分からない、それとも単なる根性論なのか良く分からないような思想に、なぜか日本のですね。
それこそ頭脳のトップに当たるような人たちが、なぜか先ほどの佐久川政一会長じゃないですけれども、そういったような人々がなぜか訳の分かったような分からないような、本当にこんな物が実現できるのか出来ないのか、所謂観念論というような思想にハマってしまうという、これ非常に面白い現象だなと思って。

今日は朝鮮総連とチュチェ研という関連を話してくれといわれて来て、先ほど言ったようにチュチェ研と朝鮮総連というのはそれぞれ役割が違う物ですからあまり接点は無いんですね。
というのはチュチェ研というのは北朝鮮に協力できる日本人を探す為のプールのような場所、これがチュチェ研であって。
朝鮮総連って言うのは北朝鮮の対日・対南活動、非公然活動に役立ちそうな人間をピックアップするプールのような役割をしている組織という事で、それぞれ在日の中からピックアップする組織、それから日本人の中からピックアップする組織という事で、それぞれ役割が違うのでこれ余り接点は無いんですけども。

それでも接点という事で言っていけばですね。
これ資金的にどうもこのチュチェ研を支援している資金というのは、どうも在日の中のある富豪、在日の中の資産家から資金が出ているようです。
というのは先ほど言ったチュチェ研総帥の尾上健一ですけれども、非常に潤沢な資金を持っておりまして、その白峰社という出版社を経営している他に、チュチェ研メンバーですね。
チュチェ研メンバー、だいたい40代から50代が主ですけども、この40代50代はチュチェ研のメンバー同士が結婚しているわけですが、それぞれ子供を作っていてその子供たちが通う保育園を経営し、更に池袋でスナックを経営していたりしまして。

それでこの尾上健一が住んでいるのが練馬区の光が丘のとあるマンションなんですけども、このマンション。
マンションのの名前今ちょっとすぐに思い出せないですけども、マンションの9階のワンフロアを全部使っているというような、大したお金持ちではあるんですね。
これが例えば白峰社の売り上げの中からそれだけの潤沢な資金が出てくるか?という事を考えていくと、とてもそれは考えられないわけであって、これはどこからかお金が出ているに違いないということが言われております。

と同時にこの日本におけるチュチェ研グループですけども、これがですね。
殆ど東京の豊島区の池袋あたりに固まってます。
先ほど言ったチュチェ研グループの例えば金日成主義研究会とか、あるいは自主の会であるとか、あるいは朝鮮女性と連帯をする会とか、そういったようなですね。
思想的なグループが池袋に固まっていて私がこのグループを、この白峰社も池袋にあるんですけど、これを一つ一つ訪ね歩いた事が実は前にあって、最初電話でアポを入れようとしたんですけどどこも相手にしてくれなかったもんですから、一軒一軒を、3つくらいの事務所がひとつのマンションに固まっていたのでそんなに難しい事じゃなかったんですけれども。

池袋のですね。
3ヵ所くらいかな?
マンションをアポなしで飛び込みで取材していって、コンコンとドアを叩いて尋ねて行ったことがありました。
それがもう2年か3年位前ですかね?
行ったんですけども、朝鮮総連の連中にいわせると「あのチュチェ研の連中は絶対におかしいと。
「目付きが尋常では無い」と。
良く朝鮮総連怖いと日本人の方々大体思っていて、実際怖いところがあるんですけども、その朝鮮総連の連中が評して「あのチュチェ研の連中は絶対おかしいですよ、あれ。目付きが違いますよ、我々と」(笑い声)言うふうにいうくらいですから。

確かにですね。
あの絶対おかしいと私も思いました。
ドアをノックして出てきたときのその表情から何から、もうこちらを見る目から朝鮮総連なんかよりよっぽど怪しいと私思ったんですけども。
あの人たちが出てきてそれこそ詰問調でですね。
「何しに来たんだ、お前。一切答えられない」ということで、ガチャンとドアを荒々しく閉めると。

そういった事を3ヶ所4ヶ所と繰り返されまして、顔つきからしてどうしても健全な通常の、健常な人間の顔とは思えないですよね。
まるでオウムの信者のような、確かに新興宗教のような。
確かに朝鮮総連の人たちはそんな顔をしていません。
日本の中で非常に憎まれていますけども、そういうような顔はしていないですけども、宗教の信者のような顔はしていないけれども、あのチュチェ研の人たちの顔つきというのは非常に宗教がかった、ちょっと一種独特の顔つきですので、この人たちは余りお友達にならないように(笑い声)、余りお友達にならない方が良いんじゃないかと、私ちょっと一言アドバイスをさせて頂きます。

なんか質問の答えになったかどうか分からないですけど、(司会より「国会議員の声)あ、国会議員ですか?
国会議員は、それこそ労組出身の例えば国会議員で言うと、チュチェ研に属している属していないという話になると難しいんですけども、一番言われているのがですね。
チュチェ研と社会党、特に結んでいたのではないか?と、黙される人物が、ここは講演会だから放送しちゃって、放送しないで下さいね。(笑い声)

あの○○○というですね。
元社会党の議員がいましたけど、もうあの人落選しましたよね?
○○○というのが、そのチュチェ研と社会党を結んでいた重要人物ではないか?という事で黙されておりまして、公安の中でもごく少数はそういうふうに疑っていた人たちもいたようですけども、実際捜査の手が伸びるということはなかったですね。
私が聞いている話に間違いがなければ、○○を特に個人的にマークしたという事は無いんですけども、これ例えば金丸訪朝の時とか、日朝交渉が重要な場面に差し掛かるとこの○○が裏でちょこちょこといろいろ画策していたというような話が漏れ伝わってきておりまして。
もう少しこの○○と朝鮮総連あるいはチュチェ研といったような物に対しての解明も進んで良いのではないかと思っております。
そんな事お前がやれといわれるかもしれませんけども、私もちょこちょこやってますので。
皆さんも機会があったら是非調べてください。

★司会 川添氏

確か○○は行方不明になってるんじゃないですか?
所在不明になっているという話を噂で・・・

★野村旗守氏

いや、僕はそれ聞いてはいません。

★司会 川添氏

何かそんな話を噂で聞いていると思いますけど。(会場より「最近また活動している」の声)
動いている?
ありがとうございます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※文中、野村氏の意向に配慮して人物名を伏字でご紹介しております。
悪しからずご了承ください。

蒼き星々サブボード への 話しの花束 ぴろんさんの投稿より

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2005年6月 9日 (木)

田中実さんに関する資料

・・・配布された資料を全文転載・・・

「田中実さんについて」      救う会・兵庫 長瀬猛

1.田中実さんに関する基礎資料
 田中実さんのプロフィール
昭和24年(1949)7月28日生まれ、本籍神戸市東灘区。
幼いときに両親が離婚、神戸市内の養護施設で育つ。神戸市立高羽小学校、鷹匠中学校、神戸工業高校を卒業の後、市内のパン製造会社に就職するが退職、失踪直前は阪神「青木」駅近くの中華料理店「来大」の店員だった。

 拉致の暴露 張龍雲氏の告白
平成8年(1996)12月発刊、平成9年1月号の「文藝春秋」に、神戸在住の在日、張龍雲(チャン・ヨンウン)氏が、自らが北朝鮮工作機関「洛東江」のメンバーであったことを告白して、同組織の韓竜大(ハン・ヨンデ)と曹廷楽(チョ・ジョンガリ)が共謀の上、昭和56年(1981)年6月6日、田中さんをウィーンに連れ出し、モスクワを経由して平壌へ拉致した事実を暴露した。韓は彼が勤めていた「来大」の経営者だった。
平成11年(1999)には、「洛東江」の謀略を詳述した張氏の著書「朝鮮総連工作員(黒い蛇の遺言状)」が小学館文庫より出版された。張氏は平成13年(2001)持病の悪化意により他界された。

 行政の認識
平成8年(1996)12月12日、兵庫県議会警察常任委員会にて大前繁雄県議(現衆議)が、同月発刊の文藝春秋を取り上げ、「警察は何か情報を得ておられるのか、得ておられるならお示し頂きたい」と糾した。
大橋警備部長(当時)は、「調査の結果、神戸市内に居住していた同姓同名の人物が、昭和53年に成田から出国した後、現在まで所在不明となっている事が判明している。この人物が記事に言う当該田中実氏と同一であるという可能性は否定できないと考えている。県警としては、当該人物の行方については、拉致された可能性も含めて慎重に調査しているところである。」と答えた。

2.救出活動の経緯
 張龍雲氏との出会い
平成12年(2000)年秋、神戸市内において、ある団体の設立記念式典が開催され、記念講演の講師として張龍雲氏が登壇された。私たちにも理解を示してくれていたこの主催団体は、同年3月に家族会と救う会が実施した「50万トン米支援反対抗議行動」所謂「座り込み」に関する報告の場を提供してくれた。
張氏とはこの催しの楽屋で初対面の挨拶を交わした。すでに持病の糖尿病がかなり進行していると語り、もっと早く皆さんに会っておけば良かったといって手を握って頂いた。車椅子から降りる時も奥様の介添えを必要とする程、その病状は相当なものだった。いつでも分からないことがあれば尋ねなさいと言って指し出された名刺を受け取ったが、この半年後、張氏は帰らぬ人となった。
この日の講演内容は、前年出版の「朝鮮総連工作員」に関する内容であり、特に田中実さんのくだりについて詳しく言及されていた。
これ以降、県下で実施する街頭署名活動においては、有本恵子さんと一緒に田中実さんの名も連呼するように努めた。しかし、田中実さんに関する世論の関心は極めて低く、また張氏の告白を補完するような新たな証言や証拠も得られずに、時の経過を許す日々がつづいた。
・田中実さんの写真公開
平成14年(2002)は、3月には八尾めぐみ氏が有本さん拉致を証言、9月には小泉首相が電撃訪朝、何ともドラスティックに変動した感があるが、その影で田中実さんに関して重大な事実が発見された。
田中さんと同い年の岡田和典氏が同じ学区(中学校)だったことが判明、彼は中学校から私学に進学したが、多くの同窓生は田中さんと同じ鷹匠中学校へ入学しており、ここで田中さんと同窓になったのである。「灯台下暗し」とはまさにこの事である。
岡田氏が早速同窓生に呼びかけたところ、あどけなさの残る中学時代の田中さんの写真がもたらされた。これが声明と共に公開された1号写真だった。
9月16日の「総理訪朝緊急国民大集会」開催直前、日比谷公会堂の楽屋で開催された幹事会は、異様なまでの緊張感につつまれていた。訪朝直前に家族との面会を拒む小泉総理に語気を荒げる人々も少なくなかった。その最中1号写真の掲載されたチラシは披露された。
しかし、事態はこれで終わらなかった。小泉総理が機上の人となり、私たちも帰路に着いた同日、また新たな証拠がもたらされたのである。
何と高校時代の卒業アルバムがもたらされたのである。そこには1号写真からは窺い知ることのできない、生き生きとした男子としての田中さんが収められており、その豊かな表情は私たちの認識を一変させた。「田中さんは生きている!」
帰国した小泉首相が「5人生存10名死亡」と家族に告げたその夜、私たちは憤りに打ち震えながらも「このままでは田中さんは見捨てられる」と異口同音に思った。
9月22日、緊急報告会として有本さんにご登壇いただいた後、この2号写真(数種類)をマスコミに公開した。この2号写真は衝撃をもって受け入れられたらしく、各紙に田中さんが大きく取り上げられた。さらに情報は寄せられ続けたのである。

 恩師渡辺友夫先生
田中さんが在学していた頃の神戸工業高校の技術課程は、1年から卒業までの3年間クラス替えが無かったそうである。それ故に彼のことを覚えている人々も多い。ただ卒業から40年近く経って、夫々の人生を歩んでいる同窓生たちが名乗り出るのは、やはり困難な事であり、私たちもそれは覚悟していた。しかし、そんな事はものともせずに立ち上がった人がいる。3年間担任教師であった渡辺友夫先生である。
学校OBに知己のある知人を介して、「親代わりに」という申し出を受け、さっそくお宅へ赴いた。
ご高齢には違いないが、かくしゃくとされた方である。挨拶もそこそこに田中さんの思い出を語られた。「彼は施設から通っていたので、常に気にかけていました。当時の同級生には同じ境遇の者は居なかったので、心配したのですが、屈託の無い笑顔をする奴でした。しかし弁当が(施設で提供される)小さくて粗末だったので、職員室に呼んでおかずを分けてやったりしました・・・」ひとしきり語り終えた先生の目には、涙で一杯だった。
以後先生には、あらゆる場所へお運び頂き、田中さん救出を訴えていただいた。そしてついには、青森県八戸市で隠遁生活を送る韓竜大を訪れて、彼に直接会った。
同行した雑誌記者によればへらへらとはぐらかす韓に対し、掴みかからんばかりの勢いであったそうである。

 韓竜大告発へ
小泉首相の訪朝後の11月、日朝国交正常化実務者会議が開かれ、日本側が複数の拉致被害者を照会した。何かの集会に参加していた平沢勝栄衆議に会った折、田中さんはどうなったのですか?と尋ねたところ、そのリストの最前列で照会してあるそうである。しかし、拉致認定される様子は全く感じられなかった。
この期に及んで今だ消極的な国に対し、もっと強力に訴えるものは無いか、策を巡らして辿り着いたのが「告発」だった。
「相手を訴える法律知識(自由国民社)」を参考にして書面を整えるという、まことに稚拙な物ではあったが、可能な限りの証拠集めの奔走した。
田中さんが育った施設関係者の証言、張龍雲氏が「拉致工作」を告白した横田夫妻へ宛てた手紙、そして渡辺先生の証言。しかし事件性を窺わせるものがなく、途方に暮れたが、同郷の岡田氏が執拗な調査を続けて、ついに決定的な証言を得た。それは、田中実さんと同じ施設で育った後輩の、金田龍光さんを一時期雇っていた雇用主の関係者によるものである。証言者と金田さん及び周辺関係者は、田中さんの働いていた中華料理店「来大」へ頻繁に出入りしており、金田さんは金ちゃんと呼ばれ親しまれていた。田中さんが姿を消してから後、オーストリアからの国際郵便が金田さんへ届けられた。差出人は田中さん。内容は「オーストリアは良いところだから、君もこっちへ来ないか」という誘いだった。金田さんは筆跡に疑いをもち、この証言者に打ち明けていた。しかし、この誘いを受け入れてしまった金田さんは、渡欧準備のために上京することになり、何とこの「来大」で送別会が開かれたそうである。
上京した金田さんは音信不通となり、約半年後に証言者の近親者が「来大」の韓を詰問したが、韓は「しらない、分からない」という要領を得ぬ返事に終始した。
以上の内容を、国外移送目的略取等(刑法226条)を罪名及び罰則とする、告発状に添付して、平成14年(2002)10月4日、兵庫県警に提出した。受理はくしくも10月15日、拉致被害者5名の帰国の日だった。 (ここまでぴろんさんテキスト話の花束)

 張龍雲氏の置きみやげ
田中さんに関る原点は、それは言うまでも無く張龍雲氏の告白であり、その著書「朝鮮総連工作員」である。しかし刊行物に著されたものに、犯罪を立証するだけの証拠価値があるのか否か、その疑念は当初から私たちの心を煩わした。

張氏の死去から2年近くたっていたが、そういえば「わからないこともあれば、いつでも尋ねなさい」といわれて受け取った名刺があったことを思いだし、思い切って訪ねてみることにした。
以下は情報提供にあたり秘匿を約束したため、実名は差し控えるが、その関係者は私の申し入れを快く承諾くださり、張氏が遺した膨大な量の日記を貸して頂いた。
中には大乗寺事件や十文字山事件といった、関西在日社会でおきた経済事件(詐欺)に関する記述も多いが、中でも特筆すべき資料を発見することが出来た。
それは平成9年1月に山形県下で起こった、張氏と曹の民事紛争に関る告訴状である。内容は「洛東江」という組織名を挙げて、曹が非合法組織に幹部であり、その活動の一貫として資金を集めているというものである。
ということは、曹は平成8年から9年にかけて、月刊誌・単行本による表現と、利害の対立する法廷における一方的な表現により、著しく名誉を傷つけられている訳で、当然の事ながら対抗処置としての、誣告罪や名誉毀損による告訴を行うべきところを何もやっていないのである。
しかも当確民事紛争は結果的には曹に軍配が上がっているにも関わらずである。
張の日記は、私たちが曹を告発するために大いなる置きみやげとなった。私たちは準備に着手した。

 曹廷洛告発へ
曹は事件を手動したと考えられるだけに、何としてもそれを裏付ける新たな証拠を入手しなければならない。しかしもはやそれは、民間人の領域を踏み越えており非可能に思えた。
「何故反論しないのか?」本人に訊くのが一番ではあるが、山形県から一件の家を探し当てるのは容易ではない。ここでも調子の日記が化tすや串手、まず曹が経営する遊技場の所在地が判明し、各地の関係者にもご協力頂き、ついに曹の自宅を突き止めたのである。
平成15年6月、ある雑誌社から直撃取材同行のオファーを受けた。「この機会を逃してなるものか」私と岡田氏の2名は躊躇なくこれを承諾し山形へ飛んだ。
張り込み3日目、奇跡的に温泉へ出かける曹をキャッチして、直撃取材が成功した。
当初激しく抵抗したが、すぐに落ち着きを取り戻し着席して私たちの質問に答え始めたやりとりは1時間以上に及び、概ね以下のような理由から、私たちは告訴へ踏み切る決意をした。
 1)田中さんが拉致されていること自体は否定しない。
 2)曹は平成14年に韓国へ渡り、当局へ身の上を告白した。韓竜大は2年前にそれを終えている。
 3)名誉を守るべき手立てを講じない理由はなかった。
 4)肝心な部分は、否認するのではなく、韓竜大に訊けとはぐらかす。
 5)文章による回答を求めた質問状にまともに答えようとしない。

罪名罰条は前回同様に、平成15年7月22日に提出した。受理は約10日後だった。

(一部誤字と思われる部分は修正)


3.問題点
 田中さんの出国に関する疑問
韓竜大の告発については、警察は「出獄記録ならびにパスポート申請記録を探しているが、当時はすべて紙媒体であり、保管されていない可能性が高い」として、物証が無いと言わんばかりであるが、それならば平成8年12月の兵庫県議会警察常任委員会における警備部長答弁では何故「昭和53年6月6日」出国と認めたのか?

 韓国の司法当局への告発について
韓竜大・曹廷洛の両名に共通する供述の中に、「韓国に行って当局に洗いざらい話した」というくだりが存在する。更に、曹の話によれば韓国での供述に基づき、日本の警察も聴取にやって来て、それに応じたとある。
これが真実ならば、日韓の超法規的捜査協力が存在することが疑われる。
また日本の警察にも・・・・という事になれば、一種の司法取引が超法規的に為されたということにならないか?

 告発の取り扱いについて
韓の告発から2年5ヶ月、曹の告発から1年7ヶ月が経過しているが、もし、事実誤認があって犯罪が成立していないのならば、一刻も早くそれを表明して両名の名誉が不用に毀損され続けている状態を、終わらせなければならない。
あるいは、犯罪の事実はあるが起訴が難しい場合、これは捜査を怠る(たな晒しにする)理由にならず、捜査はしなくてはならない。
道義的責任があっても、法律が無いが故に犯罪が成立しないのであれば、国家治安の根幹に関わる重大事であるから、捜査はしなくてはならない。
時効が成立するか否かが判断し難いならば、内閣法制局に見解を出させる必要がある。
これらの何れの結果も出さず、事実上のたな晒しを続けている現状は許されない。(担当金木犀)
蒼き星々にも保存

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救う会兵庫 長瀬猛氏のお話 その1



救う会兵庫の長瀬でございます。
本日はかように皆様お運びいただきましてありがとうございます。

今、平田事務局長からご案内させて頂きました通り、渡辺友夫先生に本来ならご足労いただいて。
この極めて、田中実さんと言うその人となり、どんな人物だったのかを語る人が少ないですね。
この拉致被害者について語って頂くはずでした。
大変渡辺先生も心苦しいと仰っておられましたが、この東京集会に合わせて何とか、と思っていたんですけども、先週から急に容態が悪くなられまして。
持病の心臓の方が悪くなられまして、残念ながらおとついに手術したばっかりですので。
もしこちらにご足労が無理な場合は、先生に私がメッセージをビデオで持ってくる予定だったんですけども。
面会して長時間っていうのも、お医者さんにちょっと止めてくださいと言われていたもので、それも出来ませんでした。

そこでですね。
ただ今よりごく短い時間ではありますが、ビデオで渡辺先生がご発言というのをちょっと見て頂こうと思っています。
こちらのビデオはですね、テレビ局様の方からご提供して頂いた物です。
最初に見て頂く物は約1分半の物でございますが、こちらは関西テレビさんの方からオンエア前の、当時のニュースで流すオンエア前の物です。
約2年前のニュースで使われる前の物を多少(編集して)作っていただきました。

それからもうひとつ、先だってですね。
TBSの報道特集で田中実さんについて相当詳しくやっていただけまして、その中で渡辺友夫先生、かなり長くインタビューに応じていられます。
これはオンエアされた後の物をですね、渡辺先生の息子さんが自宅のビデオで録画されてましてね。
「どうしてもせめてこれだけは持っていって、まだ見たことのない人もいるだろうから、父のですね。気持ちだと思ってやってください」ということで、私が受け取ってまいりましたので、その二つをこれからお流ししたいと思います。
どうかそういうことでございますので、ご了承頂きたいと思います。

最初にそしたら関西テレビさんの方からいきます。
(ビデオのスイッチが入る。
「来大(らいだい)」の外観映像、車の中でインタビューを受ける韓竜大の映像、曹廷楽のインタビューテープを流す記者会見の映像などが流れる。
音声が小さかったので、聞き取りはほとんど不可)

これはですね、後でまたご説明しますが、田中実さんが拉致される直前まで働いていた中華料理店「来大」と言うお店です
(車の中でインタビューを受ける韓竜大の映像)
これは韓竜大本人です。
(記者会見場でテープを流す映像)
これは曹廷楽です。
次はごめんなさい、渡辺先生のやつです。
(TBS報道特集の中から渡辺友夫先生のインタビュー部分のみを流す。
渡辺先生のインタビュー部分だけを以下テキスト化)

(田中さんの恩師だとの紹介ナレーションが入った後)
田中実についてはね、今でもはっきり顔が分かるし。
彼は特別な子供でしたからね。
施設から来てる生徒やったからね。
おとなしいし、しかった指導もないし、まぁいわゆる普通の子やったね。

(渡辺先生は修学旅行の思い出を良く覚えているとのナレーションが入った後)
施設のなぁ、先生にお土産くらいお菓子くらい買っていかなあかんのかなぁ?って言うから、そんなんいいですよって、そんな会話しとるんですよ。
そんな記憶もあるんですけどね。

(渡辺先生は来大店主の韓竜大に会いに行ったこともある、とのナレーションの後)
担任や、ってな事を言いました。
田中実の担任やって。
本当のことを話してくれませんか?いうて。
そしたら、俺はそんな事知らんで、って。
俺そんなん、関係ないから、って。
親も無い、兄弟も無い子供でしたから、ちょっとラーメン屋さんの甘い言葉・優しい言葉についほろりとなってね。
行ったのもうなずけますわな。
(渡辺先生は田中さんのこれからも救出活動をするとのナレーションが入る。
ビデオはここで終了)

非常にごく短い渡辺先生のメッセージだったんですけども。
渡辺先生は、昭和40年に田中実さんが神戸工業高校の機械科Bというところにご入学されてから3年間、受け持っておられます。
ですから田中実さんのことは大変よく覚えていらしゃいます。
まず最初に田中実さんと言う人がどんな人だったのかなぁ、ということをですね、私が普段渡辺先生と接したり、あと田中実さんの同級生から聞いている話を多少ね。
お話いただいたこともありますので、その辺のお話を含めてお話させていただきたいと思います。

まず田中実さんのプロフィールでございますが、田中実さんは昭和24年1949年7月28日、神戸市のお生まれです。
幼いときにご両親が離婚されて神戸市内の養護施設、児童養護施設でずっとお育ちになられておられました。
その後神戸市立高羽小学校、神戸市立鷹匠中学校、そしてこの渡辺先生の勤務されていた神戸工業高校を卒業の後ですね。
神戸でも今でも著名な神戸市内の洋菓子店、パンとかお菓子を作るメーカーにご就職になられたんですが、そこもそう長くせず辞められて以来職を転々とされます。

田中実さんが皆さんの前から姿を消したのは、昭和53年です。
1978年6月6日です。
先ほどの最初のビデオで前後しましたけれど、最初のビデオでこれが田中実さんが勤めていたラーメン店ですよと言ったあのラーメン店の来大には、わずか半年しか勤めておられません。
で、なぜこの半年で姿を消したのか?という事についてもですね。
お友達がいらっしゃったとかいろんな話がありますが、それは後ほどですね。
事件の実行犯たちの追跡と言う部分で詳しく触れさせて頂きたいと思います。

この田中実さんという方はですね。
お父さまお母さまがいないと言う境遇の中でも、渡辺先生の記憶の中でもそんなに例えばグレてしまうとかそういうことは全然無かった。
むしろですね、時々照れくさそうにニコッと笑う少年だったと言う記憶があるとおっしゃっています。
今ビデオの中では修学旅行の時に施設から、当然施設から通って来ている訳ですから、施設のスタッフの人にお土産を買っていこうと思うんだけど、どうしたらいいんだろうか?と。
当然そんなにごくわずかの小遣いしか与えられていない中で、その中でお土産に使わなければいけないんじゃないか?と考えられたんだそうですね。
大変に渡辺先生の心を強く打ったと、言うことだそうです。

やはり、お弁当がですね。
神戸工業高校、お昼は当然お弁当を持ってくるんですけど、他の子供たちに比べて粗末。
少しこう、そう思ってたのかな?田中実さんが。
実際はどうだったか分からないけれど、だからいつも隠れるようにお弁当を食べていたと。
「おい、田中どうしたんだ」と言ったら。
そしたら「いやちょっと俺の弁当おかずも少ないし」と言うこともあって、「それだったら職員室で食べなさい」と、言うようなことも何度かあったと。
いうふうに渡辺先生からはお聞きしました。

神戸工業高校というところを卒業した、この児童養護施設からはたった一人なんですね。
で、これはですね。
神戸市の方針として、そういう施設の子供でも成績が優秀でやる気のある子供たちは、積極的に高校進学を進めていこうと、そういう取り組みの一環でですね。
この時期のこの田中実さんの在籍された児童養護施設でたった一人、田中実さんが高校へ行かれたということです。
その後ですね、また2名の方がということですが、非常に数が少ないうちのお一人だと言うことをお聞きしています。

頑張ってですね、機械科Bと言う所を昭和43年の3月に卒業した時の写真がこれです。
よくまぁテレビでも紹介されていますが、これが卒業写真ですね。

卒業アルバムから

私ちょっと丸印していますが、分かり難いんですけど、これの方が田中実さん。
また後でね、お近くで見て頂いたら良いと思うんですけど。
こちらが渡辺先生ですね。
若かりし日の渡辺先生です。

こちらは同じく卒業アルバムからお借りしてきました。
これはそれぞれの文化活動の仲間と一緒にスナップと言うか、そういう写真が卒業アルバムの中に掲載されてまして、書道だとかいうふうにお聞きしましたけど、田中実さんこちらですね。(写真前列右を指差す)


これが卒業写真の個人の写真です。
高校卒業ですから、17~8の頃の田中実さんです。
29歳で拉致されてますから、拉致される10年前の写真ですね。


こちらのお写真がおそらく拉致されたときに一番近いと思われる成人後の田中実さんの写真です。
これも偶然ですね。
知人が保管されていた物を報道機関の方が保管されていた物を、私ども救う会兵庫がご好意でお借りしております。
これはお友達と一緒にですね。
京都に旅行された時の写真だそうです。

田中実さんはこの頃になりますと、大変女性に良くおモテになったという噂、周辺の人の記憶では女性におモテになったと。
まぁ、プレイボーイと申しますかね。
若い日は誰でもそうなんでしょうけど、そういう側面もこの頃持ち合わせていたと。

あとでまた詳しく説明しますが、田中実さんを語る上でどうしても切っても切ることの出来ない特定失踪者に金田竜光さんと言う方がいらっしゃるんですが。
この金田竜光さんと言う方は、いっつも田中実さんの後をついて歩いていたそうです。
「金ちゃん金ちゃん」と呼ばれていた金田竜光さんはこの田中実さんを本当の、まぁ金田さんもご両親はいらっしゃるんでしょうが同じ養護施設ですからね。
同じ境遇ですから兄のように慕っていたと。
そういうことは結構ですね、周辺の様々な方が今でもご記憶になっています。
当時ちょっと若気の至りと申しますか、少しねお遊びが過ぎたような田中さんに対してですね。
金田さんと言う人はちょっと引っ込み思案で、傍目にもちょっとコントラストがハッキリしているような二人だったと、そういう二人だったというお話を聞いております。

田中実さんはですね、なぜこの中華料理店に勤めることになったか?と言いますと、これは金田竜光さんが先にこの中華料理店に就職されていて。
まぁ、なんて言ったんでしょうかね?
おそらく「兄貴」なんて呼んでたんでしょうか?
「ふらふらしないで兄貴、中華料理店で働きなよ、ラーメン店で働きなよ」といったことを言ったのでしょう、おそらく。
引き込むと言うか紹介するという形で、先に金田さんが勤めていてその後から田中さんが就職されたと、いうふうに聞いております。

ちなみにですね。
少し金田竜光さんと言う方のプロフィールにも触れておきます。
金田竜光さんは昭和27年1952年のお生まれです。
田中実さんの3つ年下ですね。
金田さんは高校には行かれておりません。
金田さんは昭和52年1977年、田中さんが拉致される前年ですね。
この来大に就職しております。

このあたりは正確に何年の何月と言うのは分からないんです。
周辺の人たちの何となくという記憶を整理していますのでだいたいの推測ですが、年を越えて昭和53年1978年の初めの方ですね、田中さんを連れてきたと。
で、もう6月には田中さんはウィーンに行かれてしまうと。
その後の金田さんはですね。
昭和53年、田中さんが拉致された年と同じ年の年末に田中さんの後を追うといって姿を消してですね。
その後全く音信が途絶えております。

最近私どもが得た情報でございます。
1次情報ではございません。
私どもが2次的にお聞きしている情報でありますが、金田竜光さんは、まぁお名前からもハッキリしているんですが在日ですが。
当然在留許可証を持っておられますし、海外に行かれるときは再入国許可証と言う我々で言えばパスポートに該当する物が交付されているんですが、これらが使われた形跡がございません。
と言うことは田中実さんの後を追いかけて姿を消したんだけども、ウィーンには行っていないのか?
あるいは別の人間に成りすまして海外に出る必要があったのか?
あるいはまだ国内にいるのか?
まったく分かりません。

私どもが田中実さん、金田竜光さんの本当の素顔に迫るお話と言うのは、正直申し上げまして今お話したくらいが全てです。
なんかね、コンクリートの壁を一生懸命引っかいているような、ほとんど音が伝わらないようなもどかしさをお持ちだと思うんですけども、本当に情報が少ないです。
これからね、私のお話しすることはその極めて人物像が不確かなこの二人にですね。
それでもいろんな形で方々から情報を集めて、少しずつ人物と事件の背景に迫って行こうと我々ボランティアで協力してやっておりまして。
今日はたまたま私がこうして発表の機会を頂戴しておりますので、私が発表すると言う経緯をご披露させて頂きたいと思います。

今日お手元の資料はですね、前回合同学習会で皆様にお配りしたものとほとんど変わっておりません。
前回の合同学習会の時にお話した内容は割愛させて頂いて、韓竜大と曹廷楽の二人ですね。
拉致の実行犯がどういう組織に所属していて、どういう活動をしていたのか?
我々がどういう証拠に基づいて彼ら二人を告発したのか?と言う部分にですね、今日のお話の重点を置いていこうと思います。

まずですね、後ほど西岡先生のお話でも登場するとは思うんですが、張龍雲さん。
朝鮮語読みではチャン・ヨンウンさんという重要な、田中実さんを語る上で重要な方がいらっしゃいます。
こちらの「朝鮮総連工作員」と言う本を書いておられます。
小学館文庫から発売されている物なんですが、この中に田中実さんの拉致及び田中実さんの拉致を実行した「洛東江(らくとんがん)」と言う秘密工作組織について詳しく書かれています。
この張龍雲さんという方はお亡くなりになってしまったんですが、本当にお亡くなりになる直前にですね。
私偶然にも面識を頂戴することが出来まして。
私がお会いした時にはもう車椅子に乗られておられて、おそらく片足を失われて義足になられていたと思うんですね。
糖尿病がすごく悪化されていて、張龍雲さんと私がお会いしたのが平成12年2000年の秋にですね。
神戸市で初めて初対面でお会いすることが出来ました。

そのときにですね。
この本が出ているのは知っておりましたけれども、張龍雲さんがどういう経緯でこういうふうに至ったのか?も、それほど僕自身詳しく知らないまでも。
まぁ、お名刺を頂戴しましてね。
「もっと早く皆さんの前で真実を語るべきだったんだけど、僕には時間が残されていない」と。
「だから分からないことがあれば何でも聞きに来なさい」と、お名刺を頂戴しました。
その日の講演を聞いて、その後もう1回2回お電話でお話をすることはあったんですけど、半年後、翌年にはですね、張龍雲さんお亡くなりになりました。
私どももせっかくの張龍雲、面識を得ておきながら、お亡くなりになった以上これはどうにもならないな、と思いながら、運動を進めておりましたところ、実はこの張龍雲さんと私どもが出会ったということが、その後の韓竜大と曹廷楽の告発に持ってまいります。

田中実さんの写真を私ども公開したと言う話は前回もお話しているんですけど。
当然この写真は神戸工業高校の卒業写真を公表した時に、大変大きな反響がありまして各方面から様々な証言がもたらされるようになります。
まずですね、田中実さんの拉致を直接手を下したというふうに書いてある韓竜大。
田中さんが勤めていた来大、元店主ですね。
ラーメン店の店主というふうに紹介されておりますけど。
この人をどうやったら告発できるのか?と言うことを考えたんです。
ひとつはこの張龍雲さんが家族会の横田さんにですね、告白の手紙を送られていましたので、その本旨と言う物を改めて証拠価値があると。
それから当然田中実さんというのはこういう人だったんだよ、と言うことが証言できる渡辺先生の証言。
それからその児童養護施設の関係者の証言と言う物が得られました。

ただ、どうしても犯行であるとか組織であるとかに近づく証拠と言う物が、我々の手元には全く無かったんです。
色々な情報がもたらされた中で登場してきたのが、金田竜光さんで。
金田竜光さんはどこへ行っちゃったの?ということで周辺の人たちの感情と言う物が、この告発につながっていくんですが。
実は金田竜光さんが、田中実さんの後を追って同じ年の暮れにですね。
とりあえず東京へ行くという事になったんです。
そのときにですね、この周辺の人たちは、「じゃあ金ちゃんの送別会せにゃいかんなぁ」と言うことでこのラーメン店の来大で送別会やってますね。
で、私どもその送別会に出た方に会ってお話をお聞きしました。

その時にはハッキリと「ウィーンに行くんだ」と。
「ウィーンに行く準備のため東京に行かなければならない」と。
全幅の信頼を置いていたのが、この来大の経営者・韓竜大。
そういうシチュエーションの中で彼は旅立って行ったと。
ただ、ごく近しい人には田中実さんが旅立った後ですね。
田中実さんが出した手紙が届いたそうです。
そこには金田さんに対して「金ちゃん、お前もウィーンに来いよ」と。
「仕事もあるし、良い所だ」と言うことが書いてあると。
「でもどうしても田中実さんにしては字がきれい過ぎる」と。
いうことは金ちゃんは不思議に思って、そのことを周辺の人にずい分相談しているんです。

行きつけの居酒屋と言うかお寿司屋さんの大将みたいな人に、「大将、どうもおかしいと思う」と言うことを言っておったり。
最近聞いた話では、お手伝いと言うか少し働いていた雑貨屋の店長のような所には何度も足を運んで、「僕はもうこれから旅に出ます」と言うことを唐突に言ってみたり。
非常に不安げだったという証言がたくさん出ております。

この事実を証言して頂いたことは、これは非常に田中実さん事態も犯罪に巻き込まれたであろう、拉致されたであろうと推測するに十分な。
直接田中実さんということではないけれど証拠であると判断して、証言いただいた方のご協力をいただいて、まず韓竜大を告発いたしました。
韓竜大の告発は、平成14年の10月の4日でございます。
この平成14年と言うのは大変な激動の年でございまして、9月の17日に小泉さん訪朝しましたし。
10月15日には5名の被害者の方が帰って来られる劇的な年ではありましたが、帰国の日にこの告発状は受理して頂きました。

事はこれは一件落着というわけではなくて。
この告発の経緯の中で渡辺先生が当時まだ本当にお元気でしたので。
今から2年ちょっと前は物凄くお元気でしたので、自ら「韓竜大の首根っこ捕まえてぶん殴ってやる」と言って八戸まで会いに行かれたんですね。
ある雑誌の協力で。
でまぁちょっとこれは差し支えあるかもしれませんがその時の写真が、
(雑誌のページをめくって写真を探す)
ちょっとごめんなさい、渡辺先生が行った時の写真持って来てないですけど。
先ほどちょっとビデオで韓竜大が車の中から、「関係ない、関係ない」と言ってる部分がありましたよね?あそこの韓竜大に渡辺先生が直接会いに行ったということもありました。

その時にはもう、韓竜大は知らぬ存ぜぬで「とにかく俺じゃないんだ」と。
「曹に聞け」と「あいつが全部やったんだ」と「あいつに聞いてくれ」と言うのに終始していたんですけど。
それもあって、ならば曹に話を聞いてみようじゃないか?と。
曹廷楽と言う人がいわば犯罪を主導したと言う風に、張龍雲さんの本には書いてあるのだからならば曹廷楽に会いに行こうと、私どもは山形の曹廷楽と言う人に会いに行きました。
まぁそう簡単に会いに行けたわけではないんですが、何とか曹廷楽に話を聞く機会を得まして、約1時間半に亘って、ああでもないこうでもないと彼の話を直接聞く機会があったんです。
もう一度ちょっとそのビデオもう一度。
先ほどビデオの順番が相前後しましたけど、もう一度ちょっとお流します。

(ビデオを再び流す。田中さんについての思い出を語る男性と女性の姿が映る)
これは田中実さんの中学校時代の同級生の方です。
ちょっと早送りしますね。

(記者会見場でテープを流す場面。以下聞き取れる所のみテキスト化)
これが曹廷楽がしゃべっている所です。

・・・・・・田中実なんてまったくそんなの本当に聞いたことが無いよ?俺。本当に・・・・・・

(場面が変わって来大の外観が映る)
これが中華料理店の来大です。
(車の中でインタビューを受ける韓竜大の映像が映る。以下聞き取れる所のみテキスト化)

・・・そういうことでどうであれ・・・

これが韓竜大です。
これも韓竜大です。
(記者会見場で再び曹廷楽のテープの音を流す場面が映る。聞き取れる範囲のみ以下テキスト化)

・・・・・・田中実は自分の足で、あのウィーンに行ってるんですから、ね。
ね、彼は、だから拉致じゃないでしょう。
自分の足で歩いて行ってる。
ウィーンに・・・ね・・・・・・

(ビデオ終了)
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救う会兵庫 長瀬猛氏のお話 その2

一時間半の話の中でごく短い所しかご紹介できなくて、大変ちょっと我々の準備不足を申し訳なく思うんですが。
少しこの時のやり取りをご紹介しますと、まず我々はですね。
ここまではっきり実名を出されて、しかもこの本が出る前々年にはですね。
週刊誌で告白記事というのが出ましてそこでも名指しされ、さらにこの本でも非常に詳細に犯罪組織のトップであると名指しされていて、しかも拉致だけではなくて、関西のですね。
在日社会の中での経済事件。
十文字山事件とか大乗寺事件とかがあるんですが、在日を対象とした詐欺事件というのに深く関わった犯罪者というふうに書いてあるにも関わらず、曹廷楽と言う人がどういう対抗手段をとったんだろうか?と。

今はですね、山形県でパチンコ屋を営んでおって、一応普通の暮らしをしておると。
それであれば普通であればね。
名誉毀損なり誣告罪なりのですね。
自分の名誉を守るための法の手立てというものを取るのが当然であるのに、そういうことをまったくしていないと言うのを、僕は非常に不思議に思ったんです。
で、会った最初にまずね。
もう息切れの激しい曹廷楽をなだめて。
「まぁまぁ落ち着いてください」と、「とって食おうという訳じゃないんだから」と言う話をして。
「我々はどうしても理解できない」と。
「韓竜大に話を聞いたら、全部あなたに聞いてくれと言われましたよ?」と。
「しかもここにあなた名指しされてるでしょ?」と。
「もし事