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2008年5月 2日 (金)

ブッシュ大統領のメッセージ

アメリカにおける北朝鮮人権週間への、ブッシュ大統領のメッセージ

Below is the President's statement on North Korea Freedom Week -FYI
Suzanne
THE WHITE HOUSE

Office of the Press Secretary
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For Immediate Release April 30, 2008


STATEMENT BY THE PRESIDENT

Laura and I send greetings to all those observing North Korea Freedom Week. I am deeply concerned about the grave human rights conditions in North Korea , especially the denial of universal freedoms of speech, press, religion, assembly, and association, and restrictions on freedom of movement and workers’ rights. I have met in the Oval Office with some of the brave individuals who have escaped from that country. I am deeply concerned by the stories of divided families, harsh conditions, and suffering. The United States stands with the North Korean people in their call for freedom. We believe it is every person’s basic right to live in freedom and dignity. We will continue to support the North Korean people as they strive to achieve the rights and freedoms to which they are entitled as human beings. We look forward to the moment when we can celebrate the blessings of liberty with the North Korean people.

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過去二回行われた日本における北朝鮮人権問題啓発週間に、日本の総理大臣がメッセージを発したことはなかった。

人権に対する国家の姿勢が問われるのではないでしょうか?
日本には拉致問題があるのです。
その意味でも、日本政府はもっともっと北朝鮮の人権問題に発言していくべきだと思います。

  ブッシュ “北の自由を勝ち取るための闘争を支援”

      北朝鮮自由週間に合わせた大統領声明

      アメリカのジョージ・ブッシュ大統領が30日、‘北朝鮮自由週間’を迎えて“アメリカは自由を唱える北朝鮮の人民の側につく”と明らかにした。

      ブッシュ大統領はこの日、異例の‘大統領声明’を発表し、“私たちは自由と尊厳の中で暮らすことが、全ての人の基本的権利だと信じている”と述べ、“北朝鮮の住民が人間としての固有の権利と自由を得るために闘争することに対し、支援し続ける”と述べた。

      また、“私たちはいつか、北朝鮮の住民が自由の祝福を享受する日を祝う瞬間を待ちこがれている”と付け加えた。

      ブッシュ大統領はローラ夫人と共に、北朝鮮自由週間を記念する全ての人に挨拶を送ると述べ、“私は北朝鮮の重大な人権侵害状況、特に人類普遍の表現と言論の自由、宗教と集会、結社の自由を否定して、居住以前の自由と勤労者の権利を規制する状況を深く憂慮している”と強調した。

      また、”ホワイトハウスの執務室で勇敢な脱北者たちに会った”と言い、“脱北者の離散家族の話と彼らの厳しい状況、苦痛について深刻に憂慮している”とブッシュ大統領は述べた。

      26日からワシントンD.C.で‘第6回北朝鮮自由週間’の行事が始まり、29日午前にはアメリカ議会前の公園で、アメリカ国内の北朝鮮人権団体や在米韓国人100人余りが参加した、脱北者強制送還反対集会が開かれた。

      この日の集会で参加者たちは、中国政府が中国国内の脱北者を検挙して北朝鮮に強制送還していることを批判し、中国政府に脱北者を難民として認めることと、脱北者が第3国に行くことを保障するよう要請した。

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2007年11月14日 (水)

連載【漂揺の30年(2)】「あの子は今、どこで…」

連載【漂揺の30年(2)】 めぐみさん拉致事件 

 「あの子は今、どこで…」   

 MSN産経ニュースより

北朝鮮から提供された、拉致された直後とみられる横田めぐみさんの写真。おびえたような表情に、家族全員が涙した 「めぐみちゃんは今ごろどうしているんだろう、どうしたら助けられるんだろうって、イライラして…」。横田めぐみさん=拉致当時(13)=の母、早紀江さん(71)は、ため息混じりに語る。

 《1993年3月13日、平壌市の49号予防院で死去。朝鮮名は「リュ・ミョンスク」。77年11月から86年7月まで招待所で朝鮮語などを学び…》。拉致を認めた北朝鮮は5年前、こう伝えてきた。


【横田めぐみさんの写真展はこちら】

 ところが、帰国した拉致被害者らの複数の証言で、めぐみさんがその後も生きていることが分かると、北は「死亡したのは94年だった」と訂正。あまりに不誠実で、つじつま合わせの対応をしている様子を浮かび上がらせた。

 「95年ごろの2年間は金正日総書記の妻、高英姫氏(故人)の2人の息子のうち、どちらか1人の日本語の家庭教師をしていた」。金総書記の元側近で韓国に亡命した幹部は韓国当局に対し、こうも証言している。

 支援組織「救う会」の西岡力副会長は「めぐみさんは工作機関から金総書記の近くに呼ばれたため、北はめぐみさんの消息をそれ以上出せないのかもしれない」と推測する。

 「朝顔の花を押し花にして『記念にしてね』と渡してくれたり、一緒に『故郷(ふるさと)』を歌った」

 帰国した拉致被害者の曽我ひとみさん(48)の証言からは、北でのめぐみさんの様子がおぼろげながら浮かんでくる。昭和53年8月に拉致された曽我さんは、すぐ平壌の招待所に入れられ、まもなく違う招待所に移動。そこにいたのがめぐみさんだった。

 「めぐみさんは元気で、朝鮮語を一緒に勉強した。その年の12月まで一緒におり、2人ともその招待所を出て別々になった」

 曽我さんは別の招待所を転々とするうち、めぐみさんと再会する。

 「このときは7カ月間一緒にいて、一緒にピンポンやバドミントン、バレーボールもした」

 工作員による教育、厳しい監視。ときには地村保志さん(52)、富貴恵さん(52)夫妻を拉致した実行犯として、国際手配されている辛光洙(シン・グァンス)容疑者(78)がめぐみさんらを教育したこともあったという。日本語を話すことも禁じられた生活。「夜、寝るときに2人で日本語で会話した」(曽我さん)。

 北朝鮮側の説明によれば、めぐみさんは86年8月13日、韓国人拉致被害者、金英男氏と結婚、翌年9月13日に長女、ヘギョン(ウンギョン)さんを出産した。

 曽我さんの夫、チャールズ・ジェンキンスさん(67)は「『ヘギョン』はひとみの北朝鮮での名前。親友の名前をつけたのでは」と語った。早紀江さんは「ひとみさんのことを思って娘に名付けた心境を思うと、やりきれない気持ちになる」と苦痛の表情を浮かべる。
「めぐみちゃん、こんな所にいたのね」

 早紀江さんは、北が提供してきた写真に、涙を流しながら話しかけた。おびえたような表情でじっとカメラの方を見つめた、拉致直後とみられる姿。その後、成人後の写真も出てきた。探し求めていためぐみさんの“証”だった。

 父、滋さん(75)は「孫の姿、大人になってからの写真、結婚の様子など信じられないものが出てきた」と話すが、「(北から)帰ってきた人も、一緒に暮らしてたという人もいるのに…。大事な核心的なところ、聞きたいと思うところは、何も分かっていない」(早紀江さん)。

 横田夫妻は「本当の情報が分からない。それが一番つらい」と口をそろえる。「帰国した被害者の方は、いろんな理由で話せないことがあるのかもしれない。あの人たちも苦しいし、私たちも苦しいのです」。北による拉致の非道な現実がここにある。

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連載【漂揺の30年(1)】 「人ひとりの命は…」

連載【漂揺の30年(1)】 

「人ひとりの命は…」
 
  
MSN産経ニュースより

拉致された昭和52年の正月に自宅玄関前で写真に写る横田めぐみさん(横田滋さん撮影)  日本海に記録的な大雪が降った年だった。人気絶頂だったキャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と突然引退を宣言し、街中には森田公一とトップギャランの「青春時代」が盛んに流れた。一番流行(はや)った映画は「幸福の黄色いハンカチ」。

 政治は今年と同様、参院選があり、ロッキード事件の影響を受けた自民党が過半数を割った。自民党から分裂した新自由クラブを合わせて、かろうじて過半数を確保したが、福田康夫首相の父、故福田赳夫元首相は厳しい政権運営を強いられた。

 日本赤軍メンバー5人がパリ発東京行き日航機をインド上空で乗っ取り、バングラデシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本で勾留、服役中の仲間の釈放と身代金600万ドルを要求した「ダッカ事件」もこの年のこと。福田元首相は「人ひとりの命は地球より重い」と、連続企業爆破事件の犯人など6人を超法規的措置で釈放し、身代金を払った。

 ちょうど30年前の昭和52年はこんな年だった。
晩秋の新潟は、厚い雲に覆われる日が多い。

 「レインコートはいらない?」

 「どうしようかなあ…。今日はやめる」

 玄関で白いレインコートを持ったまま、当時41歳だった横田早紀江さん(71)は、中1だった長女、めぐみさん=当時(13)=を送り出した。それっきり、娘の肉声を聞いていない。

 夕方、バドミントン部の練習を終えて帰宅する途中、めぐみさんは友人と別れた直後に北朝鮮工作員に拉致された。連れ去られたのは、自宅からわずか50メートルの地点。

 「あの日の5日以上前、北朝鮮工作船から発信される電波が把握されていた」。ある捜査幹部はこう明かし、「あの電波がめぐみさん拉致に関係していたはずだ」と確信を深めている。ただ、当初は電波把握と拉致実行の日にちにずれがあり、北が日本の主権を侵害する事件が起きていたことは見逃されてしまった。

 なぜ、めぐみさんが失跡したのか、分からなかった早紀江さんら家族は悲しみのどん底に追いやられた。時間だけが流れ、焦燥感を通り越し、ただ打ちひしがれた日々。早紀江さんの頭には「死」がよぎったこともあった。

 「私がいなくなったら、めぐみちゃんが帰ってきたときにどうするの」。早紀江さんはその度に自分にそう言い聞かせ、思いとどまった。

 どれだけの年月が経過しただろう。朝鮮労働党の現職幹部が第三国で韓国情報機関と接触した際の情報、脱北工作員証言、電波、捜査状況を総合的に判断した結果、「北」の影がようやく見えてくるまでに、失跡から20年を要した。

 「でっちあげ」と否定し続けていた北が、めぐみさんら日本人拉致を認め、謝罪したのも、もう5年前だ。めぐみさんは「死亡」と伝えられたが、「偽遺骨」に象徴されるように「子供だましのストーリー」をもってめぐみさんの「死亡」が確認されるわけはなく、説得力は皆無だ。

 「めぐみちゃんがいる場所が分かって、あの子が持っていた物も写真で出てきて、子供ができていて、あんな大きくなっている。形としてはっきりと認められるものがある。何も分からなかった20年間と今は違う」。早紀江さんはそう話す。

 「何のために子供たちはこんなにひどい目に遭っているのか。大変な問題が日本に起きているのに…」。早紀江さんが各地の講演で語りかける言葉には、一人でも多くの国民が関心を持ち続けてほしいという願いが込められている。民意が政治を動かす力になると信じているからだ。

 先月末の家族会と福田首相の面会で、早紀江さんは「子供たちは海におぼれている状態のまま長い間助けを求めています。泳いでなり、ブイを投げてくれるなり、必ず救出していただきたい」と懇願した。ダッカ事件とは別の次元で、早紀江さんら家族が福田首相に伝えたかったのは「人ひとりの命は…」という気持ちだった。

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2007年7月12日 (木)

叫び 拉致被害者家族会10年 【4】

「まだ見ぬ母」思い複雑 
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 拉致被害者家族会メンバーの多くは、共有体験を持つ子どもやきょうだいとの再会を目指して活動している。だが、拉致被害者・田口八重子さん(当時23歳)の長男、飯塚耕一郎さん(30)だけは状況が異なる。
 「講演会では母の救出を訴えます。でも、私は八重子さんのことを知らない。記憶にないんです」。耕一郎さんは、自分が1歳の時に拉致されてしまった母への複雑な思いを吐露する。
 八重子さんが拉致された後、長兄の飯塚繁雄さん(69)が耕一郎さんを引き取り、20歳を過ぎるまで、拉致被害者の子どもであることを知らせずに育ててきた。だから、耕一郎さんは、実母のことを「八重子さん」と呼んでしまう。
 
 「母親の欄にある田口八重子とは、一体どんな人なのか。なぜ、教えてくれなかったのか」
 1998年秋、耕一郎さんはパスポート取得のために取って戸籍謄本を見て、自分が養子であることを知った。1週間悩んだが、耕一郎さんは意を決し、父である繁雄さんに「自分の本当の両親はだれなのか」と尋ねた。
 繁雄さんは「いつかは言わなければいけないこと」と、耕一郎さんを近くのすし屋に連れ出した。カウンターから離れたテーブルに耕一郎さんを座らせ、静かな口調で話し始めた。「八重子」は、自分の一番下の妹で、北朝鮮による拉致被害者であること。大韓航空機爆破事件の金賢姫・元死刑囚の日本語教育係「李恩恵」とみられることなど。
 さらに、繁雄さんは、いつも持ち歩いていた手帳から八重子さんの白黒写真を取り出し、「これがお前の母だ」と、息子にそっと差し出した。
 「自分の中で吸収できない事実ばかりだった。ああ、そうなんだとしか言えない。すべてが上の空の状態が2,3年は続いた」。耕一郎さんは振り返る。
 
 北朝鮮は2002年9月、八重子さんについては「86年に死亡」と説明した。それ以降、八重子さんの安否はまったくわからなくなった。
 それまでは、繁雄さんとは「家族会というのがあるんだね」という会話を交わしたことはあった。ただ、八重子さんが拉致被害者であっても、大韓航空機事件にかかわったかのような報道もあり、「とても家族会に入って活動するような環境ではなかった」(繁雄さん)という。
 しかし、02年以降、拉致問題はなかなか進展しない。耕一郎さんは、そんな状況を打破しようと、04年2月、参加を決めた。
 同じころ、耕一郎さんは政府に金元死刑囚への手紙を託した。「まだ見ぬ母親像をはっきりさせたいから、ぜひ会いたい」と訴えるが、韓国にいるとされる彼女からの返事はない。
 
 家族会に入って3年が過ぎた。横田滋さん(74)、早紀江さん(71)夫妻の魂の入った言葉など、これまでに、多くの家族会メンバーの姿に刺激を受けた。家族会のなかでは最年少。「自分はそこまでできていない。八重子さんに申し訳なく思う」と漏らす。
 八重子さんは、耕一郎さんと長女を、東京・高田馬場にあるベビーホテルに預けたまま拉致されてしまった。
 耕一郎さんは先月から、勤務先の合併に伴い、高田馬場にあるオフィスで働くことになった。29年前の「原点」で、自分ならばどんな活動ができるのか、模索する日々が続く。
 
(読売新聞 2007年7月6日朝刊 社会部・石間俊充)

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叫び 拉致被害者家族会10年 【3】

国民信じて 妻と歩む
 
 
 

 縁が黄色くなった画用紙大の写真。家族会事務局長の増元照明さん(51)は、それを今も自宅に保管する。写真の中で笑顔を見せるのは24歳の時の姉、るみ子さん。拉致される直前の撮影だった。
 家族会が結成された1997年、各家族が、北朝鮮に拉致された子どもの写真を持参した際、父の正一さん(故人)が手にしていたものだ。
 「父も亡くなり、写真も色あせてきた。それが10年という長さ。こんなに長くかかるとは・・・」。増元さんは今年3月、家族会結成10年を機に開かれた記者会見で写真を掲げて沈痛な面持ちで語った。
 
 増元さんは、正一さんに誘われて家族会に加わった。当初は、家族が集まる意味が分からなかった。ただ、「姉のために何かできるかもしれない」と考えた。
 結成当日、東京都港区のホテルに行くと、姉をはじめとした拉致被害者の写真が準備されていた。聞けば、名前も公表して救出を訴えるという。
 増元さんは「名前を出せば、危害が加えられるんじゃないか」と考え、ほかの家族たちに不安を漏らした。すると、集まった面々からは、「これまでの20年間、何も進展しなかった」「実名を出し解決を訴えるべきだ」と諭されたという。
 以後、実名での活動が始まった。講演会や書名活動で、横田滋さん(74)、早紀江さん(71)夫妻らがめぐみさんの写真を掲げ、名前を呼んで救出を訴える姿は、多くの人の心を打った。「あの時に名前を出していなかったら、活動は具体性を持たず、ここまで続かなかったと思う」と増元さんは振り返る。
 
 2002年9月、小泉首相が訪朝して開かれた日朝首脳会談で、北朝鮮は「(るみ子さんは)1981年に死亡」と日本政府に伝えた。しかし、北朝鮮の説明には疑問点ばかり。北朝鮮が提出してきた生年月日が違っていたり、るみ子さんの死因は家族の誰もかかったことのない「心臓病」とされた。
 正一さんは当時、末期の肺がんで寝たきりだったが、酸素マスク越しに、「北朝鮮の説明はうそだ。わしは日本を信じる。だからお前も日本を信じろ」と力を振り絞って訴えた。正一さんは、翌10月に他界した。
 増元さんは当時、正一さんの言っていた意味が分からなかった。
 04年3月、24年間勤めた水産会社を辞め、家族会の活動に専従するようになった。全国各地の講演会で満員の会場を見て、「親父の言っている意味がようやく分かってきた」という。「『日本を信じろ』とは、国民の力を信じろという意味ではないか」と。
 
 姉を救出できず、悔しい日々を送る増元さんにも、昨年、心の支えとなる人が現れた。るみ子さんと市川修一さん(当時23歳)の拉致事件を描いた舞台をプロデュースした女優、若宮優子さんと知り合い、今年3月に結婚した。
 若宮さんは、増元さんに対して「拉致問題をまだ詳しく知らない人の視線で話しかけないと、仲間内では分かるかもしれないが、一般の人にはうまく伝わらない」と、しばしばアドバイスするという。増元さんはそれに従っている。
 これまでは、全国各地へ単身で赴いていた増元さん。最近は夫妻で行動をともにすることが多い。問題解決に向け、二人三脚が始まった。
 
(読売新聞 2007年7月5日朝刊 社会部・石間俊充)

電脳補完禄より 

※写真は、6月24日 マリオン前
     7月 1日 川口駅前での増元ご夫妻

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2007年7月 9日 (月)

叫び 拉致被害者家族会10年 【1】

  講演1000回 なぜ進展ない

「こんなに一生懸命やっているのに、どうして解決しないのでしょうか」
 今年5月15日。北朝鮮による拉致被害者・横田めぐみさんの母、横田早紀江さん(71)は成田空港で開かれた記者会見のさなか、突然、報道陣に質問をぶつけた。
 この日は、めぐみさんの救出を願う歌を作った、米国のフォークグループ「ピーター・ポール&マリー」のノエル・ポール・ストゥーキーさん(69)が来日し、その会見に早紀江さんらも同席した。後日、早紀江さんは「会見を盛り上げようと思って発言しただけですよ」と淡々と述べたが、進展しない拉致問題へのもどかしさの表れだと誰もが受け止めた。
 
 1997年3月、滋さん(74)、早紀江さん夫妻ら8家族が東京都港区のホテルに集まり、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」が結成された。
 娘の帰還を信じ、全国で講演会や書名活動をする日々がスタートした。だが、拉致は当時、「疑惑」でしかなかった。街頭で署名を求めると、「拉致なんて本当にあるのか」と冷ややかな反応が返ってくることも度々だった。
 だが、夫妻の訴えは、行く先々で共感を得るようになる。1年もたたないうちに、「自分の地元でも話をしてほしい」との誘いが寄せられるようになった。各地で署名を集める輪も広がり、署名簿が段ボール箱で次々と自宅に届いた。
 「だから、めぐみはすぐに帰ってくると思った」。滋さんは、家族会発足当時の熱気を思い出す。
 
 家族会結成から5年、地道な運動はついに政府を動かす。2002年9月、小泉首相(当時)が訪朝。初めて開かれた日朝首脳会談で、金正日総書記が拉致を認めて謝罪した。しかし、北朝鮮側は、めぐみさんについては「94年に死亡」と主張。偽の遺骨を日本政府に渡した。「拉致問題は解決済み」との姿勢を北朝鮮はいまだ崩していない。
 日朝関係の交渉に一喜一憂し、北朝鮮の「発表」に翻弄され続けた横田さん夫妻。早紀江さんは「木の葉が揺れるような思いの10年間だった」と振り返る。
 
 夫妻の講演会は昨年夏までに47都道府県すべてで開かれ、1000回を超えた。支援者に送る年賀状も年々増え、自筆でしたためるものは1000枚近くになっている。
 ただ2人とも家族会発足当時のような体力はなくなっている。滋さんは05年末、血小板が減少する難病にかかった。入院して一命を取り留めたが、いまも定期的に検診を受けている。早紀江さんも腕のしびれに悩まされており、夫妻は今月から3ヶ月間、休養を取る。家族会結成後、実質的に初めての「夏休み」だ。
 夫妻には4人の男の孫がおり、滋さんは、趣味のカメラで孫たちの写真を撮るという。13歳で拉致されためぐみさんを、再びカメラに収める日を思い描きながら、こう力を込める。
 「活動によって、北朝鮮の拉致は『疑惑』から『事件』に変わった。人間はどこかに力が残っている。11月に家族会の代表は辞めようと思うが、拉致被害者が帰ってくるよう活動は続けていく」
 
 拉致被害者の家族会が結成されて10年。活動を続ける家族の「叫び」を伝える。
 
(読売新聞 2007年7月3日朝刊 社会部・石間俊充)

電脳補完録 拉致問題解決までより

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叫び 拉致被害者家族会10年 【2】

辛苦 オレ一代でいい

 今年4月、東京都港区のホテルで開かれた拉致被害者家族会の総会。まな娘を取りもどす活動を続ける父親が、同じ境遇のもう一人の父親をいたわった。
 「先が見えない運動だから、命を削ってまでしなくていい。少し休んだほうがいい」
 総会の席上、家族会代表の横田滋さん(74)が、体調面を理由に退任の意向を明らかにしたことを受け、拉致被害者・有本恵子さん(当時23歳)の父、明弘さん(79)はそう言葉をかけた。
 多くの家族会メンバーの声を代弁していたが、中には「家族会の顔として頑張ってほしい」と慰留する意見も。結局、今年11月までは横田さんが代表を継続することが決まった。
 「あの人は10年間先頭を走ってきた。体は相当きついと思うんだが」。苦難の日々を誰よりも理解するだけに、明弘さんは横田さんの体を気遣った。
 
 明弘さんと嘉世子さん(81)の夫妻が、恵子さん救出の活動を始めたのは、1997年の家族会結成より9年も前のことだ。
 88年9月、北海道の拉致被害者、石岡亨さん(80年欧州で拉致、当時22歳)の実家に、「有本恵子さんと北朝鮮にいる」と書かれた手紙が届いた。手紙には、同じく拉致被害者の松木薫さん(同、当時26歳)も一緒だと記してあった。
 「亡くなったと思い、あきらめかけていた。それが元気だと分かり、いてもたってもいられなくなった」(嘉世子さん)。夫妻は、すぐに国会議員に救出を訴えた。その中で唯一、親身になってくれたのが安倍首相の父、晋太郎氏(故人)の事務所だった。
 上京した嘉世子さんを、晋太郎氏の秘書が各省庁を連れて歩いてくれた。何か具体的な成果があったわけではないが、嘉世子さんは「あのころは、みんな拉致と聞くと逃げていた時代だったんです」と振り返る。
 
 和歌山県海南市の総合体育館で6月16日、拉致被害者救出を訴える「国民大集会」が開かれた。政府で拉致問題を担当する中山恭子首相補佐官らも出席し、用意された1500席は満席となる盛況ぶりだった。
 「安倍さん以外にだれが拉致問題を真剣にやってくれるのか」。壇上に立つ有本さん夫妻は、北朝鮮との対決姿勢を崩さない安倍首相にエールを送った。
 選挙戦のような「演説」に会場からは戸惑いの声も漏れた。だが、明弘さんは「北朝鮮に意見を言える首相を19年間も待ち、ようやく力強い人が現れた。応援する気持ちも分かってほしい」と心情を吐露した。
 
 夫妻には子どもが6人いる。娘が5人で、男は1人。娘たちは嫁ぎ、長男は明弘さんとともに鉄工所で汗を流す。子どもたちは家族会の活動には本格的には参加していないが、恵子さん帰国を願う気持ちは一緒だ。
 恵子さんとの再会を夢見て、計19年間も活動してきた夫妻は、会合に顔を出す家族会メンバーの中では最高齢だ。
 問題の解決が長引いた場合のことを尋ねると、明弘さんはこう答えた。「経営している鉄工所はおれの息子に継いでもらうことができるが、救出運動は継がせるもんではない。こういう思いをするのはオレ一代でいい」。自分に言い聞かせるような、静かな口調だった。      ~読売新聞 記事~

電脳補完禄 より

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2007年3月23日 (金)

家族会結成10年、家族の思い

■一日も早い救出を-家族会結成10年目で会見
横田滋代表
 拉致被害者は当時、全国にちらばっていて、顔も名前も知りませんでした。
「めぐみさんの報道が家族会結成のきっかけになった」と聞いています。救う会はまず新潟にできましたが、当時の名前はめぐみを救うことを目的にした名前でした。半年後に東京に救う会ができ、各地でも広がって、拉致被害者全員を取り戻すという名前の全国組織になりました。

 当時は、街頭での署名活動が主で、集会を開催したのはずっと後になってからです。当時は、拉致疑惑と言われ、拉致は本当にあるのかとか、関わりたくない、という人が多く、信用がない時代でした。

 それ以前の昭和63年には国会で取り上げられましたが、動きにはなりませんでした。「たった10人程度のことで国交正常化が止まっていいのか」というのが当時の政府の認識で、今の政府からは想像もできない状況でした。

 5年前の小泉首相の訪朝で5人が帰り、その後家族も帰りましたが、「死亡」とされた被害者についてはまったく進展がありませんでした。めぐみについてだけ「遺骨」と称するものが出てきました。別人のものと鑑定されましたが、もし、鑑定ができなかったらどうなっていたかと思うと、科学的反論もできずに死亡とされたかもしれない。日本の科学技術のおかげでした。

 その後、拉致議連や各党拉致対策本部が北朝鮮制裁決議をしました。議連は、金正日政権打倒まで決議しました。しかし、小泉さんは対話の政策をとり続け、ミサイル発射と核実験で制裁に踏み切りました。

 これまで、政府にこれをやってほしいというような要望をたくさん書きましたが、安倍首相になって、拉致対策本部ができ、拉致担当大臣が置かれ、中山補佐官が事務局長になるなど、要望はすべて実現しました。国際連携も強まっています。しかし、結果だけからみると、14年9月から進展していないのです。生存情報も、どこにいるかの情報もありません。一日も早く救出していただくことを望んでいます。

横田早紀江さん
 大変な時間を過ごしてきたな、という思いです。20年間まったく分からなかったのに北朝鮮にいると聞かされた時は、1、2年のうちに会えると喜んだのですが。したたかで、難しい北朝鮮と対峙していかなければならない状況の中で、本当に大変な事件だったと思います。また、国民運動として大切なことをしてきたと思います。今も被害者は向こうで頑張っています。救う会や報道の力で、結束して活動するところまできました。北朝鮮がどんなことをやり続けてきたか、今日も(6者協議の)席を立って帰りましたが、世界が分かったというところに大きな意義があると思います。

 また、限りなく続く苦しみですが、意義があって生かされているのだと思います。日本にとっても、北朝鮮にとっても、解決することがいいことだと思います。
本当の平和のために、大変な努力、気力、精神力そして望みを捨てないことが大切です。平和な日本にとっても、拉致問題の解決は意義があることだと思います。
これから北朝鮮がどう出るか分かりませんが、(被害者が)むごいことにならないように、拉致も核も解決してほしいと思います。

増元照明事務局長
 この写真は、10年前、家族会が結成された時、父が持っていた姉の写真です。
縁が黄色くなっており、長い年月を感じます。この写真を持っていた父も亡くなりました。拉致議連が機能しなかった時期も長くあり、政府も真剣に取り組んでほしいとの感触を持っていました。02年9月以降は、国民の同情が強まり、救出できない国のあり方について共感していただき、大きな力となっていったことに感謝します。

 小泉首相が、金正日に直接会ったという、2回の訪朝の機会をもっと生かしていただいたらと残念に思います。特に、2回目の訪朝の時はもっとやり方があったのではと悔やまれます。北朝鮮が拉致を認めて4年半が経ちますが、北朝鮮が発表した情報はすべて捏造、そして偽造でした。北朝鮮は6者協議でも「解決済み」の姿勢を続けています。

 今の安倍政権は安心して見守られるのですが、国内世論が二分する危機感があります。大きな危機を感じたのは02年9月でした。国交正常化してしまうのではないかと思いました。報道の論調もそれを推進する方向でした。帰国した拉致被害者が再度北朝鮮に帰った方がいいとの報道もあり、その時も危機感がありました。

 今、日本が孤立するとか、国益を損なうという論調もありますが、二分されることなく、救出に厳しい姿勢を示す政府を支持してほしいと思います。

 今年中の解決をめざしています。10年はあまりに長い。特定失踪者の家族会には、倒れてしまった人も多いのです。救出に全力をあげてほしいと思います。

【質疑応答概要】
早紀枝 10年前、設立の時、このジャケットを着ていました。10年経って何も変わらなかった。しかし、洋服は今も元気ですが、中身(私たち)は年々年をとり、病気にもなります。疲れもたまっています。過酷な日々が続くので、精神的にも大変です。しかし、倒れてしまっては、との思いも強くあります。

増元 父もそうでした。初めての国民大集会では、姉が帰るまで死ねないと言っていましたが、病には勝てませんでした。市川さんのお父さんも今、動けません。
帰って来たのに死んでいたら何の意味もないとお母さんは言っています。半分の喜びしか与えられないのです。健康なうちに、笑って迎えられるうちに再会を果たしたいのです。今年は全精力を傾け、北朝鮮が誠実な対応をするまでプレッシャーをかけたいと思います。

滋 (6者協議で席を立って帰った北朝鮮について)北朝鮮は約束を守らない。
貰うものを貰ったら引き伸ばす意図が強いですね。

増元 金正日は今回ミスしたと思います。アメリカが譲歩したのにあんな態度では、他の関係国の厳しい目を助長させただけで、アメリカに北朝鮮政策を再考させると思います。これに対し、今、厳しいメッセージを送るべきです。制裁強化につながれば、救出にもチャンスが出てきます。

滋 今日、読売新聞に出た内容はその通りですが、(私の退任希望を)発表したという形で書いたところは違います。4月22日の(家族会の)総会にかけて決めることです。救う会の全国幹事会では役員の任期の話がありましたが、私は11月14日に75歳になります。体力面から見ても次の人にやってもらいたいとは思っています。しかし、家族会の運動をやめるわけではありません。

早紀江 今日新聞を見てびっくりしました。まだはっきりしたことは言っていないのに。休ませてあげたいという思いはありますが。

増元 肩書きがどうあれ家族が運動をやめるわけではありません。横田代表から、10年の節目とか75歳という話は前から聞いていました。私は、それまでに解決すると思っています。全力で走るつもりです。それまでに解決できなかったらその時に考えます。

増元 (2回目の訪朝について)帰国後、総理は、「家族が信じないから再調査をお願いしたい」と言われたが、生存を信じて金正日と対峙してほしかった。本人が生存を信じていたら違う展開になったと思います。だから子どもたちの帰国だけとなった。せっかく直接会ったのだから、被害者救出の姿勢で臨んでほしかったと今も思います。

 父が、「日本と日本人を信じろ」と言った意味がようやく分かってきました。
日本とは政府ではなくて、日本人の力、国民の力だと思います。国民の力が小国(北朝鮮)に負ける筈がないという思いが強かったのだと思います。日本が本当に動けば、取り戻せるということだと思います。

 昨日のニュースでは、ルーマニアの拉致被害者家族が名乗り出たということです。できれば4月早々にも接触して4月22日の国民大集会に来てもらえればと希望しています。

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家族会結成10年目に当たり、救う会・拉致議連声明

救う会・拉致議連声明

 3月25日で家族会が結成されて10年を迎える。10年前、家族会の皆様は、自らの命に代えても拉致された肉親を救い出すという決意のもと、救出運動に立ち上がった。私たちは、その決意に打たれ、救う会、拉致議連を作り、10年間家族会とともに戦ってきた。

 5年前、5人の被害者を救い出すことができたことは、大きな喜びだった。しかし、その後5人の家族の帰国以外、被害者が一人も帰国していないことは、痛恨の極みである。

 この10年間、私たちは、家族会を先頭に立てて戦ってきた。その結果、拉致問題とは肉親を捜し求める家族会を支援することだという誤解が生まれている。
しかし、拉致問題の本質は、家族会支援ではなく、金正日テロ政権からすべての拉致被害者を救い出すことだ。日本人だけでなく、諸外国のすべての被害者をも救い出すことである。

 10年間、家族会は文字通り命をすり減らして戦ってこられた。本当にご苦労様でした。しかし、本来は、日本政府が先頭に立って取り組むべきことである。

 日本政府に訴えたい。これから家族会が少し休んで、安心して見ていられるように、被害者の一日も早い救出に全精力を注いで取り組んでほしい。

 私たち救う会と拉致議連は、心ある国民と、諸外国の友人らとともに、すべての被害者を救い出すまで、家族会とともに戦い続けることを誓う。

平成19年3月23日
北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会 
                  会長 佐藤勝巳
北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟 
                        会長 平沼赳夫

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★家族会声明-「家族会」結成10年にあたって

家族会結成10年目に当たり、家族会の声明

 平成9年3月25日、全国に散在した「北朝鮮による拉致被害者家族」が東京に集結してから、10年の歳月が過ぎようとしています。

 当初センセーショナルに報じられた「北朝鮮による拉致事案」も、日を追うごとに「疑惑」という言葉で括られてしまい、平成14年の「日朝首脳会談」までは、あたかも私たちの主張が理不尽であるかのように受け取られて、被害者の存在そのものを否定する国内の勢力との苦しい闘いを強いられ、また「拉致被害者の救出」が、日朝の国交回復の影に追いやられようともしました。

 そのような中、ともすれば挫けそうになる気持を奮い立たせ、全国に展開していった「救う会」の皆さんと共に、地道な「署名運動」・政府への要請等を通して、広く被害者救出を訴えて参りました。

 平成14年、「日朝首脳会談」の実現を機に、一部被害者の生存が確認され、その方たちが帰国を果たし、ご家族の帰国も叶いました。これも、諦めることなく活動を続けて下さった全国の「救う会」の方々と、ご支援下さった多くの国民の皆さんのお蔭であると感謝申し上げます。

 今、私たちが信頼する安倍総理が誕生し、結成当初より訴え続けた①拉致問題の担当大臣・担当部署の設置、②国会内での特別委員会の設置、③経済制裁の発動、④拉致問題の真相究明、⑤国政における最優先課題としての被害者の救出、等々、私たちが要望してきた政策はほぼ達成されたといえます。

 しかし、被害者全員の救出や拉致問題の全容解明は、北朝鮮の不誠実な対応のために解決に至らず、未だ多くの被害者が故郷日本への帰国を望みながら、彼の地で自由を奪われたまま、過酷な生活を強いられています。

 10年の節目を迎えました。被害者の両親世代が年齢を重ね、時間的な猶予も少なくなってきております。信頼する安倍総理の下、決意を新たに、何としても今年中の解決を目指して闘っていく所存であります。そのために、国民の皆さんの更なるご理解と一層のご支援を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。

平成19年3月23日

北朝鮮による拉致被害者家族連絡会 代表 横田 滋

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