蒼き星々掲示板へのくまがわ直貴さんの投稿より
私が今から投稿致しますこの文章を読んで何かお気付きの点がおありの方や、どんな小さなことでも結構ですので何か情報をお持ちの方がいらっしゃれば是非お教え頂きたいと思います。
私は社民党に極めて短い期間ながらも関わっていた時期がありました。
末端ながらも民主党の党員であった時期もありました。
恐らくご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、ここである「疑惑」について敢えて投稿したいと思いキーを叩いております。
それは、「社民党が旧日本社会党時代から北朝鮮による日本人拉致事件に深く関与していたのではないか?」とする疑惑です。再三断っておきますが「疑惑」です。
この「疑惑」はかなり有名なものらしく日本国内の主要マスコミは皆知っているとされています。しかしながら、あくまでも「疑惑」であり裏が取れないということからほとんどの報道機関がこれを報じたことはありません。
(「救う会」等でも触れられたことはないと思います。)
2002年10月15日、初の日朝首脳会談から1ヵ月後、蓮池薫さんら北朝鮮に拉致されていた5名の拉致被害者が24年振りに日本への帰国を果たしました。
更に1ヵ月後の11月16日前後、国内のマスコミ各社に大変奇妙な「告発投書」?が届いています。私は某大手出版社(写真週刊誌等を発刊している)の関係者に直接その事実を確認しています。
「ありがちな怪文書」「イタズラ」としてほとんどの報道機関が取り合わなかった中で、月刊誌の『正論』(2003年3月号)が投書の掲載に踏み切りました。
また、『別冊宝島リアル55号・社会党に騙された!』の中でもジャーナリストの二瓶絵夢女史の取材で詳しく触れられています。
内容は、社民党に旧日本社会党時代から『共和国連絡部』なる名称の非公然組織が存在しており、北朝鮮工作員による日本人拉致の手助けをしていたという趣旨のものでした。無論、現在の時点で真偽の程は不明です。
この「告発投書」?の掲載に対して、どうしたことか社民党サイドからは「名誉毀損」との抗議や「謝罪広告要請」等が一切成されておらず、事実上沈黙状態になっています。全くもって不可解です。
自国の国民の北朝鮮拉致等という犯罪にどういった人物・組織であれ、加担したということになればこれは刑法の「国外移送目的略取誘拐罪」が成立します。被害者が国外に連れ出されている段階で時効が停止し、捜査の継続は言うまでもありません。
また、横田めぐみさんの様な幼い被害者の場合、「未成年者誘拐罪」も適用されます。この場合も同様被害者が現時点で成人に達していても時効概念が停止するそうです。
未確認情報ながら、事態の重要性・未だ帰国を果たしていない未帰還の拉致被害者・特定失踪者の生命と安全に関わる問題ですので、多方面からの情報を期待しています。
(尚、この調査情報は「救う会」関係者、政党関係者、マスコミ及び警察関係者などにも日々報告しています。)
社民党には旧日本社会党時代、朝鮮労働党との友党関係を分掌する共和国連絡部という党の公式図や正史には表れない部署があった。私は青年期にそこで勤務していたが、所属していたのは人材提供班(以下、人材班)である。人員は主に社会党の青年組織から大学で朝鮮語を専攻した学生が選ばれた。
共和国連絡部は表向き朝鮮労働党との緊密な連絡調整を業務としてきたが、最も神経を使った仕事は情報・資金・人材の3つの提供業務だった。このうち情報提供班は日本政府の内部資料、自民党や日本共産党の党内情報を朝鮮労働党に送達し、資金提供班は文字通り社会党が集金した政治資金を朝鮮労働党に送金するのを日常業務としていた。
これら2班については、人材班に所属していた私には詳細はわからないが、我々人材班が実行したのは拉致対象者の選定作業だった。わかりやすく言えば、朝鮮民主主義人民共和国の工作員が拉致しやすいまたは拉致しても差し支えない日本人を定期的に朝鮮労働党に報告する仕事だった。工作員も極秘かつ速やかに日本人を拉致するためには、我々の持つ正確な情報がどうしても必要だったのである。
当時はもちろん拉致と言う者は誰もいなかったし、むしろ北朝鮮への正当な協力(提供)業務の一環と信じていたから罪悪感はなかった。というのも、社会党本部から絶えず
「いずれ金日成主席が朝鮮半島を統一して正当な社会主義国家を樹立する。この業務はそのとき神聖な協力活動として日朝両国から後世高く評価されるのは疑う余地がない」
と指導されてきたからである。
さて、対象者の選定基準は次の5つだった。
・知り合いに代議士がいないこと。
・知り合いに警察関係者がいないこと。
・知り合いに外国人がいないこと。
・地域の名士の関係者でないこと。
・格闘技経験のないこと。
これらは総じて「提供五原則」と呼ばれ、各地の人材班はこれに基づいてあらゆる手段を尽くして適任者を捜し出し、朝鮮労働党へ報告していたのである。代議士・警察・外国人・名士を知り合いに持つものを避けたのは、あとあと大きな騒動になるのを極力防止するためである。また、格闘技経験者を除いたのは、できるだけ容易に誘拐できるように講じられた基準であり、選定にあたっては厳格を極めた。見るがいい、拉致被害者がいずれもこの五原則に合致した家庭であるのは、その証左である。
1970年代に多忙を極めた人材班も1986年には党本部のまったく一方的な命令で解散した。このとき、解散理由に納得できなかった我々に田辺誠議員などは盛んに「発展的解消」という言葉を連発して強引に幕引きを行ったのである。
以上の事実を私は終生秘密にして墓場まで持っていくつもりでいたが、二度と日本の土を踏むことはあるまいと思っていた拉致被害者の帰国報道を見るたび非常に胸が痛む。同時にこのまま永眠することなど決して許されないと呵責や葛藤に苦しむ毎日が続く中で、少しでも救われたいと思い告発するものである。
11月15日、K・O
告発投書の現物は、A4サイズ2枚分で、消印は2002年11月16日、埼玉県の春日部となっていました。
告発投書の末尾にあった「K・O」というイニシャルは、複数の社会党関係者の証言から、日本社会党新潟県本部所属の党員だった人物のことを指していると言われています。(Oが姓で、Kが名)
このO元党員は、
・1935年生まれ、新潟県柏崎市出身。
・新潟県立柏崎高校卒業。(因みに拉致被害者の蓮池薫さんの母校でもある。)
・社会党入党後左派に属す。専従党員として社会党中央執行部(東京都)にいながら、しばしば地元・新潟県に帰省。
・1983年(昭和58年)12月6日の衆議院議員選挙に地元の旧新潟3区から立候補。この時同じ選挙区からは元首相の田中角栄候補(当時無所属)も立候補している。
その為、「当選は絶対に無理」と言われていたにも関わらず、O候補の選挙資金として社会党から1千万円が送られました。当時、地元では「カネが北朝鮮から来ている。」との噂が流れていたという証言があります。
また同時期、新潟市から1977年に拉致された横田めぐみさん(当時13歳)に関して「北朝鮮に行っていたが精神に変調をきたした為返された。」という出所不明の噂が市内を中心に流されていたと言います。
(草思社「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」横田早紀江 著より)
結局、O党員は落選します。
ジャーナリストの二瓶絵夢女史の取材に対し、当時を知る元社会党員らは次の様な証言を寄せています。
・ある時期をきっかけに、カネ回りが良くなった。
・事務作業を行う傍ら、朝鮮総連の幹部から日中何度も電話が入っていた。
・指令を受けて、何か名簿の様な資料を作ったり、分析をしていた。
K・O元日本社会党党員は、実は1972年7月18日に、日本社会党朝鮮問題特別委員会代表団(略称、朝特委)担当として北朝鮮を訪れている事実があります。
この時は10日間に渡り滞在し、平壌で「朝鮮対外文化連絡協会代表団と日本社会党朝鮮問題対策特別委員会代表団との共同声明」を発表しています。
(日本社会党機関紙『社会新報』等にも掲載)
O氏ら社会党訪朝団は「金日成首相(当時)の誕生60周年を祝賀し、朝鮮の社会主義建設と祖国の自主的平和統一を成し遂げるための朝鮮人民の闘争を全面的に支持する」ことを表明し、「日朝両国の国交正常化、経済、貿易、文化の交流と人事往来など、友好親善関係を発展させるために具体的な方針を提起する」としました。
お気付きの方もいらっしゃるかも知れませんが、この時社会党訪朝団が共同声明を発表したパートナー『朝鮮対外文化連絡協会』は、後に日本人拉致や各種テロ活動を行っていたことが明らかとなっている朝鮮労働党統一戦線部(通称「第3庁舎」もここに含まれている)直轄のセクションです。
O氏は旧茨城2区選出の社会党衆院議員T代議士の政策秘書Y女史と共に「共和国連絡部」と思しき組織の中心的メンバーであったと囁かれています。
O氏は1985年(昭和60年)に社会党を離党後、ほぼ無職であったにも関わらず、
・埼玉県内に一軒家とマンション
・那須塩原に別荘
を持っているということです。
現在の社民党もそうですが、社会党は活動費を党員や協力党員からの「闘争費」やカンパでまかなっており、社会党書記局クラスではどうやってもこれだけの資産を持つことは考えられません。
(元社会党員・談)
「社民党機関紙『社会新報』出版社の『株式会社印刷センター』との取引口座が、『共和国連絡部』のウラ口座としても利用されていた。『共和国連絡部』のメンバーらにカネが振り込まれていた。
金額は定額払いではなく、月に百万円近い時も、ゼロの時もあった。」
この証言が仮に本当であるとするならば、北朝鮮に「何か」を与えた見返りという可能性が浮上します。報酬を金銭で受け取っている以上、何らかの物、情報、あるいは「人材」と考えられます。
また、証言にも出てくる、社民党関連企業『株式会社印刷センター』は、2003年9月の終わりに東京国税局の税務調査を受け、「脱税」(所得隠し)で摘発されているという事実もあります。
印刷センターは社民党(社会党)機関紙『社会新報』や『月刊社会民主』、並びに社民党所属議員のビラやニュースレポートを発行しているのですが、2002年までの5年間の間に7000万円近い所得隠しを行っていたと伝えられています。
しかし、同社は隠蔽したカネの行方や使途について、「社民党に迷惑がかかるので、国税局の処分に応じる」と一切の説明を拒み、この時制裁課税を含め6千数百万円を追徴されています。そこまで出所を明かせない後ろ暗い用途とは一体…?
因みに前述した茨城県のY女史の地元周辺では、1981年(昭和56年)以降判明しているだけでも6名の未解決失踪事件が相次いでいます。(これらの事件は特定失踪者問題調査会のリストには2006年9月現在掲載されていません)
・1985年(昭和60年)頃には、水戸市で「ミス梅娘」グランプリに選ばれたことのある女性が失踪したという情報があります。
・1990年(平成2年)12月31日の大晦日の夕方6時頃に、友人と別れ帰宅中の中学2年生の14歳少女「Y・Iさん」が忽然と消息を絶ち、年明けの数日後に
「人が多くいて帰れない」という怪電話が家族の元にかかってきています。
(このケースについては、私自身がご家族に確認を取っています。)
かなり狭いエリア内での失踪事件多発であり、統計学上も不自然極まりないと考えられます。
『共和国連絡部』に関して昔の資料や社会党の公式・非公式(党内刊行物)を片っ端から調べて行く中で、非常に奇怪な軌跡を辿って行った人物の存在がもう一人明らかになりました。
その人物は日本社会党参院議員、民主党衆院議員を経験し、現在は民主党福井県連合の顧問となっている「K・T」氏という男性です。(名・姓の順)
無論、彼が北朝鮮による拉致に関与していることを断言出来るまでの確証はありませんし、『共和国連絡部』なる組織に名を連ねていたことを証明する手立ても持ち合わせてはいません。
但し、このT元議員の過去の行動は、意図的なのか?或いは無意識なのか?「北朝鮮工作員の非合法活動を手助けするに等しい」行動を取ってしまった人物と言っても差し支えないかと思います。
K・T元民主党福井県連合第3区総支部代表について
●大正13年12月10日、福井県小浜市出身。
●昭和22年千葉農専(現千葉大)卒。
●昭和46年参院選福井地方区に日本社会党公認で初当選。
●昭和47年(1972年)7月、朝鮮総連の要請を受け、参院法務委員会において、
「未承認国船舶乗員取扱要領通達」資料提出を要求。
これは部外秘の通達資料であったにも関わらず、7月11日にT氏は入手。
●同年9月28日の臨時国会法務委員会において、T氏は
「『マンギョンボン号』などの朝鮮船舶及び乗員に対する不当差別撤廃条項」
を当時の法務省入管局に申し入れ、成立させてしまいます。
(内容)
・朝鮮船舶の入港から出港までの船員や訪船者の動きを監視しない。
・初入港の時の船員手帳提出及び写真撮影の廃止。
・入港から出港まで入国審査官又は入国警備官による舷門立哨が行われていたが、これを廃止する。
・入港から出港までの間に政治的言動があれば、これまでは入国管理局に電信で報告していたが、今後は行わない。
この直前の昭和47年(1972年)9月1日、T氏は北朝鮮を訪れ、金日成首相(当時)と直接対談しています。
前述のO元党員の訪朝の2ヶ月前に当たります。
在日朝鮮総連を通じて、やはり日本人の拉致を直接指導、実行していた「朝鮮対外文化連絡協会、北朝鮮外務省14局、朝鮮労働党統一戦線部・連絡部」からの招待を受けて2週間に渡り滞在しています。
他に同期の社会党参院議員初当選組13名が参加したと記録にあります。
昭和47年(1972年)9月10日、建国記念日の翌日、首相官邸を訪ねたT氏ら社会党訪朝団代表団は、出迎えた金日成首相(後主席)と会談場のエレベーター出口で一行のひとりひとりと固い握手を交わしました。
昼食を挟んで4時間に及ぶ会談の中でT氏らが北朝鮮政府と話したのは以下の事柄です。
●南北朝鮮の統一問題
「…南北朝鮮統一は朝鮮民族の悲願であり、誰もが押し留めることの出来ない歴史の流れである。
日本社会党の同志は少なくともこの南北統一を妨げることのないように、統一にプラスになるよう努力して欲しい。」(金日成・談)
●日朝の人的、経済的交流
この14日間の訪朝団の滞在中に、対外文化連絡協会の康良煌委員長に対し、T氏は
【福井県民を日朝友好運動の促進目的で、朝鮮に送る】
旨を明言し、合意している事実が判明しています。
このことは、当時T氏の事務所が発行していた『社会新報』号外の訪朝記や、『福井県民ニュース』、更に昭和54年(1979年)にT氏の後援会事務所から刊行されたT氏の『国会六年』というタイトルの著書にも記されています。
帰国後、T氏は朝鮮総連にこの決定事項を報告しています。
因みに翌昭和48年(1979年)春に当時の中川福井県知事を団長とした訪朝団があったことまでは確認出来ましたが、その後の人的交流に関しては不明です。
昭和53年(1978年)7月7日、T氏の地元、福井県小浜市の青井海岸から、地村保志さん・浜本冨貴恵さん(共に当時23歳)が北朝鮮工作員によって拉致されています。
この事件以外にも、1970年代半ばから1980年代初頭までにかけて、福井県内では未解決行方不明事件が相次いでいるといいます。
T氏は、日本社会党→社会民主党→民主党と党派を変わり、落選後は地元民主党県連の顧問として健在ということです。
社民党、民主党…私自身この2つの政党と関わりがあった以上、T氏本人もしくは周囲の人物には是非どんな小さな情報でも良いので名乗り出て頂くことを強く望んでいます。
北朝鮮による拉致事件は国内の何らかの組織的協力者がいたことは間違いありません。社会党、社民党にはこれまで何度も北朝鮮による拉致事件を隠蔽もしくは否定し続けていたという過去があり、それ故『共和国連絡部』の存在の信憑性は高いのです。
くまがわさんのブロク
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